自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
🎤【馬淵史郎 我が道7】人生変えた三瓶高での出会い 松山商に憧れも…親から猛反対
https://news.yahoo.co.jp/articles/5b0ed55ee254b097113dec4d724c871899399280
松山商を必死に応援したよ。69年(昭44)夏の甲子園決勝。松山商の相手は青森代表の三沢。愛媛・八幡浜の中2だった自分もテレビの前で熱くなっていた。スコアボードにずっと0が並ぶ。1点を取るために、甲子園で必死の攻防が続いた。延長18回引き分けで再試合。名勝負だったな。
太田幸司がスターになった試合だったが、こっちはもちろん松山商派。投手・井上明、捕手・大森光生、4番・三塁が谷岡潔…。メンバーは今でも頭に入っている。自分も甲子園に行きたい。一色俊作監督の下で野球をやりたい。その思いを強くさせた試合だった。松山商の校歌もよく歌っていた。
中3のときに父・正夫の異動で、大島中から三瓶東中に転校した。初めて野球部に所属して、松山商への憧れは増した。ところが親に猛反対された。「高校から家を出るもんじゃない」「小さい体で松山商で野球をやるのは無理や」と頑なだった。三日三晩泣いたな。
思いを引きずりながら進学したのが県立三瓶高。ここで野球部に入った。1年の夏から遊撃でレギュラーになって準々決勝まで行った。甲子園は夢みたいなところだけど、ひょっとしたら行けるかも、と思ったけど、現実は厳しかった。3年の夏も2回戦で敗戦。でも高校野球ってのは楽しかったし、自分の原点だと今も思う。当時は八幡浜工の同じ遊撃に南海に入る河埜敬幸がいた。投手ではやはり南海で活躍した南宇和の藤田学。藤田には練習試合で完全試合をされたことも覚えている。カーブがとにかく良くて、狙っても当たらなかった。
学校では体は小さいけど、負けん気は人一倍だった。何か事件があるところに自分がいた。だから「事起こしの史郎」と周りから呼ばれた。大人になっても「事起こし」の人生になるとはね。
話は飛ぶけど、三瓶高は今はもうなくなってしまった。これも過疎化と少子化の影響なんだろう。20年に宇和高三瓶分校となり、24年度に廃校となった。最後に明徳義塾のチームを連れて、送別試合を企画した。母校で監督という夢も実はあった。関係者もいろいろ動いて、具体化しそうな時期もあったけど、かなわなかったな。
三瓶高で一番大きかったのは、恩師と呼べる人との出会いだ。3年夏が終わってから、野球部監督に就任されたのが田内逸明さん。松山北OBで松山聖陵、南宇和で監督をされていた。田内さんに野球のイロハを教わった。「弱いもんが強いもんに勝てるのが野球。作戦というのはそのためのもんや」ということを教わった。
もう現役は退いていたけど、田内さんの話が聞きたくて、コーチ見習いで練習の手伝いもした。この出会い、そして田内さんの人脈が、自分の人生に凄く大きな影響を与えることになる。
🎤【馬淵史郎 我が道8】拓大では野球とバイトの日々…いろんな勉強をした時代だった
https://news.yahoo.co.jp/articles/8317520710d46df54da7bbcbf4eca6e63acbf619
三瓶高で田内逸明監督の野球論に触れて、野球の奥深さを知った。それまでは投げて、打つだけの野球だった。でも田内さんからは「野球は強いもんが必ず勝つとは限らない。弱いなら頭を使う。それが作戦、戦術や」と教えていただいた。目から鱗が落ちる、というのは、こういうことだと、聞く話すべてが面白かった。自分の野球のベースにも田内さんの野球論がある。
大学も田内さんの勧めもあって、拓大に進学することになる。八幡浜から東京に出て行くとなると、お金もかかる。経済的に決して楽ではなかったから、進学を諦めかけた時期もあったけど、田内さんや周りの人の応援もあって、何とか1年後に進学できた。
でも、花の東京に出てきても、生活は厳しかった。野球部の活動がオフになる12月と1月は稼がないといけない時期だった。郵便局でのアルバイトや。12月はお歳暮の配達、1月は年賀状の配達。ここで頑張って、愛媛への帰省費用や春の野球部キャンプの費用に充てていた。よく働いたよ。
当時の拓大野球部の監督は綱島新八さん。大映や松竹でプレーした元プロ選手。拓大の前はPL学園でも監督をされていた。田内さんと仲が良かったという関係で、お世話になったという流れだった。1年から遊撃でレギュラーになった。でも4年間の最高成績は2部の3位。神宮が法大・江川卓の投球で盛り上がった時代だったけど、こっちにスポットライトが当たることはなかった。他には駒大の中畑清、専大には中尾孝義、東洋大には松沼博久・雅之兄弟や達川光男とかがいたね。
リーグ優勝とか1部昇格とは縁がなかったが、大学時代は面白かった。「花は桜木、男は拓大」とかうそぶいて、肩で風切って歩いていた。一言で言うなら猛者の集まり。先輩の前ではすべて「押忍」。厳しいこともあったけど、面倒見のいい先輩が多かった。金銭的に苦労しているのも知っていたから、食事もよくおごってもらった。
拓大の4年間で、上級生が手本となって、組織で規律を重んじる行動が大事だということは学んだ。これは社会に出てからも役立った。田舎育ちの人間でも人並みの一般常識を身につけることができた。合宿所周囲の清掃とかも毎日やって、近所の人たちにも応援していただけるように努めた。いろんな勉強をした時代だね。
明治神宮大会出場の時などに、今もお世話になっている拓大野球部では、長男の烈が20年から監督をさせていただいている。明徳義塾の寮で生まれ、育ち、高校では主将を務めた。内田俊雄さんの後任として監督となる時に「監督というのは自分で切り開くもの」「馬淵の息子というのは関係ない」とだけ伝えた。親としてはいつも応援している。
📝飛び交った“誹謗中傷” 屈辱の無期限の活動休止も…甲子園実現に「やってよかった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/a5e278e28de9919c6484db97fbb0bff032a7969c?page=1
太田幸司氏は現役引退後、女子プロ野球のスーパーバイザーに就任
“元祖甲子園アイドル”で、元近鉄、巨人、阪神でプレーした太田幸司氏は、1984年の現役引退後、再びユニホームを着ることなく、外からプロ野球を見続けている。「伝える側に面白さ、魅力を感じたんです」。過去にはコーチとして誘う球団もあったが、あえて全て断って、現在も野球評論家として活動中だ。その間にはスポーツキャスターとして人気を博し、女子プロ野球のスーパーバイザーも務めた。
現役生活を阪神で終えた太田氏は当時を思い起こしながら「解説者になるとき『解説をやっている間に阪神の優勝を1回は見たいね』なんて冗談で言っていたら、(解説者)1年目に優勝だもんね」と笑みを浮かべた。1985年の阪神は、ランディ・バース内野手、掛布雅之内野手、岡田彰布内野手の強力クリーンアップを擁して、1964年以来21年ぶりのリーグ制覇と、2リーグ制になってから初の日本一に輝いたが、正直、驚いたという。
「(自分が在籍した)前の年(1984年)とほとんど同じメンバーだったしね。僕はバースにも紅白戦で投げたけど、その時はまだそんなにね……。(1985年に)解説になってキャンプ巡りして、高知で阪急の練習を見たらパカンパカン。安芸に行って阪神の練習を見たらポッスン、ポッスンで、なんだこれは、って。それがその年に優勝。掛布らがいたわけだけど、どうなっているのって思いましたよ」
そんな阪神Vの年から太田氏の”第2の野球人生“はスタートした。「辞めて何年かは現場にもう1回という気持ちも十分にありましたけどね。途中からいろんなことをファンに伝える側に魅力を感じ出して、これでやろうと思うようになったんです」。再びユニホームを着るという気持ちはどんどん薄れていった。「『ピッチングコーチをする気はないか』とか、いろんな方から声をかけてもらったんですけど、その時は(スポーツキャスターとして)番組もやっていましたしね」と断り続けたそうだ。
「僕自身、かつて、こんなニュアンスで言ったつもりはないんだけど、(マスコミに)違う書かれ方をしたりとか、嫌な時期があったんです。だから、やっぱり伝える側っていうのは、ちゃんとやらないといけない、ちゃんと伝えようみたいな……そういう思いもあってね」
青森・三沢高時代の1969年夏の甲子園決勝、松山商戦では延長18回、0-0引き分け再試合の大熱投で人気を博した。甘いマスクに女性ファンが熱狂した「コーちゃんフィーバー」は、社会現象にもなった。そんな人気を背負い、プロ生活に突入した太田氏にしか分からない世界がいくつもあったことだろう。伝えられる側から伝える側に立場が変わり、新たな使命みたいものも感じたようだ。
甲子園でレジェンド始球式に登板「すごく緊張しました」
2009年には日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーに就任し、広報的な役割も果たした。残念ながら、2021年12月に同機構が無期限の活動休止となり「今は阪神も巨人も西武も、女子野球チームを持っていますが、自分らはちょっと早く行き過ぎたのかなっていうところはありますよね。目標としてはまず、女子プロ野球(発足)をきっかけに盛り上げて、底辺が広がればということだったんですけどね。だけど、いろんな誹謗中傷というか、そんなのも結構あったりとかでねぇ……」と何とも言えない表情で振り返った。
それでも、そんなアクションを起こしたことで、女子高校野球の全国大会決勝が甲子園球場で行われるようになるなど、現在につながっている。目標通り、当初よりも女子野球は広がりを見せており、その発展に貢献したのも間違いない。「そう思ってもらえれば、我々もやってよかったなってなりますけどね」と、太田氏は話した。
2018年夏、第100回全国高等学校野球選手権記念大会では、大阪桐蔭(北大阪)と金足農(秋田)の決勝戦で、太田氏はレジェンド始球式を行った。「あの時の金足農は、自分らの時の三沢高を彷彿させるような……。(エースの)吉田輝星(現オリックス)もいろんな(高校から)スカウトが来ていたみたいだけど、地元の仲間とやりたいから金足農に入ったって、何か自分を思い出すような、ね」と感慨深い思いで投げたという。
「プロの取材でよく甲子園に行くけど、久しぶりにマウンドに立ったら、(1968年の三沢高2年夏に)最初に甲子園に出た時みたいに膝がカクカクして……。すごく緊張しました。プロがやる甲子園と、高校野球をやっている時の甲子園は違うなと改めて感じましたね。そういうところに決勝戦で呼んでいただいたというのは、本当に高校野球をやっていてよかったというか、最高の栄誉だなと思いましたよね」
現在も毎日放送のラジオ解説者を務める。「今はどっちかというとパ・リーグ。オリックス-ソフトバンク戦の九州送りとか、オリックス-日本ハム戦の北海道送りとかの放送をやらせてもらったりしています。試合がない時は、その枠で吉本興業の野球好きの方々と、ちょっとおしゃべりさせてもらったりとかもね」と、野球の魅力を“伝える仕事”に全力投球中だ。
☟野球の九州アジアリーグが7イニング制を導入、夏の暑さ対策…昨夏は球場客席が60度超えていたことも
https://news.yahoo.co.jp/articles/f463547a2637ac60daa1372ed6c58525b90ce682
日ごとに暖かくなり、野球シーズンの到来を感じさせる。独立リーグの九州アジアリーグは14日に開幕する。
今季は、夏の暑さ対策として7イニング制を導入する。加盟、準加盟の計5チームが対戦する5月30日以降の公式戦で適用。これまでダブルヘッダーは7イニングで行われていたが、今季は大半のゲームが対象となる。
リーグによると、熊本の球場では昨夏、サーモグラフィーで測った客席が60度を超えていたことがあったという。炎天下のグラウンドでプレーする選手、スタッフに加え、観客への暑熱対策も待ったなしのようだ。リーグでは、投手の投球間隔に時間制限を設けるピッチクロックも2年前から取り入れてきたが、さらなる時短を目指す。
7イニング制は高校野球でも議論されている。戦い方などに大きな影響を及ぼすため、導入を巡ってはさまざまな意見がある。ただ、目の前の状況に対応を迫られているのも確か。リーグの選択は、どのような結果をもたらすだろうか。
☟高校野球練習試合解禁 記者は部員14人対11人の「7回制」に部活動としての現実も垣間見た
https://news.yahoo.co.jp/articles/4b81aac3ee211b3b0be1abd40f102cc43325088e
高校野球の練習試合が7日から解禁された。選抜に出場するチーム、そして春季大会を控える全国の強豪校などは、当然のごとく「9回制」で戦いをスタートさせている。一方で記者が聞き取りした、とある県立両校の練習試合は、「7回制」で2試合を実施した。
「14人対11人」の部員数の戦い。21日が初日の春季地区大会に向けての腕試しだが、両チームの願いはとにかく「ケガ人」が出ないこと。11人のチームは、いきなり初戦で投手が完投する負担も生じていたという。
早朝に降った雨のため、グラウンド整備もあり試合は午後1時開始。2試合終了は白球が見えづらくなった午後5時過ぎで、両軍選手はグッタリとして今季初戦を終えた。
14人の高校の方でさえ、日曜日である8日は疲労回復に務めるため、練習試合は組んでいないという。そして、試合を終えた関係者からは「とにかくケガ人なく初戦を終えたことにホッとしている」と声が出て、選手からは「9回制で戦いたかった」という声はあまり聞かれなかったという。
グラウンドが整備され(人工芝が敷かれ)、ナイター設備も備わるような環境で、部員数も豊富なら「9回制」で問題はないだろう。だが、今回聞き取りしたような環境の高校にとって、「9回」が「7回」になることに大きな不満が生じない部分もある。選抜に向けた各地区秋季大会は、実は「夏の甲子園」が開催されている同時期に、真夏の気温35度近くに達する炎天下で、一般の高校のグラウンドでスタートしているケースもある。全国の高校野球の現実だ。
聖地での試合終盤のドラマ、美談を欲するファンの視点。全国制覇を狙う強豪校スタッフ、部員の視点。そして、「勝ちたい」けど実力が伴わない公立高の視点に、高校野球を部活動と捉えて楽しむことを求めている部員の視点。
多くの視点で「7回制」は議論されている。記者がここで結論を出すことはない。だが、3396校(昨夏予選出場校)全てが「甲子園」に手が届く環境ではない中、現実的な視点を持つことも重要とは考えている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5b0ed55ee254b097113dec4d724c871899399280
松山商を必死に応援したよ。69年(昭44)夏の甲子園決勝。松山商の相手は青森代表の三沢。愛媛・八幡浜の中2だった自分もテレビの前で熱くなっていた。スコアボードにずっと0が並ぶ。1点を取るために、甲子園で必死の攻防が続いた。延長18回引き分けで再試合。名勝負だったな。
太田幸司がスターになった試合だったが、こっちはもちろん松山商派。投手・井上明、捕手・大森光生、4番・三塁が谷岡潔…。メンバーは今でも頭に入っている。自分も甲子園に行きたい。一色俊作監督の下で野球をやりたい。その思いを強くさせた試合だった。松山商の校歌もよく歌っていた。
中3のときに父・正夫の異動で、大島中から三瓶東中に転校した。初めて野球部に所属して、松山商への憧れは増した。ところが親に猛反対された。「高校から家を出るもんじゃない」「小さい体で松山商で野球をやるのは無理や」と頑なだった。三日三晩泣いたな。
思いを引きずりながら進学したのが県立三瓶高。ここで野球部に入った。1年の夏から遊撃でレギュラーになって準々決勝まで行った。甲子園は夢みたいなところだけど、ひょっとしたら行けるかも、と思ったけど、現実は厳しかった。3年の夏も2回戦で敗戦。でも高校野球ってのは楽しかったし、自分の原点だと今も思う。当時は八幡浜工の同じ遊撃に南海に入る河埜敬幸がいた。投手ではやはり南海で活躍した南宇和の藤田学。藤田には練習試合で完全試合をされたことも覚えている。カーブがとにかく良くて、狙っても当たらなかった。
学校では体は小さいけど、負けん気は人一倍だった。何か事件があるところに自分がいた。だから「事起こしの史郎」と周りから呼ばれた。大人になっても「事起こし」の人生になるとはね。
話は飛ぶけど、三瓶高は今はもうなくなってしまった。これも過疎化と少子化の影響なんだろう。20年に宇和高三瓶分校となり、24年度に廃校となった。最後に明徳義塾のチームを連れて、送別試合を企画した。母校で監督という夢も実はあった。関係者もいろいろ動いて、具体化しそうな時期もあったけど、かなわなかったな。
三瓶高で一番大きかったのは、恩師と呼べる人との出会いだ。3年夏が終わってから、野球部監督に就任されたのが田内逸明さん。松山北OBで松山聖陵、南宇和で監督をされていた。田内さんに野球のイロハを教わった。「弱いもんが強いもんに勝てるのが野球。作戦というのはそのためのもんや」ということを教わった。
もう現役は退いていたけど、田内さんの話が聞きたくて、コーチ見習いで練習の手伝いもした。この出会い、そして田内さんの人脈が、自分の人生に凄く大きな影響を与えることになる。
🎤【馬淵史郎 我が道8】拓大では野球とバイトの日々…いろんな勉強をした時代だった
https://news.yahoo.co.jp/articles/8317520710d46df54da7bbcbf4eca6e63acbf619
三瓶高で田内逸明監督の野球論に触れて、野球の奥深さを知った。それまでは投げて、打つだけの野球だった。でも田内さんからは「野球は強いもんが必ず勝つとは限らない。弱いなら頭を使う。それが作戦、戦術や」と教えていただいた。目から鱗が落ちる、というのは、こういうことだと、聞く話すべてが面白かった。自分の野球のベースにも田内さんの野球論がある。
大学も田内さんの勧めもあって、拓大に進学することになる。八幡浜から東京に出て行くとなると、お金もかかる。経済的に決して楽ではなかったから、進学を諦めかけた時期もあったけど、田内さんや周りの人の応援もあって、何とか1年後に進学できた。
でも、花の東京に出てきても、生活は厳しかった。野球部の活動がオフになる12月と1月は稼がないといけない時期だった。郵便局でのアルバイトや。12月はお歳暮の配達、1月は年賀状の配達。ここで頑張って、愛媛への帰省費用や春の野球部キャンプの費用に充てていた。よく働いたよ。
当時の拓大野球部の監督は綱島新八さん。大映や松竹でプレーした元プロ選手。拓大の前はPL学園でも監督をされていた。田内さんと仲が良かったという関係で、お世話になったという流れだった。1年から遊撃でレギュラーになった。でも4年間の最高成績は2部の3位。神宮が法大・江川卓の投球で盛り上がった時代だったけど、こっちにスポットライトが当たることはなかった。他には駒大の中畑清、専大には中尾孝義、東洋大には松沼博久・雅之兄弟や達川光男とかがいたね。
リーグ優勝とか1部昇格とは縁がなかったが、大学時代は面白かった。「花は桜木、男は拓大」とかうそぶいて、肩で風切って歩いていた。一言で言うなら猛者の集まり。先輩の前ではすべて「押忍」。厳しいこともあったけど、面倒見のいい先輩が多かった。金銭的に苦労しているのも知っていたから、食事もよくおごってもらった。
拓大の4年間で、上級生が手本となって、組織で規律を重んじる行動が大事だということは学んだ。これは社会に出てからも役立った。田舎育ちの人間でも人並みの一般常識を身につけることができた。合宿所周囲の清掃とかも毎日やって、近所の人たちにも応援していただけるように努めた。いろんな勉強をした時代だね。
明治神宮大会出場の時などに、今もお世話になっている拓大野球部では、長男の烈が20年から監督をさせていただいている。明徳義塾の寮で生まれ、育ち、高校では主将を務めた。内田俊雄さんの後任として監督となる時に「監督というのは自分で切り開くもの」「馬淵の息子というのは関係ない」とだけ伝えた。親としてはいつも応援している。
📝飛び交った“誹謗中傷” 屈辱の無期限の活動休止も…甲子園実現に「やってよかった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/a5e278e28de9919c6484db97fbb0bff032a7969c?page=1
太田幸司氏は現役引退後、女子プロ野球のスーパーバイザーに就任
“元祖甲子園アイドル”で、元近鉄、巨人、阪神でプレーした太田幸司氏は、1984年の現役引退後、再びユニホームを着ることなく、外からプロ野球を見続けている。「伝える側に面白さ、魅力を感じたんです」。過去にはコーチとして誘う球団もあったが、あえて全て断って、現在も野球評論家として活動中だ。その間にはスポーツキャスターとして人気を博し、女子プロ野球のスーパーバイザーも務めた。
現役生活を阪神で終えた太田氏は当時を思い起こしながら「解説者になるとき『解説をやっている間に阪神の優勝を1回は見たいね』なんて冗談で言っていたら、(解説者)1年目に優勝だもんね」と笑みを浮かべた。1985年の阪神は、ランディ・バース内野手、掛布雅之内野手、岡田彰布内野手の強力クリーンアップを擁して、1964年以来21年ぶりのリーグ制覇と、2リーグ制になってから初の日本一に輝いたが、正直、驚いたという。
「(自分が在籍した)前の年(1984年)とほとんど同じメンバーだったしね。僕はバースにも紅白戦で投げたけど、その時はまだそんなにね……。(1985年に)解説になってキャンプ巡りして、高知で阪急の練習を見たらパカンパカン。安芸に行って阪神の練習を見たらポッスン、ポッスンで、なんだこれは、って。それがその年に優勝。掛布らがいたわけだけど、どうなっているのって思いましたよ」
そんな阪神Vの年から太田氏の”第2の野球人生“はスタートした。「辞めて何年かは現場にもう1回という気持ちも十分にありましたけどね。途中からいろんなことをファンに伝える側に魅力を感じ出して、これでやろうと思うようになったんです」。再びユニホームを着るという気持ちはどんどん薄れていった。「『ピッチングコーチをする気はないか』とか、いろんな方から声をかけてもらったんですけど、その時は(スポーツキャスターとして)番組もやっていましたしね」と断り続けたそうだ。
「僕自身、かつて、こんなニュアンスで言ったつもりはないんだけど、(マスコミに)違う書かれ方をしたりとか、嫌な時期があったんです。だから、やっぱり伝える側っていうのは、ちゃんとやらないといけない、ちゃんと伝えようみたいな……そういう思いもあってね」
青森・三沢高時代の1969年夏の甲子園決勝、松山商戦では延長18回、0-0引き分け再試合の大熱投で人気を博した。甘いマスクに女性ファンが熱狂した「コーちゃんフィーバー」は、社会現象にもなった。そんな人気を背負い、プロ生活に突入した太田氏にしか分からない世界がいくつもあったことだろう。伝えられる側から伝える側に立場が変わり、新たな使命みたいものも感じたようだ。
甲子園でレジェンド始球式に登板「すごく緊張しました」
2009年には日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーに就任し、広報的な役割も果たした。残念ながら、2021年12月に同機構が無期限の活動休止となり「今は阪神も巨人も西武も、女子野球チームを持っていますが、自分らはちょっと早く行き過ぎたのかなっていうところはありますよね。目標としてはまず、女子プロ野球(発足)をきっかけに盛り上げて、底辺が広がればということだったんですけどね。だけど、いろんな誹謗中傷というか、そんなのも結構あったりとかでねぇ……」と何とも言えない表情で振り返った。
それでも、そんなアクションを起こしたことで、女子高校野球の全国大会決勝が甲子園球場で行われるようになるなど、現在につながっている。目標通り、当初よりも女子野球は広がりを見せており、その発展に貢献したのも間違いない。「そう思ってもらえれば、我々もやってよかったなってなりますけどね」と、太田氏は話した。
2018年夏、第100回全国高等学校野球選手権記念大会では、大阪桐蔭(北大阪)と金足農(秋田)の決勝戦で、太田氏はレジェンド始球式を行った。「あの時の金足農は、自分らの時の三沢高を彷彿させるような……。(エースの)吉田輝星(現オリックス)もいろんな(高校から)スカウトが来ていたみたいだけど、地元の仲間とやりたいから金足農に入ったって、何か自分を思い出すような、ね」と感慨深い思いで投げたという。
「プロの取材でよく甲子園に行くけど、久しぶりにマウンドに立ったら、(1968年の三沢高2年夏に)最初に甲子園に出た時みたいに膝がカクカクして……。すごく緊張しました。プロがやる甲子園と、高校野球をやっている時の甲子園は違うなと改めて感じましたね。そういうところに決勝戦で呼んでいただいたというのは、本当に高校野球をやっていてよかったというか、最高の栄誉だなと思いましたよね」
現在も毎日放送のラジオ解説者を務める。「今はどっちかというとパ・リーグ。オリックス-ソフトバンク戦の九州送りとか、オリックス-日本ハム戦の北海道送りとかの放送をやらせてもらったりしています。試合がない時は、その枠で吉本興業の野球好きの方々と、ちょっとおしゃべりさせてもらったりとかもね」と、野球の魅力を“伝える仕事”に全力投球中だ。
☟野球の九州アジアリーグが7イニング制を導入、夏の暑さ対策…昨夏は球場客席が60度超えていたことも
https://news.yahoo.co.jp/articles/f463547a2637ac60daa1372ed6c58525b90ce682
日ごとに暖かくなり、野球シーズンの到来を感じさせる。独立リーグの九州アジアリーグは14日に開幕する。
今季は、夏の暑さ対策として7イニング制を導入する。加盟、準加盟の計5チームが対戦する5月30日以降の公式戦で適用。これまでダブルヘッダーは7イニングで行われていたが、今季は大半のゲームが対象となる。
リーグによると、熊本の球場では昨夏、サーモグラフィーで測った客席が60度を超えていたことがあったという。炎天下のグラウンドでプレーする選手、スタッフに加え、観客への暑熱対策も待ったなしのようだ。リーグでは、投手の投球間隔に時間制限を設けるピッチクロックも2年前から取り入れてきたが、さらなる時短を目指す。
7イニング制は高校野球でも議論されている。戦い方などに大きな影響を及ぼすため、導入を巡ってはさまざまな意見がある。ただ、目の前の状況に対応を迫られているのも確か。リーグの選択は、どのような結果をもたらすだろうか。
☟高校野球練習試合解禁 記者は部員14人対11人の「7回制」に部活動としての現実も垣間見た
https://news.yahoo.co.jp/articles/4b81aac3ee211b3b0be1abd40f102cc43325088e
高校野球の練習試合が7日から解禁された。選抜に出場するチーム、そして春季大会を控える全国の強豪校などは、当然のごとく「9回制」で戦いをスタートさせている。一方で記者が聞き取りした、とある県立両校の練習試合は、「7回制」で2試合を実施した。
「14人対11人」の部員数の戦い。21日が初日の春季地区大会に向けての腕試しだが、両チームの願いはとにかく「ケガ人」が出ないこと。11人のチームは、いきなり初戦で投手が完投する負担も生じていたという。
早朝に降った雨のため、グラウンド整備もあり試合は午後1時開始。2試合終了は白球が見えづらくなった午後5時過ぎで、両軍選手はグッタリとして今季初戦を終えた。
14人の高校の方でさえ、日曜日である8日は疲労回復に務めるため、練習試合は組んでいないという。そして、試合を終えた関係者からは「とにかくケガ人なく初戦を終えたことにホッとしている」と声が出て、選手からは「9回制で戦いたかった」という声はあまり聞かれなかったという。
グラウンドが整備され(人工芝が敷かれ)、ナイター設備も備わるような環境で、部員数も豊富なら「9回制」で問題はないだろう。だが、今回聞き取りしたような環境の高校にとって、「9回」が「7回」になることに大きな不満が生じない部分もある。選抜に向けた各地区秋季大会は、実は「夏の甲子園」が開催されている同時期に、真夏の気温35度近くに達する炎天下で、一般の高校のグラウンドでスタートしているケースもある。全国の高校野球の現実だ。
聖地での試合終盤のドラマ、美談を欲するファンの視点。全国制覇を狙う強豪校スタッフ、部員の視点。そして、「勝ちたい」けど実力が伴わない公立高の視点に、高校野球を部活動と捉えて楽しむことを求めている部員の視点。
多くの視点で「7回制」は議論されている。記者がここで結論を出すことはない。だが、3396校(昨夏予選出場校)全てが「甲子園」に手が届く環境ではない中、現実的な視点を持つことも重要とは考えている。