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紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
📝【古豪巡礼】環境変化に部員減…停滞期を経て復権期す明石 「延長25回」伝統校の今(前編)
https://news.yahoo.co.jp/articles/3ea083bbe1c49ae0bb2124baef3100f6d22b16c4

スポーツニッポン新聞社では「古豪巡礼」と題し、かつて高校野球で一時代を築いた古豪の「今」に迫る。第1回は明石(兵庫)。春夏通算14度の甲子園出場、2度の選抜準優勝を誇り、1933年夏の甲子園大会準決勝では、中京商(愛知=現中京大中京)と球史に残る延長25回の激闘を演じた明高の現状とは――。

公立校とは思えないほど広大なグラウンドで、明石の野球部員たちは汗を流していた。普段は男女ソフトボール部、サッカー部などと共用するが、試合の際には両翼90メートル以上、中堅120メートルを悠々、確保できるという。内野部分は黒土が敷かれ、バックネット裏に室内練習場も備わる。一、三塁側には屋根付きのベンチまである。県立校で、これ以上の環境を求めることは、困難に違いない。輝かしい実績、OBたちのバックアップ…まさしく「古豪」の風景が、そこにはあった。

現役部員たちはバックネット裏にたたずむ石碑にあいさつしてグラウンドへと入り、こうべを垂れて全体練習を終える。「善闘記念碑」は明石高校野球部の歴史を、最も雄弁に物語る象徴的存在と言える。33年夏の甲子園大会準決勝。中京商(愛知=現中京大中京)との延長25回の激闘を記念し、翌34年3月に設置された。以来、今まで実に90年以上にわたり、グラウンド、そして後輩たちを見守っている。

野球熱の高い兵庫県内でも“野球どころ”として知られる。JR明石駅前の明石公園内に、明石城と並び立つようにそびえる明石球場は32年開場。90年を超えた今も兵庫大会のメイン球場の一つとして、そして全国高校軟式野球選手権大会の会場として、存在感を放つ。そんな土壌にもはぐくまれ、旧制明石中は30年春に甲子園初出場。以降、春夏通算14度、聖地に立った。32、33年には楠本保と中田武雄の両右腕を擁して、2年連続で選抜準優勝、夏の甲子園大会4強と躍進。戦後も春2度、夏4度、甲子園で「AKASHI」健在を示してきた。

 それが、春夏連続出場を果たした87年を最後に途絶えた。とはいえ、そこから一気に停滞したわけでもない。春の選抜につながる秋季大会は92年に準優勝して近畿大会に出場するなど、25年までに8強以上8度を数え、直近では14年に8強入りした。夏は92年8強、93年4強、04年16強。春季大会も5度8強以上に進出し、直近では12年に県3位で近畿大会に駒を進めた。だが甲子園には手が届かない。ブランク年数が伸びるほど、かつて、そのユニホームがまとっていた「強豪」のオーラは薄れていった。昨年は春の播但地区大会で初戦敗退し、夏も初戦の2回戦で敗れた。新チームも秋の播但地区大会で敗退し、県大会に進めなかった。

停滞には、総合選抜入試制度の廃止も無関係ではない。75年度から明石学区で導入された同制度では、一定以上の点数を取れば全員が公立校に合格できたが、07年度入試を最後に廃止。旧制中学の流れをくむ明石はそもそも人気が高い学校であることに加え、新たに導入された複数志願制の第2志望にも多く選択されるため、公表される倍率以上に実質倍率が高くなって入試難度が上がった。その結果、市内の有力中学生たちの入学数が減少。加えて、中学野球の競技人口減少も追い打ちをかけ、部員数は年々、減少の一途をたどった。

そして今。25年秋に結成された現チームは2年生3人、1年生17人の計20人で活動している。率いるのは、OBの松原史弥監督だ。高校卒業後、甲南大で地歴公民科の教員免許を取得し、母校へ帰ってきた。24年秋に監督就任したものの、体調不良のため一時的に退き、25年秋から改めて監督に就任した青年監督は言う。

「なんとか“明石高校で野球をやりたい”という子を増やしていけるように、魅力を発信しながら、伝統も発信しながら、いいところを、と。中学生にぜひ、ここでやりたいと思ってもらえるように活動を続けていきたいと思っています」

あの“熱”を後輩たちにも――。松原は現役時代に「AKASHI」のユニホームにかかる地元の大きな期待を、身をもって知った一人でもある。エースとして、12年春の近畿大会出場。くしくも明石球場が会場となった大会だった。「明石球場が満員になって…明石高校で野球をやっていて良かったなと。明石の温かみというのは、とても感じましたから」。満員に膨れ上がった明石球場で、OBを始めとした熱烈なファンの声援を一身に浴び、無形の力が備わった。その初戦で智弁和歌山を7―2で撃破。準決勝では藤浪晋太郎(DeNA)、森友哉(オリックス)らを擁し、その年の甲子園大会で春夏連覇を達成した大阪桐蔭に1―4で敗れたとはいえ、中盤までは互角にわたり合った。だから一層、思いを強くする。「生徒たちにも、あの景色を見せてあげたいと思っています」

                     =後編に続く=

▽兵庫県立明石高等学校 1923年(大12)、明石市立明石中学として創立。48年(昭23)の学制改革で現校名。硬式野球部は学校創立翌年の24年創部。30年春の選抜で甲子園初出場。32、33年春の選抜で2年連続準優勝。33年夏の甲子園大会準決勝では中京商(愛知=現中京大中京)と延長25回の激闘を演じた末、0―1でサヨナラ負けを喫した。以降も兵庫県内の強豪の一角を占めて春夏通算14度の甲子園出場を誇るが、春夏連続出場を果たした87年夏を最後に甲子園から遠ざかる。甲子園通算21勝14敗。主な野球部OBに楠本保(慶大)、中田武雄(同)、河西俊雄(阪神など)、永井智浩(ソフトバンク編成育成本部長)らがいる。現在の部員数は2年生3人、1年生17人(25年12月時点)。

📝【古豪巡礼】初の下級生主将誕生――伝統に新風を取り入れる明石 「延長25回」伝統校の今(後編)
https://news.yahoo.co.jp/articles/5a958f799d1de845257bb3b52269cab073ffa284

1924年創部で、100年以上の歴史を有する明石高校野球部。もちろん築き上げられた伝統を重んじるが、固執はしない。チームの根底には、変化を恐れない進取の気風が漂う。その象徴的な出来事こそが、同校初であろう下級生キャプテンの誕生だ。現チームの主将を務めるのは、中倉晴耀(1年)。松原監督は「1年生キャプテンはおそらく明石高校で初めてだと思います。聞いたことはありません」と話した。ただ、奇をてらったわけではない。「人格がすぐれていて実力も備わっており、何より努力家。2年生も含めて全員が納得して選ばれたキャプテンです」と抜てきした理由を説明した。中倉本人は「はじめに(主将就任を)聞かされたときは、驚きの方が大きかった」と振り返る。

名門が復権を期す上で、最もふさわしい人選でもあるだろう。中倉は明石市内の大久保中軟式野球部時代に、兵庫県代表として「全日本少年春季軟式野球大会」に出場した経験を持つ。守っては捕手兼投手、打っても中軸を担い、初戦で日章学園中(宮崎)に3―2で勝利し、2回戦で作新学院中等部(栃木)に1―5で敗れた。この「全国」経験こそ、復権を期すチームにとって最も必要な要素と言える。かつての明石で代々主力を張ってきた先輩たちのように、強豪校相手にも引け目を感じることなく対峙することができるからだ。高校入学後は、投手に専念しており、1メートル75、65キロの体格から最速127キロ(25年12月時点)を投じるオーバースロー右腕でもある。中京大中京OBの高石耕平部長も「細身ですし、まだまだ伸びると思います」と期待を寄せる。

そんな下級生主将は、現チームの持ち味を「自主性の強さかなと思います」と言う。たとえば選手間ミーティングでは、司会である自らが発言を促すまでもなく、建設的な意見が次々と飛び交う。全体練習後には、指示されるまでもなく、各自がそれぞれに課題を持って居残り練習に取り組む。中倉は「“野球バカ”みたいな感じの子が多いので」と頬を緩める。校訓とする「自治・協同・創造」、そして建学の精神である「自彊不息」を体現するメンバーがそろう。

新たな歴史を刻もうと汗を流す選手たちをバックアップする伝統のスローガンは、時代に即してフレーズを変えた。2010年頃までは『闘志なき者は去れ』という厳しい言葉がバックネットに掲げられていた。大所帯だったかつての明石高校野球部の部訓として、他校にも知れわたり、憧憬の念さえ抱かせた言葉だった。それを懐かしむ向きも多いが、令和の新時代を生きる球児たちは新たな合言葉のもとで白球を追う。『己を信じろ 仲間を信じろ』――。フレーズが変わっても役割は変わらない。これまで同様にバックネットから、少数精鋭で戦うチームを鼓舞する。

100年を超える時間を費やして培われてきた「伝統」。有形、無形、数あれど、その最たるものは言うまでもない。「人」だ。松原監督は「先輩方があっての野球部」と、事あるごとに部員に伝える。草創期の楠本保、中田武雄らが築いた土台の上に、数え切れないほどの部員たちが歴史を刻みつけてきた。そして、卒業後は野球界を始め、各界に飛び出していった。そんなOBたちが差し入れを手に、グラウンドに帰ってきてくれる。バットやボールなど用具を提供してくれる。練習試合の橋渡しをしてくれる。指導、応援もしてくれる。確かに、伝統校の「明石野球部」だから受けられる恩恵がある。

3年前の学校創立100周年を機に、かつて延長25回の激闘を演じた中京大中京との交流も復活した。神戸市出身で、中京大中京OBである高石部長(当時監督)が明石にいたことも“縁”になった。それも、人と人のつながりがあればこそだ。松原監督は「今までの先輩方がつないでこられた“ご縁”というのを折に触れて話をさせてもらっています。やっぱり“つながり”があるのが(明石の)素晴らしいところではないかなと。今までの先輩方がつないでこられた伝統の部分、感謝の気持ちを忘れないという部分は、生徒につないでいきたい」と言葉に力をこめる。

試合用ユニホームの左袖に縫い付けられたワッペン。その下半分は新制高校の校章で、上半分は旧制中学の校章だ。新旧二つを重ね合わせ、一つのデザインを形成している。連綿と歴史を紡ぎ続ける兵庫の古豪。中倉主将は「歴史があるので、それだけOBの方、OGの方がいると思う。僕たちが新聞に載れるように有名になったら、OB、OGの方々にも喜んでいただけるんじゃないかと思いながら日々、勝ちを目指してやっていきます」と目の色を変えた。明日の明石を背負い、日々更新される歴史と伝統を未来へとつなぐ。

⚾岩手さんへ
市和歌山のセカンドは山根クンですね。どうやらその後、桃山学院大を卒業して和歌山東のコーチをしているそうです。
どうしても痛恨のサヨナラ負けの場合は最後のシーンだけがクローズアップされがちですが、よくよく考えたら試合前のじゃんけんで勝って後攻を取れたらサヨナラ負けの可能性は消滅するし、12回攻撃があって1点しか取れなかったのが最大の敗因だったかなと。

特に初回は無死1・3塁のチャンスがありながら2塁盗塁失敗でチャンスを逸したのが痛かったですね。相手が初出場校ゆえに初回から先制パンチを浴びせていたら主導権握ってそのまま逃げ切れた公算が高かったかなと。
生観戦していたときには、セカンドがアウトカウント間違えて1塁送球し3アウトと思って悠然とベンチに引き返す最中に事の重大さに気付いてその場でうずくまったようにしか見えなかったですが、、、、、あとでビデオ見たらバウンド高かったのでセカンドゲッツーは限りなく難しいと思われるし、ホーム送球しかないと思いますが、ゴロゴーで3塁走者突っ込むので、タッチプレーだとやはり間に合わなかったかなあと・・・・・。

サヨナラボークはTV観戦でしたが、いったい何が起こったのかワケが分からなかったですね・・・。あれだけ長く延長続いていたし、ボークがなくてもタイムリーヒットや犠飛などで決着はついていたと思いますがあっけない幕切れでしたね。球審もあえて見過ごしてあげる教育的配慮があっても良いかと思いますが、、、、、

中には自分が目立ちたいからか?『反則投球』などめったに起こらないコールを発する球審もいるにはいたけれど・・・・・。

貝塚ボーイズはたしかに川端選手のお父さんが監督していたそうですね。年末にネット記事で観ましたが、真鍋前監督と川端一家4人が大阪の飲食店で毎年食事会をしているようでほのぼのとしてますね。
和歌山には県立高校はたいがい野球部専用バスを所有しているし、他県に比べたら野球部は相当恵まれていると思いますよ!
2026/01/10(土) 22時21分33秒 No.2236 編集 削除