自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
📝【センバツ】剛腕BIG3激突か…最激戦区サバイバル 主砲欠く神宮王者ら波乱の対戦決定
https://news.yahoo.co.jp/articles/02fd0442d00287b45eca091f1364df69a9ea7b10
第98回選抜高校野球大会の組み合わせ抽選会が6日、大阪市内で行われ、出場32校の激突の構図が固まった。開会式の選手宣誓は、全校主将による抽選の結果、北照(北海道)の手代森煌斗主将に決定。順調に日程が消化されれば、31日に決勝が行われる。今大会は横浜(神奈川)の織田翔希、昨夏覇者・沖縄尚学の末吉良丞、山梨学院の菰田陽生ら、ドラフト候補の投手〝BIG3〟に注目が集中。群雄割拠の戦いを制し、紫紺の優勝旗を手にするのはどこか。
大会連覇を狙う本命は、MLBからも熱視線を浴びる〝世代ナンバーワン投手〟織田(3年)を擁する横浜だ。最速152キロの直球と驚異の制球力を誇る本格派右腕は、昨年の甲子園で6勝をマーク。初めて背番号「1」を背負い、第2日に実力校・神村学園(鹿児島)との初戦に臨む。新チームも公式戦22勝1敗と盤石で、小野、池田、江坂(いずれも3年)ら経験豊富なクリーンアップの破壊力も大会屈指だ。
今大会で最も過酷なサバイバルが予想されるのが、昨秋の各地区王者が一カ所に集結した「最激戦エリア」だろう。ここには、明治神宮大会を制した九州国際大付(福岡)を筆頭に、関東王者の山梨学院、近畿覇者の神戸国際大付(兵庫)、北海道王者の北照らがひしめき合う。
特に注目は大会4日目の第1試合、神宮大会決勝の再現となる九州国際大付対神戸国際大付だ。九州国際大付は、神宮Vの原動力となった主軸の牟礼翔(3年)が不祥事による出場停止で今大会のメンバーから外れているが、楠城祐介監督は「全員で束になって戦うだけ」と結束を強調する。対する神戸国際大付もリベンジに燃えており、序盤戦最大の山場となる。
同じブロックの第3試合には、194センチの大型二刀流・菰田(3年)を擁する山梨学院が登場。初戦の相手、長崎日大(長崎)も九州大会決勝で九州国際大付を土俵際まで追い詰めた実力校で、一戦必勝の緊張感が漂う。他にも専大松戸(千葉)や近江(滋賀)、大垣日大(岐阜)といった常連校が名を連ねており、ベスト4進出をかけた争いはかつてない高密度なものになる。
一方、夏春連覇に挑む沖縄尚学は、大会初日の開幕戦で古豪・帝京(東京)と激突する。エース左腕・末吉(3年)は、U―18日本代表を経験して精神的にも成熟。150キロの剛球に加え、冬場に磨いた球質の向上で相手打線をねじ伏せる構えだ。今大会から導入されるDH制を戦略にどう組み込むかが、打線の援護を引き出す鍵となる。
関西勢では、4年ぶりの王座奪還を目指す大阪桐蔭が不気味な存在だ。プロ注目の右腕・吉岡(3年)と大型左腕・川本(2年)の二枚看板は強力。秋に露呈した守備の課題をどこまで克服できているかが、名門復活への絶対条件となる。
さらに21世紀枠で出場する長崎西、高知農らの挑戦や、4季連続出場の花巻東(岩手)など、実力校が虎視眈々と頂点を狙う。北の大地から届く宣誓の声を合図に、聖地での熱い戦いが幕を開ける。
☟日大三野球部が春季大会出場辞退「指導体制の見直しを進めております」HPに文書掲載
https://news.yahoo.co.jp/articles/66ad7e20f1f0a4c9db2af8d1139c1adcca97bfd7
児童買春・児童ポルノ禁止法違反(製造や提供)容疑で硬式野球部の男子部員2人が書類送検された日大三(東京)が7日、春季東京大会を辞退することを発表した。同大会は各校にとって夏のシード権獲得を占う重要な位置づけで、8日に1次予選と東京大会の組み合わせ抽選会が控えていた。「現在、硬式野球部は活動を停止し、事案の重大性を踏まえ、指導体制および寮運営体制の見直しを進めております。このような状況を鑑み、春季大会への出場は辞退させていただくことといたしました」とホームページに掲載した。
昨夏の甲子園大会で準優勝した同校は、硬式野球部員2人(17歳と16歳)が女子生徒にわいせつ動画を送らせて拡散したなどとして、警視庁が先月12日までに書類送検した。動画は部員二十数人が受け取り、拡散には十数人が関わったとみられ、学校側は保護者説明会を開くなど対応にあたっていた。
東京都高野連は既に学校側から報告書を受け取り、日本高野連にも提出。今後は日本高野連の審議委員会で審議し、仮に対外試合禁止や指導者の謹慎といった処分が必要と判断された場合には、日本学生野球協会の審査室にかけられる。
💢「なんでいま?」楽天・浅村栄斗の書類送検に「1年かかった理由」と「無類のギャンブル好き」素顔
https://news.yahoo.co.jp/articles/9382194a3ede6a909df9ba628ff340a2778311d2
後輩にボートレースを“指南”
スマートフォンを通じたオンラインカジノでの賭博行為があったとして宮城県警は3月4日、楽天・浅村栄斗内野手(35)ら球団関係者計3人を書類送検した。
浅村を巡っては昨年、オンラインカジノを利用したとして書類送検された元巨人・オコエ瑠偉(28)の供述が話題を呼んだ。
「捜査関係者への取材の過程で、『(オコエが楽天在籍中だった2021年ごろに)楽天の先輩がオンラインカジノで遊んでいるのが(賭博をする)きっかけだった』と供述したことが報じられたのです。すぐさま球界では“犯人捜し”が始まり、ほどなくして浅村の名前が浮上していました」(在京テレビ局関係者)
浅村のギャンブル好きは、西武時代から有名だったという。当時を知る関係者が話す。
「とくにボートレースが大好きでした。ベンチ裏などで後輩にもその楽しさを伝えたりしていたんです。コロナ禍で行動制限があった2021年の東京五輪でも、侍ジャパンのメンバーだった浅村は、グラウンド内外でスマホを見ながら後輩たちにボートレースを“指南”していましたよ。公営ギャンブルで終わらせておけばよかったのに……」
競馬やボートレースと同じノリでオンラインカジノに手を染めていたとなれば言語道断。だが、気になるのは書類送検されたタイミングだ。球界でオンラインカジノ問題が取り沙汰されてから1年以上が経過した今になって、なぜ浅村ら3名の名前が挙がったのか。3月4日午後、楽天球団広報は「球団所属関係者」に関する声明を発表。
「昨年2月、オンラインカジノの利用に関し、球団内で自主申告の呼びかけを実施したところ該当者から自主申告があったため、宮城県警にご相談し、捜査にも真摯に対応してまいりました。
該当者は、オンラインカジノの違法性を認識しないまま、興味本位で利用してしまったことを深く反省しているうえ、12球団で申し合わせた制裁金の支払いも異議なく受け入れており、本件につきましては昨年時点で必要な対応を完了しております」
全国紙社会部記者はこう指摘する。「浅村がオンラインカジノにつぎ込んだ金額が、他の選手よりもかなり大きかったことで裏取りが難航し、多くの時間を要したようです。また、警察は年度をまたいで捜査を継続することを嫌がるので、3月というタイミングで書類送検に踏み切ったのでしょう」
浅村はすでに“禊”を済ませており、3月4日、静岡での1軍戦にも4番でスタメン出場していることからもわかるように、球団内では“終わった”出来事になっているという。チームの主砲らしく、今年は汚名返上といきたいところだ。
🎤【馬淵史郎 我が道5】脅迫電話も相次ぎ…騒動の責任感じ学校に進退伺も
https://news.yahoo.co.jp/articles/20750f6c119b5e3771f8c24a8747ddbf7a4c6c04
92年(平4)の「松井5敬遠」に対する世間の反応は、まさに想定外だった。当日夜はトップニュース。翌日の新聞でもいろんなことを書かれた。明徳義塾の宿舎には「馬淵を出せ」「高知に帰らせろ」などの電話が殺到。パトカーが出動し、周囲を警戒する騒ぎにもなった。監督も選手も宿舎から一歩も出られなくなった。
宿舎に「馬淵史郎様」で郵便が届いた。開けてみるとカミソリが入っていた。中に紙が一枚。「これで首切って死ね」。完全に悪役だった。気分はデストロイヤー、あるいはタイガー・ジェット・シンだったな。明徳義塾は何も悪いことをしていない。そう叫びたかった。野球とは何か。公認野球規則にはこう書いてある。「各チームは相手より多くの得点を記録して、勝つことを目的にする」。勝つために敬遠策を取った。汚い手を使って戦ったんじゃないと言いたかった。
星稜戦の6日後。張り詰めた中で3回戦の広島工戦を迎えた。ヤジられるのを覚悟で、甲子園に入ったが、待っていたのは意外な拍手だった。嫌がらせを受けていると報じられたのに加え、広島工側も「明徳義塾はルール違反をしたわけでなく、選手に何の罪もありません。広島工業野球部も同じ作戦を採用したかもわかりません」というビラを応援団に配ってくれたと聞いた。心から感謝したかったが、張り詰めた気持ちがなくなったためか、あっさりと負けてしまった。
やっぱり悔しかった。試合後のミーティングで「お前らはようやった」と言った瞬間、涙が止まらなくなった。負けたから泣いたんじゃない。耐えて、耐えてきて、こんな思いで大会が終わるなんて。それが悔しかった。
高知に帰って、監督としてケジメをつけないといけないと思った。学校にも脅迫電話が相次いでいた。迷惑をかけた責任は自分にある。吉田圭一校長に進退伺を出したが、突き返された。「間違ったことをしたんじゃないだろ。あれで辞めさせたら、それこそ教育にならない」と説得された。頭を下げるしかなかった。
いろんな声も届いていた。世界の王貞治さんは「ボクが監督でも敬遠したかもしれない。ルール違反なんかじゃない」と発言していただいたし、ビートたけしさんも「弱いところを研究して勝負するのは逃げじゃない。テニスでもバレーでも相手の得意なところにサーブを打つ人はいない」とコメントされていた。歴史が好きだからほとんどの本を読んだ司馬遼太郎さんが「高知の人間は目先のことにとらわれず、大局を見据える度量がある」と寄稿されたのも目にした。愛媛出身だったけど、うれしかった。
バッシングはしつこく続いていたけど、それこそ逃げるわけにはいかないと思った。「馬淵はあれで終わった」と言わせないためにも戦うしかなかった。
🎤【馬淵史郎 我が道6】体操服にマジックで背番「3」 旧姓は「馬淵」ではなく「中本」
https://news.yahoo.co.jp/articles/246e38ebd5d4d71d576222c54c5ef348a18b2f2c
ここで一回、私の小さいころの話をしよう。生まれたのは愛媛県八幡浜市。港から船で25分ほどのところにある大島で産声をあげた。父は正夫、母はアキ。父は中学校、母は小学校で島の先生だった。兄が2人で3人兄弟の末っ子やった。
当時は「中本」姓だった。高校も大学も社会人の阿部企業で監督をしたときも「中本史郎」だった。馬淵というのは母方の姓。跡取りがいなくて、馬淵の家を何とか継いでくれないか。母親に頼まれて、親孝行をできるときにはしとかんと、と承諾した。馬淵となったのは明徳義塾に行ってからだった。
海を見て育った。山より海。海の近くじゃないと落ち着かん。今も高知で海の側(そば)に住んでいる。怖いのは台風だけ。海というのは果てしなく広い。その向こうに何があるのか。チビっ子なりに想像していたんだと思う。大島では魚が豊富にあった。マグロとクジラ以外はほとんどの魚を釣ったと思う。関サバ、関アジの海ともつながっているから、東京では高値で取引される魚も干物にしていた。小学校高学年になったら、自分で4馬力の釣り船を運転して、沖で釣っていた。船の無免許運転だったけど、もう時効かな。
まだ戦後間もない時代だったし、生活は豊かじゃなかった。島では水道も通ってなくて、塩味のする井戸水を使っていた。風邪をひいたときに初めてバナナというものを食べたのも、思い出のひとつにある。
大島小、大島中と進む中、小さいころのヒーローは長嶋茂雄さんだった。小さいころはラジオで巨人戦を聴いて、東京五輪の時期に初めて買った白黒テレビでも長嶋さんのプレーばかり見ていた。格好良かったな。体操服にマジックで「3」と書いて、仲間を集めて「大島ジャイアンツ」というソフトボールチームをつくった。もちろんポジションは三塁。小6のときに八幡浜市内の大会で郡部や島の学校を対象にしていたBゾーンで優勝したんよ。連絡船で島に戻ったら、みんなで大漁旗を振って出迎えてくれた。あれはうれしかった。
でも野球の監督になったり、高校で先生になるという未来は頭の片隅にもなかった。父親も「教師にだけはなるなよ」とか言っていたしな。自分でも魚を釣って暮らすのが性に合うかなとは思っていた。遠洋漁業に一度出かけると、札束をどんと腹巻きの中に入れている漁師が周りには多かったし、その羽振りの良さに引かれていた。漁師になれば、ひと財産できると思っていた。中学時代には進路で漁業関係の高専ということも考えていたときがあった。
そんな中で中学生にとっては大きな事件が起こった。それが高校野球だった。69年(昭44)夏の甲子園。決勝は松山商と三沢。島の中学2年生にとって、あまりにも刺激的な延長18回の名勝負だった。
📝持丸修一 77歳名将の高校野球論
センバツ出場校の確定が「1月末」のメリット 昨秋“当確ライン突破”から「焦らし過ぎ」の声もあるけれど
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/383584
ようやくひとつ肩の荷が下りました。30日、高野連から今春センバツ出場校が発表され、無事、我が専大松戸が当選しました。日頃からお世話になっている方々や保護者の皆さま、日刊ゲンダイの読者さま、この場を借りて心よりお礼申し上げます。誠にありがとうございました。
昨年10月20日、秋季関東大会で横浜(神奈川)を破り、「当確ライン」といわれる準決勝進出を決めてから約3カ月。周囲から「センバツおめでとう」などと言われていましたが……。もし何かあったらどうしようと、心の片隅に漠然とした不安が募り、なんだか落ち着かない日々でした。
おかげさまで悩みが解消され、しばらくは快眠を取り戻すことができそうです。センバツの出場校発表時期に関して、「焦らし過ぎでは」「当確チームは11月発表、当落線上チームおよび21世紀枠は後日でいいのでは」という声もいただきました。皆さんの中にも同じように考える方もいらっしゃることでしょう。しかし、私に不満はまったくありません。むしろ、選手にとっては現行の1月末発表の方がメリットがあるとさえ思っています。
まず、仮に11月頭にセンバツ出場が確定するとしましょう。12月からは対外試合禁止期間に突入します。地道なトレーニングが続く中、大会が始まる3月中旬まで約5カ月弱もチームの士気を保つのは極めて困難です。もっと言えば、調子に乗って私生活が乱れる選手や、大会に出る前から燃え尽き症候群にかかる選手が出てくる懸念が生じます。
その点、1月末までの「中ぶらりん」は選手に絶妙な緊張感を与えてくれるから、前述のような事態に陥りにくい。しかも、出場確定で喜んだのも束の間、2月を迎えれば、「来月半ばから甲子園」です。つまり、秋から春までの過ごし方にメリハリが生まれ、モチベーションを保ちやすくなるわけです。さらに言うと、高校野球は勝っても負けても学ぶべきこと、成長の糧がある。専大松戸は秋季関東大会で甲子園切符は手に入れたものの、準決勝・山梨学院(山梨)戦は4-11(8回コールド)で完敗でした。それなのに大会終了後すぐ甲子園出場が確定していたらどうか。敗戦を反省し、咀嚼する間もありません。悔しさなんて跡形もなく吹き飛んでしまいます。
こうして見るといかがでしょうか。1月末発表だからこそ、専大松戸はさらに成長できたと考えています。
📝阪神から突然の誘い「どうする?」 栄光のドラが1黙々とこなした“裏方”…巡ってきた「最後の勝負」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cea7d4506f83a5f35c32702dace0aea08e620eb0?page=1
太田氏が振り返る、プロ15年目に待っていた阪神移籍
“国民的スター選手”として名を馳せた太田幸司氏(野球評論家)は、プロ15年目の1984年限りで現役生活にピリオドを打った。前年(1983年)開幕前に近鉄から巨人に移籍し、そのオフに阪神へ移籍したが、1軍登板がなく、シーズン中盤には決断していたという。青森・三沢高時代に甲子園を沸かせ「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした右腕は「甲子園で始まって甲子園で引退ということですからね」と不思議な縁も感じたそうだ。
近鉄時代のプロ6年目(1975年)にキャリアハイの12勝を挙げたのをはじめ、2桁勝利を3度マークした太田氏だが、1979年10月に右肩痛を発症。それ以降は苦しい戦いが続いた。プロ14年目の1983年開幕前の3月下旬に石渡茂内野手とともに、トレードで巨人に移籍し、新天地で再起を目指した。31歳になった甲子園のヒーローは若手に交じって、ひたむきに練習に取り組んだ。だが、1軍登板なしでレギュラーシーズンを終えた。
2年ぶりのセ・リーグ優勝を成し遂げた藤田元司監督率いる巨人投手陣の層は厚かった。江川卓投手、西本聖投手、定岡正二投手に加えて、プロ2年目の槙原寛己投手が12勝9敗1セーブの成績を残し、新人王に輝いた。そんななか太田氏は10月29日に開幕した西武との日本シリーズで1軍に呼ばれた。「日本シリーズの大きなメンバー枠には名前が入っていて、バッティングピッチャーをやってくれるかってことでした」。
太田氏はその役目も黙々とこなした。そのとき、新たな展開があった。「日本シリーズが行われた後楽園でバッティングピッチャーをして、スタンドで試合を見ていたら(巨人の)編成の人が来て『太田よ。ウチは、お前がファームでしっかり若手の見本になって、やっているのはすごく評価している。だから来年も契約しようと思っているんだけど、阪神から声がかかっている。どうする?』って聞かれたんです」。
プロ1年目(1970年)のオフ、太田氏は、青森から大阪に両親を呼び寄せて、一戸建てを購入して暮らしていた。だが、巨人移籍により単身で東京に行き、合宿所生活となっていた。そんな状況もあって、阪神への移籍を選んだ。「親も大阪に残していたし『阪神にお世話になります』と言いました。その時にはもう腹を括っていました。そこで駄目だったらユニホームを脱ごうという気持ちで行くことにしました」と最後の勝負の場と決めていた。
1983年11月、太田氏は鈴木弘規投手との1対1のトレードで巨人から阪神に移籍した。もはや第2の故郷になった大阪での精一杯やり尽くす意気込みで安藤統男監督体制のタイガースのユニホームに袖を通した。背番号は交換相手の鈴木投手がつけていた「24」になった。1984年、米国ハワイ州のマウイキャンプメンバーにも入った。「オープン戦も結構投げましたよ。池内(豊投手)と最後まで争って、開幕1軍枠には入れなかったけどね」。
結局、阪神では2軍で7試合に投げただけで1軍登板はなかった。「現状の自分が歯がゆかったですよ。ちょうど僕が入った時、(沖縄・興南高からドラフト3位入団の左腕・)仲田幸司(投手)が1年目だったけど、ランニングとかしたら僕の方が元気だったからね。でもブルペンでは、情けないボールしか放れなかったんでねぇ……(笑)。その辺のギャップとかも悔しかったですね」。夏頃には現役引退を決めたそうだ。
右肩痛で狂った歯車「後悔? ない、ない」
超人気者だったゆえ、ドラフト1位で近鉄に入団した際は、女性ファンが殺到し大騒ぎになった。しかし「辞める時は、何人かの記者の前で『引退します』と言ったぐらいの感じだったかなぁ」と話す。1980年から現役ラストイヤーの1984年までの5シーズン連続で0勝。右肩を痛めてから大きく歯車が狂ったプロ野球人生だったが「後悔? ない、ない、ない。そりゃあ、あの時にもうちょっとこうしておけば、というのがあるけどトータル的にはね」と語気を強めた。
「だって、その時はそれがベストだと思ってやっているわけだから。あとで考えたら、こっちの方が良かったかなというのがあるかもしれないけど、人生、一つしか選べないわけだからね。両方いっぺんにはできない。周りが僕をどう評価するかはどうでもいいんですよ。ただ、自分が自分に対して『頑張ったね』っていうような声はかけられるな、と思っています」。尋常ではない人気を背負いながらプロ生活をスタートさせ、やれることはやったのだ。
通算成績は318試合に登板し58勝85敗4セーブ、防御率4.05。「語呂がいいね。58と85の裏表で」と太田氏は笑い「まぁ15年やって、たかが58勝ですよ。でも僕はね、58勝よりも85敗。これを誇りに思っています。85敗も勝負どころで投げていたっていうことでね。人の評価と自分の評価は違うと思う。高校から鳴り物入りでドラフト1位で入ってきて1軍を経験できずにやめていく選手もたくさんいるわけですからね。多分いろいろ葛藤して、もがいて、それでも結果がでなかったんだろうなって容易に想像できますから……」と言って頷いた
1969年、三沢高3年夏の甲子園決勝。松山商戦で延長18回、0-0引き分け再試合の大熱投は、太田氏を一気に全国区にした。そこから、いろんな戦いをくぐり抜けてきた。プロ2年目には自信を喪失して辞めることも考えた。3年目、甲子園球場での球宴で、巨人・王貞治内野手と長嶋茂雄内野手の“ON”をスライダーとシュートで封じてきっかけをつかんだ。5年目には初の2桁10勝、6年目には12勝をマークした。だが10年目に右肩を痛めて……。
「プロに入る前に僕はうまいこと行きすぎていた。それがプロでちょっと挫折を味わって、そこからある程度勝ちだして、今度は肩を壊して……。波瀾万丈というか、プロに入ってからのほうが紆余曲折、いいことも悪いことも。悪いことの方が多かったかもしれないけど、そういうことを経験したのは後々にも役立っているのかなと思います」。人気と実力を両立させるべく歩み続けた太田氏のプロ野球人生もまた伝説になっている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/02fd0442d00287b45eca091f1364df69a9ea7b10
第98回選抜高校野球大会の組み合わせ抽選会が6日、大阪市内で行われ、出場32校の激突の構図が固まった。開会式の選手宣誓は、全校主将による抽選の結果、北照(北海道)の手代森煌斗主将に決定。順調に日程が消化されれば、31日に決勝が行われる。今大会は横浜(神奈川)の織田翔希、昨夏覇者・沖縄尚学の末吉良丞、山梨学院の菰田陽生ら、ドラフト候補の投手〝BIG3〟に注目が集中。群雄割拠の戦いを制し、紫紺の優勝旗を手にするのはどこか。
大会連覇を狙う本命は、MLBからも熱視線を浴びる〝世代ナンバーワン投手〟織田(3年)を擁する横浜だ。最速152キロの直球と驚異の制球力を誇る本格派右腕は、昨年の甲子園で6勝をマーク。初めて背番号「1」を背負い、第2日に実力校・神村学園(鹿児島)との初戦に臨む。新チームも公式戦22勝1敗と盤石で、小野、池田、江坂(いずれも3年)ら経験豊富なクリーンアップの破壊力も大会屈指だ。
今大会で最も過酷なサバイバルが予想されるのが、昨秋の各地区王者が一カ所に集結した「最激戦エリア」だろう。ここには、明治神宮大会を制した九州国際大付(福岡)を筆頭に、関東王者の山梨学院、近畿覇者の神戸国際大付(兵庫)、北海道王者の北照らがひしめき合う。
特に注目は大会4日目の第1試合、神宮大会決勝の再現となる九州国際大付対神戸国際大付だ。九州国際大付は、神宮Vの原動力となった主軸の牟礼翔(3年)が不祥事による出場停止で今大会のメンバーから外れているが、楠城祐介監督は「全員で束になって戦うだけ」と結束を強調する。対する神戸国際大付もリベンジに燃えており、序盤戦最大の山場となる。
同じブロックの第3試合には、194センチの大型二刀流・菰田(3年)を擁する山梨学院が登場。初戦の相手、長崎日大(長崎)も九州大会決勝で九州国際大付を土俵際まで追い詰めた実力校で、一戦必勝の緊張感が漂う。他にも専大松戸(千葉)や近江(滋賀)、大垣日大(岐阜)といった常連校が名を連ねており、ベスト4進出をかけた争いはかつてない高密度なものになる。
一方、夏春連覇に挑む沖縄尚学は、大会初日の開幕戦で古豪・帝京(東京)と激突する。エース左腕・末吉(3年)は、U―18日本代表を経験して精神的にも成熟。150キロの剛球に加え、冬場に磨いた球質の向上で相手打線をねじ伏せる構えだ。今大会から導入されるDH制を戦略にどう組み込むかが、打線の援護を引き出す鍵となる。
関西勢では、4年ぶりの王座奪還を目指す大阪桐蔭が不気味な存在だ。プロ注目の右腕・吉岡(3年)と大型左腕・川本(2年)の二枚看板は強力。秋に露呈した守備の課題をどこまで克服できているかが、名門復活への絶対条件となる。
さらに21世紀枠で出場する長崎西、高知農らの挑戦や、4季連続出場の花巻東(岩手)など、実力校が虎視眈々と頂点を狙う。北の大地から届く宣誓の声を合図に、聖地での熱い戦いが幕を開ける。
☟日大三野球部が春季大会出場辞退「指導体制の見直しを進めております」HPに文書掲載
https://news.yahoo.co.jp/articles/66ad7e20f1f0a4c9db2af8d1139c1adcca97bfd7
児童買春・児童ポルノ禁止法違反(製造や提供)容疑で硬式野球部の男子部員2人が書類送検された日大三(東京)が7日、春季東京大会を辞退することを発表した。同大会は各校にとって夏のシード権獲得を占う重要な位置づけで、8日に1次予選と東京大会の組み合わせ抽選会が控えていた。「現在、硬式野球部は活動を停止し、事案の重大性を踏まえ、指導体制および寮運営体制の見直しを進めております。このような状況を鑑み、春季大会への出場は辞退させていただくことといたしました」とホームページに掲載した。
昨夏の甲子園大会で準優勝した同校は、硬式野球部員2人(17歳と16歳)が女子生徒にわいせつ動画を送らせて拡散したなどとして、警視庁が先月12日までに書類送検した。動画は部員二十数人が受け取り、拡散には十数人が関わったとみられ、学校側は保護者説明会を開くなど対応にあたっていた。
東京都高野連は既に学校側から報告書を受け取り、日本高野連にも提出。今後は日本高野連の審議委員会で審議し、仮に対外試合禁止や指導者の謹慎といった処分が必要と判断された場合には、日本学生野球協会の審査室にかけられる。
💢「なんでいま?」楽天・浅村栄斗の書類送検に「1年かかった理由」と「無類のギャンブル好き」素顔
https://news.yahoo.co.jp/articles/9382194a3ede6a909df9ba628ff340a2778311d2
後輩にボートレースを“指南”
スマートフォンを通じたオンラインカジノでの賭博行為があったとして宮城県警は3月4日、楽天・浅村栄斗内野手(35)ら球団関係者計3人を書類送検した。
浅村を巡っては昨年、オンラインカジノを利用したとして書類送検された元巨人・オコエ瑠偉(28)の供述が話題を呼んだ。
「捜査関係者への取材の過程で、『(オコエが楽天在籍中だった2021年ごろに)楽天の先輩がオンラインカジノで遊んでいるのが(賭博をする)きっかけだった』と供述したことが報じられたのです。すぐさま球界では“犯人捜し”が始まり、ほどなくして浅村の名前が浮上していました」(在京テレビ局関係者)
浅村のギャンブル好きは、西武時代から有名だったという。当時を知る関係者が話す。
「とくにボートレースが大好きでした。ベンチ裏などで後輩にもその楽しさを伝えたりしていたんです。コロナ禍で行動制限があった2021年の東京五輪でも、侍ジャパンのメンバーだった浅村は、グラウンド内外でスマホを見ながら後輩たちにボートレースを“指南”していましたよ。公営ギャンブルで終わらせておけばよかったのに……」
競馬やボートレースと同じノリでオンラインカジノに手を染めていたとなれば言語道断。だが、気になるのは書類送検されたタイミングだ。球界でオンラインカジノ問題が取り沙汰されてから1年以上が経過した今になって、なぜ浅村ら3名の名前が挙がったのか。3月4日午後、楽天球団広報は「球団所属関係者」に関する声明を発表。
「昨年2月、オンラインカジノの利用に関し、球団内で自主申告の呼びかけを実施したところ該当者から自主申告があったため、宮城県警にご相談し、捜査にも真摯に対応してまいりました。
該当者は、オンラインカジノの違法性を認識しないまま、興味本位で利用してしまったことを深く反省しているうえ、12球団で申し合わせた制裁金の支払いも異議なく受け入れており、本件につきましては昨年時点で必要な対応を完了しております」
全国紙社会部記者はこう指摘する。「浅村がオンラインカジノにつぎ込んだ金額が、他の選手よりもかなり大きかったことで裏取りが難航し、多くの時間を要したようです。また、警察は年度をまたいで捜査を継続することを嫌がるので、3月というタイミングで書類送検に踏み切ったのでしょう」
浅村はすでに“禊”を済ませており、3月4日、静岡での1軍戦にも4番でスタメン出場していることからもわかるように、球団内では“終わった”出来事になっているという。チームの主砲らしく、今年は汚名返上といきたいところだ。
🎤【馬淵史郎 我が道5】脅迫電話も相次ぎ…騒動の責任感じ学校に進退伺も
https://news.yahoo.co.jp/articles/20750f6c119b5e3771f8c24a8747ddbf7a4c6c04
92年(平4)の「松井5敬遠」に対する世間の反応は、まさに想定外だった。当日夜はトップニュース。翌日の新聞でもいろんなことを書かれた。明徳義塾の宿舎には「馬淵を出せ」「高知に帰らせろ」などの電話が殺到。パトカーが出動し、周囲を警戒する騒ぎにもなった。監督も選手も宿舎から一歩も出られなくなった。
宿舎に「馬淵史郎様」で郵便が届いた。開けてみるとカミソリが入っていた。中に紙が一枚。「これで首切って死ね」。完全に悪役だった。気分はデストロイヤー、あるいはタイガー・ジェット・シンだったな。明徳義塾は何も悪いことをしていない。そう叫びたかった。野球とは何か。公認野球規則にはこう書いてある。「各チームは相手より多くの得点を記録して、勝つことを目的にする」。勝つために敬遠策を取った。汚い手を使って戦ったんじゃないと言いたかった。
星稜戦の6日後。張り詰めた中で3回戦の広島工戦を迎えた。ヤジられるのを覚悟で、甲子園に入ったが、待っていたのは意外な拍手だった。嫌がらせを受けていると報じられたのに加え、広島工側も「明徳義塾はルール違反をしたわけでなく、選手に何の罪もありません。広島工業野球部も同じ作戦を採用したかもわかりません」というビラを応援団に配ってくれたと聞いた。心から感謝したかったが、張り詰めた気持ちがなくなったためか、あっさりと負けてしまった。
やっぱり悔しかった。試合後のミーティングで「お前らはようやった」と言った瞬間、涙が止まらなくなった。負けたから泣いたんじゃない。耐えて、耐えてきて、こんな思いで大会が終わるなんて。それが悔しかった。
高知に帰って、監督としてケジメをつけないといけないと思った。学校にも脅迫電話が相次いでいた。迷惑をかけた責任は自分にある。吉田圭一校長に進退伺を出したが、突き返された。「間違ったことをしたんじゃないだろ。あれで辞めさせたら、それこそ教育にならない」と説得された。頭を下げるしかなかった。
いろんな声も届いていた。世界の王貞治さんは「ボクが監督でも敬遠したかもしれない。ルール違反なんかじゃない」と発言していただいたし、ビートたけしさんも「弱いところを研究して勝負するのは逃げじゃない。テニスでもバレーでも相手の得意なところにサーブを打つ人はいない」とコメントされていた。歴史が好きだからほとんどの本を読んだ司馬遼太郎さんが「高知の人間は目先のことにとらわれず、大局を見据える度量がある」と寄稿されたのも目にした。愛媛出身だったけど、うれしかった。
バッシングはしつこく続いていたけど、それこそ逃げるわけにはいかないと思った。「馬淵はあれで終わった」と言わせないためにも戦うしかなかった。
🎤【馬淵史郎 我が道6】体操服にマジックで背番「3」 旧姓は「馬淵」ではなく「中本」
https://news.yahoo.co.jp/articles/246e38ebd5d4d71d576222c54c5ef348a18b2f2c
ここで一回、私の小さいころの話をしよう。生まれたのは愛媛県八幡浜市。港から船で25分ほどのところにある大島で産声をあげた。父は正夫、母はアキ。父は中学校、母は小学校で島の先生だった。兄が2人で3人兄弟の末っ子やった。
当時は「中本」姓だった。高校も大学も社会人の阿部企業で監督をしたときも「中本史郎」だった。馬淵というのは母方の姓。跡取りがいなくて、馬淵の家を何とか継いでくれないか。母親に頼まれて、親孝行をできるときにはしとかんと、と承諾した。馬淵となったのは明徳義塾に行ってからだった。
海を見て育った。山より海。海の近くじゃないと落ち着かん。今も高知で海の側(そば)に住んでいる。怖いのは台風だけ。海というのは果てしなく広い。その向こうに何があるのか。チビっ子なりに想像していたんだと思う。大島では魚が豊富にあった。マグロとクジラ以外はほとんどの魚を釣ったと思う。関サバ、関アジの海ともつながっているから、東京では高値で取引される魚も干物にしていた。小学校高学年になったら、自分で4馬力の釣り船を運転して、沖で釣っていた。船の無免許運転だったけど、もう時効かな。
まだ戦後間もない時代だったし、生活は豊かじゃなかった。島では水道も通ってなくて、塩味のする井戸水を使っていた。風邪をひいたときに初めてバナナというものを食べたのも、思い出のひとつにある。
大島小、大島中と進む中、小さいころのヒーローは長嶋茂雄さんだった。小さいころはラジオで巨人戦を聴いて、東京五輪の時期に初めて買った白黒テレビでも長嶋さんのプレーばかり見ていた。格好良かったな。体操服にマジックで「3」と書いて、仲間を集めて「大島ジャイアンツ」というソフトボールチームをつくった。もちろんポジションは三塁。小6のときに八幡浜市内の大会で郡部や島の学校を対象にしていたBゾーンで優勝したんよ。連絡船で島に戻ったら、みんなで大漁旗を振って出迎えてくれた。あれはうれしかった。
でも野球の監督になったり、高校で先生になるという未来は頭の片隅にもなかった。父親も「教師にだけはなるなよ」とか言っていたしな。自分でも魚を釣って暮らすのが性に合うかなとは思っていた。遠洋漁業に一度出かけると、札束をどんと腹巻きの中に入れている漁師が周りには多かったし、その羽振りの良さに引かれていた。漁師になれば、ひと財産できると思っていた。中学時代には進路で漁業関係の高専ということも考えていたときがあった。
そんな中で中学生にとっては大きな事件が起こった。それが高校野球だった。69年(昭44)夏の甲子園。決勝は松山商と三沢。島の中学2年生にとって、あまりにも刺激的な延長18回の名勝負だった。
📝持丸修一 77歳名将の高校野球論
センバツ出場校の確定が「1月末」のメリット 昨秋“当確ライン突破”から「焦らし過ぎ」の声もあるけれど
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/383584
ようやくひとつ肩の荷が下りました。30日、高野連から今春センバツ出場校が発表され、無事、我が専大松戸が当選しました。日頃からお世話になっている方々や保護者の皆さま、日刊ゲンダイの読者さま、この場を借りて心よりお礼申し上げます。誠にありがとうございました。
昨年10月20日、秋季関東大会で横浜(神奈川)を破り、「当確ライン」といわれる準決勝進出を決めてから約3カ月。周囲から「センバツおめでとう」などと言われていましたが……。もし何かあったらどうしようと、心の片隅に漠然とした不安が募り、なんだか落ち着かない日々でした。
おかげさまで悩みが解消され、しばらくは快眠を取り戻すことができそうです。センバツの出場校発表時期に関して、「焦らし過ぎでは」「当確チームは11月発表、当落線上チームおよび21世紀枠は後日でいいのでは」という声もいただきました。皆さんの中にも同じように考える方もいらっしゃることでしょう。しかし、私に不満はまったくありません。むしろ、選手にとっては現行の1月末発表の方がメリットがあるとさえ思っています。
まず、仮に11月頭にセンバツ出場が確定するとしましょう。12月からは対外試合禁止期間に突入します。地道なトレーニングが続く中、大会が始まる3月中旬まで約5カ月弱もチームの士気を保つのは極めて困難です。もっと言えば、調子に乗って私生活が乱れる選手や、大会に出る前から燃え尽き症候群にかかる選手が出てくる懸念が生じます。
その点、1月末までの「中ぶらりん」は選手に絶妙な緊張感を与えてくれるから、前述のような事態に陥りにくい。しかも、出場確定で喜んだのも束の間、2月を迎えれば、「来月半ばから甲子園」です。つまり、秋から春までの過ごし方にメリハリが生まれ、モチベーションを保ちやすくなるわけです。さらに言うと、高校野球は勝っても負けても学ぶべきこと、成長の糧がある。専大松戸は秋季関東大会で甲子園切符は手に入れたものの、準決勝・山梨学院(山梨)戦は4-11(8回コールド)で完敗でした。それなのに大会終了後すぐ甲子園出場が確定していたらどうか。敗戦を反省し、咀嚼する間もありません。悔しさなんて跡形もなく吹き飛んでしまいます。
こうして見るといかがでしょうか。1月末発表だからこそ、専大松戸はさらに成長できたと考えています。
📝阪神から突然の誘い「どうする?」 栄光のドラが1黙々とこなした“裏方”…巡ってきた「最後の勝負」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cea7d4506f83a5f35c32702dace0aea08e620eb0?page=1
太田氏が振り返る、プロ15年目に待っていた阪神移籍
“国民的スター選手”として名を馳せた太田幸司氏(野球評論家)は、プロ15年目の1984年限りで現役生活にピリオドを打った。前年(1983年)開幕前に近鉄から巨人に移籍し、そのオフに阪神へ移籍したが、1軍登板がなく、シーズン中盤には決断していたという。青森・三沢高時代に甲子園を沸かせ「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした右腕は「甲子園で始まって甲子園で引退ということですからね」と不思議な縁も感じたそうだ。
近鉄時代のプロ6年目(1975年)にキャリアハイの12勝を挙げたのをはじめ、2桁勝利を3度マークした太田氏だが、1979年10月に右肩痛を発症。それ以降は苦しい戦いが続いた。プロ14年目の1983年開幕前の3月下旬に石渡茂内野手とともに、トレードで巨人に移籍し、新天地で再起を目指した。31歳になった甲子園のヒーローは若手に交じって、ひたむきに練習に取り組んだ。だが、1軍登板なしでレギュラーシーズンを終えた。
2年ぶりのセ・リーグ優勝を成し遂げた藤田元司監督率いる巨人投手陣の層は厚かった。江川卓投手、西本聖投手、定岡正二投手に加えて、プロ2年目の槙原寛己投手が12勝9敗1セーブの成績を残し、新人王に輝いた。そんななか太田氏は10月29日に開幕した西武との日本シリーズで1軍に呼ばれた。「日本シリーズの大きなメンバー枠には名前が入っていて、バッティングピッチャーをやってくれるかってことでした」。
太田氏はその役目も黙々とこなした。そのとき、新たな展開があった。「日本シリーズが行われた後楽園でバッティングピッチャーをして、スタンドで試合を見ていたら(巨人の)編成の人が来て『太田よ。ウチは、お前がファームでしっかり若手の見本になって、やっているのはすごく評価している。だから来年も契約しようと思っているんだけど、阪神から声がかかっている。どうする?』って聞かれたんです」。
プロ1年目(1970年)のオフ、太田氏は、青森から大阪に両親を呼び寄せて、一戸建てを購入して暮らしていた。だが、巨人移籍により単身で東京に行き、合宿所生活となっていた。そんな状況もあって、阪神への移籍を選んだ。「親も大阪に残していたし『阪神にお世話になります』と言いました。その時にはもう腹を括っていました。そこで駄目だったらユニホームを脱ごうという気持ちで行くことにしました」と最後の勝負の場と決めていた。
1983年11月、太田氏は鈴木弘規投手との1対1のトレードで巨人から阪神に移籍した。もはや第2の故郷になった大阪での精一杯やり尽くす意気込みで安藤統男監督体制のタイガースのユニホームに袖を通した。背番号は交換相手の鈴木投手がつけていた「24」になった。1984年、米国ハワイ州のマウイキャンプメンバーにも入った。「オープン戦も結構投げましたよ。池内(豊投手)と最後まで争って、開幕1軍枠には入れなかったけどね」。
結局、阪神では2軍で7試合に投げただけで1軍登板はなかった。「現状の自分が歯がゆかったですよ。ちょうど僕が入った時、(沖縄・興南高からドラフト3位入団の左腕・)仲田幸司(投手)が1年目だったけど、ランニングとかしたら僕の方が元気だったからね。でもブルペンでは、情けないボールしか放れなかったんでねぇ……(笑)。その辺のギャップとかも悔しかったですね」。夏頃には現役引退を決めたそうだ。
右肩痛で狂った歯車「後悔? ない、ない」
超人気者だったゆえ、ドラフト1位で近鉄に入団した際は、女性ファンが殺到し大騒ぎになった。しかし「辞める時は、何人かの記者の前で『引退します』と言ったぐらいの感じだったかなぁ」と話す。1980年から現役ラストイヤーの1984年までの5シーズン連続で0勝。右肩を痛めてから大きく歯車が狂ったプロ野球人生だったが「後悔? ない、ない、ない。そりゃあ、あの時にもうちょっとこうしておけば、というのがあるけどトータル的にはね」と語気を強めた。
「だって、その時はそれがベストだと思ってやっているわけだから。あとで考えたら、こっちの方が良かったかなというのがあるかもしれないけど、人生、一つしか選べないわけだからね。両方いっぺんにはできない。周りが僕をどう評価するかはどうでもいいんですよ。ただ、自分が自分に対して『頑張ったね』っていうような声はかけられるな、と思っています」。尋常ではない人気を背負いながらプロ生活をスタートさせ、やれることはやったのだ。
通算成績は318試合に登板し58勝85敗4セーブ、防御率4.05。「語呂がいいね。58と85の裏表で」と太田氏は笑い「まぁ15年やって、たかが58勝ですよ。でも僕はね、58勝よりも85敗。これを誇りに思っています。85敗も勝負どころで投げていたっていうことでね。人の評価と自分の評価は違うと思う。高校から鳴り物入りでドラフト1位で入ってきて1軍を経験できずにやめていく選手もたくさんいるわけですからね。多分いろいろ葛藤して、もがいて、それでも結果がでなかったんだろうなって容易に想像できますから……」と言って頷いた
1969年、三沢高3年夏の甲子園決勝。松山商戦で延長18回、0-0引き分け再試合の大熱投は、太田氏を一気に全国区にした。そこから、いろんな戦いをくぐり抜けてきた。プロ2年目には自信を喪失して辞めることも考えた。3年目、甲子園球場での球宴で、巨人・王貞治内野手と長嶋茂雄内野手の“ON”をスライダーとシュートで封じてきっかけをつかんだ。5年目には初の2桁10勝、6年目には12勝をマークした。だが10年目に右肩を痛めて……。
「プロに入る前に僕はうまいこと行きすぎていた。それがプロでちょっと挫折を味わって、そこからある程度勝ちだして、今度は肩を壊して……。波瀾万丈というか、プロに入ってからのほうが紆余曲折、いいことも悪いことも。悪いことの方が多かったかもしれないけど、そういうことを経験したのは後々にも役立っているのかなと思います」。人気と実力を両立させるべく歩み続けた太田氏のプロ野球人生もまた伝説になっている。