自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
👣松阪〜熊野、路線バス廃止「残念」 本州で2番目に長い135キロ 三重交通
https://news.yahoo.co.jp/articles/7a084c5085493bcb5ef171ea753812716ed570c2
半世紀にわたり活躍 最後の運行、別れ惜しむ
三重県松阪市から熊野市まで約135キロを4時間半ほどかけて結ぶ、本州で2番目に長い三重交通の路線バス「松阪熊野線」が3月31日、運行を終え、半世紀以上の歴史に幕を下ろした。松阪市京町のJR松阪駅前を午後2時15分に出発した最終便には約30人が乗り込み、周囲では10人ほどが盛んにシャッターを切りその姿を写真に収めた。
同社によると同路線は、本州では奈良交通の大和八木駅前と新宮駅を走る「八木新宮線」の166.9キロに次いで長い。1970(昭和45)年10月に松阪市と和歌山県那智勝浦を結ぶ「南紀特急バス」として始まり、起点や終点、路線変更を経て2018(平成30)年10月に現在の系統になった。
利用者のほとんどは松阪市から多気郡大台町までで、度会郡大紀町から熊野市までは少なかった。国や県の補助で運行を継続したものの、1日当たりの補助要件を下回る中で、24(令和6)年10月から土日祝日を運休し、平日も1日3往復から1往復に減便していた。
JR松阪駅前から最終便に乗り込んだ大阪市の自営業の渡部卓史さん(39)は「のんびりと移動ができる路線バスが好きなので、廃止はとてもさみしい」、大阪府内に住む中国浙江省出身の大学生の男性(24)は「北海道から九州までバスで旅をしました。松阪熊野線は一度台風で諦めたことがあるので、今回は終点まで乗りたいです」とそれぞれ話した。
最終便の撮影にやってきた津市の50代男性は「地元に密着したバスが好きで写真を撮っています。この路線には伊勢志摩サミットの年に乗ったことがあり、思い出があります」とバスを見送った。
今春大学を卒業し1日から社会人という同市の松本遥紀さん(22)はカメラを手に「松阪熊野線は国道42号を下って松阪から山を抜けて、海までの風景の移り変わりが魅力でした。長い間お疲れさまでした」と別れを惜しんだ。
☝センバツ2025 準優勝旗掲げ 智弁和歌山、堂々凱旋
https://news.yahoo.co.jp/articles/d2e5cbd416a525aa30a46e2616029e4a71d74f14
第97回選抜高校野球大会で準優勝した智弁和歌山の選手らが31日、和歌山市の同校に凱旋(がいせん)した。1994年以来31年ぶりのセンバツ優勝は逃したが、5試合を戦い抜いたナインの健闘をたたえ、生徒や保護者、教職員ら約150人が出迎えた。
30日の決勝では横浜(神奈川)を相手に序盤は接戦だったが、中盤に点差を広げられた。終盤に追い上げを見せたものの、試合後のミーティングでは中谷仁監督から選手たちに「自分たちの覚悟が足りなかった」という話があったという。
選手らは朝に大阪市の宿舎のホテルロビーに集合。未明まで眠れなかったという山田希翔主将(3年)は「あと一つ勝ちきれず悔しい。夏に向け、もっとレベルを上げていく」と決意を新たにしていた。選手らはホテルのスタッフに謝意を述べた後、午前9時すぎにバスで出発。選手らを見送ったスタッフの1人は「少しでもパワーを届けられたならよかった。ホテル側も力をもらった」と笑顔で手を振っていた。
午前11時ごろ、準優勝旗を手にした山田主将を先頭に、選手が首から準優勝メダルをかけて学校に到着すると、応援団とチアリーダーの計36人が花道を作って出迎えた。ブラスバンド部64人は、“魔曲”と呼ばれる「ジョックロック」誕生前の同校チャンステーマ「ラシアンカウボーイ」を演奏。応援団顧問の坂上寿英さんが「今大会で最も得点が入った曲。選手に良い気分で帰ってきてもらいたかった」と選曲したという。
準優勝の報告会で、藤田清司・智弁学園理事長が「夏も絶対に決勝に行ってください」と激励すると、ナインは口々に「次こそは優勝旗を持ち帰る」と誓い合い、早くも再スタートを切った。中でも、エースの渡辺颯人(3年)、リードオフマンの藤田一波(同)は、3日から始まる18歳以下の日本代表候補選手強化合宿に参加する。渡辺は「夏には『チームを勝たせる投手』になりたい」と更なる成長を期し、藤田は「他校の練習への意識や内容をチームに持ち帰りたい」と、代表での経験をチームに生かすと決意していた。
📝高校球界に地殻変動】「大阪桐蔭は完成された子が多い。うちは高校野球で伸びしろのある子を育てたい」大阪学院大高の「育成ビジョン」と「恵まれた練習環境」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d5a203a9a00642b1a78623315ef02cd3e252a635
近年、プロ野球を目指す有望中学生が進学する学校を選択する上で重視するのは、甲子園への出場のしやすさではなく、自身が最も成長できる練習環境や安心した生活を寮で送れるかという点だ。
たとえば、昨春のセンバツを制した健大高崎の1年生エースだった佐藤龍月(昨夏にトミー・ジョン手術を受け、今回のセンバツではマウンドに上がることができないものの、代打・代走要員として背番号18でベンチ入り)。彼の場合は大阪桐蔭の熱心な勧誘を断り、練習設備の整った同校へと進学した。
そして、大阪桐蔭のライバル校・大阪学院大高が将来性にあふれる中学生に選ばれる理由も、充実した練習環境にある。
170キロの打撃マシンにラプソードも
2022年に完成した大阪学院大高のグラウンドは外野が全面人工芝で、巨大な室内練習場も併設。センター後方にある建物の2階にはマネージャーたちが補食を作ったり、選手が食事できるスペースがあり、監督室からは練習中のグラウンドを見下ろすことも可能だ。また、辻盛英一監督(48)の就任後には、170キロが出る打撃マシンに弾道測定機器のラプソードも導入された。まるでプロの練習施設のようである。
寮費も食費込みで6万円と安く、食事が足りない場合はUber Eatsなどを利用しながら成長期にあたる球児のお腹を満たしている。辻盛監督は言う。
「うちは学校が野球部に力を入れると決めてから環境が整ってきました。野球部に力を入れるのは、決して生徒集めが目的ではありません。大阪学院大というのは経営状態が良くて、無借金経営なんです。キャンパスも梅田に近くて、生徒集めにもあまり苦労はしていない。ただひとつ、全国的な知名度がないんです。大阪学院はバスケ部もゴルフ部も強豪校で、大学の卒業生にはマラソンの高橋尚子さんがいます。スポーツに力を入れているのに、いまいち、知名度が上がらない。過去に一度だけ、大阪学院大高は甲子園に出場(1996年のセンバツ)していますが、その時は学校が華やかに盛り上がったそうなんです。そこで、本腰を入れて野球部に力を入れようとなったんです」
大阪桐蔭がスカウト力を背景に高校野球に一時代を築き、そして大阪学院大高も令和の時代のスカウティング方法で選手を集め、大阪桐蔭に肉薄し、甲子園にもあと一歩のところまできた。今夏もしくは数年のうちに甲子園出場を果たすことができれば、一気に大阪の勢力図が塗り変わる可能性を秘めている。
「高校野球で伸びしろのある子を育てたい」
なぜ大阪桐蔭のOBは近年、プロで活躍できていないのか──辻盛監督にそう問うとこんな私見を口にした。
「大阪桐蔭に入る子を見ていると、中学時点である程度、完成された子が多いですよね。僕自身は2年半という高校野球で伸びしろのある子を育てたい。私が監督を務めていた大阪公立大というのは、名門でもなければ強豪大学でもなかった。だから入部してくる選手のレベルはそこまで高くなかったんです。どういう子が伸びて、どういう子は伸びないのかは、データを見ればだいたいわかりますね。そうした判断をしながら、チームを作っていきました」
辻盛監督が重視するデータとは何なのか。
「走り方や、垂直跳びや背筋力の数値。身体のフォルムも気にしています。つまり、野球の技術はなかったとしても、身体能力の高い子にしっかりしたトレーニングと、野球の技術を身につけさせたら、大きく成長していくわけです」
もちろん、大阪桐蔭の人気が落ちたわけではない。たとえベンチ入りできなくとも、関東や関西の名門大学への進学が期待できることは中学生やその保護者にとっては大きな魅力だろう。
今春には同校OBの中村剛也の息子(世田谷西シニア)のほか、東京城南ボーイズの大型左腕が進学する。また、大阪学院への進学を希望していた選手が、中学卒業間近になっても熱心な勧誘を受け、土壇場で大阪桐蔭に進路を変更したという。
是が非でも獲得したい選手がいたら、合格発表の日まで獲得を諦めない西谷監督のなりふり構わぬスカウティングは今も健在である。
大阪桐蔭に待つ運命は捲土重来か、それとも盛者必衰か――。
📝江川卓17歳の剛速球「あんなボール、頭に当たったら死にますね」達川光男が戦慄…「打球が前に飛ばん」「速すぎてバントもできん」広島商の“奇策”
https://news.yahoo.co.jp/articles/6062a6dee9ca1f02c7f53a275268014dd4df38d0?page=1
およそ半世紀前の1973年、作新学院の江川卓(当時17歳)が初めて甲子園のマウンドに上がった。バットにボールを当てることすら困難な規格外のピッチング――「攻略不可能」と思われていた怪物投手は、なぜ準決勝で広島商に敗れたのか? 関係者の証言から、「江川が負けた日」の内幕を掘り下げていく。
江川卓「甲子園初登板」の衝撃
「怪物」が衝撃的な甲子園デビューを飾ったのは1973年春だった。開会式直後、第1試合のマウンドに上がると、その剛速球で三振の山を築く。相手打者は、バットにボールを当てることすらできない。
作新学院(栃木)の江川卓――。ついにベールを脱いだ剛腕投手は、噂に違わない「怪物」だった。
1973年3月27日、阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)。第45回選抜高校野球大会の開幕試合だった。作新学院の相手は、北陽(現・関大北陽=大阪)。前年秋の近畿大会で準優勝し、「西の横綱」と前評判が高いチームだった。のちに新聞記者となり、同年齢の江川を取材することになる西村欣也は、当時大阪府在住の高校生で、この試合を外野席で観戦したという。
「同級生なのに、すごい投手が栃木にいるというんで、なんぼのもんか、見に行ったんだよ」と生前、よく語っていた。
そのピッチングは、想像をはるかに超える迫力だった。1回表、北陽の上位打線から、いきなり三者連続三振を奪う。出場30校中トップのチーム打率.336を誇る北陽打線のバットにボールが当たらない。かすりもしない。
「1球ごとに、どよめきが起きる。スタンド全体がざわめいたんだ」
2回、エースで5番打者の有田二三男が一塁側にファウルを打った。
「プレーボールから23球目だよ。初めてバットにボールが当たった。それだけで、またどよめきが起こり、拍手が起きた。ファウルだよ。ファウルを打っただけで、拍手が沸き起こったんだ」
西村は興奮気味に語ったものだ。ちなみに、4回2死から初安打を放ったのも有田だった。高校卒業時に近鉄からドラフト2位指名を受けてプロ入りする有田も、超高校級の選手だったということだろう。とにかく、そこまでの11アウトは、すべて三振だったのだから、江川の「怪物」ぶりは半端じゃない。
「あんなボール、頭に当たったら死にますね」
最終的に、江川は4安打19奪三振で北陽を完封し、2対0で作新学院が勝利した。上々の甲子園デビューだが、当時の朝日新聞には「6、7、8回はちょっと球威が落ちた」と書かれている。「いや落ちたのではない。落としたのだ」と記事は続く。
野手から、「おい江川、守備の練習をさせろよ」と声をかけられたというのだ。そのせいか、毎回奪三振は7回までで途切れている。三振をとり過ぎて、味方から文句を言われる。すでに県大会などで8度の無安打無得点試合(うち完全試合2試合)を達成していた「怪物」ならではの悲劇である。
「江川が敵だと大変だろうが、後ろで守るのも大変なんだ」作新学院の一塁手だった鈴木秀男がぼくに打ち明けてくれたことがある。
いつも完全試合がかかる試合展開になる。「内野はもうガチガチだよ」。それでいて、めったに打球は飛んでこない。「誰かが先にエラーすると、正直ホッとしたもんだよ」
何はともあれ、「怪物」と仲間たちは衝撃の全国デビューを飾った。江川のデビュー戦のスタンドには、開会式を終えた広島商の選手たちもいた。
「あんなボール、頭に当たったら死にますね」
その剛速球を目の当たりにした達川光男は、監督の迫田穆成に言った。 迫田も、これは噂に違わぬ剛腕だと感じていた。
「すごかったですね。なにせ、打球が前に飛ばんのじゃから」
栃木にすごい投手がいるという情報は、早くから迫田の耳にも届いていた。「ボールが速すぎて、バントもできんらしい」と迫田は選手に伝えている。前年秋のことだ。すでに夏の選手権大会で4度も頂点に立っていた名門校。常に全国大会を視野に入れている。得意のバント戦法も通じない投手から、どうやって点を取るか。
対江川の奇策「どうせバントもできない。それなら…」
「創意工夫」が信条の迫田が考えた作戦はこうだ。
待球作戦などを使いながら、試合後半に何とか無死もしくは1死二、三塁をつくる。ここで得意のスクイズバントのサインを出すが、打者は空振りする。
三塁走者は当然ながら三本間に挟まれる。三塁走者は時間を稼ぎながら、最終的にラインの内側に逃げるように動いて捕手にタッチされる。その間に、すぐ後ろから走り込んだ二塁走者がラインの外側に滑り込んで生還する。
どうせ、ピンチを背負った「怪物」が本気を出したら、バントもできないだろう。それを逆手に取った秘策だった。そんな練習までさせた張本人の「怪物」が、ついに目の前に現れた。広島商の選手たちの心もまた、大いにざわめいた。
2回戦で作新学院と対戦した小倉南(福岡)は、江川対策としてバットを短く持ち、セーフティーバントを多用した。しかし、まったく通じない。7回までバント安打1本で10三振。8対0と得点差が開き、江川はマウンドを同級生に譲った。
準々決勝の相手は、前年秋の四国大会を制した今治西(愛媛)。さすがの「怪物」も疲れが出始め、序盤は本調子でなかった。それでも、1安打、20奪三振、1四球で完封勝利。3対0で勝ち上がった。
準決勝の相手は広島商だ。こちらの左腕・佃正樹も3試合連続完封と素晴らしいピッチングを見せている。
いよいよ両雄が激突。準決勝は雨で1日順延となり、4月5日にプレーボールがかかった。
👣情熱変わらず45年 春日部共栄・本多監督が勇退 学校創立とともに22歳で監督就任 「悔いはなし。やり切りました」 新監督にバトン託す
https://news.yahoo.co.jp/articles/6b648cddb4700c053c2377054757fcf9f7f9779a
春日部共栄高野球部の本多利治監督(67)が、3月31日をもって勇退した。1980年の同校創立とともに22歳で監督に就任。「高校野球への情熱は45年間変わらなかった。悔いはなし。やり切りました」。監督生活最後の日、生涯をささげたグラウンドを見つめながら、力強くうなずいた。
選手時代、高知高で甲子園に3度出場。75年の選抜大会に主将として二塁手で出場し、全国優勝を果たした。監督としては春日部共栄高を春夏計8度の甲子園に導き、93年夏に準優勝。土肥義弘さん(元埼玉西武など)ら14人をプロへ送り出した。
同日は、北海道の苫小牧中央高と練習試合を実施。試合前、28年ぶりのノックを務めようと本多監督が打席に立つと、急に曇り空から太陽が顔を出した。時折笑顔を見せながら、ラストステージを終えグラウンドに一礼。後を継ぐ植竹幸一新監督(現部長)と固い握手を交わし、バトンを託した。
「育てるのが好きだった。宝(教え子)が1600人もできた」(本多監督)と歴史の重みを実感。最終日の練習場には、平日にもかかわらずOBら約70人が訪れた。2期生でOB会長の鈴木貴巳さん(59)は「一から一緒にやってきた。時代が変わるような感じがして感慨深い」と恩師の姿を目に焼き付けた。
13期生の本柳和也さん(48)=プロ野球元オリックス=は「やんちゃをしていた僕に人間味あふれる接し方をしてくれた一番の大恩師。礎をつくってくれた」。15期生の小林宏之さん(46)=元ロッテ=は「野球人生でいろいろなことを厳しく指導してくれたのは本多監督だけ。愛情を持って叱ってくれた」と感謝した。
30年以上、同部の寮母を務めるなど監督を支え続けた妻・みゆきさん(63)は「若い頃は試合に負けると選手より悔しがって家でかばんを投げつけていた」と懐古しながら、「ああ、もう終わっちゃうんだな」と寂しそうな笑みを浮かべた。
勇退後は公立高校の指導者たちに指導法を伝え、小・中学生の育成を図るなど今までできなかった取り組みに挑戦するという。今まであまりつくれなかった家族との時間も待っている。「まだまだこれから。初めての経験にわくわくしていますよ」。闘将の45年間が幕を閉じ、新たな人生の歩みを進める。
📝川口知哉氏が龍谷大平安の監督就任 智弁和歌山・中谷仁監督と甲子園決勝「再戦」注目
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ea42b93e81e8639075f68e399817a8234806ba3
龍谷大平安(京都)は1日、野球部監督に元オリックスの川口知哉氏(45)が就任したと発表した。4月1日付。
前監督の原田英彦氏(64)が部員への暴行の責任を取って3月2日付で退職。川口氏が監督代行になっていた。
川口氏は97年夏の甲子園で平安(当時)のエースとして準優勝。同年ドラフト1位でオリックスに指名された。22年4月に母校のコーチに就任し、原田監督のもとで指導者の経験を積んできた。
28年前、甲子園の決勝では智弁和歌山に敗れた。相手の主将は、今年のセンバツで同校を準優勝に導いた中谷仁監督(45)。ともにプロ経験者で交流があり、新たな形での“再戦”が注目される。
⚾岩手さんへ
そうですね。月日は百代(はくたい)の如くと言いましょうか・・・。僕は人間的に成熟していないのでなんですが、よくオトナは「20歳を過ぎるとあっという間に時間が過ぎる」と自分がオトナであることを誇示したいがごとく語りますね。。。
今年も3塁内野席と外野席の二刀流?で観戦しましたが、なぜかしら内野席の時は早く終わってしまう感がありますが、外野席ではものすごくゆったりと時間が流れる感じです。。。
甲子園で開門前から第4試合のナイター終了後10分近く粘って退場して帰宅したら24時間が1週間くらいに感じて、大会期間中はまずニュースなんて見ないので、時事ネタが分からず浦島太郎状態になってしまいますね!!
一応、この春51歳になりましたが、精神年齢は身長の伸びが止まった高校2年生かあるいはもっと若いかもしれません。。。岩手さんとは毎年夏に甲子園でお逢いして、地方球場でも何度も顔を合わせて会話を重ねましたが、少なくともご自身よりも3学年下程度には思えなかったんだろうなと。
明徳と気比が負けてしまい、幸か不幸か大会期間中に女学生とお話しする機会がありましたが、パッと見た感じ、「大学生とちゃうんか!?」という落ち着きというか風格を瞬時に感じ、こっちの精神年齢の低さを悟られる、、、とか思いつつ、恐る恐るお声がげして話しかけたら年相応のお嬢さんだったのでホッと一息。
https://pbs.twimg.com/media/GnI7UXhbgAM5ahZ?format=jpg&name=large
基本的に男子よりも女子の方が精神年齢高いですから。。。
50代男性でも未だに酒が入れば中学生のような『見た目は大人、中身は子供』のおっちゃんはよく見かけますし!僕は酒は一滴も飲めませんが。。。
さて、塩部長ですが。。。どうやら滋賀県彦根市出身ながら高校大学7年間生粋の慶応ボーイのようで、和歌山にはないシティーボーイ風情ですね。。。
中谷就任以来、2006年主将だった古宮~初芝橋本の芝野前監督~塩部長と3人交代してますね。。。
どうやらナカタニ独裁政権に嫌気がさし???2人とも退職したようですが(古宮はユーチューバー兼実家の農業手伝いだったかな?)芝野先生は以前、金光大阪のコーチをされ、初芝橋本の監督されてましたが、同じ県内の私学に移籍されコロナ無観客試合の折に全国制覇部長で初甲子園で4勝しましたがいつの間にかいなくなったと。
昔は高嶋先生以上に怒号を浴びせて怖かった林 守という部長が20年以上君臨してベンチのあちらこちらを先生と同じように蹴っ飛ばして紀三井寺に轟音を鳴り響かせてましたが、京都文教の監督に異動して和歌山も静かになりました(笑)
桐蔭はどうなんでしょうね。毎年全国トップクラスの中学生が入部するし、全国から逸材をかき集め、ついにはラマルという黒人にまで手を出し・・・・・。
ここ数年は結局、メンタルが弱いんでしょうね。
下関国際の根性野球に最終回逆転喰らってその裏アッサリ攻撃を終えて試合終了だったし、昨夏なんて小松大谷にどうやったら負けるのか見当もつかなかったけれど、0-0からエラーで先取点献上してズルズル完封負けと。
最後の読み方云々は全く分からないので、観戦記執筆に入ります。。。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7a084c5085493bcb5ef171ea753812716ed570c2
半世紀にわたり活躍 最後の運行、別れ惜しむ
三重県松阪市から熊野市まで約135キロを4時間半ほどかけて結ぶ、本州で2番目に長い三重交通の路線バス「松阪熊野線」が3月31日、運行を終え、半世紀以上の歴史に幕を下ろした。松阪市京町のJR松阪駅前を午後2時15分に出発した最終便には約30人が乗り込み、周囲では10人ほどが盛んにシャッターを切りその姿を写真に収めた。
同社によると同路線は、本州では奈良交通の大和八木駅前と新宮駅を走る「八木新宮線」の166.9キロに次いで長い。1970(昭和45)年10月に松阪市と和歌山県那智勝浦を結ぶ「南紀特急バス」として始まり、起点や終点、路線変更を経て2018(平成30)年10月に現在の系統になった。
利用者のほとんどは松阪市から多気郡大台町までで、度会郡大紀町から熊野市までは少なかった。国や県の補助で運行を継続したものの、1日当たりの補助要件を下回る中で、24(令和6)年10月から土日祝日を運休し、平日も1日3往復から1往復に減便していた。
JR松阪駅前から最終便に乗り込んだ大阪市の自営業の渡部卓史さん(39)は「のんびりと移動ができる路線バスが好きなので、廃止はとてもさみしい」、大阪府内に住む中国浙江省出身の大学生の男性(24)は「北海道から九州までバスで旅をしました。松阪熊野線は一度台風で諦めたことがあるので、今回は終点まで乗りたいです」とそれぞれ話した。
最終便の撮影にやってきた津市の50代男性は「地元に密着したバスが好きで写真を撮っています。この路線には伊勢志摩サミットの年に乗ったことがあり、思い出があります」とバスを見送った。
今春大学を卒業し1日から社会人という同市の松本遥紀さん(22)はカメラを手に「松阪熊野線は国道42号を下って松阪から山を抜けて、海までの風景の移り変わりが魅力でした。長い間お疲れさまでした」と別れを惜しんだ。
☝センバツ2025 準優勝旗掲げ 智弁和歌山、堂々凱旋
https://news.yahoo.co.jp/articles/d2e5cbd416a525aa30a46e2616029e4a71d74f14
第97回選抜高校野球大会で準優勝した智弁和歌山の選手らが31日、和歌山市の同校に凱旋(がいせん)した。1994年以来31年ぶりのセンバツ優勝は逃したが、5試合を戦い抜いたナインの健闘をたたえ、生徒や保護者、教職員ら約150人が出迎えた。
30日の決勝では横浜(神奈川)を相手に序盤は接戦だったが、中盤に点差を広げられた。終盤に追い上げを見せたものの、試合後のミーティングでは中谷仁監督から選手たちに「自分たちの覚悟が足りなかった」という話があったという。
選手らは朝に大阪市の宿舎のホテルロビーに集合。未明まで眠れなかったという山田希翔主将(3年)は「あと一つ勝ちきれず悔しい。夏に向け、もっとレベルを上げていく」と決意を新たにしていた。選手らはホテルのスタッフに謝意を述べた後、午前9時すぎにバスで出発。選手らを見送ったスタッフの1人は「少しでもパワーを届けられたならよかった。ホテル側も力をもらった」と笑顔で手を振っていた。
午前11時ごろ、準優勝旗を手にした山田主将を先頭に、選手が首から準優勝メダルをかけて学校に到着すると、応援団とチアリーダーの計36人が花道を作って出迎えた。ブラスバンド部64人は、“魔曲”と呼ばれる「ジョックロック」誕生前の同校チャンステーマ「ラシアンカウボーイ」を演奏。応援団顧問の坂上寿英さんが「今大会で最も得点が入った曲。選手に良い気分で帰ってきてもらいたかった」と選曲したという。
準優勝の報告会で、藤田清司・智弁学園理事長が「夏も絶対に決勝に行ってください」と激励すると、ナインは口々に「次こそは優勝旗を持ち帰る」と誓い合い、早くも再スタートを切った。中でも、エースの渡辺颯人(3年)、リードオフマンの藤田一波(同)は、3日から始まる18歳以下の日本代表候補選手強化合宿に参加する。渡辺は「夏には『チームを勝たせる投手』になりたい」と更なる成長を期し、藤田は「他校の練習への意識や内容をチームに持ち帰りたい」と、代表での経験をチームに生かすと決意していた。
📝高校球界に地殻変動】「大阪桐蔭は完成された子が多い。うちは高校野球で伸びしろのある子を育てたい」大阪学院大高の「育成ビジョン」と「恵まれた練習環境」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d5a203a9a00642b1a78623315ef02cd3e252a635
近年、プロ野球を目指す有望中学生が進学する学校を選択する上で重視するのは、甲子園への出場のしやすさではなく、自身が最も成長できる練習環境や安心した生活を寮で送れるかという点だ。
たとえば、昨春のセンバツを制した健大高崎の1年生エースだった佐藤龍月(昨夏にトミー・ジョン手術を受け、今回のセンバツではマウンドに上がることができないものの、代打・代走要員として背番号18でベンチ入り)。彼の場合は大阪桐蔭の熱心な勧誘を断り、練習設備の整った同校へと進学した。
そして、大阪桐蔭のライバル校・大阪学院大高が将来性にあふれる中学生に選ばれる理由も、充実した練習環境にある。
170キロの打撃マシンにラプソードも
2022年に完成した大阪学院大高のグラウンドは外野が全面人工芝で、巨大な室内練習場も併設。センター後方にある建物の2階にはマネージャーたちが補食を作ったり、選手が食事できるスペースがあり、監督室からは練習中のグラウンドを見下ろすことも可能だ。また、辻盛英一監督(48)の就任後には、170キロが出る打撃マシンに弾道測定機器のラプソードも導入された。まるでプロの練習施設のようである。
寮費も食費込みで6万円と安く、食事が足りない場合はUber Eatsなどを利用しながら成長期にあたる球児のお腹を満たしている。辻盛監督は言う。
「うちは学校が野球部に力を入れると決めてから環境が整ってきました。野球部に力を入れるのは、決して生徒集めが目的ではありません。大阪学院大というのは経営状態が良くて、無借金経営なんです。キャンパスも梅田に近くて、生徒集めにもあまり苦労はしていない。ただひとつ、全国的な知名度がないんです。大阪学院はバスケ部もゴルフ部も強豪校で、大学の卒業生にはマラソンの高橋尚子さんがいます。スポーツに力を入れているのに、いまいち、知名度が上がらない。過去に一度だけ、大阪学院大高は甲子園に出場(1996年のセンバツ)していますが、その時は学校が華やかに盛り上がったそうなんです。そこで、本腰を入れて野球部に力を入れようとなったんです」
大阪桐蔭がスカウト力を背景に高校野球に一時代を築き、そして大阪学院大高も令和の時代のスカウティング方法で選手を集め、大阪桐蔭に肉薄し、甲子園にもあと一歩のところまできた。今夏もしくは数年のうちに甲子園出場を果たすことができれば、一気に大阪の勢力図が塗り変わる可能性を秘めている。
「高校野球で伸びしろのある子を育てたい」
なぜ大阪桐蔭のOBは近年、プロで活躍できていないのか──辻盛監督にそう問うとこんな私見を口にした。
「大阪桐蔭に入る子を見ていると、中学時点である程度、完成された子が多いですよね。僕自身は2年半という高校野球で伸びしろのある子を育てたい。私が監督を務めていた大阪公立大というのは、名門でもなければ強豪大学でもなかった。だから入部してくる選手のレベルはそこまで高くなかったんです。どういう子が伸びて、どういう子は伸びないのかは、データを見ればだいたいわかりますね。そうした判断をしながら、チームを作っていきました」
辻盛監督が重視するデータとは何なのか。
「走り方や、垂直跳びや背筋力の数値。身体のフォルムも気にしています。つまり、野球の技術はなかったとしても、身体能力の高い子にしっかりしたトレーニングと、野球の技術を身につけさせたら、大きく成長していくわけです」
もちろん、大阪桐蔭の人気が落ちたわけではない。たとえベンチ入りできなくとも、関東や関西の名門大学への進学が期待できることは中学生やその保護者にとっては大きな魅力だろう。
今春には同校OBの中村剛也の息子(世田谷西シニア)のほか、東京城南ボーイズの大型左腕が進学する。また、大阪学院への進学を希望していた選手が、中学卒業間近になっても熱心な勧誘を受け、土壇場で大阪桐蔭に進路を変更したという。
是が非でも獲得したい選手がいたら、合格発表の日まで獲得を諦めない西谷監督のなりふり構わぬスカウティングは今も健在である。
大阪桐蔭に待つ運命は捲土重来か、それとも盛者必衰か――。
📝江川卓17歳の剛速球「あんなボール、頭に当たったら死にますね」達川光男が戦慄…「打球が前に飛ばん」「速すぎてバントもできん」広島商の“奇策”
https://news.yahoo.co.jp/articles/6062a6dee9ca1f02c7f53a275268014dd4df38d0?page=1
およそ半世紀前の1973年、作新学院の江川卓(当時17歳)が初めて甲子園のマウンドに上がった。バットにボールを当てることすら困難な規格外のピッチング――「攻略不可能」と思われていた怪物投手は、なぜ準決勝で広島商に敗れたのか? 関係者の証言から、「江川が負けた日」の内幕を掘り下げていく。
江川卓「甲子園初登板」の衝撃
「怪物」が衝撃的な甲子園デビューを飾ったのは1973年春だった。開会式直後、第1試合のマウンドに上がると、その剛速球で三振の山を築く。相手打者は、バットにボールを当てることすらできない。
作新学院(栃木)の江川卓――。ついにベールを脱いだ剛腕投手は、噂に違わない「怪物」だった。
1973年3月27日、阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)。第45回選抜高校野球大会の開幕試合だった。作新学院の相手は、北陽(現・関大北陽=大阪)。前年秋の近畿大会で準優勝し、「西の横綱」と前評判が高いチームだった。のちに新聞記者となり、同年齢の江川を取材することになる西村欣也は、当時大阪府在住の高校生で、この試合を外野席で観戦したという。
「同級生なのに、すごい投手が栃木にいるというんで、なんぼのもんか、見に行ったんだよ」と生前、よく語っていた。
そのピッチングは、想像をはるかに超える迫力だった。1回表、北陽の上位打線から、いきなり三者連続三振を奪う。出場30校中トップのチーム打率.336を誇る北陽打線のバットにボールが当たらない。かすりもしない。
「1球ごとに、どよめきが起きる。スタンド全体がざわめいたんだ」
2回、エースで5番打者の有田二三男が一塁側にファウルを打った。
「プレーボールから23球目だよ。初めてバットにボールが当たった。それだけで、またどよめきが起こり、拍手が起きた。ファウルだよ。ファウルを打っただけで、拍手が沸き起こったんだ」
西村は興奮気味に語ったものだ。ちなみに、4回2死から初安打を放ったのも有田だった。高校卒業時に近鉄からドラフト2位指名を受けてプロ入りする有田も、超高校級の選手だったということだろう。とにかく、そこまでの11アウトは、すべて三振だったのだから、江川の「怪物」ぶりは半端じゃない。
「あんなボール、頭に当たったら死にますね」
最終的に、江川は4安打19奪三振で北陽を完封し、2対0で作新学院が勝利した。上々の甲子園デビューだが、当時の朝日新聞には「6、7、8回はちょっと球威が落ちた」と書かれている。「いや落ちたのではない。落としたのだ」と記事は続く。
野手から、「おい江川、守備の練習をさせろよ」と声をかけられたというのだ。そのせいか、毎回奪三振は7回までで途切れている。三振をとり過ぎて、味方から文句を言われる。すでに県大会などで8度の無安打無得点試合(うち完全試合2試合)を達成していた「怪物」ならではの悲劇である。
「江川が敵だと大変だろうが、後ろで守るのも大変なんだ」作新学院の一塁手だった鈴木秀男がぼくに打ち明けてくれたことがある。
いつも完全試合がかかる試合展開になる。「内野はもうガチガチだよ」。それでいて、めったに打球は飛んでこない。「誰かが先にエラーすると、正直ホッとしたもんだよ」
何はともあれ、「怪物」と仲間たちは衝撃の全国デビューを飾った。江川のデビュー戦のスタンドには、開会式を終えた広島商の選手たちもいた。
「あんなボール、頭に当たったら死にますね」
その剛速球を目の当たりにした達川光男は、監督の迫田穆成に言った。 迫田も、これは噂に違わぬ剛腕だと感じていた。
「すごかったですね。なにせ、打球が前に飛ばんのじゃから」
栃木にすごい投手がいるという情報は、早くから迫田の耳にも届いていた。「ボールが速すぎて、バントもできんらしい」と迫田は選手に伝えている。前年秋のことだ。すでに夏の選手権大会で4度も頂点に立っていた名門校。常に全国大会を視野に入れている。得意のバント戦法も通じない投手から、どうやって点を取るか。
対江川の奇策「どうせバントもできない。それなら…」
「創意工夫」が信条の迫田が考えた作戦はこうだ。
待球作戦などを使いながら、試合後半に何とか無死もしくは1死二、三塁をつくる。ここで得意のスクイズバントのサインを出すが、打者は空振りする。
三塁走者は当然ながら三本間に挟まれる。三塁走者は時間を稼ぎながら、最終的にラインの内側に逃げるように動いて捕手にタッチされる。その間に、すぐ後ろから走り込んだ二塁走者がラインの外側に滑り込んで生還する。
どうせ、ピンチを背負った「怪物」が本気を出したら、バントもできないだろう。それを逆手に取った秘策だった。そんな練習までさせた張本人の「怪物」が、ついに目の前に現れた。広島商の選手たちの心もまた、大いにざわめいた。
2回戦で作新学院と対戦した小倉南(福岡)は、江川対策としてバットを短く持ち、セーフティーバントを多用した。しかし、まったく通じない。7回までバント安打1本で10三振。8対0と得点差が開き、江川はマウンドを同級生に譲った。
準々決勝の相手は、前年秋の四国大会を制した今治西(愛媛)。さすがの「怪物」も疲れが出始め、序盤は本調子でなかった。それでも、1安打、20奪三振、1四球で完封勝利。3対0で勝ち上がった。
準決勝の相手は広島商だ。こちらの左腕・佃正樹も3試合連続完封と素晴らしいピッチングを見せている。
いよいよ両雄が激突。準決勝は雨で1日順延となり、4月5日にプレーボールがかかった。
👣情熱変わらず45年 春日部共栄・本多監督が勇退 学校創立とともに22歳で監督就任 「悔いはなし。やり切りました」 新監督にバトン託す
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春日部共栄高野球部の本多利治監督(67)が、3月31日をもって勇退した。1980年の同校創立とともに22歳で監督に就任。「高校野球への情熱は45年間変わらなかった。悔いはなし。やり切りました」。監督生活最後の日、生涯をささげたグラウンドを見つめながら、力強くうなずいた。
選手時代、高知高で甲子園に3度出場。75年の選抜大会に主将として二塁手で出場し、全国優勝を果たした。監督としては春日部共栄高を春夏計8度の甲子園に導き、93年夏に準優勝。土肥義弘さん(元埼玉西武など)ら14人をプロへ送り出した。
同日は、北海道の苫小牧中央高と練習試合を実施。試合前、28年ぶりのノックを務めようと本多監督が打席に立つと、急に曇り空から太陽が顔を出した。時折笑顔を見せながら、ラストステージを終えグラウンドに一礼。後を継ぐ植竹幸一新監督(現部長)と固い握手を交わし、バトンを託した。
「育てるのが好きだった。宝(教え子)が1600人もできた」(本多監督)と歴史の重みを実感。最終日の練習場には、平日にもかかわらずOBら約70人が訪れた。2期生でOB会長の鈴木貴巳さん(59)は「一から一緒にやってきた。時代が変わるような感じがして感慨深い」と恩師の姿を目に焼き付けた。
13期生の本柳和也さん(48)=プロ野球元オリックス=は「やんちゃをしていた僕に人間味あふれる接し方をしてくれた一番の大恩師。礎をつくってくれた」。15期生の小林宏之さん(46)=元ロッテ=は「野球人生でいろいろなことを厳しく指導してくれたのは本多監督だけ。愛情を持って叱ってくれた」と感謝した。
30年以上、同部の寮母を務めるなど監督を支え続けた妻・みゆきさん(63)は「若い頃は試合に負けると選手より悔しがって家でかばんを投げつけていた」と懐古しながら、「ああ、もう終わっちゃうんだな」と寂しそうな笑みを浮かべた。
勇退後は公立高校の指導者たちに指導法を伝え、小・中学生の育成を図るなど今までできなかった取り組みに挑戦するという。今まであまりつくれなかった家族との時間も待っている。「まだまだこれから。初めての経験にわくわくしていますよ」。闘将の45年間が幕を閉じ、新たな人生の歩みを進める。
📝川口知哉氏が龍谷大平安の監督就任 智弁和歌山・中谷仁監督と甲子園決勝「再戦」注目
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龍谷大平安(京都)は1日、野球部監督に元オリックスの川口知哉氏(45)が就任したと発表した。4月1日付。
前監督の原田英彦氏(64)が部員への暴行の責任を取って3月2日付で退職。川口氏が監督代行になっていた。
川口氏は97年夏の甲子園で平安(当時)のエースとして準優勝。同年ドラフト1位でオリックスに指名された。22年4月に母校のコーチに就任し、原田監督のもとで指導者の経験を積んできた。
28年前、甲子園の決勝では智弁和歌山に敗れた。相手の主将は、今年のセンバツで同校を準優勝に導いた中谷仁監督(45)。ともにプロ経験者で交流があり、新たな形での“再戦”が注目される。
⚾岩手さんへ
そうですね。月日は百代(はくたい)の如くと言いましょうか・・・。僕は人間的に成熟していないのでなんですが、よくオトナは「20歳を過ぎるとあっという間に時間が過ぎる」と自分がオトナであることを誇示したいがごとく語りますね。。。
今年も3塁内野席と外野席の二刀流?で観戦しましたが、なぜかしら内野席の時は早く終わってしまう感がありますが、外野席ではものすごくゆったりと時間が流れる感じです。。。
甲子園で開門前から第4試合のナイター終了後10分近く粘って退場して帰宅したら24時間が1週間くらいに感じて、大会期間中はまずニュースなんて見ないので、時事ネタが分からず浦島太郎状態になってしまいますね!!
一応、この春51歳になりましたが、精神年齢は身長の伸びが止まった高校2年生かあるいはもっと若いかもしれません。。。岩手さんとは毎年夏に甲子園でお逢いして、地方球場でも何度も顔を合わせて会話を重ねましたが、少なくともご自身よりも3学年下程度には思えなかったんだろうなと。
明徳と気比が負けてしまい、幸か不幸か大会期間中に女学生とお話しする機会がありましたが、パッと見た感じ、「大学生とちゃうんか!?」という落ち着きというか風格を瞬時に感じ、こっちの精神年齢の低さを悟られる、、、とか思いつつ、恐る恐るお声がげして話しかけたら年相応のお嬢さんだったのでホッと一息。
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基本的に男子よりも女子の方が精神年齢高いですから。。。
50代男性でも未だに酒が入れば中学生のような『見た目は大人、中身は子供』のおっちゃんはよく見かけますし!僕は酒は一滴も飲めませんが。。。
さて、塩部長ですが。。。どうやら滋賀県彦根市出身ながら高校大学7年間生粋の慶応ボーイのようで、和歌山にはないシティーボーイ風情ですね。。。
中谷就任以来、2006年主将だった古宮~初芝橋本の芝野前監督~塩部長と3人交代してますね。。。
どうやらナカタニ独裁政権に嫌気がさし???2人とも退職したようですが(古宮はユーチューバー兼実家の農業手伝いだったかな?)芝野先生は以前、金光大阪のコーチをされ、初芝橋本の監督されてましたが、同じ県内の私学に移籍されコロナ無観客試合の折に全国制覇部長で初甲子園で4勝しましたがいつの間にかいなくなったと。
昔は高嶋先生以上に怒号を浴びせて怖かった林 守という部長が20年以上君臨してベンチのあちらこちらを先生と同じように蹴っ飛ばして紀三井寺に轟音を鳴り響かせてましたが、京都文教の監督に異動して和歌山も静かになりました(笑)
桐蔭はどうなんでしょうね。毎年全国トップクラスの中学生が入部するし、全国から逸材をかき集め、ついにはラマルという黒人にまで手を出し・・・・・。
ここ数年は結局、メンタルが弱いんでしょうね。
下関国際の根性野球に最終回逆転喰らってその裏アッサリ攻撃を終えて試合終了だったし、昨夏なんて小松大谷にどうやったら負けるのか見当もつかなかったけれど、0-0からエラーで先取点献上してズルズル完封負けと。
最後の読み方云々は全く分からないので、観戦記執筆に入ります。。。