自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
✌球児から児童へ、極意を伝授 県立橋本高校×少年チーム交流
https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASV2B46FFV2BPXLB002M.html
和歌山県立橋本高校の野球部員たちが7日、橋本市内の少年野球チームを同校に招き、野球の手ほどきや学習サポートなど多彩なメニューで交流した。
市内の少年野球チーム出身で橋本高野球部の元部員でもある脇田純平監督の発案で、2年前に始まった。3回目の今回は、6チームから小学生計60人と同校の野球部員24人が参加した。
この日の交流は児童への学習サポートから始まった。野球部員らがあらかじめ小学生の国語や算数など教科の問題を作成していて、教室でこれらを小学生に配布し、質問を受けるなどした。
その後、グラウンドへ。野球部員が独自のウォーミングアップを披露。短い練習時間で効率よくこなすため、単純に走り込むのではなくリズム感や俊敏さの要素を採り入れている。小学生たちにもコツを教え、一緒に体をほぐした。ペアを組んでキャッチボールやトスバッティングをした後、部独自の野球風のゲームで楽しんだ。
三石ベアーズから参加した平松直さん(小5)は「ゲームがとくに楽しかった」と笑顔。同校野球部の友武有希主将(2年)は、どうやったら子どもたちに楽しんでもらえるかを考え抜き、交流会のメニューを作ったという。「街で僕たちを見かけたら気軽に声をかけてもらいたい」
同校の野球部員は普段から、勉強や野球を互いに教え合っているという。脇田監督は「みんなで一緒にやれば楽しく学べることを、野球でも野球以外でも小学生たちに感じてほしい。高校生にも年の離れた子たちに教えることで新たな気づきがあるはずだ」と話した。
📝甲子園沸かせた元祖アイドル 甘いマスクでフィーバーも…目立たぬ学生時代「野球は下手」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9d82111c80ee40131c6caf8a474086502e0dc24f?page=1
元近鉄・太田幸司氏が振り返る原点「野球しかなかった」
甲子園を沸かした“元祖アイドル右腕”が太田幸司氏(野球評論家)だ。うなる快速球に甘いマスク。青森・三沢高エースとして、1969年夏決勝の延長18回0-0引き分け再試合での激投などで「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした。ドラフト1位で入団した近鉄でも2桁勝利を3度マーク。常に人気を背負いながら、アマでもプロでも実績を残したが、その原点ともいえる小学生時代は決してズバ抜けた存在ではなかったという。
1952年1月23日生まれの太田氏は「僕らの時代は子どもが何かやるといったら野球しかなかった。小学校に入る前から、稲刈りしたあとの田んぼで三角ベースとかで遊んでいましたよ。それに親父が結構野球好きでね。道具も、裏の雑木林で、木を切って削ってバットみたいなものを作ってくれたし、お袋は布に綿を入れてグラブみたいなのを作ってくれたんです。親父とはよくキャッチボールをしましたしね」と振り返る。
「あの頃って町内会にも、テレビがある家がまだ1軒、2軒という状況だった。ナイターは巨人戦しかやっていないしね。テレビがある家にお父さん方もビールとおつまみを持って集まって野球中継を見る。そこへ連れていってもらって一緒に見ました。その辺が野球との出会いでもあったのかな」。自然と巨人ファンになったそうだ。「3番・長嶋(茂雄)やぁーとか言ってね。パ・リーグは日本シリーズで巨人と戦う西鉄、南海くらいしか知らなかった。近鉄は全く知らなかった」。
三沢市立岡三沢小学校4年の時に、学校の軟式野球部に入った。ポジションは外野手。「三沢は特殊でね、米軍基地の中に米国のチームが何チームかあって、そこに市内の小学校の選抜チームも入って土日は試合をしていた。こっちは硬式。だから軟式と硬式の両方をやっていました。僕らは小学校の軟式チームでがっつり練習していたけど、米国のチームは楽しそうにやるだけだから、僕らの方が圧倒的に強かったんですけどね」。
しかしながら、太田氏は決して目立つ存在ではなかったそうだ。「小学校のチームでは1番とか2番を打っていましたけど、選抜チームではたまにスタメンで使ってもらえるか、くらいの選手でしたね。選抜チームは(米軍内のリーグで)優勝して、東京のリトルリーグの大会に行ったけど、人数制限とかもあって、そのメンバーには選ばれなかった。(三沢駅で)みんなを見送るだけの寂しい思いもしましたよ」と話した。
足が速くて強肩も「野球は下手」
「同級生がみんなうまくてね。ウワー、凄いなぁって見ていましたね。そこに何とか追いつこう、みたいな、そんな感じでした。プロ野球選手になる人は、よく小さい頃から野球が抜群に上手くて……とか言われますが僕の場合は全然」。のちに女性ファンを大熱狂させる太田氏だが「ピッチャーで、4番でキャプテンというのがあの頃のモテるパターンというか。それに憧れはあったけど、自分がピッチャーをやれるようになるとは思ってもいませんでした」と口にした。
「足は一番速かったし、肩が強かったというのはありました。でも野球は下手。たいして打てなかったですし……。外野からはガーッと放って、バックネットによく直接ぶつけていました。見せ場だと思って、みんながカットっていうなか、ノーバンで行ったろうと思って投げたら、大暴投。そんなのもよくやっていました。まぁ、身体能力はありましたね。小学校とかの運動会では足が速いんで独壇場でした」。それでも野球では、同級生たちにその頃はまだ勝てなかったようだ。
当時の三沢市内の小学校選抜チームには、後の三沢高野球部メンバーが数多く名を連ねていた。「あの時は(三沢高では一塁手となる)菊池(弘義)がエースで、(三沢高で)ショートだった八重沢(憲一)も投げていましたね」。太田氏が投手になるのは三沢市立第一中学2年になってから。そこから伝説の投手への道を歩んでいくが「小学校当時のことを知る人だったら『あの太田が……』って思っていたんじゃないですかねぇ」と言って笑った。
☝20歳の「お姉ちゃん」がたった1人で燃やした高校野球への情熱…勤続65年目を迎えた「東京高野連の母」
https://news.yahoo.co.jp/articles/79c96b6606d4a103a054e89b1d9ea32e1e4b4c56
2020年にスポニチに入社した記者の前職は地方公務員。福岡県福津市の教育委員会で3年間、スポーツ担当の仕事に励み、スポーツを「する・みる・ささえる」の活動を通して市民の生活向上を目指した。連載「元公務員記者の目」ではアマチュア野球担当の記者が「ささえる」人々の活躍を伝える。第2回は東京都高等学校野球連盟の横山幸子事務局長(84)。勤続65年目を迎えた超ベテランが歩みを振り返った。(聞き手 アマチュア野球担当キャップ・柳内 遼平)
――1961年に日本学生野球協会の事務局員になり、翌年から東京高野連も兼務。63年から東京高野連の専任として支えてきた。
「私がここに来たのは昭和37(1962年)年のことでした。当時の連盟にはまだきちんとした職員はおらず、学生アルバイトのような方が手伝っている程度。お給料も封筒に入れて“はい!”と渡されるだけ。そんな時代でした(笑い)。これでは私の後に来る人が困るだろうと、税務署や役所に行って一から帳簿をつくり、社会保険などの仕組みも整えていきました。何もないところから、連盟としてのシステムをゼロからつくっていったんです。当時は20代そこそこ。右も左も分からない若造でしたが、税務署の方が本当に親切に教えてくれたことを覚えています」
――今でこそ東京高野連は複数人の職員によって運営されているが、当初は横山事務局長の“ワンオペ”状態。
「もちろん学校の先生方とともに仕事を進めていきますが、事務員が一人体制の時代は本当に休まる暇がありませんでしたね。帰宅が夜中の12時を過ぎることもありました。私の自宅の電話番号も名簿に載せていたので土日だろうが、夜中だろうが、電話がかかってきます。“公式戦は明日なのに背番号を失くしてしまった…”なんて電話が土曜の夜にかかってきて、慌てて事務所を開けて背番号を渡したこともありました。それくらい現場との距離が近かったですし、私がやらなきゃ誰がやるんだ、という思いでしたね」
――今では信じられませんが、かつて東京の高校野球はメディアの扱いが小さかった。どのように立ち向かった。
「昔は新聞の扱いも凄く小さかったんです。全国版のスポーツ欄の隅っこにスコアが載る程度。“もっと東京の高校野球を知ってもらいたい”と思って、朝日新聞や読売新聞に電話をかけました。ある新聞社に東京大会の記事を大きく載せていただいた際には“あっちの新聞は載せてくれたから、そちらも書いてくれませんか”と他社に電話をしたものです。連盟に読者からの反応が届けば、すかさず各社に知らせていましたね(笑)。半分ハッタリみたいなものですけど、そうやって競わせるようにして記事を大きくしてもらったこともあります。そうすると記事から東京の高校野球に興味を持ってくれる方が増え、だんだんと観客動員が伸びていきました。サッカーのJリーグが発足して野球人気が落ちた頃は“座って待っているだけじゃダメだ”と、団体割引のチケットプランをつくりました。工夫の積み重ねで少しずつ注目されるようになり、スタンドにお客さんが入るようになった時は本当にうれしかったです」
――当時は結婚を機に専業主婦になる寿退社が一般的だった。35歳で結婚した際、なぜ仕事を続けられたのか。
「“辞める時は結婚する時”という価値観が当たり前の時代でした。結婚する時に周囲からは“家庭に入って家業(飲食店)を手伝うべきだ”という声がありました。当然ですよね。ところが、当時の(東京高野連)理事長が結婚式のスピーチで仕事ぶりを凄く褒めてくれたんです。それを聞いた主人の父が“幸子さん、あなたは辞めることはならん。仕事を続けなさい”と言ってくれたんです。これには(周囲も)黙るしかありませんでした(笑)。あのスピーチがなければ今、私はここにいないでしょう。その時、内心は辞めたくなかったのでスピーチに感謝です。主人も野球好きなので、私が勤めを続けることを喜んでくれましたね。大会にも毎回来てくれましたし、選手名簿の表紙の写真を撮ってくれたこともありました」
――長年勤務してきた中で野球への価値観は変わった。
「当初は野球のルールもよく分からなかった私ですが、大会で子どもたちが負けて泣いている姿を見て、もらい泣きするようになっていました。この子たちは泣くほど真剣に野球に向き合っているんだなって。こんなに野球っていいものなんだなって。いくら仕事が大変でもこの子たちのためにやれることは全てやってあげたいって思いになりました。一人ひとりが本当にかわいいと思えるようになりました」
――今年は選抜大会に東京代表として帝京が出場するなど高校野球の1年が再びスタートしていく。意気込みは。
「昔は選手たちと歳も近くて“お姉ちゃん”なんて呼ばれていましたけど、気づけば84歳(笑い)。足も悪くなってきましたし、若い職員の子たちがとても優秀で、私がいると邪魔なんじゃないかといつも言ってるんですけど“いてくれるだけでいい”なんて言ってくれるから、ついつい居座っちゃっています。本当に勤め先に恵まれました。足が悪くなって、なかなか甲子園に行くことは難しくなりましたが、また東京のチームが優勝旗をつかむ姿を見たいです。これからも応援を続けていきます」
☝センバツ2026 合宿で汗 滋賀学園→静岡 温暖、久々の屋外/近江→香川 風無く、練習集中
https://news.yahoo.co.jp/articles/acd1a16f5ac188dd41e140be7a615db32d068333
第98回選抜高校野球大会に出場する滋賀学園と近江は先週末の6日からの3日間、それぞれ合宿を行った。比較的温暖な気候を求めて滋賀学園は静岡県菊川市の菊川運動公園で、近江は香川県さぬき市の志度総合運動公園で汗を流した。
滋賀学園は暖かさに恵まれた。久々の屋外での練習となり、シート打撃や外野フライの捕球練習などに励み、富士山を眺めながらの散歩もした。近江は雪がちらつく日もあったが、風の無い中で練習ができた。
滋賀学園の三隅光誠選手(2年)は「楽しかった。チームの雰囲気が良かった」と笑顔で話し、大会に向けて選手たちの機運も高まったよう。
上園渉太朗選手(同)は「今後につながる練習で充実した3日間だった」と手応えを得ていた。
近江の根矢衛汰選手(同)は「外でボールを使った練習ができて良かった」と話し、学校のある彦根市との気候の違いに感謝した。
寮生と自宅生がいる近江は全員が一緒に過ごす期間となり、井上樹選手(同)は「仲間の新しい良い部分がたくさん見えた」と練習とは別の「合宿効果」を喜んでいた。
📣松坂屋で「選抜野球 愛知」展 戦前の優勝旗、幻の出場旗も きょうから
https://news.yahoo.co.jp/articles/80e200682f893b8594e02f7ca69233f1b05ba09a
選抜野球高校大会に出場した愛知県内校の優勝旗レプリカなどを展示する「選抜野球 愛知」が11~16日、名古屋市中区の松坂屋南館8階マツザカヤホールで開かれる。
中京大中京、東邦、愛知商業の各校で保管されているウイニングボールや戦前の優勝旗レプリカなど約40点が並ぶ。新型コロナウイルスの感染拡大で中止となった2020年の「幻の選抜大会」の出場旗もあり、大会と県出場校の歴史を振り返ることができる。
展示会は、中京大中京職員で学園史・広報担当の渡辺真佐信さん(71)が企画し、大会と関わりが深い松坂屋の協力で実現した。1924~67年大会の優勝旗は松坂屋の前身「いとう呉服店」が製作。開会式の入場行進曲を同店の少年音楽隊が演奏したこともある。渡辺さんは「高校野球を通して近代史を学んだり振り返ったりする機会になれば」と話す。
午前10時から午後6時。入場無料。問い合わせは渡辺さん(052・761・5311)
https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASV2B46FFV2BPXLB002M.html
和歌山県立橋本高校の野球部員たちが7日、橋本市内の少年野球チームを同校に招き、野球の手ほどきや学習サポートなど多彩なメニューで交流した。
市内の少年野球チーム出身で橋本高野球部の元部員でもある脇田純平監督の発案で、2年前に始まった。3回目の今回は、6チームから小学生計60人と同校の野球部員24人が参加した。
この日の交流は児童への学習サポートから始まった。野球部員らがあらかじめ小学生の国語や算数など教科の問題を作成していて、教室でこれらを小学生に配布し、質問を受けるなどした。
その後、グラウンドへ。野球部員が独自のウォーミングアップを披露。短い練習時間で効率よくこなすため、単純に走り込むのではなくリズム感や俊敏さの要素を採り入れている。小学生たちにもコツを教え、一緒に体をほぐした。ペアを組んでキャッチボールやトスバッティングをした後、部独自の野球風のゲームで楽しんだ。
三石ベアーズから参加した平松直さん(小5)は「ゲームがとくに楽しかった」と笑顔。同校野球部の友武有希主将(2年)は、どうやったら子どもたちに楽しんでもらえるかを考え抜き、交流会のメニューを作ったという。「街で僕たちを見かけたら気軽に声をかけてもらいたい」
同校の野球部員は普段から、勉強や野球を互いに教え合っているという。脇田監督は「みんなで一緒にやれば楽しく学べることを、野球でも野球以外でも小学生たちに感じてほしい。高校生にも年の離れた子たちに教えることで新たな気づきがあるはずだ」と話した。
📝甲子園沸かせた元祖アイドル 甘いマスクでフィーバーも…目立たぬ学生時代「野球は下手」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9d82111c80ee40131c6caf8a474086502e0dc24f?page=1
元近鉄・太田幸司氏が振り返る原点「野球しかなかった」
甲子園を沸かした“元祖アイドル右腕”が太田幸司氏(野球評論家)だ。うなる快速球に甘いマスク。青森・三沢高エースとして、1969年夏決勝の延長18回0-0引き分け再試合での激投などで「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした。ドラフト1位で入団した近鉄でも2桁勝利を3度マーク。常に人気を背負いながら、アマでもプロでも実績を残したが、その原点ともいえる小学生時代は決してズバ抜けた存在ではなかったという。
1952年1月23日生まれの太田氏は「僕らの時代は子どもが何かやるといったら野球しかなかった。小学校に入る前から、稲刈りしたあとの田んぼで三角ベースとかで遊んでいましたよ。それに親父が結構野球好きでね。道具も、裏の雑木林で、木を切って削ってバットみたいなものを作ってくれたし、お袋は布に綿を入れてグラブみたいなのを作ってくれたんです。親父とはよくキャッチボールをしましたしね」と振り返る。
「あの頃って町内会にも、テレビがある家がまだ1軒、2軒という状況だった。ナイターは巨人戦しかやっていないしね。テレビがある家にお父さん方もビールとおつまみを持って集まって野球中継を見る。そこへ連れていってもらって一緒に見ました。その辺が野球との出会いでもあったのかな」。自然と巨人ファンになったそうだ。「3番・長嶋(茂雄)やぁーとか言ってね。パ・リーグは日本シリーズで巨人と戦う西鉄、南海くらいしか知らなかった。近鉄は全く知らなかった」。
三沢市立岡三沢小学校4年の時に、学校の軟式野球部に入った。ポジションは外野手。「三沢は特殊でね、米軍基地の中に米国のチームが何チームかあって、そこに市内の小学校の選抜チームも入って土日は試合をしていた。こっちは硬式。だから軟式と硬式の両方をやっていました。僕らは小学校の軟式チームでがっつり練習していたけど、米国のチームは楽しそうにやるだけだから、僕らの方が圧倒的に強かったんですけどね」。
しかしながら、太田氏は決して目立つ存在ではなかったそうだ。「小学校のチームでは1番とか2番を打っていましたけど、選抜チームではたまにスタメンで使ってもらえるか、くらいの選手でしたね。選抜チームは(米軍内のリーグで)優勝して、東京のリトルリーグの大会に行ったけど、人数制限とかもあって、そのメンバーには選ばれなかった。(三沢駅で)みんなを見送るだけの寂しい思いもしましたよ」と話した。
足が速くて強肩も「野球は下手」
「同級生がみんなうまくてね。ウワー、凄いなぁって見ていましたね。そこに何とか追いつこう、みたいな、そんな感じでした。プロ野球選手になる人は、よく小さい頃から野球が抜群に上手くて……とか言われますが僕の場合は全然」。のちに女性ファンを大熱狂させる太田氏だが「ピッチャーで、4番でキャプテンというのがあの頃のモテるパターンというか。それに憧れはあったけど、自分がピッチャーをやれるようになるとは思ってもいませんでした」と口にした。
「足は一番速かったし、肩が強かったというのはありました。でも野球は下手。たいして打てなかったですし……。外野からはガーッと放って、バックネットによく直接ぶつけていました。見せ場だと思って、みんながカットっていうなか、ノーバンで行ったろうと思って投げたら、大暴投。そんなのもよくやっていました。まぁ、身体能力はありましたね。小学校とかの運動会では足が速いんで独壇場でした」。それでも野球では、同級生たちにその頃はまだ勝てなかったようだ。
当時の三沢市内の小学校選抜チームには、後の三沢高野球部メンバーが数多く名を連ねていた。「あの時は(三沢高では一塁手となる)菊池(弘義)がエースで、(三沢高で)ショートだった八重沢(憲一)も投げていましたね」。太田氏が投手になるのは三沢市立第一中学2年になってから。そこから伝説の投手への道を歩んでいくが「小学校当時のことを知る人だったら『あの太田が……』って思っていたんじゃないですかねぇ」と言って笑った。
☝20歳の「お姉ちゃん」がたった1人で燃やした高校野球への情熱…勤続65年目を迎えた「東京高野連の母」
https://news.yahoo.co.jp/articles/79c96b6606d4a103a054e89b1d9ea32e1e4b4c56
2020年にスポニチに入社した記者の前職は地方公務員。福岡県福津市の教育委員会で3年間、スポーツ担当の仕事に励み、スポーツを「する・みる・ささえる」の活動を通して市民の生活向上を目指した。連載「元公務員記者の目」ではアマチュア野球担当の記者が「ささえる」人々の活躍を伝える。第2回は東京都高等学校野球連盟の横山幸子事務局長(84)。勤続65年目を迎えた超ベテランが歩みを振り返った。(聞き手 アマチュア野球担当キャップ・柳内 遼平)
――1961年に日本学生野球協会の事務局員になり、翌年から東京高野連も兼務。63年から東京高野連の専任として支えてきた。
「私がここに来たのは昭和37(1962年)年のことでした。当時の連盟にはまだきちんとした職員はおらず、学生アルバイトのような方が手伝っている程度。お給料も封筒に入れて“はい!”と渡されるだけ。そんな時代でした(笑い)。これでは私の後に来る人が困るだろうと、税務署や役所に行って一から帳簿をつくり、社会保険などの仕組みも整えていきました。何もないところから、連盟としてのシステムをゼロからつくっていったんです。当時は20代そこそこ。右も左も分からない若造でしたが、税務署の方が本当に親切に教えてくれたことを覚えています」
――今でこそ東京高野連は複数人の職員によって運営されているが、当初は横山事務局長の“ワンオペ”状態。
「もちろん学校の先生方とともに仕事を進めていきますが、事務員が一人体制の時代は本当に休まる暇がありませんでしたね。帰宅が夜中の12時を過ぎることもありました。私の自宅の電話番号も名簿に載せていたので土日だろうが、夜中だろうが、電話がかかってきます。“公式戦は明日なのに背番号を失くしてしまった…”なんて電話が土曜の夜にかかってきて、慌てて事務所を開けて背番号を渡したこともありました。それくらい現場との距離が近かったですし、私がやらなきゃ誰がやるんだ、という思いでしたね」
――今では信じられませんが、かつて東京の高校野球はメディアの扱いが小さかった。どのように立ち向かった。
「昔は新聞の扱いも凄く小さかったんです。全国版のスポーツ欄の隅っこにスコアが載る程度。“もっと東京の高校野球を知ってもらいたい”と思って、朝日新聞や読売新聞に電話をかけました。ある新聞社に東京大会の記事を大きく載せていただいた際には“あっちの新聞は載せてくれたから、そちらも書いてくれませんか”と他社に電話をしたものです。連盟に読者からの反応が届けば、すかさず各社に知らせていましたね(笑)。半分ハッタリみたいなものですけど、そうやって競わせるようにして記事を大きくしてもらったこともあります。そうすると記事から東京の高校野球に興味を持ってくれる方が増え、だんだんと観客動員が伸びていきました。サッカーのJリーグが発足して野球人気が落ちた頃は“座って待っているだけじゃダメだ”と、団体割引のチケットプランをつくりました。工夫の積み重ねで少しずつ注目されるようになり、スタンドにお客さんが入るようになった時は本当にうれしかったです」
――当時は結婚を機に専業主婦になる寿退社が一般的だった。35歳で結婚した際、なぜ仕事を続けられたのか。
「“辞める時は結婚する時”という価値観が当たり前の時代でした。結婚する時に周囲からは“家庭に入って家業(飲食店)を手伝うべきだ”という声がありました。当然ですよね。ところが、当時の(東京高野連)理事長が結婚式のスピーチで仕事ぶりを凄く褒めてくれたんです。それを聞いた主人の父が“幸子さん、あなたは辞めることはならん。仕事を続けなさい”と言ってくれたんです。これには(周囲も)黙るしかありませんでした(笑)。あのスピーチがなければ今、私はここにいないでしょう。その時、内心は辞めたくなかったのでスピーチに感謝です。主人も野球好きなので、私が勤めを続けることを喜んでくれましたね。大会にも毎回来てくれましたし、選手名簿の表紙の写真を撮ってくれたこともありました」
――長年勤務してきた中で野球への価値観は変わった。
「当初は野球のルールもよく分からなかった私ですが、大会で子どもたちが負けて泣いている姿を見て、もらい泣きするようになっていました。この子たちは泣くほど真剣に野球に向き合っているんだなって。こんなに野球っていいものなんだなって。いくら仕事が大変でもこの子たちのためにやれることは全てやってあげたいって思いになりました。一人ひとりが本当にかわいいと思えるようになりました」
――今年は選抜大会に東京代表として帝京が出場するなど高校野球の1年が再びスタートしていく。意気込みは。
「昔は選手たちと歳も近くて“お姉ちゃん”なんて呼ばれていましたけど、気づけば84歳(笑い)。足も悪くなってきましたし、若い職員の子たちがとても優秀で、私がいると邪魔なんじゃないかといつも言ってるんですけど“いてくれるだけでいい”なんて言ってくれるから、ついつい居座っちゃっています。本当に勤め先に恵まれました。足が悪くなって、なかなか甲子園に行くことは難しくなりましたが、また東京のチームが優勝旗をつかむ姿を見たいです。これからも応援を続けていきます」
☝センバツ2026 合宿で汗 滋賀学園→静岡 温暖、久々の屋外/近江→香川 風無く、練習集中
https://news.yahoo.co.jp/articles/acd1a16f5ac188dd41e140be7a615db32d068333
第98回選抜高校野球大会に出場する滋賀学園と近江は先週末の6日からの3日間、それぞれ合宿を行った。比較的温暖な気候を求めて滋賀学園は静岡県菊川市の菊川運動公園で、近江は香川県さぬき市の志度総合運動公園で汗を流した。
滋賀学園は暖かさに恵まれた。久々の屋外での練習となり、シート打撃や外野フライの捕球練習などに励み、富士山を眺めながらの散歩もした。近江は雪がちらつく日もあったが、風の無い中で練習ができた。
滋賀学園の三隅光誠選手(2年)は「楽しかった。チームの雰囲気が良かった」と笑顔で話し、大会に向けて選手たちの機運も高まったよう。
上園渉太朗選手(同)は「今後につながる練習で充実した3日間だった」と手応えを得ていた。
近江の根矢衛汰選手(同)は「外でボールを使った練習ができて良かった」と話し、学校のある彦根市との気候の違いに感謝した。
寮生と自宅生がいる近江は全員が一緒に過ごす期間となり、井上樹選手(同)は「仲間の新しい良い部分がたくさん見えた」と練習とは別の「合宿効果」を喜んでいた。
📣松坂屋で「選抜野球 愛知」展 戦前の優勝旗、幻の出場旗も きょうから
https://news.yahoo.co.jp/articles/80e200682f893b8594e02f7ca69233f1b05ba09a
選抜野球高校大会に出場した愛知県内校の優勝旗レプリカなどを展示する「選抜野球 愛知」が11~16日、名古屋市中区の松坂屋南館8階マツザカヤホールで開かれる。
中京大中京、東邦、愛知商業の各校で保管されているウイニングボールや戦前の優勝旗レプリカなど約40点が並ぶ。新型コロナウイルスの感染拡大で中止となった2020年の「幻の選抜大会」の出場旗もあり、大会と県出場校の歴史を振り返ることができる。
展示会は、中京大中京職員で学園史・広報担当の渡辺真佐信さん(71)が企画し、大会と関わりが深い松坂屋の協力で実現した。1924~67年大会の優勝旗は松坂屋の前身「いとう呉服店」が製作。開会式の入場行進曲を同店の少年音楽隊が演奏したこともある。渡辺さんは「高校野球を通して近代史を学んだり振り返ったりする機会になれば」と話す。
午前10時から午後6時。入場無料。問い合わせは渡辺さん(052・761・5311)