自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
⚾今日の和歌山大会試合結果(2回戦)
4日目第1試合 高野山-粉河 9:00?~10:43?
一二三四五六七八九十計HE
高 野 山000000000 020
粉 河10000000X 150
4日目第2試合 南部龍神-桐蔭 11:30?~13:38
一二三四五六七八九十計HE
桐 蔭012020000 5120
南部龍神000003010 481
4日目第3試合 市和歌山-紀北工 14:20?~16:31
一二三四五六七八九十計HE
紀 北 工000000000 013
市和歌山00221000X 591
⚾明日の和歌山大会組み合わせ(5日目 2回戦)
09:00~ 神 島 -田 辺 工
☆☆ 11:30~ 初芝 橋本- 向 陽
14:00~ 橋 本 -串本 古座
明日は昼過ぎからの天気が心配ですが、、、、、母校が3回戦進出を果たしたので、4時起床 始発電車に乗って「僕だけの聖地・紀三井寺」に駆け付けます。
第3試合の観衆はかなり少ないと思われるので屋根下に潜り込めたら・・・。10時頃早い段階で紀三井寺名物・どんぶり鉢かき氷シロップかけ放題にありつきたいと。
📣徳島大会数日間 二部制に変更
http://www.tk2.nmt.ne.jp/~tokushimakoyaren/%E7%AC%AC107%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E9%87%8E%E7%90%83%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89%EF%BC%880712%E6%99%82%E9%96%93%E5%A4%89%E6%9B%B4%EF%BC%89.pdf
☝ベンチに置かれた「師」の遺影 広島の竹原高校、迫田穆成さんの指導を胸に初戦突破 全国高校野球選手権広島大会
https://news.yahoo.co.jp/articles/c247189ecf8bb352dffab33b9a92226ae24f5b76
【全国高校野球選手権広島大会2回戦 竹原10―0美鈴が丘(13日・鶴岡一人記念球場)】
「師」が見守る前で、竹原が五回コールドで3回戦に駒を進めた。
「師」とは、2023年12月に84歳で亡くなった元監督の故迫田穆成さん。3年生は、1年時に指導を受けた。この日はベンチに遺影が置かれる中で夏の初戦に臨んだ。
一回に石本彬主将の右前打に敵失が絡んで先制。二、五回にも大量得点を奪ってコールド勝ちした。石本は打席に入る前に迫田元監督の写真の隣に座るのがいつものルーティン。「思い切っていけ、しっかり(バットを)振ってこい、と言われている気がする」と笑う。
迫田元監督からの指導で心に残っていることは「たくさんある」。中でも1年生大会の時に「決勝だからといって力を入れず、いつも通り自分たちの力を出しなさい」と言われたことが心に残っている。目標の甲子園出場へ、まず1勝。「一戦一戦しっかり勝てるように、集中して調整していきたい」。いつも通りの力を出す準備をする。
👣第1シードの矢上が初戦敗退 「これが夏の大会なんだな」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7dca570de57cf8939457704323fa315464c146b4
(12日、第107回全国高校野球選手権島根大会2回戦 益田東7―2矢上)
昨秋の県大会で3位、今春の県大会、山陰大会で優勝し、波に乗っていた第1シードの矢上が初戦で敗れた。「これが夏の大会なんだな」。試合後、山本翔監督は1勝の難しさを口にした。
先発したエース右腕・和田蒼太投手(3年)は球威も制球もまずまずだったが、三回までに2点を失い、四回につかまった。3安打を浴びて途中降板。救援投手も打たれ、この回終了時点で7点のビハインドを背負った。だが五回表から3番手として登板した的場櫂哉投手(3年)がストレートとカーブを駆使して相手打線を三者凡退に打ち取り、流れを引き寄せかける。
その裏、的場投手、原道夢選手(3年)が連続安打で出塁して1死二、三塁の好機に、上田侑士主将(3年)が直球を右翼にはじき返し、2点を返した。だが、反撃もここまでだった。
「まだ全然、負けたという実感がない」。上田主将はそう言いつつ、後輩に夢を託した。「次の秋も春も勝って、圧倒的王者として夏の甲子園に行ってもらいたい」
📝神村伊賀、近大高専16強 上野は1点差で惜敗 高校野球三重大会
https://article.yahoo.co.jp/detail/f3a19e06c4d64a16c1747c1a0d47d7a4acfcbf11
〈名張青峰‐神村伊賀〉今大会初の伊賀地区勢同士の対戦。初回、名張青峰が4番・為井友樹選手(3年)の適時打で先制すると、対する神村伊賀は2回、池内吏選手(1年)の二塁打などで逆転。
6回に神村伊賀が池内選手の二塁打で1点を追加すれば、名張青峰も7回、松田竜空捕手(3年)の適時打で1点差に。8回、神村伊賀は池内選手のこの日3本目の二塁打から鴻池悠斗選手(2年)が中前に運び、貴重な追加点。
名張青峰は4投手の継投で要所を締めるも、神村伊賀は主将・西川篤夢投手(3年)が10奪三振で完投し、接戦をものにした。
神村伊賀の西川投手は「投球は後半になるにつれて抑えられるようになり、攻撃では下級生たちに助けられた。昨年に続いて16強に入れたので、この壁を越えて、支えてくれる人たちに感謝を伝え、恩返しをしたい」
4投手の球を受けた名張青峰の松田捕手は「これまで一緒にやってきた4人と最後まで一緒にやれて良かったし、楽しかった。(7回の適時打は)皆の声に応えたいと思って打席に立った」と、それぞれに試合を振り返った。
〈津東‐近大高専〉近大高専は初回、先発・野村哲平投手(3年)が先頭から連続四球と安打で無死満塁のピンチを背負うも、スクイズを外すなど無失点で切り抜ける。その裏、一死満塁から内野ゴロエラーの間に2点を先制し、1点を返された2回も主将・河口慶次郎選手(3年)の二塁打などで2点を加える。中盤は相手の小刻みな投手交代に決定打が出ず、6回には長打で2点差に迫られるが、その裏に先頭から6者連続安打などで一挙5点を奪い、試合を決めた。
試合後、近大高専の河口選手は「中盤は点が取れなかったが、焦ると守備の乱れにもつながるので、後半が勝負と意識し、相手に合わせずに行こうと声を掛けた。6回は皆コンパクトに打撃ができていた」と振り返った。
📝九州国際大付・楠城祐介監督が語る波乱の野球人生 「恥ずかしくないですか?」 プロスカウトだった父に問い続けた日々
https://news.yahoo.co.jp/articles/3c2e3f1408ae28c56da438c58672a3bf087d744c?page=1
福岡県屈指の強豪校である九州国際大付は、小倉の10度に次ぐ夏9度の甲子園出場を誇る。平日は4時間授業を終えた後、北九州市八幡東区枝光の校舎からバスを30分ほど走らせ、同市若松区蜑住にある専用グラウンドに移動。午後2時30分ごろから練習がスタートする。
【選手たちに余白を残す指導方針】
ほかの強豪校のように室内練習場や、豪華なウエイト器具があるわけではない。ただ、就任2年目の楠城祐介監督(元楽天、ヤクルト)は、グラウンドが2面ある環境を有効に利用している。
「A班がシートノックを終えて、B班がシートノックをする時に、もう一つのグラウンドでA班がバッティングを始めるというような流れですね。どちらかというと同じ練習を繰り返して、いろいろと迷わせないようにしています。人工芝でスタジアムのような環境もすごいとは思いますが、自分はこの環境がすごく気に入っています。子どもたちの野球の時間や、ボールを扱うことに関しては、ほかの高校より長くできていると思っています」
シートノック、打撃練習とルーティンワークをこなし、自主練へと移行したあと、18時過ぎにはグラウンド整備を終え、バスで学校内の寮へと戻っていく。土日の練習も、午前10時から14〜15時ごろには終了。オフシーズンは日曜を休日に充てることもある。選手たちに「余白」を残してやるのが楠城流の指導方針だ。
「練習をダラダラ長くやってもいいわけではありません。前監督の時からそういうスタイルなので、指導者として休ませることが怖いとか、そういうのはありません」
「前監督」とは、実父・楠城徹さんのことである。徹さんは小倉時代の1969年春の選抜大会に出場すると、早稲田大を経て、1973年ドラフト2位で太平洋(現・西武)に入団。捕手として活躍し、1980年限りで引退後は、西武で九州地区担当スカウトや一軍ヘッド兼バッテリーコーチ、スカウト部長などを歴任。2004年オフに30年在籍した西武を退団し、翌2005年から2012年まで楽天の編成部長やスカウト部長を務めた。
そして2014年に学生野球資格を回復すると、若生正広監督のあとを受け、同年8月、九州国際大付の監督に就任。春夏5度の甲子園に導き、2023年8月に勇退した。そうしてバトンを譲り受けた楠城監督は、父から口酸っぱく言われていることがある。
「父には『自分の采配で勝とうと思うな』とずっと言われています。九国には能力のある選手がたくさんいるので、自分の采配に酔って邪魔をしないことを心がけています。父も自分もプロ出身ですけど、プロほど基礎を叩き込まれるというか、日々の積み重ねが全て結果に出ると思っているので、慌ててもしょうがないし、試合になったからといって、何か特別な作戦を練って勝とうとは思っていません」
【一浪の末に青山学院大へ】
楠城監督は、父の現役引退から4年後の1984年、北九州市で生を受けた。2008年の楽天入団時、野村克也監督から「おまえも足が速いのか?」と問われたことがある。父は、プロ2年目の1975年に18盗塁をマークするなど、走れる捕手だった。もちろん、ダイヤモンドを颯爽と駆け回るユニホーム姿を見たことはない。少年時代に残る父のイメージは、スカウトとして球場などへ足を運ぶ際に、パリッと着こなしたスーツ姿だった。
「当時のスカウトは、ポロシャツやジャージー姿でもよかったようですが、スーツは(当時西武の管理部長だった)根本陸夫さんが始めたそうです。スーツ姿には相手への敬意が込められています。父は身なりや、ユニホームの着こなし、ベンチ内での態度など、そういうことを大切にしています。試合でも立って指揮を執っていたので、今もコーチを含めてみんな立っていますね」
楠城少年はそんな父の背中を見ながら、将来はプロ野球選手、そしてスカウトになりたいという夢を思い描いていった。父の母校でもある小倉に入学後は捕手として活躍。甲子園には届かなかったが、引退後は父と同じ東京六大学を目指し、中高6年間、家庭教師の下で勉強に励んだ。しかし結果は不合格。東都の大学の3月試験を受ける方向で話をすすめていたところ、父に「断ったから」と言い放たれた。
「最初は『えっ?』となって、どういうことかなと思ったら、『おまえが東京六大学でやりたいという気持ちはその程度なのか。将来の人生を考えたら大したことはない1年だから、浪人しなさい』と(笑)。正直なところ、いろんな知り合いの進路のお世話をしたりしていたのに、自分の息子はしてくれないのかと思い、母にはだいぶ八つ当たりしてしまいました」
早慶戦に憧れていた父は、早大に進学するためには伝統校の小倉へ入学するのが近道と考え、中学浪人をしてまで夢を叶えていた。さらに楠城監督は早生まれ(1月)。1年の浪人は、長い人生においてきっとプラスになる。息子の将来を見据え、いつもその成長を見守っていた。結局、浪人生活を選択し、当時、西武のスカウト部長を務めていた父の自宅があった埼玉・所沢市内から、高田馬場にある予備校に通いつめ猛勉強。再び東京六大学を目指すも、吉報は届かなった。しかし、東都の名門・青学大の合格を勝ち取った。さすがの父も、この時ばかりは反対しなかった。
【いつでも辞めたらいい】
当時の青学大には精鋭が揃っていた。浪人したことで、高市俊(元ヤクルト)、円谷英俊(元巨人)、大崎雄太朗(元西武)、横川史学(元楽天、巨人)と同級生となった。この4人は大学後にプロへと進んだ。
「レベルは高かったですね。2年間はほぼ手伝いだけでした。青学の全体練習は2、3時間で終わるんですが、個人練習が本当にすごくて、こんなに練習するんだという集団でした。寮でゆっくりしているのが怖かったです」
まずは1年間の浪人生活でなまった体を鍛え直すところからスタート。2年秋には打力を生かすため、外野にも挑戦しながら、ブルペン捕手としてベンチ入りし、代打のチャンスをもらった。ただ、日本大の那須野巧(元横浜、ロッテ)ら、戦国東都の好投手をわずか1打席で打ち崩すのは至難の業だ。
ある日の試合で三振した時のこと。神宮に視察で訪れていた父に聞いたことがある。 「恥ずかしくないですか?」いつものように敬語で問い、返答を待った。父とは中学時代から今までずっと、敬語で話す。
「おまえが恥ずかしいだけだろう。オレが野球をやっているわけじゃない」
メンバーに定着せず、サポート続きの日々に嫌気がさして退部を考えていた時もそうだった。直接言う勇気がなく、母から伝えてもらうと、「おまえの野球人生なんだから、いつでも辞めたらいい」と突き放された。冷たいと思ったこともあったが、今では本当に感謝している。
「今の子どもたちを見ていて、うまくいく選手もいれば、いかない選手もいるじゃないですか。親の過度な期待は、絶対に子どもを潰してしまうと思うんです。極端な話、試合に出る時は見に行き、出ない時は見に行かないという風になると、子どもが潰れてしまう原因になることはあると思いますね」
2年秋のリーグ戦が終わり、何かを変えなければいけないともがき、必死で練習しているうちに、左手有鉤骨を骨折した。しかし、このケガが「野球人生の転機だった」となった。
📝父から受け継いだ名門のバトン 九州国際大付・楠城祐介監督が自身初の甲子園へ挑む2度目の夏
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2025/07/11/post_73/?utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2025%2F07%2F11%2Fpost_72%2F&utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral
九州国際大付(福岡)を率いる楠城祐介監督は、2023年8月に父・楠城徹さんのあとを受け、春夏通算12度の甲子園出場を誇る強豪校の指揮を執ることになった。ともにプロを経験した親子による監督継承は、全国的に見ても珍しい。
【右の長距離砲として注目】
小倉高--青学大--松下電器(現・パナソニック)、そしてプロと、その球歴は華々しい。ただ、1浪の末に入学した青学大時代にもがき、苦しんでいた。高市俊(元ヤクルト)や円谷英俊(元巨人)、大崎雄太朗(元西武)、横川史学(元楽天、巨人)ら同級生のレベルに追いつこうと、必死にスイングを繰り返すも、2年冬に左手有鉤骨を骨折。一時は野球を辞めることさえ考えた。
父は「いつでも辞めたらいい」と一度は突き放したが、「もしまだ野球に未練があるんだったら、体を鍛えたらどうだ」とアドバイスすることも忘れなかった。
「そこからボディビルダーの方にいろいろとレクチャーを受けて体を鍛え直しました。すると、骨折が治ったあとに一気に打球の飛距離が伸びて、そこから試合に使ってもらえるようになりました。本当に恵まれていましたね」
肉体改造の成果もあり、3年春からDHでスタメンを勝ち取ると、4年春は5番左翼に定着してチームの3連覇に貢献。同年秋には4番も任されるなど、大学通算4本塁打を放ち、プロからも注目される右の長距離砲へと成長を遂げた。
「プロになりたいというのは高校の時から漠然と思っていましたけど、もしかしたら手が届くところにあるかもしれないと思ったのは大学3年生の頃ですね。プロ志望届も提出しました」
ただ、ドラフト当日、同期の4人が指名されるのを横目に、自身の名前は最後まで呼ばれることはなかった。その後、一度は断りを入れていた社会人の松下電器が枠を空けて待ってくれていたことが判明。「本当に救ってもらいました」。あらためて松下電器に頭を下げてくれた河原井正雄監督(当時)ら、周囲に感謝しつつ、入社を決めた。
【楽天に5位で指名され入団】
松下電器では、野球選手の前に、社会人として学びを得るに十分な2年間だった。野球部員だからといって、特別扱いはなし。一般の新入社員と同じく、2週間ほどの研修をみっちりとこなした。配属部署には創業者である松下幸之助さんの「素直」という言葉が掲げられていた。
「高校生もそうですけど、素直な心を持っている選手のほうが成長しますよね。松下球場(現・パナソニックベースボールスタジアム)にも、松下政経塾の『五誓』のなかで最初に挙げられている『素志貫徹の事』が掲げられており、自分の好きな言葉である『成功の要諦は成功するまで続けるところにある』が書いてあります。松下幸之助さんから受けた影響は大きいです」
アマチュア最高峰の大会である都市対抗にも2年連続で出場。2年目の2008年には、再びプロ注目の外野手として数球団が指名リストに挙げていた。そこには、父が編成部長を務めていた楽天も含まれていた。
「青学から先にプロに入った4人を追いかけたいという思いが強かったですね。父からは『自分と一緒のチームが嫌とかはあるか?』という確認はありました。父の息子に生まれた以上は、何を選択しても『親の七光り』と言われます。そこから逃げ出したくないという思いはありましたね」
そうして楽天からドラフト5位指名を受け、大学時代に手の届かなかったプロ入りを果たすことになる。
【プロ引退後、父の誘いでコーチに就任】
2年目の2010年に一軍に初昇格し、プロ初安打をマークするなど4試合に出場。翌2011年1月には結婚を発表し、勝負の3年目へ向けて意気込んでいた矢先に、東日本大震災が起こった。
「震災の時は教育リーグで浦和にいて、仙台に帰ることができたのは確か5月ぐらいでした。母がひとりで仙台にいたのですが、居酒屋さんの店主の方が母の面倒をいろいろと見てくださって、人の温かさや絆のようなものを強く感じることができました。震災が起こった3月11日には、自分が経験したことを生徒たちに伝えるようにはしています」
激動のなかで始まったシーズンは最後まで一軍に昇格することなく、オフに交換トレードでヤクルトへ移籍。2013年には二軍で打率.312、6本塁打を放ったが、小川淳司一軍監督(当時)から2年間で一度も声がかかることなく、戦力外通告を受けた。5年間でわずか1安打だった。
「楽天時代の3年間は監督が毎年変わり(野村克也監督、マーティ・ブラウン監督、星野仙一監督)、いろいろな指導者の野球を知ることができたという面では、すごくいい経験をさせてもらいました。情けない成績ではありますけど、高校、大学、社会人、プロとすべてのクラスを経験できたのは自分の強みかなと思っています」
現役引退後は父のようなスカウトになることを次なる目標に、野球塾を手伝っていた。しかし2016年、その父からお呼びがかかった。監督を務める九州国際大付の指導者が足りないので、コーチになってほしいという。
「埼玉に家を買っていたのですが、それを処分して福岡に引っ越しました。最初は3年という約束で来たんですけど、騙されました(笑)」
同年春から故郷に戻り、九州国際大付のコーチとして父を支え始め、すぐに夏の甲子園へ出場。その後はなかなか結果が出なかったが、2022年に春夏連続出場、そして翌2023年に夏の福岡連覇を果たした。その時、父は72歳。夏前には勇退を決断し、甲子園でユニホームを脱いだ。
「父は70歳前後になった時に監督交代の話もちらほらありましたが、そこから怒濤のように勝ち始めて、息子ながらにやっぱりすごいなと思いました。今でも特別顧問として残り、中学生を見にいってくれたり、B戦の采配をしてくれたりと、支えてもらいっぱなしです」
【0を1にするのはすごく難しい】
その後、学校側から監督就任を要請され、一度は固辞するも、父から説得され、あとを引き継いだ。今年で2年目。今春の北九州市長杯では注目の二刀流1年生・岩見輝晟を外野で抜擢し、本塁打を放つなど投打がかみ合い、自身初の優勝タイトルを手に入れた。
「岩見は、持っているものは本当にすばらしいです。今の時点では3番を打たせるつもりで、バッティングが注目されていますが、投げても130キロ台後半が出ているので、3年時には150キロ近く出るようになるとは思います」
岩見は中学時代、ヤング志免レッドスピリッツ(福岡)で135キロをマークした188センチの長身左腕。全国の強豪約40校から勧誘を受けたが、九州国際大付に憧れ、地元から甲子園に出場する道を選択した。今夏は背番号9でベンチ入り。「あまり緊張しないで、自分で勝つぐらいの気持ちでやっていきたいです。そして甲子園に行って優勝して、将来的には高校侍ジャパンにも選ばれて、ドラ1でプロに行きたいです」と頼もしい。
楠城監督はまだ甲子園出場の経験がない。父は九州国際大付を9年間率い、春夏5度の甲子園に導いた。その父を追う監督人生は、まだ始まったばかりだ。
「0を1にするのはすごく難しいなと感じています。まだ自分が監督になってから甲子園は0回で、それを1回にするのは相当なパワーが必要です。この夏は初戦から、まずは最初の1点を取ることを意識してやっていこうと選手たちには言っています。彼らが持っている力を発揮したら間違いなく優勝をつかめるところにありますので、どうやって1点を取るか、そしてその1点をどうやって守るかに注視しながら、一戦一戦、戦うごとに強くなっていきたいです」
真っ黒に日焼けした顔が、充実ぶりを物語る。今夏の福岡を制すれば、母校・小倉の最多10度に手が届く。41歳の若き指揮官は0を1にするために、選手を信じて2度目の夏に挑む。
4日目第1試合 高野山-粉河 9:00?~10:43?
一二三四五六七八九十計HE
高 野 山000000000 020
粉 河10000000X 150
4日目第2試合 南部龍神-桐蔭 11:30?~13:38
一二三四五六七八九十計HE
桐 蔭012020000 5120
南部龍神000003010 481
4日目第3試合 市和歌山-紀北工 14:20?~16:31
一二三四五六七八九十計HE
紀 北 工000000000 013
市和歌山00221000X 591
⚾明日の和歌山大会組み合わせ(5日目 2回戦)
09:00~ 神 島 -田 辺 工
☆☆ 11:30~ 初芝 橋本- 向 陽
14:00~ 橋 本 -串本 古座
明日は昼過ぎからの天気が心配ですが、、、、、母校が3回戦進出を果たしたので、4時起床 始発電車に乗って「僕だけの聖地・紀三井寺」に駆け付けます。
第3試合の観衆はかなり少ないと思われるので屋根下に潜り込めたら・・・。10時頃早い段階で紀三井寺名物・どんぶり鉢かき氷シロップかけ放題にありつきたいと。
📣徳島大会数日間 二部制に変更
http://www.tk2.nmt.ne.jp/~tokushimakoyaren/%E7%AC%AC107%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E9%87%8E%E7%90%83%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89%EF%BC%880712%E6%99%82%E9%96%93%E5%A4%89%E6%9B%B4%EF%BC%89.pdf
☝ベンチに置かれた「師」の遺影 広島の竹原高校、迫田穆成さんの指導を胸に初戦突破 全国高校野球選手権広島大会
https://news.yahoo.co.jp/articles/c247189ecf8bb352dffab33b9a92226ae24f5b76
【全国高校野球選手権広島大会2回戦 竹原10―0美鈴が丘(13日・鶴岡一人記念球場)】
「師」が見守る前で、竹原が五回コールドで3回戦に駒を進めた。
「師」とは、2023年12月に84歳で亡くなった元監督の故迫田穆成さん。3年生は、1年時に指導を受けた。この日はベンチに遺影が置かれる中で夏の初戦に臨んだ。
一回に石本彬主将の右前打に敵失が絡んで先制。二、五回にも大量得点を奪ってコールド勝ちした。石本は打席に入る前に迫田元監督の写真の隣に座るのがいつものルーティン。「思い切っていけ、しっかり(バットを)振ってこい、と言われている気がする」と笑う。
迫田元監督からの指導で心に残っていることは「たくさんある」。中でも1年生大会の時に「決勝だからといって力を入れず、いつも通り自分たちの力を出しなさい」と言われたことが心に残っている。目標の甲子園出場へ、まず1勝。「一戦一戦しっかり勝てるように、集中して調整していきたい」。いつも通りの力を出す準備をする。
👣第1シードの矢上が初戦敗退 「これが夏の大会なんだな」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7dca570de57cf8939457704323fa315464c146b4
(12日、第107回全国高校野球選手権島根大会2回戦 益田東7―2矢上)
昨秋の県大会で3位、今春の県大会、山陰大会で優勝し、波に乗っていた第1シードの矢上が初戦で敗れた。「これが夏の大会なんだな」。試合後、山本翔監督は1勝の難しさを口にした。
先発したエース右腕・和田蒼太投手(3年)は球威も制球もまずまずだったが、三回までに2点を失い、四回につかまった。3安打を浴びて途中降板。救援投手も打たれ、この回終了時点で7点のビハインドを背負った。だが五回表から3番手として登板した的場櫂哉投手(3年)がストレートとカーブを駆使して相手打線を三者凡退に打ち取り、流れを引き寄せかける。
その裏、的場投手、原道夢選手(3年)が連続安打で出塁して1死二、三塁の好機に、上田侑士主将(3年)が直球を右翼にはじき返し、2点を返した。だが、反撃もここまでだった。
「まだ全然、負けたという実感がない」。上田主将はそう言いつつ、後輩に夢を託した。「次の秋も春も勝って、圧倒的王者として夏の甲子園に行ってもらいたい」
📝神村伊賀、近大高専16強 上野は1点差で惜敗 高校野球三重大会
https://article.yahoo.co.jp/detail/f3a19e06c4d64a16c1747c1a0d47d7a4acfcbf11
〈名張青峰‐神村伊賀〉今大会初の伊賀地区勢同士の対戦。初回、名張青峰が4番・為井友樹選手(3年)の適時打で先制すると、対する神村伊賀は2回、池内吏選手(1年)の二塁打などで逆転。
6回に神村伊賀が池内選手の二塁打で1点を追加すれば、名張青峰も7回、松田竜空捕手(3年)の適時打で1点差に。8回、神村伊賀は池内選手のこの日3本目の二塁打から鴻池悠斗選手(2年)が中前に運び、貴重な追加点。
名張青峰は4投手の継投で要所を締めるも、神村伊賀は主将・西川篤夢投手(3年)が10奪三振で完投し、接戦をものにした。
神村伊賀の西川投手は「投球は後半になるにつれて抑えられるようになり、攻撃では下級生たちに助けられた。昨年に続いて16強に入れたので、この壁を越えて、支えてくれる人たちに感謝を伝え、恩返しをしたい」
4投手の球を受けた名張青峰の松田捕手は「これまで一緒にやってきた4人と最後まで一緒にやれて良かったし、楽しかった。(7回の適時打は)皆の声に応えたいと思って打席に立った」と、それぞれに試合を振り返った。
〈津東‐近大高専〉近大高専は初回、先発・野村哲平投手(3年)が先頭から連続四球と安打で無死満塁のピンチを背負うも、スクイズを外すなど無失点で切り抜ける。その裏、一死満塁から内野ゴロエラーの間に2点を先制し、1点を返された2回も主将・河口慶次郎選手(3年)の二塁打などで2点を加える。中盤は相手の小刻みな投手交代に決定打が出ず、6回には長打で2点差に迫られるが、その裏に先頭から6者連続安打などで一挙5点を奪い、試合を決めた。
試合後、近大高専の河口選手は「中盤は点が取れなかったが、焦ると守備の乱れにもつながるので、後半が勝負と意識し、相手に合わせずに行こうと声を掛けた。6回は皆コンパクトに打撃ができていた」と振り返った。
📝九州国際大付・楠城祐介監督が語る波乱の野球人生 「恥ずかしくないですか?」 プロスカウトだった父に問い続けた日々
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福岡県屈指の強豪校である九州国際大付は、小倉の10度に次ぐ夏9度の甲子園出場を誇る。平日は4時間授業を終えた後、北九州市八幡東区枝光の校舎からバスを30分ほど走らせ、同市若松区蜑住にある専用グラウンドに移動。午後2時30分ごろから練習がスタートする。
【選手たちに余白を残す指導方針】
ほかの強豪校のように室内練習場や、豪華なウエイト器具があるわけではない。ただ、就任2年目の楠城祐介監督(元楽天、ヤクルト)は、グラウンドが2面ある環境を有効に利用している。
「A班がシートノックを終えて、B班がシートノックをする時に、もう一つのグラウンドでA班がバッティングを始めるというような流れですね。どちらかというと同じ練習を繰り返して、いろいろと迷わせないようにしています。人工芝でスタジアムのような環境もすごいとは思いますが、自分はこの環境がすごく気に入っています。子どもたちの野球の時間や、ボールを扱うことに関しては、ほかの高校より長くできていると思っています」
シートノック、打撃練習とルーティンワークをこなし、自主練へと移行したあと、18時過ぎにはグラウンド整備を終え、バスで学校内の寮へと戻っていく。土日の練習も、午前10時から14〜15時ごろには終了。オフシーズンは日曜を休日に充てることもある。選手たちに「余白」を残してやるのが楠城流の指導方針だ。
「練習をダラダラ長くやってもいいわけではありません。前監督の時からそういうスタイルなので、指導者として休ませることが怖いとか、そういうのはありません」
「前監督」とは、実父・楠城徹さんのことである。徹さんは小倉時代の1969年春の選抜大会に出場すると、早稲田大を経て、1973年ドラフト2位で太平洋(現・西武)に入団。捕手として活躍し、1980年限りで引退後は、西武で九州地区担当スカウトや一軍ヘッド兼バッテリーコーチ、スカウト部長などを歴任。2004年オフに30年在籍した西武を退団し、翌2005年から2012年まで楽天の編成部長やスカウト部長を務めた。
そして2014年に学生野球資格を回復すると、若生正広監督のあとを受け、同年8月、九州国際大付の監督に就任。春夏5度の甲子園に導き、2023年8月に勇退した。そうしてバトンを譲り受けた楠城監督は、父から口酸っぱく言われていることがある。
「父には『自分の采配で勝とうと思うな』とずっと言われています。九国には能力のある選手がたくさんいるので、自分の采配に酔って邪魔をしないことを心がけています。父も自分もプロ出身ですけど、プロほど基礎を叩き込まれるというか、日々の積み重ねが全て結果に出ると思っているので、慌ててもしょうがないし、試合になったからといって、何か特別な作戦を練って勝とうとは思っていません」
【一浪の末に青山学院大へ】
楠城監督は、父の現役引退から4年後の1984年、北九州市で生を受けた。2008年の楽天入団時、野村克也監督から「おまえも足が速いのか?」と問われたことがある。父は、プロ2年目の1975年に18盗塁をマークするなど、走れる捕手だった。もちろん、ダイヤモンドを颯爽と駆け回るユニホーム姿を見たことはない。少年時代に残る父のイメージは、スカウトとして球場などへ足を運ぶ際に、パリッと着こなしたスーツ姿だった。
「当時のスカウトは、ポロシャツやジャージー姿でもよかったようですが、スーツは(当時西武の管理部長だった)根本陸夫さんが始めたそうです。スーツ姿には相手への敬意が込められています。父は身なりや、ユニホームの着こなし、ベンチ内での態度など、そういうことを大切にしています。試合でも立って指揮を執っていたので、今もコーチを含めてみんな立っていますね」
楠城少年はそんな父の背中を見ながら、将来はプロ野球選手、そしてスカウトになりたいという夢を思い描いていった。父の母校でもある小倉に入学後は捕手として活躍。甲子園には届かなかったが、引退後は父と同じ東京六大学を目指し、中高6年間、家庭教師の下で勉強に励んだ。しかし結果は不合格。東都の大学の3月試験を受ける方向で話をすすめていたところ、父に「断ったから」と言い放たれた。
「最初は『えっ?』となって、どういうことかなと思ったら、『おまえが東京六大学でやりたいという気持ちはその程度なのか。将来の人生を考えたら大したことはない1年だから、浪人しなさい』と(笑)。正直なところ、いろんな知り合いの進路のお世話をしたりしていたのに、自分の息子はしてくれないのかと思い、母にはだいぶ八つ当たりしてしまいました」
早慶戦に憧れていた父は、早大に進学するためには伝統校の小倉へ入学するのが近道と考え、中学浪人をしてまで夢を叶えていた。さらに楠城監督は早生まれ(1月)。1年の浪人は、長い人生においてきっとプラスになる。息子の将来を見据え、いつもその成長を見守っていた。結局、浪人生活を選択し、当時、西武のスカウト部長を務めていた父の自宅があった埼玉・所沢市内から、高田馬場にある予備校に通いつめ猛勉強。再び東京六大学を目指すも、吉報は届かなった。しかし、東都の名門・青学大の合格を勝ち取った。さすがの父も、この時ばかりは反対しなかった。
【いつでも辞めたらいい】
当時の青学大には精鋭が揃っていた。浪人したことで、高市俊(元ヤクルト)、円谷英俊(元巨人)、大崎雄太朗(元西武)、横川史学(元楽天、巨人)と同級生となった。この4人は大学後にプロへと進んだ。
「レベルは高かったですね。2年間はほぼ手伝いだけでした。青学の全体練習は2、3時間で終わるんですが、個人練習が本当にすごくて、こんなに練習するんだという集団でした。寮でゆっくりしているのが怖かったです」
まずは1年間の浪人生活でなまった体を鍛え直すところからスタート。2年秋には打力を生かすため、外野にも挑戦しながら、ブルペン捕手としてベンチ入りし、代打のチャンスをもらった。ただ、日本大の那須野巧(元横浜、ロッテ)ら、戦国東都の好投手をわずか1打席で打ち崩すのは至難の業だ。
ある日の試合で三振した時のこと。神宮に視察で訪れていた父に聞いたことがある。 「恥ずかしくないですか?」いつものように敬語で問い、返答を待った。父とは中学時代から今までずっと、敬語で話す。
「おまえが恥ずかしいだけだろう。オレが野球をやっているわけじゃない」
メンバーに定着せず、サポート続きの日々に嫌気がさして退部を考えていた時もそうだった。直接言う勇気がなく、母から伝えてもらうと、「おまえの野球人生なんだから、いつでも辞めたらいい」と突き放された。冷たいと思ったこともあったが、今では本当に感謝している。
「今の子どもたちを見ていて、うまくいく選手もいれば、いかない選手もいるじゃないですか。親の過度な期待は、絶対に子どもを潰してしまうと思うんです。極端な話、試合に出る時は見に行き、出ない時は見に行かないという風になると、子どもが潰れてしまう原因になることはあると思いますね」
2年秋のリーグ戦が終わり、何かを変えなければいけないともがき、必死で練習しているうちに、左手有鉤骨を骨折した。しかし、このケガが「野球人生の転機だった」となった。
📝父から受け継いだ名門のバトン 九州国際大付・楠城祐介監督が自身初の甲子園へ挑む2度目の夏
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九州国際大付(福岡)を率いる楠城祐介監督は、2023年8月に父・楠城徹さんのあとを受け、春夏通算12度の甲子園出場を誇る強豪校の指揮を執ることになった。ともにプロを経験した親子による監督継承は、全国的に見ても珍しい。
【右の長距離砲として注目】
小倉高--青学大--松下電器(現・パナソニック)、そしてプロと、その球歴は華々しい。ただ、1浪の末に入学した青学大時代にもがき、苦しんでいた。高市俊(元ヤクルト)や円谷英俊(元巨人)、大崎雄太朗(元西武)、横川史学(元楽天、巨人)ら同級生のレベルに追いつこうと、必死にスイングを繰り返すも、2年冬に左手有鉤骨を骨折。一時は野球を辞めることさえ考えた。
父は「いつでも辞めたらいい」と一度は突き放したが、「もしまだ野球に未練があるんだったら、体を鍛えたらどうだ」とアドバイスすることも忘れなかった。
「そこからボディビルダーの方にいろいろとレクチャーを受けて体を鍛え直しました。すると、骨折が治ったあとに一気に打球の飛距離が伸びて、そこから試合に使ってもらえるようになりました。本当に恵まれていましたね」
肉体改造の成果もあり、3年春からDHでスタメンを勝ち取ると、4年春は5番左翼に定着してチームの3連覇に貢献。同年秋には4番も任されるなど、大学通算4本塁打を放ち、プロからも注目される右の長距離砲へと成長を遂げた。
「プロになりたいというのは高校の時から漠然と思っていましたけど、もしかしたら手が届くところにあるかもしれないと思ったのは大学3年生の頃ですね。プロ志望届も提出しました」
ただ、ドラフト当日、同期の4人が指名されるのを横目に、自身の名前は最後まで呼ばれることはなかった。その後、一度は断りを入れていた社会人の松下電器が枠を空けて待ってくれていたことが判明。「本当に救ってもらいました」。あらためて松下電器に頭を下げてくれた河原井正雄監督(当時)ら、周囲に感謝しつつ、入社を決めた。
【楽天に5位で指名され入団】
松下電器では、野球選手の前に、社会人として学びを得るに十分な2年間だった。野球部員だからといって、特別扱いはなし。一般の新入社員と同じく、2週間ほどの研修をみっちりとこなした。配属部署には創業者である松下幸之助さんの「素直」という言葉が掲げられていた。
「高校生もそうですけど、素直な心を持っている選手のほうが成長しますよね。松下球場(現・パナソニックベースボールスタジアム)にも、松下政経塾の『五誓』のなかで最初に挙げられている『素志貫徹の事』が掲げられており、自分の好きな言葉である『成功の要諦は成功するまで続けるところにある』が書いてあります。松下幸之助さんから受けた影響は大きいです」
アマチュア最高峰の大会である都市対抗にも2年連続で出場。2年目の2008年には、再びプロ注目の外野手として数球団が指名リストに挙げていた。そこには、父が編成部長を務めていた楽天も含まれていた。
「青学から先にプロに入った4人を追いかけたいという思いが強かったですね。父からは『自分と一緒のチームが嫌とかはあるか?』という確認はありました。父の息子に生まれた以上は、何を選択しても『親の七光り』と言われます。そこから逃げ出したくないという思いはありましたね」
そうして楽天からドラフト5位指名を受け、大学時代に手の届かなかったプロ入りを果たすことになる。
【プロ引退後、父の誘いでコーチに就任】
2年目の2010年に一軍に初昇格し、プロ初安打をマークするなど4試合に出場。翌2011年1月には結婚を発表し、勝負の3年目へ向けて意気込んでいた矢先に、東日本大震災が起こった。
「震災の時は教育リーグで浦和にいて、仙台に帰ることができたのは確か5月ぐらいでした。母がひとりで仙台にいたのですが、居酒屋さんの店主の方が母の面倒をいろいろと見てくださって、人の温かさや絆のようなものを強く感じることができました。震災が起こった3月11日には、自分が経験したことを生徒たちに伝えるようにはしています」
激動のなかで始まったシーズンは最後まで一軍に昇格することなく、オフに交換トレードでヤクルトへ移籍。2013年には二軍で打率.312、6本塁打を放ったが、小川淳司一軍監督(当時)から2年間で一度も声がかかることなく、戦力外通告を受けた。5年間でわずか1安打だった。
「楽天時代の3年間は監督が毎年変わり(野村克也監督、マーティ・ブラウン監督、星野仙一監督)、いろいろな指導者の野球を知ることができたという面では、すごくいい経験をさせてもらいました。情けない成績ではありますけど、高校、大学、社会人、プロとすべてのクラスを経験できたのは自分の強みかなと思っています」
現役引退後は父のようなスカウトになることを次なる目標に、野球塾を手伝っていた。しかし2016年、その父からお呼びがかかった。監督を務める九州国際大付の指導者が足りないので、コーチになってほしいという。
「埼玉に家を買っていたのですが、それを処分して福岡に引っ越しました。最初は3年という約束で来たんですけど、騙されました(笑)」
同年春から故郷に戻り、九州国際大付のコーチとして父を支え始め、すぐに夏の甲子園へ出場。その後はなかなか結果が出なかったが、2022年に春夏連続出場、そして翌2023年に夏の福岡連覇を果たした。その時、父は72歳。夏前には勇退を決断し、甲子園でユニホームを脱いだ。
「父は70歳前後になった時に監督交代の話もちらほらありましたが、そこから怒濤のように勝ち始めて、息子ながらにやっぱりすごいなと思いました。今でも特別顧問として残り、中学生を見にいってくれたり、B戦の采配をしてくれたりと、支えてもらいっぱなしです」
【0を1にするのはすごく難しい】
その後、学校側から監督就任を要請され、一度は固辞するも、父から説得され、あとを引き継いだ。今年で2年目。今春の北九州市長杯では注目の二刀流1年生・岩見輝晟を外野で抜擢し、本塁打を放つなど投打がかみ合い、自身初の優勝タイトルを手に入れた。
「岩見は、持っているものは本当にすばらしいです。今の時点では3番を打たせるつもりで、バッティングが注目されていますが、投げても130キロ台後半が出ているので、3年時には150キロ近く出るようになるとは思います」
岩見は中学時代、ヤング志免レッドスピリッツ(福岡)で135キロをマークした188センチの長身左腕。全国の強豪約40校から勧誘を受けたが、九州国際大付に憧れ、地元から甲子園に出場する道を選択した。今夏は背番号9でベンチ入り。「あまり緊張しないで、自分で勝つぐらいの気持ちでやっていきたいです。そして甲子園に行って優勝して、将来的には高校侍ジャパンにも選ばれて、ドラ1でプロに行きたいです」と頼もしい。
楠城監督はまだ甲子園出場の経験がない。父は九州国際大付を9年間率い、春夏5度の甲子園に導いた。その父を追う監督人生は、まだ始まったばかりだ。
「0を1にするのはすごく難しいなと感じています。まだ自分が監督になってから甲子園は0回で、それを1回にするのは相当なパワーが必要です。この夏は初戦から、まずは最初の1点を取ることを意識してやっていこうと選手たちには言っています。彼らが持っている力を発揮したら間違いなく優勝をつかめるところにありますので、どうやって1点を取るか、そしてその1点をどうやって守るかに注視しながら、一戦一戦、戦うごとに強くなっていきたいです」
真っ黒に日焼けした顔が、充実ぶりを物語る。今夏の福岡を制すれば、母校・小倉の最多10度に手が届く。41歳の若き指揮官は0を1にするために、選手を信じて2度目の夏に挑む。