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紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
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☝夏93年ぶり“ベスト8”甲子園で起こった「大社旋風」記録と記憶に残る戦いからナインが得たものとは
https://news.yahoo.co.jp/articles/135ad743ff4d21d3877c845a85f31bd3320ad920

2024年の全国高校野球選手権「夏の甲子園」で巻き起こった「大社旋風」。島根・出雲市にある県立の大社高校が、次々に全国の強豪校を撃破し勝ち上がっていく姿が、全国の野球ファンの心をとらえた。そして夏の全国大会ベスト8進出が93年ぶりと、記録にも記憶にも残った“熱い夏”を改めて大社ナインが振り返り、それぞれが得たものを語ってくれた。

32年ぶりの舞台で“快神撃” 全国の強豪を次々撃破

夏の甲子園に、島根代表として32年ぶりに出場した大社は、1回戦で強豪・報徳学園(兵庫代表)と対戦。春の“センバツ”準優勝校を相手に劣勢が予想されたが、大会屈指の好投手の今朝丸を攻略し先制点を奪うと、エースの馬庭が1失点完投。夏の甲子園63年ぶりの勝利に沸いた。

2回戦では長崎代表の創成館に、8回まで2点のリードを許した展開からスクイズなどを絡めた小技で追いつくと、延長タイブレークの末に逆転勝利。夏の大会としては107年ぶりの2勝を挙げた。

そして3回戦、西東京代表の早稲田実業戦。1点リードを許して迎えた9回裏の土壇場に「スクイズ」で同点に追いつくと、延長タイブレーク11回裏に、この試合も1人で投げ抜いたエースの馬庭の一打で「サヨナラ勝ち」1931年の第17回大会以来となる93年ぶりのベスト8進出を決めた。準々決勝で鹿児島代表の神村学園に敗れたものの、最後まで粘り強く戦い抜いた大社ナインの姿が全国に元気を届け、多くの感動を呼んだ。

大社高校は、縁結びの神様で知られる「出雲大社」の近くにあり、その活躍ぶりは“神がかっている”とさえ言われ「快進撃」ならぬ「快神撃」と称された。

12月下旬…出雲市の大社高校。集まってもらったのは5人の3年生。参加メンバーは、石原勇翔さん(キャッチャー)、藤江龍之介さん(ショート)。下条心之介さん(レフト)、馬庭優太さん(ピッチャー)、園山純正さん(サード)だ。甲子園で巻き起こした「大社旋風」の原点となる場所で、「この夏に得たもの」を聞いた。

夏の甲子園の舞台で選手たちが得たものとは…

“トップバッター”は、キャプテンとしてチーム全体を引っ張るとともに、キャッチャーとして「堅守」を支えた石原勇翔さん。『執念』という文字を挙げた。「これはずっとチームのキーワードとして使ってきた言葉で、島根県大会から甲子園の最後の試合まで、全員が“執念”を持ってプレーできたことが、大会ベスト8という結果に繋がった」からだと、その理由を話した。

そして「一番執念を感じたプレー」は、3回戦の早稲田実業戦の9回のシーンで、「先頭バッターの馬庭が、相手のエラーもあったが2塁まで進んで、塁上でガッツポーズをした所」だとし、「(その時に)1点負けていたんですけど、自分たちの流れに持ってこれた。あの9回はチームとして『執念』を感じた場面だった」と鮮明に残る記憶を語った。

馬庭さんは、早稲田戦までの3試合を全て1人で投げ抜いており、魂を込めた投球で幾度もピンチを切り抜けた中での最終回の攻撃だっただけに、あの場面では「気迫がこもっていた」と振り返る。「自分が9回まで投げさせてもらって、そこから自分が先頭バッターに立ち、絶対にチームを負けさせる訳にいかないと思っていたので、自然に出たガッツポーズでした。最高でした」と、その後のサヨナラヒットにもつながる『執念』のプレーを振り返った。

副キャプテンで、大会ではチーム最多タイとなる5安打を記録したショートの藤江龍之介さん。『希望』という字であの舞台を振り返った。

「甲子園の出場校の中で、多くは私立の高校で、地元出身の生徒だけでメンバーが揃う高校はなかなかないですけど、自分たちはほぼ地元のメンバーで『ベスト8』まで行けたので、これから島根県や地元・出雲市の子どもたちに“希望”を与えられた」と語る。
それを象徴したのが、ベスト8で甲子園を去り地元の大社高校に帰って来た時のシーンだ。

「バスで着いた時に、地元の方が多く駆け付けて下さって、その時に『感動をありがとう』という言葉を何人にも言われたので、自分たちが地域の方々に恩返しできたと思う」と話し、メンバー全員が成し遂げたことの大きさも実感したという。

副キャプテンでクリーンナップの一角を担ったレフトの下条心之介さん。初戦の報徳学園戦の初回にタイムリーヒットを打ち、チームを勢いに乗せた。その下条さんは『絆』という文字を挙げた。その理由は「普段の練習や試合、そして甲子園を通して本当に『絆』が深まった。その絆が深まったからこそベスト8という結果があった」と話す。

快進撃が続くとともに、チーム同士はもちろん、野球部を支えようと多くの支援の輪も広がっていた。大会屈指とも呼ばれた「アルプススタンド」の一体感のある応援団も同様で、それらすべての『絆』が快挙を呼び込んだと言える。

自ら招いたピンチを気迫の投球で切り抜ける 大会を勝ち抜く「勇気」に

大会4試合で492球の熱投…躍進の原動力となったエースの馬庭優太さんが、選んだ言葉は『勇気』だった。「甲子園でプレーできたからこそ、一歩前に出る『勇気』がメンバーみんなから出た」と話す。

特に2回戦の長崎・創成館戦の延長タイブレークで、自身のエラーにより満塁のピンチを迎えた場面を振り返った。そこから「絶対に抑える」と気合いを入れ直し、スタンドからの大声援にも押されてピンチをしのぎ、「自分の仕事をやり切った部分で一歩前に『勇気』が出た」と話し、満塁のピンチでも全員が自信を持ってプレーすることができた大会のターニングポイントだったと語る。

チーム随一の“スクイズ職人”と呼ばれ、チーム最多の5犠打を成功させたサードの園山純正さん。園山さんが選んだ言葉は『自信』。「甲子園で4試合させてもらい、一つ一つのプレーに『自信』をもってプレーできたことが良かった」ことがその理由だ。大舞台で培った自身の変化が、甲子園から帰った後の行動にも表れたという。「体育祭で『色長(リーダー)』を務めたことで、リーダーとして自分が前に出て何かをするということは、『自信』があったからできたと思う。本当に良い経験になった」と話す。

ちなみに、2回戦の長崎・創成館戦で決めた同点スクイズについては、「本当のことを言うと、決まると思っていなくて一か八かでした。(決まって)自分が一番びっくりしました」と振り返る。ただ大舞台での成功が、一人の選手の成長を大きく後押ししたことは確かだ。

“大社旋風”で得られた大きな財産 石飛監督「新チームで新た旋風を」

そして彼らを鼓舞しながらチームをベスト8に導き、これまで成長を見守り続けた石飛文太監督。指導者として得たものは非常に大きかったとし、「(甲子園の舞台を経て誕生したのは)無限大の夢です。彼らが示してくれた可能性は無限大でした」と話す。

選手たちが大舞台を経験することで成長していく姿を見つめることができた「甲子園」に改めて感謝。そして「ただ僕は、また新たに1、2年生と野球がしたい。また新たな物語が生まれると良いと思っている」と語り、2025年の夏の甲子園へ挑む気持ちを新たにしている。「大社旋風」第二章に期待が膨らむ。

📝元巨人ドラフト1位、39歳で高校教師、監督9年目で甲子園出場 東海大相模・原俊介監督が振り返る波乱の野球人生
https://news.yahoo.co.jp/articles/e78e5d7434fa23472fc8d99e2da918ed7a839b8a?page=1

東海大相模・原俊介監督インタビュー(前編)

2024年夏、5年ぶりに甲子園出場を果たした神奈川代表の東海大相模。チームを率いたのは、同校OBでかつて巨人にドラフト1位された原俊介監督だ。39歳で高校教師となり、高校野球の監督となって9年目に悲願の甲子園出場を達成した原監督に、これまでの道のりについて振り返ってもらった。

【教員免許を取得したわけ】

── プロ野球引退後、なぜ教員免許を取得されたのですか。

原 プロ野球生活11年、それまでおもに体を使ってきましたが、ある時「頭には限界がないから、勉強してみたら?」と人に勧められ、大学に進学しようと思いました。

── 当時は厳格な「学生野球資格回復制度」により、教員にならないと高校野球を教えられませんでした。原先生の場合、最初に部活動指導ありきの教員免許取得ではなかったのですね?

原 大学(早稲田大学人間科学部の通信教育課程)に進学したもうひとつの動機は、トレーニング資格(ストレングスコーチ)を取得するための条件として、"学士"の学位が必要だったのです。当時は、プロ野球経験者がトレーナーという形で活躍する事例はあまりありませんでした。

── 大学での卒論のテーマは、「キャッチボールの実態調査」でしたね。

原 野球の基本であるキャッチボールというものを、人間科学という側面から研究をしたかったのです。それに伴って教員資格も取得しておけば学校で教科を教えられるし、部活動も指導できるということです。

── 教員免許は何をお持ちなのですか?

原 情報と保健体育の免許を取得しました。

── かつて「元プロの高校野球指導」に必要だった「教員生活10年」が2年まで短縮されましたが、「苦労して教員免許を取得した」のは、1984年から2013年までの約30年間でわずか45人。うちドラフト1位は7人(長崎慶一、大越基、石川賢、杉本友、染田賢作、喜多隆志、原俊介)ですが、タイトル獲得は首位打者の長崎さんと、最高勝率の石川さんだけです。

原 とにかくセカンドキャリアは、プロに代わる「生きがい」や「やりがい」を持ちたかったので、現実的に自分がやってきたことを生かしながらできるのはなんだろうと考えました。野球人であるなかで、高校野球というのは特別なステージです。それが最終的に教員にたどり着いている要因だと思います。

【学校生活が野球のプレーに反映される】

── 2016年から2021年までの東海大静岡翔洋高時代、特に2021年は決勝で静岡高に惜敗。その後、2021年秋に東海大相模高の監督に就任。そして2024年夏に自身9年目の夏に甲子園に出場し、ベスト8に進出しました。

原 29歳までプロ野球の世界に身を置き、その後、10年間は別のことをやって、39歳で教員になりました。静岡翔洋時代は、野球部の監督はもとより、高校生に教えること自体が初めてだったので、試行錯誤の連続でした。

── 39歳にして、教壇という名の"打席"に立ったのですね。

原 静岡翔洋の校長先生に「野球部が強い、弱いではなく、文武両道の学校生活をしっかり送れるよう、生活面から指導してほしい」と、最初にお話をいただきました。だから3年ぐらいは、野球のことよりも生活面のことを言うほうが多かったですね。

── 原先生は「学校生活を頑張れる生徒は、部活動も頑張れる」と、かねてから言っていました。

原 学業、時間厳守、協調性。たとえばスリッパを脱ぐ時、自分のものだけでなく他人のものも揃える生徒がいます。逆に自分勝手な子は、周りが見えていないというか見ようとしていない。そうしたふだんの生活態度や行ないというのは、野球のプレーにも出てしまうんです。だから野球だけを教えるのではなく、人間教育あってこその指導なんだと思っています。

【伝統校を率いるプレッシャー】

── 今夏の神奈川大会決勝の横浜高戦、木村海達主将に「ジャンケンに勝って、後攻をとってくれ」と言ったのは、投手の立ち上がりを含めた守りに自信あったという理解でよろしいでしょうか。

原 野球というスポーツは「先手必勝」で、先攻で得点できれば優位に試合を進めることができますが、無得点に抑えられると厳しくなる。それに同点や1点差、2点差リードくらいだと、9回裏の守りがかなりきつくなる。特に高校野球のような一発勝負は、投手がメンタル的に崩れることも多くなってくるので、監督としては後攻のほうが好きなんです。

── 今夏の横浜との決勝戦ですが、0対2から2対2になって、2対4と再び勝ち越されましたが、8回裏に三浦誠登選手の同点打と、中村龍之介選手の勝ち越し2点タイムリーで6対4とリードしました。直後の9回表、二死一、二塁と本塁打が出れば逆転の場面。壮絶な決勝戦、どのような心境でしたか。

原 2024年春季大会以降、プレーボールからゲームセットまで「集中力」をテーマにやってきました。とにかく、「感情の起伏をあまり激しくしないように」と指示しました。メンタルの世界では、"ピークパフォーマンス"と呼ばれるベストな状態は、興奮と抑制のちょうど真ん中にあります。

── 野球はメンタルスポーツでもありますね。

原 この夏、準決勝の向上戦(8回裏に逆転)と決勝の横浜戦で、終盤の集中力で逆転することができました。高校野球は負ける寸前に焦りの空気感が流れて、「行け!」と叫び出す。そうではなく、「(集中しながら落ち着いて)逆転しないといけないんだぞ」と。だからウチは、そういったハイパフォーマンスはなかったと思います。

── 9回表のピンチの場面では、すでに降板していたエースの藤田琉生投手(日ハム2位指名)が伝令でマウンドに行きました。

原 「落ち着いていけ」と言ってもちょっと無理だと思ったので、「まずアウトを取るぞ!」と。じつはあの時、藤田が「僕が伝令に行ってきていいですか」と言ってきたんです。自分の思いを伝えたかったのでしょうね。

── 最後はショートゴロに打ちとり、5年ぶり夏の甲子園出場を決めました。「男泣き」の優勝監督インタビューは感動的でした。原先生は「強い相模をつくらなきゃいけないと。やっと、生徒の頑張りによって達成できました」と、"生徒"を連呼していました。

原 学校生活、人間教育の一環として野球部を捉えている部分もあるので、そういう言葉が自然と出たのでしょう。相模高に来た時、「原監督と呼ぶのではなく、先生と呼びなさい」と伝えました。私は教員なので、先生と生徒という立場でいるつもりです。

── いまさらながらですが、東海大相模という伝統の重み、そして"元プロ"というプレッシャーはあったと思います。

原 もちろんありますが、それを公言したところでどうにもなりません。結果がすべてなので、勝たないと。「自分がコントロールできないことを気にしてもしょうがないよ」と、野呂雅之先生(桐光学園監督)の助言に救われたこともありました。

── 原先生のインタビューの間、ダグアウトで選手同士が涙の抱擁。そして胴上げは8度でした。どんな気持ちでしたか。

原 宙に舞っている瞬間は、ふわふわした気持ちでしたね。ただ、甲子園に行かせてあげられなかった生徒たちも、静岡翔洋時代から合わせて8世代いるわけで......その子たちがいてくれたからこそ、毎年ブラッシュアップすることができ、この夏の甲子園があったと思っています。これまで関わった生徒すべてに感謝しています。

            つづく>>

📝東海大相模・原俊介監督が語る指導論 「プロの技術を高校生に伝えるのは難しい」
https://www.excite.co.jp/news/article/WebSportiva_105976/

東海大相模・原俊介監督インタビュー(後編)

原俊介監督率いる東海大相模は2024年夏、神奈川を制し甲子園出場を果たした。「巨人ドラフト1位」という輝かしい球歴を誇る原監督だが、指導者として甲子園の地に足を踏み入れたのは今回が初めてだった。そんな原監督に高校生を教える難しさ、やりがいについて語ってもらった。

【原監督が達成した史上初の快挙とは?】

── 甲子園初戦(2回戦)は富山商に4対0で勝利。198センチ左腕・藤田琉生投手(日ハム2位指名)が7回13奪三振。8番・柴田元気選手の8回中押しソロ本塁打は、開幕19試合目の大会第1号でした。

原 ウチも相手も、みんな初戦の緊張で固まっていました。いくら東海大相模が甲子園で優勝経験のある伝統校と言っても、今夏のメンバーはみんな甲子園初体験ですからね。グラウンドに入るまでの過ごし方、入ってからのリズムなど新鮮でした。

── 原先生は選手としても甲子園に出場されていますが、見えた景色は違いましたか。

原 私が甲子園に出た高校3年春のセンバツは、"阪神・淡路大震災"が起きた年(1995年)で、街はあちこちにブルーシートがかかっていました。試合は1回戦で県岐阜商に勝ち、2回戦でその大会で優勝する香川の観音寺中央高に敗れました。球場自体は同じ甲子園ですから、景色は同じでした(笑)。ただこの夏、生徒たちと一緒に戦って、校歌を聞いた時は感無量でした。

── この夏の1勝は、ドラフト1位の教員として、初の甲子園勝利でした。
かつてプロにドラフト1位で指名され、早鞆高の監督を務めた大越基さんは甲子園に出場しましたが勝っておらず、全国制覇した智辯和歌山の中谷仁さんは教員免許を取得していません。

原 それは初耳でした。なんでも"初"というのはうれしいですね。ただ何度も言いますが、これは自分だけの力でできることではありません。これまで多くの人との関わりがあって、今につながっている。そこは感謝しかありません。

── 3回戦は、同じく甲子園で優勝経験のある広陵(広島)に8対1と勝利。2年生の3番・中村龍之介選手が4安打4打点の大活躍でした。

原 初戦で熊本工相手に1失点完投、9奪三振の高尾響投手が2番手で投げたのですが、2イニングで5点取れましたからね。中軸がしっかり打ち、いい試合展開のまま進めることができました。

── ベスト8に進出しましたが、準々決勝で関東一高に1対2の惜敗。7回に相手4番の高橋徹平選手に先制のソロ本塁打を浴びました。打線も、先発左腕の畠中鉄心投手、本格派右腕の坂井遼投手(ロッテ4位指名)のリレーの前に1得点。

原 藤田が頑張って投げてくれたのですが、チェンジアップを本塁打されました。畠中投手はコントロールがよくて、簡単に打たせてくれませんでした。

── 現実的に真紅の大旗も見えたと思うのですが。

原 確かに上の景色は見えました。ただ富士山にしても、車で登れる5合目に行くと頂上は見えますが、そこからが大変というか......。さらに上を目指すには、まだまだやらなければいけないことがある。上のレベルになればなるほど、なかなか点は入りません。その時にただ打って点を取るのではなく、いろんなアプローチをして風穴を開けていかなければいけないことを実感しました。

【プロの技術を伝えるのは難しい】

── 新チームとなった秋の関東大会は、山梨学院に延長10回タイブレークの末にサヨナラ負け。その大会を制し、神宮大会でも優勝したのが、ライバルである横浜高でした。

原 夏の甲子園での課題を紐解きながらやったつもりだったんですけどね。横浜高が関東大会を制し、神宮大会も勝って日本一を達成しました。

生徒たちには「来夏に向けて、君たちが日本一を獲りにいくつもりじゃないと、どんどん離される一方だよ」という話はしました。

── 原先生は、巨人で11年間プレー。高校生を指導するうえで、プロでの経験が役立っていると思いますが、具体的にはどんなところですか?

原 プロのテクニックというのは、高校生には難しいです。プロの技術と言っても、そのとおりに体が動かないし、感覚もない。プロ野球選手の皆さんは試行錯誤を繰り返して、初めてその感覚に行き着いているわけですから。それなりのことは言いますが、言ってもなかなかできないのが現実です。

── コツやノウハウは教えられるのでは?

原 主観的で言語化することができない知識のことを「暗黙知(あんもくち)」と呼びます。いわゆるコツや勘、ノウハウです。経験的知識とも言い換えられ、これは他者に伝播されないと言われています。だから技術であれば、望ましい結果になるように導いてあげるという感覚のほうが近いですかね。

── 実際に経験させないと、技術は身につかないということですね。

原 ただ、これがまた面白いことに、試合中にテクニックのことを考えると体が動かなくなるんですよ。だから自主トレや基本練習の時に、意識的にテクニックを追究するのです。

── 練習の時に、技術をしっかり教え込んでいくと。

原 練習でも、実戦形式の練習とそうじゃない練習があります。たとえば走者をつけてやるノックは、捕り方、投げ方うんぬんではなく、どういうふうに相手をアウトにするかがメインです。うまくやることが目的ではなく、相手を封じることが最優先です。逆に走者からすれば、いかに次の塁を目指して、ホームに生還するか。だから、守備側と走者側がもっと戦い合いなさいと、いつも言っています。その後に生徒たちだけで集めて話をさせるのは、自分たち発信で考えさせるためです。そうしないと、試合を運営できませんから。

── 逆に試合の時は、どういうことを意識させるのですか。

原 いざ試合になれば、どう相手に立ち向かうか。テクニックのことなどは、もう二の次です。

どれだけ無意識レベルで体が動くかどうかです。

【原俊介監督が目指す野球とは?】

── 最後に「原俊介流」の野球とは?

原 「つながる野球」です。チームとして機能する野球ですね。単純な話、外野手が守備位置を後ろにして守っていれば、打たれる打球が深い外野フライでもいいわけです。これが外野手の前に落とされたり、内野手の間を抜かれたりする打球を打たれたりすると"機能的"ではなくなってしまいます。ということは、投手が野手の守備陣形を把握して投げれば、より機能的になってきます。つまり、投手が「いい球を投げたい」「速い球を投げたい」ということに固執すると、結果的に周りが見えなくなり、チームとして機能しなくなるわけです。

── そういう意味で"つながる"というわけなのですね。

原 投手が投げることと打つことも守ることも、すべてつながっているわけです。そこにチームメイトとのつながり、応援してくれる人とのつながりもある。いろんな部分を自分たちのエネルギーとしながら、かつグラウンドではひとつのボールでつながりを持っていこうと。そういう野球を目指しています。
2024/12/28(土) 22時24分22秒 No.1514 編集 削除