自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
🎤「母ちゃんが死んだぞ!!」犠牲になった❝名将❞ 三重・四日市
https://news.yahoo.co.jp/articles/d24fea384065d17835af0403672e2fc6ac48261e
11月5日、四日市公害と環境未来館で、愛知県立大学の学生を前に講師を務めたのは、湯浅和也さん(66)。
川北館長から「海星高校の湯浅さんといったら知らない人はいなかった」と紹介された湯浅さんは、海星高校野球部の元・監督。チームを春夏あわせて8回、甲子園に導きました。
その湯浅さんは、四日市公害を体験していて、小学校時代をこう振り返りました。「正しいうがいの仕方を学びました。小学校に入ってから、ずっと(校内で)うがいをしていました。先生が常に『うがいをしなさい』と言っていたことを、今でも覚えています」
母親は、四日市公害の認定患者でした。「笑顔が全くなかったです。常に苦しそう、悲しそうな顔をしていました。母のその時の気持ちはわかりませんが、溺れたような感じで息ができない…そんな苦しい姿しか記憶にありません」
母親は四日市市内の病院に入院しました。母親の愛情を感じたことはなかったと話す湯浅さんですが、忘れられないことがあります。
「小学3年生の時、雨の中、母ちゃんに会いたいと一人でバスに乗って、病院に見舞いに行きました。私は無口でしたが、母がにっこり笑って、タオルで私の顔を拭いてくれました。その時のあったかい手は今でも覚えています。母の友人が来て『よく来たね』と言ってくれたことも焼きついています」
家族の健康を気遣った父親は、鈴鹿市に引っ越す決断をしますが…。
「私が小学6年になった昭和46年12月、夜中に父親が『母ちゃんが死んだぞ!』と泣き叫びました。何時間も泣いていた父親の慟哭(どうこく)は一生忘れません。きょうだい全員で泣いて泣いて泣いて、深い悲しみの中で生活していました」
それから53年間、湯浅さんは、この体験を誰にも話しませんでした。「自分が愛情に飢えていたのかなと思っていたので、母が認定患者だったことは一切封印してきました。思い出さないように思い出さないようにしてきたんです。しかし、三重テレビとの出会いの中で、取材にも来てもらい、母の物語を紡ぐことができました。こうして母のことを話すということは自分の気持ちを解放することにつながり、気持ちが楽になりました」
湯浅さんは、講義を聞いた大学生に、こんな言葉を贈りました。
「四日市の空も海もきれいですが、こういった(公害の)過去があったんだとつなげていくのは私の使命だと思い、こういう機会に皆さんに話をしています」
自らの体験から出た言葉でしめくくりました。「犠牲はどの時代にもあります。今もいろいろな犠牲が出ていますが、それが少しでも少なくなるように、いい社会になるように願っています」
📝ベンチ外から甲子園V腕に 高校時代から見えた今井達也の反骨心
https://news.yahoo.co.jp/articles/00ddbc049b23220799c1fcbd6c2d49ec73a49e51
16年7月24日。全国高校野球選手権栃木大会決勝戦で、作新学院のエースだった今井を初めて取材した。70キロと細身だったが、昔ながらの投手らしい体形から、149キロの直球とスライダーで打ち取るスタイル。7回途中から登板し、打者8人から5三振を奪った。6連覇を決め、吠えた姿が記憶に残る。最後は三振を「狙った」と言った。
優勝を決めた前年夏の決勝でも登板したが、甲子園のマウンドに立つことはなかった。ベンチ外となったのだ。1年後にエース番号を背負い「あのマウンドで投げたくて1年間、練習をしてきた」と胸を張った。負けん気の強さは、当時から感じていた。その後、甲子園ではさらに凄い投手になり、頂点に立った。
今オフ、西武からポスティングシステムで大リーグに挑戦する。メジャー球団からも高い評価をされる右腕は「世界中が認めている選手。そういう打者から三振を取ってみたい。そういう選手にどうやって勝っていくか」と日本で対戦したことがないドジャース・大谷との真剣勝負を望む。チームメートになることよりも、倒したい選手。今井の頭はそちらの方が強いのだろう。
あの夏から9年。日本を代表する投手になった今井が、来年はメジャーのマウンドに上がる。できればドジャース打線相手に挑む姿が見てみたい。狙って三振を取るシーンも、楽しみにしたい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d24fea384065d17835af0403672e2fc6ac48261e
11月5日、四日市公害と環境未来館で、愛知県立大学の学生を前に講師を務めたのは、湯浅和也さん(66)。
川北館長から「海星高校の湯浅さんといったら知らない人はいなかった」と紹介された湯浅さんは、海星高校野球部の元・監督。チームを春夏あわせて8回、甲子園に導きました。
その湯浅さんは、四日市公害を体験していて、小学校時代をこう振り返りました。「正しいうがいの仕方を学びました。小学校に入ってから、ずっと(校内で)うがいをしていました。先生が常に『うがいをしなさい』と言っていたことを、今でも覚えています」
母親は、四日市公害の認定患者でした。「笑顔が全くなかったです。常に苦しそう、悲しそうな顔をしていました。母のその時の気持ちはわかりませんが、溺れたような感じで息ができない…そんな苦しい姿しか記憶にありません」
母親は四日市市内の病院に入院しました。母親の愛情を感じたことはなかったと話す湯浅さんですが、忘れられないことがあります。
「小学3年生の時、雨の中、母ちゃんに会いたいと一人でバスに乗って、病院に見舞いに行きました。私は無口でしたが、母がにっこり笑って、タオルで私の顔を拭いてくれました。その時のあったかい手は今でも覚えています。母の友人が来て『よく来たね』と言ってくれたことも焼きついています」
家族の健康を気遣った父親は、鈴鹿市に引っ越す決断をしますが…。
「私が小学6年になった昭和46年12月、夜中に父親が『母ちゃんが死んだぞ!』と泣き叫びました。何時間も泣いていた父親の慟哭(どうこく)は一生忘れません。きょうだい全員で泣いて泣いて泣いて、深い悲しみの中で生活していました」
それから53年間、湯浅さんは、この体験を誰にも話しませんでした。「自分が愛情に飢えていたのかなと思っていたので、母が認定患者だったことは一切封印してきました。思い出さないように思い出さないようにしてきたんです。しかし、三重テレビとの出会いの中で、取材にも来てもらい、母の物語を紡ぐことができました。こうして母のことを話すということは自分の気持ちを解放することにつながり、気持ちが楽になりました」
湯浅さんは、講義を聞いた大学生に、こんな言葉を贈りました。
「四日市の空も海もきれいですが、こういった(公害の)過去があったんだとつなげていくのは私の使命だと思い、こういう機会に皆さんに話をしています」
自らの体験から出た言葉でしめくくりました。「犠牲はどの時代にもあります。今もいろいろな犠牲が出ていますが、それが少しでも少なくなるように、いい社会になるように願っています」
📝ベンチ外から甲子園V腕に 高校時代から見えた今井達也の反骨心
https://news.yahoo.co.jp/articles/00ddbc049b23220799c1fcbd6c2d49ec73a49e51
16年7月24日。全国高校野球選手権栃木大会決勝戦で、作新学院のエースだった今井を初めて取材した。70キロと細身だったが、昔ながらの投手らしい体形から、149キロの直球とスライダーで打ち取るスタイル。7回途中から登板し、打者8人から5三振を奪った。6連覇を決め、吠えた姿が記憶に残る。最後は三振を「狙った」と言った。
優勝を決めた前年夏の決勝でも登板したが、甲子園のマウンドに立つことはなかった。ベンチ外となったのだ。1年後にエース番号を背負い「あのマウンドで投げたくて1年間、練習をしてきた」と胸を張った。負けん気の強さは、当時から感じていた。その後、甲子園ではさらに凄い投手になり、頂点に立った。
今オフ、西武からポスティングシステムで大リーグに挑戦する。メジャー球団からも高い評価をされる右腕は「世界中が認めている選手。そういう打者から三振を取ってみたい。そういう選手にどうやって勝っていくか」と日本で対戦したことがないドジャース・大谷との真剣勝負を望む。チームメートになることよりも、倒したい選手。今井の頭はそちらの方が強いのだろう。
あの夏から9年。日本を代表する投手になった今井が、来年はメジャーのマウンドに上がる。できればドジャース打線相手に挑む姿が見てみたい。狙って三振を取るシーンも、楽しみにしたい。