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👣高校野球の“名将”強力『ヒグマ打線』の指導者 クラーク国際記念高校・佐々木啓司監督(70)が勇退「すばらしい野球生活だった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4d2e47ccfe4e6d0a9b1f88b627a5c3b97de5cdc

高校野球、クラーク国際記念高校・硬式野球部の佐々木啓司監督(70)が、9月2日退任することを発表しました。

佐々木監督は、1978年から駒大岩見沢の監督や部長を務めたあと、2014年に、クラーク国際記念高校の監督に就任。春夏合わせて16度、甲子園出場に導きました。駒大岩見沢時代には「ヒグマ打線」と呼ばれる強力打線の指導者として名をはせました。

佐々木啓司監督「すばらしい野球生活を送らせてもらった。人からの思いを大切にしてきたのが、これまで頑張ってこれた原動力になった」

後任は、息子の達也さん(42)が監督となり、佐々木監督は、名誉監督に就任します。

📝“甲子園優勝”智弁和歌山を「最も苦しめた男」は何者だった?「甲子園、見に行ったんですよ」まさかの「夢は美容師」だった“公立校の151キロ右腕”の軌跡
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae9330d5b1d0b752444c9e1bd1ed226fa0b528ba

持ち前の強打を活かし、夏の甲子園で頂点に立った智弁和歌山。だが、実は和歌山大会準々決勝では、ある右腕の前に最後の最後まで苦しめられた。果たして全国王者を追い詰めた公立校のエースとは何者だったのか?  その「意外な夢」と合わせて本人に話を聞いた。

8月末のある日。すでに秋の公式戦が始まっている市和歌山のグラウンドは、週末の一戦に向けた新チームの練習で活気にあふれていた。その傍らで髪の毛が伸びた練習着姿の3年生が野球道具を抱えてやってくると、軽く練習を開始。白いチームのTシャツに身を包んだ丹羽涼介も、その中で笑顔を見せながらグローブを手にした。細身ですらっとした立ち姿は相変わらずだ。高校野球を引退し、夏休みを経た3年生はこの時点で体型が少し変わっていることはあるが、丹羽は現役時代そのままだった。

夏休みは満喫できたのかを問うと、丹羽の口からこう返ってきた。

「甲子園、見に行っていたんですよ。智弁の試合を……2試合、見に行きました」

聞くと初戦の社戦、準決勝の横浜戦を現地観戦したという。これまでの丹羽のクールなイメージからすると、ライバル校の試合など、むしろ見たくないのではと勝手な印象を持っていた。だが、やはり県で何度も戦ったライバルの勇姿を見届けたかったのと、小・中学校でチームメイトだった背番号12の井戸本陽向の応援のため、聖地に駆けつけたのだという。

「(準決勝の横浜戦で)楠本(龍生)がホームランを打った時、スタンドが揺れていました。すごかったですよね」

智弁の打者は「生き生きとバットを振っていた」
 
当時の衝撃を丹羽はやや興奮気味に口にする。そして5年ぶりに全国制覇を成し遂げた智弁和歌山の打者について、こんな印象も持っていた。

「智弁和歌山のバッターは、甲子園に来てから生き生きとバットを振っているように見えました。そこが県大会とは違っていたような気がします」

県大会5試合、甲子園で5試合。智弁和歌山が今夏の全国制覇に至るまで戦った計10試合で、同校の打線を最も抑えたのは、実は丹羽だった。県大会準々決勝で対戦し先発。敗れはしたが、4回2死まで無安打投球など9回を投げ切り6安打2失点だった。

この試合以前に丹羽は3度、智弁和歌山打線に相対している。智弁和歌山打線には慣れていたのでは、と思いがちだが、この夏の快投に至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
丹羽は市和歌山では1年春からベンチ入り。秋には投手陣の一角を担い、秋季近畿大会に出場した。準決勝の智弁和歌山戦。1-6とリードされた8回に4番手投手として登板したのが智弁和歌山戦の初登板だった。結果は2安打を許すも無失点。直球は137キロをマークするなど1年生としては上々の内容だった。

丹羽は和歌山大会のメイン球場の紀三井寺球場近くで育った生粋の“和歌山っ子”だ。当然、智弁和歌山の県内での強さは、幼い頃から肌で感じてきた。

「とにかく名前負けはしないようにと。その思いだけは持ちながら投げるようにしてきました」

昨春のセンバツで好投…一躍「プロ注目」の投手に
 
その翌春、つまり昨春センバツは智弁和歌山とのアベック出場を果たした。市和歌山は初戦で横浜と対戦。先発したエースの土井源二郎から引き継いで3回途中から登板した丹羽は、のちに優勝することになった強力打線を相手に6回2/3を投げて2安打1失点。奪三振は8個を数えた。直球は秋から10キロアップの147キロをマークするなど上々の数字を残し、「あの2年生右腕は誰なんだ」と、丹羽の株は一気に跳ね上がった。

直後の春の県大会ではその直球の球速が150キロに届き、来秋のドラフト候補と言われるまでになったが、そこから丹羽の苦悩の日々が続くことになる。
2年夏は智弁和歌山と準々決勝で対戦し、先発のマウンドに立った。だが初回からボール先行のピッチングが続き、5回途中8安打5失点で降板している。5四死球も失点に絡んでおり、打たれた数字以上に自滅したという表現の方が合っていたかもしれない。試合は0-7(8回コールド)で完敗。ただ、センバツからの注目度は結果に全く関係はなかったという。

「あの頃、自分はまだ下級生でしたし、気楽に投げられていたので、センバツのことは特に気にはなりませんでした。でも秋に最上級生になって、エース番号をつけるようになったら自分がチームを勝たせられるようにならないといけない。そう思うほど、苦しんだこともありました」

エースとして臨んだ昨秋は近畿大会まで勝ち進むも初戦で大阪桐蔭に1-7で敗れた。そこから長い冬に突入。課題は明確だった。まず、どうしてもかさんでしまう球数の多さ。2年夏に敗れた試合は5回途中で球数がすでに100球超えだった。

「フォアボールを出してしまうと、どうしてもストライクを入れないと、という気持ちが一層強くなるんです。そこから余計に慎重になって、またボールになってしまって」

満を持して迎えた春大会で…「まさかの大乱調」
 
制球力を磨くことに時間をかけ、迎えた今春の県大会。初戦でいきなり智弁和歌山と激突することになった。昨夏に続く先発のマウンドに立ったが、やはり初回からボールが先行した。毎回走者を背負い、6回を投げ4安打5失点。7四死球を与えるなどスタンドに陣取ったNPBスカウトからも深い溜息が漏れるような内容だった。

夏までにもう時間はない。もう一度自分を見つめ直すべく、体幹を作り直すためのトレーニングやウエイトトレーニングを敢行した。だが、すぐに上手くいったわけではない。半田真一監督も当時の丹羽についてこう明かす。

「バランスが崩れて球速も落ちて、毎日フォームが違う。もう、もがいていましたね。丹羽自身、どこかこうイライラしているようにも見えました。でも、夏の話に触れると本人は“夏は絶対にやります”って言うんですよ。気持ちはちゃんと夏に向いてはいたと思うんです。夏こそは智弁を倒して甲子園に行くという覚悟はできていたと思うんですが、実際は気持ちと身体がなかなかマッチングしない。だから、見ていて痛々しかったですね」

「このまま野球をやっていていいのかな」
 
フォームに関して、丹羽はこんな話もしていた。

「(今年の)春くらいに、山本由伸投手(ドジャース)のフォームを参考にして投げていた時期があったんです。智弁和歌山戦後にそのフォームで投げてみようとか試したんですけど、うまくいかなくて。その後に去年のセンバツの時のフォームに戻してもダメで。何をやってもしっくり来なくて、このまま野球をやっていていいのかなと思ったこともありました」

小園健太(DeNA)ら主に投手を指導してきた舩津直也副部長(現・箕島高監督)がこの4月に異動したことも少なからず影響はあった。この時期が丹羽にとって「高校に入学して一番苦しかった時期」だったという。練習試合でも直球の球速は140キロはおろか、130キロ台後半まで落ち、NPBスカウトの中でも「丹羽が大変なことになっている」という言葉すら聞かれはじめていた。

               <次回へつづく>

📝「プロにするか、美容師の道に進むか…」“甲子園優勝”智弁和歌山を「最も苦しめた男」の進路はどうなった? 公立校151キロ右腕の“決意”のワケ
https://number.bunshun.jp/articles/-/871791?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink

プロ注目の151キロ右腕だった市立和歌山の丹羽涼介。だが、今春からはフォームを変更したことによるスランプに悩んでいた。
7月に入っても復調の兆しはなかなか見えてこなかった。やがて夏の大会が始まり、初戦(2回戦)の田辺工戦で先発した丹羽は、5安打1失点とまずまずの内容で夏の初戦を突破した。それでもその日のピッチングについて尋ねると、丹羽の表情は晴れなかった。

「全然ダメでした。やっぱりコントロールが良くなかったです(※与四死球は5個)。自分が思っていたような内容ではなかったです」

智弁和歌山戦まで中5日あったが、実はその間も何かが劇的に変わることもなく当日を迎えたのだという。

「智弁和歌山戦前日のブルペンも、あまり良くないままでした。思ったようなボールはほとんどなかったですね。でも、最後の夏やし明日はもう抑えるしかないと。開き直りというか。もう、やるしかないと思うようになって。あれこれ気にしていたら悪い方向にばかりいってしまうので、当たって砕けろみたいな気持ちになりました」

余計なことは考えず、腕を振ればいい。気持ちをフラットに臨んだ“決戦”。その姿勢が反対に無駄な力を抜き、丹羽らしさを出せたのかもしれない。

智弁和歌山の上位打線をわずか3球で…掴んだ手応え
 
初回。1番の長友悠成を遊ゴロ、2番の荒井優聖を中飛、3番の井本陽太を二ゴロ。あの脅威の上位打線を3球で仕留められた。思わぬ滑り出しとなり、今までにはなかった手応えを掴んだ気もした。

「自分はもともと立ち上がりが課題でした。全て初球を打ってくれたのもあったんですけれど、こういう形で初回を終われたことは自分に流れが来ているのかなと思いました」

3回までは無安打に抑え、4回、5回は安打を許すも後続を断った。6回には満塁のピンチを背負ったが、あと1本を許さなかった。練習試合ではなかなか球速が上がらなかった速球も、序盤には150キロをマーク。速球とカットボールとのコンビネーションで智弁和歌山打線を抑え込み、気づけば7回になっていた。

裏目に出た「賭け」…無安打での失点
 
だが8回、丹羽が挑んだ“ギャンブル”が裏目に出る。

「7回までに使っていなかったカーブを投げたんです。それが(長友への)死球になってしまって」

この日の丹羽は、変化球にカットボールが多かった。そのため、打者の目を惑わす意味でカーブを投げた。だが、それが指に引っかかってしまい、先頭打者の長友への死球となった。その後は暴投で一気に三塁を陥れられ、犠飛で1点を失った。9回は3連打でさらに1点を失った。0-2。終盤まで粘り切ったものの、最後は力尽きた。ただ、これまでの敗戦を思うと丹羽の心中は清々しかった。

「全部出し切れた、というのはあります。(9回の追加点の口火を切ることになった)二塁打を打たれたのが(小学校・中学校と同じチームだった)井戸本(陽向)だったので、あの場面はこうしておけば……というのはありますけど。今まで悔しいまま終わったことを思うと、最後の最後に力は出せたのかなと思いました」

甲子園優勝後の取材で、中谷仁監督は何度も「和歌山の良い投手とばかり対戦して、和歌山のピッチャーに育ててもらった」とコメントしていた。智弁和歌山ナインからは、甲子園の準決勝後に「これまで対戦した投手の中で横浜・織田翔希が断トツ凄かった」という声が聞かれる中で「丹羽のストレートのキレとカットボールが良かった」と口にする者もいた。

「智弁和歌山打線は初球からガンガン振ってくるので、そこをうまく利用しようと思いました。どんなバッターでも厳しいコースをしっかり攻めればそう簡単に打たれないと思ったので。ただ、智弁和歌山の打者はとにかく三振が少ないんです。三振を取りたい場面ほど三振をしない。そこに自分は何度も苦しめられました」

その快投でNPBスカウトからの評価が一気に変わるのか――。多くの可能性も残したまま丹羽の将来への話に繋がっていくはずだが、丹羽に関してもうひとつ気になっていたのが「美容師志望」という報道だった。その報道が出たのは今年の3月。あるセンバツ出場校との練習試合後の記事で、プロ注目とされながら実は美容師志望でもあることが明かされたのだ。これまでマークしてきたNPBスカウトからしても、まさに「寝耳に水」の話で、半田(真一)監督のもとにも多くの問い合わせがあったという。丹羽自身も「色んな人から(美容師のことを)たくさん聞かれました」としたうえで当時のことをこう明かす。

「親からは猛反対されました(苦笑)。色々な人から、『何で美容師?』とも言われましたけど、実はずっと進路に関しては悩んでいたんです」

なぜ美容師に興味を持ったのか?

初めて美容師という職業に興味を持ったのは、高校1年の冬だった。ちょうど野球シーズンがオフの時期で、実戦よりも地道な練習の日々でもあった。だが、野球に関して「実はうまくいかないことが多かった」時期でもあったという。

「地元の友達で美容師を目指す専門学校に通っている人が結構いて、美容師に関する話を聞いていくうちに、かっこいいなと思うようになったんです」

違った業界で活躍を夢見る同世代の友達が、時にはうらやましく思った。ただ、自分の目の前にあるのは野球。野球で頑張るしかないのは分かっていたが、この頃の丹羽は何をやってもうまくいかなかった。いっそのこと、野球のことは忘れて自分もそんな業界へ行った方が意外と合っているのではないか――。そんな気持ちになっていた。半田監督にとっても丹羽の美容師志望の話は寝耳に水だった。

「丹羽は中学時代に(世界少年野球大会の)西日本選抜チームに選ばれるようなピッチャーでしたし、プロの世界に送り出すために二人三脚でやりながら、どうプロデュースしていくか。そんなことをずっと考えていたので。美容師志望の話を聞いた時は本当に驚きました」

もちろん進路については何度も話し合った。それでも本人は「絶対にプロに行きたいです」とキッパリ言い切るわけではなく、迷っていることだけを口にしていたという。

「おそらく野球でうまくいかなかった時期に(美容師の)話を聞いて、心が揺れたんでしょうね。2年生になってからはどんどん注目されて、スカウトの方も見に来られるのに結果が出ない。自分が何をどうしていけばいいのか分からない。それは僕にも分からない彼のしんどさもあったと思うんです」

3年生になってからは投げることどころか、野球をこのまま続けて良いのか不安もあった。長いトンネルの中をさまよう中で、丹羽はある結論を出していた。

「プロ志望にするか、美容師の道に進むか、この夏の結果次第で決めようと思いました。この夏もダメだったら美容師を選んでいたかもしれません。でも、智弁和歌山を相手にああいうピッチングを最後に出来たことが(プロ志望の意思を固める)きっかけになりました」

「智弁和歌山が甲子園で優勝したことも…」

さらに丹羽はこう続ける。

「智弁和歌山が甲子園で優勝したことも要因のひとつです。あれだけの打線を抑えることができたので、自分にはまだ可能性があるかもしれないと思ったんです」

8月下旬にさしかかる頃、丹羽は自ら半田監督にメッセージを送信した。

「プロ志望届を出すことに決めました」

その言葉に安堵した指揮官だったが、丹羽のここまでの歩みについてこう口にした。

「今まではうまくいっていないことの方がほとんどだったと思います。プロに行きたいからと市和歌山に来てくれたのに、それからモチベーションや調子が落ちた時期もあって。それでも、センバツでは思わぬ形で登板が巡ってきて好投したり、最後の最後で良いピッチングで高校野球を終えることができたり……丹羽は“持っている”なと。そこは丹羽らしかったのかなと思うんです」

もちろん、プロは志望するだけがゴールではない。これから身体作り等の準備やプロで生きていくための心構えなども含め、様々な覚悟を持ってこそ挑戦できる。悔しさの分だけ成長できるとはよく言うが、悔しい思いをした時が多いからこそ、高校野球で明かせずに終わった未知数な部分も多い。

果たして丹羽のその“可能性”に賭ける球団は現れるのか――。土ぼこりが舞うグラウンドでキャッチボールに向かう右腕を、晩夏の太陽がいつまでも熱く照らし続けていた。

📝甲子園の常連「智辯学園和歌山高校」。進学でも実績を上げる仏教系新興勢力、その独自教育とは…
https://news.yahoo.co.jp/articles/e53807e587cbba1c4fc35f9a573dd20ed9655f6d

◆智辯学園和歌山高校 私立/共学/小中高一貫/和歌山県和歌山市冬野

進学でも高校野球でも実績を上げる仏教系新興勢力

智辯学園高校と智辯学園和歌山高校は甲子園の常連である。経営しているのは、辯天宗という高野山真言宗の流れを汲む仏教系新宗教の法人である。
宗祖の大森智辯は奈良県吉野町の出身だが、夫が和歌山市生まれで奈良県五條市の十輪寺の修行僧だったことが、奈良と和歌山での学校設立につながる。

昭和40年(1965)に智辯学園高校を開校し、その3年後に初の甲子園出場を果たした。そして昭和53年(1978)、和歌山県からの要請を受けて和歌山校を開設した。五條市の智辯学園では、和歌山県下からの通学生が3割にも上っていたことが動機だった。

智辯和歌山は、高校1期生にあたる昭和56年(1981)から京大合格者を出し、野球部も昭和60年(1985)に選抜に初出場。平成5年(1993)には東大合格者数が20名を突破、その翌年には選抜で優勝を遂げ、その後、夏の甲子園で3回の優勝を果たした。2026年には猛暑のなか圧倒的な攻撃力で打ち勝った。この2回の優勝時の監督は、OBで阪神タイガースなどで活躍した中谷仁。
また、平成14年(2002)には小学校を開校している。

◆学校がめざす重点目標

学校がめざす重点目標は、「一日一善、学力向上、挨拶励行」である。毎朝スピーカーから担当の教師が読み上げる真言、宝号を各クラスの生徒全員が唱和する。そして、日替わりの「宗祖様のお言葉」を聞く。

新興の学校なので著名人はまだすくないが、西川遥輝(プロ野球)、中谷仁(プロ野球)、泊幸秀(分子生物学)、宮野真生子(哲学者)、ZAZYの赤井俊之(お笑い芸人)。

JR和歌山駅から8キロほど南にあり、紀勢線の紀三井寺駅の次の駅である黒江駅から徒歩10分ほどである。岸和田など、大阪府下から通う生徒も二割ほどいる。

桐蔭高校の卒業生である、竹中平蔵と元の和歌山県知事の仁坂吉伸は同学年だったが、彼らが大学に進学した1970年頃は桐蔭高校から10名程度が東京大学に合格していた。

しかし、学区が細かく分かれて、しかも、和歌山市の学区が2分割されたので、公立高校の凋落が進み、智辯学園和歌山高校が伸びた。だが、その後の学区制の廃止や中高一貫制の導入もあって、再び桐蔭高校の復活も見られる。2026年度入試では、智辯学園和歌山高校は、東京大学に5名、京都大学に12名、大阪大学に16名だった。桐蔭高校が東京大学に2名、京都大学に4名、大阪大学に8名といった合格者数になっている。

私学では、近畿大学附属和歌山高校(和歌山市)も上昇傾向にある。
2026/09/03(木) 22時17分03秒 No.2598 編集 削除