自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」

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紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

編集済
💢令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選について(お知らせ)
https://www.whbf.jp/uploads/20260901114653_CVWX.pdf

初芝橋本高等学校より、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選の出場辞退届が提出され、本日(9月1日)受理しました。

このことにより、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選は、32校29チームの参加となりました。
組み合わせ抽選会は、明日9月2日(水)に開催します。抽選結果につきましては決定次第、当連盟ホームページにアップロードします。

✌「こんな奇跡がおるのか!」智辯を〝最も追い詰めた高校〟でチア、第11代有田みかん大使・山野光希に脚光「チアの頃からひときわ光ってますね」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9ed1a1057fcca5c80837428c520e9631d8e4a8d3

▼「チアやってた時の思い出の写真」

甲子園を制した智辯学園和歌山高校を最も追い詰めた高校のOGに注目が集まっている。

「智弁和歌山優勝しましたね 和歌山出身として誇らしすぎる 母校の田辺高校もすごかった!!!」とXに投稿したのは、第11代有田みかん大使の山野光希。「野球応援でチアやってた時の思い出の写真」と田辺高校時代のチア姿を紹介した。

県立の田辺高校は和歌山県大会3回戦で智辯学園和歌山高校と対戦。敗れはしたものの7回までリードするなど大健闘を見せ「実質準優勝ですよね!」「かなりいい試合して追い詰めてましたね!!」などの声があがっていた。

エンジ色のユニフォームを着た山野の姿に「田辺にはこんな奇跡がおるのか!」「貴重な写真だ」「う、うわあ!」「チアの頃からひときわ光ってますね」といった感嘆の声が相次いでいる。

田辺高校は甲子園に春3度、夏1度出場。山野が卒業した2024年の第96回選抜高校野球大会に76年ぶりに出場し、話題となった。

☝元PL学園監督の中村順司氏が初の中学指導者に 兵庫加古川ヤングのスタッフとして本格始動
https://news.yahoo.co.jp/articles/fcbc5b2d9bf9a28b91f27fa8c123e8c383ce6ca4

PL学園(大阪)の監督として甲子園通算6度の優勝に輝いた中村順司氏(80)が中学生指導に本格着手した。

硬式野球ヤングリーグの兵庫加古川ヤングのアドバイザリースタッフに、このたび就任したことが判明した。8月29、30の両日にグラウンドで就任後初めて本格的な指導を行った。PL学園のほか、名古屋商科大でも指揮を執ったが、中学年代のチームで定期的に指導するのは初めて。以前から同チームの関係者を通じて不定期で選手を見ることがあったが、新型コロナで中断していた。今回は肩書もついて、自宅のある神奈川県から定期的に兵庫県を訪れることになる。同ヤングに創設された小学部も指導する。

指導方法もPL流。骨の作りなど根本的な体の仕組みを理解させるなど、当時と同様のノウハウを持ち込んでいる。
この2日間は自らノックバットも握って中学生、小学生とともに汗を流した。8月5日に80歳を迎えたが、情熱は衰えていない。

📣広陵高校 「甲子園至上主義」から決別 暴力事案めぐり検討委員会が提言
https://news.yahoo.co.jp/articles/7bb59dc49005d6a39da67a3542e091bf468917f1

硬式野球部の暴力事案を巡り広陵高校が設置した検討委員会が指導体制の見直しなどを求めました。
 
これは2025年1月に起きた広陵高校野球部の暴力事案を受けて設置された、弁護士などでつくる学校改善検討委員会が最終提言としてまとめたものです。提言では、閉鎖的な体質の原因につながった野球部OBのみでの指導をやめ、外部指導者の登用を求めたほか、指導者の目が行き届く適正な部員数の設定や甲子園至上主義との決別などを求めています。
 
また、集団暴行が発生した寮の運営にも触れ、上級生が規律違反に対応することをやめるほか、寮生の生活を管理する寮監には野球部関係者に限らず一般教職員も関わることなどを求めました。

📝「あの試合が終わって『夏も優勝しようや』と」高校野球“史上最高の試合”箕島-星稜延長18回の死闘で起きたこと「星稜の思いに報いたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/67d75ebe487b6d95bcfc274ac65999436f63df66

1979年、周囲の期待をよそに、箕島のエース・石井毅(現・木村竹志)は冷静だった。夏の甲子園出場が決まってから、春夏連覇に関する報道も増えたが、「今まで通り、淡々と」試合に臨んだ。
2回戦からの登場となった箕島は8月13日に札幌商業(南北海道)を7対3で破った。

「みんな、心のなかでは『夏も優勝しよう』と思っていたのかもしれませんが、それを口にする選手はいませんでした。それが変わったのはあの試合でした」

箕島ナインを変えた「あの試合」
 
石井が語る「あの試合」とは、8月16日に行われた星稜(石川)との3回戦だった。

「延長18回の試合が終わって、『夏も優勝しようや』となりました。そうすることで星稜の選手たちの思いに報いることができる、そういう思いが芽生えました。本気モードに変わりました」

当時は、延長戦は18回まで。同点のままで終われば再試合、またはじめから試合がスタートすることになる。

「その後ルールが変わって、延長は15回までになり、タイブレーク制が導入されたことで、もうあんな試合は二度とないでしょうね。僕たちの人生にとって、本当に大きな意味を持つ18回でした」

第4試合に組まれた箕島と星稜との一戦は16時06分にプレーボール。箕島の先発はアンダースローの石井、星稜はサウスポーの堅田外司昭だった。箕島の指揮をとるのは尾藤公監督、星稜は山下智茂監督が選手を鼓舞した。

高校野球史上最高の試合の攻防
 
星稜は1979(昭和54)年春のセンバツに出場したが、川之江(愛媛)に初戦で敗退。夏の甲子園では2回戦で宇治(京都)を下していた。北信越で頭角を現してきたチームだが、春夏連覇を目指す箕島が有利だと思われていた。両校の対戦がのちに「高校野球史上最高の試合」と呼ばれることになるとは、甲子園球場にいた選手、監督、観客の誰も思わなかったはずだ。

両校エースの好投により、1対1のまま、両チームともに譲らず、延長戦に突入した。ここで照明が点灯、ナイトゲームになったことで一層、特別なムードが高まった。30.6パーセントという驚異的な視聴率を記録するこの試合のひとつの山場が12回表に訪れた。

ワンアウトから星稜の六番打者、1年生の音重鎮(中日ドラゴンズ、広島東洋カープ)がヒットで出塁。フォアボールで一、二塁となったあと、箕島のセカンド・上野山善久がエラーをして1点が入る。その後、ワンアウト一、三塁で星稜がスクイズを仕掛けたが、失敗。追加点のチャンスは潰えた。

「ホームランを打ってきます」
 
その裏の攻撃、あとがなくなった箕島の打者が簡単に打ち取られてツーアウト。打席に向かう前に、一番打者の嶋田宗彦(阪神タイガース)が尾藤監督に「ホームランを打ってきます」と宣言した。キャッチャーとして石井を巧みにリードする嶋田は勝負強い打撃に定評があった。堅田が投じた2球目のカーブを力いっぱいに振り抜くと、打球は本当にレフトのラッキーゾーンに飛び込む同点ホームランとなった。

14回裏、また試合が動く。箕島の森川康弘がヒットで出塁。送りバントで二塁に進んだあと、相手のスキを突くディレードスティールを成功させた。ワンアウト、三塁。ヒットでも犠牲フライでもスクイズでも暴投でも、サヨナラとなる状況になった。しかし、ここでふたつ目の「まさか」が起こった。12回表にスクイズを失敗したサードの若狭徹がボールを持ったままベース近くに立っていた。堅田にボールが渡ったと思った三塁走者の森川がベースを離れた瞬間にタッチアウト!“隠し玉”でまたチャンスが消えた。

「今の高校野球だったら起こらないプレーですよね。タイムがかかる場面だし、そもそも隠し球を狙うような選手がいないから」

この試合の三塁の塁審をつとめたのは名アンパイヤとして知られた達磨省一だった。

「僕らも、サードがボールを持っていることを知りません。あとで聞いた話ですが、達磨さんは若狭がボールを持っていたことに気づいていたそうです。『変な動きをするなよ……』と念じていたと聞きました」

ピッチャーがボールを持っていない状態で投球動作を始めたり、マウンド付近にいると、ボークが宣告されるからだ。

「達磨さんは、そんな結末だけは避けたいと考えていたそうです」

それは塁審の杞憂に終わり、星稜の選手は「変な動き」をしなかった。

まさかの転倒からの同点弾…「明日、投げられるんかな」
 
次に試合が動いたのが16回表だ。星稜がデッドボールと五番・堅田のヒットでチャンスをつくり、七番・山下靖のタイムリーヒットで3対2と突き放した。
その裏の箕島の攻撃、二者が凡退して「あとひとり」まで追い込まれた。打席に立つのは六番の森川。14回裏に隠し玉でアウトになった選手だ。彼の打球は一塁のファウルゾーンに上がった。ところが、ファーストの加藤直樹が転倒して捕球できない。命拾いをした森川が5球目を叩くと打球は左中間スタンドに飛び込んだ。3対3の同点! 試合はまだ続く。

「あの時、森川は吹っ切れたんと違うかな? 何かが取りついたんかな(笑)。森川のホームランなんてあれくらいしか見たことがない。でも、追い詰められた場面であのバッティングができたのはやっぱり能力があったから」

17回は両チームとも三者凡退。18回表に星稜が満塁のチャンスをつくったが、得点することができなかった。この時点で星稜の勝ちはなくなった。

「18回表が始まる時に、『再試合になった場合は明日の8時30分にプレーボール』という場内アナウンスが聞こえました。僕は途中で右手中指の血豆がつぶれたままで投げていたから、体力的なことよりもそっちのほうが心配でした。『明日、投げられるんかな……』と」

史上3校目の春夏連覇
 
18回裏、箕島の最後の攻撃。箕島はふたりが続けてフォアボールを選び、五番・上野敬三のタイムリーでサヨナラ勝ち。時計の針は19時56分を指していた。試合時間は3時間50分だった。堅田が208球、石井が257球を投げた激闘は、センバツ王者の箕島の勝利で終わった。

「昔の甲子園の試合は1時間20分、30分で終わるのが普通でした。本当にいろいろなことを教えてくれた試合でした」

球審をつとめた永野元玄はホームベースを挟んで整列した両チームの選手に握手を促し、敗戦投手となった堅田にはボールをそっと手渡した。堅田は高校卒業後に社会人野球の松下電器でプレーしたあと、審判として甲子園に戻ってくることになる。

星稜との激闘を経て「本気で優勝したい」と思った箕島の選手たちは、準々決勝で城西(東東京)に4対1で勝利、準決勝では横浜商業(神奈川)に3対2で競り勝った。最後に、浪商(大阪)を下して決勝に進んだ池田(徳島)を4対3で倒して、史上3校目となる春夏連覇を果たした。

僕は甲子園の土を持っていない

「僕たちは本当に、甲子園での勝利にこだわってなかったというか、『勝ったら勝ったやし、負けたら負けたやし』という感じでした。優勝できてホッとしたというのが本当のところ。結果として春夏連覇を達成しましたけど、それを目指したというよりも『当たり前のことが起こった』ように感じていました。偉そうなことを言うようですけどね。負けないチームだったので、そういう感覚だったんですよ。でも、それが変わったのが星稜戦でしたね。延長18回を経験したことで勝利への意識は高くなりました」

箕島のエースとして甲子園で通算16試合に登板した石井の成績は14勝1敗だった。これは歴代2位の勝利数だ。

「僕は甲子園の土を持っていないんですよ。2年生の時には『来年がある』と思ったし、ありがたいことに3年生では負けることがなかった。甲子園の土は、負けた高校が持って帰るもんやと思っていました」

センバツ王者として夏の甲子園に戻ってきた箕島は無敗のまま聖地を去った。

               〈つづく〉

📝春夏連覇で「天狗になっていた。社会人で鍛えられました」伝説の“延長18回”投げぬいた石井毅のいま「箕島と星稜の縁はほんまにありがたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c109fd034cd696d95c69dcce8004ddf2aa36ad5

浪商のエース・牛島和彦が中日ドラゴンズから1位指名、キャッチャーの香川伸行が南海ホークスから2位指名された1979(昭和54)年のドラフト会議。春夏連覇を果たした箕島からはショートの上野敬三が読売ジャイアンツから4位指名を受けた。しかし、石井毅(現・木村竹志)と嶋田宗彦のバッテリーは社会人野球の住友金属に進んだ。

「夏の和歌山大会の前に就職することが決まっていました。社会人野球もそうですけど、住友金属の野球部は厳しいと聞いていました。『箕島以上やぞ』と」(石井)

社会人野球の強豪での日々
 
和歌山市に本拠を置く住友金属野球団は、1965年と1966年に都市対抗野球で準優勝した社会人野球の強豪だ。1977年には全日本選手権で初優勝を飾っていた。

「入るまでは社会人野球がどういうものかわかりませんでしたが、住友金属は泥臭い野球をするところだと聞いていました。監督は松永玲一さん。甲子園の試合ではテレビ解説をされていて、僕のピッチングをものすごくほめてくださった方です。当時、プロに行くということは考えていませんでした。目標は都市対抗野球に出て優勝すること」

それまで住友金属で主戦投手をつとめていたのは、1976年ドラフト会議でロッテオリオンズの1位指名を拒否して入社した森繁和だった。森は1978年ドラフト会議で1位指名を受け、1979年は西武ライオンズで先発・リリーフとフル回転していた。石井にかかる期待は大きかった。

「ありがたいことに、どんどん試合で使ってもらいました。チームが目指すのは都市対抗の優勝。そこに向かってやっていました。自分の野球人生を振り返った時、住友金属に入ったことがプラスになったと思います。聞いていた以上に厳しい野球部で、人間的なところを鍛えてもらいました」

あくまで本業が社業である社会人野球であれば、求められるのは野球の技術だけではない。

「高校時代に春夏連覇をして、天下を取ったような気持ちでいましたから、きっと天狗になっていたと思う。先輩方が本当に厳しく接してくれました。社会人1年生として何をやるべきか、やってはいけないことは何かを教えてもらって本当にありがたかったですね。時には『なんでそんなこと言われるの……』ということもありましたが、のちのち、言葉の意味に気がつきました。チームメイトも、会社の人たちもそう。だから、今の自分があるんだと思います」

1982年に都市対抗野球で初優勝。4勝を挙げた石井は、最優秀選手賞に当たる橋戸賞を獲得し、その秋のドラフト会議で西武ライオンズから3位指名を受けた。
黄金時代の西武で1988年までプロ野球でプレーした。1986年には42試合に登板、5勝1敗2セーブを記録してチームの連覇に貢献した。

星稜と箕島、OBたちの再会

「プロでもプレーしましたけど、社会人時代の経験が僕には大きかった。松永さん、山中正竹さん(法政大学時代に歴代最多の48勝をマーク)との出会いもそうです。あの星稜戦で球審をされていた永野元玄さんも住友金属OBなんですよ。人の縁に恵まれ、先輩方にいろいろなことを教えていただきました。

誘惑に負けることなく、仕事をきちんとやったうえで野球に全力で取り組む。寮の名前が『克己寮』というんですけど、『己に克つ』ということの意味を知りました」
携帯電話もSNSもない時代、箕島と星稜の選手たちが再会したのは、石井がプロ野球を引退したあとだった。

「地元の和歌山に戻ってからラジオ番組に呼ばれる機会があって、『箕島-星稜戦をまたやりましょう』という話になりました。和歌山放送が後援してくれて、あの時のメンバーが箕島で集まることになりました」

そのあとに金沢で試合が行われ、最後の対戦は甲子園球場で実現することになった。

「あの試合をきっかけにして、箕島のある有田市と星稜のある金沢市でスポーツ交流が生まれました。それは今でも続いています」

2003(平成15)年に和歌山野球振興会・夢クラブを設立した。2014年には第2回IBAF 15Uワールドカップの日本代表コーチをつとめた。現在、石井は少年野球の指導を行っている。

「中体連の軟式野球のクラブチームを指導しているんです。5月には星稜中学に行ってきました。星稜中は全国優勝するほどの強豪ですからね。僕が指導している子たちにも見せたいと思いまして」

今も続く両校の縁
 
石井の恩師である尾藤公は2011年に病で世を去ったが、星稜の山下智茂は80歳を過ぎた今も、高校野球の指導を行っている。

「以前、星稜中に行った時に山下さんが来てくれましたし、星稜の山下靖や加藤直樹たちと石川県で野球教室をした時にも顔を出してくれました。僕たちが話すことを全部メモしているんですよ。何でも吸収してやろうという気持ちがすごいと思いました」

箕島が最後に甲子園に出場したのは2013年夏。それ以来、あのユニフォームを聖地で見ることができていない。一方の星稜は甲子園常連校として地歩を固め、奥川恭伸、内山壮真(ともに東京ヤクルトスワローズ)など多くの選手をプロ野球に送り出している。

「星稜は箕島に負けたあと、強いチームになりました。松井秀喜くん(読売ジャイアンツなど)をはじめ、いい選手をたくさん育ててきました」

夏の甲子園の100回記念大会となった2018年、功績のある元球児による「甲子園レジェンド始球式」が行われ、大会初日の松井秀喜に続き、2日目に石井が登場した。見事なストライクを投げ込み、観衆から大きな拍手を受けた。

「箕島と星稜との縁がいまだに続いていることはほんまにありがたいことだと思っています」

マウンドに立った石井のすぐそばにはアテンド役として、球審をつとめる星稜の元エース、堅田外司昭の姿があった——。
2026/09/01(火) 22時12分43秒 No.2595 編集 削除