自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
⚾今日のセンバツ甲子園試合結果(1回戦)
5日目第1試合 帝京長岡(新潟)-東北(宮城) 9:03~11:00
一二三四五六七八九十計HE
東 北220000100 562
帝京長岡010000000 143
5日目第2試合 高川学園(山口)-英明(香川) 11:37~13:47
一二三四五六七八九十計HE
英 明000310010 563
高川学園000001002 362
5日目第3試合 三重(三重)-佐野日大(栃木) 14:25~16:02
一二三四五六七八九十計HE
佐野日大000000000 060
三 重00000200X 2101
⚾明日のセンバツ甲子園組み合わせ(6日目 1・2回戦)
09:00~ 熊 本 工(熊 本)-大阪 桐蔭(大 阪)
☆ 11:30~ 帝 京 (東 京)-中京大中京(愛 知)
☆☆ 14:00~ 八学 光星(青 森)-滋賀 学園(滋 賀)
📝センバツ21世紀枠チームが“25連敗”…それでも「そこにある意義」は? 長崎西「野球の偏差値は40切っている」高知農「うちでいいの?」からの甲子園
https://news.yahoo.co.jp/articles/ecc9751e114541339b1704784f64a2ddf3d48ec6?page=1
今年も21世紀枠で出場した2校が、センバツの初戦で敗れた。同枠同士での対戦を除くと、これで2015年に松山東(愛媛)が勝利したのを最後に25連敗となり、不名誉な連鎖を断ち切れなかったことになる。文武両道や環境面などのハンディキャップを乗り越えたチームに甲子園出場の機会が与えられることは、実に意義のあることだ。しかし、こうも負け続けてしまうと21世紀枠に対する疑念が深まり、いずれは「不要論」が強まってくるかもしれない。
そこを一度、踏みとどまってほしい。甲子園が「高校生が輝ける場所」である以上、やはり色彩は必要なのだ。強豪校にはない個性。21世紀枠のチームにはそれがある。今年は特にそうだった。長崎西と高知農。両校には甲子園でプレーするに値するだけの独自性と歩みがあった。
大会2日目の第1試合。長崎西の野球に、目を覚ましたばかりの甲子園球場が揺れる。1回表。1アウト満塁から5番バッターの岡崎憲信がボールを見極め、押し出しのフォアボールを選ぶ。滋賀の強豪である滋賀学園のお株を奪う先手で観衆を沸かせたのだ。長崎西は制球に苦しむ滋賀学園の先発、土田義貴に対し、今度は脚を使って煽る。2-2の3回に2アウトからヒットで出塁したキャプテンの桑原直太郎が2盗、3盗と成功させてチャンスを広げ、勝ち越しを演出した。
強豪・滋賀学園に“僅差の敗退”だった長崎西
チームは5個の盗塁を記録した。最終的に4-5と惜しくも敗れたが、長崎西は目と脚で滋賀学園を揺さぶり、追い詰めたのである。初回に先取点のきっかけとなるヒット。逆転を許した直後の4回にはフォアボール、盗塁と一時同点をアシストした4番の細波慶吾は、長崎西の野球をこのように誇る。
「相手ピッチャーの投げるボールですとか牽制球の傾向とか、いろんな情報をかき集めて自分たちのプラスにするっていうのをモットーとしてやってきたので。データとかから得られる数字的なものが自分たちに思い切りの良さを与えてくれるというか、後押ししてくれる材料にはなっています」
東京大や京都大の現役合格者を輩出する、長崎県随一の進学校。45年ぶりの甲子園で見せたのは、まさに頭脳が光る野球だった。だが、それは最初から備わっていたものではない。日々の学習によって養われたものだと語るのが、監督の宗田将平である。
「偏差値が60、70とか勉強のできる子ではあるんですけど、野球の偏差値で言うと最初は40切っているので。そういうところからのスタートなので大変ですよ」
野球偏差値は低い。加えて平日は7時限の授業があるため、全体練習が1時間半程度と短い。選手たちはスタート時点で他のチームよりも出遅れてしまうわけだが、宗田は「学び」を与えることでそれを補っている。代表的なものがアプリの活用だ。山口陽大をはじめとするマネージャーが開発したアプリで、打球速度や飛んだ位置などを可視化する。ほかにも一般に普及する動作解析などのツールを使って情報を収集し、チームで共有していくのだという。
「そこを強みにできていると思います」
宗田は自信を覗かせながら言う。「いろんな視点から分析し、学んでいくという作業が好きな子たちなので。それが『野球の楽しさに繋がる』とわかれば、自分たちで勝手にやりだすんで。そこでうまくプレーに反映されれば、彼らの大きな成長になっていくと思うんですよね」
高知農が見せた「甲子園への挑戦」
野球への理解を深め「探求する楽しさ」を体現するのが長崎西なら、厳しさを経て「楽しい野球」に価値を見出したのが高知農だ。
大会3日目の第2試合。高知農は先発の山下蒼生が、外角や低めへ丁寧にボールを集めようとするが、日本文理打線にことごとく捉えられ10安打8失点を喫した。それでも攻撃では、4回にチームの歴史を刻む「1」を、甲子園のスコアボードに点灯させた。スコアは1-8。完敗という印象を与えたとしても、監督の下坂充洋は胸を張った。
「未来に繋がる試合だったと思います。大観衆のなかでプレーできた子供たちにとって、大きな財産になりました」
この財産を得るため、19年に監督となった下坂が選んだ道が「厳しい野球」だった。平日は日が暮れてからもバットを振らせ、ボールを追わせた。野球部の過酷な日常は部員たちの心身を摩耗させ、次第にグラウンドから遠ざけていく。年々、部員数は減り、21年には新入部員がひとりも現れなかった。夏の大会が終わり、3年生が抜けるとチームには3人しか部員が残らなかった。単独チームで公式戦に出られず、連合チームで戦う現実を突きつけられる。ここで下坂は、指導方針を180度、転換させた。厳しい野球からの脱却である。
「怖さはありませんでした。もう、変えるしかなかったので」
一方通行だった監督が、選手に歩み寄る。練習時間は短くなり、ミスをしても頭ごなしに叱責することもなくなった。チームは自然と明るくなっていった。変革を遂げたチームの空気感に魅了され、高知農への進学を決めたのが山下である。
「中学3年の秋に高知農業の試合を見て。その時の試合前ノックで、下坂先生の前向きな声掛けに惹かれました」
その山下と少年野球でチームメートだった、2年生キャッチャーの山本滉壬朗も同じ動機で高知農に入学したひとりだ。
中学で日本一の選手が…ナゼ高知農に?
山本は高知中のレギュラーとして、チームの日本一に貢献した選手だった。本来ならば、高校も強豪で知られる系列の高知高校に進むはずだったが、最終決断を躊躇した。理由は「厳しさについていけるか不安だった」からだと、山本が明かす。
「中学では、プレーでミスが出るとすぐに代えられるくらい競争が激しくて。高知高校は県外からも人が集まってくるので、そういう怖さがありました。高知農業には山下さんがおって、下坂先生も指導してくれるということで、この学校に行くことを決めました」
全国制覇経験者に思わず…監督「うちでいいの?」
山本は中学でチームメートだった永吉斗和を誘い、ともに高知農へ進学した。監督からすれば心強い戦力である。しかし、下坂はふたりにこう告げた。
「本当にうちでいいの?」
山本と永吉は「ここでやりたい」と言ってくれた。ふたりを突き動かしたもの。それこそが下坂が新たに築き上げる楽しさだった。監督が頭を下げる。
「先輩たちが楽しく野球をする姿を見て『行きたい』と言ってくれた。もう、本当に感謝しかないですよね」
光が差したチームに導かれるように有望選手が集まり、結果が生まれる。
昨秋の高知大会準々決勝。44度の甲子園出場を誇る明徳義塾を相手に、延長タイブレークを戦う接戦を演じた。2-3で惜しくも敗れたが、この試合が21世紀枠での甲子園への大きな弾みとなったのは事実だった。厳しさだけでは届かなかった場所。自らのスタイルを変えることで甲子園にたどり着いた下坂は、大観衆で膨れ上がった一塁側アルプスで声援を送る、「厳しき時代」の教え子たちに答え合わせを求めていた。
「俺たちの目指していた場所って、ここだよな?」
甲子園に出場する、いやこの場所を目指す全てのチームには物語がある。
長崎西と高知農。そのことを高校野球に再認識させてくれた存在こそ、21世紀枠だったのである。
📝ナゾの甲子園監督、初出場で初優勝…“広島史上最強チーム”から50年、崇徳高を復活させた重要人物とは? 元カープの伝説的OB・山崎隆造の証言
https://news.yahoo.co.jp/articles/4682aec03d3f0209ecec81e23e9ae784c25a9207
今春の甲子園に出場する崇徳高校(広島)。センバツ初出場初優勝を果たした「広島史上最強チーム」から50年、低迷した古豪の復活劇に“ある重要人物”がいた。当時メンバーだった山崎隆造らの証言。
それまで淡々とインタビューに応じていた崇徳の監督、藤本誠の頬を涙がつたった。昨秋の中国大会、33年ぶりのセンバツ甲子園出場を決定的にした準決勝の勝利後に、「應武前監督への思いは?」と問われた瞬間だった。
「指導者としてのいろはをたたき込まれて、私自身が成長することができましたので。本当に感謝しています。誰よりも勝つことにこだわっていた方だったので」
カープOB山崎隆造の証言
應武篤良。2022年9月にこの世を去った闘将は、崇徳の歴史と今回の復活出場を支えた最重要人物である。 崇徳は今回が4度目の春出場で、夏を含めると計6度目の甲子園となる。出場回数では突出していないにもかかわらず、広島で強豪として認識されているのは、ひとえに“ある1年”が劇的だったからである。應武が正捕手を務めた1976年、センバツ初出場初優勝の快挙を成し遂げたのだ。当時、主将としてチームを束ねていた、山崎隆造が述懐する。
「全国制覇なんて夢のまた夢じゃないけど、そういうイメージでみんなやっていたと思いますよ」
山崎、應武らの学年は、わずか14人しかおらず、練習場所も他部と共用の校庭だった。
「野球部だけじゃなく、ラグビー部がいる。アメフト部もいる。サッカー部もいたかな。狭いグラウンドに色んな部活が入り乱れてましたね」
謎の監督がいた「オレは運を持っている」
加えて、崇徳の初代監督で、当時チームを率いていた久保和彦は、「野球経験の有無が不明」の指導者だった。山崎も「久保先生の野球歴について、あまり聞いた記憶がない」と言う。それでも、脳裏にこびりついた記憶が一つある。山崎ら選手を前に久保はこう壮語したというのだ。
「『オレは非常に運を持っている人間なんだ』と。『占い師に1000人乗った船が沈没したとしてもあなたは生き残るというお墨付きをもらっている。だからオレを信じて乗っかってこい』と言っていたことを、覚えています」
山崎はたしかに久保の“豪運”を見た。同年センバツの2回戦、鉾田一(茨城)に9回2死まで1点ビハインドで追い詰められるも、土俵際から4点を奪って逆転勝ちした試合である。
「久保先生が監督になった秋にポンポンと勝ち進んで甲子園が決まって、甲子園でも負け寸前から奇跡の大逆転という。その流れでバーンと優勝してしまった」
山崎は運を強調するが、選手たちも粒ぞろいだった。同秋のドラフトでは、広島から山崎が1位、中堅手の小川達明が5位で指名。さらに、入団は拒否したものの、エース右腕の黒田真二が日本ハムから1位、應武も近鉄から3位指名を受けた。
伝説的優勝→低迷…なぜ?
部員ら最上級生は14人。最初から少数だったのではなく、「70、80人くらい」(山崎)の新入生が、猛練習で削がれ、研がれて生まれた精鋭だった。実力だけでなく、性格に一癖も二癖もある個性派集団は、試合となると自然と各々の仕事を完遂した。
「広島史上最強チーム」とも称されたこの世代は、広島の野球少年たちの心をつかみ、2学年下の後輩たちが主力となった1978年春にも甲子園の土を踏んだ。いよいよ崇徳に黄金時代が到来する――。誰もがそう思った。が、現実は異なった。
1978年春以降の甲子園出場は、1993年春のみ。夏にいたっては、山崎らセンバツ優勝チームで乗り込んだ1976年を最後に遠ざかる。2006年までに夏の広島大会決勝に6度進出しながら全敗。一時は最強と称されたチームは、いつしか“悲運”の象徴へと姿を変えた。甲子園から遠ざかれば、OBたちの熱気も下がる。山崎が「僕の大反省でもあるんですが」と伏し目がちに続ける。
「甲子園への道はすんなり行かないよね、となり、僕自身もプロでやっていくのに精いっぱいで、現役が終わってからも(プロで)指導者をやらせてもらって。大変申し訳ないのだけど、“母校離れ”じゃないけど、気持ちの上で疎遠になってしまったんですね」
その中でひとり、ふつふつと炎をたぎらせる男がいた。先述の應武である。
優勝メンバー・應武が母校に帰還した日
2010年に母校である早稲田大を明治神宮大会優勝に導き、新日鐵君津(現・日本製鉄かずさマジック)時代から続いた監督生活に終止符を打った。その應武が崇徳のOB会長に就任する。2012年のことだった。應武は真っ先に練習環境の改善を訴えた。生前、「学校に“異議申し立て”をしたんですよ」と、私にも熱弁をふるっていたものである。
「こんな狭いところで練習させるなんて、私立として条件が悪すぎるよ。田舎の私立でこれは『(甲子園に)出なくていいよ』って言っているように思える。おかしいだろって」
学校との度重なる折衝の果てに、2018年夏の広島大会終了後から應武が監督をすることになる。監督就任間もなかったころに取材へ赴くと、マネージャーと思われる部員と校庭の状況について打ち合わせていた。
「今日は(午後)6時にラグビーが終わって、そこからは全面使えます」
「サッカーはいないの?」
「サッカーとアメフトはいなくて、ラグビーが6時までです」
「じゃあ、全面使えるところからノックしよう」
夏で日没が遅く、他部が練習を早く切り上げたこの日は恵まれた方で、バックネットに向かっての打撃練習やベースランニング程度しかできない日もあった。甲子園優勝校とは思えぬ環境に、應武は憤っていた。
山崎が「その時々の理事長、校長によって考え方はそれぞれだと思うんですけど」と前置きをして、背景を語る。
「学校にある部活動が野球部だけではないのでね。バレーボール部が全国大会の常連だったり、野球部だけを特別扱いすることはできないというのが、学校の基本的な考え方だと思います」
野球部を強化すべき? 現場の反応
ラグビー部は度々「花園」に出場する強豪で、軟式野球部も全国大会常連だ。硬式野球部だけを優遇するのは学内で不公平感を生むという見立ては納得できる。だがそれ以上に説得力があったのが、1990年代前半に卒業したあるOBの推測だった。
「崇徳は学校の立地を含めて、生徒が集まりやすいですからね。野球部に力を入れなくても生徒が集まる」
公立校とは異なり、私立校が野球部を強化するのは、学校経営においてメリットがあるからに他ならない。たとえば同県の如水館は、「毎年夏になると、他校の出身者が野球の応援で盛り上がっているのがうらやましい」という卒業生の待望論から野球部が生まれたという。学校も専用グラウンドを建設するなど、支援を惜しまなかった。新しい校名を広めたい経営的視点にも合致したのは想像に難くない。
ほかにも広島新庄は、人口の少ない県北部に位置するハンディの打開策として、「甲子園を狙える野球部」という、生徒募集のフックが必要だった。野球部強化に明確な目的があるそれらの高校と違い、崇徳は学校経営上、野球部を強化する理由が希薄だった。
広島市内の中心部に校舎を構え、広島駅から電車で15分足らずで到着でき、立地に恵まれる。年々進学重視の路線を強め、昨年度は難関の一橋大に2人、地元の広島大に11人が合格するなど、国公立大合格者を95人も生み出した。私大に目を向けても、早慶に複数名、MARCHや関関同立といった名門に続々と合格している。現チームで主将、正捕手を担う新村瑠聖は、崇徳を選んだ理由を次のように明かしたものだ。
「崇徳は野球だけじゃなく、勉強も頑張れる環境だと思ったので。(推薦の)指定校に魅力的な大学がそろっているのも決め手の一つでした」
應武と理事長の“言い合い”
それでも應武は、OB会長に就任した2012年以降、学校のトップに野球部強化の必要性を訴えつづけた。時を同じくしてOB会副会長となった山崎が記憶をたどる。
「僕も何度か應武と一緒に校長室に行きました。『ヤバいな』と感じるぐらい、應武と理事長、校長との間に火花が散ったことは何度かありましたよ。僕と違って血気盛んなんでね(笑)。同級生ながら、『こいつ本気なんだな』と圧倒されましたね」
野球部を強化するか否か。話し合いが平行線をたどったある日、学校サイドから應武に「甲子園の優勝メンバーが協力して、野球部を強くしてください」と提案があった。應武が監督となり、山崎らの助力を仰ぎながら、再び甲子園に導けという趣旨である。
監督就任の経緯について應武は生前、「OB会長が監督に……っておかしいでしょ!」と私に漏らしていた。しかし、それは本音ではなかったかもしれない。現監督の藤本の証言だ。
〈つづく〉
☟山梨学院・菰田陽生は左手首骨折 2回戦以降の出場絶望的に 22日の1回戦で負傷
https://news.yahoo.co.jp/articles/6a1ca1486ca294ae40502c7f66acd55ca89729f9
山梨学院の「二刀流」、菰田陽生投手(3年)が、第98回選抜高校野球大会2回戦以降の出場が絶望的となった。22日行われた1回戦の長崎日大戦で打者走者と交錯した際に、左手首を負傷して途中交代。一夜明けた23日、左手首付近の骨折だったことが判明した。今後の出場は回避することになった。。
194センチ、102キロの恵まれた体を生かし高校通算本塁打は36本を記録し、投げては最速152キロに到達する本格派。沖縄尚学・末吉良丞投手と横浜(神奈川)の織田翔希投手(3年)と並び「高校BIG3」に呼ばれ、今秋のドラフト上位候補として評価が高い。
1回戦の長崎日大戦では初回に左越え先制ソロを2安打をマークしたが、4点リードの5回2死一塁の守備で悪送球を捕球しようとした際に打者走者と交錯し左手首を負傷。治療を受けた末にプレーを再開したが、6回裏の守備から交代となった。試合は5-3と逃げ切り初戦突破したが、試合後の菰田の左腕にはテーピングと簡易な添え木を施されていた。「投げるのは多分大丈夫だと思うんですけど、(ボールを)取ることであったり、バットを振るのも多分痛いかなと思います」と説明し、軽症であれば次戦以降に投手としての出場ができるかどうかだった。
💢第2試合途中で突然のゲリラ豪雨 スタンドの観客が一斉に避難 グラウンドに水が浮く 五回終了後にスタッフが整備
https://news.yahoo.co.jp/articles/ad5d2ec0989d224580637def83038abad3645b95
「選抜高校野球・1回戦、高川学園-英明」(23日、甲子園球場)
五回表、英明の攻撃中に甲子園がゲリラ豪雨に襲われた。試合開始時には晴れ間ものぞいていたが、突然の大雨となった。
五回の攻撃が始まると、大粒の雨が聖地に降り注いだ。内野スタンドの観客が一斉にコンコースへ移動するほどの強烈な雨で、内野には次第に水も浮いてきた。
高川学園の木下もしきりに右手の指を気にするしぐさを見せ、スパイクの土を落とすシーンも。1死二、三塁から犠飛で4点目を許した。
雨が弱まったところで五回裏も試合は続行。英明の冨岡もマウンドのぬかるみを気にするシーンはあったが、しっかりと無失点に抑えた。五回終了後にグラウンド整備が行われた。
👣「偉大」名将の孫、佐野日大・中村盛汰「全力で頑張った」観戦“じい”もねぎらう
https://news.yahoo.co.jp/articles/1222508a54f306dcbeca8496b7bb5f8bc76041b0
<センバツ高校野球:三重2-0佐野日大>◇23日◇1回戦◇甲子園
佐野日大(栃木)は三重に0-2で敗れた。主将の中村盛汰内野手(3年)は、PL学園(大阪)を春夏合計6度の優勝に導き、甲子園通算58勝を納めた中村順司さん(79)を祖父に持つ。中村は「この舞台で何回も戦って勝ってきた。祖父は偉大だと感じました」と、唇をかんだ。
それでもPL学園を率いた名将の孫の意地は見せた。2回、1死から左前へチーム初安打。9回にも2死から右前に運び計2安打。大阪入りから毎日、順司氏から電話でアドバイスをもらった。「“気負わずに自分たちらしく粘り強いプレーをしなさい”と言われた。気持ちに余裕を持って試合に入ることができました」。祖父とのホットラインが支えになった。
野球を始めた時から、祖父は専属コーチだった。「いつも優しい祖父が、野球には厳しかった」。幼心に偉大な存在を独り占めできる喜びは格別だった。バッティングセンターに連れて行ってもらっては、アドバイスしてくれたことを忘れずにノートに書きためた。
順司氏から聞く昔話にも目を輝かせた。「清原(和博氏)はな、いつも室内練習場で1人で練習していたんだぞ。打球音は銃撃の音みたいや。それくらいのスイングやぞ」。この日の2本は、自分らしくミートして外野に運んだ。「『全力で頑張った』と。それは伝えたいです。そして、夏は、祖父に校歌を聴かせたいと思います」と夏の勝利を誓った。
○…中村順司氏が孫の佐野日大・中村盛汰の観戦に訪れた。バックネット裏から勇姿を見届け、「キャプテンで試合にも出してもらって、レギュラーとして頑張ったのはものすごく成長した。選手としては“じい”とおやじを飛び越えたかなと思いますね」とねぎらった。初戦敗退に終わったが、「この悔しさを(バネに)高校最後の夏、頑張ってほしい」と期待を寄せた。
5日目第1試合 帝京長岡(新潟)-東北(宮城) 9:03~11:00
一二三四五六七八九十計HE
東 北220000100 562
帝京長岡010000000 143
5日目第2試合 高川学園(山口)-英明(香川) 11:37~13:47
一二三四五六七八九十計HE
英 明000310010 563
高川学園000001002 362
5日目第3試合 三重(三重)-佐野日大(栃木) 14:25~16:02
一二三四五六七八九十計HE
佐野日大000000000 060
三 重00000200X 2101
⚾明日のセンバツ甲子園組み合わせ(6日目 1・2回戦)
09:00~ 熊 本 工(熊 本)-大阪 桐蔭(大 阪)
☆ 11:30~ 帝 京 (東 京)-中京大中京(愛 知)
☆☆ 14:00~ 八学 光星(青 森)-滋賀 学園(滋 賀)
📝センバツ21世紀枠チームが“25連敗”…それでも「そこにある意義」は? 長崎西「野球の偏差値は40切っている」高知農「うちでいいの?」からの甲子園
https://news.yahoo.co.jp/articles/ecc9751e114541339b1704784f64a2ddf3d48ec6?page=1
今年も21世紀枠で出場した2校が、センバツの初戦で敗れた。同枠同士での対戦を除くと、これで2015年に松山東(愛媛)が勝利したのを最後に25連敗となり、不名誉な連鎖を断ち切れなかったことになる。文武両道や環境面などのハンディキャップを乗り越えたチームに甲子園出場の機会が与えられることは、実に意義のあることだ。しかし、こうも負け続けてしまうと21世紀枠に対する疑念が深まり、いずれは「不要論」が強まってくるかもしれない。
そこを一度、踏みとどまってほしい。甲子園が「高校生が輝ける場所」である以上、やはり色彩は必要なのだ。強豪校にはない個性。21世紀枠のチームにはそれがある。今年は特にそうだった。長崎西と高知農。両校には甲子園でプレーするに値するだけの独自性と歩みがあった。
大会2日目の第1試合。長崎西の野球に、目を覚ましたばかりの甲子園球場が揺れる。1回表。1アウト満塁から5番バッターの岡崎憲信がボールを見極め、押し出しのフォアボールを選ぶ。滋賀の強豪である滋賀学園のお株を奪う先手で観衆を沸かせたのだ。長崎西は制球に苦しむ滋賀学園の先発、土田義貴に対し、今度は脚を使って煽る。2-2の3回に2アウトからヒットで出塁したキャプテンの桑原直太郎が2盗、3盗と成功させてチャンスを広げ、勝ち越しを演出した。
強豪・滋賀学園に“僅差の敗退”だった長崎西
チームは5個の盗塁を記録した。最終的に4-5と惜しくも敗れたが、長崎西は目と脚で滋賀学園を揺さぶり、追い詰めたのである。初回に先取点のきっかけとなるヒット。逆転を許した直後の4回にはフォアボール、盗塁と一時同点をアシストした4番の細波慶吾は、長崎西の野球をこのように誇る。
「相手ピッチャーの投げるボールですとか牽制球の傾向とか、いろんな情報をかき集めて自分たちのプラスにするっていうのをモットーとしてやってきたので。データとかから得られる数字的なものが自分たちに思い切りの良さを与えてくれるというか、後押ししてくれる材料にはなっています」
東京大や京都大の現役合格者を輩出する、長崎県随一の進学校。45年ぶりの甲子園で見せたのは、まさに頭脳が光る野球だった。だが、それは最初から備わっていたものではない。日々の学習によって養われたものだと語るのが、監督の宗田将平である。
「偏差値が60、70とか勉強のできる子ではあるんですけど、野球の偏差値で言うと最初は40切っているので。そういうところからのスタートなので大変ですよ」
野球偏差値は低い。加えて平日は7時限の授業があるため、全体練習が1時間半程度と短い。選手たちはスタート時点で他のチームよりも出遅れてしまうわけだが、宗田は「学び」を与えることでそれを補っている。代表的なものがアプリの活用だ。山口陽大をはじめとするマネージャーが開発したアプリで、打球速度や飛んだ位置などを可視化する。ほかにも一般に普及する動作解析などのツールを使って情報を収集し、チームで共有していくのだという。
「そこを強みにできていると思います」
宗田は自信を覗かせながら言う。「いろんな視点から分析し、学んでいくという作業が好きな子たちなので。それが『野球の楽しさに繋がる』とわかれば、自分たちで勝手にやりだすんで。そこでうまくプレーに反映されれば、彼らの大きな成長になっていくと思うんですよね」
高知農が見せた「甲子園への挑戦」
野球への理解を深め「探求する楽しさ」を体現するのが長崎西なら、厳しさを経て「楽しい野球」に価値を見出したのが高知農だ。
大会3日目の第2試合。高知農は先発の山下蒼生が、外角や低めへ丁寧にボールを集めようとするが、日本文理打線にことごとく捉えられ10安打8失点を喫した。それでも攻撃では、4回にチームの歴史を刻む「1」を、甲子園のスコアボードに点灯させた。スコアは1-8。完敗という印象を与えたとしても、監督の下坂充洋は胸を張った。
「未来に繋がる試合だったと思います。大観衆のなかでプレーできた子供たちにとって、大きな財産になりました」
この財産を得るため、19年に監督となった下坂が選んだ道が「厳しい野球」だった。平日は日が暮れてからもバットを振らせ、ボールを追わせた。野球部の過酷な日常は部員たちの心身を摩耗させ、次第にグラウンドから遠ざけていく。年々、部員数は減り、21年には新入部員がひとりも現れなかった。夏の大会が終わり、3年生が抜けるとチームには3人しか部員が残らなかった。単独チームで公式戦に出られず、連合チームで戦う現実を突きつけられる。ここで下坂は、指導方針を180度、転換させた。厳しい野球からの脱却である。
「怖さはありませんでした。もう、変えるしかなかったので」
一方通行だった監督が、選手に歩み寄る。練習時間は短くなり、ミスをしても頭ごなしに叱責することもなくなった。チームは自然と明るくなっていった。変革を遂げたチームの空気感に魅了され、高知農への進学を決めたのが山下である。
「中学3年の秋に高知農業の試合を見て。その時の試合前ノックで、下坂先生の前向きな声掛けに惹かれました」
その山下と少年野球でチームメートだった、2年生キャッチャーの山本滉壬朗も同じ動機で高知農に入学したひとりだ。
中学で日本一の選手が…ナゼ高知農に?
山本は高知中のレギュラーとして、チームの日本一に貢献した選手だった。本来ならば、高校も強豪で知られる系列の高知高校に進むはずだったが、最終決断を躊躇した。理由は「厳しさについていけるか不安だった」からだと、山本が明かす。
「中学では、プレーでミスが出るとすぐに代えられるくらい競争が激しくて。高知高校は県外からも人が集まってくるので、そういう怖さがありました。高知農業には山下さんがおって、下坂先生も指導してくれるということで、この学校に行くことを決めました」
全国制覇経験者に思わず…監督「うちでいいの?」
山本は中学でチームメートだった永吉斗和を誘い、ともに高知農へ進学した。監督からすれば心強い戦力である。しかし、下坂はふたりにこう告げた。
「本当にうちでいいの?」
山本と永吉は「ここでやりたい」と言ってくれた。ふたりを突き動かしたもの。それこそが下坂が新たに築き上げる楽しさだった。監督が頭を下げる。
「先輩たちが楽しく野球をする姿を見て『行きたい』と言ってくれた。もう、本当に感謝しかないですよね」
光が差したチームに導かれるように有望選手が集まり、結果が生まれる。
昨秋の高知大会準々決勝。44度の甲子園出場を誇る明徳義塾を相手に、延長タイブレークを戦う接戦を演じた。2-3で惜しくも敗れたが、この試合が21世紀枠での甲子園への大きな弾みとなったのは事実だった。厳しさだけでは届かなかった場所。自らのスタイルを変えることで甲子園にたどり着いた下坂は、大観衆で膨れ上がった一塁側アルプスで声援を送る、「厳しき時代」の教え子たちに答え合わせを求めていた。
「俺たちの目指していた場所って、ここだよな?」
甲子園に出場する、いやこの場所を目指す全てのチームには物語がある。
長崎西と高知農。そのことを高校野球に再認識させてくれた存在こそ、21世紀枠だったのである。
📝ナゾの甲子園監督、初出場で初優勝…“広島史上最強チーム”から50年、崇徳高を復活させた重要人物とは? 元カープの伝説的OB・山崎隆造の証言
https://news.yahoo.co.jp/articles/4682aec03d3f0209ecec81e23e9ae784c25a9207
今春の甲子園に出場する崇徳高校(広島)。センバツ初出場初優勝を果たした「広島史上最強チーム」から50年、低迷した古豪の復活劇に“ある重要人物”がいた。当時メンバーだった山崎隆造らの証言。
それまで淡々とインタビューに応じていた崇徳の監督、藤本誠の頬を涙がつたった。昨秋の中国大会、33年ぶりのセンバツ甲子園出場を決定的にした準決勝の勝利後に、「應武前監督への思いは?」と問われた瞬間だった。
「指導者としてのいろはをたたき込まれて、私自身が成長することができましたので。本当に感謝しています。誰よりも勝つことにこだわっていた方だったので」
カープOB山崎隆造の証言
應武篤良。2022年9月にこの世を去った闘将は、崇徳の歴史と今回の復活出場を支えた最重要人物である。 崇徳は今回が4度目の春出場で、夏を含めると計6度目の甲子園となる。出場回数では突出していないにもかかわらず、広島で強豪として認識されているのは、ひとえに“ある1年”が劇的だったからである。應武が正捕手を務めた1976年、センバツ初出場初優勝の快挙を成し遂げたのだ。当時、主将としてチームを束ねていた、山崎隆造が述懐する。
「全国制覇なんて夢のまた夢じゃないけど、そういうイメージでみんなやっていたと思いますよ」
山崎、應武らの学年は、わずか14人しかおらず、練習場所も他部と共用の校庭だった。
「野球部だけじゃなく、ラグビー部がいる。アメフト部もいる。サッカー部もいたかな。狭いグラウンドに色んな部活が入り乱れてましたね」
謎の監督がいた「オレは運を持っている」
加えて、崇徳の初代監督で、当時チームを率いていた久保和彦は、「野球経験の有無が不明」の指導者だった。山崎も「久保先生の野球歴について、あまり聞いた記憶がない」と言う。それでも、脳裏にこびりついた記憶が一つある。山崎ら選手を前に久保はこう壮語したというのだ。
「『オレは非常に運を持っている人間なんだ』と。『占い師に1000人乗った船が沈没したとしてもあなたは生き残るというお墨付きをもらっている。だからオレを信じて乗っかってこい』と言っていたことを、覚えています」
山崎はたしかに久保の“豪運”を見た。同年センバツの2回戦、鉾田一(茨城)に9回2死まで1点ビハインドで追い詰められるも、土俵際から4点を奪って逆転勝ちした試合である。
「久保先生が監督になった秋にポンポンと勝ち進んで甲子園が決まって、甲子園でも負け寸前から奇跡の大逆転という。その流れでバーンと優勝してしまった」
山崎は運を強調するが、選手たちも粒ぞろいだった。同秋のドラフトでは、広島から山崎が1位、中堅手の小川達明が5位で指名。さらに、入団は拒否したものの、エース右腕の黒田真二が日本ハムから1位、應武も近鉄から3位指名を受けた。
伝説的優勝→低迷…なぜ?
部員ら最上級生は14人。最初から少数だったのではなく、「70、80人くらい」(山崎)の新入生が、猛練習で削がれ、研がれて生まれた精鋭だった。実力だけでなく、性格に一癖も二癖もある個性派集団は、試合となると自然と各々の仕事を完遂した。
「広島史上最強チーム」とも称されたこの世代は、広島の野球少年たちの心をつかみ、2学年下の後輩たちが主力となった1978年春にも甲子園の土を踏んだ。いよいよ崇徳に黄金時代が到来する――。誰もがそう思った。が、現実は異なった。
1978年春以降の甲子園出場は、1993年春のみ。夏にいたっては、山崎らセンバツ優勝チームで乗り込んだ1976年を最後に遠ざかる。2006年までに夏の広島大会決勝に6度進出しながら全敗。一時は最強と称されたチームは、いつしか“悲運”の象徴へと姿を変えた。甲子園から遠ざかれば、OBたちの熱気も下がる。山崎が「僕の大反省でもあるんですが」と伏し目がちに続ける。
「甲子園への道はすんなり行かないよね、となり、僕自身もプロでやっていくのに精いっぱいで、現役が終わってからも(プロで)指導者をやらせてもらって。大変申し訳ないのだけど、“母校離れ”じゃないけど、気持ちの上で疎遠になってしまったんですね」
その中でひとり、ふつふつと炎をたぎらせる男がいた。先述の應武である。
優勝メンバー・應武が母校に帰還した日
2010年に母校である早稲田大を明治神宮大会優勝に導き、新日鐵君津(現・日本製鉄かずさマジック)時代から続いた監督生活に終止符を打った。その應武が崇徳のOB会長に就任する。2012年のことだった。應武は真っ先に練習環境の改善を訴えた。生前、「学校に“異議申し立て”をしたんですよ」と、私にも熱弁をふるっていたものである。
「こんな狭いところで練習させるなんて、私立として条件が悪すぎるよ。田舎の私立でこれは『(甲子園に)出なくていいよ』って言っているように思える。おかしいだろって」
学校との度重なる折衝の果てに、2018年夏の広島大会終了後から應武が監督をすることになる。監督就任間もなかったころに取材へ赴くと、マネージャーと思われる部員と校庭の状況について打ち合わせていた。
「今日は(午後)6時にラグビーが終わって、そこからは全面使えます」
「サッカーはいないの?」
「サッカーとアメフトはいなくて、ラグビーが6時までです」
「じゃあ、全面使えるところからノックしよう」
夏で日没が遅く、他部が練習を早く切り上げたこの日は恵まれた方で、バックネットに向かっての打撃練習やベースランニング程度しかできない日もあった。甲子園優勝校とは思えぬ環境に、應武は憤っていた。
山崎が「その時々の理事長、校長によって考え方はそれぞれだと思うんですけど」と前置きをして、背景を語る。
「学校にある部活動が野球部だけではないのでね。バレーボール部が全国大会の常連だったり、野球部だけを特別扱いすることはできないというのが、学校の基本的な考え方だと思います」
野球部を強化すべき? 現場の反応
ラグビー部は度々「花園」に出場する強豪で、軟式野球部も全国大会常連だ。硬式野球部だけを優遇するのは学内で不公平感を生むという見立ては納得できる。だがそれ以上に説得力があったのが、1990年代前半に卒業したあるOBの推測だった。
「崇徳は学校の立地を含めて、生徒が集まりやすいですからね。野球部に力を入れなくても生徒が集まる」
公立校とは異なり、私立校が野球部を強化するのは、学校経営においてメリットがあるからに他ならない。たとえば同県の如水館は、「毎年夏になると、他校の出身者が野球の応援で盛り上がっているのがうらやましい」という卒業生の待望論から野球部が生まれたという。学校も専用グラウンドを建設するなど、支援を惜しまなかった。新しい校名を広めたい経営的視点にも合致したのは想像に難くない。
ほかにも広島新庄は、人口の少ない県北部に位置するハンディの打開策として、「甲子園を狙える野球部」という、生徒募集のフックが必要だった。野球部強化に明確な目的があるそれらの高校と違い、崇徳は学校経営上、野球部を強化する理由が希薄だった。
広島市内の中心部に校舎を構え、広島駅から電車で15分足らずで到着でき、立地に恵まれる。年々進学重視の路線を強め、昨年度は難関の一橋大に2人、地元の広島大に11人が合格するなど、国公立大合格者を95人も生み出した。私大に目を向けても、早慶に複数名、MARCHや関関同立といった名門に続々と合格している。現チームで主将、正捕手を担う新村瑠聖は、崇徳を選んだ理由を次のように明かしたものだ。
「崇徳は野球だけじゃなく、勉強も頑張れる環境だと思ったので。(推薦の)指定校に魅力的な大学がそろっているのも決め手の一つでした」
應武と理事長の“言い合い”
それでも應武は、OB会長に就任した2012年以降、学校のトップに野球部強化の必要性を訴えつづけた。時を同じくしてOB会副会長となった山崎が記憶をたどる。
「僕も何度か應武と一緒に校長室に行きました。『ヤバいな』と感じるぐらい、應武と理事長、校長との間に火花が散ったことは何度かありましたよ。僕と違って血気盛んなんでね(笑)。同級生ながら、『こいつ本気なんだな』と圧倒されましたね」
野球部を強化するか否か。話し合いが平行線をたどったある日、学校サイドから應武に「甲子園の優勝メンバーが協力して、野球部を強くしてください」と提案があった。應武が監督となり、山崎らの助力を仰ぎながら、再び甲子園に導けという趣旨である。
監督就任の経緯について應武は生前、「OB会長が監督に……っておかしいでしょ!」と私に漏らしていた。しかし、それは本音ではなかったかもしれない。現監督の藤本の証言だ。
〈つづく〉
☟山梨学院・菰田陽生は左手首骨折 2回戦以降の出場絶望的に 22日の1回戦で負傷
https://news.yahoo.co.jp/articles/6a1ca1486ca294ae40502c7f66acd55ca89729f9
山梨学院の「二刀流」、菰田陽生投手(3年)が、第98回選抜高校野球大会2回戦以降の出場が絶望的となった。22日行われた1回戦の長崎日大戦で打者走者と交錯した際に、左手首を負傷して途中交代。一夜明けた23日、左手首付近の骨折だったことが判明した。今後の出場は回避することになった。。
194センチ、102キロの恵まれた体を生かし高校通算本塁打は36本を記録し、投げては最速152キロに到達する本格派。沖縄尚学・末吉良丞投手と横浜(神奈川)の織田翔希投手(3年)と並び「高校BIG3」に呼ばれ、今秋のドラフト上位候補として評価が高い。
1回戦の長崎日大戦では初回に左越え先制ソロを2安打をマークしたが、4点リードの5回2死一塁の守備で悪送球を捕球しようとした際に打者走者と交錯し左手首を負傷。治療を受けた末にプレーを再開したが、6回裏の守備から交代となった。試合は5-3と逃げ切り初戦突破したが、試合後の菰田の左腕にはテーピングと簡易な添え木を施されていた。「投げるのは多分大丈夫だと思うんですけど、(ボールを)取ることであったり、バットを振るのも多分痛いかなと思います」と説明し、軽症であれば次戦以降に投手としての出場ができるかどうかだった。
💢第2試合途中で突然のゲリラ豪雨 スタンドの観客が一斉に避難 グラウンドに水が浮く 五回終了後にスタッフが整備
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「選抜高校野球・1回戦、高川学園-英明」(23日、甲子園球場)
五回表、英明の攻撃中に甲子園がゲリラ豪雨に襲われた。試合開始時には晴れ間ものぞいていたが、突然の大雨となった。
五回の攻撃が始まると、大粒の雨が聖地に降り注いだ。内野スタンドの観客が一斉にコンコースへ移動するほどの強烈な雨で、内野には次第に水も浮いてきた。
高川学園の木下もしきりに右手の指を気にするしぐさを見せ、スパイクの土を落とすシーンも。1死二、三塁から犠飛で4点目を許した。
雨が弱まったところで五回裏も試合は続行。英明の冨岡もマウンドのぬかるみを気にするシーンはあったが、しっかりと無失点に抑えた。五回終了後にグラウンド整備が行われた。
👣「偉大」名将の孫、佐野日大・中村盛汰「全力で頑張った」観戦“じい”もねぎらう
https://news.yahoo.co.jp/articles/1222508a54f306dcbeca8496b7bb5f8bc76041b0
<センバツ高校野球:三重2-0佐野日大>◇23日◇1回戦◇甲子園
佐野日大(栃木)は三重に0-2で敗れた。主将の中村盛汰内野手(3年)は、PL学園(大阪)を春夏合計6度の優勝に導き、甲子園通算58勝を納めた中村順司さん(79)を祖父に持つ。中村は「この舞台で何回も戦って勝ってきた。祖父は偉大だと感じました」と、唇をかんだ。
それでもPL学園を率いた名将の孫の意地は見せた。2回、1死から左前へチーム初安打。9回にも2死から右前に運び計2安打。大阪入りから毎日、順司氏から電話でアドバイスをもらった。「“気負わずに自分たちらしく粘り強いプレーをしなさい”と言われた。気持ちに余裕を持って試合に入ることができました」。祖父とのホットラインが支えになった。
野球を始めた時から、祖父は専属コーチだった。「いつも優しい祖父が、野球には厳しかった」。幼心に偉大な存在を独り占めできる喜びは格別だった。バッティングセンターに連れて行ってもらっては、アドバイスしてくれたことを忘れずにノートに書きためた。
順司氏から聞く昔話にも目を輝かせた。「清原(和博氏)はな、いつも室内練習場で1人で練習していたんだぞ。打球音は銃撃の音みたいや。それくらいのスイングやぞ」。この日の2本は、自分らしくミートして外野に運んだ。「『全力で頑張った』と。それは伝えたいです。そして、夏は、祖父に校歌を聴かせたいと思います」と夏の勝利を誓った。
○…中村順司氏が孫の佐野日大・中村盛汰の観戦に訪れた。バックネット裏から勇姿を見届け、「キャプテンで試合にも出してもらって、レギュラーとして頑張ったのはものすごく成長した。選手としては“じい”とおやじを飛び越えたかなと思いますね」とねぎらった。初戦敗退に終わったが、「この悔しさを(バネに)高校最後の夏、頑張ってほしい」と期待を寄せた。