自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
☟伊勢神宮近く、高く立ち上る黒煙 商店街焼け落ち、漂う焦げ臭さ
https://news.yahoo.co.jp/articles/28a94e944972cbd9324cd36b5a8a9890c6210972
黒煙が空高く立ち上り、焦げ臭さが漂った。伊勢神宮に近い三重県伊勢市の明倫商店街で31日に発生した火災。火の勢いは強く、周辺には避難も呼びかけられた。地域に親しまれてきた明倫商店街が炎に包まれるのを、住民らは規制線の外から心配そうに見つめた。勢いが収まると、建物は焼け落ち、骨組みがあらわになっていた。
商店街から約100メートルの場所で飲食店を営む男性(78)は、消防車のサイレンが鳴り響くのを聞いて火災を知った。外に出て見ていると、みるみるうちに火の手が広がり、ガスボンベが爆発するような「ポン」という音が聞こえた。商店街は近鉄宇治山田駅近くで「駅前の通りはほぼ焼けてしまった」と落胆した。
📝第155回北信越地区高等学校野球福井県大会(令和8年秋季)組合せ表
https://291fki.sakura.ne.jp/wp2019/wp-content/uploads/2026/08/1552026%E7%A7%8B%E5%AD%A3%E7%B5%84%E3%81%BF%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B.pdf
📝「小さな町で、近所の子どもが集まったような野球部」箕島はなぜ70年代屈指の強豪校になったか「尾藤公さんが監督になってすべてが始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/395696341c2583bbd10511b4b708737e312b3435
小さな町の県立高である箕島がここまで活躍できたのはなぜだったのか。エース・石井毅にその生い立ちから訊いた。
人口3万ほどの小さな町にある県立高校の野球部が、なぜ1970年代の高校野球で黄金時代を築くことができたのか。現在の強豪私立校のような豪華な設備も寮も整っておらず、また、県外から越境してくる野球留学生がいなかったのにもかかわらず。箕島高校のある有田市は和歌山県の中部に位置する。1970年代の人口は35,000人ほどだった(現在の人口は23,727人)。100年を超える高校野球の歴史を見ても、人口10万人足らずの市から甲子園優勝校が出ることは稀だ(池田高校のある徳島県三好市の現在の人口は23,927人)。
近所のお兄さんの活躍で野球に興味を持った
エースとして箕島をけん引した石井毅に少年時代の話を聞こう。
「尾藤公さんが箕島の監督になり、エースの東尾修さん(西武ライオンズなど)と初めて甲子園に出てから箕島の野球が始まりました」
のちに甲子園で35勝を挙げることになる尾藤は1942(昭和17)年生まれ。箕島の監督に就任したのは1966年だった。23歳で監督になった尾藤が初めて甲子園の土を踏んだのは1968年春のこと。1970年春のセンバツではエースで四番の島本講平を中心に戦い、日本一にのぼりつめた。1961年生まれの石井は当時8歳だった。
「島本さんのチームに中谷正さんというキャッチャーがおられて、うちの近所に住んでいました。ある時、中谷さんのお宅に島本さんが遊びにきていたので、サインをもらったことがありました」
「近所のお兄ちゃん」の活躍を見て、石井は野球というスポーツに興味を持った。しかし、その頃、地域に野球チームは存在しなかった。
「友達が6人くらい集まったら、空き地や田んぼで2チームに分かれて野球ごっこをするくらいでした。人数が増えれば野球っぽくなりますけど、あくまで遊びの延長でしたね」
学校の体操着で大会に挑戦
そのうち、ごっこ遊びで飽き足らなくなった。
「軟式の少年野球チームが箕島にはなかった。僕たちが通う保田小学校の生徒を中心にチームをつくって大会に出ることにしました」
しかし、ユニフォームはなく、学校の体操着での出場だった。
「体育の授業の時に着る、白いトレパン、トレシャツですね。それに背番号をつけて、帽子にマークを貼って。人数が足りないと近くの小学校に通う友達を誘って『バットを振るふりだけでええよ』という感じでした」
大会の時には選手の父親に監督を任せたが、基本的には子どもたちが楽しむ野球だった。
「指導を受けるということもなくて、『こんなふうに投げたら? 』『こうやって打ったらボールがよく飛ぶぞ』とかみんなでワイワイ言い合いながらやっていましたね」
そんな時、高校野球で有名な監督が練習にやってきた。それが20代で日本一監督になった尾藤だった。
「センバツで優勝したあと、尾藤さんが一時期、監督から離れた時期でした。ふらっと顔を出して、ボールの捕り方や投げ方を教えてくれました。怖いとも優しそうとも感じませんでした。『箕島の尾藤監督や!』というだけ。
おそらく、本人にスカウトする気持ちなんかなかったと思いますよ。野球をしている子どもたちを見て、『ちょっと教えてやろうか』というくらいで。硬球を渡してくれて『これで遊んだらええぞ』と言ってくれました」
1974年、尾藤は箕島の監督に復帰。3年後に2度目のセンバツ優勝を果たし、その瞬間を石井は甲子園のアルプススタンドで見ることになる。
尾藤監督との出会いは運命だった?
運命的な出会いと思えるが、同じ地域に住む石井にとっては不思議でもなんでもなかった。
「本当に小さな町で、みんなが知り合いみたいなものでしたから」
南海ホークスの名監督だった鶴岡一人の呼びかけで「リトルホークス」が誕生したのが1967年。少年硬式野球リーグである「リトルリーグ」も活動していたが、全国的な広がりはまだまだだった。
「僕は中学の野球部に入って、軟式野球を続けました。箕島でチームメイトになる嶋田宗彦は和歌山市の近くにある硬式のクラブチームに所属していて、中学の部活と並行してやっていましたね」
石井は保田中学、嶋田は箕島中学。ふたりは主力選手として何度も対戦したことがあった。
「近くに住む野球好きな子どもたちがそのまま大きくなって、箕島の野球部に集まったという感じでした。箕島には普通科と商業科と機械科があって、ほかの地域から入ってくる子もいましたけど」
箕島の黄金時代を支えたのは地域の力だった。
「自分の親やじいちゃん、ばあちゃんが育ったところで野球をやって、そこで勝つというのは高校野球の魅力だと思います。地域の人たちの応援が力になったことは間違いありません。だから、頑張れたということだと思います」
公立高校を支えていた「地域の力」
それまで高校野球をリードしてきた四国四商(松山商業、高松商業、徳島商業、高知商業)をはじめとする公立の強豪校は、21世紀に入ってから日本一から遠ざかった。練習場や寮などの設備を充実させ、野球エリートを全国から集める私立高校でなければ勝てない時代に突入している。
「高嶋仁監督が強豪校に育てた智辯和歌山は以前、学年で10人程度しかいなくて、地元の選手だけでチームをつくっていました。それで3度も日本一になれたのはそういう力があったからではないでしょうか」
15歳で親元を離れ、甲子園を目指す少年の覚悟を否定するわけではない。だが、高校野球は、エースや四番打者を集めれば勝てるというわけではない。
「中学時代に実績を残して、強豪校から勧誘を受けた選手たちは当然レギュラーになれると思って入ってくるけど、みんながみんな、活躍できるわけではない。チャンスをつかめない選手が違う方向に行ってしまうこともあるでしょう」
小さな町から日本一になった箕島の野球部員は、みんなが同じ方向を見ながら野球に打ち込んでいた。それができたのは、カリスマ監督である尾藤の存在が大きい。
「僕たちが高校生だった頃、練習中に笑う監督なんかどこにもいませんでした。尾藤さんはバックネットの前に椅子を置いて、ガーンと座っていました。サングラスをかけているので、どこを見ているのかわからない」
鉄拳指導が当たり前だった時代
昭和の高校野球ではスパルタ練習と暴力的な指導が当たり前だった。
「どこの高校でも、鉄拳が飛ぶのは珍しくない。練習試合中に相手の監督が選手をぶっ飛ばすのを当たり前のように見ていました。ミスをしたらケツバット。それが体罰だとは、選手も親も思っていなかったでしょうね」
石井よりも6学年下の筆者は愛媛県のいたって穏やかな町で生まれ育ったが、学校で教師が生徒に暴力をふるうシーンを何度も目撃している。昭和50年代、教育現場に暴力が蔓延していたのは事実だ。野球部だけが特別ではなかった。
「だから、ミスをしたら自分たちから『お願いします』と言って尻を出していましたよ。まあ、いつものことでした」
暴力的な指導が正しいはずはない。令和になった今、それを「よし」とする野球関係者はもういない。だが、怖い監督のもとで厳しい練習を積むことが日本一への近道だと当時は本気で考えられていた。甲子園で上位まで勝ち上がる名門、強豪で日常的に暴力的な指導が行われていたことは多くの元球児が証言している。
「練習試合でミスをした選手が、ファンの人たちの前で正座させられたり、はたかれたりということが普通にありました」
しかし、昔のことを現在のルールで批判するのはフェアではない。
「今では『なかったこと』にされていますけど、ね。暴力的な指導のおかげで勝てたとも思わないし、恨んでいるということもありません」
そういう前提の上で、高校野球の強豪校が練習を積み、腕を磨いたという事実があるだけだ。
「僕たちは、そういう時代を生きたんだと思います」
〈つづく〉
📝「水分補給もして、ドクターもいた」ど根性野球の昭和に甲子園連覇した公立高の“先進性”「県大会は勝って当然…校歌をちゃんと歌え、とクレームも」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cf2e933394cfd487f211d7c6c2521a8c75f72ab4
甲子園出場を目指す高校、日本一を狙う強豪では日々、休むことなく猛練習が続けられていた。それは箕島だけではなかったはずだ。だが、彼らがほかを圧倒する強さを身につけることができたのはなぜだろうか。箕島野球部を支えるものがあったからだ。エースだった石井毅(現・木村竹志)が回想する。
箕島は練習中も適度に水分補給をしていた
「あの頃、スポーツ界では『練習中に水を飲んではいけない』という常識がありましたよね。でも、箕島はそうじゃなかった。ベンチに水筒が置いてあって、適度に水分補給をしていました。夏場は、午前中に練習をしたら、暑い時間帯は休憩に充てて、少し気温が下がってから練習を再開する。ただ闇雲に猛練習をしていたわけではありません」
半世紀前にそうした体制を敷いた野球部は多くなかった。強豪となればなおさらだ。そういう方針を立てたのは、尾藤公監督に専門家の意見を取り入れる度量があったからだろう。
「箕島のチームドクターのような形で、楠本博一先生という内科の先生がおられました。その方に、人体模型を見ながら人間の体の構造を教えてもらいました。『どうすれば速いボールを投げられるのか』『故障を防ぐためにどうすればいいのか』を知ることができました」
楠本との会話のなかから石井はピッチングのヒントも得た。
「人間の目の構造をもとに、どんな配球をすれば打ちにくいかということもわかりました。インコース高めのボールのあとにアウトコース低めに投げると遠く感じるというようなことですね。あとはバッターの体型によって、打ちやすいコースやバットを出しにくいコースがあるということも」
医者から聞く話を参考に、ピッチングに関する引き出しを増やしていったのだ。
「練習後に先生の自宅におじゃまして、ご飯をごちそうになることも多かったですね。その時に、トレーニング方法や体調管理についてもアドバイスしてもらいました」
エアコンで就寝、血液検査や栄養管理も
当時からすれば、常識的とは言えないものもあった。
「真夏に寝苦しい時にはエアコンを入れてちゃんと寝るようにと指導を受けました。だから、僕の部屋にだけクーラーがあって。タイマーをかけて就寝することで、十分な睡眠がとれました」
根性、根性、ど根性の昭和の野球で、「ピッチャーは肩を冷やすべきではない」という指導が多かった。しかし、先進的な考え方を取り入れていたから箕島は強かった——石井はそう証言する。
現在の高校野球では休養、栄養を重視するようになっているが、箕島はそれを早くから実践していたということだ。
「選手が血液検査を受けて、『ビタミンが足りない』などと教えてもらいました。僕の姉が食物科で学んでいたこともあって、楠本先生のアドバイスを参考にしながら、栄養管理をしてくれました。『朝はこれ、夜はこういうものを食べなさい』と。もし体重が落ちるようなら、寝る前にアンパンを食べたほうがいいというように」
身長172センチ、体重60キロ台の石井が、連投に耐えられたのは普段からの体力づくり、コンディショニングの賜物だろう。
「アイスノンってあるじゃないですか、患部を冷やすものが。箕島ではそれをお湯で温めて、ピッチング練習が終わったあと、ピッチャーのひじや肩に当てていました。酷使した部分の血行をよくして回復を促すという方法ですね。おかげで僕は、ひじも肩も痛めたことがありませんでした」
とても、50年前のこととは思えない。
「今の高校生がやっていることをその当時から箕島でやってもらっていたということですね。ケガをした場合の医療体制も整っていましたから、安心してプレーできました。もちろん、故障の予防法も教えてもらっていました」
ちなみに1979年夏の甲子園の3回戦。星稜(石川)との延長18回の戦いのあとにも、その強みが発揮されたという。
「外科の先生にもチームドクターとしてついてもらっていました。僕は試合中に中指に血豆ができて、それを潰してしまったんですが、すぐに処置してもらいました。セカンドの上野山善久が高熱を出していたので、20時に試合が終わったあと食事をしてから先生の車で箕島まで戻り、栄養剤を打ってもらいました」
20代の若さで日本一にのぼりつめた尾藤の懐の深さ、厳しい練習とチームの一体感、先輩たちから受け継がれた勝者のメンタリティ、そしてスポーツ医学の活用。これらがうまくミックスされていたからこそ、箕島は強かったのだ。
和歌山大会、初戦のピンチにメンバーは……
しかし、監督も選手も学校関係者も「勝って当たり前」と思っていたその夏の和歌山大会。1回戦でいきなりピンチが訪れた。
「和歌山大会の1回戦、開会式直後の試合で市立和歌山商業(現・市立和歌山)と対戦したんです」
市立和歌山商業は、1960年代に3度も甲子園に出場した名門のひとつ。藤田平(阪神タイガース)、正田耕三(広島東洋カープ)など名選手をプロ野球に送り込んでいる。
「和歌山大会の事実上の決勝戦と騒がれていました。市和商のセカンドは同じ3年生の正田が守っていました。4回に正田のエラーから箕島が1点を取って、そのまま1対0で9回まで進んだんですけど、最後にピンチになりました」
9回裏、市和商の攻撃はツーアウト満塁、一打サヨナラの場面だ。
「内野手とキャッチャーがマウンドに集まってくれたんですけど、みんなが口々にいろいろなことを言うんですよ。『負けたら丸々、夏休みやな、海で遊ぼうや』とか。『打たれろ』とかね(笑)。サードの浦野泰之は『俺んところに飛んできたら絶対にエラーするけど、文句言わんでくれよ』と言う」
市和商のバッターの打球はサードにふらふらと上がり、浦野が捕って試合終了となった。
淡々と勝利し「校歌をちゃんと歌ってないやないか!」
誰もが緊張する大会の初戦、強敵に競り勝った箕島。その後はいつも通り、淡々と勝ち上がっていった。
「和歌山大会は全試合、テレビ中継があったんですけど、試合を見た視聴者から『試合後の校歌斉唱の時、箕島の選手は歌ってないやないか! 』というクレームがあったそうです」
勝って当たり前という意識が悪い方向に出たのかもしれない。
「あとで『そのへんはちゃんとせいよ』と注意を受けたことを覚えています」
強敵を退けた箕島は準決勝で桐蔭を4対0、決勝で田辺商業を5対1で撃破し、2年連続の夏の甲子園出場を決めた。
「優勝が決まった瞬間、普通なら選手たちがマウンドに集まってワーッとなるんでしょうけど、キャッチャーの嶋田宗彦と握手をして終わり。ほかの選手たちも喜んで抱き合うみたいなことはありませんでした」
センバツ王者が当然のようにつかんだ夏の甲子園への出場権だった。
〈つづく〉
https://news.yahoo.co.jp/articles/28a94e944972cbd9324cd36b5a8a9890c6210972
黒煙が空高く立ち上り、焦げ臭さが漂った。伊勢神宮に近い三重県伊勢市の明倫商店街で31日に発生した火災。火の勢いは強く、周辺には避難も呼びかけられた。地域に親しまれてきた明倫商店街が炎に包まれるのを、住民らは規制線の外から心配そうに見つめた。勢いが収まると、建物は焼け落ち、骨組みがあらわになっていた。
商店街から約100メートルの場所で飲食店を営む男性(78)は、消防車のサイレンが鳴り響くのを聞いて火災を知った。外に出て見ていると、みるみるうちに火の手が広がり、ガスボンベが爆発するような「ポン」という音が聞こえた。商店街は近鉄宇治山田駅近くで「駅前の通りはほぼ焼けてしまった」と落胆した。
📝第155回北信越地区高等学校野球福井県大会(令和8年秋季)組合せ表
https://291fki.sakura.ne.jp/wp2019/wp-content/uploads/2026/08/1552026%E7%A7%8B%E5%AD%A3%E7%B5%84%E3%81%BF%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B.pdf
📝「小さな町で、近所の子どもが集まったような野球部」箕島はなぜ70年代屈指の強豪校になったか「尾藤公さんが監督になってすべてが始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/395696341c2583bbd10511b4b708737e312b3435
小さな町の県立高である箕島がここまで活躍できたのはなぜだったのか。エース・石井毅にその生い立ちから訊いた。
人口3万ほどの小さな町にある県立高校の野球部が、なぜ1970年代の高校野球で黄金時代を築くことができたのか。現在の強豪私立校のような豪華な設備も寮も整っておらず、また、県外から越境してくる野球留学生がいなかったのにもかかわらず。箕島高校のある有田市は和歌山県の中部に位置する。1970年代の人口は35,000人ほどだった(現在の人口は23,727人)。100年を超える高校野球の歴史を見ても、人口10万人足らずの市から甲子園優勝校が出ることは稀だ(池田高校のある徳島県三好市の現在の人口は23,927人)。
近所のお兄さんの活躍で野球に興味を持った
エースとして箕島をけん引した石井毅に少年時代の話を聞こう。
「尾藤公さんが箕島の監督になり、エースの東尾修さん(西武ライオンズなど)と初めて甲子園に出てから箕島の野球が始まりました」
のちに甲子園で35勝を挙げることになる尾藤は1942(昭和17)年生まれ。箕島の監督に就任したのは1966年だった。23歳で監督になった尾藤が初めて甲子園の土を踏んだのは1968年春のこと。1970年春のセンバツではエースで四番の島本講平を中心に戦い、日本一にのぼりつめた。1961年生まれの石井は当時8歳だった。
「島本さんのチームに中谷正さんというキャッチャーがおられて、うちの近所に住んでいました。ある時、中谷さんのお宅に島本さんが遊びにきていたので、サインをもらったことがありました」
「近所のお兄ちゃん」の活躍を見て、石井は野球というスポーツに興味を持った。しかし、その頃、地域に野球チームは存在しなかった。
「友達が6人くらい集まったら、空き地や田んぼで2チームに分かれて野球ごっこをするくらいでした。人数が増えれば野球っぽくなりますけど、あくまで遊びの延長でしたね」
学校の体操着で大会に挑戦
そのうち、ごっこ遊びで飽き足らなくなった。
「軟式の少年野球チームが箕島にはなかった。僕たちが通う保田小学校の生徒を中心にチームをつくって大会に出ることにしました」
しかし、ユニフォームはなく、学校の体操着での出場だった。
「体育の授業の時に着る、白いトレパン、トレシャツですね。それに背番号をつけて、帽子にマークを貼って。人数が足りないと近くの小学校に通う友達を誘って『バットを振るふりだけでええよ』という感じでした」
大会の時には選手の父親に監督を任せたが、基本的には子どもたちが楽しむ野球だった。
「指導を受けるということもなくて、『こんなふうに投げたら? 』『こうやって打ったらボールがよく飛ぶぞ』とかみんなでワイワイ言い合いながらやっていましたね」
そんな時、高校野球で有名な監督が練習にやってきた。それが20代で日本一監督になった尾藤だった。
「センバツで優勝したあと、尾藤さんが一時期、監督から離れた時期でした。ふらっと顔を出して、ボールの捕り方や投げ方を教えてくれました。怖いとも優しそうとも感じませんでした。『箕島の尾藤監督や!』というだけ。
おそらく、本人にスカウトする気持ちなんかなかったと思いますよ。野球をしている子どもたちを見て、『ちょっと教えてやろうか』というくらいで。硬球を渡してくれて『これで遊んだらええぞ』と言ってくれました」
1974年、尾藤は箕島の監督に復帰。3年後に2度目のセンバツ優勝を果たし、その瞬間を石井は甲子園のアルプススタンドで見ることになる。
尾藤監督との出会いは運命だった?
運命的な出会いと思えるが、同じ地域に住む石井にとっては不思議でもなんでもなかった。
「本当に小さな町で、みんなが知り合いみたいなものでしたから」
南海ホークスの名監督だった鶴岡一人の呼びかけで「リトルホークス」が誕生したのが1967年。少年硬式野球リーグである「リトルリーグ」も活動していたが、全国的な広がりはまだまだだった。
「僕は中学の野球部に入って、軟式野球を続けました。箕島でチームメイトになる嶋田宗彦は和歌山市の近くにある硬式のクラブチームに所属していて、中学の部活と並行してやっていましたね」
石井は保田中学、嶋田は箕島中学。ふたりは主力選手として何度も対戦したことがあった。
「近くに住む野球好きな子どもたちがそのまま大きくなって、箕島の野球部に集まったという感じでした。箕島には普通科と商業科と機械科があって、ほかの地域から入ってくる子もいましたけど」
箕島の黄金時代を支えたのは地域の力だった。
「自分の親やじいちゃん、ばあちゃんが育ったところで野球をやって、そこで勝つというのは高校野球の魅力だと思います。地域の人たちの応援が力になったことは間違いありません。だから、頑張れたということだと思います」
公立高校を支えていた「地域の力」
それまで高校野球をリードしてきた四国四商(松山商業、高松商業、徳島商業、高知商業)をはじめとする公立の強豪校は、21世紀に入ってから日本一から遠ざかった。練習場や寮などの設備を充実させ、野球エリートを全国から集める私立高校でなければ勝てない時代に突入している。
「高嶋仁監督が強豪校に育てた智辯和歌山は以前、学年で10人程度しかいなくて、地元の選手だけでチームをつくっていました。それで3度も日本一になれたのはそういう力があったからではないでしょうか」
15歳で親元を離れ、甲子園を目指す少年の覚悟を否定するわけではない。だが、高校野球は、エースや四番打者を集めれば勝てるというわけではない。
「中学時代に実績を残して、強豪校から勧誘を受けた選手たちは当然レギュラーになれると思って入ってくるけど、みんながみんな、活躍できるわけではない。チャンスをつかめない選手が違う方向に行ってしまうこともあるでしょう」
小さな町から日本一になった箕島の野球部員は、みんなが同じ方向を見ながら野球に打ち込んでいた。それができたのは、カリスマ監督である尾藤の存在が大きい。
「僕たちが高校生だった頃、練習中に笑う監督なんかどこにもいませんでした。尾藤さんはバックネットの前に椅子を置いて、ガーンと座っていました。サングラスをかけているので、どこを見ているのかわからない」
鉄拳指導が当たり前だった時代
昭和の高校野球ではスパルタ練習と暴力的な指導が当たり前だった。
「どこの高校でも、鉄拳が飛ぶのは珍しくない。練習試合中に相手の監督が選手をぶっ飛ばすのを当たり前のように見ていました。ミスをしたらケツバット。それが体罰だとは、選手も親も思っていなかったでしょうね」
石井よりも6学年下の筆者は愛媛県のいたって穏やかな町で生まれ育ったが、学校で教師が生徒に暴力をふるうシーンを何度も目撃している。昭和50年代、教育現場に暴力が蔓延していたのは事実だ。野球部だけが特別ではなかった。
「だから、ミスをしたら自分たちから『お願いします』と言って尻を出していましたよ。まあ、いつものことでした」
暴力的な指導が正しいはずはない。令和になった今、それを「よし」とする野球関係者はもういない。だが、怖い監督のもとで厳しい練習を積むことが日本一への近道だと当時は本気で考えられていた。甲子園で上位まで勝ち上がる名門、強豪で日常的に暴力的な指導が行われていたことは多くの元球児が証言している。
「練習試合でミスをした選手が、ファンの人たちの前で正座させられたり、はたかれたりということが普通にありました」
しかし、昔のことを現在のルールで批判するのはフェアではない。
「今では『なかったこと』にされていますけど、ね。暴力的な指導のおかげで勝てたとも思わないし、恨んでいるということもありません」
そういう前提の上で、高校野球の強豪校が練習を積み、腕を磨いたという事実があるだけだ。
「僕たちは、そういう時代を生きたんだと思います」
〈つづく〉
📝「水分補給もして、ドクターもいた」ど根性野球の昭和に甲子園連覇した公立高の“先進性”「県大会は勝って当然…校歌をちゃんと歌え、とクレームも」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cf2e933394cfd487f211d7c6c2521a8c75f72ab4
甲子園出場を目指す高校、日本一を狙う強豪では日々、休むことなく猛練習が続けられていた。それは箕島だけではなかったはずだ。だが、彼らがほかを圧倒する強さを身につけることができたのはなぜだろうか。箕島野球部を支えるものがあったからだ。エースだった石井毅(現・木村竹志)が回想する。
箕島は練習中も適度に水分補給をしていた
「あの頃、スポーツ界では『練習中に水を飲んではいけない』という常識がありましたよね。でも、箕島はそうじゃなかった。ベンチに水筒が置いてあって、適度に水分補給をしていました。夏場は、午前中に練習をしたら、暑い時間帯は休憩に充てて、少し気温が下がってから練習を再開する。ただ闇雲に猛練習をしていたわけではありません」
半世紀前にそうした体制を敷いた野球部は多くなかった。強豪となればなおさらだ。そういう方針を立てたのは、尾藤公監督に専門家の意見を取り入れる度量があったからだろう。
「箕島のチームドクターのような形で、楠本博一先生という内科の先生がおられました。その方に、人体模型を見ながら人間の体の構造を教えてもらいました。『どうすれば速いボールを投げられるのか』『故障を防ぐためにどうすればいいのか』を知ることができました」
楠本との会話のなかから石井はピッチングのヒントも得た。
「人間の目の構造をもとに、どんな配球をすれば打ちにくいかということもわかりました。インコース高めのボールのあとにアウトコース低めに投げると遠く感じるというようなことですね。あとはバッターの体型によって、打ちやすいコースやバットを出しにくいコースがあるということも」
医者から聞く話を参考に、ピッチングに関する引き出しを増やしていったのだ。
「練習後に先生の自宅におじゃまして、ご飯をごちそうになることも多かったですね。その時に、トレーニング方法や体調管理についてもアドバイスしてもらいました」
エアコンで就寝、血液検査や栄養管理も
当時からすれば、常識的とは言えないものもあった。
「真夏に寝苦しい時にはエアコンを入れてちゃんと寝るようにと指導を受けました。だから、僕の部屋にだけクーラーがあって。タイマーをかけて就寝することで、十分な睡眠がとれました」
根性、根性、ど根性の昭和の野球で、「ピッチャーは肩を冷やすべきではない」という指導が多かった。しかし、先進的な考え方を取り入れていたから箕島は強かった——石井はそう証言する。
現在の高校野球では休養、栄養を重視するようになっているが、箕島はそれを早くから実践していたということだ。
「選手が血液検査を受けて、『ビタミンが足りない』などと教えてもらいました。僕の姉が食物科で学んでいたこともあって、楠本先生のアドバイスを参考にしながら、栄養管理をしてくれました。『朝はこれ、夜はこういうものを食べなさい』と。もし体重が落ちるようなら、寝る前にアンパンを食べたほうがいいというように」
身長172センチ、体重60キロ台の石井が、連投に耐えられたのは普段からの体力づくり、コンディショニングの賜物だろう。
「アイスノンってあるじゃないですか、患部を冷やすものが。箕島ではそれをお湯で温めて、ピッチング練習が終わったあと、ピッチャーのひじや肩に当てていました。酷使した部分の血行をよくして回復を促すという方法ですね。おかげで僕は、ひじも肩も痛めたことがありませんでした」
とても、50年前のこととは思えない。
「今の高校生がやっていることをその当時から箕島でやってもらっていたということですね。ケガをした場合の医療体制も整っていましたから、安心してプレーできました。もちろん、故障の予防法も教えてもらっていました」
ちなみに1979年夏の甲子園の3回戦。星稜(石川)との延長18回の戦いのあとにも、その強みが発揮されたという。
「外科の先生にもチームドクターとしてついてもらっていました。僕は試合中に中指に血豆ができて、それを潰してしまったんですが、すぐに処置してもらいました。セカンドの上野山善久が高熱を出していたので、20時に試合が終わったあと食事をしてから先生の車で箕島まで戻り、栄養剤を打ってもらいました」
20代の若さで日本一にのぼりつめた尾藤の懐の深さ、厳しい練習とチームの一体感、先輩たちから受け継がれた勝者のメンタリティ、そしてスポーツ医学の活用。これらがうまくミックスされていたからこそ、箕島は強かったのだ。
和歌山大会、初戦のピンチにメンバーは……
しかし、監督も選手も学校関係者も「勝って当たり前」と思っていたその夏の和歌山大会。1回戦でいきなりピンチが訪れた。
「和歌山大会の1回戦、開会式直後の試合で市立和歌山商業(現・市立和歌山)と対戦したんです」
市立和歌山商業は、1960年代に3度も甲子園に出場した名門のひとつ。藤田平(阪神タイガース)、正田耕三(広島東洋カープ)など名選手をプロ野球に送り込んでいる。
「和歌山大会の事実上の決勝戦と騒がれていました。市和商のセカンドは同じ3年生の正田が守っていました。4回に正田のエラーから箕島が1点を取って、そのまま1対0で9回まで進んだんですけど、最後にピンチになりました」
9回裏、市和商の攻撃はツーアウト満塁、一打サヨナラの場面だ。
「内野手とキャッチャーがマウンドに集まってくれたんですけど、みんなが口々にいろいろなことを言うんですよ。『負けたら丸々、夏休みやな、海で遊ぼうや』とか。『打たれろ』とかね(笑)。サードの浦野泰之は『俺んところに飛んできたら絶対にエラーするけど、文句言わんでくれよ』と言う」
市和商のバッターの打球はサードにふらふらと上がり、浦野が捕って試合終了となった。
淡々と勝利し「校歌をちゃんと歌ってないやないか!」
誰もが緊張する大会の初戦、強敵に競り勝った箕島。その後はいつも通り、淡々と勝ち上がっていった。
「和歌山大会は全試合、テレビ中継があったんですけど、試合を見た視聴者から『試合後の校歌斉唱の時、箕島の選手は歌ってないやないか! 』というクレームがあったそうです」
勝って当たり前という意識が悪い方向に出たのかもしれない。
「あとで『そのへんはちゃんとせいよ』と注意を受けたことを覚えています」
強敵を退けた箕島は準決勝で桐蔭を4対0、決勝で田辺商業を5対1で撃破し、2年連続の夏の甲子園出場を決めた。
「優勝が決まった瞬間、普通なら選手たちがマウンドに集まってワーッとなるんでしょうけど、キャッチャーの嶋田宗彦と握手をして終わり。ほかの選手たちも喜んで抱き合うみたいなことはありませんでした」
センバツ王者が当然のようにつかんだ夏の甲子園への出場権だった。
〈つづく〉