自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」

ようこそいらっしゃいました。監督(管理人)の宏鈴法師です。当掲示板は全国どこの話題でもOKですのでどうぞ野球談義・よもやま話をお楽しみ下さい!なお、ご意見ご要望はメールでお願いします。悪しからずご了承くださいませ。


紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

編集済
本日、22時50分頃 無事に倉吉から帰ってきました。

ある程度、予想はしてましたが、本当に3日間熱かった!レンタサイクルたぶんハーフマラソン以上の走行距離走ったのではないかと。
特に初日の鳥取市の夜なんて日中よりもかなり熱く感じてしまった!!

今回のメインは倉吉市営球場だったので最終日の3日目が雨天中止になれば、ルートイン倉吉に延泊も視野に入れてましたが回避と。
惜しむらくは2日目の朝の雨、、、、、ずっと予報が悪く島根や鳥取西部の米子・境あたりは相当なゲリラ豪雨だったようで、、、、、

実は6時30分時点では「ヤマタSPは1時間遅らせて10時から3試合。倉吉は予定通り10時から2試合」県高野連HPで発表も7時20分頃だったか???雷雨のため、明日に順延と↓↓
あるいは15時頃までしつこく雨が降る予想でしたが、実際は9時過ぎには止んで陽射しが出て熱かった。

10時のチエックアウト ギリギリまで粘る覚悟で空とニラメッコして9時40分ヤドでレンタサイクル借りて6年ぶり2度目の鳥取砂丘そして初めての米子城跡を観光。

結果的に  初 日 ヤマタSPで観戦~とっとり出合いの森散策 
      2日目 鳥取砂丘~鳥取城跡観光 
      3日目 倉吉市営球場で観戦 

と鳥取を満喫できました。あの悪天候予報でまさか、3日間1度も傘の出番なく温存できるとは思ってなかったけど、、、、、昨日昼頃、砂丘の往復で霧雨に3度ほど遭いつつも大勢に影響なかったと。

そういうわけで、疲労困憊ゆえに試合結果などは明日以降埋めます・・・・・。

⚾一昨日の和歌山大会一次予選試合結果(3日目 1回戦)
上富田球場・・・・・・和歌山東-熊  野・神  島-橋  本・向  陽-和 高 専(全試合雨天中止)
マツゲン有田球場・・・初芝橋本9-1南部龍神・和歌山商6-4新宮新翔(10回タイブレーク)・紀 央 館-笠田農芸(雨天中止)

⚾一昨日の兵庫大会試合結果(初日 1回戦)
明石トーカロ・・・・須磨翔風3x-2神戸弘陵(11回タイブレーク)・育  英7x-0姫 路 西(7回)・市  川5x-4北 須 磨
ウインク球場・・・・甲  南1xー0(10回タイブレーク)・飾 磨 工3x-2姫南網干・赤  穂10ー9仁川学院(10回タイブレーク)
ベイコム球場・・・・兵 庫 工3-2市 西 宮・明石清水4-2三田学園
G7スタジアム・・・・神院大付4-2県 尼 崎(10回タイブレーク)・豊岡総合4-2香  寺
ReFill スタジアム・・・県 芦 屋2-0武庫総合・市 尼 崎2-0西 脇 工
豊岡こうのとり・・・六 ア イ12-0三田西陵・小 野 工8x-1相  生(8回)

⚾昨日の和歌山大会一次予選試合結果(4日目 1回戦 マツゲン有田球場)
熊  野9-5和歌山東・神  島2-0橋  本・向  陽10x-0和 高 専(5回)

⚾昨日の兵庫大会試合結果(2日目 1回戦)
ウインク球場・・・・三  木6-2龍  野・明 石 商10x-0神 戸 一(5回)
ベイコム球場・・・・報徳学園11x-1津  名(6回)・篠 山 産12-4県 伊 丹
G7スタジアム・・・・高  砂1-0神港学園・東 播 磨2-0姫 路 工
ReFill スタジアム・・・姫 路 東3-1尼崎小田・洲  本3-1明石城西
豊岡こうのとり・・・柏  原-三田松聖・関西学院-西 宮 東(全試合雨天中止)

⚾昨日の主な試合結果
大阪大会2回戦 大商学園7-0夕 陽 丘(7回)

⚾昨日の和歌山大会一次予選試合結果(5日目 2回戦)
上富田球場・・・・・・田  辺10-4和歌山工・箕  島5-3粉  河・日  高5-4那  賀
マツゲン有田球場・・・笠田農芸8-6紀 央 館・耐  久9-3星  林・近大新宮9ー1紀 北 工(7回)

⚾今日の兵庫大会試合結果(3日目 1・2回戦)
明石トーカロ・・・・・神国大付4-0神院大付・飾 磨 工4-0尼 崎 西
ウインク球場・・・・・六 ア イ5-2加古川東・明石清水4-3小 野 工
ベイコム球場・・・・・育  英6-4県 芦 屋・須磨翔風8-3豊岡総合
G7スタジアム・・・・・兵 庫 工5-0甲  南・彩星工科2-1市  川
神姫バスキッピー・・・柏  原4-2三田松聖・関西学院2-0西 宮 東

📝令和7年度 秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選 日程変更のお知らせ
https://www.whbf.jp/uploads/20250913161139_KZGp.pdf

令和7年9月13日(土)に上富田スポーツセンター野球場で予定されていた和歌山東対熊野、神島対橋本、向陽対和歌山高専の 3 試合と、マツゲン有田球場で予定していた紀央館対笠田・紀北農芸の試合は悪天候のため順延しました。 なお、新たな試合会場および試合開始時間は下記の通りとします。

        記
令和7年9月14日(日)
マツゲン有田球場
第1試合  9:00 和歌 山東 対   熊 野
第2試合 11:30   神 島  対   橋 本
第3試合 14:00   向 陽 対  和 高 専

令和7年9月15日(月)
マツゲン有田球場
第1試合  9:00 紀 央 館 対  笠田・農芸
第2試合 11:30   耐 久  対   星 林
第3試合 14:00 近大 新宮 対  紀北 工業

上富田スポーツセンター野球場
第1試合  9:00 田  辺   対  和歌山工業
第2試合 11:30 箕  島  対   粉 河
第3試合 14:00 日  高   対   那 賀

令和7年9月15日( 月)にマツゲン有田球場で当初予定されていた2回戦3試合は、
9 月17日(水)に紀三井寺公園野球場でおこないます。

                 以 上

📝「てめえら、舐めてると殺すぞ!」甲子園常連校で壮絶な上級生の暴力「寮生活はまるで監獄」…高校野球「消えた名門校」沖縄水産“80年代の悪しき風習”
https://number.bunshun.jp/articles/-/866779?page=1

“悲運のエース”の活躍で「沖水ブランド」が絶対的に
 
超高校級と謳われたエースの竹下浩二(元大洋)、仲田幸司がいた興南黄金期(1980~83年)が終焉を告げた途端、彗星のごとく現れたニューヒーローが沖縄水産の上原晃だった。140kmを優に超える速球で甲子園出場4回。中日ドラゴンズにドラフト3位で指名され、1年目にダブルストッパーとして活躍するも、怪我等で下降線を辿り、10年間のプロ生活を終えた。上原の名を口にすると、どうしても“悲運の投手”のイメージがつきまとう。1年夏の甲子園、あの一球が彼のその後を決めてしまった。上原は言う。

「高校に入ってまだ4カ月、栽(弘義)先生はよくあの場面で放らせたよな」

1985年夏の甲子園。3回戦の鹿児島商工戦9回裏5対5の1死満塁からサヨナラ暴投。「沖縄水産の1年生投手、暴投でサヨナラ負け」。全国にこれ以上ないインパクトを与えた。上原の出現により、沖縄の高校野球界は大きな分岐点を迎えた。同時に「沖水」のブランドが県内では絶対的なものになっていく。頂点を狙える本物のスターが現れ、沖縄県民は内地へのコンプレックスを完全に払拭する。90、91年の2年連続甲子園準優勝のメンバーの多くが、上原に憧れて野球を始めた。上原は懐かしそうに述懐する。

「沖縄のレベルを高めるには、1年生の夏にベンチ入りすることが必要だったんだと思う。俺なりに責任を感じていた。内地のレベルの高い野球にコンプレックスを感じていた時代だからこそ、考えて練習していたね。俺は常に自分を高めるために考えて動いていた。栽先生はそんな俺を見て自由に扱ってくれたんだと思う。高校1年夏のサヨナラ負けで甲子園への意識が強く芽生えた。新チームになって同級生たちが先輩の背番号を奪ってから、2年生の風当たりが強くなったけどね」

「てめえら、舐めてると殺すぞ!」監獄のような寮生活
 
この時代の全国的な強豪校はどこでもそうだが、沖縄水産にも情け容赦のない上下関係があった。寮生活はしばしば「監獄」に喩えられた。脱獄不可能と言われたアルカトラズ島の刑務所を想起させるほど、下級生にとってはまさに生き地獄だった。あるOBは、その内実を以下のように証言する。体育館裏では毎日誰かがロープで縛られてサンドバッグにされ、グラウンドでは1年生がボコボコにされる。学校内にはどこもかしこも暴力が蔓延っていた。上級生は挨拶代わりに寮の部屋で1年生を正座させ、ロッカーから刃渡り20センチもあるコマンドナイフを取り出してドスッと思い切り床に刺す。

「わかってんだろうな。てめえら、舐めてると殺すぞ!」問答無用の恫喝だ。この時点で大半の1年生がビビって縮こまる。
入部して1週間はひたすら殴られる。野球部で耐えていけるかを問う通過儀礼だ。この1週間のうちに言葉使い、礼儀、作法、先輩のフルネームを覚えなくてはならない。使える単語は「はい」「いいえ」「なんでしょうか」の三つだけ。かつての体育会系部活の“あるある”だといえるかもしれない。だからといって、こうした暴力や恫喝を美談にするべきではないだろう。

先輩の圧力「お前のエラーで負けたら殺すからな」
 
ロープを張って1年生同士を戦わせる“賭けボクシング”はまだ可愛いもの。上級生になると、通貨の概念が変わる。ガジュマルの葉っぱを差し出し「パンと牛乳買ってきてくれ」と下級生に渡し、言いつけ通りにパンと牛乳を買ってくると「お釣りは?」と手を差し出される。試合前に下級生のレギュラーに対し先輩が「お前のエラーで負けたら殺すからな」とプレッシャーをかける。アウトのボール回しで後輩が投げたボールがちょっとでもそれると、先輩からの刺すような視線が襲いかかる。怖いと思いながらも無視して試合に集中していると「おいっ! お前、何無視してんだ。殺すぞ!」。試合中だろうがなんだろうが“殺すぞ”である。ごくまれに下級生の堪忍袋の尾が切れて胸の辺りに思い切り投げたりすると、試合後には恐怖のミーティングが否応なしに始まる。

だが、気性の激しさは戦う男たちの集団としての鎧でもあった。宿敵・興南との試合でも、その獰猛さはいかんなく発揮される。試合前の整列時には互いに睨み合い、ボクシングの世界タイトルマッチかのごとく顔がギリギリまで近づく。「ちゃんと整列しろ!」という審判の声でやっと両軍が離れる。殺気立つ空気はグラウンドに蔓延し、ラフプレーも辞さない。度が過ぎるほどの、闘志溢れるプレー。激しさで胃がキリキリと軋む時代でもあった。

県内では無敵に…優秀な選手がこぞって入学
 
上原がいた1985年から87年の3年間で、4度の甲子園出場。沖縄水産の全盛期が始まった。優勝を狙って甲子園に乗り込んだものの、最高成績は86年夏のベスト8。格下相手だとワンサイドゲームになるのだが、実力が拮抗していると土壇場で逆転され、ベスト4の壁が崩せない。強さと脆さを併せ持つのが沖水野球だった。しかし県内では無敵を誇る沖縄水産に、優秀な選手たちがこぞって集まってきた。
上原が卒業した翌年の88年夏は「ミラクル沖水」と呼ばれ、悲願だった甲子園ベスト4進出を果たした。エースの平良幸一(元西武)が技巧でかわし、出場校中トップクラスのチーム打率でありながら機動力を駆使する緻密な野球を展開。剛と柔を兼ね揃えた、今までになかった沖水野球だった。

68年の興南高校のベスト4以来、20年ぶりとなる沖縄県勢2度目の快挙。沖縄水産が真の意味で全国の強豪校と肩を並べた瞬間でもあった。この年の京都国体でも沖縄水産は全員野球による快進撃を見せ、沖縄県勢では史上初となる全国の頂点に立った。後に99年のセンバツで沖縄尚学が沖縄県勢として初優勝したとき、栽は周囲にこう呟いていたという。

「俺は別に優勝してないわけじゃない。ただ甲子園で優勝していないだけだ」どこまでも負けず嫌いな男だった。

強烈なビンタ、容赦ない暴言…栽弘義のスパルタ指導
 
1990、91年と2年連続で甲子園準優勝を果たしたチームの素顔はまるっきり正反対だった。90年のチームは個性が強く、唯我独尊タイプのヤンチャな人間が集まったため、栽はあまり縛り付けず、野獣のようなパワーを最大限に発揮できるようにあえてタガを緩めて操縦した。ただ、89年世代が夏の県大会準決勝で敗れ、翌日の新チーム初日の練習を始める前、栽は2年生全員に強烈なビンタを食らわせている。前夜、寮で2年生が「決起集会」を開いたため翌日の練習時間に遅刻し、全員が浮腫んだ赤ら顔だったからだ。「貴様ら!」。栽の怒りは沸点に達し、グラウンドは地獄絵図と化した。
個性派集団の90年世代は、サイドスローからのシュート、スライダーを武器にしたエース・神谷善治を中心に甲子園で勝ち上がっていったものの、天理との決勝戦は1対0で惜敗。準優勝に終わった。

反対に91年世代は多くの選手がしっかり者で、集団としてまとまりやすい傾向があった。一方で、90年世代ほどの個性はなかった。栽は彼らにすさまじいスパルタ指導を施した。発奮させるつもりで、こんなことまで口にしたという。

「馬は育てりゃ駿馬になるが、牛は育てたって馬にはならんのだよ。おまえたちは弱い。最悪のチームだ。適当にやって引退しなさい」

2年連続準優勝を経験した91年世代のキャプテンで、現在は沖縄水産のコーチとして指導にあたる屋良景太が振り返る。

「上の世代が甲子園で準優勝したからって、すべてが凄いわけじゃない。俺たちの世代はここが足りないね。でも、いいところは残そうよ、って。先輩たちだってルーズなところが絶対あったんですよ。先輩たち、ここをちょっと疎かにしてたよね、と。ひとつ上の世代は個々のレベルが上だったので、それをどう補うかと考えたときに、チームワークだと思ったんです」

このチームワークの求心力となったのが、エースの大野倫だった。身長180cmを超える本格派投手として1年夏からベンチ入り。各中学の4番でエースだった同級生たちは、大野が入学時に投げた140km超のストレートを見て即座にコンバートを決めた。「倫がいれば、甲子園優勝も狙える」――そう思わせる希望の星だった。だが、その大野が悲劇に見舞われることになる。

                        <続く>
2025/09/15(月) 22時59分34秒 No.2013 編集 削除