自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」

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紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
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📝<四高野球―いま・むかし―>/3 進学志向で長期低迷 遠ざかった甲子園 一時は廃部危機も
https://news.yahoo.co.jp/articles/c85fc046e04cac15a18c6779eed560d19ec1a33a

1955年夏の甲子園で全国制覇を果たした四日市は市民の大歓迎を受けた。優勝メンバーの伊藤政継さん(88)は「20万人が集まったという報道もあった。当時の人口より多いんじゃないか」と笑う。「凱旋」の様子を伝える毎日新聞の号外が高校に隣接する同窓会館に展示されている。選手たちを取り巻くのは、人また人の波だ。

だが、その後しばらく、期待に応えられない時期が続く。進学率が向上し、県下随一の進学校に発展したのが大きな理由とされる。全国制覇の立役者ともいえる部長の池内定雄さんが創部100周年記念誌「白球追って」に書いている。

「昭和30年を契機として進学率も向上、県下随一の進学校に発展した。そのため素質のある選手の獲得はますます至難となり、少人数で短時間、合理的に練習する以外に部の存続方法はなかった」

そんな中、悲願をかなえようと、池内さんは65年に3年計画を立て、高橋正勝さん(55年度卒)以来の好投手といわれた本格派右腕・葛西源司さんの獲得に成功。67年夏、12年ぶりに甲子園の土を踏んだ(初戦で青森の東奥義塾に1―3で敗退)。ただ、事態は好転しなかったようだ。

「なかなか勝てない野球をやるより勉強していい大学へ入ったほうが利口だ」と言う生徒。「家に帰ってきたら寝てばかりいる。野球をやめさせてほしい」という保護者。「スポーツをしていたら一流大学に入れない」という空気が強まり、退部していくものが多かった。
池内さん、監督の水谷貞雄さんは69年のシーズンをもって退任。池内さんは部室に掲げられていた「怠惰の心なかりしや」で始まる五カ条、「和は各自の責任ある行動より生まれる」という部訓を自らの手で下ろした。

翌年夏、高校に隣接する同窓会館には退任した2人を顕彰する記念碑が建った。中でも春夏3度の甲子園出場、55年夏の甲子園と国体での「優勝」は赤字で刻まれている。それは野球の強豪校としての終幕を示すものでもあった。
70年春に新入生が入部する前の部員はわずか8人。日々の練習さえままならず、廃部の危機にまで直面した。それ以降の戦績は「普通」の公立進学校そのもの。上位に進出することもかなわなくなっていった。

現在監督の加藤敬三さん(56)が在学したのは80年代。既に甲子園出場当時とは大きく事情が異なっていた。「私が中学3年の時、3年生の代が中心のチームが春季東海大会に進出しましたが、正直なところ、全体に甲子園は難しい時期が続いていました」と振り返る。

夏の三重大会では2011年のベスト4が近年の最高成績。なんと、これが甲子園に最後に出場した67年以来44年ぶりの4強進出だった。その準決勝では優勝した伊勢工に3―5で逆転負けしている。=つづく

📝浜崎剛男さん 1月から西日本短大付の野球部監督 父・満重さんは92年に全国制覇
https://news.yahoo.co.jp/articles/67d54f535a73f63789204cebb983e939a6d2efa8

春夏通算10度の甲子園出場があり、1992年夏に全国制覇した西日本短大付(福岡)に1月から着任した浜崎剛男監督(53)は、ダイエー、ソフトバンクの球団職員として30年間勤務した。王貞治球団会長、故根本陸夫さんらの姿勢や言葉が財産になっている。ホークス魂と同校で深紅の大旗へ導いた父・満重さんと同じ「守りの野球」で夏の頂点を目指す。

朝から降り続いた雪がグラウンドには残っていた。凍えるような寒さの中でも、夏2連覇中のチームを引き継いだ浜崎新監督の心は熱かった。

「(夏の)3連覇というより10連覇以上したい。目標は高く置いておかないと」

父・満重さんは社会人野球の新日鉄堺で監督を務めていた。中学3年時に父が西日本短大付の監督に就任するにあたり、浜崎さんも福岡へ。高校は父の下で甲子園を目指した。「人の2倍、3倍しないと認められない」とコツコツ努力を重ねた。メンバーの選定方法は全部員による投票制だったが、3年夏は背番号10でベンチ入り。甲子園に出場し、3回戦の宇部商(山口)戦では右前に適時打を放つなど4強入りに貢献した。「甲子園は土もふわふわで歓声も凄かった。タイムリーも覚えています」と笑みを浮かべる。

大学卒業後はダイエー、ソフトバンクで球団職員として30年間勤務した。一番長くいたのは編成部。ドラフトは00年の山村路直(九州共立大)―山田秋親(立命大)の“山山コンビ”から19年まで携わった。華やかな仕事だけではない。嫌な役回りもした。戦力外通告だ。対象の選手に対して「あす球団事務所に…」と連絡する。「僕の電話をみんな嫌がってましたね」と申し訳なさそうに話す。

ホークスでは数え切れない出会いがあった。レジェンドの言葉と姿勢が財産になっている。王監督(現球団会長)はまだキャンプ地が高知だった頃から、遅くまでサインする姿が目に焼きついている。「お年玉をためて来ているファンもいる。全力プレーをする」と選手に熱く語りかける姿が忘れられない。

監督、GMを務めた故根本陸夫さんからは「雑用したら勝ちだよ。何でもした方がいい。経験した方がいい」と助言された。アマチュア界など各方面にパイプを持ち“球界の寝業師”ともいわれた根本さんはこうも言っていた。「一番大変なのは高校の監督だよ」。スカウティング、選手の育成、就職や進学のサポートをするからだ。20年以上が経過し「まさか自分がなるとは」と語る。

92年に全国制覇した父と同じ「守りの野球」を目指す。「最少失点に抑えていかに取るか。ヒット数より得点が多い野球ができれば」と思い描く。週末の練習時間は浜崎監督の現役時代には朝から晩までやっていたが、今は4時間程度。「メリハリをつけてくれたら。後悔しない取り組みをしてほしい」。名門を背負う重圧を力に変える。 

○…浜崎監督にとって日本ハムの新庄監督は高校時代の1学年先輩だ。後輩思いで誰にでも優しかったという。毎日バットを振って練習する背中を見てきた。一番印象に残っているのは肩の強さ。「あの肩はバケモノですよ。普通に投げている送球なのに伸びているような感じ。あれでドラフト5位なので1位は凄いなと思いましたね」と懐かしんだ。

📝DH制を熟知して円滑運用を…長崎県高野連が説明会、指導者ら100人対応学ぶ
https://news.yahoo.co.jp/articles/62759c07324902b1adaab44ef280f6cd78735ef6

長崎県高野連は22日、諫早市の長崎日大高で第98回選抜高校野球大会、第158回九州地区高校野球県大会から導入される指名打者(DH)制の説明会を開いた。加盟校の指導者や審判委員ら約100人が参加して新制度への対応を学んだ。
 
初めに藤本利治理事長が「ぶっつけ本番なところもあり、不安はあると思うが、DH制度に関する理解を深めていければ」とあいさつ。続いて、県野球審判協会の岩永聡審判長が、起こりそうな事例を挙げながら、丁寧に説明した。
 
指導者らからも「例えばドジャースの大谷選手がDHを解消して、別の守備位置に就いた。そして、その大谷選手がまた投手に戻ることはできるのか」「一回表にDHに入っている大谷投手がノックアウトされて、二塁を守っている選手を投手に入れたい場合、打撃が完了していないDH大谷の交代は可能なのか」など想定される事案についての質問があった。
 
岩永審判長は「いろんなケースが出てくると思う。ルールを熟知した上で、練習試合などで試して、DH制の円滑な運用ができるように皆さんにお願いしたい」と呼びかけた。

📝ファン投票1位は「辛かった」 ドラ1が陥った“精神崩壊”…2年間1勝で一転バッシング
https://news.yahoo.co.jp/articles/bc4cd8123670898aaf89b7d0a6a13e3842810eee?page=1

甲子園のヒーロー、太田孝司氏のプロ1年目は0勝1敗

追い込まれた。元近鉄右腕の太田幸司氏(野球評論家)にとってプロ2年目(1971年)は大試練のシーズンだった。三沢高時代に甲子園を沸かせた超人気者として注目を集めながら、この年は14登板で0勝1敗、防御率6.84。シーズン途中からは「どう投げていいのか、わからなくなった。ちょっと精神的にヤバい状況だった」とのことで、完全に自信喪失。「オフには野球を辞めようと思った」という。

プロ1年目(1970年)の太田氏は1勝4敗ながら、リリーフでも先発でも、大崩れした試合は少なかったし、2年目の成長が期待される内容だった。1年目のオフに退寮し、一戸建てを購入、青森から両親を呼び寄せての新生活をスタート。やる気満々だったが、逆の目が出た。勝ち星は1勝より下のゼロ。「あの年は僕の野球人生で一番の大きな危機というか、途中で何かイップスみたいな感じになりましたからね」。躍進どころか、大きく後退した形になった。

シーズン初登板は開幕7戦目の4月18日の南海戦(日生)で、3-14の9回に4番手で投げて1回無失点だったが、4月22日の西鉄戦(北九州)では先発して5回1/3、4失点で敗戦投手。その後もピリッとしないケースが目立った。この年、2度目の先発となった6月19日の南海戦(日生)では0/3回で3失点。「フォアボールでしょ」と太田氏は言うように、初回にいきなり3連続四球を与えて降板となった。

「怪我とかじゃないですよ。(首脳陣に)“あー、これは無理だな”と判断されたってことでしょう。もうホント、どう投げればいいか、わからなくなっていましたから。技術的というより、精神的にちょっと……。1年目はそこそこやっていけたのが、いけなくなったことでね」。シーズン前半の太田氏の登板はそれが最後で再調整となったが、そんな状態でもオールスターゲームに2年連続ファン投票で選出された。

「それでオールスターに出なければいけないんだからねぇ。1年目も1勝で出たけど、2年目は0勝ですからね。そりゃあ、もうつらかったですよ」。第1戦(7月17日、西宮)に6回からパ・リーグ3番手でマウンドに上がり、最初の打者の巨人・長嶋茂雄内野手を三ゴロに打ち取るなど、2回1失点投球だったが、とにかく必死だったのだろう。「あの年のオールスターの結果は、ほとんど覚えていないなぁ」と話す。

その試合では阪神・江夏豊投手が先発してパ・リーグ打線から9者連続奪三振の3回無失点投球。「それは見ていました。(やられた側でも)パ・リーグのバッターは『せこく当てに行くなよ』とか『一発かましてきたるからな』とか言って、みんな威勢良く空振りしていた。空振りするたびにパのベンチも盛り上がっていましたよ。魅せるっていうかな。オールスターの醍醐味だったなぁ」と印象に残っているが、その後に投げた自分のことは記憶が飛んでいるそうだ。

マスコミも掌返しの「人気先行」 

後半戦は4試合に投げただけで、2軍生活が多かったが「2軍でもあまり投げていなかったんじゃないかなぁ。もう何か投げられる状態じゃなかったんでね」。この年の1軍最終登板は10月9日、ダブルヘッダー南海戦第1試合(日生)の先発で4回5失点だった。「もう(プロでは)やれないんじゃないかと思った」とオフには引退まで考えたという。

「マスコミも最初は『太田、太田』だったのが『人気先行、人気先行』に変わった。勝手に持ち上げられていたのが、そのはしごを外され、今度はバッシングされるようになった。自分の結果もおかしいし、周りからもワーワー、ヤジが飛んでくる。もうどうしよう。いたたまれないというか……」。それほどまでに追い込まれていた。

そこから立ち直れたのは「あるお寺のお坊さんに『俺は、野球は全然知らないけど、太田幸司の名前は知っている。今、何か苦労しているみたいだけど、一回、甲子園で投げていた太田幸司を捨ててみなさい。プロのピッチャーとして新しい何かを模索してやってみたらどうですか。プライドは大事だけど、ある時は捨てないといけないよ』って言われたから」という。「お坊さんは知り合いに紹介された。『ちょっと気分転換にお寺に行って話を聞いてこいよ』と勧められて行ったんですけどね」。

太田氏は気持ちを切り替えた。「じゃあ真っ直ぐとカーブのピッチングを思い切り変えようとなった。近鉄には清(俊彦)さんというスライダーの達人がおられたので、その握りを聞いたり……。自分はどっちかというとインコースは勝手にシュート回転する方だったから、(投球フォームを)ちょっとスリークオーターにしたらシュートがグンと曲がったので、この横の揺さぶりでやろうと2年目の冬は、その練習に取り組みました」。

このモデルチェンジが3年目以降につながった。徐々に自分にモノにしていった。近鉄で2桁勝利を3度マークしたのも、この2年目オフの出来事があったからだ。「プロに入ってから、自分よりも球が速い一流のピッチャーを何人も見ていたから、そこに張り合おうとは思ってもいないし、オールラウンドで、いろんな球で抑えていく。そういうピッチャーを目指しました。そのお坊さんはもうだいぶ前に亡くなられたんですけど、あのアドバイスが効きましたね」と太田氏は感謝している。

📝旧帝大に80人、東大・京大合格者も…“偏差値69”宮城トップ級進学校の野球部が“県大会ベスト4”のナゼ「自主性重視でも…自分勝手にはさせない」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f6bd28bf9696300e65ab7ca4efa4f1c83b5c6d93?page=1

受験シーズン真っ盛りの2月。月末には国公立大の試験も控え、いわゆる「進学校」と呼ばれる高校にとっては、その後の評判にもかかわる大一番が待っている。例年、東大・京大をはじめとした難関大に合格者を出す宮城県の仙台第一高校もそのひとつだ。だが実は近年、同校の硬式野球部が躍進を見せている。昨夏の県大会でベスト4に入るなど活躍を見せたウラには、どんな秘密があったのだろうか。
 
2022年夏、深紅の大優勝旗が白河の関を越えたことは記憶に新しい。甲子園で東北勢初の快挙を成し遂げ、宮城県の高校野球界の絶対王者に君臨するのが仙台育英高校だ。そんな仙台育英に2020年以降公式戦で土をつけた宮城県内の高校は仙台商業、東北、東陵、聖和学園とわずか4校だけ。そのうち3校が私立校である。この事実からも分かるように、私立校への学費無償化などの動きも進み、公立校が躍進するハードルは以前にも増して高まっている。

直近を振り返ってみても、2025年夏の宮城大会ではベスト4の顔ぶれは仙台育英のほか、東陵、東北学院榴ヶ岡と私立校ばかりが並んだ。

公立進学校が“39年ぶり”県大会ベスト4進出の快挙
 
一方その中で公立校唯一のベスト4入りを果たしたのが宮城県仙台第一高等学校だ。仙台一高の名で知られるこの高校は、旧制中学時代から続く伝統校で、地元・東北大に毎年多くの合格者を輩出するほか、東大や京大の合格者も輩出する県内トップクラスの進学校だ。そんな仙台一高にとって、夏のベスト4は実に39年ぶりの快挙だった。

「39年ぶり」と聞くと、公立進学校が偶然勝ち上がっただけと思うかもしれない。しかしこの仙台一高の躍進は決して偶然ではない。その躍進の原点は6年前の2020年、新型コロナウイルス蔓延の影響で、戦後初めて甲子園が中止となったあの夏まで遡る。この年、仙台一高は県の独自大会で、ベスト4入りを果たしている。厳密には夏の宮城大会とは異なるものの、実は仙台一高にとって「夏のベスト4」は5年ぶりだったのだ。就任9年目の47歳・千葉厚監督は、この「2020年世代」が現在の躍進に繋がるターニングポイントだったと振り返る。

「2020年の代のときに秋ベスト8、夏ベスト4と結果が1個出たことが大きいです。部として続けてきた小中学生への地域貢献活動とも相まって、仙台一高が“野球で憧れの学校”になるサイクルができつつある。そういう中で意欲的で能力の高い子たちが入ってきてくれているというのは間違いないです」

翌2021年には春の宮城県大会で準優勝。このときはコロナ禍の影響で東北大会は開催されなかったが、2年後の2023年の春にも県3位に食い込み、東北大会に出場している。同年には秋にも県3位で東北大会出場。この成績が評価され、県の21世紀枠推薦校に選ばれると、東北地区の代表として最終候補まで残った。翌2024年も秋に第一シードの東北高校を破ってベスト8に入ると、2年連続で21世紀枠の県の推薦校に選ばれている。

かように2020年世代が同校にとってひとつのターニングポイントとなったのは間違いない。その後は公立校ながら県内でも強豪の一角という立ち位置を確かなものにしているからだ。その2020年世代で主将を務めた森拓真も、卒業後にグラウンドを訪れた際、後輩たちの姿に、変わらない伝統を感じたという。

「後輩たちの練習している姿を見ると“自発能動”という精神が残り続けているなと思います。練習の中でも選手間や先生方とも活発に議論を交わし、工夫しながら取り組んでいる様子があって、『これが一高で野球をやる醍醐味だよなぁ』と懐かしい気持ちになりました」

仙台一高に根付く「自発能動」のスローガン

「自発能動」。これが、仙台一高の躍進を紐解く標語である。

自主性を尊重し、日々の学習や探究活動、学校行事などでも生徒が主体となって取り組んでいく。同校の生徒主体の自由な校風を標榜する言葉だ。その校風に憧れて入学してくる生徒も多い。硬式野球部の活動でも同様で、日ごろから練習メニューは部員が自ら考えている。練習試合では選手起用まで自分たちで考えることもあるという。また、練習だけでなく地域への貢献活動も部員中心に行う。例年、仙台一高は12月に小学6年生を対象とした野球教室を行っている。少年野球チームとの交渉や野球教室の企画・運営は、すべて部員が主体となって行う。指導者は部員の自主性を尊重しながら、温かく見守る立場に徹しているという。ちなみに今年度の教室では千葉監督から部員たちに1つリクエストを出したという。

「野球を教えるだけでなく、小学生にも分かるように勉強の面白さを教えて欲しい」

公立進学校の生徒たちだからこそ、これから中学校へ進む子どもたちに「勉強は面白いものなのだ」ということを伝えて欲しかったのだという。ただ、具体的な方法は指示しない。部員たちが考えたのは、チーム対抗のクイズだった。

正解が発表になるたびに歓声が上がり、子どもたちが拳をつきあげて喜ぶ。仲間と顔を寄せ合いながら答えを導き出す姿に、グラウンドは熱気に包まれていた。競争というスパイスを利かせた工夫が、学ぶ楽しさを引き出していたのかもしれない。こうした野球教室の存在は、部員にとって精神的な成長の機会になると共に、単なる地域貢献に留まらない。大会で結果が出始めたことに加え、教室で選手たちから教わった小中学生が「仙台一高で野球がしたい」と憧れを抱く。そして数年後に入学してくるという好循環ができているからだ。

監督が語る「自主性」と「放任」の違いは?
 
一方で、同じような「自主性」に重きを置いた指導をする学校は令和の時代には決して珍しくない。その中で「部員自らが主体となって取り組むのは前提として、決して自分勝手にはさせない。そのさじ加減が重要」と千葉監督は語る。

「大人が先に答えを出してしまえば、選手が自ら気づき、考える機会を奪ってしまいます。だからこそ、まずは自分の力で挑戦してもらい、失敗から学ぶ過程を大切にしています。ただし、明らかに成功の可能性がない選択まで放任することはありません。“サークル活動”になってしまわないように、目指すべき方向性を示しながら、自主性と規律のバランスを大切にしています」

その「選手たちに方向性を示すこと」こそが監督の役割なのだと千葉監督は語る。千葉監督は仙台一高の卒業生でもあり、他校での指導を経て2017年秋に母校の硬式野球部監督に就任した。チーム作りをするうえでは、近隣の強豪校の存在が大きな手本となっているという。

「周りの県の先生方の懐の深さで、色々と教えてもらったり、練習試合も組んでくれたりしました。最初は知り合いがいないので、勇気を持って飛び込んでいくしかなかったのですが、そういう関係性を築いていくと、色々なことを教えてもらえました」

千葉監督はそうこともなげに語るが、何の実績もない公立校がいきなり強豪校と交流を持つのはそう簡単なことではない。相手からすれば、メリットが少ないからだ。それでも名物監督たちに胸襟を開かせたのは、千葉監督の実直な人柄ゆえのことなのだろう。そうした経験を通して「こういうチームになりたいという目標の解像度が一気に上がった」という。それらの強豪校との練習試合の経験は、そのままいまの選手たちの自信にも繋がっている。1年生の野村悠翔は、夏の仙台育英戦をスタンドから見ていたときのことを振り返る。

「自分としては『同じ高校生なんだな』とは感じられました。地元から仙台育英に行った選手たちは小学生の頃から有名で、もちろん実際に凄かったです。でも、勝つ可能性がゼロかというと、そんなことはないとも思えました。日頃から甲子園に出るような強豪とも練習試合をしている中で、そういう存在が多少なり身近になっているのも大きいとは思います」

もちろん、躍進を支えるのは千葉監督だけではない。部に関わる青山隼人部長や原子陽平コーチをはじめとするスタッフ陣の存在も大きい。日々の練習や試合を丁寧に分析し、部員一人ひとりの持ち味をどう伸ばしてくかを常に考え続けているという。その緻密なサポート体制が、チームを一段階上のステージへと押し上げている。

甲子園への「壁」…最強・仙台育英に勝てる?
 
一方で、6年前も昨年も、県大会の準決勝で敗れたのは仙台育英だった。
高校球児の夢である「甲子園」を考えるならば、宮城で最大の壁となるのがその絶対王者の存在だろう。はたしてその王者の牙城を崩すには、一体何が必要なのだろうか? 

             <次回へつづく>
2026/02/25(水) 22時20分41秒 No.2312 編集 削除