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📝選抜開幕にGHQから「待った」 米国の主張に反論、大会復活の背景
https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASV2M11HDV2MPTQP00GM.html

太平洋戦争中、春夏の甲子園大会は中断を余儀なくされました。1924年に始まった選抜大会は第18回(41年)を最後に5年間、開けなかった。終戦後の46年、ひとあし先に夏の全国選手権大会が西宮球場で再開し、無事に成功しました。ならば春の選抜も、と復活の機運が高まりました。ただ、「待った」をかけたのが連合国軍総司令部(GHQ)です。

選抜大会を主催する毎日新聞社は神戸市にある軍の拠点を訪れ、GHQに接収されていた甲子園球場の使用を求めるなど、大会復活へ動き始めました。同社は47年1月、大会復活を報じました。
ところがGHQ側は「この行事は、学校スポーツの健全な発展を促そうとする、これまでの努力や日本の体育の将来に向けて取られている全般的な方向に反する」と、当時の文部省に抗議したのです。それを受け、文部省も中止を通達しました。

どういうことか。米国の高校生年代はバスケットボール、フットボールなどシーズンごとに異なるスポーツに取り組むのが一般的でした。「全国大会は夏の1回でいい」「春にも全国大会を開催すれば、予選や練習を冬の期間に行うことになり、通年で同じ競技になる」という理由です。ただ、終戦から間もなかったこの時期は、戦前から人気だった野球を除いて、他の競技で用具や施設を準備することは難しかったそうです。

夏の甲子園の復活を実現した日本高校野球連盟の佐伯達夫副会長(当時)は「春の選抜と夏の選手権は、中等野球の両輪として歴史を重ねてきた。片方だけというのは承服できない」と、GHQ側と折衝を続けました。その結果、「選抜は地元近畿の学校を中心とし、前年度の成績優秀校を『招待する大会』であって、予選は持たない」という修正案をねじこんで47年に復活しました。

48年は、以前の「全国選抜中等学校野球大会」という名称から「全国」を抜いて「第1回選抜高等学校野球大会」としました。大会回数はのちに、戦前を含んで数え直すようになるのですが。
また、一年中同じ競技をやらないようにと、12月1日から翌年3月24日までをシーズンオフに定めました。この名残は現在も残っていて、12月1日から3月の第1土曜日になるまで、各校は対外試合ができません。

紆余曲折あった選抜も今年で98回目。歴史をつないできた先人の奮闘が今日の高校野球につながっています。

📝ダウン提示でサイン「お前はアホか」 わずか1勝で球宴選出…噛み合わぬ“人気と実力”
https://news.yahoo.co.jp/articles/88d7ac40f260cbff60d65e94a3c9153911bac556?page=1

高卒1年目に球宴ファン投票選出…張本らの“神対応”に感謝

近鉄ドラフト1位右腕の太田幸司氏(野球評論家)は1970年の高卒1年目から開幕1軍入りを果たした。4月19日のロッテ戦(藤井寺)ではリリーフでプロ初登板して初勝利。三沢高時代の甲子園大会での熱投で「コーちゃんフィーバー」を起こした人気も絶大で、その1勝だけでオールスターゲームにはファン投票で選出された。「つらかったけど、(当時、東映外野手の)張本(勲)さんに救われたんです」としみじみと話した。

太田氏は1年目から1軍スタート。1969年夏の甲子園決勝の松山商戦での延長18回0-0引き分け再試合の大熱投した甘いマスクの“アイドル右腕”は近鉄・延岡キャンプでも、オープン戦でも常に注目をめた。尋常ではない人気を背負いながら、シーズンが開幕。4月19日のロッテ戦がプロ初登板となった。「藤井寺球場ですよね。同点で行ってね……」。1-1の8回表から3番手でマウンドに上がった。

8回の太田氏は池辺巌外野手からプロ初奪三振をマークするなど無失点。その裏、近鉄は1点を勝ち越した。9回表に有藤通世内野手に適時二塁打を浴びて、追いつかれてしまったが、9回裏、太田氏の代打で出た木村重視捕手がサヨナラ2ランを放って、プロ初勝利を手に入れた。その後もリリーフが続き、3登板目の4月23日の南海戦(日生)では4-3の7回から登板し、9回に同点とされ、10回に2点勝ち越される4回3失点でプロ初黒星を喫した。

その試合では南海・野村克也監督兼捕手にプロ初被弾。「日生球場の左中間の大丸って、丸い大って書いてあるアレにぶち当てられました。あの頃の野村さんはバリバリにやっていましたからね」。そんな苦い経験もしたが、その後は2試合連続2回無失点リリーフ。6登板目の5月23日の東映戦(後楽園)でプロ初先発の機会を得た。結果は4回2/3、1失点で勝ち負けはつかなかったが、決して人気だけではない及第点の投球だった。

7月16日のロッテ戦(東京)では先発して3回2/3、6失点で2敗目。池辺外野手と榎本喜八内野手に1発を浴びた。「東京球場は狭かったからね。日生も狭かったけど、それどころじゃなかった。あの頃のボールは今ほど飛ばないボールだったからまだマシだったけど、今のボールを使っていたら、もっと悲惨なことになっていただろうね」と苦笑したが、シーズン前半は先発4試合の17登板で1勝2敗、防御率3.89で乗り切った。

そんな中、オールスターゲームにファン投票で選出された。ハンパではなかった人気の証しだったが「1勝で、ですからね。これはさすがにつらかったですよ」と18歳の右腕は恐縮したという。「当時のパ・リーグは凄いおっちゃんばかりだったしね。もう隅っこの方にいたんです。そしたら張本さんがね、『こら、幸司、こっちに来い。勉強や、勉強。ファンが選んでくれたんだ。恥ずかしいことはない』って言ってくれたんですよ」。

名捕手・野村の好リードで1回無失点2K…1年目は25登板で1勝、防御率3.86
 
太田氏は当時を思い起こしながら「普段対戦しているときは、すごい怖い人が、とても優しく接してくれてね。救われましたよ、本当に。他の方々もそうです。僕は恵まれていたと思います」と感謝の言葉を口にした。その年の球宴は7月18日(神宮)、7月19日(大阪)、7月21日(広島)の3試合だったが、太田氏はすべての試合に登板した。「まぁ、完全なるファンサービスだったんでしょうね」と、人気者ゆえのことだったが、出番がくれば精一杯、腕を振った。

1戦目は3番手で登板して1/3、2失点。「王(貞治)さんにライトフェンス直撃の(2点)二塁打を打たれて、次のバッターが長嶋(茂雄)さんってところで交代でした」。打者5人に投げて2安打2四球でアウトはひとつしかとれなかったが、翌日の2戦目は4番手で1回無失点。2三振を含む打者3人斬りで、今度は結果を出した。

「2戦目は大阪球場で(捕手の)野村さんに『幸司! 球種は何やねん』と聞かれて『はい。真っ直ぐとカーブだけです』と答えたら『よーし、俺のサイン通りに投げたら抑えられるから』って。それで1イニングを3人で……。帰り際に野村さんに『おい! 思ったより、いい球、来てるやないか』と言われて、もう嬉しくてね。『ありがとうございます』と言いました」

3戦目は1/3、無失点。8-6の7回2死、打者が阪神・田淵幸一捕手の時に4番手で登板して遊飛に打ち取った。「田淵さんのところで出るっていう、あれはもうショーでしたよね」。錚々たる選手たちの中に交じるだけではなく、3試合とも投げたのだから、肉体的にも、精神的にも疲労度は大きかったことだろう。1年目の太田氏の成績は25登板(7先発)、56回1/3を投げ、1勝4敗、防御率3.86。白星は初登板の時だけだったが、その時点での持てる力は発揮した。

「でもね、1年目の契約更改でダウンだったんですよ。何十万かのダウン。こんなものなのかと思ってサインしたんですけど、帰ったら先輩方にえらい怒られましてね。『お前はアホか! どれだけお前が客を呼んだか。そんなんだったら、俺らにも影響するやないか!』ってね」。こうして太田氏のプロ1年目は終わった。残した数字以上に激動のシーズンだったが、超人気者としての立場もまだまだ続いていった。
2026/02/24(火) 22時32分45秒 No.2311 編集 削除