自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」

ようこそいらっしゃいました。監督(管理人)の宏鈴法師です。当掲示板は全国どこの話題でもOKですのでどうぞ野球談義・よもやま話をお楽しみ下さい!なお、ご意見ご要望はメールでお願いします。悪しからずご了承くださいませ。


紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
⚽今日の高校女子サッカーインターハイ決勝戦(⽇鋼室蘭スポーツパーク)
https://www.jfa.jp/match/koukou_soutai_2025/women/match_report/m15.pdf

大商学園3-2常 葉 橘

どうやら終了間際の土壇場に2-2同点に追いつき、延長後半に決勝点を挙げたようで、3年ぶり2度目の優勝おめでとうございます!

女王・藤枝順心が不在でしたが、なにはともあれ・・・大阪を勝ち抜いて冬の選手権で悲願の全国制覇を期待しております!!

📝阪神大学野球2025年秋季リーグ戦日程表
https://hanshin-bbl.com/index.html

まだ秋季大会の組み合わせが分からないので、あくまでも高校野球最優先ですが・・・・・10月12日・13日の9時30分から3試合は狙い目ですね!
日没時間を考えると、ナイター濃厚だし、試合が長いので過去に何度も19時前後の終了を見てきたので。

一応の候補に入れておきます。

✌大社旋風の立役者は「誘導された」 失点後に響いた「魔物」の声
https://news.yahoo.co.jp/articles/8013bb0689cc7c321364f852347d2a62dc50c681

第106回全国高校野球選手権大会3回戦

早稲田実(西東京)

00000110000|2
10000000101x|3

大社(島根)

涙でにじむナイターの明かりは、自分を照らしてくれているようだった。
「甲子園って最高」両手を広げ、観客席へ思いをはせた。93年ぶりの8強進出を決めるサヨナラ打を放った馬庭優太(19)は「応援への感謝があふれた瞬間だった」と振り返る。
 
阪神甲子園球場の誕生から100周年を迎えた2024年夏。32年ぶりに出場した大社(島根)は快進撃を見せた。
1回戦で春の選抜大会準優勝の報徳学園(兵庫)を3―1で破ると、創成館(長崎)との2回戦を延長10回タイブレークの末、5―4で制した。
8強入りをかけて臨んだ3回戦は、ともに第1回大会から出場を続ける早稲田実(西東京)が相手だった。延長十一回裏、無死満塁。ここまで一人で投げてきたエース左腕の馬庭に打席が回ると、球場が手拍子に包まれた。

「自分が決めるしかない」。打球は投手の足元を抜け、中前へ転がっていった。今思えば「観客に誘導されているみたいだった」と馬庭は言う。普段と違う空気を感じたのは、あるアクシデントが起きたときだったという。同点の七回の守りで、先頭打者の中前安打を中堅手の藤原佑が後逸した。打者走者が一気に本塁までかえり、勝ち越された。内心、「もともと勝てるような相手ではない」と思っていたから、普段起きないようなミスにも動揺はなかった。ただ、直後の球場の変化には、心を揺さぶられた。後続を抑えてベンチに戻るとき、あらゆる方向から「声」が自分たちに飛んできた。内容は聞き取れなかったが、「『ここからだぞ、頑張れ』と言ってもらっているようだった」。

再び、気持ちが奮い立った。九回にスクイズで追いつき、なお1死二、三塁のサヨナラ機で、早稲田実は左翼手が投手の真横を守る「内野5人シフト」を敷いた。これで抑えられたときは、「球場の空気まで振りだしに戻った」。優勝経験校のすごみが、「旋風」の印象をより強いものにしたのは間違いない。準々決勝で神村学園(鹿児島)に敗れた後、バスで出雲市に戻った。学校は街の人たちであふれていた。

コンビニに行っても、横断歩道で信号待ちをしていても、「馬庭くんですか?」と声をかけられた。小学校のときにプレーした地元のチームを訪れたときは、子どもたちに「甲子園の土が見たい」とねだられた。馬庭は敗戦直後に肩ひじのクールダウンと取材に追われ、土を持ち帰れなかった。伝えると、その子から、こんな返事がかえってきた。

「じゃあ僕が甲子園に行きます! 土を持って帰って分けてあげます!」

温かい気持ちがこみ上げた。「大社高校の野球部がやったことが、誰かを勇気づけられたのかなとうれしかった」

卒業後は東洋大に進んだ。今春のリーグ戦では1年生ながらリリーフ登板を重ねた。話題をさらった昨夏、プロ志望届を出す考えは生まれなかったという。「チームや球場の応援で勝たせてもらった3試合でした。自分の能力で勝てたわけではない」と思うから。

馬庭は甲子園で、「魔物」に出会ったのか。もしそうなら、それの正体とは――。
「僕は応援だと思います。球場全体でうれしさだったり、ピリピリだったり、本当に一つの空気ができあがるんです。それで、ああいう(サヨナラ打の)場面を作ってもらった気持ちだった」

そんな大観衆のなかで投げ抜いたことは、「夢の中にいるようだった」とも「それだけやれると自信になった」とも。今、おぼろげだった「プロ野球選手」の夢は、少しずつ鮮明になっている。大学のうちに球速150キロ到達を目標にし、その先のプロ入りをめざしている。

✌“ド派手ユニホーム”が甲子園に降臨 栃木覇者の青藍泰斗に視線集中
https://www.daily.co.jp/baseball/2025/08/02/0019302439.shtml

第107回全国高校野球選手権(5日開幕)の出場校による甲子園練習に2日、栃木・青藍泰斗が登場した。前身である葛生時代の1990年以来2度目の出場。昨秋から変更された“ド派手”ユニホームをまとい、聖地のグラウンドで汗を流した。

鮮やかなブルー地に白のストライプ。帽子も青色だ。自身の名前にも「青」が入っている青山尚緯監督(27)は「スクールカラーが青なので、学校の色を出せれば良いんじゃないかなと。青一色は結構いらっしゃるので、唯一無二が良いねということでタテジマを入れました」と経緯を説明。「ありがたいことに、うれしい言葉もたくさんかけていただきます」と話した。

全て守備練習に時間を割き、土の感触や景色の見え方などを確認。指揮官は「思わず大声で、選手たちと楽しんじゃいました」と思いの詰まったユニホーム姿で初めての聖地を堪能する選手たちをうれしそうに見つめた。

📝夏春連覇“あの名門公立校”なぜ甲子園から消えた?「美談は言わないよ」現地取材でポツリ…日本中が熱狂「神様になった監督」池田高野球部のナゾを追う
https://news.yahoo.co.jp/articles/98e1cbe0204a3d4e69c88e974e668c4d98ee60fc?page=1

超攻撃野球で1980年代初頭の高校野球界に衝撃を与えた池田高校。チームを率いた蔦文也は本当に英雄だったのか? なぜ最強時代は終わったのか? 平成生まれの記者が“日本で最も愛された野球部”の謎に迫った。

きっかけは2年前の冬、車窓から見た風景だった。四国のほぼ中央を縦断するJR土讃線の特急「南風」に乗った。高知駅から香川・琴平方面へ15分も経てば、列車は山岳地帯に分け入っていく。大歩危小歩危の急峻な渓谷を過ぎると、四方を山に囲まれた小さな町に停車する。阿波池田駅。ひょっとして、と察した。絵に描いたような山間。ここにあの池田高校がある。そして、たじろいだ。この地から甲子園で優勝したのかと。

甲子園で優勝3回、準優勝2回。とりわけ黄金期といわれる1982年夏から、池田の勝敗表は美しいまでに白色が並ぶ。1982年夏と83年春を連覇し、同年夏の準決勝でPL学園に敗れるまで、じつに甲子園11連勝を飾った。

1992年生まれの私は「池田の時代」を知らない。リアルタイムでその時を生きた1974年生まれのNumberWeb編集長は、池田のファンだったという。彼が記憶する池田でとりわけ鮮烈だったもの。それは野球のスタイルだった。上半身と太ももがムチムチに鍛えられた地方の子どもたちが全国的な強豪を次々に倒す。それも打ち勝った。「バントや小細工は不要。打てばいい」。単純明快な方法が衝撃だったのだと編集長は力説した。車窓に映った池田町の寂しげな光景を思い出した。なぜ山間の公立校が優勝できたのか。なぜ池田の時代は終わったのか。

蔦文也の孫が東京にいた…
 
下調べで大きな流れはわかった。日本中が池田に熱狂していた時代があった。蔦文也という人物が野球部を率いていた。守備と小技が重視されていた当時、打撃に特化したスタイルは革命的だった。それまでの木製バットから飛距離が出やすい金属バットへ移行したことも池田の野球に追い風となった。だが蔦の退任後は低迷期に入った。1992年を最後に夏の甲子園に出場していない。
蔦は2001年に、その長男も昨年3月に他界している。が、蔦の孫が東京に住んでいるという。映画監督として蔦文也のドキュメンタリー映画を制作していることもわかった。「蔦監督と池田高校について教えてほしい」。電話で依頼すると、すぐに快諾してくれた。

都内のファミリーレストランに現れた人物は、“攻めダルマ”と称されたいかにも豪傑といった風貌の祖父とは似つかなかった。黒髪にメガネの文化的な雰囲気を漂わせる中年男性。名を蔦哲一朗という。

「じいちゃんはメディア対応が上手かったんですよね。表に出ることを嫌がらない人だった。記者の方と一緒にお酒を飲んだり。僕も調べてわかったことなんですけど」

「じいちゃんを嫌いな人もいる」
 
哲一朗は1984年、徳島県池田町(現・三好市池田町)に生まれた。池田野球部の黄金期は物心がつく前に去り、蔦も1992年に監督を退任している。それゆえ祖父について記憶していることもそう多くないのだと語る。

「じいちゃん家の裏にプレハブ小屋みたいな寮があったんですよ。そこに40人くらい選手たちが住んでました。選手が読み終えて捨てたジャンプとかマガジンを、僕が拾って読んでいた記憶はありますね」

哲一朗が高校2年生のとき、蔦は闘病生活の末に亡くなった。祖父について深く知ったのは映画の撮影を始めてからだった。

「人によってじいちゃんの捉え方は違うと思うんです。蔦文也の存在があったから徳島の野球がうまい選手は池田に集まった。それまで一般的ではなかったウエイトトレーニングやポカリスエットをいち早く取り入れて、打ち勝つ野球で高校野球の常識を変えた。これがA面です。同時に、じいちゃんは地元で神様みたいな存在になっていた。もともと頑固で自分の信念を貫く人。そこに実績がついたら、誰も意見できなくなりますよね。だから当時近かった人の中には、じいちゃんを嫌いな人もいたみたいです。じいちゃんに裏切られたと感じている人も」

当時の池田が勝ち続けた理由を探るうえで蔦文也を理解することは不可欠に思えた。それも“A面”だけでなく多面的に。聞けば蔦監督時代のコーチが池田町の隣町に住んでいるという。

「話すのは構わんけど。美談は言わないよ? それでもいいなら」

蔦文也に裏切られた人がいる――。哲一朗の言葉が頭をよぎった。それまで漠然としていた取材の目的がくっきり目の前に立ち上がってきた。

山間の池田町を訪れると…
 
この夏、2年ぶりに池田を訪ねた。四国の東側、兵庫・淡路島に近い徳島市は、海へも本州へも開かれている。その徳島市街地から吉野川沿いを西へ車で70分ほど。徐々に山間が狭まっていく終着点、徳島県の西端に池田町はある。夕刻の阿波池田駅前はがらんとしていた。眠たげな商店街。歩く人はまばらだ。すこし歩けば池田高校を望める。薄墨色の霧にむせた山が背後に佇む。そのせいだろう。校舎は厳かな雰囲気を漂わせていた。取材冒頭、話を聞いた関係者すべての人々に趣意を伝えた。

「池田の時代」を私は知らない。だからこそ惹かれるものがあった。なぜ山間の地方公立校が黄金時代を築けたのか。蔦文也とは何者だったのか。そしてなぜ池田は甲子園から消えたのか。

すると一様に「池田が強かった理由」を説明してくれた。木製バットから金属バットへ変わった時代と重なったこと。小技野球でなく打ち勝つ野球が革新的であったこと。筋トレをいち早く取り入れたことで他校選手のパワーを凌駕していたこと。いずれも事実ではあるのだろう。が、プレゼンを聞いているかのような、いかにも説明慣れしている感を覚えないわけではなかった。

「全国放送で阿波弁を…」だから蔦は愛された
 
蔦と池田が与えた衝撃について、初めて合点したのは池田の現校長・原史麿の言葉だった。原は蔦の孫、哲一朗の高校時代の担任教諭でもあった。

「修学旅行で東京に行くんですよ。そこで徳島から来ました、と言っても東京の人の反応が鈍いわけです。でも池田から来た、と言えば100%通じました。あの野球の? と。私らの世代、50代から上で池田を知らない人はいないというくらい有名でした」

そしてこうも続けた。「やっぱり田舎だから。卑屈なところがあるんですよ。当時はインターネットもなかったし、自分の地元以外、特に都会ともなれば未知の場所。東京や大阪に出ていきたいけど気後れしてしまう。自分たちは田舎もんだからって。そんな時代に蔦監督が現れた。試合後のインタビューで蔦監督は堂々と阿波弁で喋ったでしょう。あれで阿波の人たちは認められたような気持ちになったというかね」

カタルシスを感じたのは池田町民だけではなかった。蔦の語り口は日本人にそれぞれの故郷を想起させた。都会の強豪を次々に倒す地方公立校の監督。シルバーヘアをなびかせた武骨な風貌。カメラが向けば名言を放ち、丸刈り球児に人生訓を説いた。まるで漫画に出てきそうな「大酒飲みの傑物監督」というキャラクターは野球に興味のない層にまで浸透した。その意味で、蔦は日本で最も愛された高校野球監督といえる。

そうした蔦文也の英雄像を私もすっかり信じ込んでいた。ある人物に話を聞くまでは。

            〈つづく〉

📝高校野球の名門・池田高に驚愕の新証言「少しずつ蔦文也はおかしくなっていったんよ」当時コーチが断言する“カリスマ名将の異変”…徳島現地で取材
https://news.yahoo.co.jp/articles/530d1c7697b08b9a6ee94ec5bc37f727303c6af4?page=1

1982年夏、83年春の甲子園を連覇し、それぞれ畠山準、水野雄仁というドラフト1位を2年連続で輩出した。池田町にメディアが殺到した。「池田ののびのび野球の秘訣」。そんな類のタイトルがつけられた番組が放映された。テレビ局3社が池田に密着した時代もあった。そんなメディアを蔦は敬遠せず、むしろ巧みに活用し、ますます池田人気は沸騰した。

池田の存在感はもはや高校野球の枠を超えていた。1987年卒業のOB、松端範人が当時のエピソードを明かす。

「(野球用具メーカーの)ZETTってあるでしょう? そこの営業の方が、試作品の金属バットをグラウンドへ持ってきて、野球部員に打たせて感想を聞く。商品開発の参考にしたみたいです。僕らもふざけて『このバットはあまり飛ばんなぁ』とか生意気言ってましたね」

才能豊かな子どもが池田に集まった。中学生のうちに県外から引っ越してくる生徒も少なくなかった。そんな有望選手が小技を捨てて徹底的に打撃を磨く。そして、勝った。まさに池田の黄金時代だった。

「英雄像はフィクションだ」

――すごい時代でしたよね。筋トレを取り入れてパワー野球で優勝した。高校野球の歴史を変えたと言われています。
定説とされる池田像をある人物に伝えた。すると首を捻りながら淡々と呟いた。「まあフィクションも多分に含まれてるわね」

この男こそ池田の最強時代をコーチとして支えた川原良正である。「美談は言わない。それでもいいなら」という条件で、自宅での取材を承諾してくれたのだ。

川原は池田野球部員時代から野球の探究に熱中していた。1966年に高校を卒業し、日本電電公社に入社。その傍ら、池田が甲子園で初めて準優勝した74年にスタッフに。その後、82年から本格的に野球部のコーチを務めた。当時の池田は2年間、甲子園出場を逃していた。逸材と名高かった畠山準がいたにもかかわらず、だ。最後のチャンスとなった82年夏の前、分析力を見込まれて蔦文也から誘われた。以降、甲子園優勝を果たす水野雄仁(83年春)、梶田茂生(86年春)ら歴代のエースを育て上げた。つけられた愛称は「池田野球部の知恵袋」。現在は隣町の東みよし町で小・中学生を教えている。

「指導力はない。素人監督だよ」
 
蔦について話を向けると、川原は私の目を見てきっぱり言い切った。「正直言うて指導力っちゅうのはないね。素人監督だよ」

ストレートな言葉に思わず詰まった。

「投手は140キロ投げるられるかどうか、打者は遠くに飛ばせるかどうか。(蔦監督の)基準はそのくらいだったね。大会前に連係プレーの練習をすると、『川原、頼むな』と言って先に帰宅していたくらい」

いまや一般論化されている、池田の野球を伝えた。筋トレの積極的な活用、小技より打ち勝つスタイル、徳島全域から才能豊かな子どもたちが集まった集団、そして何より、情熱的に指導する蔦文也像。すると川原は「……と、世間では言われているね」と相槌を打った。私はそれ以上の説明はせずに、つづく川原の言葉を待った。

「まず、筋トレね。練習メニューにあったはあったけど、比重が大きいわけではなかったよ。自分の感覚では練習の7割が打撃、残りの3割が守備や筋トレ。次に、打ち勝つ野球ね。それもたしかにあったけれど、スコア見てみい。結局、優勝した年はいい投手がいたんよ。畠山、水野、梶田でしょう。当時は秀でた投手が1枚いれば勝てた時代だから」

スコアを見た。ともに甲子園を制した1982年夏と83年春、最も点を奪われた試合でわずか3点だった。一方で、82年夏の準々決勝、荒木大輔を擁する早稲田実に14-2、決勝を広島商相手に12-2、83年春の1回戦、2回戦をそれぞれ11-0、10-1で下している。たしかに大量得点が目を引くが、最少失点で抑えた投手陣の力も感じられる。

「蔦文也はおかしくなっていったんよ」
 
さらに「選手の素質だけで勝てたわけではない」という川原の話も信憑性があった。つまり、池田入学後に選手が育ったのだから勝てたのだと。

86年春センバツの優勝投手だった梶田(現・日本生命監督)は、のちにこう発言している。「練習では川原良正コーチに鍛えられた。試合ではどっしり構えた蔦監督の下で伸び伸びとプレーさせてもらった」(徳島新聞/2022年10月6日付)

 梶田は高校入学時点で外野手だった。事実、2年時も1番センターで甲子園に出場している。だが同学年のエース候補が不調に陥り、川原が突貫でエースに育て上げた。梶田の身長は165cm。大型投手を好んだ蔦が持たない発想だった。当時、川原には選手たちから膨大な数の手紙や作文が送られていること。そして悩みや不満を打ち明けている内容からも、子どもたちの信頼を得ていたことがわかる。そこで最後の定説を問うてみた。蔦が残した名言「山あいの子どもたちに一度でいいから大海を見せてやりたかった」。そのために蔦が指導に尽力したという話は真実だったのか。

「最初はたしかに熱心だったよ。蔦さんは純粋な人。それは間違いない。いろいろ試行錯誤してね。畠山の少し前の代までは小技を絡める戦い方だったから。でも、82年に優勝したぐらいからやね、少しずつ蔦文也はおかしくなっていったんよ」

「蔦は野球素人だった」は真実か?
 
池田の関係者に話を聞いていくなかで、見えてきたことがある。蔦は野球指導論に定評があったわけではない。それは川原やOBたちの一致する見解だった。最初はバントや走塁を駆使する戦いを志したが、それでは勝てなかった。たどり着いた諦めの境地とでも呼べる策が、小技を捨てた打撃重視型だったのだ。

一方で、蔦は野球の素人だった、という説には疑問も生まれる。蔦は現役時代、徳島商野球部員として甲子園に3度出場、同志社大学でもエースとして活躍した。しかし、在学中に学徒出陣で海軍航空隊に所属することとなり、特攻隊の一員として終戦を迎えている。52年、29歳で池田の監督に就任するまでの間、1シーズンではあるがプロ野球チームにも入団した。そんな男が野球素人ということがありえるだろうか。

話を戻す。関係者を取材して、もうひとつわかったこと。当時の池田町は「異常な空気」に包まれていた。町に大挙して押し寄せる苛烈なメディア攻勢によって蔦は英雄視された。実績もあった。その蔦に意見できる人間は周囲から消えていた。川原は意を決して蔦に直言した。そこで返された言葉が今も脳裏に焼き付いているという。

            〈つづく〉

⚾SHIONOMISAKIさんへ
定時制通信制の野球は全く興味がないので知らなかったですが、、、、、よく探されましたね!!
しかし、天理は硬式だけでなく軟式もよく近畿大会で見かけるので強いのは分かりますが、定時制通信制も・・・生徒を獲っているんですね!

京都は奈良と同じで盆地ゆえに風も弱くメチャクチャ熱いですよね!昨日は浜寺公園に行きましたが、海沿いは風がきつくて過ごしやすかったですが・・・バラ園に入ったら思いっきり体感変わりホンマに熱かったですね。あれでも36、1度。40度超えの地点を歩いていたらどうなることか・・・・・?何度も公園の蛇口ひねってペットボトルに水をつぎ足し凌ぎました。。。

そして、西京極から返す刀で甲子園ですか。僕は父に言われてTVで少しだけ見ましたが、、、アルプスと外野が無人の甲子園はさびしいですね。。。マスターズリーグ甲子園や大学野球なども同じですが。

素人目から見ても、あれが最高峰を決める試合なんで、競技レベルとしてはかなりの物足りなさを感じました・・・・・。1球ごとの間合いや攻守交代が長いのでそこだけは好感持てたかな!?
あと今日は定刻に遅れずに福知山成美のブラスバンド来てましたね!よく近畿大会で3回途中に遅刻してアルプススタンド入りというのを何度も目にしておったので・・・・・。
どういうわけか、田所監督が所属のチーム同士の対戦でしたね。

P・S サッカーは全然興味ないので、男女の競技レベルの違いは全く分かりませんが・・・・・。ここ数年、年始に三木や神戸で女子高校サッカー生観戦してますが、あっちは迫力感じますね。スピード感もあるし、緊迫感を感じながら見てます(母校の試合オンリーなんで余計、緊張感を増しているだけかもしれませんが)

津波の影響で一部日程変更もあったようですが、無事に最終日まで北海道旅行を楽しめたようで、優勝旗をお土産に大阪に帰れるようです。
ただ、3年前の初優勝時は大阪を勝ち抜けなかったし、今季ようやく3年の暗黒時代を脱出しましたが、また激戦・大阪を勝ち抜いて年明けに準々決勝以降3試合三木と神戸で見せてくれたら・・・悲願の選手権初制覇も期待してます。
2025/08/02(土) 21時57分27秒 No.1923 編集 削除