自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」

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紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
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お知らせ

編集済
⚽第33回全日本高校女子サッカー選手権 三木総合防災公園陸上競技場【2回戦第2試合】大商学園(大阪)vs十文字(東京) 1425人
https://www.jfa.jp/match/highschool_womens_2024/schedule_result/pdf/m29.pdf

⚽ユーチューブライブ配信
https://www.youtube.com/watch?v=e_uh_dHrz1g&t=7s

3年間の雌伏の時を耐えて、、、4年ぶり14度目の選手権大会出場を決めてくれた後輩たち。

相手の十文字は2017年1月8日に決勝戦で対戦し惜しくも0-1で敗れ準優勝に終わった天敵。

全く予想がつかない試合で、勝ち上がれば準々決勝1月5日の三木~準決勝1月7日神戸ウイングS~そして1月12日決勝戦神戸ウイングSに駆け付ける予定でした。

今日はユーチューブで自宅から生観戦しておりましたが、、、お互い決め手を欠き、何もできずに前半が終わりそのままPKも覚悟しつつ・・・運よく後半開始直後に猛攻を仕掛け1点先制し、そのまま逃げ切り初戦突破と。

3日の3回戦は清荒神初詣とかち合うので、観戦できませんが2試合で9得点の鎮西学院に勝てば4年ぶりに三木に行けるので・・・。

なんとか3連覇を狙う藤枝順心が来るであろう準決勝までは最低でも勝ち上がりたい。あわよくば悲願の初優勝を目の前で見たいものです!!

✌大社ナインが聖地での死闘を激白 エース馬庭優太「甲子園はかけがえのない場所」「最高の仲間」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e30ea32c935f0bb15112c473acafeb1b5bb44ec2

ABC放送は30日「高校野球スペシャル2024甲子園が好きだから」を放送し、「大社旋風」を巻き起こした、監督と選手のインタビューを公開した。

大社(島根)は今夏、32年ぶりとなった夏の甲子園でセンバツ準Vの報徳学園(兵庫)、創成館(長崎)、早実(西東京)を破り、93年ぶりの8強入り。番組では延長タイブレークの末に3-2のサヨナラで早実を下した一戦にフォーカスされた。

1-2の9回に大社がスクイズで同点に追いつき、延長戦へ突入。延長タイブレーク11回裏、大社は無死一、二塁からこの夏初出場の安松大希捕手(2年)を代打に送り、三塁線へのバントを内野安打とした。安松は石飛文太監督とのやりとりを明かした。

安松 「(監督が)『バントを決められるやつおるか』と言われて。『自分が決めます』って手を挙げました」

石飛監督 「(安松が)『やります』って言ったけど、普段の様子よりも不安気に思えたので、『何か不安か?大丈夫か?』と聞いたんです」

安松 「『自分は三塁側にしか決められませんが大丈夫ですか』と問い返しました。それで監督さんが『この場面は三塁側が良い』と。『行ってこい!』と言われました」

石飛監督 「僕は信じるだけでした」

無死満塁と好機を広げ、延長11回まで1人で投げ抜いてきたエース馬庭優太(3年)が中前打で激闘に終止符。馬庭は「今まで自分が過ごしてきたなかで一番長い夏でした。甲子園は自分の人生の中でかけがえのない場所でした。仲間を信じていたからこそ、投げきることができると考えていた。最高の仲間だった」と熱い夏を振り返った。

石飛監督は「一番感じたのは、甲子園は人と人がつながり合える場所」と、この夏の旋風終えて語った。

大社は準々決勝で神村学園(鹿児島)に2-8で敗退。甲子園4試合すべてに登板し、「大社旋風」の中心となった馬庭は、大学進学を明言している。

☝「誕生日のケーキ喜んでくれた」高校野球の名将、迫田監督の追悼展
https://news.yahoo.co.jp/articles/1887110f92db7a26fb984431b147e0155061dd40

広島商野球部で選手、監督として全国優勝し、2023年12月に84歳で亡くなった迫田穆成さんの功績をたたえる追悼展が、広島県竹原市本町の「道の駅たけはら」で開かれている。迫田さんが死去直前まで監督を務めた竹原高校野球部での活動を振り返っている。

追悼展では、迫田さんのグラブやファンと写った写真のほか、選手起用のメモ書きなどを展示。ユーチューブ「迫田監督野球チャンネル」の動画を流し、竹原野球部の戦績を紹介している。

竹原の部員らがつづった迫田さんとの思い出話も展示されており、「誕生日にみんなでケーキをあげたらとても喜んでくれた」「けがしたとき、まほろばの里へ一緒に行ってくれた」といった内容も。

迫田さんは19年に竹原の監督に就任。しかし、翌年の夏の甲子園はコロナ禍で中止になった。迫田さんのユーチューブは、長女の岩川智子さん(59)が自宅で話を聞いているうちに、多くの人に面白い話を届けたいと開設した。

岩川さんによると、迫田さんが亡くなる直前、部員とのやり取りで大笑いしたことがあったという。入院中の迫田さんに、部員が広島商との練習試合結果をLineで送ってきたが、点数がまちまちだったという。「あんなに笑っているのを見たのは、最後だったかもしれません」と岩川さん。

追悼展は無料で、25年2月中旬までの予定。問い合わせは、主催の道の駅たけはら(0846・23・5100)へ。31日~1月3日は休業。

📝聖地のアルプス彩った滋賀学園・荒井浩志さん 心ない声に「正直怖いなって」救急救命士を目指す
https://news.yahoo.co.jp/articles/eed034bd06eef63e9deee474d946fb614bc93c53

ABC放送は30日、「高校野球スペシャル2024 甲子園が好きだから」を放送し、アルプスを彩った滋賀学園・荒井浩志さん(3年)を特集した。

荒井さんはベンチ入りがかなわず、応援団長としてチームを鼓舞。聖地のスタンドで見せるキレキレのダンスで話題を呼んだ。荒井さんは「自分のためではなくて、試合に勝つためにやっているのが一番。周りがしないことをやるというのが目的としてあった」とその理由を語った。

応援を背に受けた選手たちは初の甲子園8強入り。大会後もダンスがSNSで話題となった。だがその一方で、批判的なコメントも散見。高校生への心ない声にも荒井さんは、「正直怖いなって思いました。最初(批判的な意見を)見たときは、自分が今までしてきたことが間違いだと思ったんですが、選手たちが最大限の力を発揮できるのなら、自分たちはたたかれてもいい」と胸の内を明かした。

新井さんは甲子園を夢見て三重から野球留学。だが最後の夏でのベンチ入りは果たせなかった。「親に電話したときに『メンバーに入れへんかった』と言ったら、『3年間必死に野球ができたらそれでいい。頑張ったからいいんやで』と言葉をかけてもらい、気持ちが楽になった」と両親の支えを明かした。

メンバーに選ばれなかったことにショックを抱えつつも「(ベンチ外の)メンバーも『一緒にチームのために頑張ろう』と励まし合って立ち直る事ができた。甲子園の外野で守ることが一番の目標で、それはできなかったけど、必死に野球をしている選手のために応援すると決めました」と、チームメートと歩んできたことを明かした。

卒業後の展望については「将来の夢は救急救命士。救急救命士も自分のためではなく、傷病者のための職業だと思う。誰かのためにすることの素晴らしさを、甲子園を通して手に入れました」と充実した表情で語った。

📝阪神と野球を結び付けた「香櫨園」の新事実 甲子園43個分の広さ&試合に10万人動員の大熱狂
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4c9982bcdf7a6c7f08634a622f3849dfddacced

今年8月で開場100周年を迎えた甲子園球場を所有する阪神電鉄と野球との接点になった、現代でいうアミューズメントパーク「香櫨園(こうろえん)」に新たな事実が判明した。運動場内に球場を造り、1910年10月に開催された関西初の国際試合、早大―シカゴ大の3試合。従来8万坪とされた香櫨園が実は50万坪だったことでスムーズな建設が進み、3日間全て野球日和だったこともあって推定10万人を動員。野球熱が盛り上がった。

西宮市教育委員会事務局の足立年樹氏によると、昨年2月に全76ページからなる1909年発行の「香櫨園案内」(西宮市立郷土資料館所蔵)が見つかった。同資料館が古書店から情報を得て購入し、阪神電鉄の社史にある球場の地形に関する描写などと照合。従来8万坪とされた香櫨園の広さが甲子園球場43個分、50万坪もあった。

香櫨園案内には「香櫨園全図」があり、当時東京と京都にしかなかった動物園、ボートで水上へ突入する絶叫マシン「ウオーターシュート」、回転木馬などが配置。運動場も二つあった。

早大―シカゴ大の関西開催に向け、大阪毎日新聞(大毎)が早大と交渉する一方で試合会場を物色したが、適当な球場がなかった。大毎からの打診に阪神電鉄が応じ、経営参画した香櫨園の第一運動場内に、わずか2週間で野球のグラウンド(右翼約90メートル、左翼約170メートルの長方形)を造り上げた。時の技術長で後に専務として甲子園球場建設を指示した三崎省三が担当した。

試合は反響を呼び、開園と同時期に開業した香櫨園駅経由で推定10万人を動員。「女性が来て驚いたとか、阪神電車が満員になったという新聞記事もありました。球場まで長蛇の列ができたそうです」(同氏)。当時は1両編成で座席に40人、定員80人だったことから通勤列車なみの混雑ぶりが想像できる。

同氏は大阪管区気象台に開催日の天気も確認。10月25日は最低気温13・2度、最高22・6度でおおむね晴天。26日も最低10・7度、最高21度でおおむね晴天。27日は最低7・7度、最高20・7度で快晴だった。前後の24日が終日煙霧で日照時間48分、28日は曇りで同72分で天も味方した。「雨ならどこまで動員できたでしょう。(阪神電鉄から)野球はもうかると判断されたと思う」と推測する。

香櫨園の名前も一帯の土地所有者、砂糖商・香野蔵治と櫨山慶次郎に由来するというのが通説で、西宮市史に記載された。ところが、同じ櫨山姓でも慶次郎は株の仲買人で、同時期に活躍した香野と同じ砂糖商・喜一と突き止めた。園内にあった恵美須ホテルが現在のカトリック夙川教会となり、当時の文書などに両者の名前があった。現在、香櫨園駅にある銘板にも香野と喜一の名前が記されている。

3試合のための球場建設が、後の歴史の歯車を動かす一因になったかもしれない。
2024/12/30(月) 22時20分56秒 No.1517 編集 削除