自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
📝甲子園で“大旋風”起こした大社…エース左腕・馬庭が夏の主役になるまでの知られざる軌跡
https://news.yahoo.co.jp/articles/161adb0fc88cf94409cae4b96077c70c45f1dff6
◆ 夏の甲子園を沸かせた“大社旋風”
第106回全国高校野球選手権大会で、最も大きな旋風を起こしたのが大社(島根)だった。
全国に15校しかない、第1回地方大会から出場を続ける皆勤校の一つで、今回は1992年以来32年ぶりの出場だった。
その伝統校が今春選抜準優勝の報徳学園(兵庫)との1回戦に勝利し、61年以来63年ぶりの初戦突破を果たして勢いづいた。
創成館(長崎)との2回戦では延長10回タイブレークの末に勝利して、107年ぶりの夏2勝目。早実(西東京)との3回戦では夏の甲子園史上初となる2試合連続の延長タイブレーク勝利を挙げて、93年ぶりの8強入りをかなえた。
快進撃の中心にはエース左腕の馬庭優太(3年)がいた。3回戦まで3試合連続完投勝利で準々決勝に導いた。初戦で優勝候補の報徳学園相手に被安打7、1失点に抑えて実力を示すと、早実戦では延長11回149球を一人で投げ抜き、最後は自らがサヨナラ打を放って投打で主役を演じた。
試合中から味方の奮闘に涙を流し、声を張り上げながら好投を続ける姿は感動を呼び、次第に一般の観客からも大きな声援を受けるようになった。
「大社旋風」の中心にいた馬庭は、中学時代に他校から入学の勧誘を受ける有力選手だった。その好左腕が92年夏以来甲子園出場から遠ざかる大社への進学を決断した出来事があった。
3学年上の姉・歩未さん(20)が同校野球部のマネジャーを務めていたのだ。姉の3年夏は島根大会決勝で敗れて、あと一歩で甲子園に届かなかった。その一戦を現地観戦していた馬庭が姉に伝えた。
「俺が甲子園に連れて行くから」
こうして進学先の迷いも吹っ切れ、姉を甲子園に連れて行くために大社を選んだ。
ただし聖地にたどり着くまで順風満帆とはいかなかった。下級生の頃は、甲子園出場を目標に掲げて仲間にもストイックさを求める馬庭ら主力組とその他の選手の間で意見が食い違うこともあった。
「今は甲子園とか、そんな高いところ目指してもだめやろ」と反発の声が挙がり、選手同士でぶつかったことも一度や二度ではない。
2年夏は準決勝で敗退して新チームが始動。そこから何度も選手間ミーティングを行って目標を共有した。
馬庭は指導者から「エースとしての自覚を持ちなさい。周りから認められるエースになるには、結果だけでなく普段の取り組みから見られているよ」と伝えられながら、仲間を思いやって投球することを覚えていった。
2年秋は中国大会に出場。選抜出場こそかなわなかったものの、着実に聖地出場へ前進していた。
◆ 「甲子園出場が目標では、あそこに立てない」
今年3月には選手全員で甲子園に来たことがある。兵庫の強豪校である明石商、社との練習試合が降雨中止となったため、選抜大会の観戦に向かったのだ。
そこでは自分たちと同じく地元出身選手中心に戦う公立の阿南光(徳島)が健闘していた。その姿を目に焼き付け、「絶対に俺らもここに立とう」と誓い合った。
春の島根大会に3回戦で敗れると、「甲子園出場が目標では、あそこに立てない。甲子園8強に目標に変えよう」と誓い合った。そして、結束力を高めたナインは夏の甲子園出場をかなえた。
報徳学園との初戦前、馬庭は姉から伝えられた。
「仲間を信じて自分を信じて、全力で楽しんでこい」その言葉通り、仲間を信じて旋風を起こした。
早実との3回戦では、同点の7回に中堅手の藤原佑(3年)が勝ち越しの適時失策を犯すと、「まだ大丈夫。笑顔でやろうぜ」と声をかけ、馬庭自らサヨナラ打を放った。試合後、藤原は「みんながいなければ、立ち直れなかった」と感謝の涙を流した。
神村学園(鹿児島)との準々決勝で敗れると、馬庭は「辛いときもみんなが寄り添ってくれた。もっとみんなと試合がしたかった」と真っ先に仲間のことを思った。
大社旋風は、馬庭がいなければ起きなかった。ただし、エース一人のチームではなかった。全員で支え合って生まれた快進撃だった。
🎁100周年記念ラストを飾る感謝を込めたプレゼント 甲子園歴史館「阪神甲子園球場100周年記念品」第4弾の配布がまもなくスタート
https://article.yahoo.co.jp/detail/c5dc2ee93b9532c5a627387297d41cc60ddb5c46
阪神甲子園球場が今年8月1日に開場100周年を迎え、感謝の気持ちを込めた「記念品」プレゼント配布の第4弾が『甲子園歴史館』(西宮市)にて、まもなくスタートします。
同プレゼントは今年1月から配布がスタート。第1弾では「100周年記念ステッカー(2種セット)」、第2弾に「100周年記念アクリルキーホルダー」、第3弾として「ボールチャーム付きユニフォームキーホルダー」の配布が行われました。
現在配布中の第3弾プレゼントが終了次第(9月上中旬頃の予定)、最後となる第4弾の球場100周年ロゴをあしらった今年だけの限定「メダル型ピンバッチ」にバトンタッチします。
記念品は先着6万名を予定、甲子園歴史館に併設するバーチャルバッティングセンター「BE-STADIUM KOSHIEN supported by STAND IN」の体験者(購入条件あり)にも配られるそうです。
なお、プレゼントはなくなり次第、配布期間内でも終了するとのことです。
<記者のひとこと>今年で100周年を迎えた阪神甲子園球場はさまざまな記念イベントが開催され、特別で楽しい一年でした。これからの100年に向けて進化していく姿にも目が離せませんね。
実施期間【第4弾】
2024年9月上中旬頃~12月26日(予定)
※先着順
※なくなり次第、配布期間内でも終了
配布場所
甲子園歴史館(西宮市甲子園町8-15 甲子園プラス 2F)
📝掛川西高を26年ぶり甲子園に導いた大石卓哉監督にロングインタビュー【前編】1年目は「地獄の始まり」生かした名将2人の教え
https://article.yahoo.co.jp/detail/1ffd2579da6cfdaf4b6179133ff403607d47338f
今夏、全国高校野球選手権(甲子園)に26年ぶりに出場し、60年ぶりの1勝を挙げた掛川西。2018年に母校に着任し、7年目を迎えた大石卓哉監督(44)に、監督として初の甲子園出場をつかむまでの悪戦苦闘の日々を振り返っていただきました。
就任1年目を「地獄の始まり」と表現するほど勝てなくて苦しんだ6年間。最後に拠り所となったのは2人の名将の言葉だったそうです。
静岡高前監督として春夏通算7度の甲子園、3度の明治神宮大会に導いた栗林俊輔さん(52)=県教委=と、常葉菊川(現常葉大菊川)で2007年春の選抜優勝を成し遂げ、1月に急逝した御殿場西前監督の森下知幸さん(享年62)。2人の教えをどのように生かし、突破口を開いたのか。インタビューの詳報を2回に分けてお届けします。
―掛川西に着任する直前の4年間は、静岡高で部長、副部長を務め、栗林前監督とタッグを組んで、甲子園に5度出場しました。
「掛川西に就任した1、2年目は栗林先生のマネをしてやろうと思っていました。練習内容とかトレーニングのやり方とか、口調まで。チームの作り方は栗林先生が最高だと思っていたので、マネしたら勝てると思っていました。
自分が一番、栗林先生のノウハウも、采配も分かってる。栗林先生が培ってきた人脈も全部使えるわけじゃないですか。県内で一番恵まれていると思って、なめてました。でも全然うまくいかなかった。地獄の始まりでした。選手は一応、聞いているふりをしていました。でもその言葉には自分の心が乗ってないから、きっと選手たちも『何言ってんだ』『勝っているのはお前じゃない』と心で反発していたでしょうね。
自分の中では経験を積んできたと勘違いしちゃっていたから。うわべですよね。絶対に勝てない。2年目の夏が2回戦でコールド負け。3年目の代替大会も2回戦で負けました」
―そのあたりから自分の色を出すようになった?
「自分の考えで、自分のペースで、自分のやり方でいこうと思ったんです。日々の過ごし方、声かけ、距離感。自分の色でチームをつくろうと。髪形を自由にしたり、冬の間は日曜日を休みにしたりしました。
(選手の自主性を尊重した)『リーガ・アグレシーバ』も導入しました。自分が入院したことがあって約1カ月半、練習に出られなかった時も何の問題もなかったんです。むしろ一度チームを離れて、気づきも多かったです」
静岡高で指導していた時代の栗林さん(右)と大石監督
―就任4年目で沢山優介投手(ヤマハ)、榊原遼太郎投手(国学院大3年)という左右の2枚看板を擁した夏も甲子園に届きませんでした。
「2人のいいピッチャーがいて、春の東海大会で優勝しました。そうしたら夏に勝ちたくなっちゃったんですね。周りにも優勝候補と言われて、OBは『今年行けなきゃ二度と行けない』みたいな雰囲気になった。
自分も『勝たなきゃ』と思っていた。ただ、あの時(采配が)ブレたんですよね。2人とも完投できたし、交互に先発でいいなと大会前は思っていました。でも思いのほか打てなくて、渋いゲームをやって勝ち上がり、プレッシャーを感じながら準々、準決と入っていったんです。
最後は守りに入ってしまった。準決勝の東海大翔洋戦は沢山が先発と最初から決めていたのに、榊原を先発させて(0−2で)敗れた。
前年からのエースは榊原でコントロールもいいし、度胸もある。沢山は秋になって伸びてきて、一冬越えたら本当にいい投手になった。でも、まだ榊原への信頼の方が厚かったのかもしれない。沢山は春から1点も取られてなかったのに、なぜあそこで沢山じゃなかったのか。何でブレたのか。すごい後悔をした。
遼太郎(榊原)に後から言われたんです。『翔洋には勝てる気がしなかった。(島田一)中学の時に、縦じま(東海大翔洋中)には勝ったことなかったんです』と。嘘だろう、先に言ってくれよと。
それくらい僕と選手に距離感があったんでしょう。言えなかったんだと思う。選手の心を把握しきれていなかった。強制的に飯を食わしたり、毎日毎日体重をはかって、減っていたら叱って。そうするとポケットにおにぎりとか突っ込んで体重計に乗るやつが出てきたり。
選手の心に寄り添えてないから采配ミス、起用ミスが起きたんだなと、冷静に考えると思いました。チャンピオンになれる、いい選手はいたけれど、監督と選手が本当の意味でつながっていなかったんだなと」
―今年の夏はどうだったんですか。
「今年は複数の投手がいたんですけど、全部予定通りにいきました。勝つために、準々決勝と準決勝は(2年生左腕の)加藤(瑞己)を使うと決めていました。それを見越して練習試合も加藤を先発させてきた。
大会中に(捕手の)堀口(泰徳)にも『加藤を使うからな』と伝えたら、『当たり前じゃないですか』と言われちゃった。こっちは勝負してるつもりで言ってるのに、当たり前って言われるとショックだったんですけど(笑)。選手が一枚も二枚も上手だなと。みんなに助けられた。選手たちはそこでやるって決められたら(準備して)やってくるんですよね」
―栗林先生の長男毅知選手が掛川西に入学し、昨秋から栗林先生が父母会長になりましたね。
「父母会長として毎試合見てるんです。プレッシャーですよね(笑)。ひどい試合して負けまくっているんですよ。何か一言、こうした方がいいんじゃないのとか言ってくれればいいのに、何も言わないので、不安になるじゃないですか。ただ、生徒には毎日が決勝だと思って練習しろと言ってるから、自分自身が日々プレッシャーを感じることも受け入れました。
甲子園に行くために掛川西に来て、トレーニングルームができて、マシンが増えて、寮があって、言うことない環境です。でも、夏が来るのが本当に嫌だった。
栗林先生に助けを求めようかと思った時期もありました。昨秋、県予選1回戦で負けて迎えた冬は本当に苦しくて。大会はないし、地道に練習するしかなくて。いっそのこと(チームに)入ってもらって、中からチームの足りない部分とか指摘してもらおうかと」
―そうしなかったのは?
「今年1月に他県の指導者も含めた勉強会が静岡で開かれて、栗林先生が講演したんです。そこで、自分の言葉だと思っていたことが、栗林先生の教えだったと気付いたんです。
3年目から自分の色を出そうとやってきたことが、実は全部、栗林先生のマネだった。『選手を大切にする』『勝負は準備で8割決まる』『徹底と継続』『全て甲子園基準』とか。
自分の中に教えが全部落とし込まれていた。結局、栗林先生の言葉が自分の指導の根幹なんだと。自分のものかのように勝手に思っていて、使っていたら実は丸パクリだった(笑)。ということは自信になるんですよ。
栗林先生が大事にしていることと、自分が今一番大事にしていることが同じ。やり方やタイミングさえ間違えなければ、これは大丈夫だぞという自信になったんです。真っ暗な中、ただがむしゃらにやっていて苦しかった。自分のやっていることが正しいかどうか、不安だったから」
―マネを脱却しようとやってきたのに、それで良かったんですか?
「静高で常勝チームをつくった監督の考え方が、何の違和感もなく、本質的に理解ができたということなんです。深くないですか?自分の中で本当に腑に落ちて、自然体でやっていたんですよ。これも栗林先生の言葉ですが『不易流行』。本質は変わらないんですよ。その中で、新しいことも取り入れるということ。
栗林先生と自分はキャラが全然違う。自分は詰めが甘いし、けっこう自由度も高い。それは性格だからしょうがない。でも念頭に置いているポイントは確実に教えてもらったことなんです。
講演では『監督の一方的な押し付けでは結果は出ない。選手が何を求めているかをよく観察して、それに応えていくことが大事』と話していました。『(自分が)勝ちたい、勝ちたい』でやってきたけれど、選手が勝ちたいなら、それをサポートすればいいんだと(自分に向けて)言われた気がしたんです」
―今年の夏は、そういう心境だったのですね。
「甲子園が決まってから(野球部コーチの)杉村(純哉)先生に『大石先生、今年勝つ気なかったですよね』と言われたんです。『去年は大会期間中ピリついてて話しかけにくかった』と。今年も必死でやってたんですが。
ただ、夏の大会前に野球のことは大して考えてなかったんです。メモに残っているのは好球必打とかサインの確認とかそのくらい。あとは姿勢良く立つとか、腕を組まないとか、呼吸はゆっくりとか。選手を信じる、自分を信じる、最後は笑顔とも。勝ちたいって書いてないんです」
📝掛川西の大石卓哉監督ロングインタビュー【後編】 甲子園で選手が〝踊る〟には… 背中を押した故・森下知幸監督の言葉とは…
https://article.yahoo.co.jp/detail/419c5bcf683182f1e1b5a07c474bfef9cb7df6da
―監督として初の甲子園はどうでしたか?
「掛川西としては26年ぶりの甲子園だし、60年勝っていなかった。『思い切ってやりゃいいんだよ』と言ってくれるOBが多かった。『選手を存分に楽しませてやれよ』とか。
それまで『甲子園』『甲子園』と言っていた人たちも、決まった瞬間に『勝て』と一切言わなくなったんです。だからプレッシャーはなかったです。現地での割り当て練習が2時間しかなくても、その2時間を気合を入れてやっていたら選手はどんどん野球がうまくなっていった。練習ってたくさんやればいいってもんじゃないんだなと思いました。
現地に入ってからは半分〝遊んで〟いましたね。『甲子園って楽しいね』『最高だね』という空気感でした。甲子園練習でも自分が(打撃投手で)投げちゃったり。
実は、選手たちには甲子園練習で『野球をやるのやめよう』と言ったんです。(静岡高が出場した)2018年春の選抜の甲子園練習の時にノックを打ったらグラウンドはフカフカだった。それなのに本番になったらピタッとなってた。(後に中日ドラゴンズに入った)村松(開人内野手=静岡高出)も『バウンドが全然違う。甲子園練習の時はペチョペチョしてたのに、パンパンくる』みたいなこと言っていて。
結局、本番になったらグラウンドは変わるし、観客が入ったらボールが見えにくくなる。やってもあまり意味がないから『散歩でもする?』なんて選手に提案してみたんです。でも選手には『嫌だ。野球がやりたいです』と真面目に返されました(笑)」
―甲子園での初戦(日本航空戦)の雰囲気はどうでしたか。
「(常葉菊川を選抜優勝に導き、今年1月に急逝した御殿場西前監督の)森下知幸監督のように、甲子園で選手が〝踊る〟にはどうしたらいいんだろうと考えていました 。
大監督たちのベンチでの立ち位置はどの位置だったんだろうとふと思い、初戦(※ベンチは一塁側)の試合中に、いろんな位置に動いてみたんです。選手に楽しめって言ったから自分も。(智弁和歌山の)高嶋仁前監督の定位置のベンチ中央にも立ってみたけれど、あまり居心地が良くなくて(笑)。
ホームベース側に立ってみると、バッテリーも相手のベンチもよく見えるけれど、(味方の)ベンチの選手の表情が見えなかった。それに、自分が現役の時の経験ですが、甲子園の内野スタンドに座っている人たちって掛川西の応援をしている人たちだけじゃないので、みんな淡々と試合を見ている。だから凡打してベンチに帰る時、寂しいというか、恥ずかしかったんですよね。
その日も選手がやっぱり寂しそうな顔して帰ってきていたので、『どうだった』と真っ先に声が掛けられる、一塁から近い立ち位置に落ち着きました。甲子園に慣れてないチームはこっちがいいなと。選手が甲子園に慣れたら、ホームベース側のほうが次打者に指示も伝えやすいし、やりやすいと思います」
―森下監督からはどんな影響を受けたんですか。
「昨年の秋、県予選1回戦で負けた後、すぐに森下監督が練習試合をやろうと連絡をくれたんです。亡くなる直前の12月にも話をする機会があって。
『監督が勝てるとか、勝ちたいって思ってやるとだいたいダメなんだよ。甲子園行けると思ってるんだろう?だから勝てねえんだよ。甲子園なんか1校しか行けないんだから、行けないと思ってつくるんだよ。選手たちに最後、監督と一緒にやって良かったと言わせられたら監督としては合格だろう』と言われたんです。『最後に夏負けて終わった時に、監督とやって良かったと選手に言わせてみろ』と。
そういう日々の過ごし方をしていると、結局(練習は)厳しくなるんです。選手がやって良かったと思えるようにするには、最後はうまくなっているか、勝っているかなんですよね。
今年の(静岡県高野連の)指導者講習会で、森下監督と長く一緒にやってきた(浜松開誠館前監督の佐野)心さんもそう話していました。『選手たちが夏の大会を終わった時に、監督とやってよかったと思えるようなチームをつくることが甲子園につながった』と」
―秋の静岡県大会が9月14日から始まります。
「これで終わりにしちゃいけないし、次につなげていくためにはさらに自分が学ばないと。今回の甲子園の教訓は『自分が勝ちたい時は周りが見えない、選手に勝ってほしいと思うと最善の手が打てる』。
甲子園での2試合目は選手も監督も『勝ちたい』って欲が出ちゃった。これからも監督というより、教員、教育者として、もっと選手の力を付けられるような指導者になりたいですし、もっと学び続けて、新しいことを知って、自分がワクワクしている状態を続けられたらと思います。
甲子園ってそういうことを教えてくれる場所なんだなと思いました。自分は栗林(俊輔)先生(静岡高前監督)とか森下監督とか、人からもらった言葉が腑に落ちて、自分のものにしてきた。野球が盛んな県はきっと、監督同士がそういう話をして、隠し合うんじゃなくて学び合って、いろんなものを吸収していって、選手に還元されていくんだろうなと思います」
☟かつて甲子園で話題となった元女子マネの今 「誰も気づいてくれない」投稿に反響「変わらず可愛い」「眩しさ変わりません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5cd8c18cd587bec9413c50e735bbc66389cc51dc
2016年夏の甲子園で注目を集め、現在は歌手活動などを行う首藤桃奈が5日、Xを更新。自身の水着ショットを投稿し、反響を集めた。
首藤は同じ赤のビキニを着用した4枚の写真を投稿。21年と24年の姿を比較し、「同じ水着なのに誰も気づいてくれない…病む」と自虐的につづった。
フォロワーからは「お綺麗ですね」「どっちも可愛すぎ」「今の方が好きです」「今も昔も眩しさ変わりません」「変わらず可愛い」などの声が寄せられている。
首藤は16年夏、大分高校のマネジャーとして甲子園に。開幕前の甲子園練習でユニホーム姿でグラウンドに立ち、直後に大会本部からベンチへ戻るように指示された。これが波紋を呼び、翌春のセンバツでは制限付きで女子部員の甲子園練習参加が認められた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/161adb0fc88cf94409cae4b96077c70c45f1dff6
◆ 夏の甲子園を沸かせた“大社旋風”
第106回全国高校野球選手権大会で、最も大きな旋風を起こしたのが大社(島根)だった。
全国に15校しかない、第1回地方大会から出場を続ける皆勤校の一つで、今回は1992年以来32年ぶりの出場だった。
その伝統校が今春選抜準優勝の報徳学園(兵庫)との1回戦に勝利し、61年以来63年ぶりの初戦突破を果たして勢いづいた。
創成館(長崎)との2回戦では延長10回タイブレークの末に勝利して、107年ぶりの夏2勝目。早実(西東京)との3回戦では夏の甲子園史上初となる2試合連続の延長タイブレーク勝利を挙げて、93年ぶりの8強入りをかなえた。
快進撃の中心にはエース左腕の馬庭優太(3年)がいた。3回戦まで3試合連続完投勝利で準々決勝に導いた。初戦で優勝候補の報徳学園相手に被安打7、1失点に抑えて実力を示すと、早実戦では延長11回149球を一人で投げ抜き、最後は自らがサヨナラ打を放って投打で主役を演じた。
試合中から味方の奮闘に涙を流し、声を張り上げながら好投を続ける姿は感動を呼び、次第に一般の観客からも大きな声援を受けるようになった。
「大社旋風」の中心にいた馬庭は、中学時代に他校から入学の勧誘を受ける有力選手だった。その好左腕が92年夏以来甲子園出場から遠ざかる大社への進学を決断した出来事があった。
3学年上の姉・歩未さん(20)が同校野球部のマネジャーを務めていたのだ。姉の3年夏は島根大会決勝で敗れて、あと一歩で甲子園に届かなかった。その一戦を現地観戦していた馬庭が姉に伝えた。
「俺が甲子園に連れて行くから」
こうして進学先の迷いも吹っ切れ、姉を甲子園に連れて行くために大社を選んだ。
ただし聖地にたどり着くまで順風満帆とはいかなかった。下級生の頃は、甲子園出場を目標に掲げて仲間にもストイックさを求める馬庭ら主力組とその他の選手の間で意見が食い違うこともあった。
「今は甲子園とか、そんな高いところ目指してもだめやろ」と反発の声が挙がり、選手同士でぶつかったことも一度や二度ではない。
2年夏は準決勝で敗退して新チームが始動。そこから何度も選手間ミーティングを行って目標を共有した。
馬庭は指導者から「エースとしての自覚を持ちなさい。周りから認められるエースになるには、結果だけでなく普段の取り組みから見られているよ」と伝えられながら、仲間を思いやって投球することを覚えていった。
2年秋は中国大会に出場。選抜出場こそかなわなかったものの、着実に聖地出場へ前進していた。
◆ 「甲子園出場が目標では、あそこに立てない」
今年3月には選手全員で甲子園に来たことがある。兵庫の強豪校である明石商、社との練習試合が降雨中止となったため、選抜大会の観戦に向かったのだ。
そこでは自分たちと同じく地元出身選手中心に戦う公立の阿南光(徳島)が健闘していた。その姿を目に焼き付け、「絶対に俺らもここに立とう」と誓い合った。
春の島根大会に3回戦で敗れると、「甲子園出場が目標では、あそこに立てない。甲子園8強に目標に変えよう」と誓い合った。そして、結束力を高めたナインは夏の甲子園出場をかなえた。
報徳学園との初戦前、馬庭は姉から伝えられた。
「仲間を信じて自分を信じて、全力で楽しんでこい」その言葉通り、仲間を信じて旋風を起こした。
早実との3回戦では、同点の7回に中堅手の藤原佑(3年)が勝ち越しの適時失策を犯すと、「まだ大丈夫。笑顔でやろうぜ」と声をかけ、馬庭自らサヨナラ打を放った。試合後、藤原は「みんながいなければ、立ち直れなかった」と感謝の涙を流した。
神村学園(鹿児島)との準々決勝で敗れると、馬庭は「辛いときもみんなが寄り添ってくれた。もっとみんなと試合がしたかった」と真っ先に仲間のことを思った。
大社旋風は、馬庭がいなければ起きなかった。ただし、エース一人のチームではなかった。全員で支え合って生まれた快進撃だった。
🎁100周年記念ラストを飾る感謝を込めたプレゼント 甲子園歴史館「阪神甲子園球場100周年記念品」第4弾の配布がまもなくスタート
https://article.yahoo.co.jp/detail/c5dc2ee93b9532c5a627387297d41cc60ddb5c46
阪神甲子園球場が今年8月1日に開場100周年を迎え、感謝の気持ちを込めた「記念品」プレゼント配布の第4弾が『甲子園歴史館』(西宮市)にて、まもなくスタートします。
同プレゼントは今年1月から配布がスタート。第1弾では「100周年記念ステッカー(2種セット)」、第2弾に「100周年記念アクリルキーホルダー」、第3弾として「ボールチャーム付きユニフォームキーホルダー」の配布が行われました。
現在配布中の第3弾プレゼントが終了次第(9月上中旬頃の予定)、最後となる第4弾の球場100周年ロゴをあしらった今年だけの限定「メダル型ピンバッチ」にバトンタッチします。
記念品は先着6万名を予定、甲子園歴史館に併設するバーチャルバッティングセンター「BE-STADIUM KOSHIEN supported by STAND IN」の体験者(購入条件あり)にも配られるそうです。
なお、プレゼントはなくなり次第、配布期間内でも終了するとのことです。
<記者のひとこと>今年で100周年を迎えた阪神甲子園球場はさまざまな記念イベントが開催され、特別で楽しい一年でした。これからの100年に向けて進化していく姿にも目が離せませんね。
実施期間【第4弾】
2024年9月上中旬頃~12月26日(予定)
※先着順
※なくなり次第、配布期間内でも終了
配布場所
甲子園歴史館(西宮市甲子園町8-15 甲子園プラス 2F)
📝掛川西高を26年ぶり甲子園に導いた大石卓哉監督にロングインタビュー【前編】1年目は「地獄の始まり」生かした名将2人の教え
https://article.yahoo.co.jp/detail/1ffd2579da6cfdaf4b6179133ff403607d47338f
今夏、全国高校野球選手権(甲子園)に26年ぶりに出場し、60年ぶりの1勝を挙げた掛川西。2018年に母校に着任し、7年目を迎えた大石卓哉監督(44)に、監督として初の甲子園出場をつかむまでの悪戦苦闘の日々を振り返っていただきました。
就任1年目を「地獄の始まり」と表現するほど勝てなくて苦しんだ6年間。最後に拠り所となったのは2人の名将の言葉だったそうです。
静岡高前監督として春夏通算7度の甲子園、3度の明治神宮大会に導いた栗林俊輔さん(52)=県教委=と、常葉菊川(現常葉大菊川)で2007年春の選抜優勝を成し遂げ、1月に急逝した御殿場西前監督の森下知幸さん(享年62)。2人の教えをどのように生かし、突破口を開いたのか。インタビューの詳報を2回に分けてお届けします。
―掛川西に着任する直前の4年間は、静岡高で部長、副部長を務め、栗林前監督とタッグを組んで、甲子園に5度出場しました。
「掛川西に就任した1、2年目は栗林先生のマネをしてやろうと思っていました。練習内容とかトレーニングのやり方とか、口調まで。チームの作り方は栗林先生が最高だと思っていたので、マネしたら勝てると思っていました。
自分が一番、栗林先生のノウハウも、采配も分かってる。栗林先生が培ってきた人脈も全部使えるわけじゃないですか。県内で一番恵まれていると思って、なめてました。でも全然うまくいかなかった。地獄の始まりでした。選手は一応、聞いているふりをしていました。でもその言葉には自分の心が乗ってないから、きっと選手たちも『何言ってんだ』『勝っているのはお前じゃない』と心で反発していたでしょうね。
自分の中では経験を積んできたと勘違いしちゃっていたから。うわべですよね。絶対に勝てない。2年目の夏が2回戦でコールド負け。3年目の代替大会も2回戦で負けました」
―そのあたりから自分の色を出すようになった?
「自分の考えで、自分のペースで、自分のやり方でいこうと思ったんです。日々の過ごし方、声かけ、距離感。自分の色でチームをつくろうと。髪形を自由にしたり、冬の間は日曜日を休みにしたりしました。
(選手の自主性を尊重した)『リーガ・アグレシーバ』も導入しました。自分が入院したことがあって約1カ月半、練習に出られなかった時も何の問題もなかったんです。むしろ一度チームを離れて、気づきも多かったです」
静岡高で指導していた時代の栗林さん(右)と大石監督
―就任4年目で沢山優介投手(ヤマハ)、榊原遼太郎投手(国学院大3年)という左右の2枚看板を擁した夏も甲子園に届きませんでした。
「2人のいいピッチャーがいて、春の東海大会で優勝しました。そうしたら夏に勝ちたくなっちゃったんですね。周りにも優勝候補と言われて、OBは『今年行けなきゃ二度と行けない』みたいな雰囲気になった。
自分も『勝たなきゃ』と思っていた。ただ、あの時(采配が)ブレたんですよね。2人とも完投できたし、交互に先発でいいなと大会前は思っていました。でも思いのほか打てなくて、渋いゲームをやって勝ち上がり、プレッシャーを感じながら準々、準決と入っていったんです。
最後は守りに入ってしまった。準決勝の東海大翔洋戦は沢山が先発と最初から決めていたのに、榊原を先発させて(0−2で)敗れた。
前年からのエースは榊原でコントロールもいいし、度胸もある。沢山は秋になって伸びてきて、一冬越えたら本当にいい投手になった。でも、まだ榊原への信頼の方が厚かったのかもしれない。沢山は春から1点も取られてなかったのに、なぜあそこで沢山じゃなかったのか。何でブレたのか。すごい後悔をした。
遼太郎(榊原)に後から言われたんです。『翔洋には勝てる気がしなかった。(島田一)中学の時に、縦じま(東海大翔洋中)には勝ったことなかったんです』と。嘘だろう、先に言ってくれよと。
それくらい僕と選手に距離感があったんでしょう。言えなかったんだと思う。選手の心を把握しきれていなかった。強制的に飯を食わしたり、毎日毎日体重をはかって、減っていたら叱って。そうするとポケットにおにぎりとか突っ込んで体重計に乗るやつが出てきたり。
選手の心に寄り添えてないから采配ミス、起用ミスが起きたんだなと、冷静に考えると思いました。チャンピオンになれる、いい選手はいたけれど、監督と選手が本当の意味でつながっていなかったんだなと」
―今年の夏はどうだったんですか。
「今年は複数の投手がいたんですけど、全部予定通りにいきました。勝つために、準々決勝と準決勝は(2年生左腕の)加藤(瑞己)を使うと決めていました。それを見越して練習試合も加藤を先発させてきた。
大会中に(捕手の)堀口(泰徳)にも『加藤を使うからな』と伝えたら、『当たり前じゃないですか』と言われちゃった。こっちは勝負してるつもりで言ってるのに、当たり前って言われるとショックだったんですけど(笑)。選手が一枚も二枚も上手だなと。みんなに助けられた。選手たちはそこでやるって決められたら(準備して)やってくるんですよね」
―栗林先生の長男毅知選手が掛川西に入学し、昨秋から栗林先生が父母会長になりましたね。
「父母会長として毎試合見てるんです。プレッシャーですよね(笑)。ひどい試合して負けまくっているんですよ。何か一言、こうした方がいいんじゃないのとか言ってくれればいいのに、何も言わないので、不安になるじゃないですか。ただ、生徒には毎日が決勝だと思って練習しろと言ってるから、自分自身が日々プレッシャーを感じることも受け入れました。
甲子園に行くために掛川西に来て、トレーニングルームができて、マシンが増えて、寮があって、言うことない環境です。でも、夏が来るのが本当に嫌だった。
栗林先生に助けを求めようかと思った時期もありました。昨秋、県予選1回戦で負けて迎えた冬は本当に苦しくて。大会はないし、地道に練習するしかなくて。いっそのこと(チームに)入ってもらって、中からチームの足りない部分とか指摘してもらおうかと」
―そうしなかったのは?
「今年1月に他県の指導者も含めた勉強会が静岡で開かれて、栗林先生が講演したんです。そこで、自分の言葉だと思っていたことが、栗林先生の教えだったと気付いたんです。
3年目から自分の色を出そうとやってきたことが、実は全部、栗林先生のマネだった。『選手を大切にする』『勝負は準備で8割決まる』『徹底と継続』『全て甲子園基準』とか。
自分の中に教えが全部落とし込まれていた。結局、栗林先生の言葉が自分の指導の根幹なんだと。自分のものかのように勝手に思っていて、使っていたら実は丸パクリだった(笑)。ということは自信になるんですよ。
栗林先生が大事にしていることと、自分が今一番大事にしていることが同じ。やり方やタイミングさえ間違えなければ、これは大丈夫だぞという自信になったんです。真っ暗な中、ただがむしゃらにやっていて苦しかった。自分のやっていることが正しいかどうか、不安だったから」
―マネを脱却しようとやってきたのに、それで良かったんですか?
「静高で常勝チームをつくった監督の考え方が、何の違和感もなく、本質的に理解ができたということなんです。深くないですか?自分の中で本当に腑に落ちて、自然体でやっていたんですよ。これも栗林先生の言葉ですが『不易流行』。本質は変わらないんですよ。その中で、新しいことも取り入れるということ。
栗林先生と自分はキャラが全然違う。自分は詰めが甘いし、けっこう自由度も高い。それは性格だからしょうがない。でも念頭に置いているポイントは確実に教えてもらったことなんです。
講演では『監督の一方的な押し付けでは結果は出ない。選手が何を求めているかをよく観察して、それに応えていくことが大事』と話していました。『(自分が)勝ちたい、勝ちたい』でやってきたけれど、選手が勝ちたいなら、それをサポートすればいいんだと(自分に向けて)言われた気がしたんです」
―今年の夏は、そういう心境だったのですね。
「甲子園が決まってから(野球部コーチの)杉村(純哉)先生に『大石先生、今年勝つ気なかったですよね』と言われたんです。『去年は大会期間中ピリついてて話しかけにくかった』と。今年も必死でやってたんですが。
ただ、夏の大会前に野球のことは大して考えてなかったんです。メモに残っているのは好球必打とかサインの確認とかそのくらい。あとは姿勢良く立つとか、腕を組まないとか、呼吸はゆっくりとか。選手を信じる、自分を信じる、最後は笑顔とも。勝ちたいって書いてないんです」
📝掛川西の大石卓哉監督ロングインタビュー【後編】 甲子園で選手が〝踊る〟には… 背中を押した故・森下知幸監督の言葉とは…
https://article.yahoo.co.jp/detail/419c5bcf683182f1e1b5a07c474bfef9cb7df6da
―監督として初の甲子園はどうでしたか?
「掛川西としては26年ぶりの甲子園だし、60年勝っていなかった。『思い切ってやりゃいいんだよ』と言ってくれるOBが多かった。『選手を存分に楽しませてやれよ』とか。
それまで『甲子園』『甲子園』と言っていた人たちも、決まった瞬間に『勝て』と一切言わなくなったんです。だからプレッシャーはなかったです。現地での割り当て練習が2時間しかなくても、その2時間を気合を入れてやっていたら選手はどんどん野球がうまくなっていった。練習ってたくさんやればいいってもんじゃないんだなと思いました。
現地に入ってからは半分〝遊んで〟いましたね。『甲子園って楽しいね』『最高だね』という空気感でした。甲子園練習でも自分が(打撃投手で)投げちゃったり。
実は、選手たちには甲子園練習で『野球をやるのやめよう』と言ったんです。(静岡高が出場した)2018年春の選抜の甲子園練習の時にノックを打ったらグラウンドはフカフカだった。それなのに本番になったらピタッとなってた。(後に中日ドラゴンズに入った)村松(開人内野手=静岡高出)も『バウンドが全然違う。甲子園練習の時はペチョペチョしてたのに、パンパンくる』みたいなこと言っていて。
結局、本番になったらグラウンドは変わるし、観客が入ったらボールが見えにくくなる。やってもあまり意味がないから『散歩でもする?』なんて選手に提案してみたんです。でも選手には『嫌だ。野球がやりたいです』と真面目に返されました(笑)」
―甲子園での初戦(日本航空戦)の雰囲気はどうでしたか。
「(常葉菊川を選抜優勝に導き、今年1月に急逝した御殿場西前監督の)森下知幸監督のように、甲子園で選手が〝踊る〟にはどうしたらいいんだろうと考えていました 。
大監督たちのベンチでの立ち位置はどの位置だったんだろうとふと思い、初戦(※ベンチは一塁側)の試合中に、いろんな位置に動いてみたんです。選手に楽しめって言ったから自分も。(智弁和歌山の)高嶋仁前監督の定位置のベンチ中央にも立ってみたけれど、あまり居心地が良くなくて(笑)。
ホームベース側に立ってみると、バッテリーも相手のベンチもよく見えるけれど、(味方の)ベンチの選手の表情が見えなかった。それに、自分が現役の時の経験ですが、甲子園の内野スタンドに座っている人たちって掛川西の応援をしている人たちだけじゃないので、みんな淡々と試合を見ている。だから凡打してベンチに帰る時、寂しいというか、恥ずかしかったんですよね。
その日も選手がやっぱり寂しそうな顔して帰ってきていたので、『どうだった』と真っ先に声が掛けられる、一塁から近い立ち位置に落ち着きました。甲子園に慣れてないチームはこっちがいいなと。選手が甲子園に慣れたら、ホームベース側のほうが次打者に指示も伝えやすいし、やりやすいと思います」
―森下監督からはどんな影響を受けたんですか。
「昨年の秋、県予選1回戦で負けた後、すぐに森下監督が練習試合をやろうと連絡をくれたんです。亡くなる直前の12月にも話をする機会があって。
『監督が勝てるとか、勝ちたいって思ってやるとだいたいダメなんだよ。甲子園行けると思ってるんだろう?だから勝てねえんだよ。甲子園なんか1校しか行けないんだから、行けないと思ってつくるんだよ。選手たちに最後、監督と一緒にやって良かったと言わせられたら監督としては合格だろう』と言われたんです。『最後に夏負けて終わった時に、監督とやって良かったと選手に言わせてみろ』と。
そういう日々の過ごし方をしていると、結局(練習は)厳しくなるんです。選手がやって良かったと思えるようにするには、最後はうまくなっているか、勝っているかなんですよね。
今年の(静岡県高野連の)指導者講習会で、森下監督と長く一緒にやってきた(浜松開誠館前監督の佐野)心さんもそう話していました。『選手たちが夏の大会を終わった時に、監督とやってよかったと思えるようなチームをつくることが甲子園につながった』と」
―秋の静岡県大会が9月14日から始まります。
「これで終わりにしちゃいけないし、次につなげていくためにはさらに自分が学ばないと。今回の甲子園の教訓は『自分が勝ちたい時は周りが見えない、選手に勝ってほしいと思うと最善の手が打てる』。
甲子園での2試合目は選手も監督も『勝ちたい』って欲が出ちゃった。これからも監督というより、教員、教育者として、もっと選手の力を付けられるような指導者になりたいですし、もっと学び続けて、新しいことを知って、自分がワクワクしている状態を続けられたらと思います。
甲子園ってそういうことを教えてくれる場所なんだなと思いました。自分は栗林(俊輔)先生(静岡高前監督)とか森下監督とか、人からもらった言葉が腑に落ちて、自分のものにしてきた。野球が盛んな県はきっと、監督同士がそういう話をして、隠し合うんじゃなくて学び合って、いろんなものを吸収していって、選手に還元されていくんだろうなと思います」
☟かつて甲子園で話題となった元女子マネの今 「誰も気づいてくれない」投稿に反響「変わらず可愛い」「眩しさ変わりません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5cd8c18cd587bec9413c50e735bbc66389cc51dc
2016年夏の甲子園で注目を集め、現在は歌手活動などを行う首藤桃奈が5日、Xを更新。自身の水着ショットを投稿し、反響を集めた。
首藤は同じ赤のビキニを着用した4枚の写真を投稿。21年と24年の姿を比較し、「同じ水着なのに誰も気づいてくれない…病む」と自虐的につづった。
フォロワーからは「お綺麗ですね」「どっちも可愛すぎ」「今の方が好きです」「今も昔も眩しさ変わりません」「変わらず可愛い」などの声が寄せられている。
首藤は16年夏、大分高校のマネジャーとして甲子園に。開幕前の甲子園練習でユニホーム姿でグラウンドに立ち、直後に大会本部からベンチへ戻るように指示された。これが波紋を呼び、翌春のセンバツでは制限付きで女子部員の甲子園練習参加が認められた。