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🎤クロストーク 野々村直通(開星高校野球部監督)x嶽野正樹(松江南高野球部監督)
https://www.youtube.com/watch?v=zj5QnXNdnBI

☝滋賀学園のWエース土田義貴と伴田蒼生 センバツ快投で「師匠」土田の兄・悠貴に恩返しだ
https://news.yahoo.co.jp/articles/b46f65b8214fa84edd2523b81cde27584c6fc353

WEST報知では、第98回センバツ高校野球大会の注目選手を「この選手 イイじゃん」と題し、随時、紹介する。第1回は、2年連続4度目出場の滋賀学園・土田義貴と伴田蒼生の両投手(ともに2年)。そろって土田の兄・悠貴投手(3年)の背中を追って成長した。“三角関係”の両輪が、憧れの甲子園にデビューする。

兄と同じユニホームでの夢舞台を前に、滋賀学園の左のエース土田は「お兄ちゃん以上の投球を」と燃えている。1学年上で日大に進学する悠貴投手は甲子園に2度出場。8強入りした24年夏は2試合に登板し、昨春も好投した。下級生時から活躍した姿に憧れて入学した弟は、昨年のセンバツはボールパーソン。「同じ球場にいるのに遠かった。次は自分が…」。1年前の誓いを実現した。

最速145キロ右腕の兄とタイプの異なる136キロ左腕。歩みも、入学前から期待された兄と真逆だ。中学1年で身長170センチに達した兄より成長期が遅く、中学2年夏で160センチ前半。ようやく伸びた3年の球速も120キロ前後だった。強豪への進学は無理だという周囲の声にあらがい、同じ道へ。兄が石川・金沢市に帰省した時に助言を求め、入学前から猛練習を積んだ。昨秋は腰のけがに悩みながらも、近畿大会準々決勝の近江戦で1失点完投。センバツ出場を確実にする快投を演じた。

土田の不調時に、伴田がチームを救った。前チームでは公式戦の経験がなく、「マウンドに立てるとは思っていなかった」と、最速138キロ右腕。近畿大会1回戦(対乙訓)の2失点完投など、山口達也監督(54)も「うちの救世主。秋は伴ちゃんのおかげ」と驚いた。中学時代は外野が主戦場。「自信はなかったけど、挑戦したかった」と、投手を志願して入部した男が予想以上の成長を見せた。

「最初はフォームもめちゃくちゃ」と、回想する伴田の師匠も土田兄だ。1年冬に「一から全て教えてもらった」と激変した。寮に帰っても、付きっきりで自主練習。兄弟以上の時間を過ごし、「センバツでも土田(弟)に負けたくない。いいライバル関係で頑張りたい」と肩を並べた。

土田も「秋は伴田に頼りっぱなしだったので」と、意地をにじませる。ともに中学時代は控え投手。同じ背中を追い、高校で進化した両輪が滋賀学園の伝統をつなぐ。

📝ボロボロの寮…試合後に女性が侵入「追い出して」 ドラ1入団も絶望感、夜に響いた叫び声
https://news.yahoo.co.jp/articles/2ce7e2bdd8871eb3f80771226d87304df65c2006?page=1

「日生球場を見た時、ホントにもう、コケたもんなぁ」

驚きの連続だった。1969年のドラフト1位で青森県立三沢高から近鉄に入団した太田幸司氏(野球評論家)はいろんな意味でショックを受けたという。1年目のキャンプでプロのレベルの高さを痛感しただけでなく、近鉄が主催球場として使用していた日生球場には「これが……」と衝撃を受け、合宿所「球友寮」での“住環境”でもまさかの出来事が……。超人気者ゆえに、プロで結果を出す前からCM出演もあり「あれも嫌だったなぁ」と当時の心境を明かした。

1969年夏の甲子園球場を沸かし、甘いマスクもあって「コーちゃんフィーバー」を巻き起こし、近鉄入団後も注目された太田氏は1年目(1970年)から1軍キャンプスタート。「練習はそんなにきつくなかったんですけどね、ブルペンに入るとバーン、バーンってすごい球を放る人がいたんですよ。まだ僕は入ったばかりで、選手の名前も顔もよくわからないじゃないですか。それでコーチに聞いたんですよ。そしたら『ああ、こいつはまだ1軍に上がったことがないんやで』って」。

耳を疑った。「“えっ、この球で”って思いました。それはもうカルチャーショック。しかも、そんなピッチャーが何人もいて、僕はこの人たちと競争しないといけないのか、と思ってね」。打者の手元でホップするストレートを武器にして“超高校級投手”と評された太田氏だが、実際にプロの投手を見て、レベルの高さを痛感した。同時に主力級の投手は、もっと高い位置にいることも感じ取った。自然と気持ちも引き締まった。もっとも、近鉄に入って驚いたことについては「それよりもねぇ」と太田氏は苦笑しながら、こう続けた。「僕は(1968年の三沢高2年秋に)明治神宮大会に出た時、後楽園球場に何かの試合を見に行ったんです。いつもテレビで見ていた球場だったし“ウワー、ここがぁ”ってなりましたよ。その前に甲子園も見ていたし、プロってこんなすごい球場でやっているんだなぁ、ってイメージがあったんですけどねぇ……」。

当時の近鉄は、本拠地の藤井寺球場にまだナイター設備がなく、実質、日生球場を本拠地のように使っていたが「日生球場を見た時、ホントにもう、コケたもんなぁ。“おい、おい、これがプロの球場なの?”みたいなね。あれはなかなか衝撃的でしたよ」と言う。甲子園や後楽園とはグラウンドの広さも含めて、設備などのレベルがあまりにも違いすぎた。愕然となったのだ。

プロ1年目からグリコと松下ナショナルのCMに出演「これ決まったから」
 
生活拠点である球友寮にも“問題”があったという。藤井寺球場右翼スタンド裏にあった合宿所だが、当時はとにかく「ボロボロだった」と話す。「僕の部屋の下が風呂場。上は鉄板でね。夏は上から暑いわ、下から暑いわ。エアコンなんかないし、もう暑くて寝られなかった。大体、朝方の4時くらいになって、ちょっとはマシかなぁ、くらいだったんですよ」。

仰天の出来事もあった。「今の寮はどこもセキュリティーがちゃんとしているけど、あの時の(近鉄の)寮は夜中でも正面の門なんか、がら空きでね、そりゃあもう入り放題ですよ。いつだったか、ナイターが終わって帰って、ドアを開けて部屋に入ったら、ベッドに知らない女の子が座っていましたからね。びっくりして『ウワー、寮長! 寮長!』と言って追い出してもらった。もうメチャクチャでしたね」。

そんな太田氏はプロ1年目からCMにも出演した。「グリコと松下ナショナルかな。これは僕が関知していたことではなく、球団に『これ、決まったから、出てくれ』って言われてね。だから、いくらで契約したとか、そういう細かいこともほとんど知らなかったんですよ。確か、1年目のオープン戦の頃に撮影して、シーズンが始まると同時くらいに流れはじめたんじゃなかったかなぁ」。

まだプロで結果を出す前のことで、それもまた太田氏の人気の凄さを物語るものでもあるが「球団が言うから、そんなものかと思ってやっていたけど、あれも嫌だったなぁ」と言う。自身は「まず2軍で体を作ってから1軍で」という青写真を描いていたが、キャンプからずっと1軍。必死に食らいついて練習に明け暮れながらも、CM話が浮上したように“人気”が常に背中合わせで、複雑な思いでもいたようだ。

「遠征に行く時は、今みたいに道具車がないから、バッティングのボール、キャッチャー道具とかは若いもんが持っていく。新幹線に乗ろうとして(ファンに)ワーって言われながら汗だくで(大荷物を持って)移動していましたよ」。1年目は25登板で1勝4敗、防御率3.86。オールスターゲームにもファン投票1位で選出された。1軍最年少としてのチーム内の“仕事”もきっちりこなしながら、超人気者としての“役割”も担っていたのだから大変だったに違いない。
2026/02/23(月) 22時24分24秒 No.2310 編集 削除