自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(8日目 準決勝 田辺SP球場)
☆☆ 09:00~ 市和 歌山-高 野 山
☆ 11:30~ 日高 中津-智弁和歌山
⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(初日 1回戦)
上富田球場
☆ 09:00~ 有貴南連合- 星 林
☆☆ 11:30~ 近大 新宮- 海 南
14:00~ 串本 古座-紀 北 工
田辺SP球場
14:00~ 和歌 山工-和歌 山北
📝令和7年度 秋季兵庫県高等学校野球大会組み合わせ
http://www.hyogo-koyaren.or.jp/homepagedata(R7)/25aki.pdf
💢松本国際高野球部員、嫌がらせで寮の部屋の壁に焼き肉のたれつける…高野連には6か月間報告せず
https://news.yahoo.co.jp/articles/0b4421fb2de6b4df93ab82860b93dcb1bbdd261f
日本学生野球協会は4日、松本国際高校の野球部長で40歳代の男性教諭を3か月の謹慎処分にしたと発表した。同校の生徒寮で今年1月、当時2年生だった野球部員の部屋の壁に、別の部員が嫌がらせで焼き肉のたれをつける事案が起きたが、学校側は7月まで日本高校野球連盟に報告しなかった。
校長「部の中で決着をつけてしまった」
高野連によると、嫌がらせを受けた部員の保護者からの訴えを受け、学校側に報告を求めたところ、7月に報告があった。高野連側は、日本学生野球憲章違反が疑われる事案について速やかに報告するよう求めており、同校の小西信久校長は「部の中で決着をつけてしまった」と陳謝し、「今後はガバナンスを強化し、再発防止に努める」とした。
同校によると、この事案に関わった部員3人は、同憲章に違反したとして高野連から7月に厳重注意された。同校も、部員3人に対し、2週間の部活動停止などを命じたという。同校は、今年の夏の全国高校野球選手権県大会でベスト4になるなど強豪校として知られている。
💢野球部コーチ処分 金沢学院大と附属高 暴力、不適切発言で謹慎
https://news.yahoo.co.jp/articles/ffa271f4abd0bb0b7633f614e5320d34ceff2d9f
日本学生野球協会は4日、金沢学院大野球部で暴力、金沢学院大附属高野球部で不適切発言があったとして、両校のコーチ各1人に謹慎処分を科したと発表した。
関係者などによると、金沢学院大では、コーチが部員に暴力を振るった。報告義務違反もあったとして8月6日から2カ月の謹慎処分とした。
金沢学院大附属高では、コーチが部員に対して不適切な発言をした。報告義務違反もあり、コーチは7月9日から半年間の謹慎となった。今月6日に始まる北信越高校野球石川県大会には、夏の選手権大会から監督、コーチを変更して臨む。
金沢学院大は取材に対して当該事案の詳細は明かさず、「いずれの処分も重く受け止め、再発防止に向けて指導を徹底したい」とコメントした。
📝左投げの捕手&三塁手、ダンゴムシ打法...25年前、甲子園で異彩を放った個性派集団・那覇高校の戦い
https://news.yahoo.co.jp/articles/15483a4aafb2837de0704abf96f89f589dedc83a
超個性派集団・那覇高校の夏(前編)
25年前の夏、甲子園に異彩を放ったチームがあった。那覇高校──左投げキャッチャーに左投げサード、奇想天外な打法......セオリーを覆す個性派集団は、観客の度肝を抜き、甲子園の球史に刻まれた。
【まるで野球漫画から飛び出してきたよう】
「もう、あれから25年経つんですね。あの夏は楽しかったですね」
精悍な顔つきの長嶺勇也は、しっかり目を見据えて言った。この時は、「あの夏」という言葉の本当の意味を知らず、普通に聞き流していた。2000年夏の甲子園に出場した沖縄県代表・県立那覇高校は、とにかく異端の存在だった。1世紀を超える甲子園の歴史のなかで、これほどまでに好奇の目を向けられ、一挙手一投足に注目を集めた高校がほかにあっただろうか。
2年生の左投げのキャッチャー・長嶺勇也に、左投げのサード・金城佳晃。3年生には、極端にかがんで構える「ダンゴムシ打法」の比嘉忠志や、左足を大きく上げてアッパースイングのように豪快に振り切る宮里耕平などがいた。セオリーを覆す、まるで野球漫画から飛び出したような個性派選手たちが並び、甲子園を大いに沸かせた。
「もともとはピッチャーだったんですが、高校に入って肩を壊して外野をやっていたんです。同級生の成底(和亮)がいいピッチャーだったので、自分がうまくリードすればもっとよくなると思い、監督に進言してキャッチャーへコンバートしました。
キャッチャーがファーストへ回り、ファーストの比嘉さんが押し出されるように代打専門になった形です。ちょうどこの頃から左打者も増えてきたので、左投げのキャッチャーだからといって、スローイングの際に特に不利だと感じたことはありませんでした」
長嶺はさもありなんといった感じでと話してくれたものの、栄光ある甲子園の歴史において、左投げのキャッチャーと左投げのサードが同時に登場したのは、後にも先にも那覇だけである。
【短時間で質の高い練習を追求】
那覇は、旧制二中として県下有数の進学校であり、戦後はアメリカ軍の砲撃で球場が壊れたため、県大会が那覇高校のグラウンドで開催されるほど由緒ある学校でもある。進学校ゆえに、練習時間は夏場でも多くて3時間、冬場は2時間しかとれない。当時は、沖縄水産や沖縄尚学のツートップに加え、浦添商や中部商といった商業系の公立高校が奮闘し、県内を席巻している時期だった。
そんななかでの那覇の大躍進は、なんといっても外部コーチから監督に就任した池村英樹の手腕によるところが大きい。とにかく2年半という限られた時間の高校野球で、那覇高校の設備や練習量を考慮すると、短所を矯正して勝負に耐えうる準備まで手が回らない。そこで池村は、短所を補うよりも長所を最大限に生かす方針を採用。バッティングも、コツコツ当てるスモールベースボールではなく、バットにボールを乗せて遠くへ飛ばすスタイルを推奨した。
「強豪校が10の練習量で1を知るなら、ウチは2の量で1を知れば対等だ」と選手たちに説き、限られた時間のなかで効率化を徹底するため、準備の大切さを叩き込んだ。
グラウンドを全面使える時間が1時間しかない場合、残りの時間をどう有効活用するかを自分たちで考えた。ソフトボール部やラグビー部が使っている時間帯でも、内野は使用可能なため、内野ノックやバント練習をすぐに始められるように機敏な動きで準備をする。また、メンタルトレーニングにも余念がなく、リラックス効果を確かめるために練習試合では選手にガムを噛んでプレーさせたり、スポーツ飲料やプロテインなど、いいと思ったものはどんどん選手に提供した。水分補給にしてもわざわざベンチに戻る時間が惜しいため、コーチャーボックスやファウルゾーンに水を置いておき、自由に飲むことができた。すべては短い時間のなかで質の高い練習をやるためだ。
【沖縄水産を延長で破り甲子園出場】
夏の県大会が始まり、目標は「甲子園出場」と掲げていたものの、誰も本気で行けるとは思っていなかった。初戦の南部商に10対0で勝利すると、2回戦は具志川に8対2、3回戦は浦添に8対1。ここまでは勝ち進めると思っていたが、準々決勝で春季大会優勝校であり第1シードの中部商に6対2で勝ったことで勢いがついた。そして準決勝の相手は、前年の秋季大会準優勝の浦添商。
「準決勝の浦商戦で、ピッチャーの成底がケガをしたんです。背筋がボコッと膨らんで、まるでふくらはぎのようになっていました。試合は0対0だったので、『勝ち越すまでは監督に言わないでくれ』と告げられ、7回にようやく勝ち越して......結局、最後は継投して2対1で勝ちました。しかし、その後は『さあ、決勝戦をどうするか』という状況でした」
決勝は名将・栽義弘監督率いる沖縄水産。じつは那覇のエース成底は県内屈指の好投手だったため、那覇は栽から何度も練習試合を申し込まれていた。だが、甲子園出場はおろか、全国でも上位進出を目指す沖縄水産の前にいつも大敗を喫していた。決勝戦、那覇は二番手の豊原啓人が先発した。ツーシーム系の球が面白いように決まり、沖縄水産打線を封じていく。そして試合は3対0と那覇のリードで9回を迎えた。9回無死満塁からエースの成底が登板するも同点とされ、試合は延長に突入。それでも那覇は10回表に2点を勝ち越し、その裏を0点に抑えて勝利。夏の甲子園初出場を決めた。
優勝が決まった瞬間、三塁側スタンドにいた那覇高校の大応援団がいっせいに下に駆け寄り、フェンスを壊すという珍事が起こるほど、北谷公園野球場は歓喜の渦に包まれた。長嶺は言う。
「甲子園では対戦相手のことより、成底のケガが心配で......。ただ、幸いにも初戦が大会7日目になったことで、なんとか間に合いました」
エースが回復したことで、選手たちは気後れすることなく試合に臨めた。
【甲子園初戦で劇的勝利】
8月14日、甲子園での中京商(岐阜)との初戦、1回裏の先頭バッター宮里の足を大きく上げるバッティングスタイルを目にした観客たちは一様に高揚し始める。
「何が起こるんだ......このチームは!?」
そして1回裏、那覇が守備につき、ボール回しが始まった瞬間、観客席から「おおぉー」とどよめきが起こる。左投げのキャッチャーとサードを、甲子園で初めて目にしたからだ。当時サードを守っていた金城はこう語る。
「甲子園練習の時からメディアにずっと同じ質問をされていたので、試合当日も注目されるんだろうなと覚悟していました。中京商戦では、気がついたらもう5回を過ぎていて、あっという間に時間が経った感覚でした。延長11回までもつれましたが、守備機会はたったの1回だけでした」
延長10回裏の中京商の攻撃。二死三塁と一打出ればサヨナラという場面で、この試合初めてサードに飛んできたゴロを金城が軽快にさばき、クルっと反転してアウトに仕留めると、スタンドから大歓声が沸き起こった。そして11回表、那覇は二死二塁から中京商のショート・松田宣浩(元ソフトバンクほか)の悪送球で決勝点を奪い、2対1で勝利した。だが、次の育英(兵庫)戦は、長嶺をはじめケガ人が続出し、ベストメンバーを組むことができなかった。2対7と5点リードされて迎えた7回裏、二死満塁で代打に出た比嘉が当時を振り返る。
「歓声がすごいなと感じていました。グラウンドがちょっと揺れていましたからね。構えた瞬間、『おおーっ』とちょっと笑い声が起きたと、あとで聞きました」
唯一無二の「ダンゴムシ打法」に観客は度肝を抜かれ、つい笑いも誘ってしまったが、強烈なインパクトを残した。
結局、満身創痍の那覇は育英に2対12と大敗。それでも個性派集団の那覇は甲子園の歴史に爪痕を残した。そして沖縄に戻り、長嶺らを中心とした新チームで始動した矢先、事件は起こった。
つづく
📝「もう一度、甲子園へ」の希望が絶望に変わった日 伝説の超個性派集団・那覇高校に起きた悲劇
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2025/08/21/post_93/?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2025%2F08%2F21%2F25%2F&utm_medium=referral
超個性派集団・那覇高校の夏(後編)
左投げのキャッチャーにサード、極端にかがんで構える「ダンゴムシ打法」など、セオリー度外視の個性的なスタイルで、2000年夏の沖縄大会を勝ち抜き、甲子園でも1勝を挙げた那覇高校。甲子園が終わり、沖縄に戻ると新チームが発足した。新キャプテンとなった左投げのキャッチャー・長嶺勇也のもと「もう一度、甲子園へ」を合言葉に、チームの結束力は高まっていた。だが、その矢先、思いもよらぬ事態が野球部を襲った。
【甲子園へと導いた監督の突然の解任】
「汚ねえなぁ」キャプテンの長嶺は校長室をあとにし、そう呟いた。
甲子園が終わり、沖縄に帰ってきた那覇高校野球部はエースの成底和亮と長嶺の甲子園バッテリーが残ることから、新チームにも大きな期待が寄せられた。しかし、秋季大会は、長嶺の骨折など主力数名のケガによりベストメンバーが組めず、準決勝で宜野座高校に3対5で敗れ、翌年春の選抜への道は断たれた。さらに追い打ちをかけるように、監督の池村英樹が突然解任されたのだ。
「その年から沖縄水産で部長をしていた親川(聖)先生が来られていたので、学校側としては夏の大会が終わったら、親川先生に監督をやってもらうというのが既定路線だったようです。でも、池村さんで夏の甲子園に出場したからすぐに替えるわけにもいかず、秋季大会の結果を見て更迭したんです。せめて僕らの代だけは、最後の夏まで池村さんに監督をお願いしたいと、校長に何度もかけ合ったのですが......」
長嶺は悔しさをにじませながらそう言った。2年生20人の意見をまとめて、キャプテンの長嶺は何度も校長に直談判し、「わかった」と返事をもらったが、現状は何も変わらず。業を煮やした長嶺は、ポケットにICレコーダーをしのばせて話し合いに行ったこともあった。
「秋季大会は骨折で試合には出場できなかったんですけど、ベンチから見ていてチームがまとまっているのが手に取るようにわかったんです。夏の県大会はベンチ入りするも、甲子園では外れた4人のメンバーは、大会期間中に洗濯やボール拾いしかしてないはずなのに、ものすごく上達しているんです。いい意味で『オレたちは強い』と勘違いし、自信がみなぎっていました。甲子園の力というのを、まざまざと感じました」
アップする際のTシャツもバラバラだったのが、誰からともなく「みんなで揃えようぜ」となり、自然と一致団結するようになっていた。選抜の道は断たれたが、「最後の夏はもう一度甲子園へ」と希望を膨らませていただけに、池村の解任の知らせはまさに夢を打ち砕かれたような衝撃だった。
【意地になって引くに引けない状態に】
池村の指導法はじつに合理的であり、選手たちにとっては目からウロコの連続だった。トレーニングにしてもただ単調なことをやるのではなく、たとえば腹筋を鍛える場合はV字にほかの筋トレを組み合わせたりして、選手たちが飽きないように創意工夫されていた。また、シートバッティングや紅白戦で、ちょっとでもミスがあれば「どうしてそうしたの?」と常に疑問を投げかけた。どうしたら勝てるのかを選手たちで考える能力を養うため、プレッシャーをかけ続けたのだ。ベンチ入りメンバーを決める際には、長所を伸ばす野球を遂行するため一人ひとりと面談をして納得のもと、代打、守備、代走要員をつくっていった。前年夏の甲子園で注目を集めた「ダンゴムシ打法」の比嘉忠志が振り返る。
「部室で着替えてからグラウンドまで走っていくなかで、落ちているゴミを拾わないと怒られましたよね。よく見ているなぁと思いました。普段から注意深くすることで視野が広がるというか、集中力が増しますよね。監督が来たらピリッとします」
グラウンドに緊張感を持たせることは、戦う集団にとって必要不可欠である。池村は、強豪校に比べて技術や体力で劣る分、普段の生活からも厳しく叱咤することで集中力を養わせた。そんな池村を選手たちは「池さん」と慕い、長嶺もまた、自身の野球観を大きく変えてくれた池村に心酔していた。
「秋季大会は準決勝で、選抜に出場することになる宜野座に敗れましたが、(その前の)8月はほぼ甲子園で、新チームの始動はかなり遅れましたし、僕ともうひとりの主力がケガで欠場するなか、準決勝まで進んだんです。来年の夏までにはまだ時間があるし、しっかり練習を積めばもう一度甲子園に行けると思っていました。だからこそ、池村さんの監督復帰を強く望み、意地になって引くに引けない状態になっていったのかもしれません」
周囲の目には"わがまま"と映るなか、時には練習をボイコットすることもあった。練習試合でもふてくされた態度で臨むなど、甲子園で見せたあの輝きはすっかり消え失せてしまった。
【ぞれぞれの思いが交錯しチームは空中分解】
憤懣やるかたない思いを抱えた2年生全員は、話し合いのたびに泣きながら感情をぶつけ合った。最初こそ一致団結していたものの、学校側との交渉が長引くにつれて、次第に分裂していった。長嶺が言う。
「(練習のボイコットをしたものの、大学の)推薦のこともあるので、学校側を敵に回したくないという理由でチームに戻る者もいれば、成底のように『最後まで野球を続けたい』という強い思いから戻っていった者もいました。そうやってチームは次第に分裂していったんです」
キャプテンとして20人の選手をひとつにまとめたい思いが強かっただけに、長嶺にはやるせない思いが募っていった。監督問題は年を越し、春頃まで紛糾した。チームは空中分解のまま春季大会に出場し、エースの成底と長嶺のバッテリーはもはや修復不能の状態だった。準決勝の浦添商戦では長嶺のパスボールが決勝点となり、0対1で敗れた。左投げのサードの金城佳晃が、当時を振り返り切々と話してくれた。
「僕自身も理屈っぽくて生意気なところがあったので、長嶺と一緒に最後まで学校側と戦いました。最初は『指導できる学校の先生を監督にする』という理由で池村さんを解任したはずなのに、時々教えてくれていたOBの方が監督に就任したんです。だったら『最初から池村さんを辞めさせる必要があったのか』という話になりますよね。どうしても納得できませんでした。結局は学校側の都合に振り回されてしまった感じで、最終的には(チームに)残ることになったんですけど......」金城はそれ以上、話すことはなかった。
【最後の夏の大会前に退部】
そして長嶺は、秋季大会以降の記憶がないという。
「(学校側に抗議して、練習ボイコットなどをしていたのは)結局、最後は3名になってしまい、(金城)佳晃は池村さんからの『やめるな』という言葉で戻っていきました。僕も言われたのですが、バッテリー間で全然うまくいかないこともあって、夏の大会前に辞めました」
高校2年夏に主力として甲子園に出場し、複数ヒットを放った男が最後の夏の大会前に退部したのだ。18歳の少年にとって、先頭に立って周囲との軋轢を抱えながらも義を貫き、学校側と戦った日々は、ストレスとプレッシャーに満ちていたに違いない。人間は必要以上に神経と力をすり減らすと、その期間の記憶が真っ白になってしまうことがある。いわば自浄作用だ。それほどまでに、長嶺にとって高校2年の秋から高校3年の夏までの9カ月間は、学校組織の理不尽さとやるせなさを全身で体験する日々であり、どれほど声を枯らして咆哮を上げたかったことだろう
「最後の夏の試合は、バックネット裏で見ました」という長嶺に、それは元キャプテンとしての責任感からなのかと問うと、「どんな感じの試合をするのかなという......」と、そこから言葉が途切れた。これ以上、聞くのをやめた。
那覇は1回戦で、前年の決勝で戦った沖縄水産と対戦し、2対3で敗れてあっけなく夏を終えた。
その後、池村はおかやま山陽高校の監督に就任したが、体罰指導で保護者から訴えられ高校野球界から事実上、追放の身となる。そして43歳の若さで鬼籍に入った。最後に、高校3年の夏を前に退部したことについて悔いはなかったのかと長嶺に尋ねると、ほんの一瞬だけ目線を遠くに向けたかと思うとすぐに戻し、はっきりした口調でこう言った。
「ないです。行動が正しかったのか、正しくなかったのかはわかりませんが、後悔はありません」
☆☆ 09:00~ 市和 歌山-高 野 山
☆ 11:30~ 日高 中津-智弁和歌山
⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(初日 1回戦)
上富田球場
☆ 09:00~ 有貴南連合- 星 林
☆☆ 11:30~ 近大 新宮- 海 南
14:00~ 串本 古座-紀 北 工
田辺SP球場
14:00~ 和歌 山工-和歌 山北
📝令和7年度 秋季兵庫県高等学校野球大会組み合わせ
http://www.hyogo-koyaren.or.jp/homepagedata(R7)/25aki.pdf
💢松本国際高野球部員、嫌がらせで寮の部屋の壁に焼き肉のたれつける…高野連には6か月間報告せず
https://news.yahoo.co.jp/articles/0b4421fb2de6b4df93ab82860b93dcb1bbdd261f
日本学生野球協会は4日、松本国際高校の野球部長で40歳代の男性教諭を3か月の謹慎処分にしたと発表した。同校の生徒寮で今年1月、当時2年生だった野球部員の部屋の壁に、別の部員が嫌がらせで焼き肉のたれをつける事案が起きたが、学校側は7月まで日本高校野球連盟に報告しなかった。
校長「部の中で決着をつけてしまった」
高野連によると、嫌がらせを受けた部員の保護者からの訴えを受け、学校側に報告を求めたところ、7月に報告があった。高野連側は、日本学生野球憲章違反が疑われる事案について速やかに報告するよう求めており、同校の小西信久校長は「部の中で決着をつけてしまった」と陳謝し、「今後はガバナンスを強化し、再発防止に努める」とした。
同校によると、この事案に関わった部員3人は、同憲章に違反したとして高野連から7月に厳重注意された。同校も、部員3人に対し、2週間の部活動停止などを命じたという。同校は、今年の夏の全国高校野球選手権県大会でベスト4になるなど強豪校として知られている。
💢野球部コーチ処分 金沢学院大と附属高 暴力、不適切発言で謹慎
https://news.yahoo.co.jp/articles/ffa271f4abd0bb0b7633f614e5320d34ceff2d9f
日本学生野球協会は4日、金沢学院大野球部で暴力、金沢学院大附属高野球部で不適切発言があったとして、両校のコーチ各1人に謹慎処分を科したと発表した。
関係者などによると、金沢学院大では、コーチが部員に暴力を振るった。報告義務違反もあったとして8月6日から2カ月の謹慎処分とした。
金沢学院大附属高では、コーチが部員に対して不適切な発言をした。報告義務違反もあり、コーチは7月9日から半年間の謹慎となった。今月6日に始まる北信越高校野球石川県大会には、夏の選手権大会から監督、コーチを変更して臨む。
金沢学院大は取材に対して当該事案の詳細は明かさず、「いずれの処分も重く受け止め、再発防止に向けて指導を徹底したい」とコメントした。
📝左投げの捕手&三塁手、ダンゴムシ打法...25年前、甲子園で異彩を放った個性派集団・那覇高校の戦い
https://news.yahoo.co.jp/articles/15483a4aafb2837de0704abf96f89f589dedc83a
超個性派集団・那覇高校の夏(前編)
25年前の夏、甲子園に異彩を放ったチームがあった。那覇高校──左投げキャッチャーに左投げサード、奇想天外な打法......セオリーを覆す個性派集団は、観客の度肝を抜き、甲子園の球史に刻まれた。
【まるで野球漫画から飛び出してきたよう】
「もう、あれから25年経つんですね。あの夏は楽しかったですね」
精悍な顔つきの長嶺勇也は、しっかり目を見据えて言った。この時は、「あの夏」という言葉の本当の意味を知らず、普通に聞き流していた。2000年夏の甲子園に出場した沖縄県代表・県立那覇高校は、とにかく異端の存在だった。1世紀を超える甲子園の歴史のなかで、これほどまでに好奇の目を向けられ、一挙手一投足に注目を集めた高校がほかにあっただろうか。
2年生の左投げのキャッチャー・長嶺勇也に、左投げのサード・金城佳晃。3年生には、極端にかがんで構える「ダンゴムシ打法」の比嘉忠志や、左足を大きく上げてアッパースイングのように豪快に振り切る宮里耕平などがいた。セオリーを覆す、まるで野球漫画から飛び出したような個性派選手たちが並び、甲子園を大いに沸かせた。
「もともとはピッチャーだったんですが、高校に入って肩を壊して外野をやっていたんです。同級生の成底(和亮)がいいピッチャーだったので、自分がうまくリードすればもっとよくなると思い、監督に進言してキャッチャーへコンバートしました。
キャッチャーがファーストへ回り、ファーストの比嘉さんが押し出されるように代打専門になった形です。ちょうどこの頃から左打者も増えてきたので、左投げのキャッチャーだからといって、スローイングの際に特に不利だと感じたことはありませんでした」
長嶺はさもありなんといった感じでと話してくれたものの、栄光ある甲子園の歴史において、左投げのキャッチャーと左投げのサードが同時に登場したのは、後にも先にも那覇だけである。
【短時間で質の高い練習を追求】
那覇は、旧制二中として県下有数の進学校であり、戦後はアメリカ軍の砲撃で球場が壊れたため、県大会が那覇高校のグラウンドで開催されるほど由緒ある学校でもある。進学校ゆえに、練習時間は夏場でも多くて3時間、冬場は2時間しかとれない。当時は、沖縄水産や沖縄尚学のツートップに加え、浦添商や中部商といった商業系の公立高校が奮闘し、県内を席巻している時期だった。
そんななかでの那覇の大躍進は、なんといっても外部コーチから監督に就任した池村英樹の手腕によるところが大きい。とにかく2年半という限られた時間の高校野球で、那覇高校の設備や練習量を考慮すると、短所を矯正して勝負に耐えうる準備まで手が回らない。そこで池村は、短所を補うよりも長所を最大限に生かす方針を採用。バッティングも、コツコツ当てるスモールベースボールではなく、バットにボールを乗せて遠くへ飛ばすスタイルを推奨した。
「強豪校が10の練習量で1を知るなら、ウチは2の量で1を知れば対等だ」と選手たちに説き、限られた時間のなかで効率化を徹底するため、準備の大切さを叩き込んだ。
グラウンドを全面使える時間が1時間しかない場合、残りの時間をどう有効活用するかを自分たちで考えた。ソフトボール部やラグビー部が使っている時間帯でも、内野は使用可能なため、内野ノックやバント練習をすぐに始められるように機敏な動きで準備をする。また、メンタルトレーニングにも余念がなく、リラックス効果を確かめるために練習試合では選手にガムを噛んでプレーさせたり、スポーツ飲料やプロテインなど、いいと思ったものはどんどん選手に提供した。水分補給にしてもわざわざベンチに戻る時間が惜しいため、コーチャーボックスやファウルゾーンに水を置いておき、自由に飲むことができた。すべては短い時間のなかで質の高い練習をやるためだ。
【沖縄水産を延長で破り甲子園出場】
夏の県大会が始まり、目標は「甲子園出場」と掲げていたものの、誰も本気で行けるとは思っていなかった。初戦の南部商に10対0で勝利すると、2回戦は具志川に8対2、3回戦は浦添に8対1。ここまでは勝ち進めると思っていたが、準々決勝で春季大会優勝校であり第1シードの中部商に6対2で勝ったことで勢いがついた。そして準決勝の相手は、前年の秋季大会準優勝の浦添商。
「準決勝の浦商戦で、ピッチャーの成底がケガをしたんです。背筋がボコッと膨らんで、まるでふくらはぎのようになっていました。試合は0対0だったので、『勝ち越すまでは監督に言わないでくれ』と告げられ、7回にようやく勝ち越して......結局、最後は継投して2対1で勝ちました。しかし、その後は『さあ、決勝戦をどうするか』という状況でした」
決勝は名将・栽義弘監督率いる沖縄水産。じつは那覇のエース成底は県内屈指の好投手だったため、那覇は栽から何度も練習試合を申し込まれていた。だが、甲子園出場はおろか、全国でも上位進出を目指す沖縄水産の前にいつも大敗を喫していた。決勝戦、那覇は二番手の豊原啓人が先発した。ツーシーム系の球が面白いように決まり、沖縄水産打線を封じていく。そして試合は3対0と那覇のリードで9回を迎えた。9回無死満塁からエースの成底が登板するも同点とされ、試合は延長に突入。それでも那覇は10回表に2点を勝ち越し、その裏を0点に抑えて勝利。夏の甲子園初出場を決めた。
優勝が決まった瞬間、三塁側スタンドにいた那覇高校の大応援団がいっせいに下に駆け寄り、フェンスを壊すという珍事が起こるほど、北谷公園野球場は歓喜の渦に包まれた。長嶺は言う。
「甲子園では対戦相手のことより、成底のケガが心配で......。ただ、幸いにも初戦が大会7日目になったことで、なんとか間に合いました」
エースが回復したことで、選手たちは気後れすることなく試合に臨めた。
【甲子園初戦で劇的勝利】
8月14日、甲子園での中京商(岐阜)との初戦、1回裏の先頭バッター宮里の足を大きく上げるバッティングスタイルを目にした観客たちは一様に高揚し始める。
「何が起こるんだ......このチームは!?」
そして1回裏、那覇が守備につき、ボール回しが始まった瞬間、観客席から「おおぉー」とどよめきが起こる。左投げのキャッチャーとサードを、甲子園で初めて目にしたからだ。当時サードを守っていた金城はこう語る。
「甲子園練習の時からメディアにずっと同じ質問をされていたので、試合当日も注目されるんだろうなと覚悟していました。中京商戦では、気がついたらもう5回を過ぎていて、あっという間に時間が経った感覚でした。延長11回までもつれましたが、守備機会はたったの1回だけでした」
延長10回裏の中京商の攻撃。二死三塁と一打出ればサヨナラという場面で、この試合初めてサードに飛んできたゴロを金城が軽快にさばき、クルっと反転してアウトに仕留めると、スタンドから大歓声が沸き起こった。そして11回表、那覇は二死二塁から中京商のショート・松田宣浩(元ソフトバンクほか)の悪送球で決勝点を奪い、2対1で勝利した。だが、次の育英(兵庫)戦は、長嶺をはじめケガ人が続出し、ベストメンバーを組むことができなかった。2対7と5点リードされて迎えた7回裏、二死満塁で代打に出た比嘉が当時を振り返る。
「歓声がすごいなと感じていました。グラウンドがちょっと揺れていましたからね。構えた瞬間、『おおーっ』とちょっと笑い声が起きたと、あとで聞きました」
唯一無二の「ダンゴムシ打法」に観客は度肝を抜かれ、つい笑いも誘ってしまったが、強烈なインパクトを残した。
結局、満身創痍の那覇は育英に2対12と大敗。それでも個性派集団の那覇は甲子園の歴史に爪痕を残した。そして沖縄に戻り、長嶺らを中心とした新チームで始動した矢先、事件は起こった。
つづく
📝「もう一度、甲子園へ」の希望が絶望に変わった日 伝説の超個性派集団・那覇高校に起きた悲劇
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超個性派集団・那覇高校の夏(後編)
左投げのキャッチャーにサード、極端にかがんで構える「ダンゴムシ打法」など、セオリー度外視の個性的なスタイルで、2000年夏の沖縄大会を勝ち抜き、甲子園でも1勝を挙げた那覇高校。甲子園が終わり、沖縄に戻ると新チームが発足した。新キャプテンとなった左投げのキャッチャー・長嶺勇也のもと「もう一度、甲子園へ」を合言葉に、チームの結束力は高まっていた。だが、その矢先、思いもよらぬ事態が野球部を襲った。
【甲子園へと導いた監督の突然の解任】
「汚ねえなぁ」キャプテンの長嶺は校長室をあとにし、そう呟いた。
甲子園が終わり、沖縄に帰ってきた那覇高校野球部はエースの成底和亮と長嶺の甲子園バッテリーが残ることから、新チームにも大きな期待が寄せられた。しかし、秋季大会は、長嶺の骨折など主力数名のケガによりベストメンバーが組めず、準決勝で宜野座高校に3対5で敗れ、翌年春の選抜への道は断たれた。さらに追い打ちをかけるように、監督の池村英樹が突然解任されたのだ。
「その年から沖縄水産で部長をしていた親川(聖)先生が来られていたので、学校側としては夏の大会が終わったら、親川先生に監督をやってもらうというのが既定路線だったようです。でも、池村さんで夏の甲子園に出場したからすぐに替えるわけにもいかず、秋季大会の結果を見て更迭したんです。せめて僕らの代だけは、最後の夏まで池村さんに監督をお願いしたいと、校長に何度もかけ合ったのですが......」
長嶺は悔しさをにじませながらそう言った。2年生20人の意見をまとめて、キャプテンの長嶺は何度も校長に直談判し、「わかった」と返事をもらったが、現状は何も変わらず。業を煮やした長嶺は、ポケットにICレコーダーをしのばせて話し合いに行ったこともあった。
「秋季大会は骨折で試合には出場できなかったんですけど、ベンチから見ていてチームがまとまっているのが手に取るようにわかったんです。夏の県大会はベンチ入りするも、甲子園では外れた4人のメンバーは、大会期間中に洗濯やボール拾いしかしてないはずなのに、ものすごく上達しているんです。いい意味で『オレたちは強い』と勘違いし、自信がみなぎっていました。甲子園の力というのを、まざまざと感じました」
アップする際のTシャツもバラバラだったのが、誰からともなく「みんなで揃えようぜ」となり、自然と一致団結するようになっていた。選抜の道は断たれたが、「最後の夏はもう一度甲子園へ」と希望を膨らませていただけに、池村の解任の知らせはまさに夢を打ち砕かれたような衝撃だった。
【意地になって引くに引けない状態に】
池村の指導法はじつに合理的であり、選手たちにとっては目からウロコの連続だった。トレーニングにしてもただ単調なことをやるのではなく、たとえば腹筋を鍛える場合はV字にほかの筋トレを組み合わせたりして、選手たちが飽きないように創意工夫されていた。また、シートバッティングや紅白戦で、ちょっとでもミスがあれば「どうしてそうしたの?」と常に疑問を投げかけた。どうしたら勝てるのかを選手たちで考える能力を養うため、プレッシャーをかけ続けたのだ。ベンチ入りメンバーを決める際には、長所を伸ばす野球を遂行するため一人ひとりと面談をして納得のもと、代打、守備、代走要員をつくっていった。前年夏の甲子園で注目を集めた「ダンゴムシ打法」の比嘉忠志が振り返る。
「部室で着替えてからグラウンドまで走っていくなかで、落ちているゴミを拾わないと怒られましたよね。よく見ているなぁと思いました。普段から注意深くすることで視野が広がるというか、集中力が増しますよね。監督が来たらピリッとします」
グラウンドに緊張感を持たせることは、戦う集団にとって必要不可欠である。池村は、強豪校に比べて技術や体力で劣る分、普段の生活からも厳しく叱咤することで集中力を養わせた。そんな池村を選手たちは「池さん」と慕い、長嶺もまた、自身の野球観を大きく変えてくれた池村に心酔していた。
「秋季大会は準決勝で、選抜に出場することになる宜野座に敗れましたが、(その前の)8月はほぼ甲子園で、新チームの始動はかなり遅れましたし、僕ともうひとりの主力がケガで欠場するなか、準決勝まで進んだんです。来年の夏までにはまだ時間があるし、しっかり練習を積めばもう一度甲子園に行けると思っていました。だからこそ、池村さんの監督復帰を強く望み、意地になって引くに引けない状態になっていったのかもしれません」
周囲の目には"わがまま"と映るなか、時には練習をボイコットすることもあった。練習試合でもふてくされた態度で臨むなど、甲子園で見せたあの輝きはすっかり消え失せてしまった。
【ぞれぞれの思いが交錯しチームは空中分解】
憤懣やるかたない思いを抱えた2年生全員は、話し合いのたびに泣きながら感情をぶつけ合った。最初こそ一致団結していたものの、学校側との交渉が長引くにつれて、次第に分裂していった。長嶺が言う。
「(練習のボイコットをしたものの、大学の)推薦のこともあるので、学校側を敵に回したくないという理由でチームに戻る者もいれば、成底のように『最後まで野球を続けたい』という強い思いから戻っていった者もいました。そうやってチームは次第に分裂していったんです」
キャプテンとして20人の選手をひとつにまとめたい思いが強かっただけに、長嶺にはやるせない思いが募っていった。監督問題は年を越し、春頃まで紛糾した。チームは空中分解のまま春季大会に出場し、エースの成底と長嶺のバッテリーはもはや修復不能の状態だった。準決勝の浦添商戦では長嶺のパスボールが決勝点となり、0対1で敗れた。左投げのサードの金城佳晃が、当時を振り返り切々と話してくれた。
「僕自身も理屈っぽくて生意気なところがあったので、長嶺と一緒に最後まで学校側と戦いました。最初は『指導できる学校の先生を監督にする』という理由で池村さんを解任したはずなのに、時々教えてくれていたOBの方が監督に就任したんです。だったら『最初から池村さんを辞めさせる必要があったのか』という話になりますよね。どうしても納得できませんでした。結局は学校側の都合に振り回されてしまった感じで、最終的には(チームに)残ることになったんですけど......」金城はそれ以上、話すことはなかった。
【最後の夏の大会前に退部】
そして長嶺は、秋季大会以降の記憶がないという。
「(学校側に抗議して、練習ボイコットなどをしていたのは)結局、最後は3名になってしまい、(金城)佳晃は池村さんからの『やめるな』という言葉で戻っていきました。僕も言われたのですが、バッテリー間で全然うまくいかないこともあって、夏の大会前に辞めました」
高校2年夏に主力として甲子園に出場し、複数ヒットを放った男が最後の夏の大会前に退部したのだ。18歳の少年にとって、先頭に立って周囲との軋轢を抱えながらも義を貫き、学校側と戦った日々は、ストレスとプレッシャーに満ちていたに違いない。人間は必要以上に神経と力をすり減らすと、その期間の記憶が真っ白になってしまうことがある。いわば自浄作用だ。それほどまでに、長嶺にとって高校2年の秋から高校3年の夏までの9カ月間は、学校組織の理不尽さとやるせなさを全身で体験する日々であり、どれほど声を枯らして咆哮を上げたかったことだろう
「最後の夏の試合は、バックネット裏で見ました」という長嶺に、それは元キャプテンとしての責任感からなのかと問うと、「どんな感じの試合をするのかなという......」と、そこから言葉が途切れた。これ以上、聞くのをやめた。
那覇は1回戦で、前年の決勝で戦った沖縄水産と対戦し、2対3で敗れてあっけなく夏を終えた。
その後、池村はおかやま山陽高校の監督に就任したが、体罰指導で保護者から訴えられ高校野球界から事実上、追放の身となる。そして43歳の若さで鬼籍に入った。最後に、高校3年の夏を前に退部したことについて悔いはなかったのかと長嶺に尋ねると、ほんの一瞬だけ目線を遠くに向けたかと思うとすぐに戻し、はっきりした口調でこう言った。
「ないです。行動が正しかったのか、正しくなかったのかはわかりませんが、後悔はありません」