自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」

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紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
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お知らせ

編集済
🍱国スポ・障スポを思い出して 選手らに販売した弁当復刻
https://news.yahoo.co.jp/articles/7bd5bd41303cd51e885542d2cd624b3924c538a1

滋賀県内で昨年開催された国民スポーツ大会・全国障害者スポーツ大会で、選手らに販売された弁当が「復刻」する。郷土料理が詰まった弁当で大会を思い出して――。16日、大津市役所で限定販売される。

国スポ・障スポ大津市実行委員会と市内の弁当店「ごはん屋大津店」が企画した。大津市で開催された国スポで、選手らに販売された5種類の弁当からメニューをえりすぐり、「復刻!OTSUこだわり弁当」として復活させた。

郷土料理のホンモロコの天ぷら、近江牛コロッケ、ワカサギ南蛮漬け、赤こんにゃくと湯葉の煮物、えび豆、牛しぐれ煮を含む8品のおかずと、県産米「みずかがみ」のご飯が入る。弁当箱も、大会のために製作したもので、有効活用も兼ねているという。

1個千円(税込み)、80個限定。販売は16日午前11時半~午後1時半、市役所本館1階の市民ギャラリーで。大会を振り返る写真の展示も行う。問い合わせは市大会競技課(077・528・0310)へ。
一方、ごはん屋大津店では、30個から予約注文を受け付けている。1週間前までに連絡が必要。問い合わせは同店(077・511・2990)へ。

📝第98回センバツ高校野球組み合わせ抽選表
https://jhbf.or.jp/senbatsu/2026/tournament.pdf

📝令和8年度 愛知県高等学校野球連盟 年間行事予定
https://www.aichi-kouyaren.com/archives/001/202603/de341694b94096f19bd63105d3989d0c61e5c82670ffcd95adb11d3d8c899f83.pdf

特筆すべきは、7/28愛知大会決勝戦がバンテリンドームナゴヤ開催とのこと!!たいがい14時開始が主流の愛知だし、ドームは空調が効いているので、ぜひその流れでお願いしたいと。

あとは東海大会 春は愛知(岡崎・小牧)で秋は三重(四日市・津)で開催ですね。昨春、三重で2泊3日したので今回はオアイソします。
第4回愛知県・三重県交流試合は球場未定ながら、11月23日愛知県で開催とのことです。

📝2026年春季京滋大学春季リーグ戦日程表
https://x.com/kbl_1part/status/2029768951614550067/photo/1
https://x.com/kbl_1part/status/2029768951614550067/photo/2

入場無料はありがたいが、今季は京滋大学には縁がないですね・・・・・。

✌今夏の高校野球愛知大会、バンテリンドームナゴヤで決勝 20年ぶり
https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASV352G2FV35OIPE012M.html

愛知県高校野球連盟は6日、名古屋市内で評議員会を開き、2026年度の事業計画が承認された。今夏の第108回全国高校野球選手権愛知大会は、名古屋市東区のバンテリンドームナゴヤを決勝の会場とすることになった。

愛知大会は6月27日に開幕する。決勝は例年、岡崎レッドダイヤモンドスタジアム(岡崎市)で行われてきたが、球場周辺では今秋開催のアジア・アジアパラ競技大会に向けた設営準備などがあり、会場変更となった。

バンテリンドームナゴヤでの決勝は7月28日に行う。ドームが愛知大会の会場となるのは第89回(07年)以来19年ぶり。
05年に初めてナゴヤドーム(当時)で準決勝と決勝が行われ、愛工大名電が優勝。06年も決勝の会場となり、愛工大名電が制した。07年は決勝を予定していたが天候不良で日程変更となり、5回戦と準々決勝で使われた。

また、今春の県高校優勝野球大会は3月20日に地区予選が始まり、決勝は5月2日。春季東海地区大会は、同23日から小牧市民球場と岡崎レッドダイヤモンドスタジアムで開かれる。

☝「大社旋風」再現誓う 大社高校野球部グラウンドに新練習場、高校では西日本有数の設備 卒業生や地元、全国のファンら寄付で完成 「夏は甲子園に出て恩返ししたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/52dfbbed0ad218b0f0d85d7cc674ecbd8d5ba7a1

2024年夏の甲子園で8強入りした大社高校の野球部グラウンドに、全面人工芝の新たな屋内練習場が完成した。甲子園出場とその後の快進撃に感動した卒業生や地元住民、全国のファンからの寄付を充てた。竣工式で、部員たちは充実した施設で研さんを重ねて「大社旋風」の再現を誓った。

バックネット裏にある旧練習場は築30年以上が経過し、老朽化で雨漏りや浸水が目立っていたことから旧練習場を撤去し、同じ場所に造った。

新練習場は鉄骨平屋の約500平方メートルで、二つのブルペンを備える。打撃練習や軽いノックもできる。人工芝は国内初採用の軟らかい素材を使用した。設計会社によると、高校野球部の屋内練習場としては西日本有数の設備という。同校甲子園出場後援会(北島建孝会長)への寄付を建設費に充てた。

2月26日にあった式には後援会関係者や部員ら約60人が集まり、北島会長(67)が「野球の技術とともに人間性も磨いてほしい」とあいさつ。芝生の感触を確かめた長畑廉叶主将(17)は「立派な施設を造ってもらった。夏は甲子園に出て恩返ししたい」と力を込め、石飛文太監督(44)は「全国の皆さんの思いが詰まった練習場だ。大切に使っていきたい」と感謝した。

📝洗顔で気づいた右肩の“悲鳴”「もう駄目」 日本S直前の悲劇「いっぺんにプチーンと」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d81ea29e994d0f6d35fb30ec61c13248fcc9ab24

元近鉄・太田氏を襲った右肩痛「キャッチボールもできなかった」

どうしようもなかった。元近鉄主力投手の太田幸司氏(野球評論家)はプロ10年目の1979年に右肩痛を発症した。シーズン終盤に調子を上げ、10月9日の南海戦(大阪)で7勝目をマーク。前期優勝の近鉄と後期優勝の阪急が激突するプレーオフに向けて意気込んでいたところで“悪夢”に襲われた。「朝起きたら……」。青森・三沢高時代も、近鉄に入ってからも“ハードワーク”をこなしてきた右肩がついに悲鳴を上げたのだった。

無念のリタイアだった。“さぁ、これから”という時にまさかの事態に陥った。「プレーオフに向けての練習の朝でした。起きたら何か……。顔を洗おうと思ったら、もう“アレ”って感じでね」。右肩に異変を感じたという。「何も手に持っていなければ(肩は)全然回るんですけど、何か持ってクッと力を入れたらピーンとなって……。球場には行ったけど、キャッチボールもできなかった。何か負荷がかかるともう駄目でした」。

その前年(1978年)に太田氏は、原因不明の不調で1勝9敗と成績が大幅にダウン。節目となる10年目の1979年は、そこからの復活を目指してのシーズンだった。4月29日の阪急戦(西宮)と5月4日の阪急戦(日生)で2試合連続2失点完投勝利を挙げるなど、この時点では3勝0敗。だが、その後、調子を落とした。近鉄が前期優勝を成し遂げた中、太田氏の状態は後期に入っても、なかなか戻らず、6月からの3か月で0勝4敗と苦しんだ。

「もう以前のようにローテーションに入って、という感じではなく、谷間で先発したり、リリーフしたりでしたね」。チーム内での立場も変わったが、そこから意地を見せた。9月に入って巻き返した。9月1日の日本ハム戦(後楽園)に4安打完封で5月4日以来の4勝目。さらに中4日で9月6日のロッテ戦(日生)に先発すると3失点完投で5勝目をあげた。9月と10月の2か月は4勝0敗と結果を出した。

最終成績は31登板(20先発)で7勝4敗、防御率3.31。シーズン中盤に数字を伸ばせなかったものの、終盤は復活を感じさせる内容だった。太田氏も後期優勝の阪急とのプレーオフに向けて意気込んでいた。そんな時に右肩痛に襲われたわけだ。「シーズン最後の(10月9日の)南海戦に(先発して5回無失点投球で)勝って、7勝して“これでプレーオフも”って、なっていたんですけどね……」。大事な時期での戦線離脱だった。

広島と日本シリーズで対戦も、太田氏は治療に専念
 
三沢高時代は1967年の1年秋から3年の最後まで、公式戦はすべて一人で投げ切った。近鉄入団後も1軍に定着してからは中3日が当たり前の短い登板間隔で先発し、リリーフもこなしてきた。それがついに……。「地肩が高校時代からずっと強かったんでね。肩なんか、それまで痛めたこともなかったんですよ。でも、どこかで、やっぱりジワジワときていたんでしょうねぇ。それがいっぺんにプチーンと……」と話した。

近鉄は阪急とのプレーオフを3勝0敗で突破、広島との日本シリーズは激闘の末に3勝4敗で終わったが、太田氏は右肩治療に専念するしかなかった。「治療といっても、昔は鍼を打つとか、そんな感じでしたからね。そのオフはずっとそういう治療をして『まあまあ、年を越したら大丈夫やろ』とか言っていたら、ちょっとはよくなったんですよ。そしたら放るでしょ。でも、ある程度は放れるようになっているんだけど、ちょっと投げすぎたら、すぐにまたワーっとなって……」。

太田氏のプロ野球人生は、11年目の1980年以降、この右肩痛との“戦い”になっていく。「今日はいい球がいっているなと思ったら、次の日になったら“あれ? またちょっと引っかかるな”とか……。毎日、朝起きてみないと、どうなのか分からない感じにもなりだして。朝起きるのも不安みたいな、そんな日が続いたんです」。

投げるのが当たり前だったし、投げさせてもらえるのが喜びでもあったのだから、投げたくても、投げられないのはあまりにも辛すぎた。もちろん、もう一度輝きを取り戻そうと必死になったが、なかなかうまくいかなかった。すべては1979年10月の右肩痛発症から始まった。「極端にガクンという感じですからねぇ。ホント、あの時に肩を痛めていなかったら、って思いますよ」と、太田氏は悔しそうにつぶやいた。

📝誰もが予想できぬ“最後の勝利” 復活信じた女性ファンも…ボロボロの元ドラ1「今だったら」
https://news.yahoo.co.jp/articles/0152e229a03a956263f3afe9676d3be762367648?page=1

元近鉄・太田氏が苦しんだ右肩痛との戦い

甲子園で人気を集めた元近鉄ドラフト1位右腕、太田幸司氏(野球評論家)のプロ野球人生は、プロ10年目の1979年10月に右肩痛を発症させてから暗転した。11年目の1980年は14登板(3先発)で0勝4敗、防御率10.66と不本意な成績。それが苦悩の始まりだった。「肩以外は大丈夫だったんですけどね……」。恩師の近鉄・西本幸雄監督が勇退した1981年はわずか1登板(1先発)の0勝1敗に終わった。

1979年10月9日の南海戦(大阪)で5回無失点投球。その試合でマークした通算58勝目となるシーズン7勝目が、太田氏の現役ラスト勝利になるとは、当時は誰も予想できなかったはずだ。その白星後、阪急とのプレーオフに向けての練習スタートの朝に右肩痛を発症。無念のリタイアにはなったものの、治療すれば、また元に戻ると女性ファンをはじめ、誰もが信じていたことだろう。だが、現実は厳しすぎた。

「治療は鍼を打ったり、電気を当てたりとか……。今だったら、機械で見るとかでしょうけど、そういう時代じゃなかったしね。『鍼とかをやっていれば、年を越したら大丈夫だろう、次のキャンプはOK』なんて言われたし、僕もそういうつもりでいたんですけどね」。1980年になって、再び投げられるようにはなった。だが、完全に元には戻らなかった。「自分では同じような球を投げているつもりでも、やっぱり……」。

青森・三沢高時代からの武器の一つでもあった打者の手元でホップする快速球が出る頻度も低くなった。「良かったり、悪かったり。良いのが続かなかった。(右肩痛の影響で)ボールを放す瞬間にピリッとくるようになって、どうしてもちょっと……。(そこをかばう)変な癖もつきはじめた。だから手元でピュっといってなかったんでしょうね」と振り返る。「投げてもカーンと打たれるというのはそういうことだったと思います」。

プロ11年目の1980年は1、2軍を往復しながら0勝4敗。「ちょっと投げたら、またちょっと軽い痛みが出たりとかの繰り返しでしたね」。当時のパ・リーグは前期、後期の2シーズン制。その年の近鉄は後期に優勝したが、太田氏は全く貢献できず「寂しい話でしたわ、これも……」と悔しそうに話す。3勝0敗で1979年に続くリーグ連覇を成し遂げたロッテとのプレーオフも登板なしだった。

日本シリーズ後の“消化ゲーム”に登板「そのくらいの立場に下がっていた」

そんな中、2年連続3勝4敗で広島に敗れた日本シリーズでは第6戦(11月1日、広島)に出番があった。0-5の5回から3番手で投げて2回1失点。いきなり先頭の山本浩二外野手に右越え本塁打を浴びたが、動じることなく、許した安打はその1本だけだった。その時点でできることを最大限にやり尽くし「1試合でも日本シリーズで放らせてもらったのは、いい思い出です」と太田氏は話したが、全盛期ならもっと違う登板にもなっていたことだろう。

その年のシーズン最終戦は日本シリーズ後の11月7日の南海戦(大阪)。まさしく“消化ゲーム”に太田氏が先発した。結果は5回0/3、4失点で4敗目。「普通、ローテーションで投げていたら、そんなところでは絶対投げない。もう、そのくらいの立場に下がっていたわけですよ。まぁ、日本シリーズでも投げたし、最後に来シーズンに向けて力を測る意味でも(首脳陣は)投げさせたんじゃないかなぁ」。

しかし、翌1981年も好転することなく、逆に右肩の状態は悪くなった。シーズンのほとんどを2軍で過ごし、1軍登板はわずか1試合。シーズン終盤の9月29日の西武戦(日生)に先発し、2回4失点で敗戦投手になっただけだった。「(右肩の)痛みとの戦いでした。この年は下(2軍)でもそんなに(試合で)投げていないです」と唇を噛んだ。この年限りで恩師の西本監督が勇退。ラストイヤーにまともに働けなかった無念さも重なった。

右肩以外に大きな問題はなかったという。「肘には、ずっと前からネズミ(遊離軟骨)がちょろちょろ、ちょろちょろしていたんです。まぁ、今だったらクリーニング手術をするところでしょうけど、それは長い付き合いで、ごまかしながらでも放れたんですよ。でも肩(痛)は……。ファームで練習しても体力はあるんだけど、ブルペンで投げたら肩がしっくりこない。そんな感じでしたね」。白星が遠いものになった。何とも、もどかしい日々だった。

📝憧れだったのに…巨人移籍を「断って辞めようかな」 予想外の放出、複雑だった“付属品扱い”
https://news.yahoo.co.jp/articles/d239cf356822f57ffa6b252b2bca0e6594bd7758?page=1

元近鉄・太田氏が語る巨人へのトレード移籍の裏側

“元祖甲子園アイドル投手”の太田幸司氏(野球評論家)は、プロ14年目の1983年開幕前の3月25日に石渡茂内野手とともに近鉄から巨人に移籍した。1981年以降、0勝のシーズンが続く苦しい立場でもあり「僕は刺身のつま。石渡さんの付属品、そんな感じだと思いました」。青森・三沢高から1969年ドラフト1位で入団以来、バファローズ一筋だった右腕は当初、移籍を断って引退することも考えたという。

1979年の阪急とのプレーオフ前に右肩痛を発症させてから太田氏は勝てなくなった。1980年は14登板で0勝4敗。近鉄・西本幸雄監督が勇退した1981年は1軍登板がわずか1試合の0勝1敗だった。「僕は西本さんが監督になってから2桁勝ちました。自分の一番いいときの監督。なのに、最後の年に何もできませんでしたからねぇ」と、恩師のラストシーズンに働けなかった悔しさを募らせた。

西本監督との思い出は尽きない。「厳しかったですからねぇ。僕なんか4回2/3で代えられたことも何度もありましたよ。でも、すごいのは(エースの)鈴木啓示さんにも試合中のベンチ前で「何だ、あれは、どないなっているんだぁ!」と怒るんですよね。監督によっては主力にへそを曲げられたら嫌と思う人もいるだろうけど、西本さんは逆でしたからね」と、ベテランも若手も関係なしの“熱い”姿は忘れられないという。

「試合中の西本さんは1球ごとにドン、ドーンとベンチを蹴飛ばしたりもしていた。負けて終わって僕らが荷物を片付けて『お疲れさまでした』と言っても座って動かない時もあった。勝負に対する気持ちはすごくて、負けたのに帰りのバスでチャラチャラやっていたら『お前ら、悔しくないのかぁ!』とよく怒られましたよ」。太田氏はそんな西本イズムで近鉄の主力投手になっただけに、指揮官最後の年に右肩痛のため何の恩返しもできなかったのは痛恨だった。

しかも故障の影響はさらに続いた。近鉄が関口清治監督体制になった1982年は13登板(1先発)で0勝0敗。ほとんどが負け展開のリリーフでの出番で、唯一の先発となった6月24日の阪急戦(藤井寺)も2回自責点4でKOされた。この頃も右肩痛に苦しみ、2軍生活の方が長くなった。もはや戦力になっていなかった。巨人に移籍したのは、その次の年、プロ14年目の1983年だった。

開幕前に待っていた通告、複雑だった巨人移籍「やめようかなって」
「キャンプは近鉄だったし、もうシーズン寸前ですよ」と太田氏が話すように開幕前の3月25日の出来事。石渡内野手とともに、大石滋昭内野手との2対1の交換トレードでの移籍だったが、全く思ってもいなかった行き先だった。「近鉄での出番が減ってきて、阪神の編成担当がよくファームの試合を見に来ていたから、その人には冗談で『ちょっとアレしてくださいよ』とか話をしていたんですけどね。ジャイアンツと聞いてびっくりしました」。

太田氏にとって巨人は、少年時代から大ファンの球団だったとはいえ、複雑な気分だったという。「巨人は石渡さんが、ショートが欲しかったんです。だからまぁ、もう刺身のつま。石渡さんの付属品ですよ。だって、あの頃の巨人投手陣って江川(卓)、西本(聖)、定岡(正二)とかですよ。“えっ、あんなところに近鉄でも放れないピッチャーがいってどうするんだ”って話ですよ。あの時、僕はもう断って(現役を)やめようかなって思いましたもんねぇ」。

最終的に承諾したのは「後援会の人といろいろ話をした」結果だった。「今まで近鉄でずっと来ているし、やれるか、やれないかは別にして、他のチームの飯を食うのも経験になるんじゃないか、ということで、それなら一発、勝負をかけてみようとなったんです」。背番号は33番に決まった。「33番はのちに長嶋(茂雄)さんが(1993年の2度目の監督の時に)つけたでしょ。あの時“あ、俺がつけていた番号だ”って思いましたけどね」。

しかし、巨人の背番号33のユニホームで、太田氏が1軍公式戦のマウンドに上がることはなかった。「(1983年は)開幕してちょっとの間は1軍にいたんですけど(開幕5連勝など)なかなか負けないから、僕が出るところはなかった。(3カード目の4月17日に)甲子園での阪神戦が終わった後『明日から2軍』と言われました」。そのまま2軍生活が続いた。結局、巨人生活はその年限りで終わり、オフに阪神に移籍。高校時代の思い出が詰まった甲子園が太田氏のプロ人生最後の“本拠地”となる。

📝追手門学院大の新監督に元大産大監督の宮崎正志氏が就任 新体制で巻き返しへ
https://news.yahoo.co.jp/articles/f052b912375c2983bc3cf4e6939be75001095cd8

阪神大学野球連盟に所属する追手門学院大(2部東リーグ)の新監督に、大産大(1部リーグ)の元監督・宮崎正志氏(66)が4月1日付で就任することが5日、分かった。21年以来の1部昇格へ向けて既に指導を開始。4月4日に開幕する春季リーグ戦は新体制で臨む。また、元プロ野球選手で現役時代は近鉄でプレーした加藤正樹監督(60)は退任する。

昨秋は2部東リーグで3勝7敗に終わって4位。巻き返しを図る同大学は宮崎氏を新監督に招聘した。同氏は中京大を経て、箕面東高などで監督やコーチを歴任。同氏は大産大付高でも13年間監督を務め、02年から大産大のコーチ、監督を務めていた。定年退職のため昨年3月31日付で退任。実績と経験豊富なベテラン監督が同じ連盟に所属するチームの再建へ向けて再びユニホームに袖を通す。
2026/03/06(金) 22時25分49秒 No.2323 編集 削除