自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」

ようこそいらっしゃいました。監督(管理人)の宏鈴法師です。当掲示板は全国どこの話題でもOKですのでどうぞ野球談義・よもやま話をお楽しみ下さい!なお、ご意見ご要望はメールでお願いします。悪しからずご了承くださいませ。


紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
⚾今日の和歌山大会一次予選試合結果(8日目 準決勝 田辺SP球場)
市和歌山12-0高 野 山(5回)・和 智 弁2ー1日高中津

⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(初日 1回戦)
上富田球場・・・・星  林7-2有貴南連・近大新宮4-2海  南・紀 北 工5-3串本古座
田辺SP球場・・・和歌山工6x-5和歌山北(10回タイブレーク)

⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(最終日 決勝戦 田辺SP球場)
☆☆☆ 10:00~ 市和 歌山-智弁和歌山

⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(2日目 1回戦)
上富田球場  
    09:00~  粉 河 -県和 歌山
    11:30~  日 高 -田 辺 工
  ☆ 14:00~  南 部 - 那 賀

田辺SP球場
 ☆☆ 13:00~  箕 島 - 桐 蔭

💢《広陵高校・暴力問題》謹慎処分のコーチに加え「残りのコーチ2人も退任」していた 中井監督、部長も退任で野球経験のある指導者は「34歳新監督のみ」 160人の部員を指導できるのか
https://news.yahoo.co.jp/articles/f3e3fad93e57965e589487acf2950d9e3e9065b7?page=1

日本学生野球協会は9月4日、都内で審査室会議を開き、寮内で起きた集団暴力問題や中井哲之前監督のパワハラ問題で揺れる広島県の名門私立・広陵高校の53歳のコーチに不適切指導と報告義務違反で、8月21日から11月20日まで3か月の謹慎処分を下した。8月21日という日付は、中井前監督とその長男である惇一部長の退任が発表された日である。

8月30日と31日に行われた秋季大会地区予選を前に、一連の問題を追及してきた私のもとに、ある情報が入っていた。野球部を離れたのは中井前監督および惇一部長だけでなく、他の3人のコーチも退任しているというのだ。つまり前体制のコーチで残ったのは、新監督となった松本健吾氏(34)だけということだった。
新チームとして初戦となる8月30日の柚木高校戦に20社30人という異例の報道陣が集まるなか、私は松本氏にコーチ陣の退任について質問するタイミングを窺っていた。だが、取材を取り仕切った広島県高等学校野球連盟は試合後の囲み取材を前にこう釘を刺した。

「質問の内容は本日の試合に関することだけでお願いします」

初回に広陵が8得点し、23対0(5回コールド)という一方的な展開となった試合内容に触れるべき点は少ないだろう。当然、最初に会見に臨んだ松本氏には、新体制に関する質問が集中した。しかし、青年監督は慎重に言葉を選ぶ……というよりも、余計なことを口にしないよう唇を震わせながら質問に答えていた。

「試合前は、選手に『いつも通りの試合をしていこう』と声をかけていました。今後も一戦一戦、一生懸命やっていこうと思っております。どなたからも応援してもらえるような野球部を目指していきたい」

野球部の暴力体質を改善したいとか、新たな伝統を築いていきたいとか、そういう前向きな話は皆無だった。唯一、会見に緊張感が走ったのは、騒動勃発後に寮のルールを変えるようなことはなかったのか──という質問が飛んだ時だ。

「特には……」

1月に集団暴力を受けた被害者A君の父親は、中井哲之監督の謝罪と共に、学校に対して再発防止策の徹底を求めていた。しかし、学校側に暴力事件の温床となった寮のルールを改善するような考えはまったくなかった様子だ。改めて広陵に質問状を送ると、「野球部の運営体制に関する取り組みについては、現在ある状況にとらわれず、また、内部の意見によるのでは独善的となるおそれがあることから、外部委員を交えた学校改善検討委員会の客観的なご意見を参考にする予定です」と回答。外部の意見に耳を傾けながら、改善すべき点を探していくという。

なぜ34歳コーチが監督に指名されたのか
 
そもそも、なぜ中井前監督の後任として、34歳の松本氏が指名されたのだろうか。松本氏は惇一氏に次いで若手のコーチだ。経験豊富な先輩コーチやOBは多く、人選には困らないだろう。また、新部長にバスケットボール部の顧問で野球経験のない瀧口貴夫氏(64)が就任したことも大きな疑問だった。長期的な視野に立った人材登用ではなく、簡単に首をすげ替えることにできるその場しのぎの人事にも見えた。松本氏は言った。

「それは学校の判断ですので……僕は与えられた役割をただ全うするだけですので、それ以上は答えられません」

そして、本題である。私はその日、試合前のノックを注視していた。内野ノックは通常、監督が行い、外野ノックはサブノッカーが務める。サブノックは基本的にコーチが務めるものであり、まさか野球経験のない瀧口氏がサブノッカーを務めるとも思えない。ベンチ入りしている部長がノックを行わない場合、ベンチ入りしていないコーチがノックの時にだけグラウンドに降りてきてノックバットを手にするのが通例だ。3人のコーチのうちいったい誰がノックを打つのか……と見守っていると、この日の試合では選手がサブノッカーを務めていた。さらに翌31日の沼田戦でも同様だった。県大会出場を決めた31日の沼田戦(4対1で勝利)後に、その理由を松本氏に問うてみた。

「ベンチの中でノックが打てるのが選手しかいませんので、選手がノックを打っています」

30日の試合前には、ほんの一瞬だけ謹慎処分を受けたコーチの姿があり、1人のコーチは試合を見守り、もう1人のコーチは試合後の選手たちに労いの言葉をかけていた。私はその1人に対し、現在の立場について訊ねた。

「正確な人事は学校に聞いてもらいたいのですが……前体制の指導者で、現在の野球部に残っているのは松本だけですね」

両日の試合では、赤いベースボールキャップを被った3年生が試合を見守り(同校では学年によってかぶるキャップの色が異なる)、グラウンド整備なども手伝っていた。彼ら3年生が中心だった前チームは、甲子園1回戦の旭川志峯(北北海道)に勝利したあと、混乱を招いたとしてその後の試合出場辞退を8月10日に決定した。その日のうちに大阪から広島に戻った選手たちは、それぞれの地元に帰ることなく寮生活を続け、3年生は現在も練習にも参加しているという。

退任したコーチが「練習の見守り」を行う理由
 
しかし、夏の甲子園まで3学年をあわせた部員数は163人(そのうち女子マネージャーが11人)だ。それだけの数の部員に対し、指導者は松本氏と、野球経験のない瀧口氏だけでは安全面の管理や予期せぬケガが発生した場合の対応に十分な人数とはいえまい。3人のコーチの退任理由と、安全面で心許ない現状への対応策を学校に尋ねたところ、以下の回答だった。

「松本監督以外の者について、当分の間、指導から外れることとしております。なお、中井哲之、惇一以外の者は、安全管理及び健康観察のため練習の見守りを行っております。3年生が公式戦から引退しており、2年生が活動している状況です」

中井親子だけでなく3人のコーチが退任していることを認める一方、「練習の見守り」役として練習に帯同しているという。結局、いずれコーチに復帰することを見据えながら、批難が集まる現時点では一時的にコーチの立場を外れているということだと感じられる。そう考えると、中井前監督や惇一氏の復帰も想定されているのではないかと勘ぐってしまうのだ。
30日、31日の試合では謹慎処分を受けていない2人の元コーチが選手たちに試合の運営が滞らないよう指示する姿もあった。30日には謹慎処分を受けた元コーチも姿をみせていた。日本学生野球協会から3か月の謹慎処分が下ったコーチは、いくら技術指導などはしていないとはいえ、試合会場に姿を見せることは許されるのだろうか。

広陵高校は今年1月に寮で起こった集団暴行事件に関して、改めて第三者委員会を発足し、再調査することを決定した。結論が出る時期について尋ねると、「本校の調査では今年1月に複数人がそれぞれ暴行をした事実を認定しておりますが、調査方法、調査機関については組織された委員におまかせしており、これから開始する委員会についても同様です。結論の時期については承知しておりませんし、本校から希望を申し上げることも不適当と考えております」との回答だった。

A君が被害に遭った事件で第三者委員会の焦点となるのは、中井哲之前監督からの暴言やパワハラがあったかどうか、だろう。中井前監督の口から謝罪や経緯の説明がないまま第三者委員会の結論が野球部の当初の主張と食い違うようなことがあれば、中井前監督が高校野球の現場に復帰する未来はまず描けないだろう。

☟砂利で正座、入学前なのに…監督から「ピッチャーはクビ」 強豪校の厳しすぎた“指導”
https://news.yahoo.co.jp/articles/70297d7afd60cfc943838820ea9d02ec81d78e4e?page=1

羽田耕一氏は高校で投手から野手に転向

元近鉄内野手の羽田耕一氏は1969年、兵庫・三田学園に進学した。尼崎市立若草中ではエースとして近畿大会準優勝。高校でも投手を続ける気持ちでいたが、当時の日下隆監督から早々に野手への転向を命じられたという。2年先輩に山本功児内野手(元巨人、ロッテ)、1年先輩には淡口憲治外野手(元巨人、近鉄)がいるなど、チームのレベルも高かった。「まぁ、プロ養成みたいな感じですかねぇ」と振り返った。

羽田氏は若草中軟式野球部時代に近畿大会準優勝したエース右腕だが、チームメートにも逸材が揃っていた。「北陽さんからレギュラー全員来ないかという話があったと聞きました」。1966年に夏の甲子園初出場を果たした北陽(現・関大北陽)からの誘いに気持ちが揺れ動かないわけはなかったが、最終的に選んだのは1967年春の選抜に初出場、羽田氏が入学直前の1969年春の選抜にも2度目の出場を決めていた三田学園だった。

「監督の日下さんが僕の父親(正美さん)と小学校時代の同級生という間柄でね。それで行けって言われて……。そんな感じで決めました。日下さんは近畿大会を見に来られていて声をかけてくれた。(若草中からは)僕とキャッチャーとサードが三田学園に行くことになりました」。監督と父親の縁があったからこその選択。中学時代同様に、まずは投手としてスタートしたが、いきなり野手転向を命じられた。

「まだ入学する前でしたね。1月の雨の日だったかな。室内のブルペンで投球練習をしていたら、監督が『もうええ』って。理由は何も言われなかったけど、ピッチャーはクビということで……。一緒に(若草中から)入った同級生のサードがピッチャーになった。僕と入れ替わったんです」。結果的に羽田氏は野手として力を発揮し、中学時代の三塁手から投手に転向した甲斐富士男投手はのちにエースとして活躍し、コンバートは成功する。

「まぁ、僕もピッチャーか野手か、どっちで行こうかなぁというのはあったんでショックはなかったですけどね」。当時の三田学園のレベルは高かった。「日下さんが監督になってからプロから声がかかるような選手が毎年いたんですよ。(元阪神レジェンドの)藤村富美男さんの息子さん(で内野手)の藤村雅美さんは僕が入学前の(1967年)ドラフトで(東京オリオンズから5位)指名された。拒否して法政大に行かれましたけどね」。

同じ1967年ドラフトでは吉岡邦広投手が6位指名で東京入り、安井智浩外野手は阪急に10位で指名された(交渉権放棄で法大進学)。羽田氏が入学してからも、その傾向が続いた。「僕が1年の時の3年は山本功児さん。(1969年ドラフトで)南海に(3位)指名されたけど、拒否して法政に進んで、そこから本田技研(鈴鹿)に行って(1975年ドラフト5位で)巨人。僕の1年上の淡口さんも(1970年ドラフト3位で三田学園から)巨人に行きましたしね。あの当時はなんかプロ養成みたいな感じでしたかねぇ……。きつかったですけどね」。

打撃に力を入れたことがプラス、強豪校で1年から頭角
 
尼崎市出身の羽田氏だが、野球部での練習時間を考えて自宅からの通いではなく、敢えて寮で生活した。「門限は一般学生が18時で、野球部は21時くらいだったかな。1分でも遅れると寮監の先生の手が飛んでくるんです。そういうのも厳しかったですよ」。今はもう完全アウトの厳しい上下関係もあったという。「根性野球っていってね。今じゃ通用しませんけどね。砂利のところで正座したり……。よっぽど体が強くないとね」。

先輩もいろいろだった。「高校の時、山本功児さんとは挨拶するくらいでしたけど、優しいんですよ。説教された記憶もないです。でもいるだけで怖い。そんな感じでしたね。淡口さんは説教が好きじゃなかった。(自宅からの)通いだったから、(後輩に)そんなことをするよりも早く帰りたかったでしょうしね。もちろん説教が好きな先輩もいましたけどね」。そんな日々を過ごしながら、羽田氏は1年夏の大会からベンチ入りした。

「入った時は、すごい先輩ばかりだし、試合には出られないなぁって感じていたんですけど外野手として背番号をもらった。16番だったかなぁ」。投手から野手に転向し、打撃により力を入れたのがプラスになった。その年の春の選抜に出場した強豪チームで1年から頭角を現した。夏の兵庫大会、4番・山本功児内野手を擁する三田学園は準々決勝で滝川に0-1で敗れ、春夏連続での甲子園出場はならなかったが、その試合でも羽田氏は代打で出場し、そのまま左翼の守備に就き、3打数1安打だった。

「あまり覚えていないけど、ヒットはたまたま相手ピッチャーが僕のスイングにあったんじゃないですかねぇ」と笑みを浮かべながら、こう続けた。「1年ですからね。もう必死なんですよ。だから、その頃の記憶って飛んでしまっているんですよねぇ……」。とはいえ、やはり1年時から抜きん出たものはあったのだろう。2年生では三田学園の「4番・遊撃手」として春の選抜に出場する。

📝「100人いた野球部員が15人まで減少」高校野球“消えた名門”箕島高校の今…地元の人が「昔は強かったみたいですね…」甲子園優勝4回、奇跡の公立校に何が?
https://news.yahoo.co.jp/articles/b1944e661c6b956938ccc22d467c7aa1c3e87f3b

人口2万5000人ほどの和歌山県有田市。ここに、かつて日本で一番強い野球部があった。10年ほど前は100人近くいた野球部員が、一時12人まで減った。最後に甲子園に出たのは13年前……名門・箕島高校はなぜ勝てなくなったのか?

かすかに海のにおいがした。箕島駅を出て南に直進し、有田川にかかる安諦橋の上で河口側に目を向ける。紀伊水道はうっすらとしか見えないが、川に沿って潮風が漂ってくるのを感じた。国内有数のみかんの産地として知られる和歌山県有田市。その中心部にあたる箕島に、かつて高校野球界を席巻した名門校がある。和歌山県立箕島高等学校。春3回、夏1回の全国制覇を果たし、1979年には公立高校として史上唯一の甲子園春夏連覇を達成した。率いたのは名将・尾藤公。野球部OBも錚々たる顔ぶれで、通算251勝の東尾修、元メジャーリーガーで現千葉ロッテマリーンズ監督の吉井理人をはじめ、数多のプロ野球選手を輩出している。

「高校野球史上最高の試合」
 
ひとつの試合が、いまも奇跡として語り継がれている。1979年8月16日。16時6分にプレイボールした夏の甲子園3回戦で、センバツ王者の箕島は石川県代表の星稜と対戦した。1対1で突入した延長戦。のちにプロ入りする石井毅(現:木村竹志)と嶋田宗彦のバッテリーを擁した箕島は、12回表と16回表に星稜の勝ち越しを許す。しかし裏の攻撃で二度にわたってツーアウトからのホームランで同点とする。二度目のホームランの直前には、キャッチすればゲームセットのファウルフライを星稜の一塁手が転倒して捕りそこねる信じがたい幸運もあった。時計の針は20時を回ろうとしていた。3対3で迎えた延長18回裏。1死一・二塁からサヨナラタイムリーが飛び出し、3時間50分の死闘は箕島の勝利で幕を閉じた。18回を投げ抜いた石井の球数は257球、対する星稜の先発・堅田外司昭の球数は208球。甲子園球場の投光器から降りそそぐ二色の光のもとで、野球というスポーツが生み出しうるあらゆる感情が交錯していた。

のちに「高校野球史上最高の試合」と称される一戦を制した箕島は、その勢いのまま春夏連覇を成し遂げる。劇的という表現さえ陳腐に思えるような、途方もないドラマだった。ノンフィクション作家の山際淳司は、この試合を題材に「八月のカクテル光線」(初出:『Sports Graphic Number』1980年8月20日号「465球の奇跡」を改題)を執筆した。山際はこう記している。

《それは真夏の出来事だった。夏でなければ起きなかったかもしれない。夏は時々、何かを狂わせてみたりするのだから。》

狂っていた「何か」の代償を支払うかのように、翌年以降、箕島は神がかり的な勝負強さを喪失した。1979年の夏を最後に、全国の頂点に立っていない。最後の甲子園出場は2013年の夏。1回戦で山梨県代表の日川に2対4で敗れた。

「昔は強かったみたいですね…」
 
近年の状況はさらに苦しい。2023年夏の和歌山大会2回戦で勝利して以降、2025年の春季大会まで公式戦6連敗。全国大会や近畿大会への出場はおろか、和歌山県内でも勝てない。全盛期に約100人いた野球部員の数は、2023年には一時12人まで減少した。今年も夏の県大会を終えて3年生が引退した時点で、部員数はわずか15人。苦境はなおも続いている。かつての名門に、いったい何があったのか。

箕島駅から徒歩圏内の日用品を扱う個人商店で、往年を知る女性店主に話を聞いた。尾藤公監督と同時期に箕島高校に在籍していた後輩だという高齢の店主は、春夏連覇を達成したあの夏の空気をはっきりと記憶していた。

「そらすごかったねえ。駅前からパレードやって、このあたりの人らがみんな集まって。何人おったんやろうね。あれは忘れられん。甲子園にも何度も行きましたよ。あのころ、箕島の野球熱はすごかった。いまじゃ考えられんけどね」

駅北側の山の斜面に広がるみかん畑の緑は、おそらく半世紀前とそう変わりないだろう。だが、あの奇跡から46年後の夏、箕島の街にはパレードの余韻も残滓も見当たらない。駅と有田川を結ぶ箕島停車場線の人通りはまばらで、シャッターを下ろした店も多い。どこかの民家の軒先にかけられた風鈴の音さえ聞こえてくるような静けさと、不釣り合いに強烈な夏の陽射しに焦りを覚えて、目についたカフェに入る。注文したアイスコーヒーを待ちながら、先の店主よりもはるかに若い世代の店員に「箕島といえば野球、ってイメージはありますか?」と問いかけてみた。

「昔は強かったみたいですね。でも、リアルタイムでは全然知らないんです。有田市出身なんですけど、野球もあまりわからなくて。ごめんなさい」

テイクアウトでコーヒーを頼んだだけのよそ者に「熱中症、気をつけてくださいね」と冷たい水を供してくれた親切心に感謝しながら、同時に寄る辺ない気持ちになる。およそ半世紀も前のことなど、それ以降に生まれた世代は知らない。知るはずもない。1989年生まれの筆者にも、当然ながら箕島が強かったころの記憶はない。NHKの甲子園中継の合間に挿入される「白球の記憶」と、そこに映し出される「尾藤スマイル」、いくつかの関連書籍、実感のわかない資料的な事実。おおまかにいえば、それらが箕島について知っていることのすべてだった。

現監督に聞く「箕島はなぜ勝てなくなった?」

「たしか少年野球をはじめたばかりで、練習帰りやったかな。まだ野球の“や”の字もわかっていないころやったんですけどね。いまも鮮明に覚えてますよ」

箕島高校野球部現監督の北畑清誠は、1979年のあの夏の日をたしかに記憶していた。有田市に隣接する有田郡有田川町出身、1971年生まれの54歳。小学2年生だった北畑が甲子園の中継にチャンネルを合わせたとき、すでに日は沈んでいたという。「そう、ナイターでね。たぶんもう終盤やったと思います」当時の北畑少年が、その試合をどれほど特別な記憶として胸にとどめていたのかは定かではない。それでも、となり町にある高校の「日本一の野球部」に憧れを抱くには十分だった。尾藤監督の箕島で野球をやることは、中学時代まで有力な選択肢であり続けた。
だが高校受験にあたり、鉄工所を営む父に「野球でメシは食えんど」と釘を刺された。進学先に選んだのは、学力面や進学実績において箕島よりも優れていた有田郡湯浅町の耐久高校だった。この1852年創立の伝統校がのちに箕島の“競合相手”になることなど、このときの北畑には知る由もない。

日体大を卒業し、有田中央と母校の耐久で監督を経験した北畑は、2019年に箕島OB以外で初めて同校野球部の監督に就任した。野球の原体験ともいえる箕島に、巡り巡って指導者として携わる。情熱は疑うべくもない。OBではないとはいえ、いや、むしろOBではないからこそ湧き上がる使命感もあるだろう。それでも聞かなければいけない。「箕島は、なぜ勝てなくなったのですか?」と。

              <続く>

⚾岩手さんへ
審判員の判定・・・云々の試合は「おかやま山陽ー玉野光南」しか考えられないですね!あんなのしょっちゅう起っていたらたまったもんじゃあないですよ!!
真夏のお昼前にプレー中断50分して両アルプスの関係者たちがよく倒れなかったもんだと感心します。

雨天中断や選手治療で試合が止まるのは仕方ないですが、あれは現場で観ていて収拾がつかなかったし、玉野光南はまだおとなしく引き下がったと思いますが、長澤監督がいた頃の創志学園だったらナイター点灯していたかも?!
広島新庄も迫田監督の弟さんがいた頃に1時間20分程度抗議して中断したらしいし、10数年前の秋に「明石商ー加古川北」の試合でサヨナラホームランか?エンタイトルツーベースか???で大混乱して50分中断して最後は加古川北が整列拒否して強制終了ということも・・・あの日僕は明石で観戦していたので、姫路に行っていればなあと・・・。ただ、あの日もかなり熱かったので長期中断のちに第2試合観戦だと相当疲れたでしょうから・・・・・・。

あとは渡辺監督がいた頃の横浜がセンバツで関東一相手にスクイズ成功と思わせて、ホームベース空過、アウト判定で抗議。あとは横浜スタジアムで振り逃げ3ランもありましたね。

和歌山は明日が新人戦決勝。互いに手の内を隠すか?ガチンコで勝負するか?分かりませんが、二次予選決勝まで当たらないので真剣勝負してほしいところです!
2025/09/06(土) 22時16分42秒 No.1998 編集 削除