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紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
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お知らせ

編集済
☝甲子園球場100周年のフィナーレイベント 「甲子園ナイターグラウンド見学」開催
https://news.yahoo.co.jp/articles/883a5cd20c5c1fa994a698baea79dbe20fcdebc3

阪神甲子園球場は23日、100周年を迎えた記念すべき年のフィナーレを飾るイベントとして「ナイターグラウンド見学会 supported by Panasonic」を開催すると発表した。

このイベントは24年1月に初めて開催し、参加者からの好評を受け改めて開催するもので、演出内容が更にパワーアップする。イベントでは、グラウンドの人工芝エリア(内外野)を自由に散策できるほか、選手が使うベンチの見学も可能。また、23年に「第41回日本照明賞」を受賞したパナソニック製のナイター照明を用いたレギュラーシーズンの演出を再現するとともに、外野スタンドを照らすカラー照明など、本イベントでしか体験できない幻想的な空間を楽しめる。

日程は12月21日~22日、24日~26日。第1部が17時15分~18時、第2部が18時15分から19時までとなっている(24日は第2部のみ)。

おとな4200円、高校生3600円、こども(4歳~中学生)2800円で楽しめる。

📝優勝争いは混戦模様 広島商や高川学園 県1位校中心の展開か 秋季中国地区高校野球大会
https://news.yahoo.co.jp/articles/a418234f2dc49aaf2e115c019e30d996fe4848ff

来春の選抜高校野球大会の選考資料となる秋季中国地区大会は25日、島根県立浜山公園野球場などで開幕する。優勝争いは、抜きんでたチームがなく混戦模様。その中で広島商や高川学園(山口)、夏春連続出場を狙う岡山学芸館の県1位校を中心に展開しそうだ。

広島商は、制球力のいい主戦大宗を中心とした投手力を武器に3年ぶりの選抜大会出場を狙う。県大会後、ゴロを打つ打撃や球際を意識したノックなどを徹底。西村主将は「ミスを少なく、終盤まで粘り強く戦いたい」と表情を引き締める。

2年連続で中国地区大会4強入りし、選抜大会の補欠校となった高川学園は、攻守のバランスの良さを武器に三度目の正直を目指す。昨年からレギュラーの徳原は「一戦一戦を大切に、今年こそという気持ち」と意気込む。岡山学芸館は、今夏の甲子園16強のセンターラインが主力として残っているのが強みだ。

好右腕木村を擁する如水館と、投打にまとまる盈進の広島勢は、県大会のような地に足を着けた戦いができれば、上位進出するだけの力はある。山口2位の下関国際や、2年連続のセンバツを目指す創志学園(岡山)も有力だ。

📝親子鷹で甲子園、選手では果たせなかった夢をコーチで実現させた文彦の原点
https://news.yahoo.co.jp/articles/ac252a49c655a1a1c58b59b721a1597e848d2c33

静岡県の知徳高校を率いる初鹿文彦監督。塩山高校では通算30本塁打のスラッガーとして注目を集め、駒澤大学でも1年生から神宮球場でホームランを打つなど華々しくデビューしながら、4年生の春、代打での三振をきっかけにベンチ入りメンバーから外されてしまう。就職活動もなかなか思うように進まない。年が明けても宙ぶらりんの毎日を送っていた。

大学の卒業を目前に控えた3月。文彦のもとに、父の勇から電話が入る。勇の率いる日本航空高校は、前年秋の関東大会でベスト8に進出し、この春の選抜甲子園に初出場が決まった。大会前の最終調整のため、暖かい静岡でキャンプを張っていた。

勇は開口一番、「ちょっと手伝いに来てくれないか」と言ってきた。驚く文彦に、「高校生を見たら、お前も刺激になるぞ」と言葉を続けた。「ありがとうございます。ぜひ行かせてください」と返事をし、すぐに現地に向かった。3月上旬の、10日間ほどの臨時コーチ。文彦はそこで1人の高校生と出会う。

勇から「アイツのバッティングを見てやってくれ」と託されたのが、1年生(新2年生)では唯一のレギュラーで、打順は6番を打つ深沢俊哉外野手だった。

深沢は「フミさん、フミさん」と慕ってきて、いろいろ質問を受けた。熱意に絆されるように、グラウンドでバッティング練習を手伝うだけでなく、宿舎に帰ってからも、相手バッテリーとの駆け引きや、打席での立ち位置、リズムやタイミングといった自分が学んできたバッティングのノウハウを熱心に教え込んだ。

そのまま甲子園でもチームに帯同することになり、次第に文彦は選手たちに野球を教えることに夢中になっていく。これが指導者としての原点となった。

深沢はチームが甲子園初勝利を挙げた初戦の仙台育英(宮城)戦こそ無安打だったが、2回戦の徳島商戦でレフトスタンドにホームランを打つ。試合は4-8で逆転負け。文彦がチームを離れ東京に帰るその別れ際、深沢がやってきて「フミさん、ありがとうございました。ナイスバッティングでした」と、あたかも文彦がホームランを打ったかのように言い、「これを」と記念のホームランボールを手渡してきた。

「なに言ってるんだ。俺が受け取れるはずがないじゃないか。これはお前が大切に持っていなさい」

文彦は慌ててボールを深沢に返した。思いもよらない行動に、強い衝撃を受けた。深沢にしてみれば、感謝の思いをそういう形で伝えたかったのだろう。それは不思議な感覚だった。まるで自分がホームランを打ったかのような喜びや感動があった。そのとき、胸の中である感情が芽生えた。

「これだ、と。その子の喜びを、自分の喜びとして感じられたんです。自分は甲子園でホームランなんて打てないし、行くことすらできなかった。そんな自分の果たせなかった夢を、自分が教えた高校生たちが果たしてくれるのか、と」

父と同じ高校野球の指導者を目指すという夢が生まれた瞬間だった。

■ 「父と一緒に甲子園」の夢が実現した瞬間

それまで、指導者になろうと思ったことは一度もなかった。「プロ野球選手になれないのなら、もう野球から離れて普通のサラリーマンになろう。休日に休める仕事がしたい。スーツを着て、野球とはまったく離れた生活を送るんだ」。そんな人生設計が、一人の高校生との出会い、わずか15日間ほどの経験で大きく変わった。

勇の下でコーチの見習いをしながら、教員免許を取得するため2年間、科目等履修生として大学に通った。すでに野球部の合宿所を出ていたが、駒大の太田監督のはからいで、最初の1年は明治神宮外苑のテニスクラブの宿直として、住み込みで働きながら授業に通わせてもらった。2年目に日本航空の選手寮の寮監として採用され、教員免許を取得すると、正式にコーチに就任する。

そして、98年の春夏連続初出場のチームを見て入学してきた選手たちが3年生になった2001年夏、エース八木智哉(現・中日スカウト)を擁して甲子園に出場。文彦にとっては、高校時代に果たせなかった「父と一緒に甲子園」の夢が実現した瞬間だった。

初戦で鳴門工(徳島)、2回戦で宜野座(沖縄)に快勝。3回戦で優勝した日大三(西東京)に敗れたが、この大会で2勝を挙げて注目を集めた。山梨県内では公式戦無敗。主力には下級生も多くいて、翌年も期待できるチームだった。黄金時代が到来しそうな予感があった。

ところがその年の暮れ、チームの運営方針を巡って学校との間に亀裂が走る。溝は埋まらず、勇とともに職を解かれ、学校を離れることになった。勇の就任から5年間で甲子園に春夏計3度の出場と結果は出していた。不本意な退任ではあったが、勇も文彦も、当時の厚遇には今も感謝している。

今年の夏に7度目の甲子園出場を果たした日本航空。現監督の豊泉啓介は勇の教え子で、この退任時の1年生。今も知徳とは年に何度かオープン戦が組まれ、初鹿親子との友好な関係が続いている。

富士市にある曹洞宗・福泉寺の住職で、岩佐善公という人物がいた。駒大OBで、文彦の大学時代からの相談相手だった。

日本航空を退職した後、報告の電話を入れ、「せっかくやり始めた仕事なので、これから公立高校の教員免許を取って、母校を甲子園に連れて行きたいんです」と伝えると、「公立高校の先生になるのがどれくらい難しいのか、わかってるのか」と考えの甘さを指摘され、返す言葉を失った。

「それでもやりたいのか」と問われ「やりたいです」と答えると、「ちょっと待ってろ」と電話を切られた。

数時間後に折り返しの電話が来て、「静岡に行く気はあるか?」と聞かれる。二つ返事で「高校野球の指導者ができるのなら、日本中どこにでも行きます」と答えると、紹介されたのが、静岡県の駿東郡長泉町にある三島高校。現在の知徳高校だった。

■ 部員わずか9人だった三島高校野球部

岩佐自身も社会科の教鞭を執っていたのだが、少子化の時代に入り、私学として生き残れるのか危機感があった。学校の立地が良く、三島だけでなく、伊豆、御殿場と広いエリアから通学することが可能だった。県立志向が強い土地柄だが、そうした地域の県立高校と上手くマッチングできない中学生の受け皿として、毎年一定数の生徒は確保できていた。

ただ、学校に特色がなかった。ソフトテニスやレスリングなど運動部の活動に力を入れていたが、影響力の強い野球部を強くしたいという願望がかねてからあった。

野球部はかつてはプロ野球選手を出すような強豪だった時期もあるが、長いこと低迷していた。トントン拍子に話は進む。日本航空を退任したのは2002年の年明け1月8日。そして三島高校への赴任が決まったのが3月8日。その間、わずか2カ月。縁とはこういうものなのだろう。

赴任した時の部員は9人。試合ができるギリギリの部員数だったが、文彦が指導を始めると「厳しい野球はやりたくない」と退部する部員がいた。キャプテンは髪の毛を伸ばしオールバックにしていた。でも、野球はそれほど上手くはない。

試合の日、2年生の部員が1人、グラウンドに現れなかった。選手を乗せたワゴン車で自宅まで迎えに行ったが、「ついていけないっす。そんなに真剣に野球をやるつもりじゃないし」と家から出て来ようとしなかった。「お前がいないと、みんな大会に出られないんだ。頼むよ」と何度も頭を下げた。

文彦からしたら、まだ野球を始める前の段階だった。ゆくゆくは日本航空の時のようなレベルの高い野球をやりたいが、その前にまず、学校内や日常生活における行動常識のようなものから教えていく必要があった。だから野球では目を瞑れても、躾や礼儀には厳しかった。

勇はもう60歳を過ぎていて、隠居を決め込むつもりでいた。「息子がやっているから」と遊びがてらグラウンドに来た時に、そんな光景を目にして、「このままではまずいぞ」と心配をし始めた。

ちょうど同じ時期、思わぬ事件が起こる。日本航空に入学する予定だった中学生が、初鹿親子が退任したことで進路を変更し、別の私学に入学することになった。すでに入学試験は終わって無事合格。物品の購入も済み、野球部寮に入寮していた。

ところが、その子たちが「文彦コーチが静岡で監督になった」と聞きつけ、入学予定だった高校の寮を集団で脱走。勇の自宅にやってきて「三島に行きたい」と直談判してきたのだ。

■ 監督の座を父親に譲った文彦

こういうことが起きてはいけないと思い、三島への異動は彼らには伏せていたのだが、保護者を通じて耳に入ってしまったようだ。説得したが聞き入れず、勇は彼らが入学を予定していた学校に謝罪に出向いた。

もともとはこちらからお願いした話で、平身低頭詫びるしかなかった。先方の校長が折れ、「そんな気持ちで残っても良い学校生活は送れないだろう」と譲歩してくれたことで、三島への入学がかなった。彼らの他にも7人の新入部員が入り、選手20人、マネージャー2名の総勢22人でスタートを切る。

その年の秋季大会の御殿場南高校戦で初勝利を挙げると、文彦は監督を退き、年明けから山梨にいた勇を静岡に呼び寄せ監督を任せた。自身は部長としてチームの土台作りをしたかったのと、父親にもう一度監督として働く場所を作りたかった。選手の指導や試合での采配は、まだまだ自分は及ばないと認めていた。

勇はそれから10年間監督を務め、75歳になった2013年春、第一線を退き総監督に就任した。代わって、38歳になった文彦があらためて監督に就任する。校名が「三島」から「知徳高校」に改称されたのは、翌14年のことだった。

「監督(勇)は、やりきったと思います。ただ、もう一度一緒に甲子園に行くという夢があったので、それを果たせずに終わるのは悔しかった」と文彦は言う。

勇は文彦の監督就任を前に、彼なりのやり方で地ならしをしてくれていた。部内で些細なイジメや問題行動といったことが相次いで起こり、風紀に乱れが出て来ていた。高野連から処分を受けた案件もあり、当然、学校からの見方も厳しくなってくる。勇は自分の責任のもと、問題行動の多い部員たちを退部させた。

ハレーションはあったが、批判はすべて自分が受け止めた。そして戦力ダウンしたチームで、中学時代には不登校だったといういわく付きの部員を手塩に掛けてエース投手に育て上げ、「これで大丈夫だ。勝てるぞ」という状態で文彦に引き継いだ。

就任して最初の夏の静岡大会、知徳は過去最高成績のベスト8に進出している。それでも文彦は「僕がもう少し上手くやれていたら、もっと勝てるチームでした」と振り返る。

■ ぶつかってもグラウンドで離れれば親子の関係

退任後、「総監督」に就任した勇は、時間があればグラウンドに来て、選手の指導もしていたが、文彦がやりにくさを感じるようなことは一度もなかった。親子の気安さで言いたいことが言えたし、勇も気を遣い、「やりたいようにやれ」と部の運営にはいっさい口を出さず、指導も投手だけになっていった。

クラス担任を持っていた文彦がグラウンドに出るのが遅れる時には練習を仕切ってくれた。あとで「どうでしたか?」と聞くと、選手のことをあれこれ評論しながらも、「ダメだ」ということは決して言わなかった。「あいつ、良くなったな。伸びてるぞ」と長所を見つけて、伝えてくれた。

長く高校野球の指導を続けてきただけに、選手の身の丈は、ある程度見たらわかる目を持っている。だが、今、監督をしているのは自分ではなく文彦だ。文彦なりの視点で選手を見ている。そこで自分が何かを言えば、文彦も迷ってしまう。だから「良くなってるよ」「大丈夫だ」と伝える。それでいて、あからさまな欠点があればきちんと修正してくれていることは、文彦も気づいていた。

勇が監督をしていた時には、よく衝突もした。昔気質の指導者だから、「レギュラーはコイツ」と決めたら、試合で10点取ろうが20点取ろうが絶対にメンバーを落とさない。「手心を加えたら失礼になる」と言って、徹底的に叩き潰す。それが対戦相手に対する礼儀という考え方だった。

見かねた文彦が「もっといろんな選手を試合に出してあげてください」と意見を言っても、聞き入れてくれなかった。最後は口論になり、コーチから「もうやめましょう」と止められたこともあった。そうやって激しくやり合っても、同じ家に住む親子。練習が終われば、あと腐れなく同じ自動車に乗って帰宅していった。(第4話に続く)

🎤サイン無視のバスターに「え?」 選手が振り返る京都国際×関東第一
https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASSBR11LBSBRPTQP00WM.html

あのとき、何を思い、試合に臨んでいたのか。

 時を経て選手同士が語らう「After Game Talk」。今夏の全国選手権決勝を戦った京都国際の主将の主将・藤本陽毅遊撃手と中崎琉生投手、奥井颯大捕手、関東第一の主将・高橋徹平三塁手、坂井遼投手、熊谷俊乃介捕手が直接顔を合わせ、振り返った。

 ――九回まで両校無得点の投手戦でした。

中崎(京) 四回2死一塁での、高橋君との対戦が一番印象に残っています。

高橋(関) 内角直球で空振り三振になったやつ? あれは当たる気がしなかった。

奥井(京) 長打が嫌だったので最初は外角に。最後は一塁走者が盗塁を仕掛けてくると思って内角を攻めました。

高橋 ずっと外角で来ていたから、内角はないと思って外の変化球を待っていた。そうしたらタイミングが合わなくて完全にやられました。

坂井(関) (高橋へは)抜いたまっすぐ投げておけば空振りするし、長打を怖がることはないよ(笑)

高橋 (チームメートに)期待されてないので。でも逆にリラックスできているのかも(笑)

 ――坂井投手は何回から登板予定でしたか。

坂井 六、七回くらいにいければいいかなと。七回からだったのでプラン通りです。

藤本(京) 僕は(先発の)畠中君がタイプ的に苦手で、早く出てきてほしかった。

中崎 坂井の抜いた直球か速い直球を狙うか、どちらかにしようと監督から言われていました。

高橋 あの抜いた真っすぐ、どう思った?

奥井 (坂井に)代わった最初の打者が僕。真っすぐがめっちゃ速いと知っていて、それを待ってたら初球で「抜き」がきて、やられた。一ゴロかな。

藤本 僕は(九回に)打ったけど。カウントが3―1で直球が来るだろうと待っていた。速い真っすぐを待っていたら抜いた真っすぐ。でも甘かったのでいけると打ったら、中前安打になった。

坂井 気分で抜いたり速くしたりしている。

熊谷(関) (捕手側も)いつ速い真っすぐがくるか、遅めなのかわからない。データは取ってるけど、試合前だと忘れて、気分になっちゃうんだよね。

藤本 それなのに点、取られへんでしょ?

坂井 俺、(全国選手権の)自責点は0だから。

 ――他に印象に残っているシーンは。

高橋 タイブレークであった京都国際の(代打・西村一毅投手の)バスター。あれはサインだったの?

奥井 サイン無視だよ。

高橋 え? ピッチャーが打者だったから、絶対バントで来ると思った。

坂井 ピッチャーって気付かなくて、後で西村だったと知った。

熊谷 俺も。2ボールになって、バスターがあるかもと少しだけ思っていました。

藤本 バントのサインやけど(内野が前に)出てきたら打て、だった。

高橋 アウトをサードで取りたくて猛チャージした。打者の構えでおかしいと思ったけど……。

中崎 九回が終わって交代と言われたのに、ブルペンにいるはずの西村がいない。どこやろうって探したら、もう打席に向かっていて「え?!」と……。

 ――バスターが安打になって無死満塁に。押し出し四球で三塁走者の奥井選手が本塁にかえり、先制点が入りました。

奥井 不安だったから、あと2点くらい取ってくれと思ってました。

坂井 四球になった球は直球。足上げた瞬間、バランスが少し変になっちゃった。

 ――互いに堅守のチームでした。

熊谷 自分は関東第一の方が守備は上だと思っていました。初戦からずっといいプレーをしてきたので、守備だけなら負けないかな。

藤本 球際の強さは関東第一の方があったかな。そういうのが(自分たちは)弱くて1試合にエラーは1個はあったし、関東第一が上かな。

 ――試合終了後の挨拶では会話する姿もありました。

藤本 (高橋の)ハグがきつかった。俺は体がそんなデカないから、上からこう(かぶせて)来てきつかったです。

高橋 共に戦った仲なので。最後はしっかりたたえたほうが良いかなって思いだった。

中崎 僕は(坂井と熊谷の)2人と高校日本代表になると知ってて、「代表でもよろしく」と。

坂井 「よろしくねー」みたいなことを返した気がします。

 ――この試合で得たもの、学んだことは。

高橋 最後はしっかりヒットが出て終われたチームが勝つんだなって。

藤本 僕たちはピッチャーはいいけど、野手は技術の高い選手はあまりいない。それでもチーム力や雰囲気が良ければ、能力値が高い相手に勝てることがわかった。

中崎 選抜で負けて、気持ちの部分で未熟な部分があった。大舞台でいいパフォーマンスをしようと思ったら、気持ちが大事だと甲子園で学ばせてもらった。

奥井 中崎も言ったけど、最後は気持ちの強かったチームが勝つことが分かりました。

坂井 自分は決勝まで行けるとは正直思ってなくて……甲子園はすごい場所です。

熊谷 前の試合でできなかったことが次の試合にできたりする。1試合ごとにすごく成長できる場所だと感じました。

📝絶望の報道の直後、関大・金丸の頭に思い浮かんだ日々と、新たな決意
https://news.yahoo.co.jp/articles/ac8324dbc499ad98990c47fc69ad247c44772da5

4年前、自宅のリビングでテレビをじっと見ていた。兵庫・神港橘高3年だった金丸夢斗(関西大4年)は、野球部の仲間たちと近くの公園で練習をした後、時間に合わせて集まった。

全員がマスク姿。新型コロナウイルスが蔓延していた。毎日、死者数が更新される未知のウイルスの脅威に不安を抱きながら、この夏の全国選手権大会が開催できるかどうかの判断がなされる時を待っていた。

2020年5月20日午後6時すぎ。甲子園と地方大会の中止が発表された。「まじか……」。どこかで覚悟をしていたはずだったのに、「頭が真っ白になった」。

自問した。「ここで野球を終わっていいのか」。そんなときに頭に思い浮かんだのは、父・雄一さんと過ごした日々だった。

元球児の雄一さんはアマチュア野球の審判をしていて、甲子園でも長くジャッジを務めた。休日になると家族で地方球場に行き、外野の芝生に座りながら父の審判姿を見るのが好きだった。

兄も自分も、その影響で野球を始めた。金丸は左利きで投手をやっていたが、同年代の子と比べても体が小さく、球も遅い。投げるたびに打たれて泣いていた。それでも、「ただただ野球が好きで、プロ野球選手になりたかった」。

中学まで目立った活躍もなく、強豪の私立高校から声をかけられることはなかった。地元の神港橘高に進んだ。1年生のときの身長は150センチ台。同学年の中で2番目に低かった。それでも高い制球力を武器に2年生の秋、背番号1をもらった。

最後の夏こそ甲子園に――。その目標がなくなった。金丸は顔を上げた。

「父が甲子園で審判をしている姿を見て、自分も甲子園のマウンドに立つという目標も持てた。野球というスポーツにも出会わせてくれたし、夢を与えてくれた。何とか良いところを見せたい」

大学を経て、プロ野球選手になる。そう決心した。
2024/10/23(水) 22時17分18秒 No.1407 編集 削除