自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
📝甲子園で“大旋風”起こした大社…エース左腕・馬庭が夏の主役になるまでの知られざる軌跡
https://news.yahoo.co.jp/articles/161adb0fc88cf94409cae4b96077c70c45f1dff6
◆ 夏の甲子園を沸かせた“大社旋風”
第106回全国高校野球選手権大会で、最も大きな旋風を起こしたのが大社(島根)だった。
全国に15校しかない、第1回地方大会から出場を続ける皆勤校の一つで、今回は1992年以来32年ぶりの出場だった。
その伝統校が今春選抜準優勝の報徳学園(兵庫)との1回戦に勝利し、61年以来63年ぶりの初戦突破を果たして勢いづいた。
創成館(長崎)との2回戦では延長10回タイブレークの末に勝利して、107年ぶりの夏2勝目。早実(西東京)との3回戦では夏の甲子園史上初となる2試合連続の延長タイブレーク勝利を挙げて、93年ぶりの8強入りをかなえた。
快進撃の中心にはエース左腕の馬庭優太(3年)がいた。3回戦まで3試合連続完投勝利で準々決勝に導いた。初戦で優勝候補の報徳学園相手に被安打7、1失点に抑えて実力を示すと、早実戦では延長11回149球を一人で投げ抜き、最後は自らがサヨナラ打を放って投打で主役を演じた。
試合中から味方の奮闘に涙を流し、声を張り上げながら好投を続ける姿は感動を呼び、次第に一般の観客からも大きな声援を受けるようになった。
「大社旋風」の中心にいた馬庭は、中学時代に他校から入学の勧誘を受ける有力選手だった。その好左腕が92年夏以来甲子園出場から遠ざかる大社への進学を決断した出来事があった。
3学年上の姉・歩未さん(20)が同校野球部のマネジャーを務めていたのだ。姉の3年夏は島根大会決勝で敗れて、あと一歩で甲子園に届かなかった。その一戦を現地観戦していた馬庭が姉に伝えた。
「俺が甲子園に連れて行くから」
こうして進学先の迷いも吹っ切れ、姉を甲子園に連れて行くために大社を選んだ。
ただし聖地にたどり着くまで順風満帆とはいかなかった。下級生の頃は、甲子園出場を目標に掲げて仲間にもストイックさを求める馬庭ら主力組とその他の選手の間で意見が食い違うこともあった。
「今は甲子園とか、そんな高いところ目指してもだめやろ」と反発の声が挙がり、選手同士でぶつかったことも一度や二度ではない。
2年夏は準決勝で敗退して新チームが始動。そこから何度も選手間ミーティングを行って目標を共有した。
馬庭は指導者から「エースとしての自覚を持ちなさい。周りから認められるエースになるには、結果だけでなく普段の取り組みから見られているよ」と伝えられながら、仲間を思いやって投球することを覚えていった。
2年秋は中国大会に出場。選抜出場こそかなわなかったものの、着実に聖地出場へ前進していた。
◆ 「甲子園出場が目標では、あそこに立てない」
今年3月には選手全員で甲子園に来たことがある。兵庫の強豪校である明石商、社との練習試合が降雨中止となったため、選抜大会の観戦に向かったのだ。
そこでは自分たちと同じく地元出身選手中心に戦う公立の阿南光(徳島)が健闘していた。その姿を目に焼き付け、「絶対に俺らもここに立とう」と誓い合った。
春の島根大会に3回戦で敗れると、「甲子園出場が目標では、あそこに立てない。甲子園8強に目標に変えよう」と誓い合った。そして、結束力を高めたナインは夏の甲子園出場をかなえた。
報徳学園との初戦前、馬庭は姉から伝えられた。
「仲間を信じて自分を信じて、全力で楽しんでこい」その言葉通り、仲間を信じて旋風を起こした。
早実との3回戦では、同点の7回に中堅手の藤原佑(3年)が勝ち越しの適時失策を犯すと、「まだ大丈夫。笑顔でやろうぜ」と声をかけ、馬庭自らサヨナラ打を放った。試合後、藤原は「みんながいなければ、立ち直れなかった」と感謝の涙を流した。
神村学園(鹿児島)との準々決勝で敗れると、馬庭は「辛いときもみんなが寄り添ってくれた。もっとみんなと試合がしたかった」と真っ先に仲間のことを思った。
大社旋風は、馬庭がいなければ起きなかった。ただし、エース一人のチームではなかった。全員で支え合って生まれた快進撃だった。
🎁100周年記念ラストを飾る感謝を込めたプレゼント 甲子園歴史館「阪神甲子園球場100周年記念品」第4弾の配布がまもなくスタート
https://article.yahoo.co.jp/detail/c5dc2ee93b9532c5a627387297d41cc60ddb5c46
阪神甲子園球場が今年8月1日に開場100周年を迎え、感謝の気持ちを込めた「記念品」プレゼント配布の第4弾が『甲子園歴史館』(西宮市)にて、まもなくスタートします。
同プレゼントは今年1月から配布がスタート。第1弾では「100周年記念ステッカー(2種セット)」、第2弾に「100周年記念アクリルキーホルダー」、第3弾として「ボールチャーム付きユニフォームキーホルダー」の配布が行われました。
現在配布中の第3弾プレゼントが終了次第(9月上中旬頃の予定)、最後となる第4弾の球場100周年ロゴをあしらった今年だけの限定「メダル型ピンバッチ」にバトンタッチします。
記念品は先着6万名を予定、甲子園歴史館に併設するバーチャルバッティングセンター「BE-STADIUM KOSHIEN supported by STAND IN」の体験者(購入条件あり)にも配られるそうです。
なお、プレゼントはなくなり次第、配布期間内でも終了するとのことです。
<記者のひとこと>今年で100周年を迎えた阪神甲子園球場はさまざまな記念イベントが開催され、特別で楽しい一年でした。これからの100年に向けて進化していく姿にも目が離せませんね。
実施期間【第4弾】
2024年9月上中旬頃~12月26日(予定)
※先着順
※なくなり次第、配布期間内でも終了
配布場所
甲子園歴史館(西宮市甲子園町8-15 甲子園プラス 2F)
📝掛川西高を26年ぶり甲子園に導いた大石卓哉監督にロングインタビュー【前編】1年目は「地獄の始まり」生かした名将2人の教え
https://article.yahoo.co.jp/detail/1ffd2579da6cfdaf4b6179133ff403607d47338f
今夏、全国高校野球選手権(甲子園)に26年ぶりに出場し、60年ぶりの1勝を挙げた掛川西。2018年に母校に着任し、7年目を迎えた大石卓哉監督(44)に、監督として初の甲子園出場をつかむまでの悪戦苦闘の日々を振り返っていただきました。
就任1年目を「地獄の始まり」と表現するほど勝てなくて苦しんだ6年間。最後に拠り所となったのは2人の名将の言葉だったそうです。
静岡高前監督として春夏通算7度の甲子園、3度の明治神宮大会に導いた栗林俊輔さん(52)=県教委=と、常葉菊川(現常葉大菊川)で2007年春の選抜優勝を成し遂げ、1月に急逝した御殿場西前監督の森下知幸さん(享年62)。2人の教えをどのように生かし、突破口を開いたのか。インタビューの詳報を2回に分けてお届けします。
―掛川西に着任する直前の4年間は、静岡高で部長、副部長を務め、栗林前監督とタッグを組んで、甲子園に5度出場しました。
「掛川西に就任した1、2年目は栗林先生のマネをしてやろうと思っていました。練習内容とかトレーニングのやり方とか、口調まで。チームの作り方は栗林先生が最高だと思っていたので、マネしたら勝てると思っていました。
自分が一番、栗林先生のノウハウも、采配も分かってる。栗林先生が培ってきた人脈も全部使えるわけじゃないですか。県内で一番恵まれていると思って、なめてました。でも全然うまくいかなかった。地獄の始まりでした。選手は一応、聞いているふりをしていました。でもその言葉には自分の心が乗ってないから、きっと選手たちも『何言ってんだ』『勝っているのはお前じゃない』と心で反発していたでしょうね。
自分の中では経験を積んできたと勘違いしちゃっていたから。うわべですよね。絶対に勝てない。2年目の夏が2回戦でコールド負け。3年目の代替大会も2回戦で負けました」
―そのあたりから自分の色を出すようになった?
「自分の考えで、自分のペースで、自分のやり方でいこうと思ったんです。日々の過ごし方、声かけ、距離感。自分の色でチームをつくろうと。髪形を自由にしたり、冬の間は日曜日を休みにしたりしました。
(選手の自主性を尊重した)『リーガ・アグレシーバ』も導入しました。自分が入院したことがあって約1カ月半、練習に出られなかった時も何の問題もなかったんです。むしろ一度チームを離れて、気づきも多かったです」
静岡高で指導していた時代の栗林さん(右)と大石監督
―就任4年目で沢山優介投手(ヤマハ)、榊原遼太郎投手(国学院大3年)という左右の2枚看板を擁した夏も甲子園に届きませんでした。
「2人のいいピッチャーがいて、春の東海大会で優勝しました。そうしたら夏に勝ちたくなっちゃったんですね。周りにも優勝候補と言われて、OBは『今年行けなきゃ二度と行けない』みたいな雰囲気になった。
自分も『勝たなきゃ』と思っていた。ただ、あの時(采配が)ブレたんですよね。2人とも完投できたし、交互に先発でいいなと大会前は思っていました。でも思いのほか打てなくて、渋いゲームをやって勝ち上がり、プレッシャーを感じながら準々、準決と入っていったんです。
最後は守りに入ってしまった。準決勝の東海大翔洋戦は沢山が先発と最初から決めていたのに、榊原を先発させて(0−2で)敗れた。
前年からのエースは榊原でコントロールもいいし、度胸もある。沢山は秋になって伸びてきて、一冬越えたら本当にいい投手になった。でも、まだ榊原への信頼の方が厚かったのかもしれない。沢山は春から1点も取られてなかったのに、なぜあそこで沢山じゃなかったのか。何でブレたのか。すごい後悔をした。
遼太郎(榊原)に後から言われたんです。『翔洋には勝てる気がしなかった。(島田一)中学の時に、縦じま(東海大翔洋中)には勝ったことなかったんです』と。嘘だろう、先に言ってくれよと。
それくらい僕と選手に距離感があったんでしょう。言えなかったんだと思う。選手の心を把握しきれていなかった。強制的に飯を食わしたり、毎日毎日体重をはかって、減っていたら叱って。そうするとポケットにおにぎりとか突っ込んで体重計に乗るやつが出てきたり。
選手の心に寄り添えてないから采配ミス、起用ミスが起きたんだなと、冷静に考えると思いました。チャンピオンになれる、いい選手はいたけれど、監督と選手が本当の意味でつながっていなかったんだなと」
―今年の夏はどうだったんですか。
「今年は複数の投手がいたんですけど、全部予定通りにいきました。勝つために、準々決勝と準決勝は(2年生左腕の)加藤(瑞己)を使うと決めていました。それを見越して練習試合も加藤を先発させてきた。
大会中に(捕手の)堀口(泰徳)にも『加藤を使うからな』と伝えたら、『当たり前じゃないですか』と言われちゃった。こっちは勝負してるつもりで言ってるのに、当たり前って言われるとショックだったんですけど(笑)。選手が一枚も二枚も上手だなと。みんなに助けられた。選手たちはそこでやるって決められたら(準備して)やってくるんですよね」
―栗林先生の長男毅知選手が掛川西に入学し、昨秋から栗林先生が父母会長になりましたね。
「父母会長として毎試合見てるんです。プレッシャーですよね(笑)。ひどい試合して負けまくっているんですよ。何か一言、こうした方がいいんじゃないのとか言ってくれればいいのに、何も言わないので、不安になるじゃないですか。ただ、生徒には毎日が決勝だと思って練習しろと言ってるから、自分自身が日々プレッシャーを感じることも受け入れました。
甲子園に行くために掛川西に来て、トレーニングルームができて、マシンが増えて、寮があって、言うことない環境です。でも、夏が来るのが本当に嫌だった。
栗林先生に助けを求めようかと思った時期もありました。昨秋、県予選1回戦で負けて迎えた冬は本当に苦しくて。大会はないし、地道に練習するしかなくて。いっそのこと(チームに)入ってもらって、中からチームの足りない部分とか指摘してもらおうかと」
―そうしなかったのは?
「今年1月に他県の指導者も含めた勉強会が静岡で開かれて、栗林先生が講演したんです。そこで、自分の言葉だと思っていたことが、栗林先生の教えだったと気付いたんです。
3年目から自分の色を出そうとやってきたことが、実は全部、栗林先生のマネだった。『選手を大切にする』『勝負は準備で8割決まる』『徹底と継続』『全て甲子園基準』とか。
自分の中に教えが全部落とし込まれていた。結局、栗林先生の言葉が自分の指導の根幹なんだと。自分のものかのように勝手に思っていて、使っていたら実は丸パクリだった(笑)。ということは自信になるんですよ。
栗林先生が大事にしていることと、自分が今一番大事にしていることが同じ。やり方やタイミングさえ間違えなければ、これは大丈夫だぞという自信になったんです。真っ暗な中、ただがむしゃらにやっていて苦しかった。自分のやっていることが正しいかどうか、不安だったから」
―マネを脱却しようとやってきたのに、それで良かったんですか?
「静高で常勝チームをつくった監督の考え方が、何の違和感もなく、本質的に理解ができたということなんです。深くないですか?自分の中で本当に腑に落ちて、自然体でやっていたんですよ。これも栗林先生の言葉ですが『不易流行』。本質は変わらないんですよ。その中で、新しいことも取り入れるということ。
栗林先生と自分はキャラが全然違う。自分は詰めが甘いし、けっこう自由度も高い。それは性格だからしょうがない。でも念頭に置いているポイントは確実に教えてもらったことなんです。
講演では『監督の一方的な押し付けでは結果は出ない。選手が何を求めているかをよく観察して、それに応えていくことが大事』と話していました。『(自分が)勝ちたい、勝ちたい』でやってきたけれど、選手が勝ちたいなら、それをサポートすればいいんだと(自分に向けて)言われた気がしたんです」
―今年の夏は、そういう心境だったのですね。
「甲子園が決まってから(野球部コーチの)杉村(純哉)先生に『大石先生、今年勝つ気なかったですよね』と言われたんです。『去年は大会期間中ピリついてて話しかけにくかった』と。今年も必死でやってたんですが。
ただ、夏の大会前に野球のことは大して考えてなかったんです。メモに残っているのは好球必打とかサインの確認とかそのくらい。あとは姿勢良く立つとか、腕を組まないとか、呼吸はゆっくりとか。選手を信じる、自分を信じる、最後は笑顔とも。勝ちたいって書いてないんです」
📝掛川西の大石卓哉監督ロングインタビュー【後編】 甲子園で選手が〝踊る〟には… 背中を押した故・森下知幸監督の言葉とは…
https://article.yahoo.co.jp/detail/419c5bcf683182f1e1b5a07c474bfef9cb7df6da
―監督として初の甲子園はどうでしたか?
「掛川西としては26年ぶりの甲子園だし、60年勝っていなかった。『思い切ってやりゃいいんだよ』と言ってくれるOBが多かった。『選手を存分に楽しませてやれよ』とか。
それまで『甲子園』『甲子園』と言っていた人たちも、決まった瞬間に『勝て』と一切言わなくなったんです。だからプレッシャーはなかったです。現地での割り当て練習が2時間しかなくても、その2時間を気合を入れてやっていたら選手はどんどん野球がうまくなっていった。練習ってたくさんやればいいってもんじゃないんだなと思いました。
現地に入ってからは半分〝遊んで〟いましたね。『甲子園って楽しいね』『最高だね』という空気感でした。甲子園練習でも自分が(打撃投手で)投げちゃったり。
実は、選手たちには甲子園練習で『野球をやるのやめよう』と言ったんです。(静岡高が出場した)2018年春の選抜の甲子園練習の時にノックを打ったらグラウンドはフカフカだった。それなのに本番になったらピタッとなってた。(後に中日ドラゴンズに入った)村松(開人内野手=静岡高出)も『バウンドが全然違う。甲子園練習の時はペチョペチョしてたのに、パンパンくる』みたいなこと言っていて。
結局、本番になったらグラウンドは変わるし、観客が入ったらボールが見えにくくなる。やってもあまり意味がないから『散歩でもする?』なんて選手に提案してみたんです。でも選手には『嫌だ。野球がやりたいです』と真面目に返されました(笑)」
―甲子園での初戦(日本航空戦)の雰囲気はどうでしたか。
「(常葉菊川を選抜優勝に導き、今年1月に急逝した御殿場西前監督の)森下知幸監督のように、甲子園で選手が〝踊る〟にはどうしたらいいんだろうと考えていました 。
大監督たちのベンチでの立ち位置はどの位置だったんだろうとふと思い、初戦(※ベンチは一塁側)の試合中に、いろんな位置に動いてみたんです。選手に楽しめって言ったから自分も。(智弁和歌山の)高嶋仁前監督の定位置のベンチ中央にも立ってみたけれど、あまり居心地が良くなくて(笑)。
ホームベース側に立ってみると、バッテリーも相手のベンチもよく見えるけれど、(味方の)ベンチの選手の表情が見えなかった。それに、自分が現役の時の経験ですが、甲子園の内野スタンドに座っている人たちって掛川西の応援をしている人たちだけじゃないので、みんな淡々と試合を見ている。だから凡打してベンチに帰る時、寂しいというか、恥ずかしかったんですよね。
その日も選手がやっぱり寂しそうな顔して帰ってきていたので、『どうだった』と真っ先に声が掛けられる、一塁から近い立ち位置に落ち着きました。甲子園に慣れてないチームはこっちがいいなと。選手が甲子園に慣れたら、ホームベース側のほうが次打者に指示も伝えやすいし、やりやすいと思います」
―森下監督からはどんな影響を受けたんですか。
「昨年の秋、県予選1回戦で負けた後、すぐに森下監督が練習試合をやろうと連絡をくれたんです。亡くなる直前の12月にも話をする機会があって。
『監督が勝てるとか、勝ちたいって思ってやるとだいたいダメなんだよ。甲子園行けると思ってるんだろう?だから勝てねえんだよ。甲子園なんか1校しか行けないんだから、行けないと思ってつくるんだよ。選手たちに最後、監督と一緒にやって良かったと言わせられたら監督としては合格だろう』と言われたんです。『最後に夏負けて終わった時に、監督とやって良かったと選手に言わせてみろ』と。
そういう日々の過ごし方をしていると、結局(練習は)厳しくなるんです。選手がやって良かったと思えるようにするには、最後はうまくなっているか、勝っているかなんですよね。
今年の(静岡県高野連の)指導者講習会で、森下監督と長く一緒にやってきた(浜松開誠館前監督の佐野)心さんもそう話していました。『選手たちが夏の大会を終わった時に、監督とやってよかったと思えるようなチームをつくることが甲子園につながった』と」
―秋の静岡県大会が9月14日から始まります。
「これで終わりにしちゃいけないし、次につなげていくためにはさらに自分が学ばないと。今回の甲子園の教訓は『自分が勝ちたい時は周りが見えない、選手に勝ってほしいと思うと最善の手が打てる』。
甲子園での2試合目は選手も監督も『勝ちたい』って欲が出ちゃった。これからも監督というより、教員、教育者として、もっと選手の力を付けられるような指導者になりたいですし、もっと学び続けて、新しいことを知って、自分がワクワクしている状態を続けられたらと思います。
甲子園ってそういうことを教えてくれる場所なんだなと思いました。自分は栗林(俊輔)先生(静岡高前監督)とか森下監督とか、人からもらった言葉が腑に落ちて、自分のものにしてきた。野球が盛んな県はきっと、監督同士がそういう話をして、隠し合うんじゃなくて学び合って、いろんなものを吸収していって、選手に還元されていくんだろうなと思います」
☟かつて甲子園で話題となった元女子マネの今 「誰も気づいてくれない」投稿に反響「変わらず可愛い」「眩しさ変わりません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5cd8c18cd587bec9413c50e735bbc66389cc51dc
2016年夏の甲子園で注目を集め、現在は歌手活動などを行う首藤桃奈が5日、Xを更新。自身の水着ショットを投稿し、反響を集めた。
首藤は同じ赤のビキニを着用した4枚の写真を投稿。21年と24年の姿を比較し、「同じ水着なのに誰も気づいてくれない…病む」と自虐的につづった。
フォロワーからは「お綺麗ですね」「どっちも可愛すぎ」「今の方が好きです」「今も昔も眩しさ変わりません」「変わらず可愛い」などの声が寄せられている。
首藤は16年夏、大分高校のマネジャーとして甲子園に。開幕前の甲子園練習でユニホーム姿でグラウンドに立ち、直後に大会本部からベンチへ戻るように指示された。これが波紋を呼び、翌春のセンバツでは制限付きで女子部員の甲子園練習参加が認められた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/161adb0fc88cf94409cae4b96077c70c45f1dff6
◆ 夏の甲子園を沸かせた“大社旋風”
第106回全国高校野球選手権大会で、最も大きな旋風を起こしたのが大社(島根)だった。
全国に15校しかない、第1回地方大会から出場を続ける皆勤校の一つで、今回は1992年以来32年ぶりの出場だった。
その伝統校が今春選抜準優勝の報徳学園(兵庫)との1回戦に勝利し、61年以来63年ぶりの初戦突破を果たして勢いづいた。
創成館(長崎)との2回戦では延長10回タイブレークの末に勝利して、107年ぶりの夏2勝目。早実(西東京)との3回戦では夏の甲子園史上初となる2試合連続の延長タイブレーク勝利を挙げて、93年ぶりの8強入りをかなえた。
快進撃の中心にはエース左腕の馬庭優太(3年)がいた。3回戦まで3試合連続完投勝利で準々決勝に導いた。初戦で優勝候補の報徳学園相手に被安打7、1失点に抑えて実力を示すと、早実戦では延長11回149球を一人で投げ抜き、最後は自らがサヨナラ打を放って投打で主役を演じた。
試合中から味方の奮闘に涙を流し、声を張り上げながら好投を続ける姿は感動を呼び、次第に一般の観客からも大きな声援を受けるようになった。
「大社旋風」の中心にいた馬庭は、中学時代に他校から入学の勧誘を受ける有力選手だった。その好左腕が92年夏以来甲子園出場から遠ざかる大社への進学を決断した出来事があった。
3学年上の姉・歩未さん(20)が同校野球部のマネジャーを務めていたのだ。姉の3年夏は島根大会決勝で敗れて、あと一歩で甲子園に届かなかった。その一戦を現地観戦していた馬庭が姉に伝えた。
「俺が甲子園に連れて行くから」
こうして進学先の迷いも吹っ切れ、姉を甲子園に連れて行くために大社を選んだ。
ただし聖地にたどり着くまで順風満帆とはいかなかった。下級生の頃は、甲子園出場を目標に掲げて仲間にもストイックさを求める馬庭ら主力組とその他の選手の間で意見が食い違うこともあった。
「今は甲子園とか、そんな高いところ目指してもだめやろ」と反発の声が挙がり、選手同士でぶつかったことも一度や二度ではない。
2年夏は準決勝で敗退して新チームが始動。そこから何度も選手間ミーティングを行って目標を共有した。
馬庭は指導者から「エースとしての自覚を持ちなさい。周りから認められるエースになるには、結果だけでなく普段の取り組みから見られているよ」と伝えられながら、仲間を思いやって投球することを覚えていった。
2年秋は中国大会に出場。選抜出場こそかなわなかったものの、着実に聖地出場へ前進していた。
◆ 「甲子園出場が目標では、あそこに立てない」
今年3月には選手全員で甲子園に来たことがある。兵庫の強豪校である明石商、社との練習試合が降雨中止となったため、選抜大会の観戦に向かったのだ。
そこでは自分たちと同じく地元出身選手中心に戦う公立の阿南光(徳島)が健闘していた。その姿を目に焼き付け、「絶対に俺らもここに立とう」と誓い合った。
春の島根大会に3回戦で敗れると、「甲子園出場が目標では、あそこに立てない。甲子園8強に目標に変えよう」と誓い合った。そして、結束力を高めたナインは夏の甲子園出場をかなえた。
報徳学園との初戦前、馬庭は姉から伝えられた。
「仲間を信じて自分を信じて、全力で楽しんでこい」その言葉通り、仲間を信じて旋風を起こした。
早実との3回戦では、同点の7回に中堅手の藤原佑(3年)が勝ち越しの適時失策を犯すと、「まだ大丈夫。笑顔でやろうぜ」と声をかけ、馬庭自らサヨナラ打を放った。試合後、藤原は「みんながいなければ、立ち直れなかった」と感謝の涙を流した。
神村学園(鹿児島)との準々決勝で敗れると、馬庭は「辛いときもみんなが寄り添ってくれた。もっとみんなと試合がしたかった」と真っ先に仲間のことを思った。
大社旋風は、馬庭がいなければ起きなかった。ただし、エース一人のチームではなかった。全員で支え合って生まれた快進撃だった。
🎁100周年記念ラストを飾る感謝を込めたプレゼント 甲子園歴史館「阪神甲子園球場100周年記念品」第4弾の配布がまもなくスタート
https://article.yahoo.co.jp/detail/c5dc2ee93b9532c5a627387297d41cc60ddb5c46
阪神甲子園球場が今年8月1日に開場100周年を迎え、感謝の気持ちを込めた「記念品」プレゼント配布の第4弾が『甲子園歴史館』(西宮市)にて、まもなくスタートします。
同プレゼントは今年1月から配布がスタート。第1弾では「100周年記念ステッカー(2種セット)」、第2弾に「100周年記念アクリルキーホルダー」、第3弾として「ボールチャーム付きユニフォームキーホルダー」の配布が行われました。
現在配布中の第3弾プレゼントが終了次第(9月上中旬頃の予定)、最後となる第4弾の球場100周年ロゴをあしらった今年だけの限定「メダル型ピンバッチ」にバトンタッチします。
記念品は先着6万名を予定、甲子園歴史館に併設するバーチャルバッティングセンター「BE-STADIUM KOSHIEN supported by STAND IN」の体験者(購入条件あり)にも配られるそうです。
なお、プレゼントはなくなり次第、配布期間内でも終了するとのことです。
<記者のひとこと>今年で100周年を迎えた阪神甲子園球場はさまざまな記念イベントが開催され、特別で楽しい一年でした。これからの100年に向けて進化していく姿にも目が離せませんね。
実施期間【第4弾】
2024年9月上中旬頃~12月26日(予定)
※先着順
※なくなり次第、配布期間内でも終了
配布場所
甲子園歴史館(西宮市甲子園町8-15 甲子園プラス 2F)
📝掛川西高を26年ぶり甲子園に導いた大石卓哉監督にロングインタビュー【前編】1年目は「地獄の始まり」生かした名将2人の教え
https://article.yahoo.co.jp/detail/1ffd2579da6cfdaf4b6179133ff403607d47338f
今夏、全国高校野球選手権(甲子園)に26年ぶりに出場し、60年ぶりの1勝を挙げた掛川西。2018年に母校に着任し、7年目を迎えた大石卓哉監督(44)に、監督として初の甲子園出場をつかむまでの悪戦苦闘の日々を振り返っていただきました。
就任1年目を「地獄の始まり」と表現するほど勝てなくて苦しんだ6年間。最後に拠り所となったのは2人の名将の言葉だったそうです。
静岡高前監督として春夏通算7度の甲子園、3度の明治神宮大会に導いた栗林俊輔さん(52)=県教委=と、常葉菊川(現常葉大菊川)で2007年春の選抜優勝を成し遂げ、1月に急逝した御殿場西前監督の森下知幸さん(享年62)。2人の教えをどのように生かし、突破口を開いたのか。インタビューの詳報を2回に分けてお届けします。
―掛川西に着任する直前の4年間は、静岡高で部長、副部長を務め、栗林前監督とタッグを組んで、甲子園に5度出場しました。
「掛川西に就任した1、2年目は栗林先生のマネをしてやろうと思っていました。練習内容とかトレーニングのやり方とか、口調まで。チームの作り方は栗林先生が最高だと思っていたので、マネしたら勝てると思っていました。
自分が一番、栗林先生のノウハウも、采配も分かってる。栗林先生が培ってきた人脈も全部使えるわけじゃないですか。県内で一番恵まれていると思って、なめてました。でも全然うまくいかなかった。地獄の始まりでした。選手は一応、聞いているふりをしていました。でもその言葉には自分の心が乗ってないから、きっと選手たちも『何言ってんだ』『勝っているのはお前じゃない』と心で反発していたでしょうね。
自分の中では経験を積んできたと勘違いしちゃっていたから。うわべですよね。絶対に勝てない。2年目の夏が2回戦でコールド負け。3年目の代替大会も2回戦で負けました」
―そのあたりから自分の色を出すようになった?
「自分の考えで、自分のペースで、自分のやり方でいこうと思ったんです。日々の過ごし方、声かけ、距離感。自分の色でチームをつくろうと。髪形を自由にしたり、冬の間は日曜日を休みにしたりしました。
(選手の自主性を尊重した)『リーガ・アグレシーバ』も導入しました。自分が入院したことがあって約1カ月半、練習に出られなかった時も何の問題もなかったんです。むしろ一度チームを離れて、気づきも多かったです」
静岡高で指導していた時代の栗林さん(右)と大石監督
―就任4年目で沢山優介投手(ヤマハ)、榊原遼太郎投手(国学院大3年)という左右の2枚看板を擁した夏も甲子園に届きませんでした。
「2人のいいピッチャーがいて、春の東海大会で優勝しました。そうしたら夏に勝ちたくなっちゃったんですね。周りにも優勝候補と言われて、OBは『今年行けなきゃ二度と行けない』みたいな雰囲気になった。
自分も『勝たなきゃ』と思っていた。ただ、あの時(采配が)ブレたんですよね。2人とも完投できたし、交互に先発でいいなと大会前は思っていました。でも思いのほか打てなくて、渋いゲームをやって勝ち上がり、プレッシャーを感じながら準々、準決と入っていったんです。
最後は守りに入ってしまった。準決勝の東海大翔洋戦は沢山が先発と最初から決めていたのに、榊原を先発させて(0−2で)敗れた。
前年からのエースは榊原でコントロールもいいし、度胸もある。沢山は秋になって伸びてきて、一冬越えたら本当にいい投手になった。でも、まだ榊原への信頼の方が厚かったのかもしれない。沢山は春から1点も取られてなかったのに、なぜあそこで沢山じゃなかったのか。何でブレたのか。すごい後悔をした。
遼太郎(榊原)に後から言われたんです。『翔洋には勝てる気がしなかった。(島田一)中学の時に、縦じま(東海大翔洋中)には勝ったことなかったんです』と。嘘だろう、先に言ってくれよと。
それくらい僕と選手に距離感があったんでしょう。言えなかったんだと思う。選手の心を把握しきれていなかった。強制的に飯を食わしたり、毎日毎日体重をはかって、減っていたら叱って。そうするとポケットにおにぎりとか突っ込んで体重計に乗るやつが出てきたり。
選手の心に寄り添えてないから采配ミス、起用ミスが起きたんだなと、冷静に考えると思いました。チャンピオンになれる、いい選手はいたけれど、監督と選手が本当の意味でつながっていなかったんだなと」
―今年の夏はどうだったんですか。
「今年は複数の投手がいたんですけど、全部予定通りにいきました。勝つために、準々決勝と準決勝は(2年生左腕の)加藤(瑞己)を使うと決めていました。それを見越して練習試合も加藤を先発させてきた。
大会中に(捕手の)堀口(泰徳)にも『加藤を使うからな』と伝えたら、『当たり前じゃないですか』と言われちゃった。こっちは勝負してるつもりで言ってるのに、当たり前って言われるとショックだったんですけど(笑)。選手が一枚も二枚も上手だなと。みんなに助けられた。選手たちはそこでやるって決められたら(準備して)やってくるんですよね」
―栗林先生の長男毅知選手が掛川西に入学し、昨秋から栗林先生が父母会長になりましたね。
「父母会長として毎試合見てるんです。プレッシャーですよね(笑)。ひどい試合して負けまくっているんですよ。何か一言、こうした方がいいんじゃないのとか言ってくれればいいのに、何も言わないので、不安になるじゃないですか。ただ、生徒には毎日が決勝だと思って練習しろと言ってるから、自分自身が日々プレッシャーを感じることも受け入れました。
甲子園に行くために掛川西に来て、トレーニングルームができて、マシンが増えて、寮があって、言うことない環境です。でも、夏が来るのが本当に嫌だった。
栗林先生に助けを求めようかと思った時期もありました。昨秋、県予選1回戦で負けて迎えた冬は本当に苦しくて。大会はないし、地道に練習するしかなくて。いっそのこと(チームに)入ってもらって、中からチームの足りない部分とか指摘してもらおうかと」
―そうしなかったのは?
「今年1月に他県の指導者も含めた勉強会が静岡で開かれて、栗林先生が講演したんです。そこで、自分の言葉だと思っていたことが、栗林先生の教えだったと気付いたんです。
3年目から自分の色を出そうとやってきたことが、実は全部、栗林先生のマネだった。『選手を大切にする』『勝負は準備で8割決まる』『徹底と継続』『全て甲子園基準』とか。
自分の中に教えが全部落とし込まれていた。結局、栗林先生の言葉が自分の指導の根幹なんだと。自分のものかのように勝手に思っていて、使っていたら実は丸パクリだった(笑)。ということは自信になるんですよ。
栗林先生が大事にしていることと、自分が今一番大事にしていることが同じ。やり方やタイミングさえ間違えなければ、これは大丈夫だぞという自信になったんです。真っ暗な中、ただがむしゃらにやっていて苦しかった。自分のやっていることが正しいかどうか、不安だったから」
―マネを脱却しようとやってきたのに、それで良かったんですか?
「静高で常勝チームをつくった監督の考え方が、何の違和感もなく、本質的に理解ができたということなんです。深くないですか?自分の中で本当に腑に落ちて、自然体でやっていたんですよ。これも栗林先生の言葉ですが『不易流行』。本質は変わらないんですよ。その中で、新しいことも取り入れるということ。
栗林先生と自分はキャラが全然違う。自分は詰めが甘いし、けっこう自由度も高い。それは性格だからしょうがない。でも念頭に置いているポイントは確実に教えてもらったことなんです。
講演では『監督の一方的な押し付けでは結果は出ない。選手が何を求めているかをよく観察して、それに応えていくことが大事』と話していました。『(自分が)勝ちたい、勝ちたい』でやってきたけれど、選手が勝ちたいなら、それをサポートすればいいんだと(自分に向けて)言われた気がしたんです」
―今年の夏は、そういう心境だったのですね。
「甲子園が決まってから(野球部コーチの)杉村(純哉)先生に『大石先生、今年勝つ気なかったですよね』と言われたんです。『去年は大会期間中ピリついてて話しかけにくかった』と。今年も必死でやってたんですが。
ただ、夏の大会前に野球のことは大して考えてなかったんです。メモに残っているのは好球必打とかサインの確認とかそのくらい。あとは姿勢良く立つとか、腕を組まないとか、呼吸はゆっくりとか。選手を信じる、自分を信じる、最後は笑顔とも。勝ちたいって書いてないんです」
📝掛川西の大石卓哉監督ロングインタビュー【後編】 甲子園で選手が〝踊る〟には… 背中を押した故・森下知幸監督の言葉とは…
https://article.yahoo.co.jp/detail/419c5bcf683182f1e1b5a07c474bfef9cb7df6da
―監督として初の甲子園はどうでしたか?
「掛川西としては26年ぶりの甲子園だし、60年勝っていなかった。『思い切ってやりゃいいんだよ』と言ってくれるOBが多かった。『選手を存分に楽しませてやれよ』とか。
それまで『甲子園』『甲子園』と言っていた人たちも、決まった瞬間に『勝て』と一切言わなくなったんです。だからプレッシャーはなかったです。現地での割り当て練習が2時間しかなくても、その2時間を気合を入れてやっていたら選手はどんどん野球がうまくなっていった。練習ってたくさんやればいいってもんじゃないんだなと思いました。
現地に入ってからは半分〝遊んで〟いましたね。『甲子園って楽しいね』『最高だね』という空気感でした。甲子園練習でも自分が(打撃投手で)投げちゃったり。
実は、選手たちには甲子園練習で『野球をやるのやめよう』と言ったんです。(静岡高が出場した)2018年春の選抜の甲子園練習の時にノックを打ったらグラウンドはフカフカだった。それなのに本番になったらピタッとなってた。(後に中日ドラゴンズに入った)村松(開人内野手=静岡高出)も『バウンドが全然違う。甲子園練習の時はペチョペチョしてたのに、パンパンくる』みたいなこと言っていて。
結局、本番になったらグラウンドは変わるし、観客が入ったらボールが見えにくくなる。やってもあまり意味がないから『散歩でもする?』なんて選手に提案してみたんです。でも選手には『嫌だ。野球がやりたいです』と真面目に返されました(笑)」
―甲子園での初戦(日本航空戦)の雰囲気はどうでしたか。
「(常葉菊川を選抜優勝に導き、今年1月に急逝した御殿場西前監督の)森下知幸監督のように、甲子園で選手が〝踊る〟にはどうしたらいいんだろうと考えていました 。
大監督たちのベンチでの立ち位置はどの位置だったんだろうとふと思い、初戦(※ベンチは一塁側)の試合中に、いろんな位置に動いてみたんです。選手に楽しめって言ったから自分も。(智弁和歌山の)高嶋仁前監督の定位置のベンチ中央にも立ってみたけれど、あまり居心地が良くなくて(笑)。
ホームベース側に立ってみると、バッテリーも相手のベンチもよく見えるけれど、(味方の)ベンチの選手の表情が見えなかった。それに、自分が現役の時の経験ですが、甲子園の内野スタンドに座っている人たちって掛川西の応援をしている人たちだけじゃないので、みんな淡々と試合を見ている。だから凡打してベンチに帰る時、寂しいというか、恥ずかしかったんですよね。
その日も選手がやっぱり寂しそうな顔して帰ってきていたので、『どうだった』と真っ先に声が掛けられる、一塁から近い立ち位置に落ち着きました。甲子園に慣れてないチームはこっちがいいなと。選手が甲子園に慣れたら、ホームベース側のほうが次打者に指示も伝えやすいし、やりやすいと思います」
―森下監督からはどんな影響を受けたんですか。
「昨年の秋、県予選1回戦で負けた後、すぐに森下監督が練習試合をやろうと連絡をくれたんです。亡くなる直前の12月にも話をする機会があって。
『監督が勝てるとか、勝ちたいって思ってやるとだいたいダメなんだよ。甲子園行けると思ってるんだろう?だから勝てねえんだよ。甲子園なんか1校しか行けないんだから、行けないと思ってつくるんだよ。選手たちに最後、監督と一緒にやって良かったと言わせられたら監督としては合格だろう』と言われたんです。『最後に夏負けて終わった時に、監督とやって良かったと選手に言わせてみろ』と。
そういう日々の過ごし方をしていると、結局(練習は)厳しくなるんです。選手がやって良かったと思えるようにするには、最後はうまくなっているか、勝っているかなんですよね。
今年の(静岡県高野連の)指導者講習会で、森下監督と長く一緒にやってきた(浜松開誠館前監督の佐野)心さんもそう話していました。『選手たちが夏の大会を終わった時に、監督とやってよかったと思えるようなチームをつくることが甲子園につながった』と」
―秋の静岡県大会が9月14日から始まります。
「これで終わりにしちゃいけないし、次につなげていくためにはさらに自分が学ばないと。今回の甲子園の教訓は『自分が勝ちたい時は周りが見えない、選手に勝ってほしいと思うと最善の手が打てる』。
甲子園での2試合目は選手も監督も『勝ちたい』って欲が出ちゃった。これからも監督というより、教員、教育者として、もっと選手の力を付けられるような指導者になりたいですし、もっと学び続けて、新しいことを知って、自分がワクワクしている状態を続けられたらと思います。
甲子園ってそういうことを教えてくれる場所なんだなと思いました。自分は栗林(俊輔)先生(静岡高前監督)とか森下監督とか、人からもらった言葉が腑に落ちて、自分のものにしてきた。野球が盛んな県はきっと、監督同士がそういう話をして、隠し合うんじゃなくて学び合って、いろんなものを吸収していって、選手に還元されていくんだろうなと思います」
☟かつて甲子園で話題となった元女子マネの今 「誰も気づいてくれない」投稿に反響「変わらず可愛い」「眩しさ変わりません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5cd8c18cd587bec9413c50e735bbc66389cc51dc
2016年夏の甲子園で注目を集め、現在は歌手活動などを行う首藤桃奈が5日、Xを更新。自身の水着ショットを投稿し、反響を集めた。
首藤は同じ赤のビキニを着用した4枚の写真を投稿。21年と24年の姿を比較し、「同じ水着なのに誰も気づいてくれない…病む」と自虐的につづった。
フォロワーからは「お綺麗ですね」「どっちも可愛すぎ」「今の方が好きです」「今も昔も眩しさ変わりません」「変わらず可愛い」などの声が寄せられている。
首藤は16年夏、大分高校のマネジャーとして甲子園に。開幕前の甲子園練習でユニホーム姿でグラウンドに立ち、直後に大会本部からベンチへ戻るように指示された。これが波紋を呼び、翌春のセンバツでは制限付きで女子部員の甲子園練習参加が認められた。
📝今夏甲子園出場の菰野は2回戦から登場 上位3校に秋季東海大会の出場権【秋季高校野球三重県大会組み合わせ】
https://news.yahoo.co.jp/articles/99dd6c582632d3b8e85bad5363965b5d3ec880ec
秋季高校野球三重県大会の組み合わせ抽選会が10日あり、対戦カードが決まった。地区予選を突破した25校と、今夏の甲子園に出場した菰野が出場。菰野は2回戦で四日市商―津西の勝者と初戦を迎える。
大会は14日に開幕。日程が順調に進めば29日に松阪市のドリームオーシャンスタジアムで決勝と3位決定戦を行う。上位3校は来春のセンバツ出場校選考の重要参考資料となる秋季東海大会(10月19、20、26、27日、静岡・草薙など)の出場権を得る。
👣阪口慶三氏が8月末で関商工の特別顧問を退任 9月からは同校の外部アドバイザーとしてサポート
https://news.yahoo.co.jp/articles/89dd7d24718293cc39bb9bf9f9d9c0f9c4e22116
東邦(愛知)、大垣日大(岐阜)を率いて春夏の甲子園に35度出場した阪口慶三氏(80)が、8月末で関商工(岐阜)の特別顧問を退任したことが10日、明らかになった。
阪口氏は健康上の理由で23年限りで大垣日大の監督を退任し、今年4月から関商工の特別顧問に就任。週に数回グラウンドで選手や監督のサポートを行っていた。
体力的な面でグラウンドでの第一線での選手への技術指導からは離れ、9月からは同校の外部アドバイザーとしてチームに携わる。
💢東海大菅生野球部「カリスマ監督」の校内不倫暴走(1)寮から夜な夜な抜け出して
https://www.asagei.com/excerpt/319485
今年も真夏の甲子園は熱闘の末に終了した。すでに全国の球児たちは来年に想いを馳せていようが、強豪で鳴らす全国的な常連校でお家騒動が勃発。カリスマ監督が校内不倫に身をやつし、あろうことか捲土重来を期すチームにまで悪影響を及ぼすという、のっぴきならない事態に陥っていた‥‥。
コトが発覚したのは、東海大学菅生高等学校野球部の在学、OB問わず、複数の保護者からの情報提供だった。
「野球部監督は妻帯者ですが、越境入学者と同じく寮に住み込んでいます。しかし夜な夜な抜け出しては、不倫関係にある(同校在籍の)女性教諭A子の自宅に通っているようです」
「監督が所有する車の車種・ナンバーは野球部の関係者であれば周知されていますが、A子と2人きりで出かける姿を頻繁に目撃されている。地方在住の保護者がオフ日に地元で旅行と思しきツーショットを見たかと思えば、中にはラブホテル街で見かけたとの話まで‥‥」
「A子が部のことにまで口出しするようになって、チームが混乱してしまっていると聞いた」
この春先より、こうした内部告発が相次いだのである。
同校野球部は甲子園に春夏9度出場し、直近では昨年センバツで準々決勝まで駒を進めている強豪だ。2009年より同野球部を率いているのが若林弘泰監督(58)。東海大相模出身の同監督は、東海大、日立製作所を経て、投手として中日に入団を果たした元プロ野球選手でもある。
そして話題の主となった教諭A子はアラフィフ女性。身長こそ高くはないものの、体のラインが浮き出たモデルのようなファッションを好むトランジスタグラマーの美女だ。
健全なる教育現場で、それも全国から多くの生徒を預かる名門野球部を舞台に持ち上がった不倫騒動。穏やかではないが、若林監督は一昨年にも問題を起こしていた。
部員に対してバットのグリップエンドで殴るなどの指導を超えた暴力を働き、被害生徒は退部、及び退学。他2名に対する体罰も発覚し、監督は昨年1月に解任された。同校OBが言う。
「若林監督は暴行容疑で書類送検もされましたが、昨年5月には不起訴処分に。そのタイミングを待つかのように、6月から野球部で指導を再開しています。保護者が署名運動をして、学校に復帰を求めたからです。何だかんだ言っても、保護者にしてみればカリスマ監督。学校は慎重に対応し、正式に監督復帰したのは昨年の秋季大会からでした」
事情を知る高校野球関係者によれば、若林監督とA子の不倫関係は2〜3年に及んでいるという。つまりは、暴力事件を挟んでも関係は継続されてきたということだ。
💢東海大菅生野球部「カリスマ監督」の校内不倫暴走(2)痴話ゲンカの腹いせは生徒に
https://www.asagei.com/excerpt/319489
先の同校OBが、ため息を漏らして口を開いた。
「21年に『叱って伸ばす』(竹書房)という著書も出している若林監督ですが、そもそも以前は、親身になって強い言葉で生徒を叱ることはあっても、決して手が出るようなことはなかった。それが、気性の激しいA子との交際を境に変わっていったと言われています。たびたび彼女と痴話ゲンカをしては、その翌日に生徒に八つ当たり。腹いせのような指導が行われたと噂されるようになった。その延長線上に暴力事件もあったと。復帰の署名運動が行われた頃は、まだA子があまり表に出ていなかったために注目されませんでした。ところが徐々に監督の威光を背景に、増長するようになったため保護者が問題視せざるをえなくなったのです」
2人の不倫関係の事実は、野球部のみならず、学校内はもとより多くの保護者が共通して知ることとなる。そしてついに見て見ぬふりができなくなったのは、A子の野球部への介入が露わになってきたと見られたからだという。
同校関係者によれば、「A子が野球部員を呼び出すようになった。部員はしぶしぶ彼女のもとを訪ねるわけですが、そこに監督も同席していることがよくあったというんです。その場でA子から『男女交際はどうなってる? 誰と誰が付き合ってる?』とか『禁止しているSNSを使っているんでしょう』と尋問を受ける。監督が容認している以上、呼び出しを無下に突っぱねることなどできません。その行状が生徒から保護者に伝わることもありましたが、『口出ししては息子の立場を悪くする』と静観するほかなかったそうです」
若林監督が復帰した今夏の西東京大会では、東海大菅生を応援するスタンドでA子が悪目立ちしていたとの証言もある。
「熱中症対策の補助要員として役職を得ているからか、横暴な雰囲気でした。『おい!』とコーチの名前を呼び捨てにしたかと思えば『吹奏楽部の生徒をなんでここに座らせてるんだよ!』などと叱責。まるで野球部内の上位者のようで、応援に来ていた多くの生徒や保護者もうんざりしていた」(目撃した観客)
やっかみ半分かもしれないが、彼女の決定的な越権行為は、野球部のメンバー選定にまで口を挟んでいたことだとされる。
「『彼女に従順で覚えめでたい部員が優先される』と噂されるようになった。確かに実力が十分な子が外れているように感じたこともあります。監督はA子が絶対に正しいと信じ切ってしまっている様子で、生徒もA子の機嫌を損ねてはいけないと負担を強いられる。もはや負のスパイラルは、健全な部活動とますます乖離していっているようで‥‥」(保護者の1人)
💢東海大菅生野球部「カリスマ監督」の校内不倫暴走(3)3年保護者が「ふざけるな!」
https://www.asagei.com/excerpt/319492
さすがに、目に余るようになっていった2人の関係。周囲が若林監督に目を覚ますよう促すこともあったというが、
「校長と理事長から注意を受けても、気にする様子はなかったといいます。そればかりか、とある教員がA子に別れるよう進言したら、彼女が監督に『あなたの悪口を言っている』と告げ口して、詰問されるはめになったこともあったそうです。そうしたA子の入れ知恵で監督から疎まれて、精神的に参ってしまった教員は他にもいる」(同校関係者)
周知の通り、今夏の東海大菅生は西東京大会を「ベスト16」で終えている。
「若林監督が『負けた一因は選手たちの生活態度にもある。生活指導から始めたい』という趣旨の訓話を保護者の前でしたんです。保護者や生徒からすれば『お前が言うな!』であり、最後の夏となった3年生の保護者の中には『ふざけるな!』と怒り心頭の方もいました」(先とは別の保護者)
ところで、清算されない不倫問題は今後にも後を引きそうだという。
高校野球関係者が語る。「来年以降の入部を目指す、有力なリトルシニアリーグや中学校野球部の関係者は学校の内部にパイプを築いています。すでに彼らの間に『東海大菅生はこんな(ひどい)状態らしいよ』と知られるようになってしまった。少なくとも東京近郊の関係者にはあまねく知られてしまっている。息子を預けようという保護者が激減しているのは由々しき事態でしょう。有望な選手は入ってこなくなります」
よもや制御不能の感もあるが、名門野球部にはなんとか立ち直ってもらいたいものだ。
若林監督及び東海大菅生の峰岸英仁校長に「不倫騒動」の事実確認、処分について問いただしたところ、校長より〈お問い合わせ事項につきましては、一切、回答いたしません。ご了承ください〉との返信があるのみだった。
ひと握りの大人の都合で、未来ある球児たちが道を閉ざされてしまうのは決して許されるはずもないのに─。
💢前の学校での“下克上”がTVドラマ化…甲子園出場経験のある40代監督が不適切指導 ミスした部員の頭を叩く等
https://news.yahoo.co.jp/articles/c7c23e9c05778209d0aead06a657d9fb672971cc
三重県立昴学園高校で、野球部の監督を務める40代の男性教師が2023年5月、部員の頭を叩くなどし、処分を受けていたことがわかりました。男性教師は、甲子園に出場経験のある監督でした。
三重県教育委員会などによりますと、県立昴学園高校の野球部の監督を務める40代の男性教師は去年5月、練習中にミスをした部員の頭を叩くなどしたということです。
2024年7月、匿名の通報があり発覚し、男性教師は県教委の聞き取りに対し「指導の一環だった。反省している」などと話しています。
男性教師はすでに野球部の指導からは外れていますが、県教委は不適切な指導と認定し、9月6日付で文書訓告の処分としました。
男性教師は以前、別の県立高校の野球部の監督を務めた際、夏の甲子園に出場、出場までの軌跡がテレビドラマ化されていました。
💢野球部の20代元監督が部員に「暴力・暴言」か 指導自粛 熊本市立千原台高校
https://news.yahoo.co.jp/articles/4f34042b3e60b147a22b2494c6f181410b0de91e
熊本市立千原台高校野球部の監督だった20代の教員が、部員への暴力や暴言などの疑いで活動を自粛していることが明らかになりました。
暴力や暴言などの疑いで指導を自粛しているのは、千原台高校の野球部で監督を務めていた20代の男性教員です。
学校などによりますと、男性教員は2024年夏の大会を最後に引退した前任の監督から引き継ぎ、コーチから昇格していました。
しかし7月下旬に学校側から熊本市教育委員会に報告があり、直後から指導を退き、指導を自粛しています。
市は9月18日に開く体罰等審議会で今回の件をはかる方針ですが、学校は「審議会の結果を待ってコメントしたい」として、具体的な行為や生徒のけがの有無などについて明らかにしていません。
学校によりますと、部員は1、2年生を合わせて26人で、現在は前任の監督が復帰して部員を指導しています。一方、監督は野球部の指導は自粛していますが、教員として学校での授業は続けているということです。
☝信夫ケ丘球場、硬式野球の使用制限解除へ 防球ネット増設年度内完了
https://news.yahoo.co.jp/articles/a4784d9e7a55250185510c303cc684868a1adc6e
福島市は来年4月、中学生以上の硬式野球を使用不可としていた信夫ケ丘球場の利用制限を解除する。球場周辺の住宅にボールが当たるのを防ぐ「防球ネット」の増設工事が年度内に完了する見通しで、危険性がないか検証した上で使用可能とする予定だ。
同球場を巡っては、メインスタンド付近の防球ネットが低く、ファウルボールが球場周辺の住宅に当たる危険性が指摘されていた。市は防球ネットの増設に向け、6日に市内の業者と工事に関する契約を締結し、今後、着工時期などを協議するとしている。工事に伴い、10月から来年3月末まで球場は使用できなくなる。
同球場周辺では近年、道路を隔てて球場から約20メートルの場所に分譲住宅が立ち並び、球場外にファウルボールが飛ぶ危険性があるとして、昨年度から中学生以上の硬式野球の使用ができなくなっていた。
市は今後、県高野連などと来年度の大会日程を調整。高校野球の県予選や、以前開催されていた社会人野球大会などの誘致に取り組んでいくという。
9日の9月議会一般質問で示した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/99dd6c582632d3b8e85bad5363965b5d3ec880ec
秋季高校野球三重県大会の組み合わせ抽選会が10日あり、対戦カードが決まった。地区予選を突破した25校と、今夏の甲子園に出場した菰野が出場。菰野は2回戦で四日市商―津西の勝者と初戦を迎える。
大会は14日に開幕。日程が順調に進めば29日に松阪市のドリームオーシャンスタジアムで決勝と3位決定戦を行う。上位3校は来春のセンバツ出場校選考の重要参考資料となる秋季東海大会(10月19、20、26、27日、静岡・草薙など)の出場権を得る。
👣阪口慶三氏が8月末で関商工の特別顧問を退任 9月からは同校の外部アドバイザーとしてサポート
https://news.yahoo.co.jp/articles/89dd7d24718293cc39bb9bf9f9d9c0f9c4e22116
東邦(愛知)、大垣日大(岐阜)を率いて春夏の甲子園に35度出場した阪口慶三氏(80)が、8月末で関商工(岐阜)の特別顧問を退任したことが10日、明らかになった。
阪口氏は健康上の理由で23年限りで大垣日大の監督を退任し、今年4月から関商工の特別顧問に就任。週に数回グラウンドで選手や監督のサポートを行っていた。
体力的な面でグラウンドでの第一線での選手への技術指導からは離れ、9月からは同校の外部アドバイザーとしてチームに携わる。
💢東海大菅生野球部「カリスマ監督」の校内不倫暴走(1)寮から夜な夜な抜け出して
https://www.asagei.com/excerpt/319485
今年も真夏の甲子園は熱闘の末に終了した。すでに全国の球児たちは来年に想いを馳せていようが、強豪で鳴らす全国的な常連校でお家騒動が勃発。カリスマ監督が校内不倫に身をやつし、あろうことか捲土重来を期すチームにまで悪影響を及ぼすという、のっぴきならない事態に陥っていた‥‥。
コトが発覚したのは、東海大学菅生高等学校野球部の在学、OB問わず、複数の保護者からの情報提供だった。
「野球部監督は妻帯者ですが、越境入学者と同じく寮に住み込んでいます。しかし夜な夜な抜け出しては、不倫関係にある(同校在籍の)女性教諭A子の自宅に通っているようです」
「監督が所有する車の車種・ナンバーは野球部の関係者であれば周知されていますが、A子と2人きりで出かける姿を頻繁に目撃されている。地方在住の保護者がオフ日に地元で旅行と思しきツーショットを見たかと思えば、中にはラブホテル街で見かけたとの話まで‥‥」
「A子が部のことにまで口出しするようになって、チームが混乱してしまっていると聞いた」
この春先より、こうした内部告発が相次いだのである。
同校野球部は甲子園に春夏9度出場し、直近では昨年センバツで準々決勝まで駒を進めている強豪だ。2009年より同野球部を率いているのが若林弘泰監督(58)。東海大相模出身の同監督は、東海大、日立製作所を経て、投手として中日に入団を果たした元プロ野球選手でもある。
そして話題の主となった教諭A子はアラフィフ女性。身長こそ高くはないものの、体のラインが浮き出たモデルのようなファッションを好むトランジスタグラマーの美女だ。
健全なる教育現場で、それも全国から多くの生徒を預かる名門野球部を舞台に持ち上がった不倫騒動。穏やかではないが、若林監督は一昨年にも問題を起こしていた。
部員に対してバットのグリップエンドで殴るなどの指導を超えた暴力を働き、被害生徒は退部、及び退学。他2名に対する体罰も発覚し、監督は昨年1月に解任された。同校OBが言う。
「若林監督は暴行容疑で書類送検もされましたが、昨年5月には不起訴処分に。そのタイミングを待つかのように、6月から野球部で指導を再開しています。保護者が署名運動をして、学校に復帰を求めたからです。何だかんだ言っても、保護者にしてみればカリスマ監督。学校は慎重に対応し、正式に監督復帰したのは昨年の秋季大会からでした」
事情を知る高校野球関係者によれば、若林監督とA子の不倫関係は2〜3年に及んでいるという。つまりは、暴力事件を挟んでも関係は継続されてきたということだ。
💢東海大菅生野球部「カリスマ監督」の校内不倫暴走(2)痴話ゲンカの腹いせは生徒に
https://www.asagei.com/excerpt/319489
先の同校OBが、ため息を漏らして口を開いた。
「21年に『叱って伸ばす』(竹書房)という著書も出している若林監督ですが、そもそも以前は、親身になって強い言葉で生徒を叱ることはあっても、決して手が出るようなことはなかった。それが、気性の激しいA子との交際を境に変わっていったと言われています。たびたび彼女と痴話ゲンカをしては、その翌日に生徒に八つ当たり。腹いせのような指導が行われたと噂されるようになった。その延長線上に暴力事件もあったと。復帰の署名運動が行われた頃は、まだA子があまり表に出ていなかったために注目されませんでした。ところが徐々に監督の威光を背景に、増長するようになったため保護者が問題視せざるをえなくなったのです」
2人の不倫関係の事実は、野球部のみならず、学校内はもとより多くの保護者が共通して知ることとなる。そしてついに見て見ぬふりができなくなったのは、A子の野球部への介入が露わになってきたと見られたからだという。
同校関係者によれば、「A子が野球部員を呼び出すようになった。部員はしぶしぶ彼女のもとを訪ねるわけですが、そこに監督も同席していることがよくあったというんです。その場でA子から『男女交際はどうなってる? 誰と誰が付き合ってる?』とか『禁止しているSNSを使っているんでしょう』と尋問を受ける。監督が容認している以上、呼び出しを無下に突っぱねることなどできません。その行状が生徒から保護者に伝わることもありましたが、『口出ししては息子の立場を悪くする』と静観するほかなかったそうです」
若林監督が復帰した今夏の西東京大会では、東海大菅生を応援するスタンドでA子が悪目立ちしていたとの証言もある。
「熱中症対策の補助要員として役職を得ているからか、横暴な雰囲気でした。『おい!』とコーチの名前を呼び捨てにしたかと思えば『吹奏楽部の生徒をなんでここに座らせてるんだよ!』などと叱責。まるで野球部内の上位者のようで、応援に来ていた多くの生徒や保護者もうんざりしていた」(目撃した観客)
やっかみ半分かもしれないが、彼女の決定的な越権行為は、野球部のメンバー選定にまで口を挟んでいたことだとされる。
「『彼女に従順で覚えめでたい部員が優先される』と噂されるようになった。確かに実力が十分な子が外れているように感じたこともあります。監督はA子が絶対に正しいと信じ切ってしまっている様子で、生徒もA子の機嫌を損ねてはいけないと負担を強いられる。もはや負のスパイラルは、健全な部活動とますます乖離していっているようで‥‥」(保護者の1人)
💢東海大菅生野球部「カリスマ監督」の校内不倫暴走(3)3年保護者が「ふざけるな!」
https://www.asagei.com/excerpt/319492
さすがに、目に余るようになっていった2人の関係。周囲が若林監督に目を覚ますよう促すこともあったというが、
「校長と理事長から注意を受けても、気にする様子はなかったといいます。そればかりか、とある教員がA子に別れるよう進言したら、彼女が監督に『あなたの悪口を言っている』と告げ口して、詰問されるはめになったこともあったそうです。そうしたA子の入れ知恵で監督から疎まれて、精神的に参ってしまった教員は他にもいる」(同校関係者)
周知の通り、今夏の東海大菅生は西東京大会を「ベスト16」で終えている。
「若林監督が『負けた一因は選手たちの生活態度にもある。生活指導から始めたい』という趣旨の訓話を保護者の前でしたんです。保護者や生徒からすれば『お前が言うな!』であり、最後の夏となった3年生の保護者の中には『ふざけるな!』と怒り心頭の方もいました」(先とは別の保護者)
ところで、清算されない不倫問題は今後にも後を引きそうだという。
高校野球関係者が語る。「来年以降の入部を目指す、有力なリトルシニアリーグや中学校野球部の関係者は学校の内部にパイプを築いています。すでに彼らの間に『東海大菅生はこんな(ひどい)状態らしいよ』と知られるようになってしまった。少なくとも東京近郊の関係者にはあまねく知られてしまっている。息子を預けようという保護者が激減しているのは由々しき事態でしょう。有望な選手は入ってこなくなります」
よもや制御不能の感もあるが、名門野球部にはなんとか立ち直ってもらいたいものだ。
若林監督及び東海大菅生の峰岸英仁校長に「不倫騒動」の事実確認、処分について問いただしたところ、校長より〈お問い合わせ事項につきましては、一切、回答いたしません。ご了承ください〉との返信があるのみだった。
ひと握りの大人の都合で、未来ある球児たちが道を閉ざされてしまうのは決して許されるはずもないのに─。
💢前の学校での“下克上”がTVドラマ化…甲子園出場経験のある40代監督が不適切指導 ミスした部員の頭を叩く等
https://news.yahoo.co.jp/articles/c7c23e9c05778209d0aead06a657d9fb672971cc
三重県立昴学園高校で、野球部の監督を務める40代の男性教師が2023年5月、部員の頭を叩くなどし、処分を受けていたことがわかりました。男性教師は、甲子園に出場経験のある監督でした。
三重県教育委員会などによりますと、県立昴学園高校の野球部の監督を務める40代の男性教師は去年5月、練習中にミスをした部員の頭を叩くなどしたということです。
2024年7月、匿名の通報があり発覚し、男性教師は県教委の聞き取りに対し「指導の一環だった。反省している」などと話しています。
男性教師はすでに野球部の指導からは外れていますが、県教委は不適切な指導と認定し、9月6日付で文書訓告の処分としました。
男性教師は以前、別の県立高校の野球部の監督を務めた際、夏の甲子園に出場、出場までの軌跡がテレビドラマ化されていました。
💢野球部の20代元監督が部員に「暴力・暴言」か 指導自粛 熊本市立千原台高校
https://news.yahoo.co.jp/articles/4f34042b3e60b147a22b2494c6f181410b0de91e
熊本市立千原台高校野球部の監督だった20代の教員が、部員への暴力や暴言などの疑いで活動を自粛していることが明らかになりました。
暴力や暴言などの疑いで指導を自粛しているのは、千原台高校の野球部で監督を務めていた20代の男性教員です。
学校などによりますと、男性教員は2024年夏の大会を最後に引退した前任の監督から引き継ぎ、コーチから昇格していました。
しかし7月下旬に学校側から熊本市教育委員会に報告があり、直後から指導を退き、指導を自粛しています。
市は9月18日に開く体罰等審議会で今回の件をはかる方針ですが、学校は「審議会の結果を待ってコメントしたい」として、具体的な行為や生徒のけがの有無などについて明らかにしていません。
学校によりますと、部員は1、2年生を合わせて26人で、現在は前任の監督が復帰して部員を指導しています。一方、監督は野球部の指導は自粛していますが、教員として学校での授業は続けているということです。
☝信夫ケ丘球場、硬式野球の使用制限解除へ 防球ネット増設年度内完了
https://news.yahoo.co.jp/articles/a4784d9e7a55250185510c303cc684868a1adc6e
福島市は来年4月、中学生以上の硬式野球を使用不可としていた信夫ケ丘球場の利用制限を解除する。球場周辺の住宅にボールが当たるのを防ぐ「防球ネット」の増設工事が年度内に完了する見通しで、危険性がないか検証した上で使用可能とする予定だ。
同球場を巡っては、メインスタンド付近の防球ネットが低く、ファウルボールが球場周辺の住宅に当たる危険性が指摘されていた。市は防球ネットの増設に向け、6日に市内の業者と工事に関する契約を締結し、今後、着工時期などを協議するとしている。工事に伴い、10月から来年3月末まで球場は使用できなくなる。
同球場周辺では近年、道路を隔てて球場から約20メートルの場所に分譲住宅が立ち並び、球場外にファウルボールが飛ぶ危険性があるとして、昨年度から中学生以上の硬式野球の使用ができなくなっていた。
市は今後、県高野連などと来年度の大会日程を調整。高校野球の県予選や、以前開催されていた社会人野球大会などの誘致に取り組んでいくという。
9日の9月議会一般質問で示した。
📝国民スポーツ大会高等学校野球競技組合せ
https://www.jhbf.or.jp/kokutai/2024/tournament_koushiki.pdf
👣夏の甲子園出場の北陸が1回戦で姿消す 秋の高校野球福井県大会、若狭など2回戦へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/fd8d453ababbc5f020c03692ebf0138442ddaefe
第151回北信越地区高校野球福井県大会第2日は9月8日、福井市のセーレン・ドリームスタジアム(福井県営球場)と敦賀市総合運動公園野球場で1回戦残り6試合を行った。
武生商工、奥越明成、大野、啓新、足羽、若狭が2回戦へ進んだ。
今夏の全国選手権に出場した北陸は若狭に1-2で敗れ、初戦で姿を消した。
📝大社の藤原佑外野手がプロ野球志望届 50メートル5秒8のリードオフマン 矢上の皆吉赳翔投手も提出
https://news.yahoo.co.jp/articles/245ab17c08de94cb1e7cea3dac298c7f7d4bcfbb
日本高野連は9日、公式サイトに掲載しているプロ野球志望届提出者の一覧を更新し、今夏の全国選手権大会で8強入りした大社の藤原佑外野手が新たに届け出た。
中堅手の藤原は50メートル5秒8のリードオフマン。島根大会6試合で打率6割6分7厘、12盗塁を決めた。全国選手権は4試合で4盗塁を記録した。
藤原は9月に入って提出を決めた。石飛文太監督は「プロ入りへの思いの強さを感じた。夢を後押ししたい」と話した。
9日時点で高校生のプロ志望届提出者は56人となっている。山陰両県では、皆吉赳翔投手(矢上)が提出している。
📝ファーストストライクを「打て」は正解か 分析プロが解説…半分は“間違い”の根拠
https://news.yahoo.co.jp/articles/6f220fd5896f65258a307b6cd03e92f0ca9aa630
元プロ野球スコアラー・三井康浩氏が“奥深い”カウント別球種の待ち方を紹介
巨人や日本代表「侍ジャパン」でチーフスコアラーを務め、現在は学生からプロまで打撃指導を行う三井康浩氏が、中学生を対象にした野球講義を行い、選手たちは熱心にペンを走らせた。“伝説のスコアラー”と呼ばれた分析のプロが、子どもたちの疑問に答えた。なぜ、追い込まれる前に打たないと不利なのか――。
練習メニューの“引き出し”を多く持つことで知られる三井氏は、定期的にスコアラーの観点から、選手たちに座学を行っている。技術を磨くことも大事だが「漠然とプレーをするだけではうまくならない」「考えを持って選手たちに行動をしてほしい」。根拠を持つことの大切さを学んでほしいという思いから、また違った側面で野球の奥深さを伝えている。
座学では『カウント別の打席でのボール待ち方』がメインテーマだった。カウント0-0、1ボール0ストライク、2ボール0ストライク、3ボール0ストライクといった、ファーストストライクから打っていくことがデータとして高打率となること、逆に追い込まれてからの打率は低くなるその根拠などを、数字を用いて説明した。
ただ、やみくもにファーストストライクをスイングしていくのではない。そこにも根拠が必要だ。基本的には振っていってほしいが、「直球を待っているのに、甘いカーブを打ってしまうとかなりの高い確率で凡打になってしまう」と言及。自分が狙って打てると思った球、コースを打ちにいくことが重要で、その他のボールは、ストライクゾーンに来たとしても我慢をする、見極める“耐性”も必要だという。
2ストライクに追い込まれても…考え方を変えれば問題なし
ストライクを取られた後の考え方も多岐にわたるため、選手たちにはボールカウントごとにプロの考え方を説明した。2ストライクになった後の打率は、データによると大きく下がることが証明されているが、「だからといって、まだアウトになったわけではない」と、そこでどう狙い球を絞っていくかついても解説。例えば、追い込まれても狙った球種は「変えない方がいい」と、その根拠も併せて伝えた。
では、追い込まれてから、狙い球ではない球がストライクゾーンに来た場合はどうするか。ファーストストライクでは打っていくと凡打になると説明している。2ストライクだったら見逃し三振になってしまう。
この場合はファウルで逃れて、並行カウントや打者有利のカウントに持っていくことが重要になる。ボールカウントが増えれば増えるほど、打率は少しずつ上がっていくからだ。よって、「変化球をファウルにする練習もした方がいいです」と、普段から準備をするよう声をかけた。プロの選手でも試合前にファウルを打つ練習をしているのは、それが理由だという。
三井氏は「追い込まれたからといって悲観するのではなく、これが野球の醍醐味であると思ってもらいたいです」と粘り強さ、球際に強い選手になってほしいと願う。座学ではすべてのカウントにおける“三井流”の考え方、待ち方を伝授。指導者からも「その発想はなかったです」と野球を見る視点が変わったという。
プロの選手だけでなく、小・中学生にも野球指導をする三井氏は、分析について「根拠を持って行動をしてほしいですし、状況判断ができる選手になってほしい」。学びたい人はウェルカム。キャリアで培った自身の考えを、1人でも多くの子どもたちや指導者に共有していきたい思いでいる。
https://www.jhbf.or.jp/kokutai/2024/tournament_koushiki.pdf
👣夏の甲子園出場の北陸が1回戦で姿消す 秋の高校野球福井県大会、若狭など2回戦へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/fd8d453ababbc5f020c03692ebf0138442ddaefe
第151回北信越地区高校野球福井県大会第2日は9月8日、福井市のセーレン・ドリームスタジアム(福井県営球場)と敦賀市総合運動公園野球場で1回戦残り6試合を行った。
武生商工、奥越明成、大野、啓新、足羽、若狭が2回戦へ進んだ。
今夏の全国選手権に出場した北陸は若狭に1-2で敗れ、初戦で姿を消した。
📝大社の藤原佑外野手がプロ野球志望届 50メートル5秒8のリードオフマン 矢上の皆吉赳翔投手も提出
https://news.yahoo.co.jp/articles/245ab17c08de94cb1e7cea3dac298c7f7d4bcfbb
日本高野連は9日、公式サイトに掲載しているプロ野球志望届提出者の一覧を更新し、今夏の全国選手権大会で8強入りした大社の藤原佑外野手が新たに届け出た。
中堅手の藤原は50メートル5秒8のリードオフマン。島根大会6試合で打率6割6分7厘、12盗塁を決めた。全国選手権は4試合で4盗塁を記録した。
藤原は9月に入って提出を決めた。石飛文太監督は「プロ入りへの思いの強さを感じた。夢を後押ししたい」と話した。
9日時点で高校生のプロ志望届提出者は56人となっている。山陰両県では、皆吉赳翔投手(矢上)が提出している。
📝ファーストストライクを「打て」は正解か 分析プロが解説…半分は“間違い”の根拠
https://news.yahoo.co.jp/articles/6f220fd5896f65258a307b6cd03e92f0ca9aa630
元プロ野球スコアラー・三井康浩氏が“奥深い”カウント別球種の待ち方を紹介
巨人や日本代表「侍ジャパン」でチーフスコアラーを務め、現在は学生からプロまで打撃指導を行う三井康浩氏が、中学生を対象にした野球講義を行い、選手たちは熱心にペンを走らせた。“伝説のスコアラー”と呼ばれた分析のプロが、子どもたちの疑問に答えた。なぜ、追い込まれる前に打たないと不利なのか――。
練習メニューの“引き出し”を多く持つことで知られる三井氏は、定期的にスコアラーの観点から、選手たちに座学を行っている。技術を磨くことも大事だが「漠然とプレーをするだけではうまくならない」「考えを持って選手たちに行動をしてほしい」。根拠を持つことの大切さを学んでほしいという思いから、また違った側面で野球の奥深さを伝えている。
座学では『カウント別の打席でのボール待ち方』がメインテーマだった。カウント0-0、1ボール0ストライク、2ボール0ストライク、3ボール0ストライクといった、ファーストストライクから打っていくことがデータとして高打率となること、逆に追い込まれてからの打率は低くなるその根拠などを、数字を用いて説明した。
ただ、やみくもにファーストストライクをスイングしていくのではない。そこにも根拠が必要だ。基本的には振っていってほしいが、「直球を待っているのに、甘いカーブを打ってしまうとかなりの高い確率で凡打になってしまう」と言及。自分が狙って打てると思った球、コースを打ちにいくことが重要で、その他のボールは、ストライクゾーンに来たとしても我慢をする、見極める“耐性”も必要だという。
2ストライクに追い込まれても…考え方を変えれば問題なし
ストライクを取られた後の考え方も多岐にわたるため、選手たちにはボールカウントごとにプロの考え方を説明した。2ストライクになった後の打率は、データによると大きく下がることが証明されているが、「だからといって、まだアウトになったわけではない」と、そこでどう狙い球を絞っていくかついても解説。例えば、追い込まれても狙った球種は「変えない方がいい」と、その根拠も併せて伝えた。
では、追い込まれてから、狙い球ではない球がストライクゾーンに来た場合はどうするか。ファーストストライクでは打っていくと凡打になると説明している。2ストライクだったら見逃し三振になってしまう。
この場合はファウルで逃れて、並行カウントや打者有利のカウントに持っていくことが重要になる。ボールカウントが増えれば増えるほど、打率は少しずつ上がっていくからだ。よって、「変化球をファウルにする練習もした方がいいです」と、普段から準備をするよう声をかけた。プロの選手でも試合前にファウルを打つ練習をしているのは、それが理由だという。
三井氏は「追い込まれたからといって悲観するのではなく、これが野球の醍醐味であると思ってもらいたいです」と粘り強さ、球際に強い選手になってほしいと願う。座学ではすべてのカウントにおける“三井流”の考え方、待ち方を伝授。指導者からも「その発想はなかったです」と野球を見る視点が変わったという。
プロの選手だけでなく、小・中学生にも野球指導をする三井氏は、分析について「根拠を持って行動をしてほしいですし、状況判断ができる選手になってほしい」。学びたい人はウェルカム。キャリアで培った自身の考えを、1人でも多くの子どもたちや指導者に共有していきたい思いでいる。
⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(最終日 決勝戦 田辺SP球場)
和 智 弁13-0和歌山東
智弁和歌山は4年連続11度目の優勝🏆
⚾今日の和歌山大会一次予選試合結果(2日目 1回戦 上富田球場)
和 高 専5xー4農芸笠田・近大新宮5-1和歌山北・熊 野5-2南部龍神
⚾今日の兵庫大会試合結果(2日目 1回戦)
明石トーカロ・・・神港学園7xー0須磨友丘(7回)・滝 川 二3-0八 鹿
ウインク球場・・・神国大付8-1武庫総合・東洋姫路10x-3六 ア イ(8回)
G7スタジアム・・龍 野5-1姫 路 西・神戸弘陵7-0西 脇(7回)
ベイコム球場・・・小 野5-0北摂三田・科学技術4-1津 名
淡路佐野球場・・・関西学院7-0加古川北(7回)・西 脇 工10xー西 宮 北(5回)
高砂球場・・・・・神 戸 一6-5滝 川(11回)・豊岡総合4-1尼崎稲園
📝僕のタイブレーク球場観戦歴
① 15年 4月25日 佐藤薬品S 畝 傍 9-3奈良 大付(13回) 先攻勝利
② 15年 5月31日 倉敷 MS 創志 学園4-2松 江 商(13回) 先攻勝利
③ 18年 8月 6日 甲 子 園 佐久 長聖5-4旭 川 大(14回) 先攻勝利
④ 18年 8月12日 甲 子 園 済 美 13‐11 星 稜 (13回) 後攻勝利
⑤ 18年10月 3日 福井 県営 近 江 13‐12日 大 三(10回) 後攻勝利 (国体)
⑥ 18年10月13日 明石 トーカロ 報徳 学園3-2 社 (13回) 先攻勝利
⑦ 19年 5月 6日 皇 子 山 彦 根 東8-7 綾 羽 (13回) 後攻勝利
⑧ 19年10月26日 コカコーラ 矢 上 6-3 盈 進 (13回) 先攻勝利
⑨ 21年 7月23日 紀三 井寺 智弁和歌山3-2初芝 橋本(13回) 後攻勝利
⑩ 22年 3月20日 甲 子 園 近 江 6-2長崎 日大(13回) 先攻勝利
⑪ 22年 3月25日 甲 子 園 金光 大阪4-3木更津総合(13回) 後攻勝利
⑫ 22年 4月 9日 シティ 信金S 奈良学園大4-2神 戸 大(10回) 先攻勝利 (大学)
⑬ 22年10月 2日 ウイ ンク 社 4-2 育 英 (13回) 先攻勝利
⑭ 22年10月15日 倉敷 MS 周南公立大3-1環太平洋大(10回) 先攻勝利 (大学)
⑮ 22年10月15日 倉敷 MS 東 亜 大2-1吉備国際大(10回) 後攻勝利 (大学)
---------------------------------------------------------------------------------
⑯ 23年 3月28日 甲 子 園 報徳 学園5-4 東 邦 (10回) 後攻勝利
⑰ 23年 3月29日 甲 子 園 報徳 学園5-4仙台 育英(10回) 後攻勝利
⑱ 23年 4月16日 ダイムS伊勢 皇 學 館4ー3昴 学 園(10回) 後攻勝利
⑲ 23年 5月 1日 HMF神戸 関西国際大5-2天 理 大(10回) 先攻勝利 (大学)
⑳ 23年 5月13日 わかさ京都 京都 国際2-1龍谷大平安(10回) 後攻勝利
㉑ 23年 7月17日 浜 山 出 雲 工9-8 安 来 (10回) 後攻勝利
㉒ 23年 7月28日 紀三 井寺 市和 歌山5-4和歌 山北(11回) 後攻勝利
㉓ 23年 8月 6日 甲 子 園 土浦 日大8-3上 田 西(10回) 先攻勝利
㉔ 23年 8月13日 甲 子 園 山 陽 4-3大垣 日大(10回) 後攻勝利
㉕ 23年 8月16日 甲 子 園 慶 応 6-3 広 陵 (10回) 先攻勝利
㉖ 23年 8月26日 紀三 井寺 那 賀 6-2 桐 蔭 (10回) 先攻勝利
㉗ 23年 9月10日 G7スタジアム 彩星 工科4-3篠山 鳳鳴(10回) 後攻勝利
㉘ 23年10月15日 福井フェニックス 敦賀 気比11-5帝京 長岡(10回) 先攻勝利
㉙ 23年10月22日 シティ信金 京都 国際3-2 田 辺 (10回) 後攻勝利
㉚ 23年10月22日 シティ信金 京都外大西7-5彦根 総合(10回) 先攻勝利
㉛ 24年 3月18日 甲 子 園 八学 光星5-3関 東 一(11回) 先攻勝利
㉜ 24年 3月18日 甲 子 園 熊本 国府2-1 近 江 (10回) 後攻勝利
㉝ 24年 3月22日 甲 子 園 報徳 学園3-2愛工大名電(10回) 後攻勝利
㉞ 24年 3月27日 甲 子 園 青森 山田6-5 広 陵 (10回) 後攻勝利
㉟ 24年 4月27日 紀三 井寺 市和 歌山6-3 田 辺 (10回) 先攻勝利
㊱ 24年 4月29日 ウイ ンク 須磨 翔風5-3神戸学院付(11回) 先攻勝利
㊲ 24年 5月 3日 HMF神戸 大阪体育大6-5甲 南 大(10回) 先攻勝利(大学)
㊳ 24年 5月 6日 マイネット皇子山 八 幡 商3-2比 叡 山(10回) 先攻勝利
㊴ 24年 5月19日 長 良 川 菰 野 6-5県岐 阜商(10回) 先攻勝利
㊵ 24年 7月22日 紀三 井寺 田 辺 9-8新宮/新翔(10回) 後攻勝利
㊶ 24年 8月 7日 甲 子 園 智弁 学園9-6岐阜 城北(11回) 先攻勝利
㊷ 24年 8月17日 甲 子 園 大 社 3-2早稲 田実(11回) 後攻勝利
㊸ 24年 9月 8日 高 砂 神 戸 一6-5 滝 川 (11回) 先攻勝利
👣滝川高、神戸第一に惜敗 プロ注目の“二刀流”新井瑛太は7イニング5失点 打っては4打数3安打【高校野球・秋季兵庫大会】
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d2c9f8c90bdbc38d9eb2e3da4fa0852829cdf9b
◇8日 秋季兵庫県高校野球大会 1回戦 滝川5―6神戸第一=延長11回タイブレーク(高砂市野球場)
”二刀流”としてプロ注目の最速150キロ右腕、滝川高・新井瑛太投手(2年)は先発で7イニングを5安打、6奪三振、8四死球の5失点でチームを勝利に導けなかった。
新井はエースで4番打者の主将だ。立ち上がりに制球が定まらず、押し出しを含む5四死球などで2点を与え、一度は逆転したものの、3回にも押し出しを含む2四球などで同点を許した。7回には1点を勝ち越され、8回からは右翼のポジションに就いた。
「コントロールを課題にしてきて、そこの改善が重要ポイントだったんですが、夏と同じような結果で悔しいです」
打っては4打数3安打だった。「投手でチームに迷惑を掛けたので、打撃で取り返そうと打席に入りました」と新井。4番打者として1回は右前安打で逆転につなげ、7回にも右前安打し、9回は左中間への三塁打を放ってサヨナラ好機をつくった。しかし、後続が続かず、延長10回からのタイブレークでチームは得点を奪えなかった。
神戸市出身で身長178センチ、78キロの右投げ左打ち。1年夏からベンチ入りし、昨年9月から投手を始めたばかりだ。この試合を視察したDeNAの吉見祐治スカウトは「きょうは力を入れて投げた球が147キロ。スピードボールが彼の魅力だが、その球を扱い切れていないのが課題です。打撃は力があると思いますし、センスがある。どう成長していくか見ものです」と評した。
1980年の春夏連続出場以来、甲子園からは遠ざかっている滝川の来春センバツ出場は絶望的となった。新井はプロに注目される存在となったが、滝川の近藤洋輔監督は「まだまだ経験不足」と話す。新井も「実力が追いついていないので、プロに見てもらえるような、ふさわしい選手になりたい」と成長を期す。
👣高校侍J 台湾に逆転負け、8年ぶり奪冠ならず…小倉全由監督「勝たすことができなかった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/ddd1f01358aebff4b9ea43c40ce50274606c2be7
◇第13回U18アジア選手権 決勝 日本1-6台湾(2024年9月8日 天母)
高校日本代表は8日、決勝で台湾に1-6で逆転負けを喫し、16年以来8年ぶりの優勝はならなかった。初回に4番・石塚裕惺(3年=花咲徳栄)の中前打で先制。救援登板からの連投となった先発の今朝丸裕喜(3年=報徳学園)は3四球など3回途中2失点と精彩を欠いた。
6日のスーパーラウンド初戦では台湾に1―0で勝利を収めた日本。初回に足を絡めて、先制点を奪った。1死から2番・浜本遥大(3年=広陵)が中前打で出塁。二盗、三盗を決めてチャンスを広げると、2死三塁から、石塚が相手遊撃手のグラブを弾く中前適時打を放った。
先発は世代No・1右腕と称される今朝丸。1-0の3回1死二塁、ドジャース入団が決まっているコ・チンシェンに左中間を破る適時三塁打を打たれ、同点に追いつかれた。降雨による一時中断明けには、1死三塁から右犠飛で勝ち越しを許した。ここで、桜井椿稀(3年=鶴岡東)にマウンドを譲る形となった。
1点を追う3回2死一、三塁。再びチャンスで石塚に打席が回ったが、台湾2番手の最速154キロ右腕を前に空振り三振に終わった。1-3の5回1死満塁でも石塚は遊ゴロ併殺打に倒れた。6回にも一、三塁のチャンスをつくったが、追加点はならなかった。
日本は4投手の継投も10四死球。台湾を上回る2桁安打も、2回以降あと1本が出ず、16年以来8年ぶりの頂点を逃した。
▼小倉全由監督 選手たちは今日よく打ってくれたんですけど、思うようにいかなかった。あとは監督が何とかしないといけないんですけど、選手に勝たすことができなくて…。選手たちは本当よくやってくれた。
▽第11回U18アジア野球選手権 日本は決勝で台湾を1-0で下し、2大会ぶり5度目の優勝。寺島成輝(元ヤクルト)、今井達也(現西武)、藤嶋健人(現中日)、高橋昂也(現広島)の“ビッグ4”を中心に、早川隆久(現楽天)、堀瑞輝(現日本ハム)、藤平尚真(現楽天)など圧倒的な投手力で6戦全勝だった。
和 智 弁13-0和歌山東
智弁和歌山は4年連続11度目の優勝🏆
⚾今日の和歌山大会一次予選試合結果(2日目 1回戦 上富田球場)
和 高 専5xー4農芸笠田・近大新宮5-1和歌山北・熊 野5-2南部龍神
⚾今日の兵庫大会試合結果(2日目 1回戦)
明石トーカロ・・・神港学園7xー0須磨友丘(7回)・滝 川 二3-0八 鹿
ウインク球場・・・神国大付8-1武庫総合・東洋姫路10x-3六 ア イ(8回)
G7スタジアム・・龍 野5-1姫 路 西・神戸弘陵7-0西 脇(7回)
ベイコム球場・・・小 野5-0北摂三田・科学技術4-1津 名
淡路佐野球場・・・関西学院7-0加古川北(7回)・西 脇 工10xー西 宮 北(5回)
高砂球場・・・・・神 戸 一6-5滝 川(11回)・豊岡総合4-1尼崎稲園
📝僕のタイブレーク球場観戦歴
① 15年 4月25日 佐藤薬品S 畝 傍 9-3奈良 大付(13回) 先攻勝利
② 15年 5月31日 倉敷 MS 創志 学園4-2松 江 商(13回) 先攻勝利
③ 18年 8月 6日 甲 子 園 佐久 長聖5-4旭 川 大(14回) 先攻勝利
④ 18年 8月12日 甲 子 園 済 美 13‐11 星 稜 (13回) 後攻勝利
⑤ 18年10月 3日 福井 県営 近 江 13‐12日 大 三(10回) 後攻勝利 (国体)
⑥ 18年10月13日 明石 トーカロ 報徳 学園3-2 社 (13回) 先攻勝利
⑦ 19年 5月 6日 皇 子 山 彦 根 東8-7 綾 羽 (13回) 後攻勝利
⑧ 19年10月26日 コカコーラ 矢 上 6-3 盈 進 (13回) 先攻勝利
⑨ 21年 7月23日 紀三 井寺 智弁和歌山3-2初芝 橋本(13回) 後攻勝利
⑩ 22年 3月20日 甲 子 園 近 江 6-2長崎 日大(13回) 先攻勝利
⑪ 22年 3月25日 甲 子 園 金光 大阪4-3木更津総合(13回) 後攻勝利
⑫ 22年 4月 9日 シティ 信金S 奈良学園大4-2神 戸 大(10回) 先攻勝利 (大学)
⑬ 22年10月 2日 ウイ ンク 社 4-2 育 英 (13回) 先攻勝利
⑭ 22年10月15日 倉敷 MS 周南公立大3-1環太平洋大(10回) 先攻勝利 (大学)
⑮ 22年10月15日 倉敷 MS 東 亜 大2-1吉備国際大(10回) 後攻勝利 (大学)
---------------------------------------------------------------------------------
⑯ 23年 3月28日 甲 子 園 報徳 学園5-4 東 邦 (10回) 後攻勝利
⑰ 23年 3月29日 甲 子 園 報徳 学園5-4仙台 育英(10回) 後攻勝利
⑱ 23年 4月16日 ダイムS伊勢 皇 學 館4ー3昴 学 園(10回) 後攻勝利
⑲ 23年 5月 1日 HMF神戸 関西国際大5-2天 理 大(10回) 先攻勝利 (大学)
⑳ 23年 5月13日 わかさ京都 京都 国際2-1龍谷大平安(10回) 後攻勝利
㉑ 23年 7月17日 浜 山 出 雲 工9-8 安 来 (10回) 後攻勝利
㉒ 23年 7月28日 紀三 井寺 市和 歌山5-4和歌 山北(11回) 後攻勝利
㉓ 23年 8月 6日 甲 子 園 土浦 日大8-3上 田 西(10回) 先攻勝利
㉔ 23年 8月13日 甲 子 園 山 陽 4-3大垣 日大(10回) 後攻勝利
㉕ 23年 8月16日 甲 子 園 慶 応 6-3 広 陵 (10回) 先攻勝利
㉖ 23年 8月26日 紀三 井寺 那 賀 6-2 桐 蔭 (10回) 先攻勝利
㉗ 23年 9月10日 G7スタジアム 彩星 工科4-3篠山 鳳鳴(10回) 後攻勝利
㉘ 23年10月15日 福井フェニックス 敦賀 気比11-5帝京 長岡(10回) 先攻勝利
㉙ 23年10月22日 シティ信金 京都 国際3-2 田 辺 (10回) 後攻勝利
㉚ 23年10月22日 シティ信金 京都外大西7-5彦根 総合(10回) 先攻勝利
㉛ 24年 3月18日 甲 子 園 八学 光星5-3関 東 一(11回) 先攻勝利
㉜ 24年 3月18日 甲 子 園 熊本 国府2-1 近 江 (10回) 後攻勝利
㉝ 24年 3月22日 甲 子 園 報徳 学園3-2愛工大名電(10回) 後攻勝利
㉞ 24年 3月27日 甲 子 園 青森 山田6-5 広 陵 (10回) 後攻勝利
㉟ 24年 4月27日 紀三 井寺 市和 歌山6-3 田 辺 (10回) 先攻勝利
㊱ 24年 4月29日 ウイ ンク 須磨 翔風5-3神戸学院付(11回) 先攻勝利
㊲ 24年 5月 3日 HMF神戸 大阪体育大6-5甲 南 大(10回) 先攻勝利(大学)
㊳ 24年 5月 6日 マイネット皇子山 八 幡 商3-2比 叡 山(10回) 先攻勝利
㊴ 24年 5月19日 長 良 川 菰 野 6-5県岐 阜商(10回) 先攻勝利
㊵ 24年 7月22日 紀三 井寺 田 辺 9-8新宮/新翔(10回) 後攻勝利
㊶ 24年 8月 7日 甲 子 園 智弁 学園9-6岐阜 城北(11回) 先攻勝利
㊷ 24年 8月17日 甲 子 園 大 社 3-2早稲 田実(11回) 後攻勝利
㊸ 24年 9月 8日 高 砂 神 戸 一6-5 滝 川 (11回) 先攻勝利
👣滝川高、神戸第一に惜敗 プロ注目の“二刀流”新井瑛太は7イニング5失点 打っては4打数3安打【高校野球・秋季兵庫大会】
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d2c9f8c90bdbc38d9eb2e3da4fa0852829cdf9b
◇8日 秋季兵庫県高校野球大会 1回戦 滝川5―6神戸第一=延長11回タイブレーク(高砂市野球場)
”二刀流”としてプロ注目の最速150キロ右腕、滝川高・新井瑛太投手(2年)は先発で7イニングを5安打、6奪三振、8四死球の5失点でチームを勝利に導けなかった。
新井はエースで4番打者の主将だ。立ち上がりに制球が定まらず、押し出しを含む5四死球などで2点を与え、一度は逆転したものの、3回にも押し出しを含む2四球などで同点を許した。7回には1点を勝ち越され、8回からは右翼のポジションに就いた。
「コントロールを課題にしてきて、そこの改善が重要ポイントだったんですが、夏と同じような結果で悔しいです」
打っては4打数3安打だった。「投手でチームに迷惑を掛けたので、打撃で取り返そうと打席に入りました」と新井。4番打者として1回は右前安打で逆転につなげ、7回にも右前安打し、9回は左中間への三塁打を放ってサヨナラ好機をつくった。しかし、後続が続かず、延長10回からのタイブレークでチームは得点を奪えなかった。
神戸市出身で身長178センチ、78キロの右投げ左打ち。1年夏からベンチ入りし、昨年9月から投手を始めたばかりだ。この試合を視察したDeNAの吉見祐治スカウトは「きょうは力を入れて投げた球が147キロ。スピードボールが彼の魅力だが、その球を扱い切れていないのが課題です。打撃は力があると思いますし、センスがある。どう成長していくか見ものです」と評した。
1980年の春夏連続出場以来、甲子園からは遠ざかっている滝川の来春センバツ出場は絶望的となった。新井はプロに注目される存在となったが、滝川の近藤洋輔監督は「まだまだ経験不足」と話す。新井も「実力が追いついていないので、プロに見てもらえるような、ふさわしい選手になりたい」と成長を期す。
👣高校侍J 台湾に逆転負け、8年ぶり奪冠ならず…小倉全由監督「勝たすことができなかった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/ddd1f01358aebff4b9ea43c40ce50274606c2be7
◇第13回U18アジア選手権 決勝 日本1-6台湾(2024年9月8日 天母)
高校日本代表は8日、決勝で台湾に1-6で逆転負けを喫し、16年以来8年ぶりの優勝はならなかった。初回に4番・石塚裕惺(3年=花咲徳栄)の中前打で先制。救援登板からの連投となった先発の今朝丸裕喜(3年=報徳学園)は3四球など3回途中2失点と精彩を欠いた。
6日のスーパーラウンド初戦では台湾に1―0で勝利を収めた日本。初回に足を絡めて、先制点を奪った。1死から2番・浜本遥大(3年=広陵)が中前打で出塁。二盗、三盗を決めてチャンスを広げると、2死三塁から、石塚が相手遊撃手のグラブを弾く中前適時打を放った。
先発は世代No・1右腕と称される今朝丸。1-0の3回1死二塁、ドジャース入団が決まっているコ・チンシェンに左中間を破る適時三塁打を打たれ、同点に追いつかれた。降雨による一時中断明けには、1死三塁から右犠飛で勝ち越しを許した。ここで、桜井椿稀(3年=鶴岡東)にマウンドを譲る形となった。
1点を追う3回2死一、三塁。再びチャンスで石塚に打席が回ったが、台湾2番手の最速154キロ右腕を前に空振り三振に終わった。1-3の5回1死満塁でも石塚は遊ゴロ併殺打に倒れた。6回にも一、三塁のチャンスをつくったが、追加点はならなかった。
日本は4投手の継投も10四死球。台湾を上回る2桁安打も、2回以降あと1本が出ず、16年以来8年ぶりの頂点を逃した。
▼小倉全由監督 選手たちは今日よく打ってくれたんですけど、思うようにいかなかった。あとは監督が何とかしないといけないんですけど、選手に勝たすことができなくて…。選手たちは本当よくやってくれた。
▽第11回U18アジア野球選手権 日本は決勝で台湾を1-0で下し、2大会ぶり5度目の優勝。寺島成輝(元ヤクルト)、今井達也(現西武)、藤嶋健人(現中日)、高橋昂也(現広島)の“ビッグ4”を中心に、早川隆久(現楽天)、堀瑞輝(現日本ハム)、藤平尚真(現楽天)など圧倒的な投手力で6戦全勝だった。
⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(7日目 準決勝 田辺SP球場)
和歌山東3-1紀 央 館・和 智 弁14-1初芝橋本(7回)
⚾今日の和歌山大会一次予選試合結果(初日 1回戦 上富田球場)
向 陽5x-4田 辺 工・神 島16-0有貴南連(5回)・市和歌山9xー2耐 久(7回)
⚾今日の兵庫大会試合結果(初日 1回戦)
明石トーカロ・・・川西緑台4-3東 播 磨・ 社 5-0尼 崎 工・三田学園9-0琴 丘(7回)
ウインク球場・・・姫 路 工7-5三田松聖(10回タイブレーク)・高 砂6-3三田西陵
G7スタジアム・・明 石 商10-0飾 磨(5回)・市 川5-0県 伊 丹
ベイコム球場・・・飾 磨 工13-9鳴 尾(10回タイブレーク)・柏 原5-4尼崎双星
淡路佐野球場・・・須磨翔風5-0彩星工科・加古川西10-8育 英
高砂球場・・・・・赤 穂10-9高 砂 南・西 宮 東2xー1尼崎小田
ちなみに今日は、2年前の夏の宿泊観戦で全試合雨天中止を喰らった岐阜県各務原市のプリニーの球場へ「あの夏の忘れ物」を取りに行きました・・・。
4時50分出発で5時08分の始発電車に乗車しても最寄りの蘇原駅に9時23分到着で球場まで約45分歩いて10時10分頃到着。岐阜は熱さ対策で9時から2試合なんで・・・。
14時前には終わるだろうとタカをくくって試合後近所の中華料理屋(ランチは15時まで)で食べるつもりがなかなかどうして・・・・・。
①中 津 商8xー7岐阜各務野 9:00?~11:22 5回終了整備中に入場
② 岐 山 8-4岐 阜 東 12:09 ~15:01
1試合目は最大5点差2試合目は7点差開いてコールドがチラつくも土俵際で踏ん張り9回まで観戦できました!!
その代償は大きく、昼ご飯は15時40分過ぎにようやく・・・ソースカツ丼を。
屋根のない球場で最高気温35、5度もあり風も微風で岐山の年配男性が試合終盤熱中症で???緊急搬送。
16時57分の電車で帰りたかったので、急いで昼ご飯食べて向かいの喫茶店でかき氷ほおばり駅まで小走り・・・と。
詳しいことは来月16日に『チーム宏鈴』誕生日が来るのでそっちに認めます!!
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(最終日 決勝戦 田辺SP球場)
☆☆☆ 10:00~ 和歌 山東-智弁和歌山
⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(2日目 1回戦 上富田球場)
09:00~ 農芸/笠田-和歌山高専
☆ 11:30~ 近大 新宮-和歌 山北
14:00~ 熊 野 -南部 龍神
⚾明日の兵庫大会組み合わせ(2日目 1回戦)
明石トーカロ球場
10:00~ 須磨友が丘-神港 学園
☆ 13:00~ 八 鹿 -滝 川 二
ウインク球場
10:00~ 武庫荘総合-神戸国際付
☆ 13:00~ 東洋大姫路-六甲アイランド
G7スタジアム
10:00~ 龍 野 -姫 路 西
13:00~ 神戸 弘陵- 西 脇
ベイコム球場
10:00~ 小 野 -北摂 三田
13:00~ 科学 技術- 津 名
淡路佐野球場
10:00~ 関西 学院-加古 川北
13:00~ 西 宮 北-西 脇 工
高砂球場
☆ 10:00~ 神 戸 一- 滝 川
☆ 13:00~ 尼崎 稲園-豊岡 総合
📝「なぜプロ志望届を出さない?」大社エース・馬庭優太が初めて明かす“進路の決断”…部員数ギリギリの中学野球部から“早稲田実を倒すまで”
https://news.yahoo.co.jp/articles/e7b9235887167936ce8266ac30304fecaed82c00?page=1
今夏の甲子園を驚かせた大社高校。なかでも注目されたのが、突如全国区に躍り出たエース馬庭優太である。神村学園戦は限界だったのか。プロ志望届は出すのか。9月上旬、現地記者が本人に尋ねた。
「馬庭投手ですか?」一躍有名人に
いたずらっぽい笑顔と声色だった。「少しはあるんですけど、馬庭“さん”に比べたら、全然です」
大社の主将で正捕手だった石原勇翔に、「甲子園から帰ってきて、街中を歩いていたら、気づかれるか」と尋ねたときの回答である。
女房役の一言を聞いた「馬庭“さん”」こと、大社のエース・馬庭優太は、「やめろって、もう……」とつぶやきながら、甲子園期間中よりも少し髪が伸びた頭をかいた。
「地域の皆さんから、すごく声をかけてもらっています。『馬庭投手ですか? 』みたいな質問の形が一番多いですかね。そのたびに、甲子園ベスト8まで勝ち進めたことを実感します」
10月に佐賀で開催予定の「国民スポーツ大会」への出場が決まっているが、話を聞いた9月初旬は学園祭が控えていた。学園祭が終わるまで3年生の練習参加は自由。夏の甲子園での戦いを終えて島根に戻り、束の間の休息期間である。
32年ぶりの出場、63年ぶりの白星、107年ぶり2勝、そして93年ぶりの8強進出。この夏、大社が勝ち進むたびに報じられる数字は、いずれもインパクトに満ちていた。
その勝ち上がりの中心にいたのが、馬庭だった。
甲子園中に…「こうして覚醒した」
背番号1の左腕は、報徳学園との初戦から3試合連続で先発完投。「今夏屈指の名勝負」との呼び声も高い早稲田実との3回戦では、延長11回を投げ抜き、最後は無死満塁からセンター前にサヨナラ打を放つという、投打にわたる活躍を見せた。
一塁に駆け出しながら、打球が二遊間を破る様子を見届けると、目に涙を浮かべながら、歓声にこたえるように両腕を広げた。本人曰く「なにも考えられなくて、自然とああいうポーズをとっていた」とのことだが、耳をつんざくような大歓声に包まれ、ナイター照明に照らされる姿は、神々しくさえあった。
「甲子園での4試合は、人生を変える4試合だったと思います。その中でも一番印象に残っているのが、早実戦。試合を重ねるごとに応援の声も増えて、バックネットの(観客の)皆さんも応援してくださっていたのが感じられました。そこで自分が打って決めて、あれだけの歓声をもらえたのがうれしかったです」
こう振り返り、「あと…」と付け加える。「ピッチングで一番手ごたえを感じたのも、この試合。2試合連続で(先発で)投げて疲れはあったんですけど、その疲れがあるからこそ、力感のないフォームができたので。そう考えたら、やっぱり3回戦が色んな意味で一番いい試合でした」
ところでこの夏、馬庭はいかに覚醒したのか。
中学時代は超無名…なぜ大社に?
小学1年から所属した、地元・出雲市の少年野球チーム「高松野球スポーツ少年団」では、1学年上で、昨年ヤクルトから育成指名された髙野颯太らとともに主力となり、出雲市内の大会で優勝するなど、一定の結果を残した。
中学は、地元の公立中に進まず、私立の出雲北陵中へ。指導者から「野球と勉強が両立できる環境」と熱烈なアプローチを受け、心がほだされたのが決め手だった。当時の出雲北陵中の部員は、馬庭曰く「11か10人」。ギリギリ試合ができる人数だった。エースの馬庭が試合を作っても勝ちきれないケースが多く、公式戦で上位に顔を出すことはなかった。
3学年上の姉・歩未さんが大社でマネージャーだった縁もあって進学すると、1年春からベンチ入り。2年秋からはエースとなったが、中学時代に公式戦で勝ち上がる機会が少なかったからか、投球の強弱の付け方に難があった。気迫を前面に出すことが持ち味である一方、あらゆる球を全力で投げてしまっていた。
昨秋までは完投した際の球数が、140球を超えることがほとんど。一番多い試合では9回で162球に上るなど、力みから無駄球が多くなるシーンが散見された。このことから、「夏の終盤は、馬庭くんの球数がかさんで、捕えられる場面が来る」と断言していた島根県内の指導者もいた。
今夏の県大会から激変…ウラ側
だが、今年の夏、島根大会で一変する。準々決勝の出雲商戦は125球、準決勝の開星戦は106球、決勝の石見智翠館戦は113球と、理想的な球数にまとめて大会の終盤3試合を連続で完投し、大社を32年ぶりの甲子園に導いたのだ。何が馬庭の投球を変えたのか。本人が解説する。
「体力を底上げしたり、打たせてとる練習も大切なんですけど、一番は経験と集中力。集中できていれば、試合中に疲れを感じない。疲れを感じないから投げ切れる。最後まで集中力を切らさないためにも、ピッチングにメリハリをつけないといけない。この夏から、バッターを見ながら投げられるようになりました」
とはいえ、酷暑によるダメージ、夏独特のプレッシャーもあったのだろう。島根大会決勝で最後の1球を投げた直後は、マウンドで膝から崩れ落ちた。
ワンテンポ遅れて、仲間たちの歓喜の輪に加わった馬庭に、閉会式後「相当疲労があったのではないか」と投げかけると、優勝の解放感もあったのか、こう本音をこぼした。
「7回ぐらいにピークが来て、なんとかギアを上げて踏ん張りました。でも、9回に追いつかれて、延長になってたら正直無理だったと思います」
あの神村学園戦「疲れよりも…」
その後、夏の甲子園で完投した試合の球数は、初戦の報徳学園戦は137球、2回戦の創成館戦は10回を投げて115球、早稲田実戦は11回で149球。球数は増えるも、心身の余裕が投球にメリハリを生んだ。そのテンポが野手の打撃と守備にリズムを生み、投打が噛み合った。
甲子園から帰郷して少し時間が経った今、この夏初めてリリーフで起用された神村学園との準々決勝時の疲労度について尋ねた。甲子園での試合後は一切言い訳をしなかったものの、今だから語れる話があるのではないかと思ってのことだった。
「疲れですか? まだ大丈夫でした。試合後にも言ったんですけど、天候が一番難しくて。雨降ってなかったら全然投げられたと思うんです。自分、結構下半身で投げるタイプなので、足に土がつくともう動かない。やっぱり足。そこがダメでしたし、その準備ができてなかった」
勝負の世界にタラレバが禁物なのは重々承知している。だが、もしあの日に雨が降っていなけ“れば”――。最後の夏に習得した「打者を見る投球」と、甲子園での3戦連続完投で手にした「力感のないフォーム」の相乗効果で、もっと先まで走り抜いたのではないか。
「なぜプロ志望届出さない?」
卒業後は、関東圏の大学で野球を続ける予定だ。夏の好投で、「大会ナンバーワン」「高卒プロも狙える」といった声も上がった。当然、馬庭本人の耳にも入っていたが、いたって冷静だ。
「プロは将来的に目指したい場所です。でも、まだ自分の能力では全然無理だと思うんで。もっと成長できる可能性がある場所に行って、そこでしっかりやってからプロになれたらと」
昨今の高校球児の受け答えは、驚くほど謙虚だ。自分を俯瞰し、ほどよく相手を立てる術も身につけていることが多い。馬庭も例外ではなく、甲子園中の取材対応を経て、島根大会時点よりも洗練された印象さえある。だが、プロ入りへの思いを述べた後にこぼした一言が、私の印象を改めさせた。
「やっぱり、恥はかきたくないじゃないですか。行って終わりの世界じゃないですし」
謙虚さという簡単な言葉でくくるべきではなかった。その世界にふさわしい実力が身についたと、自分自身で思えた時点で挑戦したい。そんな強烈な自我が、大舞台での活躍を支えていたのだ。そう思うと、準々決勝の敗戦後、馬庭が何重にもなった報道陣の輪の中で語った言葉も、少し見え方が変わる。
「今はすごく悔しいが、時間が経つにつれて、『最高の夏だったな』と思えるようになったらいいなと」
神村学園戦について語るときの向こうっ気が強い横顔と、将来について語る声色からすると、「最高の夏だった」と飲み込めるのは、もう少し先になるだろう。
🔥【U18アジア選手権】小倉監督「胸を張って最終ゲームを頑張りたい」韓国に敗戦も決勝へ意気込み
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4c57537a9eeba6b16f8a178befc0ac0e4de7f31
<U18アジア選手権:韓国1-0日本>◇7日◇スーパーラウンド◇台湾・新荘野球場
高校日本代表が韓国に敗れたが、大会規定による得失点率差で決勝進出を果たした。
先発で今夏甲子園V左腕、中崎琉生投手(3年=京都国際)は粘り強い投球で5回無失点で降板。両チーム無得点の6回に守備が乱れて均衡を破られたが、最少失点に踏みとどまった。だが打線は無得点に抑えられ、今大会初黒星を喫した。8日の決勝では台湾と対戦する。
◇ ◇ ◇
先発の中崎は味方守備に救われながら、粘り強い投球で投手戦に持ち込んだ。 3回、2者連続でヒヤッとする当たりを打ち上げられたが、右翼手の境亮陽外野手、左翼手の徳丸快晴外野手(ともに3年=大阪桐蔭)が好捕。この日初めての3者凡退に打ち取った。4回には満塁のピンチを招くも、相手6番打者を遊ゴロ併殺に仕留めて切り抜けた。強敵に5回3安打無失点と投手戦に持ち込んだ。
6回1死二塁で、試合が動いた。三盗に反応した捕手の三塁送球を、三塁手の山畑真南斗内野手(3年=明徳義塾)が捕球できず、走者を本塁に生還させた。これが決勝点になった。台湾、韓国と2勝1敗で並び、得失点率差(TQB)での決勝進出に、小倉全由監督(67)は「0点で終わってしまって、やっぱり勝ちたかった。あの点の取られ方はちょっともったいない。今日も負けましたが、胸を張って最終ゲームを頑張りたい」と意気込んだ。
和歌山東3-1紀 央 館・和 智 弁14-1初芝橋本(7回)
⚾今日の和歌山大会一次予選試合結果(初日 1回戦 上富田球場)
向 陽5x-4田 辺 工・神 島16-0有貴南連(5回)・市和歌山9xー2耐 久(7回)
⚾今日の兵庫大会試合結果(初日 1回戦)
明石トーカロ・・・川西緑台4-3東 播 磨・ 社 5-0尼 崎 工・三田学園9-0琴 丘(7回)
ウインク球場・・・姫 路 工7-5三田松聖(10回タイブレーク)・高 砂6-3三田西陵
G7スタジアム・・明 石 商10-0飾 磨(5回)・市 川5-0県 伊 丹
ベイコム球場・・・飾 磨 工13-9鳴 尾(10回タイブレーク)・柏 原5-4尼崎双星
淡路佐野球場・・・須磨翔風5-0彩星工科・加古川西10-8育 英
高砂球場・・・・・赤 穂10-9高 砂 南・西 宮 東2xー1尼崎小田
ちなみに今日は、2年前の夏の宿泊観戦で全試合雨天中止を喰らった岐阜県各務原市のプリニーの球場へ「あの夏の忘れ物」を取りに行きました・・・。
4時50分出発で5時08分の始発電車に乗車しても最寄りの蘇原駅に9時23分到着で球場まで約45分歩いて10時10分頃到着。岐阜は熱さ対策で9時から2試合なんで・・・。
14時前には終わるだろうとタカをくくって試合後近所の中華料理屋(ランチは15時まで)で食べるつもりがなかなかどうして・・・・・。
①中 津 商8xー7岐阜各務野 9:00?~11:22 5回終了整備中に入場
② 岐 山 8-4岐 阜 東 12:09 ~15:01
1試合目は最大5点差2試合目は7点差開いてコールドがチラつくも土俵際で踏ん張り9回まで観戦できました!!
その代償は大きく、昼ご飯は15時40分過ぎにようやく・・・ソースカツ丼を。
屋根のない球場で最高気温35、5度もあり風も微風で岐山の年配男性が試合終盤熱中症で???緊急搬送。
16時57分の電車で帰りたかったので、急いで昼ご飯食べて向かいの喫茶店でかき氷ほおばり駅まで小走り・・・と。
詳しいことは来月16日に『チーム宏鈴』誕生日が来るのでそっちに認めます!!
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(最終日 決勝戦 田辺SP球場)
☆☆☆ 10:00~ 和歌 山東-智弁和歌山
⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(2日目 1回戦 上富田球場)
09:00~ 農芸/笠田-和歌山高専
☆ 11:30~ 近大 新宮-和歌 山北
14:00~ 熊 野 -南部 龍神
⚾明日の兵庫大会組み合わせ(2日目 1回戦)
明石トーカロ球場
10:00~ 須磨友が丘-神港 学園
☆ 13:00~ 八 鹿 -滝 川 二
ウインク球場
10:00~ 武庫荘総合-神戸国際付
☆ 13:00~ 東洋大姫路-六甲アイランド
G7スタジアム
10:00~ 龍 野 -姫 路 西
13:00~ 神戸 弘陵- 西 脇
ベイコム球場
10:00~ 小 野 -北摂 三田
13:00~ 科学 技術- 津 名
淡路佐野球場
10:00~ 関西 学院-加古 川北
13:00~ 西 宮 北-西 脇 工
高砂球場
☆ 10:00~ 神 戸 一- 滝 川
☆ 13:00~ 尼崎 稲園-豊岡 総合
📝「なぜプロ志望届を出さない?」大社エース・馬庭優太が初めて明かす“進路の決断”…部員数ギリギリの中学野球部から“早稲田実を倒すまで”
https://news.yahoo.co.jp/articles/e7b9235887167936ce8266ac30304fecaed82c00?page=1
今夏の甲子園を驚かせた大社高校。なかでも注目されたのが、突如全国区に躍り出たエース馬庭優太である。神村学園戦は限界だったのか。プロ志望届は出すのか。9月上旬、現地記者が本人に尋ねた。
「馬庭投手ですか?」一躍有名人に
いたずらっぽい笑顔と声色だった。「少しはあるんですけど、馬庭“さん”に比べたら、全然です」
大社の主将で正捕手だった石原勇翔に、「甲子園から帰ってきて、街中を歩いていたら、気づかれるか」と尋ねたときの回答である。
女房役の一言を聞いた「馬庭“さん”」こと、大社のエース・馬庭優太は、「やめろって、もう……」とつぶやきながら、甲子園期間中よりも少し髪が伸びた頭をかいた。
「地域の皆さんから、すごく声をかけてもらっています。『馬庭投手ですか? 』みたいな質問の形が一番多いですかね。そのたびに、甲子園ベスト8まで勝ち進めたことを実感します」
10月に佐賀で開催予定の「国民スポーツ大会」への出場が決まっているが、話を聞いた9月初旬は学園祭が控えていた。学園祭が終わるまで3年生の練習参加は自由。夏の甲子園での戦いを終えて島根に戻り、束の間の休息期間である。
32年ぶりの出場、63年ぶりの白星、107年ぶり2勝、そして93年ぶりの8強進出。この夏、大社が勝ち進むたびに報じられる数字は、いずれもインパクトに満ちていた。
その勝ち上がりの中心にいたのが、馬庭だった。
甲子園中に…「こうして覚醒した」
背番号1の左腕は、報徳学園との初戦から3試合連続で先発完投。「今夏屈指の名勝負」との呼び声も高い早稲田実との3回戦では、延長11回を投げ抜き、最後は無死満塁からセンター前にサヨナラ打を放つという、投打にわたる活躍を見せた。
一塁に駆け出しながら、打球が二遊間を破る様子を見届けると、目に涙を浮かべながら、歓声にこたえるように両腕を広げた。本人曰く「なにも考えられなくて、自然とああいうポーズをとっていた」とのことだが、耳をつんざくような大歓声に包まれ、ナイター照明に照らされる姿は、神々しくさえあった。
「甲子園での4試合は、人生を変える4試合だったと思います。その中でも一番印象に残っているのが、早実戦。試合を重ねるごとに応援の声も増えて、バックネットの(観客の)皆さんも応援してくださっていたのが感じられました。そこで自分が打って決めて、あれだけの歓声をもらえたのがうれしかったです」
こう振り返り、「あと…」と付け加える。「ピッチングで一番手ごたえを感じたのも、この試合。2試合連続で(先発で)投げて疲れはあったんですけど、その疲れがあるからこそ、力感のないフォームができたので。そう考えたら、やっぱり3回戦が色んな意味で一番いい試合でした」
ところでこの夏、馬庭はいかに覚醒したのか。
中学時代は超無名…なぜ大社に?
小学1年から所属した、地元・出雲市の少年野球チーム「高松野球スポーツ少年団」では、1学年上で、昨年ヤクルトから育成指名された髙野颯太らとともに主力となり、出雲市内の大会で優勝するなど、一定の結果を残した。
中学は、地元の公立中に進まず、私立の出雲北陵中へ。指導者から「野球と勉強が両立できる環境」と熱烈なアプローチを受け、心がほだされたのが決め手だった。当時の出雲北陵中の部員は、馬庭曰く「11か10人」。ギリギリ試合ができる人数だった。エースの馬庭が試合を作っても勝ちきれないケースが多く、公式戦で上位に顔を出すことはなかった。
3学年上の姉・歩未さんが大社でマネージャーだった縁もあって進学すると、1年春からベンチ入り。2年秋からはエースとなったが、中学時代に公式戦で勝ち上がる機会が少なかったからか、投球の強弱の付け方に難があった。気迫を前面に出すことが持ち味である一方、あらゆる球を全力で投げてしまっていた。
昨秋までは完投した際の球数が、140球を超えることがほとんど。一番多い試合では9回で162球に上るなど、力みから無駄球が多くなるシーンが散見された。このことから、「夏の終盤は、馬庭くんの球数がかさんで、捕えられる場面が来る」と断言していた島根県内の指導者もいた。
今夏の県大会から激変…ウラ側
だが、今年の夏、島根大会で一変する。準々決勝の出雲商戦は125球、準決勝の開星戦は106球、決勝の石見智翠館戦は113球と、理想的な球数にまとめて大会の終盤3試合を連続で完投し、大社を32年ぶりの甲子園に導いたのだ。何が馬庭の投球を変えたのか。本人が解説する。
「体力を底上げしたり、打たせてとる練習も大切なんですけど、一番は経験と集中力。集中できていれば、試合中に疲れを感じない。疲れを感じないから投げ切れる。最後まで集中力を切らさないためにも、ピッチングにメリハリをつけないといけない。この夏から、バッターを見ながら投げられるようになりました」
とはいえ、酷暑によるダメージ、夏独特のプレッシャーもあったのだろう。島根大会決勝で最後の1球を投げた直後は、マウンドで膝から崩れ落ちた。
ワンテンポ遅れて、仲間たちの歓喜の輪に加わった馬庭に、閉会式後「相当疲労があったのではないか」と投げかけると、優勝の解放感もあったのか、こう本音をこぼした。
「7回ぐらいにピークが来て、なんとかギアを上げて踏ん張りました。でも、9回に追いつかれて、延長になってたら正直無理だったと思います」
あの神村学園戦「疲れよりも…」
その後、夏の甲子園で完投した試合の球数は、初戦の報徳学園戦は137球、2回戦の創成館戦は10回を投げて115球、早稲田実戦は11回で149球。球数は増えるも、心身の余裕が投球にメリハリを生んだ。そのテンポが野手の打撃と守備にリズムを生み、投打が噛み合った。
甲子園から帰郷して少し時間が経った今、この夏初めてリリーフで起用された神村学園との準々決勝時の疲労度について尋ねた。甲子園での試合後は一切言い訳をしなかったものの、今だから語れる話があるのではないかと思ってのことだった。
「疲れですか? まだ大丈夫でした。試合後にも言ったんですけど、天候が一番難しくて。雨降ってなかったら全然投げられたと思うんです。自分、結構下半身で投げるタイプなので、足に土がつくともう動かない。やっぱり足。そこがダメでしたし、その準備ができてなかった」
勝負の世界にタラレバが禁物なのは重々承知している。だが、もしあの日に雨が降っていなけ“れば”――。最後の夏に習得した「打者を見る投球」と、甲子園での3戦連続完投で手にした「力感のないフォーム」の相乗効果で、もっと先まで走り抜いたのではないか。
「なぜプロ志望届出さない?」
卒業後は、関東圏の大学で野球を続ける予定だ。夏の好投で、「大会ナンバーワン」「高卒プロも狙える」といった声も上がった。当然、馬庭本人の耳にも入っていたが、いたって冷静だ。
「プロは将来的に目指したい場所です。でも、まだ自分の能力では全然無理だと思うんで。もっと成長できる可能性がある場所に行って、そこでしっかりやってからプロになれたらと」
昨今の高校球児の受け答えは、驚くほど謙虚だ。自分を俯瞰し、ほどよく相手を立てる術も身につけていることが多い。馬庭も例外ではなく、甲子園中の取材対応を経て、島根大会時点よりも洗練された印象さえある。だが、プロ入りへの思いを述べた後にこぼした一言が、私の印象を改めさせた。
「やっぱり、恥はかきたくないじゃないですか。行って終わりの世界じゃないですし」
謙虚さという簡単な言葉でくくるべきではなかった。その世界にふさわしい実力が身についたと、自分自身で思えた時点で挑戦したい。そんな強烈な自我が、大舞台での活躍を支えていたのだ。そう思うと、準々決勝の敗戦後、馬庭が何重にもなった報道陣の輪の中で語った言葉も、少し見え方が変わる。
「今はすごく悔しいが、時間が経つにつれて、『最高の夏だったな』と思えるようになったらいいなと」
神村学園戦について語るときの向こうっ気が強い横顔と、将来について語る声色からすると、「最高の夏だった」と飲み込めるのは、もう少し先になるだろう。
🔥【U18アジア選手権】小倉監督「胸を張って最終ゲームを頑張りたい」韓国に敗戦も決勝へ意気込み
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4c57537a9eeba6b16f8a178befc0ac0e4de7f31
<U18アジア選手権:韓国1-0日本>◇7日◇スーパーラウンド◇台湾・新荘野球場
高校日本代表が韓国に敗れたが、大会規定による得失点率差で決勝進出を果たした。
先発で今夏甲子園V左腕、中崎琉生投手(3年=京都国際)は粘り強い投球で5回無失点で降板。両チーム無得点の6回に守備が乱れて均衡を破られたが、最少失点に踏みとどまった。だが打線は無得点に抑えられ、今大会初黒星を喫した。8日の決勝では台湾と対戦する。
◇ ◇ ◇
先発の中崎は味方守備に救われながら、粘り強い投球で投手戦に持ち込んだ。 3回、2者連続でヒヤッとする当たりを打ち上げられたが、右翼手の境亮陽外野手、左翼手の徳丸快晴外野手(ともに3年=大阪桐蔭)が好捕。この日初めての3者凡退に打ち取った。4回には満塁のピンチを招くも、相手6番打者を遊ゴロ併殺に仕留めて切り抜けた。強敵に5回3安打無失点と投手戦に持ち込んだ。
6回1死二塁で、試合が動いた。三盗に反応した捕手の三塁送球を、三塁手の山畑真南斗内野手(3年=明徳義塾)が捕球できず、走者を本塁に生還させた。これが決勝点になった。台湾、韓国と2勝1敗で並び、得失点率差(TQB)での決勝進出に、小倉全由監督(67)は「0点で終わってしまって、やっぱり勝ちたかった。あの点の取られ方はちょっともったいない。今日も負けましたが、胸を張って最終ゲームを頑張りたい」と意気込んだ。
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(7日目 準決勝 田辺SP球場)
☆ 10:00~ 和歌 山東-紀 央 館
☆ 13:00~ 初芝 橋本-智弁和歌山
⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(初日 1回戦 上富田球場)
09:00~ 向 陽 -田 辺 工
11:30~ 有貴南連合- 神 島
☆☆☆ 14:00~ 耐 久 -市和 歌山
⚾明日の兵庫大会組み合わせ(初日 1回戦)
明石トーカロ球場
09:00~ 東 播 磨-川西 緑台
11:30~ 尼 崎 工- 社
☆ 14:00~ 三田 学園- 琴 丘
ウインク球場
☆ 10:00~ 姫 路 工-三田 松聖
13:00~ 三田 西陵- 高 砂
G7スタジアム
☆☆ 10:00~ 明 石 商- 飾 磨
13:00~ 県 伊 丹- 市 川
ベイコム球場
10:00~ 飾 磨 工- 鳴 尾
13:00~ 尼崎 双星- 柏 原
淡路佐野球場
☆☆☆ 10:00~ 彩星 工科-須磨 翔風
13:00~ 育 英 -加古 川西
高砂球場
10:00~ 高 砂 南- 赤 穂
13:00~ 尼崎 小田-西 宮 東
💢高校野球 菰野の前監督に謹慎7カ月の処分 至近距離でのノック、約2時間ランニング、練習試合で相手のコールドスプレー拒否「そんなんいらん」
https://news.yahoo.co.jp/articles/70d31f49013bad00f05bf45edebce33ad46fdb8a
日本学生野球協会の診察室会議が6日、都内で開かれ、今夏の甲子園に出場した菰野の前監督に不適切指導と体罰と暴言、報告義務違反で7カ月の謹慎処分を科した。
今年6月8日の練習試合終了、野球部保護者から部長に前監督の部員への指導について文書で指摘。同16日に保護者と学校関係者で話し合い、出席した保護者に対して前監督は指摘を認めて謝罪していた。
その後、部員にアンケートを実施し複数部員から被害の申告があったという。校長が部員に聞き取りした内容では、昨年9月に約2時間のランニングを続けさせた事案や、3~4メートルの至近距離で1球、強いノックを打ち、部員の腕に当たったこともあったという。さらに他県で練習試合が行われた際、投手強襲の打球が右手に当たり、相手チームがコールドスプレーを持ってきて手当をしようとしたところ「そんなんいらん、早く投げろ」と発言。最終的に9回完投も「ふざけるな、なにしとるんやバカヤロウ」などの暴言があったという。
前監督の謹慎は6月17日~来年1月16日まで。すでに同校によって解任されている。今夏の甲子園は別の監督が指揮を取り、初戦の南陽工戦に勝利。2回戦では西日本短大付に敗れた。
💢高校野球 盛岡誠桜の校長に異例の無期謹慎処分 不祥事に対し高野連の調査要請を拒否 進言の野球部指導者を脅す
https://news.yahoo.co.jp/articles/78914cf13eebeae417af9bb2b03e4a56091e3c59
日本学生野球協会の審査室会議が6日、都内で開かれ、盛岡誠桜の校長が日本学生野球憲章違反で9月7日から無期謹慎の処分が下された。
同校長は県高野連などの複数回の調査要請を拒否し、野球部の指導者が調査・報告を進言するも頑なに拒否し、雇用の問題を匂わせ脅かすような発言もあったという。現在は教頭が代行して最高責任者を務めている。
「学生野球憲章には校長は指導者であり最高責任者。そのため事件があった場合は、校長が調査して県高野連に報告する義務がある」とし、「高野連の亀井へ任意。加盟するならば憲章を守る義務がある」と違反についての説明がなされた。
同校の硬式野球部を巡っては、複数の元部員による引退後の飲酒・喫煙、部員に対する監督の暴言やハラスメントが疑われ、日本高野連が複数回にわたり調査を要請。だが、不祥事の疑いに関する調査報告要請に応じなかったとして、日本学生野球協会が校長を謹慎処分にし、それに対して校長が処分の撤回を求めて会見するなど、騒動となっていた。
6月の会議では前副部長(今年2月盛岡誠桜を退職)が暴言や口止め、深夜の正座強要など、不適切行為や虚偽報告があったとして、除名の次に重い無期謹慎に。63歳の監督も「ぶっ殺すぞ」と腹部を叩くなど、暴力や暴言があったとして無期謹慎の次に重い2年間の謹慎処分が下されていた。
💢盛岡誠桜の校長が日本学生野球憲章違反で無期謹慎に 日本学生野球協会が高校7件を処分
https://news.yahoo.co.jp/articles/7abb997d98859030d0d62cb135ec505220b80268
日本学生野球協会は6日、都内で審査室会議を開き、高校7件の処分を決めた。
盛岡誠桜(岩手)の校長は「日本学生野球憲章上の指導者である校長の、日本学生野球憲章違反」として9月7日付で無期謹慎処分となる。
複数回の調査報告義務違反などがあった。尾上良宏理事は「憲章の根幹にかかわるところの認識があるにもかかわらず、そこへの拒絶が続いていました。拒絶への理由にも理解しがたいものがあった」とし、この日の処分内容についても「いろいろな議論がありました」とも明かした。
同校は昨年8月末に3年生部員(当時)の飲酒行為や野球部指導者による部員、一般生徒への暴言などが判明した。同校長(野球部長を兼任)は審査室から調査や報告を求められていたものの対応がなく、今年4月10日から1カ月半の謹慎となっていたが、さらにその後の報告提出もなく、5月25日から9月6日までの謹慎となっていた。
同校は5月10日に会見を開き、審査室の処分に対する不服申し立てをしたものの、学生野球協会への書面提出がなく、新たな証拠もないため、同協会は不服申し立てを棄却していた。この間、雇用上で脅迫ともとれる発言もあったと審査室は認識している。
同案件をめぐっては前副部長(退職済み)が「部内暴力や暴言、虚偽報告」などですでに無期謹慎処分になっており、監督も「部内での暴力、暴言、虚偽報告」で26年9月6日までの2年間の謹慎処分が下されている。同連盟では一般的に有期の謹慎処分は最長2年とみなしている。その他6件は以下の通り。
新潟工の監督は「入試制度にかかわる守秘義務違反」で8月5日から6カ月間の謹慎。
武生商工(福井)のコーチは「不適切発言と不適切指導(部内)」で5月23日から6カ月間の謹慎。
菰野(三重)の前監督は「不適切指導と体罰と暴言(部内)と報告義務違反」で6月17日から7カ月間の謹慎。
昴学園(三重)の監督は「体罰と不適切指導と暴言(部内)と報告義務違反」で7月24日から4カ月間の謹慎。
東大阪大柏原(大阪)の野球部長は「報告遅れと虚偽報告」で8月21日から3カ月間の謹慎。
立正大淞南(島根)のコーチは「体罰(部内)」で8月4日から1カ月間の謹慎。
📝センバツ初V・夏2回戦惜敗の健大高崎、23年前はボール1ダースとバット1本の同好会…空き地で草取りから
https://news.yahoo.co.jp/articles/5c8828d0ad5fb2dd8d45967cb50860317df7ee6b
史上8校目の春夏連覇をかけて甲子園に出場し、2回戦で惜敗した健大高崎高野球部の夏が終わった。チームは創部以来初めて、秋から夏の群馬県大会で3連覇を成し遂げ、春の選抜大会では県勢初優勝の快挙も果たした。全国有数の強豪に成長したが、生まれたのはわずか23年前。きっかけは、一人の1年生の働きかけだった。
小さな空き地で
2回戦で智弁学園に敗れ、アルプス席に向かってあいさつする健大高崎の選手たち(14日、甲子園で)=大金史典撮影
初代主将で現在は同部OB会長の倉持雄太さん(38)は共学化1年目の2001年に入学した。当然野球部はなく、「高校でもやりたい」と40人しかいない同級生の男子全員に声をかけた。半分が賛同して5月に同好会ができたが、学校がくれたのは野球ボール1ダースとバット1本、使われていない小さな空き地だけだった。
放課後に雑草を抜き、小石を拾った。塁を置いてダイヤモンドを作ってみたが入りきらず、二塁は少しマウンドに近づけた。
放課後は毎日キャッチボールやノック練習をしたが、経験者は4人だけ。同好会では大会にも出られず、仲間だけで和気あいあいと取り組んだ。ミスをしても誰も文句は言わなかった。
初の県大会は0―12
転機は1年後の4月。野球部に昇格し、現れたのが青柳博文監督だった。始業式後、教室で監督は言った。「甲子園を目指して厳しくやっていく」「まずは頭を丸めてこい」。
「遊びのつもりだった」と、監督の話の途中で部員の3分の1が教室を出て行ったが、残った部員は翌日、教室の床に新聞紙を敷いてバリカンで髪を刈った。
その日から練習は大きく変わった。青柳監督からは「一歩が遅い」と怒号が飛び、練習をボイコットする部員もいた。初出場した夏の県大会は初戦で0―12の七回コールド負け。ユニホームと校名入りのバッグが恥ずかしくなり、隠すようにバッグを自転車のカゴに載せた。
それでも、倉持さんたち1期生9人は最後まで続けた。3年の夏の県大会が終わると、青柳監督は泣きながら言った。「お前たちが作ってくれたからこの野球部がある。これから俺が強くしていくから、応援してくれ」
「OBと全員で取った勝利」
それから21年。チームは箱山遥人主将の「勝ちにこだわり泥くさく」という方針の下、選抜大会で優勝し、「弱い」と言われ続けた夏の県大会も9年ぶりに制した。夏の甲子園は2回戦敗退となったが、倉持さんは「重圧の中、春夏連続で甲子園に出たことに尊敬と感謝の気持ちでいっぱい。OBとして誇らしかった」とたたえた。
試合後、箱山主将は「野球部がなければこの仲間と出会っていなかった。(夏の県大会優勝は)OBの方々と全員で取った勝利。甲子園の舞台を全員で見ることができて良かった」と目を赤くした。そして、「健大高崎を夏の甲子園に行ける学校にできた。それを崩さずにいってほしい」と、倉持さんたちのように、後輩の活躍を願った。
☆ 10:00~ 和歌 山東-紀 央 館
☆ 13:00~ 初芝 橋本-智弁和歌山
⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(初日 1回戦 上富田球場)
09:00~ 向 陽 -田 辺 工
11:30~ 有貴南連合- 神 島
☆☆☆ 14:00~ 耐 久 -市和 歌山
⚾明日の兵庫大会組み合わせ(初日 1回戦)
明石トーカロ球場
09:00~ 東 播 磨-川西 緑台
11:30~ 尼 崎 工- 社
☆ 14:00~ 三田 学園- 琴 丘
ウインク球場
☆ 10:00~ 姫 路 工-三田 松聖
13:00~ 三田 西陵- 高 砂
G7スタジアム
☆☆ 10:00~ 明 石 商- 飾 磨
13:00~ 県 伊 丹- 市 川
ベイコム球場
10:00~ 飾 磨 工- 鳴 尾
13:00~ 尼崎 双星- 柏 原
淡路佐野球場
☆☆☆ 10:00~ 彩星 工科-須磨 翔風
13:00~ 育 英 -加古 川西
高砂球場
10:00~ 高 砂 南- 赤 穂
13:00~ 尼崎 小田-西 宮 東
💢高校野球 菰野の前監督に謹慎7カ月の処分 至近距離でのノック、約2時間ランニング、練習試合で相手のコールドスプレー拒否「そんなんいらん」
https://news.yahoo.co.jp/articles/70d31f49013bad00f05bf45edebce33ad46fdb8a
日本学生野球協会の診察室会議が6日、都内で開かれ、今夏の甲子園に出場した菰野の前監督に不適切指導と体罰と暴言、報告義務違反で7カ月の謹慎処分を科した。
今年6月8日の練習試合終了、野球部保護者から部長に前監督の部員への指導について文書で指摘。同16日に保護者と学校関係者で話し合い、出席した保護者に対して前監督は指摘を認めて謝罪していた。
その後、部員にアンケートを実施し複数部員から被害の申告があったという。校長が部員に聞き取りした内容では、昨年9月に約2時間のランニングを続けさせた事案や、3~4メートルの至近距離で1球、強いノックを打ち、部員の腕に当たったこともあったという。さらに他県で練習試合が行われた際、投手強襲の打球が右手に当たり、相手チームがコールドスプレーを持ってきて手当をしようとしたところ「そんなんいらん、早く投げろ」と発言。最終的に9回完投も「ふざけるな、なにしとるんやバカヤロウ」などの暴言があったという。
前監督の謹慎は6月17日~来年1月16日まで。すでに同校によって解任されている。今夏の甲子園は別の監督が指揮を取り、初戦の南陽工戦に勝利。2回戦では西日本短大付に敗れた。
💢高校野球 盛岡誠桜の校長に異例の無期謹慎処分 不祥事に対し高野連の調査要請を拒否 進言の野球部指導者を脅す
https://news.yahoo.co.jp/articles/78914cf13eebeae417af9bb2b03e4a56091e3c59
日本学生野球協会の審査室会議が6日、都内で開かれ、盛岡誠桜の校長が日本学生野球憲章違反で9月7日から無期謹慎の処分が下された。
同校長は県高野連などの複数回の調査要請を拒否し、野球部の指導者が調査・報告を進言するも頑なに拒否し、雇用の問題を匂わせ脅かすような発言もあったという。現在は教頭が代行して最高責任者を務めている。
「学生野球憲章には校長は指導者であり最高責任者。そのため事件があった場合は、校長が調査して県高野連に報告する義務がある」とし、「高野連の亀井へ任意。加盟するならば憲章を守る義務がある」と違反についての説明がなされた。
同校の硬式野球部を巡っては、複数の元部員による引退後の飲酒・喫煙、部員に対する監督の暴言やハラスメントが疑われ、日本高野連が複数回にわたり調査を要請。だが、不祥事の疑いに関する調査報告要請に応じなかったとして、日本学生野球協会が校長を謹慎処分にし、それに対して校長が処分の撤回を求めて会見するなど、騒動となっていた。
6月の会議では前副部長(今年2月盛岡誠桜を退職)が暴言や口止め、深夜の正座強要など、不適切行為や虚偽報告があったとして、除名の次に重い無期謹慎に。63歳の監督も「ぶっ殺すぞ」と腹部を叩くなど、暴力や暴言があったとして無期謹慎の次に重い2年間の謹慎処分が下されていた。
💢盛岡誠桜の校長が日本学生野球憲章違反で無期謹慎に 日本学生野球協会が高校7件を処分
https://news.yahoo.co.jp/articles/7abb997d98859030d0d62cb135ec505220b80268
日本学生野球協会は6日、都内で審査室会議を開き、高校7件の処分を決めた。
盛岡誠桜(岩手)の校長は「日本学生野球憲章上の指導者である校長の、日本学生野球憲章違反」として9月7日付で無期謹慎処分となる。
複数回の調査報告義務違反などがあった。尾上良宏理事は「憲章の根幹にかかわるところの認識があるにもかかわらず、そこへの拒絶が続いていました。拒絶への理由にも理解しがたいものがあった」とし、この日の処分内容についても「いろいろな議論がありました」とも明かした。
同校は昨年8月末に3年生部員(当時)の飲酒行為や野球部指導者による部員、一般生徒への暴言などが判明した。同校長(野球部長を兼任)は審査室から調査や報告を求められていたものの対応がなく、今年4月10日から1カ月半の謹慎となっていたが、さらにその後の報告提出もなく、5月25日から9月6日までの謹慎となっていた。
同校は5月10日に会見を開き、審査室の処分に対する不服申し立てをしたものの、学生野球協会への書面提出がなく、新たな証拠もないため、同協会は不服申し立てを棄却していた。この間、雇用上で脅迫ともとれる発言もあったと審査室は認識している。
同案件をめぐっては前副部長(退職済み)が「部内暴力や暴言、虚偽報告」などですでに無期謹慎処分になっており、監督も「部内での暴力、暴言、虚偽報告」で26年9月6日までの2年間の謹慎処分が下されている。同連盟では一般的に有期の謹慎処分は最長2年とみなしている。その他6件は以下の通り。
新潟工の監督は「入試制度にかかわる守秘義務違反」で8月5日から6カ月間の謹慎。
武生商工(福井)のコーチは「不適切発言と不適切指導(部内)」で5月23日から6カ月間の謹慎。
菰野(三重)の前監督は「不適切指導と体罰と暴言(部内)と報告義務違反」で6月17日から7カ月間の謹慎。
昴学園(三重)の監督は「体罰と不適切指導と暴言(部内)と報告義務違反」で7月24日から4カ月間の謹慎。
東大阪大柏原(大阪)の野球部長は「報告遅れと虚偽報告」で8月21日から3カ月間の謹慎。
立正大淞南(島根)のコーチは「体罰(部内)」で8月4日から1カ月間の謹慎。
📝センバツ初V・夏2回戦惜敗の健大高崎、23年前はボール1ダースとバット1本の同好会…空き地で草取りから
https://news.yahoo.co.jp/articles/5c8828d0ad5fb2dd8d45967cb50860317df7ee6b
史上8校目の春夏連覇をかけて甲子園に出場し、2回戦で惜敗した健大高崎高野球部の夏が終わった。チームは創部以来初めて、秋から夏の群馬県大会で3連覇を成し遂げ、春の選抜大会では県勢初優勝の快挙も果たした。全国有数の強豪に成長したが、生まれたのはわずか23年前。きっかけは、一人の1年生の働きかけだった。
小さな空き地で
2回戦で智弁学園に敗れ、アルプス席に向かってあいさつする健大高崎の選手たち(14日、甲子園で)=大金史典撮影
初代主将で現在は同部OB会長の倉持雄太さん(38)は共学化1年目の2001年に入学した。当然野球部はなく、「高校でもやりたい」と40人しかいない同級生の男子全員に声をかけた。半分が賛同して5月に同好会ができたが、学校がくれたのは野球ボール1ダースとバット1本、使われていない小さな空き地だけだった。
放課後に雑草を抜き、小石を拾った。塁を置いてダイヤモンドを作ってみたが入りきらず、二塁は少しマウンドに近づけた。
放課後は毎日キャッチボールやノック練習をしたが、経験者は4人だけ。同好会では大会にも出られず、仲間だけで和気あいあいと取り組んだ。ミスをしても誰も文句は言わなかった。
初の県大会は0―12
転機は1年後の4月。野球部に昇格し、現れたのが青柳博文監督だった。始業式後、教室で監督は言った。「甲子園を目指して厳しくやっていく」「まずは頭を丸めてこい」。
「遊びのつもりだった」と、監督の話の途中で部員の3分の1が教室を出て行ったが、残った部員は翌日、教室の床に新聞紙を敷いてバリカンで髪を刈った。
その日から練習は大きく変わった。青柳監督からは「一歩が遅い」と怒号が飛び、練習をボイコットする部員もいた。初出場した夏の県大会は初戦で0―12の七回コールド負け。ユニホームと校名入りのバッグが恥ずかしくなり、隠すようにバッグを自転車のカゴに載せた。
それでも、倉持さんたち1期生9人は最後まで続けた。3年の夏の県大会が終わると、青柳監督は泣きながら言った。「お前たちが作ってくれたからこの野球部がある。これから俺が強くしていくから、応援してくれ」
「OBと全員で取った勝利」
それから21年。チームは箱山遥人主将の「勝ちにこだわり泥くさく」という方針の下、選抜大会で優勝し、「弱い」と言われ続けた夏の県大会も9年ぶりに制した。夏の甲子園は2回戦敗退となったが、倉持さんは「重圧の中、春夏連続で甲子園に出たことに尊敬と感謝の気持ちでいっぱい。OBとして誇らしかった」とたたえた。
試合後、箱山主将は「野球部がなければこの仲間と出会っていなかった。(夏の県大会優勝は)OBの方々と全員で取った勝利。甲子園の舞台を全員で見ることができて良かった」と目を赤くした。そして、「健大高崎を夏の甲子園に行ける学校にできた。それを崩さずにいってほしい」と、倉持さんたちのように、後輩の活躍を願った。
10/14 秋季北信越大会1回戦第2試合 福井県営球場 北陸(福井①)-小松大谷(石川③) 13:05~14:55
第1話 地元北陸の意地と覚醒前の小松大谷・猛追劇
一二三四五六七八九十計HE
北 陸103000010 5112 竹田海、井黒-小矢
小松大谷001000003 4142 西川、古川-田西
第一試合 第三試合
敦賀気比5 松商学園
上 田 西1 星 稜
福井に初めて通ったのは2009年秋の県大会。それ以来、観戦や観光で不定期に足を運んだが、いつもお世話になっているのが特急・サンダーバード。
大阪-福井片道2時間で行けるので気楽に通っていたが、なんと来春(2024年3月)北陸新幹線が敦賀まで延伸され鵜影響を受け、サンダーバードは敦賀止まりとなってしまい、福井駅が遠くなってしまう・・・・・。
翌年4月に東尋坊日帰り旅行を企画しているので、それで実地検証して数年後に福井行の参考にしたいと考えつつ、今回の北信越大会はなぜかしら敦賀を使わず三国を使用。
さすがに遠すぎるし、初日の2試合のみ使用なんでここは来春(2024年)に東尋坊へレンタサイクルで通う時に球場を通りかかればよいと。
6時30分のサンダーバードに乗っても第1試合9時開始なんで絶対に間に合わない。やはり初日に福井県営そして2日目はレンタサイクルで福井フェニックスと考えていたが、あいにく初日は晴れ予報ながらも夜には雨が降り出し翌日は雨が断続的に降る予報、、、、、開き直って延泊してまだ見ぬ勝山の恐竜博物館に見学することも視野に入れての快晴の大阪を早朝旅立った。
福井駅は2018年国体もあり、北陸新幹線延伸とフィーバーが続き駅前の改装が進み来るたびにずいぶんハイカラな街に変貌した。
しかし、バスの車窓から見ると川を越えるとのどかな街並みが広がり、僕のお気に入りである『渕』のバス停も見え、ふち中央公園も明日行きたいがレンタサイクルでの到来は予報を見る限り絶望的で。。。。。
気を取り直して総合運動公園に到着。10月14日とは言え残暑はまだまだ厳しく晴れたら熱い!!
開幕試合は夏の甲子園出場校同士の対戦だが、地力に勝る敦賀気比がジワジワと上田西を突き放し横綱相撲で5-1と一蹴。フェニックス球場よりも進行が遅いようで第2試合は11時58分開始となった。
第2試合も注目の一戦。3期連続甲子園出場を目指す北陸ブレーブスが小松大谷とぶつかる。
小松大谷といえば。。。2021年夏の甲子園で高川学園相手にナイターの大乱戦で最後はライトが足を攣り直後にサヨナラ押し出し四球で敗戦した不運なチーム。
10年ほど前には星稜に夏の石川決勝で8-0から9回裏大逆転サヨナラ負けを喰らって話題となり、甲子園初出場時も鹿児島商工に5-6と逆転サヨナラ負けと。
しかし今回は後攻なんでサヨナラ負けはない!!しかし、このチームが翌年夏に神宮制覇&センバツ4強の星稜を下して甲子園で大阪桐蔭に夏初めて完封負けを喰らわすほどのチームになるとは誰が予想できただろうか!!!
アルプスでは北陸高校がブラスバンドの応援を繰り広げていた。敦賀気比・上田西・小松大谷は太鼓1つの応援だったが。たしか前回の北信越大会も北陸は谷津田監督時代ブラスバンドの応援があったはず。
試合は1回表北陸が1番・水野がライト前ヒットにエラーも絡んで無死2塁。林監督は定石通りバントのサインを出し3番・小矢のセンター犠飛であっさり先制。
その裏、小松大谷は2死から3番・山崎が内野安打を放つも打球が外野まで飛ばず無得点。
2回表北陸は2死からヒットを放ちジャブを出し、その裏小松大谷はエースの西川がレフト前ヒットを放つも大谷らしく?バントを決められず追い込まれしゃーなしに2-1からバスターエンドランをかますも三振。そして1塁走者も中途半端に飛び出し三振ゲッツーと相変わらず攻守に荒々しい野球だった。さらに2死から7番・ショックリーくんがエラーで出塁するもキャッチャーけん制タッチアウト!!たしかに高川学園戦と何も変わっていない。
3回表背番号14ながら9番ショートでスタメン出場の1年生高野がセンター前ヒットを放ち林監督の起用に応え、またもバントで送って2番・鳴海が8球粘って左中間タイムリーツーベースさらには3番・小矢が広い福井県営のライトスタンドにぶち込む2ランで4-0と突き放しコールドゲームが脳裏をよぎる。
しかし、鳥取城北も顔負けの惜敗魂を誇る小松大谷も引き下がらず、その裏2死から1~3番が3連打を放ち1点を返しなおも1・3塁。願わくば4番・田西にもう1本打って点差を縮めて試合を面白くしてほしかったが、フォークボールに三振で北陸がブラスバンドの応援を背に受け3期連続甲子園出場に向けて順調な滑り出しを見せた。
4回表北陸は追加点を奪うべく、1死から7番・澤田がレフト前ヒット。ここで打席には竹田海投手が入るので送りバントで2死2塁と形を作り得点ができずとも次の回は1番からの打順・・・と手堅く試合を作っていくと思われたが、林監督はフリーに打たせて3球三振。ならばと9番・高野1ボールから盗塁を仕掛けるも憤死と流れが小松大谷に傾きかねない拙攻。
やはりその裏、ヒット~送りバント~四球で1死1・2塁とピンチを招きジワジワ追い上げられたら4点差ひっくり返されての逆転負けもあり得る展開となったが、8番・東野はサードゴロ。9番・伊藤は2アウトなのになぜかしら1-1からバントをかましファール・・・結局セカンドゴロで無得点。
5回表2死ランナーなしから2番・鳴海が初球セーフティーバントとトリッキーな動きを見せ、ファールとなるも追い込まれてから普通に打ってレフト前ヒット。先ほど3ランホームランの小矢もライト前ヒットで続き4番・辻に回すが2ボールからサードゴロで3タコとなってしまい大ブレーキ。
その裏、小松大谷は1番・石浦がライトへツーベース。前の打席でツーベースを放った山本に送りバントのサインが出ても3点ビハインドなんで不思議ではなかったが、まさかのファーストフライでバント失敗・・・。直後に四球で1死1・2塁とピンチを招いた竹田海投手のギアがマックスに上がり4番・田西の2球目なんと・・・153kmの直球を投げ込んだが、追い込んでからレフト前ヒットで満塁。。。
ここらで1~2点返して盛り上げてくれると信じていたが、145kmそして147kmの剛速球でねじ伏せられて連続三振喰らい4-1のまま整備に入った。
やはり地元の利を活かして北陸が3ランホームランが効いて3点リードを保って主導権を握り前半を終えた。
しかし小松大谷も8安打放ち決して弱くはないチーム力を見せるが、いかんせんバントや走塁ミスが目立ち残塁9個と塁上賑わしているのだが・・・・・。
このままズルズル終わってもおかしくはない。北信越らしく5回終了1時間18分経過しており9回裏まで完了すれば2時間30分ペースとなる。
あとは両チームがどこで継投策に走るかそれともエースと心中するか・・・。なんとなく決め手を欠いているのでコールドの可能性は低いと思うが、、、
6回表北陸は1死から連打でチーム10安打として8番・竹田海がレフト線に微妙な打球を飛ばすも惜しくもファール。そして直後にファーストライナーゲッツーと球運にも見放された。
その裏負けじと大谷も先頭の7番・ショックリーくんが初球ライト前ヒットで全打席出塁と1年生ながらラッキーボーイ的存在となった。ここはバントで手堅く・・・と思ったら西野監督は初球バスターを命じてライトフライ。2死後に四球で4イニング連続得点圏に走者を出すもののサードゴロで無得点と空回りし続けてゲームセットの足音が近づきつつあった。
膠着状態を破るべく小松大谷は7回の守りを3人で切り抜け守備からリズムをつかんでその裏1死から2本のヒットとデッドボールで1死満塁!!ここがラストチャンスと思われたが、林監督はエースと心中覚悟で続投。7番・ショックリーくんはフォークに三振し8番・東野初球ショートゴロで万事休す。
8回表小松大谷はエース西川をファーストに回し2番手古川をマウンドへ。しかし先頭打者に四球を与え送り4番にバントで1死2塁と手堅く攻められ2死後6番・谷嵜にトドメのレフトタイムリーツーベースを喰らい4点差。さらにここから8球連続ボールで2死満塁。一気に試合を決めるべく林監督は9番に代打・高野を送り長打が出ればコールド圏内突入という大ピンチ・・・それでも西野監督はエース・西川の再登板はさせず古川に任せなんとかセンターフライでコールド回避。
北陸もなぜかしら8回から2番手・井黒をマウンドへ。背番号6ながら146kmの剛速球を投げ込むなど三振2つで危なげないピッチング!!
9回表もうコールドの心配もなく手加減せずに応援できる。
先頭打者のセカンド正面のゴロをお手玉するエラーで最後まで締まらない小松大谷・・・ここもバントで手堅く攻めてクリーンアップに託し1度はゴリ押し采配で失敗した教訓を活かして石橋を渡る林監督。
最後まで2番手古川が投げ切って最後の反撃。もう時計の針は14時を回ったし、今後の天気予報を考えてもある程度巻きにかかりたい。。。しかし、第3試合もロングゲームとなれば2018年福井国体以来のナイター観戦の色気が!!
9回裏3番・山崎がサードゴロに倒れもうアカンと思った矢先に4~6番が3連続長打で1点を返しなおも1死2・3塁。林監督はここでタイムを要求しまだ3点リードという余裕をもたせたのかもしれないが、7番・ショックリーくんの初球打ちはショートゴロ。点差を考えて内野は深く守っていたので3塁走者のホームインはやむを得ず1塁でアウトが欲しいのだが、途中出場の山内が正面のゴロを弾くエラーでオールセーフ。2点を返しなおも1死1・3塁・・・いつもサヨナラ負けしている小松大谷がもしかしたら・・・という気になった。
ここで打席は2番手投手の古川だったが西野監督はそのまあ打たせてセンター犠飛。ついに1点差に詰め寄りなおも2死1塁。代打・胡麻に長打が出れば4点差追いつくことになるが、最後はフルカウントからサードゴロで試合終了。
結局3ランホームランが効いてなんとか北陸が辛くも逃げ切った。気が付けば両軍合わせて25安打の大乱戦。小松大谷は伝統的にこういう試合が好きなんだろうか???
14残塁を喫し最後まで空回りし続けるかと思いきや最後の最後に怒涛の猛追劇。もう少し早くエンジンがかかっていたらこの試合分からなかった。
時計の針は14時30分を回っており遅い昼食となった。
第1試合は2時間11分だったが今度は2時間34分。
第3試合は15時15分開始予定とのこと。だんだん雲が広がりつつあったし、2時間ゲームをしてくれたら点灯するのではという期待が高まった。
しかし、ここ数年の星稜は北信越の王者となっておりどこがいてでも圧倒的な力を発揮する。古豪・松商学園が行く手を阻む構図になるかと思われたが序盤からKOされてフリーパス状態で5回で終わりかねない焦りが・・・それは次回の講釈で。
⚾今日の投手陣
チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 本塁打 犠打 犠飛 四球 死球 三振 失点 自責
北 陸 竹田海 7 36 128 11 0 1 0 3 1 8 1 1
北 陸 井 黒 2 10 42 3 0 0 1 0 0 2 3 3
小松大谷 西 川 7 39 95 10 1 2 1 0 0 1 4 3
小松大谷 古 川 2 11 36 1 0 2 0 3 0 0 1 1
(完)
🌟次回予告🌟
10/14 秋季北信越大会1回戦第3試合 福井県営球場 星稜(石川①)-松商学園(長野③)
第1話 地元北陸の意地と覚醒前の小松大谷・猛追劇
一二三四五六七八九十計HE
北 陸103000010 5112 竹田海、井黒-小矢
小松大谷001000003 4142 西川、古川-田西
第一試合 第三試合
敦賀気比5 松商学園
上 田 西1 星 稜
福井に初めて通ったのは2009年秋の県大会。それ以来、観戦や観光で不定期に足を運んだが、いつもお世話になっているのが特急・サンダーバード。
大阪-福井片道2時間で行けるので気楽に通っていたが、なんと来春(2024年3月)北陸新幹線が敦賀まで延伸され鵜影響を受け、サンダーバードは敦賀止まりとなってしまい、福井駅が遠くなってしまう・・・・・。
翌年4月に東尋坊日帰り旅行を企画しているので、それで実地検証して数年後に福井行の参考にしたいと考えつつ、今回の北信越大会はなぜかしら敦賀を使わず三国を使用。
さすがに遠すぎるし、初日の2試合のみ使用なんでここは来春(2024年)に東尋坊へレンタサイクルで通う時に球場を通りかかればよいと。
6時30分のサンダーバードに乗っても第1試合9時開始なんで絶対に間に合わない。やはり初日に福井県営そして2日目はレンタサイクルで福井フェニックスと考えていたが、あいにく初日は晴れ予報ながらも夜には雨が降り出し翌日は雨が断続的に降る予報、、、、、開き直って延泊してまだ見ぬ勝山の恐竜博物館に見学することも視野に入れての快晴の大阪を早朝旅立った。
福井駅は2018年国体もあり、北陸新幹線延伸とフィーバーが続き駅前の改装が進み来るたびにずいぶんハイカラな街に変貌した。
しかし、バスの車窓から見ると川を越えるとのどかな街並みが広がり、僕のお気に入りである『渕』のバス停も見え、ふち中央公園も明日行きたいがレンタサイクルでの到来は予報を見る限り絶望的で。。。。。
気を取り直して総合運動公園に到着。10月14日とは言え残暑はまだまだ厳しく晴れたら熱い!!
開幕試合は夏の甲子園出場校同士の対戦だが、地力に勝る敦賀気比がジワジワと上田西を突き放し横綱相撲で5-1と一蹴。フェニックス球場よりも進行が遅いようで第2試合は11時58分開始となった。
第2試合も注目の一戦。3期連続甲子園出場を目指す北陸ブレーブスが小松大谷とぶつかる。
小松大谷といえば。。。2021年夏の甲子園で高川学園相手にナイターの大乱戦で最後はライトが足を攣り直後にサヨナラ押し出し四球で敗戦した不運なチーム。
10年ほど前には星稜に夏の石川決勝で8-0から9回裏大逆転サヨナラ負けを喰らって話題となり、甲子園初出場時も鹿児島商工に5-6と逆転サヨナラ負けと。
しかし今回は後攻なんでサヨナラ負けはない!!しかし、このチームが翌年夏に神宮制覇&センバツ4強の星稜を下して甲子園で大阪桐蔭に夏初めて完封負けを喰らわすほどのチームになるとは誰が予想できただろうか!!!
アルプスでは北陸高校がブラスバンドの応援を繰り広げていた。敦賀気比・上田西・小松大谷は太鼓1つの応援だったが。たしか前回の北信越大会も北陸は谷津田監督時代ブラスバンドの応援があったはず。
試合は1回表北陸が1番・水野がライト前ヒットにエラーも絡んで無死2塁。林監督は定石通りバントのサインを出し3番・小矢のセンター犠飛であっさり先制。
その裏、小松大谷は2死から3番・山崎が内野安打を放つも打球が外野まで飛ばず無得点。
2回表北陸は2死からヒットを放ちジャブを出し、その裏小松大谷はエースの西川がレフト前ヒットを放つも大谷らしく?バントを決められず追い込まれしゃーなしに2-1からバスターエンドランをかますも三振。そして1塁走者も中途半端に飛び出し三振ゲッツーと相変わらず攻守に荒々しい野球だった。さらに2死から7番・ショックリーくんがエラーで出塁するもキャッチャーけん制タッチアウト!!たしかに高川学園戦と何も変わっていない。
3回表背番号14ながら9番ショートでスタメン出場の1年生高野がセンター前ヒットを放ち林監督の起用に応え、またもバントで送って2番・鳴海が8球粘って左中間タイムリーツーベースさらには3番・小矢が広い福井県営のライトスタンドにぶち込む2ランで4-0と突き放しコールドゲームが脳裏をよぎる。
しかし、鳥取城北も顔負けの惜敗魂を誇る小松大谷も引き下がらず、その裏2死から1~3番が3連打を放ち1点を返しなおも1・3塁。願わくば4番・田西にもう1本打って点差を縮めて試合を面白くしてほしかったが、フォークボールに三振で北陸がブラスバンドの応援を背に受け3期連続甲子園出場に向けて順調な滑り出しを見せた。
4回表北陸は追加点を奪うべく、1死から7番・澤田がレフト前ヒット。ここで打席には竹田海投手が入るので送りバントで2死2塁と形を作り得点ができずとも次の回は1番からの打順・・・と手堅く試合を作っていくと思われたが、林監督はフリーに打たせて3球三振。ならばと9番・高野1ボールから盗塁を仕掛けるも憤死と流れが小松大谷に傾きかねない拙攻。
やはりその裏、ヒット~送りバント~四球で1死1・2塁とピンチを招きジワジワ追い上げられたら4点差ひっくり返されての逆転負けもあり得る展開となったが、8番・東野はサードゴロ。9番・伊藤は2アウトなのになぜかしら1-1からバントをかましファール・・・結局セカンドゴロで無得点。
5回表2死ランナーなしから2番・鳴海が初球セーフティーバントとトリッキーな動きを見せ、ファールとなるも追い込まれてから普通に打ってレフト前ヒット。先ほど3ランホームランの小矢もライト前ヒットで続き4番・辻に回すが2ボールからサードゴロで3タコとなってしまい大ブレーキ。
その裏、小松大谷は1番・石浦がライトへツーベース。前の打席でツーベースを放った山本に送りバントのサインが出ても3点ビハインドなんで不思議ではなかったが、まさかのファーストフライでバント失敗・・・。直後に四球で1死1・2塁とピンチを招いた竹田海投手のギアがマックスに上がり4番・田西の2球目なんと・・・153kmの直球を投げ込んだが、追い込んでからレフト前ヒットで満塁。。。
ここらで1~2点返して盛り上げてくれると信じていたが、145kmそして147kmの剛速球でねじ伏せられて連続三振喰らい4-1のまま整備に入った。
やはり地元の利を活かして北陸が3ランホームランが効いて3点リードを保って主導権を握り前半を終えた。
しかし小松大谷も8安打放ち決して弱くはないチーム力を見せるが、いかんせんバントや走塁ミスが目立ち残塁9個と塁上賑わしているのだが・・・・・。
このままズルズル終わってもおかしくはない。北信越らしく5回終了1時間18分経過しており9回裏まで完了すれば2時間30分ペースとなる。
あとは両チームがどこで継投策に走るかそれともエースと心中するか・・・。なんとなく決め手を欠いているのでコールドの可能性は低いと思うが、、、
6回表北陸は1死から連打でチーム10安打として8番・竹田海がレフト線に微妙な打球を飛ばすも惜しくもファール。そして直後にファーストライナーゲッツーと球運にも見放された。
その裏負けじと大谷も先頭の7番・ショックリーくんが初球ライト前ヒットで全打席出塁と1年生ながらラッキーボーイ的存在となった。ここはバントで手堅く・・・と思ったら西野監督は初球バスターを命じてライトフライ。2死後に四球で4イニング連続得点圏に走者を出すもののサードゴロで無得点と空回りし続けてゲームセットの足音が近づきつつあった。
膠着状態を破るべく小松大谷は7回の守りを3人で切り抜け守備からリズムをつかんでその裏1死から2本のヒットとデッドボールで1死満塁!!ここがラストチャンスと思われたが、林監督はエースと心中覚悟で続投。7番・ショックリーくんはフォークに三振し8番・東野初球ショートゴロで万事休す。
8回表小松大谷はエース西川をファーストに回し2番手古川をマウンドへ。しかし先頭打者に四球を与え送り4番にバントで1死2塁と手堅く攻められ2死後6番・谷嵜にトドメのレフトタイムリーツーベースを喰らい4点差。さらにここから8球連続ボールで2死満塁。一気に試合を決めるべく林監督は9番に代打・高野を送り長打が出ればコールド圏内突入という大ピンチ・・・それでも西野監督はエース・西川の再登板はさせず古川に任せなんとかセンターフライでコールド回避。
北陸もなぜかしら8回から2番手・井黒をマウンドへ。背番号6ながら146kmの剛速球を投げ込むなど三振2つで危なげないピッチング!!
9回表もうコールドの心配もなく手加減せずに応援できる。
先頭打者のセカンド正面のゴロをお手玉するエラーで最後まで締まらない小松大谷・・・ここもバントで手堅く攻めてクリーンアップに託し1度はゴリ押し采配で失敗した教訓を活かして石橋を渡る林監督。
最後まで2番手古川が投げ切って最後の反撃。もう時計の針は14時を回ったし、今後の天気予報を考えてもある程度巻きにかかりたい。。。しかし、第3試合もロングゲームとなれば2018年福井国体以来のナイター観戦の色気が!!
9回裏3番・山崎がサードゴロに倒れもうアカンと思った矢先に4~6番が3連続長打で1点を返しなおも1死2・3塁。林監督はここでタイムを要求しまだ3点リードという余裕をもたせたのかもしれないが、7番・ショックリーくんの初球打ちはショートゴロ。点差を考えて内野は深く守っていたので3塁走者のホームインはやむを得ず1塁でアウトが欲しいのだが、途中出場の山内が正面のゴロを弾くエラーでオールセーフ。2点を返しなおも1死1・3塁・・・いつもサヨナラ負けしている小松大谷がもしかしたら・・・という気になった。
ここで打席は2番手投手の古川だったが西野監督はそのまあ打たせてセンター犠飛。ついに1点差に詰め寄りなおも2死1塁。代打・胡麻に長打が出れば4点差追いつくことになるが、最後はフルカウントからサードゴロで試合終了。
結局3ランホームランが効いてなんとか北陸が辛くも逃げ切った。気が付けば両軍合わせて25安打の大乱戦。小松大谷は伝統的にこういう試合が好きなんだろうか???
14残塁を喫し最後まで空回りし続けるかと思いきや最後の最後に怒涛の猛追劇。もう少し早くエンジンがかかっていたらこの試合分からなかった。
時計の針は14時30分を回っており遅い昼食となった。
第1試合は2時間11分だったが今度は2時間34分。
第3試合は15時15分開始予定とのこと。だんだん雲が広がりつつあったし、2時間ゲームをしてくれたら点灯するのではという期待が高まった。
しかし、ここ数年の星稜は北信越の王者となっておりどこがいてでも圧倒的な力を発揮する。古豪・松商学園が行く手を阻む構図になるかと思われたが序盤からKOされてフリーパス状態で5回で終わりかねない焦りが・・・それは次回の講釈で。
⚾今日の投手陣
チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 本塁打 犠打 犠飛 四球 死球 三振 失点 自責
北 陸 竹田海 7 36 128 11 0 1 0 3 1 8 1 1
北 陸 井 黒 2 10 42 3 0 0 1 0 0 2 3 3
小松大谷 西 川 7 39 95 10 1 2 1 0 0 1 4 3
小松大谷 古 川 2 11 36 1 0 2 0 3 0 0 1 1
(完)
🌟次回予告🌟
10/14 秋季北信越大会1回戦第3試合 福井県営球場 星稜(石川①)-松商学園(長野③)
📝第77回徳島県高等学校野球秋季大会組合せ
http://www.tk2.nmt.ne.jp/~tokushimakoyaren/77%E5%9B%9E%E7%A7%8B%E5%AD%A3_%E7%B5%84%E5%90%88%E3%81%9B%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89.pdf
鳴門オロナミンC球場が長期間の改装工事中のために、メインが「むつみスタジアム」に。アグリあなんは1度来場したので、この秋ぜひ蔵本に日帰りで行きたいと。
10月6日は和歌山二次予選最終日とかち合いますが、、、10時・13時30分とインターバルが長いし、予定のない9月29日にするか・・・。
天気予報や組み合わせなどじっくり吟味して高速バス予約します。
💢《甲子園優勝》京都国際・小牧憲継監督が語った本音「韓国語の校歌なんてどうでもいい。選手らのプレーを取り上げたって欲しい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/bd8d2865f5e75f25be04d1f6cef8a7675ae1a554
今夏の甲子園では、例年とは一風異なる現象が見られた。初優勝を果たした京都国際について、選手の活躍以上に「校歌」が注目されてしまったことだ。京都国際の小牧憲継監督(41)の複雑な胸中に、ノンフィクションライターの柳川悠二氏が迫った
関東第一(東東京)をタイブレークの末に破り、京都勢にとって68年ぶりとなる夏の日本一を達成した決勝からわずか3日――。名刹・東福寺にほど近い京都国際のグラウンドでは、新チームの練習が早くもスタートしていた。監督の小牧憲継は、怒気を含めながら、栄光の瞬間からの時間をこう振り返った。
「野球が下手くそだったあいつらが頑張って、せっかく日本一になったというのに、試合後は韓国語の校歌がどうのとか、韓国大統領がどうのとか、僕らからしたらどうでもいい報道ばかり。もっとこいつらのプレーを取り上げたって欲しいと思います。正直、むっちゃムカついていました」
エース・中崎琉生に2年生の西村一毅というふたりの好左腕を擁し、堅実な守備で全国制覇に向けて勝ち上がっていくなか、話題は韓国系民族学校にルーツを持つ同校の韓国語の校歌に集中した。試合の内容や球児のプレーとは何も関係のないことばかりが取り沙汰される異常な状況には、私も強い抵抗を覚えた。
小牧は同校の全校生徒約140人のうち、男子生徒の約9割を占める61人の野球部員を指導している。そんな優勝校の監督ともなれば、本心は違っても学校側のサポートに対する感謝の言葉を口にするものだ。ところが、小牧の口から漏れるのは、学校に対する諦めに近い負の感情ばかりだった。
「良くも悪くも、学校は野球部に対して無神経で、無頓着。日本語の校歌にして欲しいとスタッフが願っても実現しないですし、グラウンドだって広くして欲しいと頼んだところで学校は協力してくれない。はっきりいって、僕は学校が嫌いです」
報道陣に対しては会話のあとに必ず「オチ」をつけて笑いを誘ったかと思えば、学園との軋轢を生むような発言も辞さず、甲子園後の報道に率直な思いを語る。
4年前から「PLの校歌に変えたい」
小牧は数々の名将から可愛がられる指揮官でもある。たとえば、かつて熊本・秀岳館を率いて甲子園で3季連続でベスト4に進出し、今夏で県立岐阜商監督の勇退を決断した鍛治舎巧(73)や、歴代最多となる70勝を聖地であげている大阪桐蔭の西谷浩一(54)だ。小牧はそうした名将らとの交流の中で、甲子園で勝つ野球を学び、名門校と頻繁に練習試合を行うことで京都国際は力をつけてきた。
鍛治舎が退任の記者会見をした8月28日、県岐商の監督室で、優勝監督となった小牧の人柄について鍛治舎に訊ねた。
「とにかく一生懸命で、横浜(DeNA)に入団した森下(瑠大)くんをはじめ、左の好投手をチームとして育成することに長けている。あそこは練習試合ができないグラウンドなので、練習試合に誘うと、いつも岐阜まで飛んできてくれる。ああいう意欲のある若い監督が日本一になるのは嬉しいですね。これからの高校野球を牽引する存在になって欲しい」
小牧と初めて対面したのは2020年の秋季近畿大会だった。初の甲子園となる翌年のセンバツ出場を当確させた小牧に名刺を差し出すと、PLファンだという彼は私の著書『永遠のPL学園』(小学館刊)を読んでくれていた。
「PL学園の野球部はもう二度と再開しないんですか? 僕はあの校歌が大好きなんです。うちの校歌をPLの校歌に変えたいぐらい……」
京都国際の校歌が韓国語の歌詞であることは府内の高校野球関係者なら周知だった。順当にセンバツ出場が決まり、甲子園に校歌が流れればいろいろとハレーションが起きることは火を見るよりも明らかだった。
「しかも始まりがいきなり『東海(トンヘ、韓国基準で日本海を指す言葉)』ですからね。ネットが荒れること、間違いなしです」
まるで4年後の騒動を予見したような言葉である。以来、私は府内のいち強豪から甲子園常連校へと成り上がっていった京都国際と小牧の動向を追うようになっていた。
小牧が京都国際の監督に就任したのは2008年。それ以前から外部コーチとして指導に携わった小牧に当時を振り返ってもらうと、韓国系民族学校であるがゆえに心ない言動を受けた過去があったという。
💢京都国際・小牧憲継監督が明かした「名刺を捨てられたことも」「過去の謹慎処分」 前任の在日3世監督も語った「あの学校、環境でよくぞ……」
https://www.news-postseven.com/archives/20240905_1988616.html?DETAIL&_from=widget_related_pc
京都国際は2021年の春にセンバツで甲子園に初出場して以降、5度にわたって甲子園に出場し、今夏は初の日本一になった。監督の小牧憲継は言う。
「短期間でいきなり強くなったと思われるかもしれませんが、17年前に京都国際に来て、ずっと積み重ねてきたものがようやく結果に結びつくようになっただけやと思っています」
小牧と京都国際の縁は、25年前の高校時代まで遡る。1999年、京都国際の前身である韓国系民族学校の京都韓国学園に、野球部が創部された。京都成章の1年生野球部員だった小牧は同年夏、京都韓国学園戦に出場し、34対0で勝利した経験を持つ。
小牧が京都国際で指導を始めたのは、京都成章の同級生に京都韓国学園の中等部出身の選手がいたことがきっかけだった。その縁から、小牧は高校野球を引退した2001年夏以降、関西大に進学してからも時折、京都韓国学園で球児たちに野球を教えていたという。
京都韓国学園が経営難に陥ると、2004年に日本の一条校となって校名を変更した。小牧が京都国際の社会科教諭として採用されたのは2007年だ。
当時の野球部はPL学園のOBで、在日3世となる李崇史(リ・スンサ、現・長崎県の私立島原中央高校監督)が率いていた。小牧より2歳上の李が、関西大時代の小牧について振り返る。
「京都国際となり、日本の高校生が入学してくるようになったとはいえ、私が監督をしていた頃の京都国際は在日の子が多く、毎年、韓国からの留学生もいました」
その頃、京都国際の試合となると、観客席や相手ベンチから「助っ人外国人に頼りやがって!」というような心ない野次も飛んだという。
「留学生といっても、高校野球部の少ない韓国国内の競争に敗れた子ばかりで、身体能力は高いけれども、野球が下手な選手が多かった。そういう選手に対して大学生だった小牧は投げ出すことなく丁寧に技術指導し、高3の夏には立派な野球選手に育てていた。小牧の情熱と指導はチームの力になる。そこで彼が銀行に就職してからも、教師になれと誘ったんです」
「コンビニで夜間バイトしながらコーチ」
ところが、2008年に李による指導中の暴力が発覚し、日本学生野球協会から3か月の謹慎処分が下った。学校とも対立を深めた李は学校を離れた。
「学校からもより重い処分を言い渡されて、私は“やってられへん”と投げ出してしまった。銀行員を辞めてまで京都国際に来てくれた小牧を裏切る形となり、恨まれていても仕方ないんですが、私を頼って入学してくれた子たちを監督となった小牧が責任持って卒業まで指導してくれた。感謝しかありません」
京都国際のグラウンドはレフトが70m、センターとライトが60mという狭くて歪な形状をしていて、練習試合どころか、外野ノックもままならない。このハンデのある練習環境で、小牧は16年間の監督生活で11人のプロ野球選手を輩出した。李が言う。
「あの学校で、あの環境で、よくぞこの成績を残せた。『すごいな』の一言しか浮かびません」
小牧が脱サラして高校野球の指導者となった当時を振り返る。「僕は野球以外、なんの取り柄もない人間で、ATMの使い方を知らないのに銀行員になったぐらいなんです。1年目(2006年)の11月に退行し、翌年4月までは実家が経営するコンビニで夜間バイトをしながら、京都国際でコーチをしていました」
甲子園を目標に掲げるのではなく、大学や社会人まで長く野球を続けられる野球選手を育てることに重きを置く指導者としての姿勢は、李に教わったものだという。
「それはPLの教えでもあると思いますが、試合はいわば舞台発表の場という位置づけなんです。京都国際はグラウンドが狭いし、満足なチーム練習はできない。徹底的に個の技術を磨き、身体能力を高め、個の力を結集して試合で発表する。その舞台が甲子園であれば最高という考え方でした」
名刺を捨てられた
2008年の監督就任当初は選手勧誘も小牧が担当し、中学野球の現場にも足を運んだ。しかし、韓国の学校という先入観が先行し、勧誘しても相手にされないことが続いた。
「目の前で名刺を捨てられたこともありますし、高校野球関係者を集めた会合に僕だけ呼ばれないこともあった。チーム関係者や親御さんからしたら、こんな得体の知れない学校ですから(笑)、それも仕方なかったと思うんです。それでもひたすら通って誠意を見せ続けていたら、協力してくれる人が出てきた。中学野球関係者の方に言われた一言は今も心に残っています。『京都国際に(教え子を)預けるんちゃうぞ。信頼するお前に預けるんや』って」
京都国際の監督を辞めたくなることは幾度もあった。その度に、協力者のその言葉が浮かぶ。
「声を掛けて来てもらった以上、その生徒への指導を投げ出して、僕だけ他の条件の良い学校に移ることなんて絶対にできない。覚悟を持って来てもらう以上、こちらも覚悟を持って接しているつもりです」
報道陣の前では常にニコニコしている小牧も、曽根海成(現・広島)が主将を務めた2012年頃、練習試合中に曽根に暴力を振るい、3か月の謹慎処分を受けた過去がある。小牧にしてみれば、蒸し返されたくない話題だろう。だが、この件にも逃げずに向き合う。
「まだまだ選手のレベルが低く、曽根の実力だけが突出していたチームだったんです。試合中、仲間のミスに曽根がイライラして、自分の思い通りにいかないことにふて腐れた態度をとっていた。『お前がキャプテンとして下手なヤツらをカバーして、引っ張っていかんとあかんやろ』と、つい手が出てしまいました」
昭和の高校野球ならよく見かける光景かもしれないが、現代では許されない指導法だ。本人も「もちろん、今では生徒に手を上げることは絶対にない」と言う。
日本一を可能にした「指導者4人体制」
現在の京都国際は、2013年頃にコーチに就任した岩淵雄太(33)が、小牧に代わって選手勧誘を担当。そして小牧が野手、小牧の京都成章の同級生である部長の宮村貴大(41)が投手の育成を担当する。さらに昨春からは小牧よりも年配の男性コーチを寮監として招き、選手たちの父親代わりとして寮での生活基盤を支えている。
「4人の指導者が担当を完全に分担して指導にあたっています。日本一を達成できたひとつの要因ではあると思います」
この夏の京都国際はエース左腕の中崎琉生が初戦の北海道・札幌日大戦(7対3)と3回戦の福岡・西日本短大付戦(4対0)で完投し、やはり2年生左腕の西村一毅が2回戦の新潟産大付戦(4対0)と準々決勝の奈良・智弁学園戦(4対0)と2戦連続で完封した。ふたりの左腕が交互に先発・完投することでチームは勢いづいてきた。
そして準決勝・青森山田戦では西村が中崎を好リリーフして勝利を呼び込み、決勝・関東第一(東東京)戦では攻守に渡って大車輪の活躍を見せた。西村の覚醒――それは小牧をはじめ誰もが予想していなかったことだった。
📝京都国際の胴上げ投手・西村一毅 小牧監督の「プロ行きたいんか?」の問いに「公務員になりたい」 “米イップス”で実家に帰った過去と「優勝後の変化」
https://www.news-postseven.com/archives/20240905_1988619.html?DETAIL&_from=widget_related_pc
この夏、甲子園が生んだ最大のヒーローにして、日本一の立役者となったのが、2年生の左腕・西村一毅だった。2回戦の新潟産大付戦(4対0)と準々決勝の奈良・智弁学園戦(4対0)で完封し、決勝ではタイブレークに突入した10回表に代打で出場。先制のチャンスを広げる一打を放ち、その裏の守りで胴上げ投手になった。采配をズバリ的中させた監督の小牧憲継(41)は言う。
「西村はセンバツではベンチ外で、球速は130キロにも満たなかった。それが甲子園に来て140キロを出し、どこにそんな力を隠していたんやと思うぐらいに成長した。西村ってほんまに変なヤツなんです。今年の春から低反発バットが導入されるということで、去年の夏頃から、パワーをつけるため選手が寮で食べるご飯の量を1食800グラムに決めていた。練習量が多いので、食べないと摂取カロリーが消費カロリーに追いつかず、痩せ細っていくだけですから。ところが……」
ある時、小牧は細身の西村の異変に気付いた。「箸の先に米粒ふたつだけを乗っけて、それを見つめたまま2時間ほど動かないんです。食べたくても口にできない“米イップス”になってもうたんですよ(笑)。無理して食べるのがよほどつらかったんだと思います。すると『一度リラックスしたいので実家に帰らせてください』と。そんなヤツが1年後、胴上げ投手ですからね。
これまで本人に『プロに行きたいんか? それとも大学に行きたいんか?』と問うたりもしてきたんですけど、本人は『高校終わったら楽しく野球をやりたい』とか『公務員になりたい』とか言っていて……。ただ、決勝のあと、『もっとたくさん食べて体を作らないといけない』と言いだしたそうです。優勝投手になった経験が彼自身の意識を変えたのかもしれません」
「変わった子ばかり」だから勝てた
西村とは対照的に、将来プロに入るための道筋をしっかり考えているのが高校日本代表にも選出されたエース左腕の中崎琉生だ。プロ志望届は提出せず、國學院大學に進学して4年後のプロ入りを目指す。
「中崎には法政からも声がかかっていたんです。しかし、國學院の方がキャンパスとグラウンドの距離が近いらしく、移動時間が少ない分野球に集中できるという理由で國學院を選んだ。こういう考え方ができる選手も、うちでは珍しいですね」
京都国際に在籍する一学年約20人の球児たちは、個の能力を伸ばし、長く野球界で活躍する選手を育成しようという小牧らの志に共感し、彼らの指導を受けるために京都国際の門を叩いたのだ。
「将来、プロを約束されたような飛び抜けた選手はひとりもいないし、中学時代の実績も何もない子ばかり。西村のように変わった子ばかりなんです。だからこそ、彼らも入学にあたって元は韓国の学校だったとか、校歌が韓国語だとかは気にしないんでしょうね。甲子園に出場したいという意欲のある子、プロへの思いの強い子が入ってくれるようになったから、結果が伴い始めた。それやのに、学校の話題ばかりが先行するのはやっぱり納得できないですし、彼らの成し遂げたことを讃えて欲しい」
新チームの練習中、左翼70m、右翼60mという同校のグラウンドに、小牧の怒号が響いていた。
「常に甲子園で対戦するようなチームを想定して練習せな、日本一になんてなれへんねん」
低反発バットが導入され、今夏の甲子園でもロースコアの展開が圧倒的に増え、守備力と走力のあるチームこそ試合を優位に運べていた。そんな高校野球新時代の覇者になったとはいえ、余韻に浸る間もなく、新チームの選手たちと再び天下取りを目指す日常を小牧は取り戻していた。
📝高校野球に“新時代”、低反発バットで「強さ発揮しそうな3校」 公立高で期待持てるのは
https://news.yahoo.co.jp/articles/aa60a62eb8d8c2e23ec8d410b6c3a618a5c5e416?page=1
今年の高校野球最大のトピックと言えば新基準の金属バットの導入だろう。選手の安全面を考慮し、従来のバットよりも反発力が低く、芯も小さくなったと言われており、その影響もあって長打が激減。甲子園大会のホームラン数は春は3本(うちランニングホームラン1本)、夏は7本と金属バットが採用されてから最少の数字となった。
長打、ホームランが減るとより重要になってくるのは守備力と投手力だ。また攻撃面では機動力が使えることもポイントとなる。夏の甲子園優勝の京都国際(京都)、準優勝の関東第一(東東京)はまさにそれを体現したチームの代表例だったと言えそうだ。ではこの2チーム以外に新基準の金属バットで秋以降に強さを発揮するチームはあるのだろうか。これまでの戦いぶり、チームカラーなどから探ってみたいと思う。
まず真っ先に名前が挙がるのが明徳義塾(高知)だ。毎年守備については徹底的に鍛えられている印象が強く、今年もショートの山畑真南斗(3年)がその守備力の高さを買われてU18侍ジャパンに選出されている。夏の高知大会でも4試合で失策は3記録しているが、そのうち2つは捕手によるもので、内野と外野の失策はわずかに1だった。
攻撃面でも小技と機動力を駆使した野球が特徴で、夏の甲子園では初戦の鳥取城北(鳥取)戦で10安打、3犠打で7点を奪って快勝。続く3回戦では関東第一を相手にチャンスを生かしきれずに敗れたが、2対3と接戦を演じている。新チームも制球力の高い左腕の池崎安侍朗(2年)と、入学直後から正捕手に定着した里山楓馬(1年)のバッテリーが残っているのは大きなアドバンテージである。馬淵史郎監督も2002年夏以来となる甲子園制覇に意欲を見せており、その手堅い野球でまた頂点を奪う可能性はありそうだ。
続いて強さを発揮しそうなチームとなると創志学園(岡山)の名前が挙がる。東海大相模で春3回、夏1回の優勝を成し遂げた門馬敬治監督が2022年8月に就任。昨年秋の中国大会では準優勝を果たし、今年春のセンバツでも1勝をあげた。門馬監督の野球の特徴は負けに繋がる確率をいかに減らすかという点で、守備ではカバーリングやバックアップ、攻撃では走塁への意識の高さが徹底されている印象が強い。
春のセンバツ初戦の別海(北北海道)との試合でも4盗塁を決めて7点を奪い、守ってもノーエラーという見事な戦いぶりだった。今年のチームのレギュラーは3年生が中心だったが、ベンチ入りメンバーは2年生も多く、入学した時から門馬監督の指導を受けているという点でも、そのイズムが浸透してくる可能性は高い。近年の中国地区は広陵(広島)が完全な王者となっている印象が強いが、肩を並べる存在となることも十分に期待できるだろう。
夏の甲子園では県立校の大社(島根)がベスト8に進出して大きな話題となったが、同じ県立校で強さを発揮しそうなのが菰野(三重)だ。甲子園出場は春1回、夏3回とそこまで多くはないが、今年夏は初勝利もあげた。その強みは何と言っても投手育成にある。これまでも西勇輝(阪神)、田中法彦(元広島・現セガサミー)など毎年のように好投手を輩出しており、岡林勇希(中日)も高校時代は最速150キロを超える本格派として話題となっていた。
1人の投手に負担をかけず、複数の投手を上手く起用しながら戦う運用が確立されており、そのやり方を知って進学する投手も多いという。夏の甲子園でも栄田人逢(2年)が南陽工(山口)を相手に見事なピッチングを見せてチームを勝利に導いた。また今年のチームはレギュラー全員が2年生であり、甲子園を経験したことは大きなプラスである。秋以降、東海地区を牽引していく可能性はありそうだ。
他では菰野と同じく投手育成に定評のある報徳学園(兵庫)、霞ヶ浦(茨城)、さらにセンバツ優勝の健大高崎(群馬)などももちろん有力なチームとなるだろう。ただ長打が出ないからといって、極端なスモールベースボールになってしまうと、その先のカテゴリーで苦労する選手が増え、日本の野球界全体のレベルが下がることに繋がる危険性もある。そういう意味でも、新基準の金属バットでも打撃を売りにするチームが出てくることも期待したい。
http://www.tk2.nmt.ne.jp/~tokushimakoyaren/77%E5%9B%9E%E7%A7%8B%E5%AD%A3_%E7%B5%84%E5%90%88%E3%81%9B%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89.pdf
鳴門オロナミンC球場が長期間の改装工事中のために、メインが「むつみスタジアム」に。アグリあなんは1度来場したので、この秋ぜひ蔵本に日帰りで行きたいと。
10月6日は和歌山二次予選最終日とかち合いますが、、、10時・13時30分とインターバルが長いし、予定のない9月29日にするか・・・。
天気予報や組み合わせなどじっくり吟味して高速バス予約します。
💢《甲子園優勝》京都国際・小牧憲継監督が語った本音「韓国語の校歌なんてどうでもいい。選手らのプレーを取り上げたって欲しい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/bd8d2865f5e75f25be04d1f6cef8a7675ae1a554
今夏の甲子園では、例年とは一風異なる現象が見られた。初優勝を果たした京都国際について、選手の活躍以上に「校歌」が注目されてしまったことだ。京都国際の小牧憲継監督(41)の複雑な胸中に、ノンフィクションライターの柳川悠二氏が迫った
関東第一(東東京)をタイブレークの末に破り、京都勢にとって68年ぶりとなる夏の日本一を達成した決勝からわずか3日――。名刹・東福寺にほど近い京都国際のグラウンドでは、新チームの練習が早くもスタートしていた。監督の小牧憲継は、怒気を含めながら、栄光の瞬間からの時間をこう振り返った。
「野球が下手くそだったあいつらが頑張って、せっかく日本一になったというのに、試合後は韓国語の校歌がどうのとか、韓国大統領がどうのとか、僕らからしたらどうでもいい報道ばかり。もっとこいつらのプレーを取り上げたって欲しいと思います。正直、むっちゃムカついていました」
エース・中崎琉生に2年生の西村一毅というふたりの好左腕を擁し、堅実な守備で全国制覇に向けて勝ち上がっていくなか、話題は韓国系民族学校にルーツを持つ同校の韓国語の校歌に集中した。試合の内容や球児のプレーとは何も関係のないことばかりが取り沙汰される異常な状況には、私も強い抵抗を覚えた。
小牧は同校の全校生徒約140人のうち、男子生徒の約9割を占める61人の野球部員を指導している。そんな優勝校の監督ともなれば、本心は違っても学校側のサポートに対する感謝の言葉を口にするものだ。ところが、小牧の口から漏れるのは、学校に対する諦めに近い負の感情ばかりだった。
「良くも悪くも、学校は野球部に対して無神経で、無頓着。日本語の校歌にして欲しいとスタッフが願っても実現しないですし、グラウンドだって広くして欲しいと頼んだところで学校は協力してくれない。はっきりいって、僕は学校が嫌いです」
報道陣に対しては会話のあとに必ず「オチ」をつけて笑いを誘ったかと思えば、学園との軋轢を生むような発言も辞さず、甲子園後の報道に率直な思いを語る。
4年前から「PLの校歌に変えたい」
小牧は数々の名将から可愛がられる指揮官でもある。たとえば、かつて熊本・秀岳館を率いて甲子園で3季連続でベスト4に進出し、今夏で県立岐阜商監督の勇退を決断した鍛治舎巧(73)や、歴代最多となる70勝を聖地であげている大阪桐蔭の西谷浩一(54)だ。小牧はそうした名将らとの交流の中で、甲子園で勝つ野球を学び、名門校と頻繁に練習試合を行うことで京都国際は力をつけてきた。
鍛治舎が退任の記者会見をした8月28日、県岐商の監督室で、優勝監督となった小牧の人柄について鍛治舎に訊ねた。
「とにかく一生懸命で、横浜(DeNA)に入団した森下(瑠大)くんをはじめ、左の好投手をチームとして育成することに長けている。あそこは練習試合ができないグラウンドなので、練習試合に誘うと、いつも岐阜まで飛んできてくれる。ああいう意欲のある若い監督が日本一になるのは嬉しいですね。これからの高校野球を牽引する存在になって欲しい」
小牧と初めて対面したのは2020年の秋季近畿大会だった。初の甲子園となる翌年のセンバツ出場を当確させた小牧に名刺を差し出すと、PLファンだという彼は私の著書『永遠のPL学園』(小学館刊)を読んでくれていた。
「PL学園の野球部はもう二度と再開しないんですか? 僕はあの校歌が大好きなんです。うちの校歌をPLの校歌に変えたいぐらい……」
京都国際の校歌が韓国語の歌詞であることは府内の高校野球関係者なら周知だった。順当にセンバツ出場が決まり、甲子園に校歌が流れればいろいろとハレーションが起きることは火を見るよりも明らかだった。
「しかも始まりがいきなり『東海(トンヘ、韓国基準で日本海を指す言葉)』ですからね。ネットが荒れること、間違いなしです」
まるで4年後の騒動を予見したような言葉である。以来、私は府内のいち強豪から甲子園常連校へと成り上がっていった京都国際と小牧の動向を追うようになっていた。
小牧が京都国際の監督に就任したのは2008年。それ以前から外部コーチとして指導に携わった小牧に当時を振り返ってもらうと、韓国系民族学校であるがゆえに心ない言動を受けた過去があったという。
💢京都国際・小牧憲継監督が明かした「名刺を捨てられたことも」「過去の謹慎処分」 前任の在日3世監督も語った「あの学校、環境でよくぞ……」
https://www.news-postseven.com/archives/20240905_1988616.html?DETAIL&_from=widget_related_pc
京都国際は2021年の春にセンバツで甲子園に初出場して以降、5度にわたって甲子園に出場し、今夏は初の日本一になった。監督の小牧憲継は言う。
「短期間でいきなり強くなったと思われるかもしれませんが、17年前に京都国際に来て、ずっと積み重ねてきたものがようやく結果に結びつくようになっただけやと思っています」
小牧と京都国際の縁は、25年前の高校時代まで遡る。1999年、京都国際の前身である韓国系民族学校の京都韓国学園に、野球部が創部された。京都成章の1年生野球部員だった小牧は同年夏、京都韓国学園戦に出場し、34対0で勝利した経験を持つ。
小牧が京都国際で指導を始めたのは、京都成章の同級生に京都韓国学園の中等部出身の選手がいたことがきっかけだった。その縁から、小牧は高校野球を引退した2001年夏以降、関西大に進学してからも時折、京都韓国学園で球児たちに野球を教えていたという。
京都韓国学園が経営難に陥ると、2004年に日本の一条校となって校名を変更した。小牧が京都国際の社会科教諭として採用されたのは2007年だ。
当時の野球部はPL学園のOBで、在日3世となる李崇史(リ・スンサ、現・長崎県の私立島原中央高校監督)が率いていた。小牧より2歳上の李が、関西大時代の小牧について振り返る。
「京都国際となり、日本の高校生が入学してくるようになったとはいえ、私が監督をしていた頃の京都国際は在日の子が多く、毎年、韓国からの留学生もいました」
その頃、京都国際の試合となると、観客席や相手ベンチから「助っ人外国人に頼りやがって!」というような心ない野次も飛んだという。
「留学生といっても、高校野球部の少ない韓国国内の競争に敗れた子ばかりで、身体能力は高いけれども、野球が下手な選手が多かった。そういう選手に対して大学生だった小牧は投げ出すことなく丁寧に技術指導し、高3の夏には立派な野球選手に育てていた。小牧の情熱と指導はチームの力になる。そこで彼が銀行に就職してからも、教師になれと誘ったんです」
「コンビニで夜間バイトしながらコーチ」
ところが、2008年に李による指導中の暴力が発覚し、日本学生野球協会から3か月の謹慎処分が下った。学校とも対立を深めた李は学校を離れた。
「学校からもより重い処分を言い渡されて、私は“やってられへん”と投げ出してしまった。銀行員を辞めてまで京都国際に来てくれた小牧を裏切る形となり、恨まれていても仕方ないんですが、私を頼って入学してくれた子たちを監督となった小牧が責任持って卒業まで指導してくれた。感謝しかありません」
京都国際のグラウンドはレフトが70m、センターとライトが60mという狭くて歪な形状をしていて、練習試合どころか、外野ノックもままならない。このハンデのある練習環境で、小牧は16年間の監督生活で11人のプロ野球選手を輩出した。李が言う。
「あの学校で、あの環境で、よくぞこの成績を残せた。『すごいな』の一言しか浮かびません」
小牧が脱サラして高校野球の指導者となった当時を振り返る。「僕は野球以外、なんの取り柄もない人間で、ATMの使い方を知らないのに銀行員になったぐらいなんです。1年目(2006年)の11月に退行し、翌年4月までは実家が経営するコンビニで夜間バイトをしながら、京都国際でコーチをしていました」
甲子園を目標に掲げるのではなく、大学や社会人まで長く野球を続けられる野球選手を育てることに重きを置く指導者としての姿勢は、李に教わったものだという。
「それはPLの教えでもあると思いますが、試合はいわば舞台発表の場という位置づけなんです。京都国際はグラウンドが狭いし、満足なチーム練習はできない。徹底的に個の技術を磨き、身体能力を高め、個の力を結集して試合で発表する。その舞台が甲子園であれば最高という考え方でした」
名刺を捨てられた
2008年の監督就任当初は選手勧誘も小牧が担当し、中学野球の現場にも足を運んだ。しかし、韓国の学校という先入観が先行し、勧誘しても相手にされないことが続いた。
「目の前で名刺を捨てられたこともありますし、高校野球関係者を集めた会合に僕だけ呼ばれないこともあった。チーム関係者や親御さんからしたら、こんな得体の知れない学校ですから(笑)、それも仕方なかったと思うんです。それでもひたすら通って誠意を見せ続けていたら、協力してくれる人が出てきた。中学野球関係者の方に言われた一言は今も心に残っています。『京都国際に(教え子を)預けるんちゃうぞ。信頼するお前に預けるんや』って」
京都国際の監督を辞めたくなることは幾度もあった。その度に、協力者のその言葉が浮かぶ。
「声を掛けて来てもらった以上、その生徒への指導を投げ出して、僕だけ他の条件の良い学校に移ることなんて絶対にできない。覚悟を持って来てもらう以上、こちらも覚悟を持って接しているつもりです」
報道陣の前では常にニコニコしている小牧も、曽根海成(現・広島)が主将を務めた2012年頃、練習試合中に曽根に暴力を振るい、3か月の謹慎処分を受けた過去がある。小牧にしてみれば、蒸し返されたくない話題だろう。だが、この件にも逃げずに向き合う。
「まだまだ選手のレベルが低く、曽根の実力だけが突出していたチームだったんです。試合中、仲間のミスに曽根がイライラして、自分の思い通りにいかないことにふて腐れた態度をとっていた。『お前がキャプテンとして下手なヤツらをカバーして、引っ張っていかんとあかんやろ』と、つい手が出てしまいました」
昭和の高校野球ならよく見かける光景かもしれないが、現代では許されない指導法だ。本人も「もちろん、今では生徒に手を上げることは絶対にない」と言う。
日本一を可能にした「指導者4人体制」
現在の京都国際は、2013年頃にコーチに就任した岩淵雄太(33)が、小牧に代わって選手勧誘を担当。そして小牧が野手、小牧の京都成章の同級生である部長の宮村貴大(41)が投手の育成を担当する。さらに昨春からは小牧よりも年配の男性コーチを寮監として招き、選手たちの父親代わりとして寮での生活基盤を支えている。
「4人の指導者が担当を完全に分担して指導にあたっています。日本一を達成できたひとつの要因ではあると思います」
この夏の京都国際はエース左腕の中崎琉生が初戦の北海道・札幌日大戦(7対3)と3回戦の福岡・西日本短大付戦(4対0)で完投し、やはり2年生左腕の西村一毅が2回戦の新潟産大付戦(4対0)と準々決勝の奈良・智弁学園戦(4対0)と2戦連続で完封した。ふたりの左腕が交互に先発・完投することでチームは勢いづいてきた。
そして準決勝・青森山田戦では西村が中崎を好リリーフして勝利を呼び込み、決勝・関東第一(東東京)戦では攻守に渡って大車輪の活躍を見せた。西村の覚醒――それは小牧をはじめ誰もが予想していなかったことだった。
📝京都国際の胴上げ投手・西村一毅 小牧監督の「プロ行きたいんか?」の問いに「公務員になりたい」 “米イップス”で実家に帰った過去と「優勝後の変化」
https://www.news-postseven.com/archives/20240905_1988619.html?DETAIL&_from=widget_related_pc
この夏、甲子園が生んだ最大のヒーローにして、日本一の立役者となったのが、2年生の左腕・西村一毅だった。2回戦の新潟産大付戦(4対0)と準々決勝の奈良・智弁学園戦(4対0)で完封し、決勝ではタイブレークに突入した10回表に代打で出場。先制のチャンスを広げる一打を放ち、その裏の守りで胴上げ投手になった。采配をズバリ的中させた監督の小牧憲継(41)は言う。
「西村はセンバツではベンチ外で、球速は130キロにも満たなかった。それが甲子園に来て140キロを出し、どこにそんな力を隠していたんやと思うぐらいに成長した。西村ってほんまに変なヤツなんです。今年の春から低反発バットが導入されるということで、去年の夏頃から、パワーをつけるため選手が寮で食べるご飯の量を1食800グラムに決めていた。練習量が多いので、食べないと摂取カロリーが消費カロリーに追いつかず、痩せ細っていくだけですから。ところが……」
ある時、小牧は細身の西村の異変に気付いた。「箸の先に米粒ふたつだけを乗っけて、それを見つめたまま2時間ほど動かないんです。食べたくても口にできない“米イップス”になってもうたんですよ(笑)。無理して食べるのがよほどつらかったんだと思います。すると『一度リラックスしたいので実家に帰らせてください』と。そんなヤツが1年後、胴上げ投手ですからね。
これまで本人に『プロに行きたいんか? それとも大学に行きたいんか?』と問うたりもしてきたんですけど、本人は『高校終わったら楽しく野球をやりたい』とか『公務員になりたい』とか言っていて……。ただ、決勝のあと、『もっとたくさん食べて体を作らないといけない』と言いだしたそうです。優勝投手になった経験が彼自身の意識を変えたのかもしれません」
「変わった子ばかり」だから勝てた
西村とは対照的に、将来プロに入るための道筋をしっかり考えているのが高校日本代表にも選出されたエース左腕の中崎琉生だ。プロ志望届は提出せず、國學院大學に進学して4年後のプロ入りを目指す。
「中崎には法政からも声がかかっていたんです。しかし、國學院の方がキャンパスとグラウンドの距離が近いらしく、移動時間が少ない分野球に集中できるという理由で國學院を選んだ。こういう考え方ができる選手も、うちでは珍しいですね」
京都国際に在籍する一学年約20人の球児たちは、個の能力を伸ばし、長く野球界で活躍する選手を育成しようという小牧らの志に共感し、彼らの指導を受けるために京都国際の門を叩いたのだ。
「将来、プロを約束されたような飛び抜けた選手はひとりもいないし、中学時代の実績も何もない子ばかり。西村のように変わった子ばかりなんです。だからこそ、彼らも入学にあたって元は韓国の学校だったとか、校歌が韓国語だとかは気にしないんでしょうね。甲子園に出場したいという意欲のある子、プロへの思いの強い子が入ってくれるようになったから、結果が伴い始めた。それやのに、学校の話題ばかりが先行するのはやっぱり納得できないですし、彼らの成し遂げたことを讃えて欲しい」
新チームの練習中、左翼70m、右翼60mという同校のグラウンドに、小牧の怒号が響いていた。
「常に甲子園で対戦するようなチームを想定して練習せな、日本一になんてなれへんねん」
低反発バットが導入され、今夏の甲子園でもロースコアの展開が圧倒的に増え、守備力と走力のあるチームこそ試合を優位に運べていた。そんな高校野球新時代の覇者になったとはいえ、余韻に浸る間もなく、新チームの選手たちと再び天下取りを目指す日常を小牧は取り戻していた。
📝高校野球に“新時代”、低反発バットで「強さ発揮しそうな3校」 公立高で期待持てるのは
https://news.yahoo.co.jp/articles/aa60a62eb8d8c2e23ec8d410b6c3a618a5c5e416?page=1
今年の高校野球最大のトピックと言えば新基準の金属バットの導入だろう。選手の安全面を考慮し、従来のバットよりも反発力が低く、芯も小さくなったと言われており、その影響もあって長打が激減。甲子園大会のホームラン数は春は3本(うちランニングホームラン1本)、夏は7本と金属バットが採用されてから最少の数字となった。
長打、ホームランが減るとより重要になってくるのは守備力と投手力だ。また攻撃面では機動力が使えることもポイントとなる。夏の甲子園優勝の京都国際(京都)、準優勝の関東第一(東東京)はまさにそれを体現したチームの代表例だったと言えそうだ。ではこの2チーム以外に新基準の金属バットで秋以降に強さを発揮するチームはあるのだろうか。これまでの戦いぶり、チームカラーなどから探ってみたいと思う。
まず真っ先に名前が挙がるのが明徳義塾(高知)だ。毎年守備については徹底的に鍛えられている印象が強く、今年もショートの山畑真南斗(3年)がその守備力の高さを買われてU18侍ジャパンに選出されている。夏の高知大会でも4試合で失策は3記録しているが、そのうち2つは捕手によるもので、内野と外野の失策はわずかに1だった。
攻撃面でも小技と機動力を駆使した野球が特徴で、夏の甲子園では初戦の鳥取城北(鳥取)戦で10安打、3犠打で7点を奪って快勝。続く3回戦では関東第一を相手にチャンスを生かしきれずに敗れたが、2対3と接戦を演じている。新チームも制球力の高い左腕の池崎安侍朗(2年)と、入学直後から正捕手に定着した里山楓馬(1年)のバッテリーが残っているのは大きなアドバンテージである。馬淵史郎監督も2002年夏以来となる甲子園制覇に意欲を見せており、その手堅い野球でまた頂点を奪う可能性はありそうだ。
続いて強さを発揮しそうなチームとなると創志学園(岡山)の名前が挙がる。東海大相模で春3回、夏1回の優勝を成し遂げた門馬敬治監督が2022年8月に就任。昨年秋の中国大会では準優勝を果たし、今年春のセンバツでも1勝をあげた。門馬監督の野球の特徴は負けに繋がる確率をいかに減らすかという点で、守備ではカバーリングやバックアップ、攻撃では走塁への意識の高さが徹底されている印象が強い。
春のセンバツ初戦の別海(北北海道)との試合でも4盗塁を決めて7点を奪い、守ってもノーエラーという見事な戦いぶりだった。今年のチームのレギュラーは3年生が中心だったが、ベンチ入りメンバーは2年生も多く、入学した時から門馬監督の指導を受けているという点でも、そのイズムが浸透してくる可能性は高い。近年の中国地区は広陵(広島)が完全な王者となっている印象が強いが、肩を並べる存在となることも十分に期待できるだろう。
夏の甲子園では県立校の大社(島根)がベスト8に進出して大きな話題となったが、同じ県立校で強さを発揮しそうなのが菰野(三重)だ。甲子園出場は春1回、夏3回とそこまで多くはないが、今年夏は初勝利もあげた。その強みは何と言っても投手育成にある。これまでも西勇輝(阪神)、田中法彦(元広島・現セガサミー)など毎年のように好投手を輩出しており、岡林勇希(中日)も高校時代は最速150キロを超える本格派として話題となっていた。
1人の投手に負担をかけず、複数の投手を上手く起用しながら戦う運用が確立されており、そのやり方を知って進学する投手も多いという。夏の甲子園でも栄田人逢(2年)が南陽工(山口)を相手に見事なピッチングを見せてチームを勝利に導いた。また今年のチームはレギュラー全員が2年生であり、甲子園を経験したことは大きなプラスである。秋以降、東海地区を牽引していく可能性はありそうだ。
他では菰野と同じく投手育成に定評のある報徳学園(兵庫)、霞ヶ浦(茨城)、さらにセンバツ優勝の健大高崎(群馬)などももちろん有力なチームとなるだろう。ただ長打が出ないからといって、極端なスモールベースボールになってしまうと、その先のカテゴリーで苦労する選手が増え、日本の野球界全体のレベルが下がることに繋がる危険性もある。そういう意味でも、新基準の金属バットでも打撃を売りにするチームが出てくることも期待したい。
📝令和6年度 秋季近畿地区高等学校野球大会 和歌山県一次予選 組み合わせ表
https://www.whbf.jp/uploads/20240904144351_YYVM.pdf
📝令和6年度秋季鳥取県高等学校野球大会(兼)第143回秋季中国地区高等学校野球大会鳥取県予選
https://tottori-hbf.jp/data/data-r6/ks-06-a_tottori.html
[期 日]9月14日(土)~ 9月16日(月・祝)・9月21日(土)・22日(日)・28日(土)
[会 場](鳥取市)ヤマタスポーツパーク野球場 (倉吉市)倉吉市営野球場
📝令和6年度島根県高等学校秋季野球大会 組み合わせ
https://shimanehbf.sakura.ne.jp/1780/
しかし、鳥取は2試合日10時スタートですが、島根は11時開始と。他府県もぜひ見習ってほしいのですが、、、
特に岐阜・三重あたりは!!
💢コールド勝ちも「何やってんだ!」 ベンチで飛んだ喝、侍J指揮官が1点に込めた“怒り”
https://news.yahoo.co.jp/articles/ffb0c7f8b830325937dbe889f8fd5e390e1b4ea2
今大会初失点…侍U-18代表・小倉全由監督から飛んだ“ゲキ”
指揮官から笑顔が消えた瞬間だった。台湾で開催されている「第13回 BFA U18アジア選手権」で、侍ジャパンU-18日本代表は3日、スリランカと対戦。20-1で5回コールド勝ちを収めた。オープニングラウンド2連勝で、6日からのスーパーラウンド進出を決めたが、小倉全由監督から珍しく“ゲキ”が飛んだ。
3点リードで迎えた3回、振り逃げと中前打、野選で1死満塁のピンチ。続く打者のゴロを、遊撃の花咲徳栄・石塚裕惺内野手(3年)が捕球したものの二塁へのトスが乱れた。この間に1点を許し、日本代表が今大会初失点を喫した。
「何やってんだ!」。1失点でしのぎ、ベンチに戻った選手に小倉全由監督からゲキが飛んだ。「点の取られ方がね……。何やってんだ! って言ったんですよ。0点に抑えなきゃいけないとか、そんなんじゃないだろって。アウトを取れるところをしっかりと伝えました」と、試合後に語った。
「自分のチームだったらもうちょっと大きい声出すんですけどね。そこは我慢しながらですけど、厳しくね」。笑いながら話したが、言葉には力強さがある。「力の差があるというのはアレですが、そういうチームとやる時に相手に1点でも取られてはいけない、何点差で勝たなきゃいけないと思いこんでしまうと、逆に自分たちが固くなってしまうんです」。名門・日大三を率いてきた知識と経験がそこにはあった。
二塁を守った健大高崎の高山裕次郎内野手(3年)も、試合中に声を荒らげる姿を見ることはなかったと話すほど、このチームでは珍しい場面だった。高山は小倉監督の指導について「野球の内容というよりも、試合に向かう姿勢などを学んでいます。とても参考にしています」と語る。
日大三の監督時代から笑顔が印象的な小倉監督。いつの時代も選手たちからの信頼は厚い。その理由のひとつが見えた気がする。
📝軟式史上最多Vの中京、常勝の鍵は 「延長50回」も制した伝統の力
https://news.yahoo.co.jp/articles/e0b6fee1f2ef8bffd39ec12db6c742c5c86a4a83
第69回全国高校軟式野球選手権大会を制した中京(東海・岐阜)が4日、岐阜県瑞浪市の同校で優勝報告会を開いた。大会史上初となる2度目の3連覇を達成、13度目の優勝回数も大会最多だ。なぜここまで勝ち続けられるのか。
「応援のお陰で史上初の2度目の3連覇を達成することができました。これから、この日本一の価値を高めるのも下げるのも自分たち次第です。気を引き締めてやっていきたい」
優勝報告会で3年生の清水隆之介主将は生徒や関係者らを前に支援への感謝を伝えた。
■「ワンチャンス」を手にするために
1991年に初優勝を果たしてから、大会最多となる13度目の優勝。常勝を支えるカギはどこにあるのか。
清水主将は「『軟式らしい野球』ができているし、そこにこだわり抜いてやってきている」と分析する。
軟式球は、硬式球に比べて打球が飛びにくく点が入りにくい。守りを重視し、攻撃ではバントなどを多用して1点を取りに行くスタイルが一般的だが、「ワンチャンスをものにしてその1点を全員で守りきる」へのこだわりが他校よりも徹底されているという。
その一つが軟式特有の打法「たたき」だ。大きく跳ねる軟式球の特徴を生かし、打球をたたきつけて内野で高く弾ませ、その間に走者を進める。中京は、このたたきを徹底的に磨いてきた。
2―0で制した決勝は2安打で2点。三、四回に「たたき」で1点をもぎとり、守り切っての完封勝利だった。
平中亮太監督(43)は強さの理由に「伝統の力」も挙げる。
「これぐらいのレベルにいかないと全国では勝てないというものを、先輩の姿を見て学ぶ。伝統として他のチームよりある部分なので、そこは大きい」
中京野球の伝統を象徴するのが、10年前の「延長50回」だ。2014年の準決勝、崇徳(広島)戦で4日間にわたる延長50回の死闘を制し、球史に名を刻んだ。
当時の主将で現在、中京でコーチを務める後藤敦也さん(27)も伝統の重みを実感するという。
「指導で個性や自由を尊重するようになってきたなど時代の変化もあるが、変わらずに大切にしているのは、謙虚さ、感謝など人としての成長。そういう伝統が試合の土壇場で生きてくる」
https://www.whbf.jp/uploads/20240904144351_YYVM.pdf
📝令和6年度秋季鳥取県高等学校野球大会(兼)第143回秋季中国地区高等学校野球大会鳥取県予選
https://tottori-hbf.jp/data/data-r6/ks-06-a_tottori.html
[期 日]9月14日(土)~ 9月16日(月・祝)・9月21日(土)・22日(日)・28日(土)
[会 場](鳥取市)ヤマタスポーツパーク野球場 (倉吉市)倉吉市営野球場
📝令和6年度島根県高等学校秋季野球大会 組み合わせ
https://shimanehbf.sakura.ne.jp/1780/
しかし、鳥取は2試合日10時スタートですが、島根は11時開始と。他府県もぜひ見習ってほしいのですが、、、
特に岐阜・三重あたりは!!
💢コールド勝ちも「何やってんだ!」 ベンチで飛んだ喝、侍J指揮官が1点に込めた“怒り”
https://news.yahoo.co.jp/articles/ffb0c7f8b830325937dbe889f8fd5e390e1b4ea2
今大会初失点…侍U-18代表・小倉全由監督から飛んだ“ゲキ”
指揮官から笑顔が消えた瞬間だった。台湾で開催されている「第13回 BFA U18アジア選手権」で、侍ジャパンU-18日本代表は3日、スリランカと対戦。20-1で5回コールド勝ちを収めた。オープニングラウンド2連勝で、6日からのスーパーラウンド進出を決めたが、小倉全由監督から珍しく“ゲキ”が飛んだ。
3点リードで迎えた3回、振り逃げと中前打、野選で1死満塁のピンチ。続く打者のゴロを、遊撃の花咲徳栄・石塚裕惺内野手(3年)が捕球したものの二塁へのトスが乱れた。この間に1点を許し、日本代表が今大会初失点を喫した。
「何やってんだ!」。1失点でしのぎ、ベンチに戻った選手に小倉全由監督からゲキが飛んだ。「点の取られ方がね……。何やってんだ! って言ったんですよ。0点に抑えなきゃいけないとか、そんなんじゃないだろって。アウトを取れるところをしっかりと伝えました」と、試合後に語った。
「自分のチームだったらもうちょっと大きい声出すんですけどね。そこは我慢しながらですけど、厳しくね」。笑いながら話したが、言葉には力強さがある。「力の差があるというのはアレですが、そういうチームとやる時に相手に1点でも取られてはいけない、何点差で勝たなきゃいけないと思いこんでしまうと、逆に自分たちが固くなってしまうんです」。名門・日大三を率いてきた知識と経験がそこにはあった。
二塁を守った健大高崎の高山裕次郎内野手(3年)も、試合中に声を荒らげる姿を見ることはなかったと話すほど、このチームでは珍しい場面だった。高山は小倉監督の指導について「野球の内容というよりも、試合に向かう姿勢などを学んでいます。とても参考にしています」と語る。
日大三の監督時代から笑顔が印象的な小倉監督。いつの時代も選手たちからの信頼は厚い。その理由のひとつが見えた気がする。
📝軟式史上最多Vの中京、常勝の鍵は 「延長50回」も制した伝統の力
https://news.yahoo.co.jp/articles/e0b6fee1f2ef8bffd39ec12db6c742c5c86a4a83
第69回全国高校軟式野球選手権大会を制した中京(東海・岐阜)が4日、岐阜県瑞浪市の同校で優勝報告会を開いた。大会史上初となる2度目の3連覇を達成、13度目の優勝回数も大会最多だ。なぜここまで勝ち続けられるのか。
「応援のお陰で史上初の2度目の3連覇を達成することができました。これから、この日本一の価値を高めるのも下げるのも自分たち次第です。気を引き締めてやっていきたい」
優勝報告会で3年生の清水隆之介主将は生徒や関係者らを前に支援への感謝を伝えた。
■「ワンチャンス」を手にするために
1991年に初優勝を果たしてから、大会最多となる13度目の優勝。常勝を支えるカギはどこにあるのか。
清水主将は「『軟式らしい野球』ができているし、そこにこだわり抜いてやってきている」と分析する。
軟式球は、硬式球に比べて打球が飛びにくく点が入りにくい。守りを重視し、攻撃ではバントなどを多用して1点を取りに行くスタイルが一般的だが、「ワンチャンスをものにしてその1点を全員で守りきる」へのこだわりが他校よりも徹底されているという。
その一つが軟式特有の打法「たたき」だ。大きく跳ねる軟式球の特徴を生かし、打球をたたきつけて内野で高く弾ませ、その間に走者を進める。中京は、このたたきを徹底的に磨いてきた。
2―0で制した決勝は2安打で2点。三、四回に「たたき」で1点をもぎとり、守り切っての完封勝利だった。
平中亮太監督(43)は強さの理由に「伝統の力」も挙げる。
「これぐらいのレベルにいかないと全国では勝てないというものを、先輩の姿を見て学ぶ。伝統として他のチームよりある部分なので、そこは大きい」
中京野球の伝統を象徴するのが、10年前の「延長50回」だ。2014年の準決勝、崇徳(広島)戦で4日間にわたる延長50回の死闘を制し、球史に名を刻んだ。
当時の主将で現在、中京でコーチを務める後藤敦也さん(27)も伝統の重みを実感するという。
「指導で個性や自由を尊重するようになってきたなど時代の変化もあるが、変わらずに大切にしているのは、謙虚さ、感謝など人としての成長。そういう伝統が試合の土壇場で生きてくる」
📝令和6年度秋季兵庫県大会組み合わせ
http://www.hyogo-koyaren.or.jp/homepagedata(R6)/24aki.pdf
💢【U-18】パキスタン代表が棄権 政治的理由で台湾入りできず 元巨人投手のヘッドコーチも当惑「びっくりですよ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f633b1c70fc1122173e23d55bdd36460bbe10474
第13回BFA U18アジア選手権が開幕したが、パキスタン代表は選手が6人しかそろわず、この日の1次リーグA組・タイ戦が没収試合になり、今大会を棄権することが決まった。
関係者によれば、パキスタンからは政治的な理由で、外交関係のない台湾への渡航を止められたという。日本、米国、カナダから来たメンバーのみが台湾入りできた。
開会式に出席した元巨人投手で、パキスタン代表の前田幸長ヘッドコーチ兼投手コーチ(54)は台北入りした昨夜知ったそうで「びっくりですよ。選手たちにはやらせてあげたかったですね」と当惑していた。
🎁甲子園歴史館来場者に「メダル型ピンバッチ」配布、開場100周年記念 今回が最後の記念品
https://news.yahoo.co.jp/articles/013652b0c0f8da9a15f9b04716ce8d646814b312
阪神電鉄は3日、今年8月1日の甲子園開場100周年を記念して、甲子園歴史館の来場者に「メダル型ピンバッチ」の配布を開始すると発表した。
プレゼントは今年1~12月にかけて実施し、7月15日から配布している第3弾「ボールチャーム付きユニフォームキーホルダー」が終了次第、先着6万人に配布開始。第4弾の今回が最後の記念品となり、併設のバーチャルバッティングセンターの体験者にも配布される。
☝PL学園野球部で1人活動 名門ユニホームつなぐ
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a1b88eae10bab9ae03430da428f0c634e4c92ac
高校野球の甲子園大会春夏連覇を誇る大阪府富田林市のPL学園高硬式野球部を1人の部員がつないでいる。暴力事件で2016年に休部となったが、昨年7年ぶりに2年生川村得さん(17)が活動を再開。公式戦には出場しないまま「いつかチームの復活を」と練習を積んできた。
1980年代に桑田真澄さん、清原和博さんを擁し黄金時代を築いた。甲子園では春夏7度優勝。一方、厳しい規律はあつれきを生んだ。2001、13年に下級生への暴力行為で対外試合禁止の処分を受け、17年に府高野連から脱退した。
川村さんは幼稚園から学園に入園。野球好きの父の影響もあり、野球部は「憧れだった」と振り返る。小学2年から軟式野球に打ち込んだ。昨年高校へ進学し硬式野球をしてみないかと教員に声をかけられ野球部を「復活」させた。
ただ学園母体である教団の問題から具体的な動きは見えず、川村さんの思いに変化も生まれつつある。野球部は硬式も軟式も同じユニホームで、軟式であれば連合チームで試合に出られる。学園は生徒数も減り、軟式も新入部員がおらず、この夏で活動を休止する。川村さんは軟式へ来春転部することも考えているという。
☟「高校野球」でビジネスモデルを作った朝日新聞と毎日新聞、隠せなくなってきた制度疲労
https://news.yahoo.co.jp/articles/5aab6461758677f07af9acde20a4d424eb81d4f5?page=1
全国高校野球選手権大会、つまり「夏の甲子園」と言えば「朝日」という名前が浮かんでくる。朝日新聞社が日本高野連と共に「主催者」になっている(毎日新聞社が後援)。なぜそうなのか、疑問に思う人も多いようだが、朝日新聞社はスポーツを「ビジネスモデル」にした最初の日本企業なのだ。
■ 夏目漱石に野球を教えた正岡子規
日本に野球がもたらされたのは公式には1872年のことだ。お雇い外国人として開成学校(のちの東京帝国大学)に赴任したホーレス・ウィルソンが学生たちに手ほどきしたのが最初だという。
野球は伝来当初から日本人の性分に合っていた。明治の文豪、夏目漱石邸の裏には、当時の野球強豪校、郁文館のグラウンドがあったが、漱石邸によくボールが飛び込んだという。これをモチーフにしたエピソードが「吾輩は猫である」に出ている。漱石に野球を教えたのは親友の正岡子規だと言われているが、子規は野球の短歌をいくつも作っている。
〈いまやかの 三つの塁に人満ちて そぞろに胸の うちさわぐなり〉
〈ベースボール うちはつす球キャッチャーの 手にありて ベースを人のゆきかてにする〉
■ 明治末期、ブーム過熱でついには「野球害毒論」も
開成学校の後身である「第一高等学校」では、野球熱が高まり、都下の学校との対戦で無敵を誇るようになった。また横浜に駐留する米国人や、米国艦艇の乗組員との試合でも好勝負を演じ、大いに国威を発揚した。いわゆる「一高時代」である。
一高時代は1906年頃まで続いたが、慶應義塾、早稲田大学が立て続けに一高を破り、時代は「早慶時代」へと移っていった。両校が対戦する「早慶戦」は、学校関係者のみならず「満都の注目の的」となった。両校の知名度は飛躍的に上がった。今に至るも早慶は「私学の雄」とされ、大学でも別格のステイタスとなっているが、その始まりは「早慶戦」だった。
しかし両校の対立があまりにも加熱したために、1906年、早慶戦は中止されるに至った。
明治末年、野球ブームのあまりの過熱ぶりに「野球は将来ある学生に対して、害毒である」という「野球害毒論」が起こる。東京朝日新聞がこのテーマで連載記事を掲載した。
「野球は巾着切り(スリ)のスポーツ(新渡戸稲造)」
「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う(乃木希典)」
これに反対する論陣を張ったのが東京日日新聞、のちの毎日新聞だった。
■ 大阪朝日が部数拡大のために開催した野球大会
大正時代に入り1915年、全国中等学校優勝野球大会が豊中球場で始まった。中等学校は戦後の学制で言えば中学3年から高校2年に相当する。今の高校野球の前身だ。
主催は大阪朝日新聞。朝日新聞と言えば「野球害毒論」を展開したはずだが、それは「東京朝日」であって、大阪は野球擁護の立場だったのだ。
大阪では大阪毎日新聞が急伸しており、大阪朝日は危機感を抱いていた。部数獲得のためにも人気が高まりつつあった野球を利用しようという意向があったようだ。
第一回は10校が本大会に出場し、京都二中が優勝した。翌1916年は、慶應義塾普通部が優勝。昨夏の慶應義塾高の優勝は実にそれ以来107年ぶりだった。
朝日新聞は連日、大会の模様を紙面で伝え、大きな評判を呼んだ。会場の大阪、豊中球場には多くの観客が詰めかけたので、1917年には兵庫県鳴尾の競馬場内に新球場を建設した。しかしこの球場もすぐに満杯になったので、大阪朝日新聞社は阪神電鉄に新球場の建設を提案、運賃収入の増加が見込めるとして阪神電鉄はこの提案に応じ、1924年に阪神甲子園球場が開場した。
各地の中等学校に野球を広めたのは、第一高等学校や早慶、明治学院などで学び、野球を体験したエリート教育者だった。初期の優勝校がいわゆるエリート校だったのは、そうした教員の指導によるところが大きい。
しかし、中等学校野球ブームとともに、次第に商業学校、実業学校や私学などの「野球有名校」が頭角を現す。選手の引き抜きなども行われ、名門中等学校が全国大会に出場できなくなった。
この現状を憂いた中等学校関係者が、大阪毎日新聞に話を持ち掛けて、春休みに行う全国選抜中等学校野球大会が1924年に始まる。翌年からこの大会も甲子園を使用するようになる。「春の甲子園」の始まりだ。
こうした経緯もあり、「春の甲子園」は、「夏」とは違う「独自色」を打ち出そうとした。選考は「野球の強さ」だけでなく「勉学」や「生活態度」なども考慮した。選考委員は候補校に出向いたが「挨拶」や「脱いだ靴をきちんと揃えているか」までチェックしたという。今は前年の秋季地方大会の結果に基づいて候補校を決めるが、それでも選考委員は候補校の視察を実施している。
■ 学生野球の過熱ぶりを懸念、文部省は野球統制令を
明治期から、大学野球は東京と関西では人気スポーツだったが「春夏の甲子園」によって「野球人気」は全国的なものになった。
各地の中等学校など出場資格のある学校に次々と野球部が設立される。開始時の1915年に73校だった夏の甲子園の地方大会参加校は、1925年には302校、1934年には戦前最多の675校になる。
これに刺激を受けて各地の新聞社は、中等学校の下の高等小学校などを対象とした野球大会を開催するようになる。中には、全国大会まで行うものがあった。
朝日が始めた中等学校野球大会に倣って、こうした大会はすべて「トーナメント」だった。日本では、アメリカのようなリーグ戦は大学を除いてはほとんど行われなかった。
しかし学生野球の過熱に懸念を抱いた文部省は1932年「野球ノ統制並施行ニ関スル件(野球統制令)」を発令し、大学、中等学校以下の野球大会に制限をかけた。特に「商業利用」は厳しく規制された。
注目すべきは「野球統制令」を文部省が発令した時に、中等学校には発令を受けるべき野球連盟などの団体が存在しなかったことだ。このために文部省は、春夏の甲子園大会を主催する朝日新聞と毎日新聞に通達した。
つまり戦前の中等学校野球は、新聞社がすべてを取り仕切っていたわけだ。当時、中等学校野球の運営に携わっていた佐伯達夫(のち日本高野連三代目会長)は、自主独立の団体の必要性を痛感し、戦後、日本高等学校野球連盟の設立に奔走することになる。
太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1943年には甲子園大会も大学野球もすべて中止になり、戦前の「野球」は中断した。
■ 「なぜ甲子園大会が2つある? 1つでよくないか?」
終戦後、進駐軍がやってきて日本社会はアメリカを中心とする連合国の支配下に入る。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で民生を担当するウィリアム・マーカット経済科学局長は、セミプロ野球選手だった経歴もあり、野球の振興には積極的だった。
敗戦の翌年である1946年にはプロ野球に続いて中等学校野球の再開も認可したが「なぜ、甲子園大会が2つもあるんだ? 1つでいいじゃないか?」と疑問を呈した。「春の甲子園」の主催者である毎日新聞の本田親男大阪本社編集局長(のち社長)は「春の甲子園には、勝ち抜くことで出場できる夏の甲子園とは異なる意義がある」とマーカット局長を説き伏せて、春の大会の存続を認めさせた。
こうした経緯があるため「春の甲子園」は、今も夏とは違う「独自色」を打ち出す必要があるのだ。「21世紀枠」などはその流れだといえるが、その分、選考過程などに不明瞭な部分があり、毎年のように議論を呼んでいる。
前述のように戦前の反省もあり、佐伯達夫らが奔走して高校野球を統括する団体である全国中等学校野球連盟(のちの日本高等学校野球連盟)が設立された。しかしいきなり独立した組織になったのではなく、朝日新聞と毎日新聞を説得し、設立にこぎつけた。このため当初の事務局は朝日新聞大阪本社内に設けられた。初代日本高野連会長には上野精一朝日新聞社主が就任した。
日本高野連が大阪市西区に「中澤佐伯記念野球会館」を建設し、独立した本拠地を設けるのは1967年になってからだ。ちなみに「中澤佐伯記念野球会館」の名は、日本高野連の設立と基礎作りに多大な貢献があった二代目会長の中澤良夫と三代目会長の佐伯の名前を顕彰してつけられたものである。
■ 甲子園球場の使用料はタダ
現在「春の甲子園」選抜高等学校野球大会は、日本高野連と毎日新聞社が主催、朝日新聞社後援で行われている。「夏の甲子園」全国高等学校野球選手権大会は、日本高野連と朝日新聞社が主催、毎日新聞社後援だ。いずれも阪神甲子園球場が「特別協力」し主催者は無償で球場を使用している。
一方、甲子園の試合は、春はNHKと毎日放送、夏はNHKと朝日放送が中継しているが、主催者側は放映権料を受け取っていない。
いずれも戦前の「野球統制令」以来の「アマチュアリズム」を引きずっている印象がある。
主催者は、甲子園に出場する選手、指導者の交通費、滞在費を負担している。また、甲子園の開場での運営諸費用についても負担している。一部に「甲子園は大人たちの金儲け」の批判はあるが、財政的には厳しく、甲子園の入場料は2022年に大幅に値上げされた。
また、日本高野連はコロナ禍の2021年には朝日新聞社のクラファンサイト「A-port」でクラウドファンディングも実施している。
■ 新聞拡販の武器にはならなくなった高校野球
今も新聞社と高校野球の関係は深い。都道府県高野連の中には、広報窓口を新聞社の運動部記者が代行している地方がある。他のメディアが取材するときには、ライバル新聞社の記者に取材申請することになる。
また出場校がバスで甲子園に向かうときに新聞社の若手記者が同乗し、宿舎に同宿することも多い。密着取材はできるだろうが、例えば喫煙などの不祥事が生じたときに、これを報じることができるのだろうか?
朝日、毎日両新聞社にとって中等学校野球、高校野球は「新聞拡販」の強力な武器になった。
これに倣って、日本では新聞社がスポーツイベントを主催、運営する例が多くみられる。海外でもなくはないが、このビジネスモデルは日本独特のものだといえる。
しかし100年が経過し、もはや高校野球は新聞の「拡販手段」にはなっていない。そもそも新聞というメディアそのものが限界を迎えている。
アメリカ人に「春夏の甲子園」を説明するときに、「(大学アメフトの頂点の大会である)ローズボウルのようなものだ」と言うと通りがよい。しかし、その人気、盛況ぶりでは共通するものの、ローズボウルでは巨額の放映権などビッグマネーが踊るのに対し、甲子園はあくまで「アマチュアリズム、ボランタリズムの祭典」だ。
「僕に任せてくれれば、高校野球をビッグビジネスにするよ。入場料、物販、ライセンス、放映権などを組み合わせて大きな収益を上げて、野球振興に寄与することができるんだけどなあ」
スポーツビジネスで手腕を振るった経営コンサルタントは筆者にこう言った。
1世紀を経て「高校野球」というビジネスモデルは、再考すべき時期にあるのは間違いないだろう。
http://www.hyogo-koyaren.or.jp/homepagedata(R6)/24aki.pdf
💢【U-18】パキスタン代表が棄権 政治的理由で台湾入りできず 元巨人投手のヘッドコーチも当惑「びっくりですよ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f633b1c70fc1122173e23d55bdd36460bbe10474
第13回BFA U18アジア選手権が開幕したが、パキスタン代表は選手が6人しかそろわず、この日の1次リーグA組・タイ戦が没収試合になり、今大会を棄権することが決まった。
関係者によれば、パキスタンからは政治的な理由で、外交関係のない台湾への渡航を止められたという。日本、米国、カナダから来たメンバーのみが台湾入りできた。
開会式に出席した元巨人投手で、パキスタン代表の前田幸長ヘッドコーチ兼投手コーチ(54)は台北入りした昨夜知ったそうで「びっくりですよ。選手たちにはやらせてあげたかったですね」と当惑していた。
🎁甲子園歴史館来場者に「メダル型ピンバッチ」配布、開場100周年記念 今回が最後の記念品
https://news.yahoo.co.jp/articles/013652b0c0f8da9a15f9b04716ce8d646814b312
阪神電鉄は3日、今年8月1日の甲子園開場100周年を記念して、甲子園歴史館の来場者に「メダル型ピンバッチ」の配布を開始すると発表した。
プレゼントは今年1~12月にかけて実施し、7月15日から配布している第3弾「ボールチャーム付きユニフォームキーホルダー」が終了次第、先着6万人に配布開始。第4弾の今回が最後の記念品となり、併設のバーチャルバッティングセンターの体験者にも配布される。
☝PL学園野球部で1人活動 名門ユニホームつなぐ
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a1b88eae10bab9ae03430da428f0c634e4c92ac
高校野球の甲子園大会春夏連覇を誇る大阪府富田林市のPL学園高硬式野球部を1人の部員がつないでいる。暴力事件で2016年に休部となったが、昨年7年ぶりに2年生川村得さん(17)が活動を再開。公式戦には出場しないまま「いつかチームの復活を」と練習を積んできた。
1980年代に桑田真澄さん、清原和博さんを擁し黄金時代を築いた。甲子園では春夏7度優勝。一方、厳しい規律はあつれきを生んだ。2001、13年に下級生への暴力行為で対外試合禁止の処分を受け、17年に府高野連から脱退した。
川村さんは幼稚園から学園に入園。野球好きの父の影響もあり、野球部は「憧れだった」と振り返る。小学2年から軟式野球に打ち込んだ。昨年高校へ進学し硬式野球をしてみないかと教員に声をかけられ野球部を「復活」させた。
ただ学園母体である教団の問題から具体的な動きは見えず、川村さんの思いに変化も生まれつつある。野球部は硬式も軟式も同じユニホームで、軟式であれば連合チームで試合に出られる。学園は生徒数も減り、軟式も新入部員がおらず、この夏で活動を休止する。川村さんは軟式へ来春転部することも考えているという。
☟「高校野球」でビジネスモデルを作った朝日新聞と毎日新聞、隠せなくなってきた制度疲労
https://news.yahoo.co.jp/articles/5aab6461758677f07af9acde20a4d424eb81d4f5?page=1
全国高校野球選手権大会、つまり「夏の甲子園」と言えば「朝日」という名前が浮かんでくる。朝日新聞社が日本高野連と共に「主催者」になっている(毎日新聞社が後援)。なぜそうなのか、疑問に思う人も多いようだが、朝日新聞社はスポーツを「ビジネスモデル」にした最初の日本企業なのだ。
■ 夏目漱石に野球を教えた正岡子規
日本に野球がもたらされたのは公式には1872年のことだ。お雇い外国人として開成学校(のちの東京帝国大学)に赴任したホーレス・ウィルソンが学生たちに手ほどきしたのが最初だという。
野球は伝来当初から日本人の性分に合っていた。明治の文豪、夏目漱石邸の裏には、当時の野球強豪校、郁文館のグラウンドがあったが、漱石邸によくボールが飛び込んだという。これをモチーフにしたエピソードが「吾輩は猫である」に出ている。漱石に野球を教えたのは親友の正岡子規だと言われているが、子規は野球の短歌をいくつも作っている。
〈いまやかの 三つの塁に人満ちて そぞろに胸の うちさわぐなり〉
〈ベースボール うちはつす球キャッチャーの 手にありて ベースを人のゆきかてにする〉
■ 明治末期、ブーム過熱でついには「野球害毒論」も
開成学校の後身である「第一高等学校」では、野球熱が高まり、都下の学校との対戦で無敵を誇るようになった。また横浜に駐留する米国人や、米国艦艇の乗組員との試合でも好勝負を演じ、大いに国威を発揚した。いわゆる「一高時代」である。
一高時代は1906年頃まで続いたが、慶應義塾、早稲田大学が立て続けに一高を破り、時代は「早慶時代」へと移っていった。両校が対戦する「早慶戦」は、学校関係者のみならず「満都の注目の的」となった。両校の知名度は飛躍的に上がった。今に至るも早慶は「私学の雄」とされ、大学でも別格のステイタスとなっているが、その始まりは「早慶戦」だった。
しかし両校の対立があまりにも加熱したために、1906年、早慶戦は中止されるに至った。
明治末年、野球ブームのあまりの過熱ぶりに「野球は将来ある学生に対して、害毒である」という「野球害毒論」が起こる。東京朝日新聞がこのテーマで連載記事を掲載した。
「野球は巾着切り(スリ)のスポーツ(新渡戸稲造)」
「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う(乃木希典)」
これに反対する論陣を張ったのが東京日日新聞、のちの毎日新聞だった。
■ 大阪朝日が部数拡大のために開催した野球大会
大正時代に入り1915年、全国中等学校優勝野球大会が豊中球場で始まった。中等学校は戦後の学制で言えば中学3年から高校2年に相当する。今の高校野球の前身だ。
主催は大阪朝日新聞。朝日新聞と言えば「野球害毒論」を展開したはずだが、それは「東京朝日」であって、大阪は野球擁護の立場だったのだ。
大阪では大阪毎日新聞が急伸しており、大阪朝日は危機感を抱いていた。部数獲得のためにも人気が高まりつつあった野球を利用しようという意向があったようだ。
第一回は10校が本大会に出場し、京都二中が優勝した。翌1916年は、慶應義塾普通部が優勝。昨夏の慶應義塾高の優勝は実にそれ以来107年ぶりだった。
朝日新聞は連日、大会の模様を紙面で伝え、大きな評判を呼んだ。会場の大阪、豊中球場には多くの観客が詰めかけたので、1917年には兵庫県鳴尾の競馬場内に新球場を建設した。しかしこの球場もすぐに満杯になったので、大阪朝日新聞社は阪神電鉄に新球場の建設を提案、運賃収入の増加が見込めるとして阪神電鉄はこの提案に応じ、1924年に阪神甲子園球場が開場した。
各地の中等学校に野球を広めたのは、第一高等学校や早慶、明治学院などで学び、野球を体験したエリート教育者だった。初期の優勝校がいわゆるエリート校だったのは、そうした教員の指導によるところが大きい。
しかし、中等学校野球ブームとともに、次第に商業学校、実業学校や私学などの「野球有名校」が頭角を現す。選手の引き抜きなども行われ、名門中等学校が全国大会に出場できなくなった。
この現状を憂いた中等学校関係者が、大阪毎日新聞に話を持ち掛けて、春休みに行う全国選抜中等学校野球大会が1924年に始まる。翌年からこの大会も甲子園を使用するようになる。「春の甲子園」の始まりだ。
こうした経緯もあり、「春の甲子園」は、「夏」とは違う「独自色」を打ち出そうとした。選考は「野球の強さ」だけでなく「勉学」や「生活態度」なども考慮した。選考委員は候補校に出向いたが「挨拶」や「脱いだ靴をきちんと揃えているか」までチェックしたという。今は前年の秋季地方大会の結果に基づいて候補校を決めるが、それでも選考委員は候補校の視察を実施している。
■ 学生野球の過熱ぶりを懸念、文部省は野球統制令を
明治期から、大学野球は東京と関西では人気スポーツだったが「春夏の甲子園」によって「野球人気」は全国的なものになった。
各地の中等学校など出場資格のある学校に次々と野球部が設立される。開始時の1915年に73校だった夏の甲子園の地方大会参加校は、1925年には302校、1934年には戦前最多の675校になる。
これに刺激を受けて各地の新聞社は、中等学校の下の高等小学校などを対象とした野球大会を開催するようになる。中には、全国大会まで行うものがあった。
朝日が始めた中等学校野球大会に倣って、こうした大会はすべて「トーナメント」だった。日本では、アメリカのようなリーグ戦は大学を除いてはほとんど行われなかった。
しかし学生野球の過熱に懸念を抱いた文部省は1932年「野球ノ統制並施行ニ関スル件(野球統制令)」を発令し、大学、中等学校以下の野球大会に制限をかけた。特に「商業利用」は厳しく規制された。
注目すべきは「野球統制令」を文部省が発令した時に、中等学校には発令を受けるべき野球連盟などの団体が存在しなかったことだ。このために文部省は、春夏の甲子園大会を主催する朝日新聞と毎日新聞に通達した。
つまり戦前の中等学校野球は、新聞社がすべてを取り仕切っていたわけだ。当時、中等学校野球の運営に携わっていた佐伯達夫(のち日本高野連三代目会長)は、自主独立の団体の必要性を痛感し、戦後、日本高等学校野球連盟の設立に奔走することになる。
太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1943年には甲子園大会も大学野球もすべて中止になり、戦前の「野球」は中断した。
■ 「なぜ甲子園大会が2つある? 1つでよくないか?」
終戦後、進駐軍がやってきて日本社会はアメリカを中心とする連合国の支配下に入る。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で民生を担当するウィリアム・マーカット経済科学局長は、セミプロ野球選手だった経歴もあり、野球の振興には積極的だった。
敗戦の翌年である1946年にはプロ野球に続いて中等学校野球の再開も認可したが「なぜ、甲子園大会が2つもあるんだ? 1つでいいじゃないか?」と疑問を呈した。「春の甲子園」の主催者である毎日新聞の本田親男大阪本社編集局長(のち社長)は「春の甲子園には、勝ち抜くことで出場できる夏の甲子園とは異なる意義がある」とマーカット局長を説き伏せて、春の大会の存続を認めさせた。
こうした経緯があるため「春の甲子園」は、今も夏とは違う「独自色」を打ち出す必要があるのだ。「21世紀枠」などはその流れだといえるが、その分、選考過程などに不明瞭な部分があり、毎年のように議論を呼んでいる。
前述のように戦前の反省もあり、佐伯達夫らが奔走して高校野球を統括する団体である全国中等学校野球連盟(のちの日本高等学校野球連盟)が設立された。しかしいきなり独立した組織になったのではなく、朝日新聞と毎日新聞を説得し、設立にこぎつけた。このため当初の事務局は朝日新聞大阪本社内に設けられた。初代日本高野連会長には上野精一朝日新聞社主が就任した。
日本高野連が大阪市西区に「中澤佐伯記念野球会館」を建設し、独立した本拠地を設けるのは1967年になってからだ。ちなみに「中澤佐伯記念野球会館」の名は、日本高野連の設立と基礎作りに多大な貢献があった二代目会長の中澤良夫と三代目会長の佐伯の名前を顕彰してつけられたものである。
■ 甲子園球場の使用料はタダ
現在「春の甲子園」選抜高等学校野球大会は、日本高野連と毎日新聞社が主催、朝日新聞社後援で行われている。「夏の甲子園」全国高等学校野球選手権大会は、日本高野連と朝日新聞社が主催、毎日新聞社後援だ。いずれも阪神甲子園球場が「特別協力」し主催者は無償で球場を使用している。
一方、甲子園の試合は、春はNHKと毎日放送、夏はNHKと朝日放送が中継しているが、主催者側は放映権料を受け取っていない。
いずれも戦前の「野球統制令」以来の「アマチュアリズム」を引きずっている印象がある。
主催者は、甲子園に出場する選手、指導者の交通費、滞在費を負担している。また、甲子園の開場での運営諸費用についても負担している。一部に「甲子園は大人たちの金儲け」の批判はあるが、財政的には厳しく、甲子園の入場料は2022年に大幅に値上げされた。
また、日本高野連はコロナ禍の2021年には朝日新聞社のクラファンサイト「A-port」でクラウドファンディングも実施している。
■ 新聞拡販の武器にはならなくなった高校野球
今も新聞社と高校野球の関係は深い。都道府県高野連の中には、広報窓口を新聞社の運動部記者が代行している地方がある。他のメディアが取材するときには、ライバル新聞社の記者に取材申請することになる。
また出場校がバスで甲子園に向かうときに新聞社の若手記者が同乗し、宿舎に同宿することも多い。密着取材はできるだろうが、例えば喫煙などの不祥事が生じたときに、これを報じることができるのだろうか?
朝日、毎日両新聞社にとって中等学校野球、高校野球は「新聞拡販」の強力な武器になった。
これに倣って、日本では新聞社がスポーツイベントを主催、運営する例が多くみられる。海外でもなくはないが、このビジネスモデルは日本独特のものだといえる。
しかし100年が経過し、もはや高校野球は新聞の「拡販手段」にはなっていない。そもそも新聞というメディアそのものが限界を迎えている。
アメリカ人に「春夏の甲子園」を説明するときに、「(大学アメフトの頂点の大会である)ローズボウルのようなものだ」と言うと通りがよい。しかし、その人気、盛況ぶりでは共通するものの、ローズボウルでは巨額の放映権などビッグマネーが踊るのに対し、甲子園はあくまで「アマチュアリズム、ボランタリズムの祭典」だ。
「僕に任せてくれれば、高校野球をビッグビジネスにするよ。入場料、物販、ライセンス、放映権などを組み合わせて大きな収益を上げて、野球振興に寄与することができるんだけどなあ」
スポーツビジネスで手腕を振るった経営コンサルタントは筆者にこう言った。
1世紀を経て「高校野球」というビジネスモデルは、再考すべき時期にあるのは間違いないだろう。
⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(6日目 準々決勝 紀三井寺球場)
和歌山東11xー1海 南(5回)・紀 央 館4-3桐 蔭・初芝橋本5-3星 林・和 智 弁4-1和歌山工
和歌山東・紀央館・初芝橋本・智弁和歌山は二次予選進出決定!!
📝今夏の甲子園は大量56人、熱中症続出にはもどかしい気持ちもある。「京セラドーム開催論」は…
https://news.yahoo.co.jp/articles/ff3c3bfb822e7c9b84e6c73ca2448d7fc92c3b0e
【持丸修一 76歳名将の高校野球論】#45
今夏の甲子園は暑さにやられる選手が後を絶たず、治療のために試合が中断される場面が何度もありました。
大会本部の発表によると、試合中に熱中症疑いの症状が出た選手は56人。昨年の34人から倍近くに増えています。
我が専大松戸も千葉大会のある試合で、外野手が守備の際に足をつり、打球に反応できずに三塁打にしてしまったケースがありました。コーチ陣が、「1試合で500ミリリットルのペットボトルを5本飲むこと」と呼びかけて、サプリなども出来る限り取らせたものの、予防しきれなかったのです。
たしかに夏の暑さが昔とは比べものにならないことは承知しています。しかし、これだけ多くの選手が熱中症にかかってしまうのは単に気温の問題だけではないと考えています。
夏の甲子園といえば2006年、田中将大投手(現楽天)擁する駒大苫小牧(南北海道)と元日本ハムの「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹投手の早実(西東京)の2日間に及んだ決勝戦の激闘が有名です。調べてみると、13時プレーボールだった両日の兵庫県の最高気温は33.8度と32.9度。実は、熱中症が相次いだ今夏の第1試合や第2試合が行われた午前から昼の時間帯の気温と同程度かそれ以上だったのです。当時あの試合で熱中症にかかった選手はいたでしょうか。昔よりも子供たちが暑さに弱くなっている側面もあるのでは。そう考えるのが自然でしょう。
今の子供たちの家庭は当たり前のように全部屋に冷房が付いていて、それは小中学校の教室も例外ではありません。置かれた環境が昔とまったく違って恵まれていることも原因だと考えます。正直に言うと、足がつるなど熱中症になる選手に対して「もっとなんとかならんものなのか」と、もどかしい気持ちもゼロではありません。しかし、同じ30度だとしても、暑さに弱くなった選手に10年前、20年前と同じような感覚で接していたら、命に関わる問題になりかねない。昭和を知る指導者こそ、より注意する必要があります。
ちなみに、「京セラドーム開催論」も耳にしますが、批判を恐れず言うならば、私は反対です。
「全国高等学校野球選手権」というよりも、「甲子園大会」という認識が強いし、甲子園は私たちにとって聖地です。別の場所で開催を検討するよりもまずは、甲子園のドーム化を働きかけてもらいたい。それが率直な思いです。
☟秋季県高校野球大会は7日に順延 台風10号の影響で岐阜県高野連
https://news.yahoo.co.jp/articles/d4e58caf87caa943aec14f71a780d3999752c0a9
岐阜県高校野球連盟は1日、同日に予定されていた秋季県高校野球大会の開幕を7日に順延した。台風10号による雨でグラウンド状態が不良のため。
7日は大垣市北公園野球場と大野レインボースタジアムで各3試合、プリニーの野球場と土岐市総合公園野球場で各2試合の計10試合を実施する。
☟夏の甲子園の“猛暑対策” 「朝夕二部制」導入に現場の声は? 一部の観客から「時間つぶしに金がかかる」と不満も
https://news.yahoo.co.jp/articles/bf3c3da7f10c36bb22fcacc4e86e2eb4aaf8590f
8月7日から23日まで行われた第106回全国高校野球選手権は、京都国際の初優勝で幕を閉じた。プレーの面は、今年から“低反発バット”が導入され、ホームランや長打の減少が話題となったが、大会の運営面では、今年に限らず、猛暑への対策が大きな議論を呼んでいる。今年は、大会初日から第3日まで「午前の部」と「夕方の部」に分けて試合を行う「朝夕二部制」が試験的に導入された。
新たな試みに当事者の反応は――?
大会中、選手や指導者に「二部制」について話を向けると、概ね否定的な意見は聞かれなかった。高校球児が慣れていないため、懸念されていたナイターへの対応だが、甲子園の大観衆や独特の雰囲気に比べれば、それほど気にならないという声が多かった。
「二部制」に対する肯定的な意見は、開始時間が定まる試合が増えることである。今大会に出場した中京大中京の高橋源一郎監督は、こう話してくれた。
「午後からの第3試合、第4試合になると、前の試合の展開によって開始時間が遅れることが多いです。当初の予定時間に始まるつもりで球場に向かい、室内練習場で準備していても、なかなか試合が始まらないこともよくあります。うちは今回、2試合とも第1試合でしたが、第1試合が一番準備としてはやりやすいですね。『二部制』で間ができて、夕方の試合でも開始時間がずれないところは、ありがたいことですね」
一昨年、東北勢初優勝を達成した仙台育英は、その大会は全て第1試合であり、チームを指揮する須江航監督は「スーパーラッキーでした」と語っていた。準備しやすい時間の試合が増えることで、選手が本来持っている力を発揮しやすくなることは間違いないだろう。
須江監督は今大会、テレビ中継の解説者で甲子園に来場していた。大会後に話を聞くと、「二部制」の導入については「どんどん新しいことをトライして、試していくのは良いことだと思います」と話していた。
21時半過ぎまで試合が終わらず…
一方で、「二部制」の課題が見えたことも事実である。それは、大会初日の出来事だ。この日は開会式が行われたため、「夕方の部」に2試合を実施した。
第3試合の岐阜城北対智弁学園戦は、延長11回にもつれ込んだため、試合終了は21時36分、大会史上2番目に遅い時間となった。もちろん、両チームは8時半から行われた開会式に参加しており、それに合わせて早朝に起床している。そんな状況で、21時半過ぎまで試合をしていた。延長10回、11回にはエラーが続出したことも頷ける。
開会式後、一度宿舎に戻って仮眠をとるなどの対応をしていたそうだが、やはり、早朝の開会式とナイトゲームの両方をこなすには、選手の体に大きな負担がかかっていたようだ。来年以降、開会式の開催方法を変更するなど、検討の余地はあるのではないだろうか。
初戦の興南戦で勝利し、甲子園で監督通算70勝を達成した大阪桐蔭の西谷浩一監督は、「二部制」について「何時からの試合でも、大勢の観客のいる素晴らしい場所で試合をさせてもらえるだけで嬉しいです」と話していた。周囲からは暑さ対策について心配する声が出ても、このように考えている関係者は多いのもしれない。
しかし、“大勢の観客”にとって、「二部制」が必ずしもプラスだったと言い切れない。「夕方の部」の最終試合が長引けば、甲子園に応援に来た保護者や生徒の帰宅が遅くなる。これは、前出の高橋監督も不安材料に挙げていた。
不満を口にする高校野球ファンも
さらに、一般の観客にも影響が及んだ。1日で複数の試合を観戦する観客は、「午前の部」と「夕方の部」の間に、球場から一度退場する必要があったからだ。長年、甲子園で観戦している高校野球ファンは、以下のように、不満を漏らしている。
「一度、球場を出ないといけない。これがつらいですよね。食事をするにしても、時間を潰すにしてもお金がかかる。チケット代も数年前からどんどん高くなっているので、負担が大きいです。それに、『午前の部』と『夕方の部』でチケットが異なります。別々に購入する必要があるから、それもかなり手間ですね……」
そういった影響もあってか、「夕方の部」の第3試合の観客数をみると、第1日と第2日が1万人、第3日が1万1000人と発表されている。確かに、スタンドは、かなり空席が目立っていた。「二部制」にかかわらず、禁止されている球場への再入場を認めるなど、改善する必要性がありそうだ。
👣一人でも多く表舞台に 甲子園の本部委員として尽力 富沢渉さん
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ab4098eef21311741f36b0c646ed82bd71bcfc4
全国高校野球選手権大会の本部委員として運営に尽力してきた富沢渉さん(69)=元群馬県高校野球連盟理事長=が、今夏を最後に勇退した。
「最後まで諦めない高校生の全力プレーから、明日への元気、勇気をもらってきた。人生諦めちゃいけないんだって、教えてもらった」
2016年から本部委員を担い、チームの引率やアルプス席での応援マナー指導、取材の付き添いなどにあたった。特に大変だったのは応援指導。相手に威圧感を与えないようタオルやメガホンは振り回さない、相手に敬意を払い「○○倒せ」といった応援はしないなど高校野球ならではのマナーがあるからだ。
さらに気を遣ったのは安全面だ。アルプス席で応援する人たちがけがをしないよう、吹奏楽の生徒らは柵の近くに着席してもらい、周りを囲むようにグラブを持った野球部員を配してボールから守る。試合ごとにアルプス席を内野側の部屋から観察したり、直接出向いたりして、運用が守られているかを確認する。
「打てばいい、勝てばいい、だけではない高校野球の姿が、100年先へ続いていってほしい」
◇
東村(現東吾妻町)生まれ。小学3年の夏、テレビで見た高校野球に心を奪われた。群馬の古豪・桐生と下関商(山口)の準々決勝。桐生は1―2で敗れたが、「ドラマチックな負け方。高校野球って面白いなあ」。
高校教員になり、29歳の時に渋川西(現渋川青翠)で念願の監督に。部員らを乗せたマイクロバスを運転し、練習試合をこなした。10人前後の部員と、ともに野球に打ち込むのが楽しかった。
◇
他校の野球部部長や県高校野球連盟の理事を務めたあと、2001年に県高野連理事長に就任。甲子園の本部委員制度を知り、県内にも同じような仕組みを導入した。退職した元高野連役員に声を掛け、大会でグラウンド整備や駐車場案内、チケット販売などを手伝ってもらった。手慣れた先輩たち。「心強く、頼りになった」という。
メディカルサポート体制も作った。群馬大学医学部と連携し、整形外科医による投手の肩ひじの検査や理学療法士によるけが予防のトレーニングに取り組んだ。夏の群馬大会では、高校生を一人でも多く表舞台に立たせようと、それまで理事がこなしていた司会や先導役に高校生を起用した。
県内では今も大会運営を陰ながら支える。「余分な口出しはせず、あくまで現役の方たちのサポートに徹する」。もうしばらく、裏方として汗を流すつもりだ。
🎤県岐阜商・鍛治舎監督が退任会見で語った『京都国際』『健大高崎』との関係性…自身の将来については「メラメラという気持ちがまた湧いています」
https://news.yahoo.co.jp/articles/31bed9cc0965bd1f2bca5776f884ab476ab77691
高校野球の名門、県岐阜商の鍛治舎巧監督が先月末で勇退した。2018年3月に監督に就任。低迷気味だった母校を立て直し、春夏4度(コロナ禍で中止の大会含む)甲子園に出場した。今年の創部100周年をもって区切りをつけた。
先月28日の退任会見。監督生活を振り返る中、今夏の甲子園で優勝した京都国際と、今春のセンバツで優勝した健大高崎について話が及んだ。交流のある両校の監督に対し「自分を超えていってくれたことが、指導者として一番の喜びです」と感慨深げに語った。
京都国際とは20年、秋の新チームが始動してすぐに練習試合を組んだ。高木翔斗(現広島)が本塁打を放つなど、2桁得点で大勝した。
「小牧(憲継)監督、ベンチでウチの打線に拍手していましたよ」と鍛治舎監督は笑みを浮かべ述懐する。
京都国際は翌春、初めて甲子園に出場し、今夏5度目の挑戦で全国の覇者となった。「小牧さん、あそこから頑張って頂点にたどり着いたんだな」。小牧監督からは大会後、「まったく相手にならないときから鍛えていただいたおかげです」とメールが届いたという。
健大高崎とは前任の秀岳館時代に甲子園で対戦した。17年のセンバツ。盗塁など足で揺さぶってくる健大高崎の「機動破壊」に対し、鍛治舎監督は“無視”を決め込んだ。自軍の投手に牽制を一切投げさせず、打者だけに集中させた。秀岳館は9対2で快勝し、3季連続の4強入りを決めた。
「試合後、青柳(博文)監督が来てくれましてね。『走るだけじゃ勝てないと分かりました。秀岳館のような野球をするチームをつくります』と言ってくれたんです」
打力アップに取り組んだ健大高崎は今春、出場校トップの打率でセンバツに臨み、初の優勝旗を手にした。
鍛治舎監督は県岐阜商の監督に就任した直後、強化の方策として練習試合の予定を組み直し、強豪校との対戦ばかりに変えた。京都国際や健大高崎とは今も毎年のように腕比べをする。母校のみならず、全国の強豪校の実力をも引き上げた。
名将は退任会見の最後、こうも付け加えた。「自分も負けられない。京都国際の優勝を見て、メラメラという気持ちがまた湧いています」
和歌山東11xー1海 南(5回)・紀 央 館4-3桐 蔭・初芝橋本5-3星 林・和 智 弁4-1和歌山工
和歌山東・紀央館・初芝橋本・智弁和歌山は二次予選進出決定!!
📝今夏の甲子園は大量56人、熱中症続出にはもどかしい気持ちもある。「京セラドーム開催論」は…
https://news.yahoo.co.jp/articles/ff3c3bfb822e7c9b84e6c73ca2448d7fc92c3b0e
【持丸修一 76歳名将の高校野球論】#45
今夏の甲子園は暑さにやられる選手が後を絶たず、治療のために試合が中断される場面が何度もありました。
大会本部の発表によると、試合中に熱中症疑いの症状が出た選手は56人。昨年の34人から倍近くに増えています。
我が専大松戸も千葉大会のある試合で、外野手が守備の際に足をつり、打球に反応できずに三塁打にしてしまったケースがありました。コーチ陣が、「1試合で500ミリリットルのペットボトルを5本飲むこと」と呼びかけて、サプリなども出来る限り取らせたものの、予防しきれなかったのです。
たしかに夏の暑さが昔とは比べものにならないことは承知しています。しかし、これだけ多くの選手が熱中症にかかってしまうのは単に気温の問題だけではないと考えています。
夏の甲子園といえば2006年、田中将大投手(現楽天)擁する駒大苫小牧(南北海道)と元日本ハムの「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹投手の早実(西東京)の2日間に及んだ決勝戦の激闘が有名です。調べてみると、13時プレーボールだった両日の兵庫県の最高気温は33.8度と32.9度。実は、熱中症が相次いだ今夏の第1試合や第2試合が行われた午前から昼の時間帯の気温と同程度かそれ以上だったのです。当時あの試合で熱中症にかかった選手はいたでしょうか。昔よりも子供たちが暑さに弱くなっている側面もあるのでは。そう考えるのが自然でしょう。
今の子供たちの家庭は当たり前のように全部屋に冷房が付いていて、それは小中学校の教室も例外ではありません。置かれた環境が昔とまったく違って恵まれていることも原因だと考えます。正直に言うと、足がつるなど熱中症になる選手に対して「もっとなんとかならんものなのか」と、もどかしい気持ちもゼロではありません。しかし、同じ30度だとしても、暑さに弱くなった選手に10年前、20年前と同じような感覚で接していたら、命に関わる問題になりかねない。昭和を知る指導者こそ、より注意する必要があります。
ちなみに、「京セラドーム開催論」も耳にしますが、批判を恐れず言うならば、私は反対です。
「全国高等学校野球選手権」というよりも、「甲子園大会」という認識が強いし、甲子園は私たちにとって聖地です。別の場所で開催を検討するよりもまずは、甲子園のドーム化を働きかけてもらいたい。それが率直な思いです。
☟秋季県高校野球大会は7日に順延 台風10号の影響で岐阜県高野連
https://news.yahoo.co.jp/articles/d4e58caf87caa943aec14f71a780d3999752c0a9
岐阜県高校野球連盟は1日、同日に予定されていた秋季県高校野球大会の開幕を7日に順延した。台風10号による雨でグラウンド状態が不良のため。
7日は大垣市北公園野球場と大野レインボースタジアムで各3試合、プリニーの野球場と土岐市総合公園野球場で各2試合の計10試合を実施する。
☟夏の甲子園の“猛暑対策” 「朝夕二部制」導入に現場の声は? 一部の観客から「時間つぶしに金がかかる」と不満も
https://news.yahoo.co.jp/articles/bf3c3da7f10c36bb22fcacc4e86e2eb4aaf8590f
8月7日から23日まで行われた第106回全国高校野球選手権は、京都国際の初優勝で幕を閉じた。プレーの面は、今年から“低反発バット”が導入され、ホームランや長打の減少が話題となったが、大会の運営面では、今年に限らず、猛暑への対策が大きな議論を呼んでいる。今年は、大会初日から第3日まで「午前の部」と「夕方の部」に分けて試合を行う「朝夕二部制」が試験的に導入された。
新たな試みに当事者の反応は――?
大会中、選手や指導者に「二部制」について話を向けると、概ね否定的な意見は聞かれなかった。高校球児が慣れていないため、懸念されていたナイターへの対応だが、甲子園の大観衆や独特の雰囲気に比べれば、それほど気にならないという声が多かった。
「二部制」に対する肯定的な意見は、開始時間が定まる試合が増えることである。今大会に出場した中京大中京の高橋源一郎監督は、こう話してくれた。
「午後からの第3試合、第4試合になると、前の試合の展開によって開始時間が遅れることが多いです。当初の予定時間に始まるつもりで球場に向かい、室内練習場で準備していても、なかなか試合が始まらないこともよくあります。うちは今回、2試合とも第1試合でしたが、第1試合が一番準備としてはやりやすいですね。『二部制』で間ができて、夕方の試合でも開始時間がずれないところは、ありがたいことですね」
一昨年、東北勢初優勝を達成した仙台育英は、その大会は全て第1試合であり、チームを指揮する須江航監督は「スーパーラッキーでした」と語っていた。準備しやすい時間の試合が増えることで、選手が本来持っている力を発揮しやすくなることは間違いないだろう。
須江監督は今大会、テレビ中継の解説者で甲子園に来場していた。大会後に話を聞くと、「二部制」の導入については「どんどん新しいことをトライして、試していくのは良いことだと思います」と話していた。
21時半過ぎまで試合が終わらず…
一方で、「二部制」の課題が見えたことも事実である。それは、大会初日の出来事だ。この日は開会式が行われたため、「夕方の部」に2試合を実施した。
第3試合の岐阜城北対智弁学園戦は、延長11回にもつれ込んだため、試合終了は21時36分、大会史上2番目に遅い時間となった。もちろん、両チームは8時半から行われた開会式に参加しており、それに合わせて早朝に起床している。そんな状況で、21時半過ぎまで試合をしていた。延長10回、11回にはエラーが続出したことも頷ける。
開会式後、一度宿舎に戻って仮眠をとるなどの対応をしていたそうだが、やはり、早朝の開会式とナイトゲームの両方をこなすには、選手の体に大きな負担がかかっていたようだ。来年以降、開会式の開催方法を変更するなど、検討の余地はあるのではないだろうか。
初戦の興南戦で勝利し、甲子園で監督通算70勝を達成した大阪桐蔭の西谷浩一監督は、「二部制」について「何時からの試合でも、大勢の観客のいる素晴らしい場所で試合をさせてもらえるだけで嬉しいです」と話していた。周囲からは暑さ対策について心配する声が出ても、このように考えている関係者は多いのもしれない。
しかし、“大勢の観客”にとって、「二部制」が必ずしもプラスだったと言い切れない。「夕方の部」の最終試合が長引けば、甲子園に応援に来た保護者や生徒の帰宅が遅くなる。これは、前出の高橋監督も不安材料に挙げていた。
不満を口にする高校野球ファンも
さらに、一般の観客にも影響が及んだ。1日で複数の試合を観戦する観客は、「午前の部」と「夕方の部」の間に、球場から一度退場する必要があったからだ。長年、甲子園で観戦している高校野球ファンは、以下のように、不満を漏らしている。
「一度、球場を出ないといけない。これがつらいですよね。食事をするにしても、時間を潰すにしてもお金がかかる。チケット代も数年前からどんどん高くなっているので、負担が大きいです。それに、『午前の部』と『夕方の部』でチケットが異なります。別々に購入する必要があるから、それもかなり手間ですね……」
そういった影響もあってか、「夕方の部」の第3試合の観客数をみると、第1日と第2日が1万人、第3日が1万1000人と発表されている。確かに、スタンドは、かなり空席が目立っていた。「二部制」にかかわらず、禁止されている球場への再入場を認めるなど、改善する必要性がありそうだ。
👣一人でも多く表舞台に 甲子園の本部委員として尽力 富沢渉さん
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ab4098eef21311741f36b0c646ed82bd71bcfc4
全国高校野球選手権大会の本部委員として運営に尽力してきた富沢渉さん(69)=元群馬県高校野球連盟理事長=が、今夏を最後に勇退した。
「最後まで諦めない高校生の全力プレーから、明日への元気、勇気をもらってきた。人生諦めちゃいけないんだって、教えてもらった」
2016年から本部委員を担い、チームの引率やアルプス席での応援マナー指導、取材の付き添いなどにあたった。特に大変だったのは応援指導。相手に威圧感を与えないようタオルやメガホンは振り回さない、相手に敬意を払い「○○倒せ」といった応援はしないなど高校野球ならではのマナーがあるからだ。
さらに気を遣ったのは安全面だ。アルプス席で応援する人たちがけがをしないよう、吹奏楽の生徒らは柵の近くに着席してもらい、周りを囲むようにグラブを持った野球部員を配してボールから守る。試合ごとにアルプス席を内野側の部屋から観察したり、直接出向いたりして、運用が守られているかを確認する。
「打てばいい、勝てばいい、だけではない高校野球の姿が、100年先へ続いていってほしい」
◇
東村(現東吾妻町)生まれ。小学3年の夏、テレビで見た高校野球に心を奪われた。群馬の古豪・桐生と下関商(山口)の準々決勝。桐生は1―2で敗れたが、「ドラマチックな負け方。高校野球って面白いなあ」。
高校教員になり、29歳の時に渋川西(現渋川青翠)で念願の監督に。部員らを乗せたマイクロバスを運転し、練習試合をこなした。10人前後の部員と、ともに野球に打ち込むのが楽しかった。
◇
他校の野球部部長や県高校野球連盟の理事を務めたあと、2001年に県高野連理事長に就任。甲子園の本部委員制度を知り、県内にも同じような仕組みを導入した。退職した元高野連役員に声を掛け、大会でグラウンド整備や駐車場案内、チケット販売などを手伝ってもらった。手慣れた先輩たち。「心強く、頼りになった」という。
メディカルサポート体制も作った。群馬大学医学部と連携し、整形外科医による投手の肩ひじの検査や理学療法士によるけが予防のトレーニングに取り組んだ。夏の群馬大会では、高校生を一人でも多く表舞台に立たせようと、それまで理事がこなしていた司会や先導役に高校生を起用した。
県内では今も大会運営を陰ながら支える。「余分な口出しはせず、あくまで現役の方たちのサポートに徹する」。もうしばらく、裏方として汗を流すつもりだ。
🎤県岐阜商・鍛治舎監督が退任会見で語った『京都国際』『健大高崎』との関係性…自身の将来については「メラメラという気持ちがまた湧いています」
https://news.yahoo.co.jp/articles/31bed9cc0965bd1f2bca5776f884ab476ab77691
高校野球の名門、県岐阜商の鍛治舎巧監督が先月末で勇退した。2018年3月に監督に就任。低迷気味だった母校を立て直し、春夏4度(コロナ禍で中止の大会含む)甲子園に出場した。今年の創部100周年をもって区切りをつけた。
先月28日の退任会見。監督生活を振り返る中、今夏の甲子園で優勝した京都国際と、今春のセンバツで優勝した健大高崎について話が及んだ。交流のある両校の監督に対し「自分を超えていってくれたことが、指導者として一番の喜びです」と感慨深げに語った。
京都国際とは20年、秋の新チームが始動してすぐに練習試合を組んだ。高木翔斗(現広島)が本塁打を放つなど、2桁得点で大勝した。
「小牧(憲継)監督、ベンチでウチの打線に拍手していましたよ」と鍛治舎監督は笑みを浮かべ述懐する。
京都国際は翌春、初めて甲子園に出場し、今夏5度目の挑戦で全国の覇者となった。「小牧さん、あそこから頑張って頂点にたどり着いたんだな」。小牧監督からは大会後、「まったく相手にならないときから鍛えていただいたおかげです」とメールが届いたという。
健大高崎とは前任の秀岳館時代に甲子園で対戦した。17年のセンバツ。盗塁など足で揺さぶってくる健大高崎の「機動破壊」に対し、鍛治舎監督は“無視”を決め込んだ。自軍の投手に牽制を一切投げさせず、打者だけに集中させた。秀岳館は9対2で快勝し、3季連続の4強入りを決めた。
「試合後、青柳(博文)監督が来てくれましてね。『走るだけじゃ勝てないと分かりました。秀岳館のような野球をするチームをつくります』と言ってくれたんです」
打力アップに取り組んだ健大高崎は今春、出場校トップの打率でセンバツに臨み、初の優勝旗を手にした。
鍛治舎監督は県岐阜商の監督に就任した直後、強化の方策として練習試合の予定を組み直し、強豪校との対戦ばかりに変えた。京都国際や健大高崎とは今も毎年のように腕比べをする。母校のみならず、全国の強豪校の実力をも引き上げた。
名将は退任会見の最後、こうも付け加えた。「自分も負けられない。京都国際の優勝を見て、メラメラという気持ちがまた湧いています」
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(6日目 準々決勝 紀三井寺球場)
☆☆ 08:30~ 和歌 山東- 海 南
☆ 11:00~ 桐 蔭 -紀 央 館
☆☆ 13:30~ 初芝 橋本- 星 林
16:00~ 和歌 山工-智弁和歌山
台風10号にずいぶん振り回され・・・・・8/31(土)観戦予定にしてましたが、木曜の夕方に中止決定↓↓
もっと大雨が長期化すると見込んで、予報を信じて明日は接骨院の予約を入れて変更の電話を入れず様子見てましたが、、、、、紀三井寺界隈はあんまり雨降らず明日は普通にできそうで。。。。。
8/23甲子園閉会式TV観戦後に紀三井寺薄暮ナイター観戦したし、すでに今年8回(高校6回・独立2回)足を運んでいるし、9/22にも一次予選代表決定戦8時30分から4試合観戦予定ゆえにここは観戦辛抱して、浮いた交通費と入場料・食事代を次の週末に投入しようと!
その前に9/3か4に東海道五十三次 関-亀山そして津の日帰り旅行を重視しているので過密日程を避けたいし。
まだ秋季兵庫県大会抽選が行われていないのでなんともですが・・・・・。今週末開催予定だった岐阜は2日連続中止と。
昨日岐阜県高野連HPに1日は11時から2試合とありましたが。。。。。。
岐阜といえば、、、2年前の夏にゲリラ豪雨&長雨で1泊2日5試合観戦予定が初日の開幕戦3回裏途中継続試合しか見れず、2日目は各務原のプリニーの球場外周グルリ歩いただけで航空宇宙博物館見学して帰っただけに・・・・・。
あの悔しさを晴らすチャンスが到来したかも?!
ただ、9時から2試合だし、始発電車に乗っても到着は10時過ぎゆえにその他の日程を天秤にかけて吟味します!
📝なぜ?地元強豪断り慶応・慶大→縁もゆかりもない智弁和歌山部長に 指導者として受け継ぐ名門の思い
https://news.yahoo.co.jp/articles/539baf57751be5f38f5131de6e2fbc5177595c8a
今夏の全国高校野球選手権大会に出場した智弁和歌山・塩健一郎部長(29)は特殊な経歴を持つ。地元・滋賀の名門軟式野球クラブから慶応に進学し、慶大の学生コーチを経て、縁もゆかりもない和歌山へ。名門チームでの挫折や得たもの、新チームへの思いを聞いた。
どんな縁があるか分からないものだ。現役時代は立てなかった甲子園の舞台に、塩部長は今夏、ノッカーとして立った。
滋賀出身で、中学時代はプロ選手も輩出する名門「滋賀ユナイテッドJボーイズ」でプレー。2年時に出場した横浜スタジアムでの全国大会を慶応の学生コーチが視察しており、進学の誘いを受けた。滋賀の強豪・近江からも授業料免除で誘いがあったが、慶応への進学を決意。これが転機だった。
慶応では広い世界を知り、人間的に成長できたという塩部長。「何て狭い世界で生きてたんだと思った。自分よりすごいやつは、いっぱいいると気付いた」。高校3年春から中堅のレギュラーをつかんだが、甲子園には届かず。慶大では右肩故障により、学生コーチとしてチームを支えた。
就職に際し、両親と同じ教員を志していた塩部長は慶大の教職センターで智弁和歌山の教員募集を見つけ受験。講師として採用された。「名前も知っている高校で憧れもあったし、智弁和歌山出身の同級生から話も聞いて良いかなと」。就職2年目に、同校野球部の部長が退職したため新たに就任を打診された。「当時は『甲子園のベンチに入れる』くらいの浅はかな気持ちだった」と回顧。ただ、甘くはなかった。
就任後は1カ月で体重が5キロ減。「自分にあるのは野球をやっていた経験だけだった。学生コーチはノックとかグラウンド整備に一生懸命だったけど、社会人はそこじゃないと。大事なことを学んだ」。中谷仁監督(45)からは練習試合の準備や関係各所との連絡など「先を見据える力」を厳しく指導されたという。3年目から教諭に採用され今年で7年目。「意外と甲子園より、年末にOBがグラウンドに帰って来ると『頑張ってきたのはムダじゃなかった』と思う」とやりがいを明かす。
今夏の甲子園で同校は霞ケ浦に敗れ、初戦敗退。試合後は、ミスをした2年生らが声をあげ涙した。中谷監督ら指導者のショックも大きかったという。ただ、敗戦翌日の練習で新チームに「切り替えないで」と伝えたと塩部長。理由を明かす。
旧チームは昨夏、県大会で初戦敗退。昨秋の近畿大会出場も逃した。「そこでいろんなモノを作り直した。歯を食いしばりながら甲子園に出た3年生が残してくれたものを大事にしてほしい。引きずるだけ引きずって、それでも結果を出そうと」。同校は21年夏の甲子園Vから出場3大会連続で白星から遠ざかる。「3年生にまずは並んで、越えてほしい」と塩部長。指導者として思いを受け継ぎ、名門を支える。
🔥60年ぶり夏1勝の掛川西・大石卓哉監督は再び聖地目指す「上を目指したいという気持ちが強くなったのは確か」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9450d5897036ae6e751f816e7bd4e0fb9e702892
第106回全国高校野球選手権で掛川西を夏は60年ぶりとなる1勝へ導いた大石卓哉監督(44)が、このほどスポーツ報知のインタビューに応じた。甲子園での熱闘を振り返るとともに、新チームの公式戦初戦となる秋季県大会(14日開幕)への意気込み、自らが追究する野球像を語った。
―夏の熱戦から約半月が経過した。今の心境は
「また選手たちを連れて行くという気持ちがより一層強くなり、もっと色々な勉強をしようと思いました」
―前回出場した26年前は主将としてプレー。初めて監督として臨んだ甲子園だったが、2回戦で岡山学芸館に敗れ、夏の初2勝ならず。
「今後はそこ(夏2勝)を突破できるような指導力をつけたい。上を目指したいという気持ちが強くなったのは確か」
―全国で勝ち抜くために見えた課題は?
「(采配で)少し欲が出た部分はあったが、好投手を攻略して1点を取る力が足りなかった。常に好球必打と言ってるが、最後打っていたのはワンバンやボール球。高いレベルの中での好球必打。やることは変わらないが、質を磨きたい」
―岡山学芸館の佐藤貴博監督に「縦の変化球」の弱点を突かれた。全国レベルでも様々な監督がいる中で、指導方針に変化はあったか?
「指導者になってから、目の前のいる選手と最善を尽くすというスタイルは変わっていない。自分たちが力の出し切って納得できる野球さえできればどこに出ても恥ずかしくないと思っている。今回はやりきれることができて本当によかった」
―掛川西で作り出したい理想のチーム像は
「公立高校だからこそ、きた選手で出来上がる色がある。(その年の)代によって毎年違う、それが掛川西らしいと思います」
―夏県2連覇に向けても新チームが始まった
「新チームを見て、昨年もスタートは色々なものが未熟だったなと思い出した。もう1回最初から」
―甲子園2戦で9打数6安打を放った鈴木脩平二塁手(2年)が主将となった
「今まで自分のことに集中して淡々とやっていた。そこからベンチで味方を鼓舞する声がけをしたり、引っ張ろうという気持ちが(同じく聖地を経験した一塁手の)石川大峨、(三塁手の)佐藤駿斗、(中堅手の)桑原拓海にも出てきた」
―秋のチーム目標は来春センバツに直結する東海大会優勝。意気込みは
「甲子園を経験した子たちが気負わずに夏と同じく積極的にいってほしい。またまだ発展途上。(練習試合で)出る選手、打順も毎回違う。秋は不完全の中でどう安定した野球を求めるか。とにかく一戦一戦、負けるまでにできることは全部やろうと思っています」
☆☆ 08:30~ 和歌 山東- 海 南
☆ 11:00~ 桐 蔭 -紀 央 館
☆☆ 13:30~ 初芝 橋本- 星 林
16:00~ 和歌 山工-智弁和歌山
台風10号にずいぶん振り回され・・・・・8/31(土)観戦予定にしてましたが、木曜の夕方に中止決定↓↓
もっと大雨が長期化すると見込んで、予報を信じて明日は接骨院の予約を入れて変更の電話を入れず様子見てましたが、、、、、紀三井寺界隈はあんまり雨降らず明日は普通にできそうで。。。。。
8/23甲子園閉会式TV観戦後に紀三井寺薄暮ナイター観戦したし、すでに今年8回(高校6回・独立2回)足を運んでいるし、9/22にも一次予選代表決定戦8時30分から4試合観戦予定ゆえにここは観戦辛抱して、浮いた交通費と入場料・食事代を次の週末に投入しようと!
その前に9/3か4に東海道五十三次 関-亀山そして津の日帰り旅行を重視しているので過密日程を避けたいし。
まだ秋季兵庫県大会抽選が行われていないのでなんともですが・・・・・。今週末開催予定だった岐阜は2日連続中止と。
昨日岐阜県高野連HPに1日は11時から2試合とありましたが。。。。。。
岐阜といえば、、、2年前の夏にゲリラ豪雨&長雨で1泊2日5試合観戦予定が初日の開幕戦3回裏途中継続試合しか見れず、2日目は各務原のプリニーの球場外周グルリ歩いただけで航空宇宙博物館見学して帰っただけに・・・・・。
あの悔しさを晴らすチャンスが到来したかも?!
ただ、9時から2試合だし、始発電車に乗っても到着は10時過ぎゆえにその他の日程を天秤にかけて吟味します!
📝なぜ?地元強豪断り慶応・慶大→縁もゆかりもない智弁和歌山部長に 指導者として受け継ぐ名門の思い
https://news.yahoo.co.jp/articles/539baf57751be5f38f5131de6e2fbc5177595c8a
今夏の全国高校野球選手権大会に出場した智弁和歌山・塩健一郎部長(29)は特殊な経歴を持つ。地元・滋賀の名門軟式野球クラブから慶応に進学し、慶大の学生コーチを経て、縁もゆかりもない和歌山へ。名門チームでの挫折や得たもの、新チームへの思いを聞いた。
どんな縁があるか分からないものだ。現役時代は立てなかった甲子園の舞台に、塩部長は今夏、ノッカーとして立った。
滋賀出身で、中学時代はプロ選手も輩出する名門「滋賀ユナイテッドJボーイズ」でプレー。2年時に出場した横浜スタジアムでの全国大会を慶応の学生コーチが視察しており、進学の誘いを受けた。滋賀の強豪・近江からも授業料免除で誘いがあったが、慶応への進学を決意。これが転機だった。
慶応では広い世界を知り、人間的に成長できたという塩部長。「何て狭い世界で生きてたんだと思った。自分よりすごいやつは、いっぱいいると気付いた」。高校3年春から中堅のレギュラーをつかんだが、甲子園には届かず。慶大では右肩故障により、学生コーチとしてチームを支えた。
就職に際し、両親と同じ教員を志していた塩部長は慶大の教職センターで智弁和歌山の教員募集を見つけ受験。講師として採用された。「名前も知っている高校で憧れもあったし、智弁和歌山出身の同級生から話も聞いて良いかなと」。就職2年目に、同校野球部の部長が退職したため新たに就任を打診された。「当時は『甲子園のベンチに入れる』くらいの浅はかな気持ちだった」と回顧。ただ、甘くはなかった。
就任後は1カ月で体重が5キロ減。「自分にあるのは野球をやっていた経験だけだった。学生コーチはノックとかグラウンド整備に一生懸命だったけど、社会人はそこじゃないと。大事なことを学んだ」。中谷仁監督(45)からは練習試合の準備や関係各所との連絡など「先を見据える力」を厳しく指導されたという。3年目から教諭に採用され今年で7年目。「意外と甲子園より、年末にOBがグラウンドに帰って来ると『頑張ってきたのはムダじゃなかった』と思う」とやりがいを明かす。
今夏の甲子園で同校は霞ケ浦に敗れ、初戦敗退。試合後は、ミスをした2年生らが声をあげ涙した。中谷監督ら指導者のショックも大きかったという。ただ、敗戦翌日の練習で新チームに「切り替えないで」と伝えたと塩部長。理由を明かす。
旧チームは昨夏、県大会で初戦敗退。昨秋の近畿大会出場も逃した。「そこでいろんなモノを作り直した。歯を食いしばりながら甲子園に出た3年生が残してくれたものを大事にしてほしい。引きずるだけ引きずって、それでも結果を出そうと」。同校は21年夏の甲子園Vから出場3大会連続で白星から遠ざかる。「3年生にまずは並んで、越えてほしい」と塩部長。指導者として思いを受け継ぎ、名門を支える。
🔥60年ぶり夏1勝の掛川西・大石卓哉監督は再び聖地目指す「上を目指したいという気持ちが強くなったのは確か」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9450d5897036ae6e751f816e7bd4e0fb9e702892
第106回全国高校野球選手権で掛川西を夏は60年ぶりとなる1勝へ導いた大石卓哉監督(44)が、このほどスポーツ報知のインタビューに応じた。甲子園での熱闘を振り返るとともに、新チームの公式戦初戦となる秋季県大会(14日開幕)への意気込み、自らが追究する野球像を語った。
―夏の熱戦から約半月が経過した。今の心境は
「また選手たちを連れて行くという気持ちがより一層強くなり、もっと色々な勉強をしようと思いました」
―前回出場した26年前は主将としてプレー。初めて監督として臨んだ甲子園だったが、2回戦で岡山学芸館に敗れ、夏の初2勝ならず。
「今後はそこ(夏2勝)を突破できるような指導力をつけたい。上を目指したいという気持ちが強くなったのは確か」
―全国で勝ち抜くために見えた課題は?
「(采配で)少し欲が出た部分はあったが、好投手を攻略して1点を取る力が足りなかった。常に好球必打と言ってるが、最後打っていたのはワンバンやボール球。高いレベルの中での好球必打。やることは変わらないが、質を磨きたい」
―岡山学芸館の佐藤貴博監督に「縦の変化球」の弱点を突かれた。全国レベルでも様々な監督がいる中で、指導方針に変化はあったか?
「指導者になってから、目の前のいる選手と最善を尽くすというスタイルは変わっていない。自分たちが力の出し切って納得できる野球さえできればどこに出ても恥ずかしくないと思っている。今回はやりきれることができて本当によかった」
―掛川西で作り出したい理想のチーム像は
「公立高校だからこそ、きた選手で出来上がる色がある。(その年の)代によって毎年違う、それが掛川西らしいと思います」
―夏県2連覇に向けても新チームが始まった
「新チームを見て、昨年もスタートは色々なものが未熟だったなと思い出した。もう1回最初から」
―甲子園2戦で9打数6安打を放った鈴木脩平二塁手(2年)が主将となった
「今まで自分のことに集中して淡々とやっていた。そこからベンチで味方を鼓舞する声がけをしたり、引っ張ろうという気持ちが(同じく聖地を経験した一塁手の)石川大峨、(三塁手の)佐藤駿斗、(中堅手の)桑原拓海にも出てきた」
―秋のチーム目標は来春センバツに直結する東海大会優勝。意気込みは
「甲子園を経験した子たちが気負わずに夏と同じく積極的にいってほしい。またまだ発展途上。(練習試合で)出る選手、打順も毎回違う。秋は不完全の中でどう安定した野球を求めるか。とにかく一戦一戦、負けるまでにできることは全部やろうと思っています」