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⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(6日目 代表決定戦 紀三井寺球場)
09:00~ 智弁和歌山- 粉 河
☆☆ 11:30~ 田 辺 -和歌 山商
⚾明日の兵庫大会組み合わせ(3日目 1・2回戦)
明石トーカロ球場
☆☆ 10:00~ 社 -須磨 翔風
☆☆ 13:00~ 須磨 学園-滝 川 二
ウインク球場
10:00~ 赤 穂 - 星 陵
13:00~ 小 野 工-明 石 商
G7スタジアム神戸
10:00~ 市 尼 崎- 飾 磨
13:00~ 龍 野 -武庫荘総合
ReFillスタジアム
☆ 10:00~ 彩星 工科-姫 路 工
13:00~ 高 砂 -須 磨 東
ベイコム球場
10:00~ 高 砂 南-県 伊 丹
13:00~ 洲 本 -篠 山 産
⚾明日の岡山大会組み合わせ(初日 1回戦)
倉敷MS
10:00~ 就 実 - 勝 山
12:30~ 方谷 学舎-岡山 朝日
エイコン球場
10:00~ 岡 山 工- 高 梁
12:30~ 美 作 -作陽 学園
✌甲子園 喜怒哀楽 「九学」を全国区にした名将 坂井宏安の「喜」
https://sports.yahoo.co.jp/video/player/27568845
✌甲子園 喜怒哀楽 県岐阜商ベスト4に貢献 横山温大の「喜」
https://sports.yahoo.co.jp/video/player/27568830
✌甲子園 喜怒哀楽 高校3年夏の甲子園で65奪三振 辻内崇伸の「喜」
https://sports.yahoo.co.jp/video/player/27568818
📝実力校ぞろいのBゾーン Cゾーンは鳥取城北が軸 19日開幕、秋季鳥取県高校野球大会
https://www.nnn.co.jp/articles/-/800825?gsign=yes
来春の選抜大会の選考資料となる秋季鳥取県高校野球大会兼第147回秋季中国地区大会県予選は19日、どらドラパーク米子市民球場で開幕し、19チームが熱戦を繰り広げる。上位4チームは中国大会(10月23~25日、31日、11月1日・どらドラパーク米子市民球場ほか)の出場権と来春の県大会のシード権を獲得する。新チームの船出となる大会を展望する。
【Aゾーン】
西部1位の米子東が中心。地区大会の全3試合で2桁得点を挙げた強力打線に加え、バッテリーを中心とした守りも高い。
米子松蔭は堅守を発揮し、5年連続の中国大会出場を狙う。
東部勢同士の対戦となった鳥取西―鳥取東は互いに手の内を知っており、拮抗した試合になりそうだ。
【Bゾーン】
実力校がそろい、激戦必至のゾーン。東部2位の鳥取商は経験値の高い辻を筆頭に、分厚い投手陣を擁する。
対する境は打線がいかに攻略するかが鍵。
西部2位の米子北は夏を経験したダブルエースの小柳、松影に力がある。
1年生主体の米子工は思い切ったプレーで旋風を起こしたい。
【Cゾーン】
鳥取城北が頭一つ抜けている。夏の甲子園を経験した選手が多く残り、投攻守に隙がない。打線は得点力が高く、守備も二遊間を軸に堅い。
米子西は総合力の高さで勝負する。
岩美は投打の中心となる2年生の活躍が不可欠だ。
連合チームは堅実な守備で粘り強く戦い、上位をうかがう。
【Dゾーン】
中部1位の倉吉北がリードする。夏4強の実力を発揮し、地区大会は全試合でコールド勝ちした。活発な打線にそつのない走塁を絡めて攻撃を仕掛ける。
倉吉東はエース村上を中心に、しっかりと守って勝機を見いだしたい。
鳥取育英は小技を使って打線をつなぎ、下克上を狙う。
森岡正博氏が米子松蔭新監督へ
秋季鳥取県高校野球大会に向けて米子松蔭の監督が交代し、森岡正博氏が初めて指揮を執る。
【略歴】鳥取市出身。米子商高(現米子松蔭高)卒。高校時代は捕手としてプレーした。卒業後は地元企業に就職。2015年10月から同校で外部指導者を務めており、17年夏と25年春の甲子園出場に貢献した。59歳。
【抱負】選手が思い切ってプレーできる環境づくりを心がけている。レギュラーも控え選手も全員が役割を全うし、一丸となって戦えるチームをつくりたい。一戦一球を大切にして日本一を目指す。
👣明桜・輿石重弘監督が退任 ロッテ山口&オリックス曽谷らが教え子…今月15日付でノースアジア大監督就任明桜・輿石重弘監督が退任 ロッテ山口&オリックス曽谷らが教え子…今月15日付でノースアジア大監督就任
https://news.yahoo.co.jp/articles/9572df8b8ca00cb54cb20399915d50080995a7ae
明桜(秋田)の輿石重弘監督(63)が退任し、今月15日付で系列のノースアジア大硬式野球部の監督に就任したことが17日、分かった。今後は明桜の総監督も兼務する。同校は通常の人事異動の一環であると明かし、「今年は、明桜高校硬式野球部監督としてちょうど10年の節目であり、教頭という教員の要でもあることから、学務に重きを置いていただくとともに、今後は、また違った目で野球の指導を行っていただく」と説明。後任は正式に決まり次第、発表される見通し。
山梨出身の輿石氏は、帝京三の監督などを歴任し、17年4月に明桜の監督に就任。同年夏にいきなり甲子園出場へ導いた。21年夏には同校31年ぶりとなる甲子園勝利を挙げたほか、23年夏にも出場を果たした。明桜での教え子には山口航輝(ロッテ)、曽谷龍平(オリックス)らがいる。また同校は、ノースアジア大監督就任の理由について「輿石監督の力量が買われて、任命されたもの」とした。
📝「金沢の町から人がいなくなった」“高校野球史上最高の試合”死闘の結末で何が起きたか…星稜の名将は「自分の器の小ささがよくわかりました」
https://news.yahoo.co.jp/articles/c36aa5d7fa3a6da25a334857b6b99509852e8b8e
1979(昭和54)年夏の甲子園で行われた星稜と箕島の一戦が「高校野球史上最高の試合」と言われるのは、「ドラマ」という言葉が陳腐に思えるほど、劇的なことが次々に起こったからだ。
16回の攻防がクライマックスだったと言っていいだろう。この回表、星稜はワンアウトから四番の川井直之がデッドボールで出塁。五番の堅田外司昭のヒットでチャンスを広げた。六番が倒れツーアウトとなったが、七番の山下靖がライト前に弾き返して3対2。またリードを奪うことに成功した。あとはこの1点を守るだけだ。
「最後のひとり」のファウルフライが……
箕島の打順は四番の北野敏史から。春のセンバツで史上初のサイクルヒットを放った強打者だが、この日は快音を響かせることができない。二塁ゴロに倒れてワンアウト。続く五番の上野敬三が三振し、箕島にはもうあとがなくなった。
六番・森川康弘の打球が一塁側のファウルグラウンドに上がった……。やっと決着がついたというざわめきがすぐに悲鳴に変わった。ファーストの加藤直樹が転倒し、捕り損ねたのだ。加藤は2025(令和7)年に甲子園歴史館で行われたトークイベントで「あの瞬間」をこう振り返っている。
「もう体力の限界に来ていました。フライが上がった瞬間に『捕れる』と思って追いかけたんですけど、気がついたら転んでいて……」
最後のバッターになるところを助けられた形になった森川がフルスイングした打球は、左中間スタンドに飛び込んだ。またも、3対3の振り出しに戻った。星稜・山下智茂監督は言う。
「16回表の山下のタイムリーヒットが出た瞬間に『もう勝った』と思いました。だけど、箕島のライトの守備がすごかったんですよ。ライト線に飛んだ打球を捕ってツーベースにさせなかった。こちらも研究しているけど、箕島もすごいなと思いましたね。
加藤が転がった瞬間は『まあ、仕方がない』と思いました。そのあとにホームランを打たれるとは思ってなかったから。バッターを打ち取ればいい。森川くんはライトヒッターだというデータがあったので、レフト方向にホームランを打たれてショックでした。箕島の底力を思い知らされましたね。同点に追いつかれたことで『加藤は大丈夫かな……』と思いました」
17回は両チームともに三者凡退。残るは18回だけだ。
泣いても笑っても最終回の攻防
18回表の攻撃、星稜は三番からの好打順だった。ワンアウトのあと、四番・川井がヒット。五番の堅田が打席にいる時、場内アナウンスが流れた。このまま決着がつかない場合は翌朝8時30分からプレーボールになるという事務連絡だった。
「それを聞いた瞬間、堅田の肩が落ちるのがわかりました。うちには堅田しかピッチャーはいない。明日再試合になったら負けるな……と思いました」
それでも堅田はヒット。ツーアウトから七番・山下がセンター前ヒットを放つも、ランナーはホームに帰れない。満塁のチャンスで代打が三振を奪われて、星稜の勝利はなくなった。18回裏、この日延べ60人以上のバッターと対峙してきた堅田は、足を引きずるようにしてマウンドに向かった。
「猛練習で鍛えてきたといっても、選手たちにもう体力はありません。ギリギリの状態で戦っていましたから。この回、堅田のボールは浮いていましたね」
先頭打者に続き、一死後にこの日ノーヒットの北野にもフォアボールを与えた。ワンアウト一、二塁から五番の上野の打球はショートの頭を越え、二塁走者がホームにヘッドスライディング。4時間近い激闘に幕が下ろされた。
「負けたか……というよりも、生徒がよく頑張ったと思いました。選手たちをほめてやりたい、抱きしめてやりたいというのが、試合後の僕の第一声でした」
エースと心中する気持だった
この試合のテレビ視聴率は29.4パーセントだった。
「あとで聞いたことですけど、その時間帯、金沢の町に人がいなかったらしいです。ちょうどお盆やったんですけど、盆踊りで集まった人たちも途中でやめてテレビを見に帰ったという」
これほどの極限の戦いに、もう作戦はなかった。
「堅田と心中する気持ちでした。18回裏に伝令を出して僕の指示を伝えようとしたんです。僕はいつも紙にメッセージを書いて、伝令に持たせる。この時は、『悔いのないように投げろよ』というメモを渡した。それを読めば、少しは落ち着いてくれるだろうと思って。ところが堅田はもう疲れ切ってしまって、それを読むことができなかったそうです。死力を振り絞って投げたということです」
両エースともに最後までマウンドを守り抜いた。石井の投球数は257、19安打を打たれたものの(すべてシングルヒット)、16三振を奪い、3点しか許さなかった。堅田の投球数は208。被安打は12(うち2本塁打)だった。
「うちのほうがヒット数は多かった。それでも負けたんだから、監督の差でしょうね」
星稜が攻め、箕島が追いつくという展開。最後の最後で勝利を手にしたセンバツ王者の指揮官には試合中、ずっと笑顔があった。エラーが出ても“尾藤スマイル”だった。
山下が尾藤スマイルから学んだこと
「あの試合、監督と監督との戦いでもありました。ベンチにいる尾藤(公)さんの表情が見えるんですけど、ピンチでも笑っていましたね。そのことに驚きました。普段の練習や練習試合ではそんなことはありません。笑顔なんかひとつもない。怒ってばっかりですよ。厳しさでは僕よりも全然上です。でも、甲子園では“尾藤スマイル”なんですよね。尾藤さんはミスを許すことができる、度量の大きな監督でした」
箕島に敗れ、尾藤の大きさを思い知らされた山下は自分を変えることを決意する。
「あの試合で、それを見て、自分の器の小ささがよくわかりました。どうして笑うことができるのか——それを考え、研究し続けました。自宅の玄関に大きな姿見を置いて、登校前に10分間、帰宅してから10分間、自分自身とにらめっこをしました。今日のネクタイはどうだろう? 明日は生徒にもらったネクタイで行こうと考えるようにもなりました」
さまざまな種類の本を読み、人の話をよく聞くようにもなった。
「それまでの自分では勝てないと思いいたりました。お医者さんが勉強会を開いてくれたり、経営者の集まりに呼んでもらったり。『これを読んでみたら』と勧められた本を読みました。そうすることで少しずつ成長できたと思います」
自分の成長を実感したことで、生徒との関わりにも変化が生まれた。
「自信がついてきて、自分の心がわかるようになりました。生徒はいつも監督の顔色を見ています。その生徒の表情から、心のなかを覗けるようになったんですね」
あの敗北は山下にとって新しいスタート。星稜が次のステップに上がるきっかけにもなったのだ。
〈つづく〉
📝「延長18回と5連続敬遠」の共通点…星稜・山下智茂監督が81歳の今も心に秘める教訓「もしあの試合に勝っていたら、天狗になってクビだったかも」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7c1e00fb041223fe49a392ed3f36a21ea5de2427
1980(昭和55)年は春夏ともに甲子園出場を逃した星稜だったが、その後は甲子園常連校として誰もが認める存在になった。1981年春のセンバツから、5シーズン連続で甲子園まで勝ち上がった。山下智茂監督は当時をこう振り返る。
「(1979年夏の)延長18回を戦って、みなさんに『よくやった』と言ってもらいましたが、やっぱり負けたことは悔しかった。1、2年生はあの試合を経験したことで『次は頑張ろう』と思ったはずです。悔しければやり返すしかない。勝つ喜びを味わいたい。厳しい練習によくついてきてくれました」
それまでのスパルタ練習がさらに激しさを増した。
「目標が明確になりましたからね。日本一になろうと思ったら、箕島みたいなチームに勝たないといけない。それまではひたすら勝つことを目指していたけれど、“尾藤スマイル”を見たり、いろいろな人の話を聞くことで自分自身も変わりました」
しかし、甲子園にたどりついても、勝利が遠い。
育てる野球に変えるために
1989年1月7日に昭和天皇が崩御。元号が昭和から平成へと変わった。
「勝つ野球から(選手を)育てる野球にしようと考えました。練習の厳しさは同じですけど、グラウンド以外のことを変えましたね。たとえば、広島遠征の時には平和記念資料館を見学したり、海軍兵学校があった江田島まで移動して、自分たちと同じ10代の若者がどんな気持ちで戦争に行ったのか、平和を考えさせるようにしました」
野球とは直接的には関係ないように思えるが、そうすることで選手の取り組み方が変化していった。
「自分で考えることで、いろいろなことに気づくことができる。そうなると、野球のプレーも変わってきますよね。野球をする喜びも改めて感じるようになったようです」
星稜の躍進の原動力になる松井秀喜が入学したのが1990(平成2)年4月だ。その打棒の強烈さから“ゴジラ”の異名をつけられる松井は、1年生で四番を任された。初めて出場した1990年夏の甲子園は2回戦で敗退したが、翌年夏の甲子園で準決勝進出、1992年春のセンバツでベスト8入りを果たした。最後の夏は、2回戦で明徳義塾(高知)に敗れた。松井が5打席連続敬遠されたことが社会問題になった。
「8月16日は僕にとって特別なんですよ。箕島に延長18回で負けたのも、松井の5敬遠で負けたのもその日だから」
40代半ばを過ぎて、山下はこう考えるようになっていた。
「野球は人がするもの。やっぱり人間力を鍛えないと勝負には勝てない。心を磨かないと野球はうまくならないんです。そういうことに気づきました。
私生活が乱れていたらミスが起こるし、勝負に勝てない。星稜の野球も変化しましたし、それで教えることが楽しくなりました。昔は監督がガンガン怒っていたけど、僕が勉強して変わったことで生徒も変化していった。生徒をもっと喜ばせなきゃと思うようになりましたね」
もし“延長18回”に勝っていたら
箕島との延長18回の死闘で敗れたからこそ気づけたこと、そして変化の結果として星稜の甲子園での躍進があった。
「もしあの試合に勝っていたら、天狗になって監督をクビになったかもしれない。『勝負は勝ちゃええんや』と思い込んでいた可能性もあります。そういう意味で、自分を変えてくれた試合でした」
厳しさは以前と同じでも、選手へのアプローチが違った。
「厳しいのは厳しいですよ、そこは変わらず。指導者に大事なものは情熱と愛だと思うんです。それが前に出てきたような気がします」
あの日に生まれた星稜と箕島との絆。山下はのちに両校メンバーによって行われた交流戦で起こったあるシーンをよく覚えている。
「うちが2対1で勝っている場面で僕がマウンドに上がって、代打で尾藤(公)さんが出てきた。打球がピッチャーとファーストの間に上がったから、加藤(直樹)に任せたんですよ。落としそうになりながら、加藤がキャッチしました。試合のあとに尾藤さんがこう言ったんです。『今日は加藤くんに乾杯だ! 』と。加藤は泣きながら、ものすごく喜んでいました。『あの時のあれはエラーじゃない、転倒だ』と尾藤さんが言ってくれたことで、加藤は救われたと思います」
星稜と箕島との「高校野球史上最高の試合」から47年が経った。監督だった尾藤は2011年にこの世を去り、あの時の選手たちは60代半ばにさしかかった。
81歳の今も高校野球の指導を
山下は2005年9月に星稜の監督を勇退、野球部名誉監督に就任した。尾藤の後任として甲子園歴史館顧問をつとめながら、81歳になった今もまだ、高校野球の指導を行っている。
「昭和、平成、令和と3元号にわたって、高校野球の指導ができることを幸せに思います。一生懸命に野球をやってきてよかったなと。最後に、自分がお世話になった高校野球に恩返しがしたい」
現在は、母校である石川県立門前高校野球指導アドバイザーの肩書も持つ。
「能登半島の西部にある門前に住む知人から『町おこしをしてくれんか』と頼まれました。野球で勝つことも大事ですけど、町の人たちに喜んでもらえることがうれしい。『山ちゃん、よう頑張っとるな』と声をかけてもらいます。月曜日には幼稚園に行って、小さい子に野球を教えています」
80歳を過ぎても、高校生を相手にノックを打ち、バッティング練習ではピッチャーもつとめる。
「バッティングピッチャーをしないと生徒の調子がわからないんですよ。『ここは得意なコースだけど、ここが苦手だな』というのも。指導を始めて3年なんですけど、はじめはマイナスなことばかりを言っていました。『こうしちゃダメ、あそこがダメ』だと。去年の秋にそれじゃいかんと思い、言葉のかけ方を変えたんですよ。『ここを打ってみたら』『こうすればいいぞ』と言うようにしたら、1年生大会で準優勝しましてね。いい結果が出て驚きました」
指導者がかける言葉の強さを実感する日々だ。
「やっぱり言葉っていうのは大事なんだなと思います。プラスの言葉をかけることでいい結果が生まれる。たったひと言で生徒は変わるんですよ。特に能登の子は素朴です。純粋だから、アドバイスを素直に聞く。だから、めちゃくちゃ伸びるんですよ」
教壇から離れても、山下は根っからの教師だ。
「教師というのは、金は貯まらんですよ。だけど、僕にとって財とは人なんです。生徒があって指導ができるんだから、生徒を大事にしないといけない。特に補欠の子を大事にしないとチームは強くならないと思います。若い監督さんは補欠をほったらかしにするから、問題が起こる。
野球をする以前に大事なのは、あいさつ、しつけ、教育ですね。食べること、グラウンド以外の生活態度、言葉遣い。そういうことを教えていくうちに野球で勝てるようになります」
今も毎日鍛えていますよ
100年を超える歴史を持つ高校野球は時代とともに変化してきた。これからも変わっていくことだろう。
「高校野球のいいところは残しながら、変えるべきところを変える。歴史や伝統などは大事にしてほしい」
山下の朝は早い。高校生を指導するために、健康に気を配っている。
「朝4時45分に起床してランニングをします。寮にいる生徒がその時間に素振りをしたり、シャドウピッチングをしたりしているのを見ます。監督だった僕が元気でいないと、OBたちは顔を見に来てくれませんから。健康管理に気をつけながら、いつでも相談に乗れるようにしないと。毎日、スポーツジムに行って、ウエイトトレーニングやって、プールで鍛えていますよ」
80歳を過ぎても、若い時と考えることは同じだ。
「守備を鍛えるのはノックですからね。ノックも昔のようにはいきません(笑)。ミスした時には『ごめん、ごめん』と謝ります。いいノックを打ちたい。少しでも長く野球をやりたいと思っています」
「高校野球史上最高の試合」から47年。時間は過ぎても、名将の野球への思いは変わることがない。
09:00~ 智弁和歌山- 粉 河
☆☆ 11:30~ 田 辺 -和歌 山商
⚾明日の兵庫大会組み合わせ(3日目 1・2回戦)
明石トーカロ球場
☆☆ 10:00~ 社 -須磨 翔風
☆☆ 13:00~ 須磨 学園-滝 川 二
ウインク球場
10:00~ 赤 穂 - 星 陵
13:00~ 小 野 工-明 石 商
G7スタジアム神戸
10:00~ 市 尼 崎- 飾 磨
13:00~ 龍 野 -武庫荘総合
ReFillスタジアム
☆ 10:00~ 彩星 工科-姫 路 工
13:00~ 高 砂 -須 磨 東
ベイコム球場
10:00~ 高 砂 南-県 伊 丹
13:00~ 洲 本 -篠 山 産
⚾明日の岡山大会組み合わせ(初日 1回戦)
倉敷MS
10:00~ 就 実 - 勝 山
12:30~ 方谷 学舎-岡山 朝日
エイコン球場
10:00~ 岡 山 工- 高 梁
12:30~ 美 作 -作陽 学園
✌甲子園 喜怒哀楽 「九学」を全国区にした名将 坂井宏安の「喜」
https://sports.yahoo.co.jp/video/player/27568845
✌甲子園 喜怒哀楽 県岐阜商ベスト4に貢献 横山温大の「喜」
https://sports.yahoo.co.jp/video/player/27568830
✌甲子園 喜怒哀楽 高校3年夏の甲子園で65奪三振 辻内崇伸の「喜」
https://sports.yahoo.co.jp/video/player/27568818
📝実力校ぞろいのBゾーン Cゾーンは鳥取城北が軸 19日開幕、秋季鳥取県高校野球大会
https://www.nnn.co.jp/articles/-/800825?gsign=yes
来春の選抜大会の選考資料となる秋季鳥取県高校野球大会兼第147回秋季中国地区大会県予選は19日、どらドラパーク米子市民球場で開幕し、19チームが熱戦を繰り広げる。上位4チームは中国大会(10月23~25日、31日、11月1日・どらドラパーク米子市民球場ほか)の出場権と来春の県大会のシード権を獲得する。新チームの船出となる大会を展望する。
【Aゾーン】
西部1位の米子東が中心。地区大会の全3試合で2桁得点を挙げた強力打線に加え、バッテリーを中心とした守りも高い。
米子松蔭は堅守を発揮し、5年連続の中国大会出場を狙う。
東部勢同士の対戦となった鳥取西―鳥取東は互いに手の内を知っており、拮抗した試合になりそうだ。
【Bゾーン】
実力校がそろい、激戦必至のゾーン。東部2位の鳥取商は経験値の高い辻を筆頭に、分厚い投手陣を擁する。
対する境は打線がいかに攻略するかが鍵。
西部2位の米子北は夏を経験したダブルエースの小柳、松影に力がある。
1年生主体の米子工は思い切ったプレーで旋風を起こしたい。
【Cゾーン】
鳥取城北が頭一つ抜けている。夏の甲子園を経験した選手が多く残り、投攻守に隙がない。打線は得点力が高く、守備も二遊間を軸に堅い。
米子西は総合力の高さで勝負する。
岩美は投打の中心となる2年生の活躍が不可欠だ。
連合チームは堅実な守備で粘り強く戦い、上位をうかがう。
【Dゾーン】
中部1位の倉吉北がリードする。夏4強の実力を発揮し、地区大会は全試合でコールド勝ちした。活発な打線にそつのない走塁を絡めて攻撃を仕掛ける。
倉吉東はエース村上を中心に、しっかりと守って勝機を見いだしたい。
鳥取育英は小技を使って打線をつなぎ、下克上を狙う。
森岡正博氏が米子松蔭新監督へ
秋季鳥取県高校野球大会に向けて米子松蔭の監督が交代し、森岡正博氏が初めて指揮を執る。
【略歴】鳥取市出身。米子商高(現米子松蔭高)卒。高校時代は捕手としてプレーした。卒業後は地元企業に就職。2015年10月から同校で外部指導者を務めており、17年夏と25年春の甲子園出場に貢献した。59歳。
【抱負】選手が思い切ってプレーできる環境づくりを心がけている。レギュラーも控え選手も全員が役割を全うし、一丸となって戦えるチームをつくりたい。一戦一球を大切にして日本一を目指す。
👣明桜・輿石重弘監督が退任 ロッテ山口&オリックス曽谷らが教え子…今月15日付でノースアジア大監督就任明桜・輿石重弘監督が退任 ロッテ山口&オリックス曽谷らが教え子…今月15日付でノースアジア大監督就任
https://news.yahoo.co.jp/articles/9572df8b8ca00cb54cb20399915d50080995a7ae
明桜(秋田)の輿石重弘監督(63)が退任し、今月15日付で系列のノースアジア大硬式野球部の監督に就任したことが17日、分かった。今後は明桜の総監督も兼務する。同校は通常の人事異動の一環であると明かし、「今年は、明桜高校硬式野球部監督としてちょうど10年の節目であり、教頭という教員の要でもあることから、学務に重きを置いていただくとともに、今後は、また違った目で野球の指導を行っていただく」と説明。後任は正式に決まり次第、発表される見通し。
山梨出身の輿石氏は、帝京三の監督などを歴任し、17年4月に明桜の監督に就任。同年夏にいきなり甲子園出場へ導いた。21年夏には同校31年ぶりとなる甲子園勝利を挙げたほか、23年夏にも出場を果たした。明桜での教え子には山口航輝(ロッテ)、曽谷龍平(オリックス)らがいる。また同校は、ノースアジア大監督就任の理由について「輿石監督の力量が買われて、任命されたもの」とした。
📝「金沢の町から人がいなくなった」“高校野球史上最高の試合”死闘の結末で何が起きたか…星稜の名将は「自分の器の小ささがよくわかりました」
https://news.yahoo.co.jp/articles/c36aa5d7fa3a6da25a334857b6b99509852e8b8e
1979(昭和54)年夏の甲子園で行われた星稜と箕島の一戦が「高校野球史上最高の試合」と言われるのは、「ドラマ」という言葉が陳腐に思えるほど、劇的なことが次々に起こったからだ。
16回の攻防がクライマックスだったと言っていいだろう。この回表、星稜はワンアウトから四番の川井直之がデッドボールで出塁。五番の堅田外司昭のヒットでチャンスを広げた。六番が倒れツーアウトとなったが、七番の山下靖がライト前に弾き返して3対2。またリードを奪うことに成功した。あとはこの1点を守るだけだ。
「最後のひとり」のファウルフライが……
箕島の打順は四番の北野敏史から。春のセンバツで史上初のサイクルヒットを放った強打者だが、この日は快音を響かせることができない。二塁ゴロに倒れてワンアウト。続く五番の上野敬三が三振し、箕島にはもうあとがなくなった。
六番・森川康弘の打球が一塁側のファウルグラウンドに上がった……。やっと決着がついたというざわめきがすぐに悲鳴に変わった。ファーストの加藤直樹が転倒し、捕り損ねたのだ。加藤は2025(令和7)年に甲子園歴史館で行われたトークイベントで「あの瞬間」をこう振り返っている。
「もう体力の限界に来ていました。フライが上がった瞬間に『捕れる』と思って追いかけたんですけど、気がついたら転んでいて……」
最後のバッターになるところを助けられた形になった森川がフルスイングした打球は、左中間スタンドに飛び込んだ。またも、3対3の振り出しに戻った。星稜・山下智茂監督は言う。
「16回表の山下のタイムリーヒットが出た瞬間に『もう勝った』と思いました。だけど、箕島のライトの守備がすごかったんですよ。ライト線に飛んだ打球を捕ってツーベースにさせなかった。こちらも研究しているけど、箕島もすごいなと思いましたね。
加藤が転がった瞬間は『まあ、仕方がない』と思いました。そのあとにホームランを打たれるとは思ってなかったから。バッターを打ち取ればいい。森川くんはライトヒッターだというデータがあったので、レフト方向にホームランを打たれてショックでした。箕島の底力を思い知らされましたね。同点に追いつかれたことで『加藤は大丈夫かな……』と思いました」
17回は両チームともに三者凡退。残るは18回だけだ。
泣いても笑っても最終回の攻防
18回表の攻撃、星稜は三番からの好打順だった。ワンアウトのあと、四番・川井がヒット。五番の堅田が打席にいる時、場内アナウンスが流れた。このまま決着がつかない場合は翌朝8時30分からプレーボールになるという事務連絡だった。
「それを聞いた瞬間、堅田の肩が落ちるのがわかりました。うちには堅田しかピッチャーはいない。明日再試合になったら負けるな……と思いました」
それでも堅田はヒット。ツーアウトから七番・山下がセンター前ヒットを放つも、ランナーはホームに帰れない。満塁のチャンスで代打が三振を奪われて、星稜の勝利はなくなった。18回裏、この日延べ60人以上のバッターと対峙してきた堅田は、足を引きずるようにしてマウンドに向かった。
「猛練習で鍛えてきたといっても、選手たちにもう体力はありません。ギリギリの状態で戦っていましたから。この回、堅田のボールは浮いていましたね」
先頭打者に続き、一死後にこの日ノーヒットの北野にもフォアボールを与えた。ワンアウト一、二塁から五番の上野の打球はショートの頭を越え、二塁走者がホームにヘッドスライディング。4時間近い激闘に幕が下ろされた。
「負けたか……というよりも、生徒がよく頑張ったと思いました。選手たちをほめてやりたい、抱きしめてやりたいというのが、試合後の僕の第一声でした」
エースと心中する気持だった
この試合のテレビ視聴率は29.4パーセントだった。
「あとで聞いたことですけど、その時間帯、金沢の町に人がいなかったらしいです。ちょうどお盆やったんですけど、盆踊りで集まった人たちも途中でやめてテレビを見に帰ったという」
これほどの極限の戦いに、もう作戦はなかった。
「堅田と心中する気持ちでした。18回裏に伝令を出して僕の指示を伝えようとしたんです。僕はいつも紙にメッセージを書いて、伝令に持たせる。この時は、『悔いのないように投げろよ』というメモを渡した。それを読めば、少しは落ち着いてくれるだろうと思って。ところが堅田はもう疲れ切ってしまって、それを読むことができなかったそうです。死力を振り絞って投げたということです」
両エースともに最後までマウンドを守り抜いた。石井の投球数は257、19安打を打たれたものの(すべてシングルヒット)、16三振を奪い、3点しか許さなかった。堅田の投球数は208。被安打は12(うち2本塁打)だった。
「うちのほうがヒット数は多かった。それでも負けたんだから、監督の差でしょうね」
星稜が攻め、箕島が追いつくという展開。最後の最後で勝利を手にしたセンバツ王者の指揮官には試合中、ずっと笑顔があった。エラーが出ても“尾藤スマイル”だった。
山下が尾藤スマイルから学んだこと
「あの試合、監督と監督との戦いでもありました。ベンチにいる尾藤(公)さんの表情が見えるんですけど、ピンチでも笑っていましたね。そのことに驚きました。普段の練習や練習試合ではそんなことはありません。笑顔なんかひとつもない。怒ってばっかりですよ。厳しさでは僕よりも全然上です。でも、甲子園では“尾藤スマイル”なんですよね。尾藤さんはミスを許すことができる、度量の大きな監督でした」
箕島に敗れ、尾藤の大きさを思い知らされた山下は自分を変えることを決意する。
「あの試合で、それを見て、自分の器の小ささがよくわかりました。どうして笑うことができるのか——それを考え、研究し続けました。自宅の玄関に大きな姿見を置いて、登校前に10分間、帰宅してから10分間、自分自身とにらめっこをしました。今日のネクタイはどうだろう? 明日は生徒にもらったネクタイで行こうと考えるようにもなりました」
さまざまな種類の本を読み、人の話をよく聞くようにもなった。
「それまでの自分では勝てないと思いいたりました。お医者さんが勉強会を開いてくれたり、経営者の集まりに呼んでもらったり。『これを読んでみたら』と勧められた本を読みました。そうすることで少しずつ成長できたと思います」
自分の成長を実感したことで、生徒との関わりにも変化が生まれた。
「自信がついてきて、自分の心がわかるようになりました。生徒はいつも監督の顔色を見ています。その生徒の表情から、心のなかを覗けるようになったんですね」
あの敗北は山下にとって新しいスタート。星稜が次のステップに上がるきっかけにもなったのだ。
〈つづく〉
📝「延長18回と5連続敬遠」の共通点…星稜・山下智茂監督が81歳の今も心に秘める教訓「もしあの試合に勝っていたら、天狗になってクビだったかも」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7c1e00fb041223fe49a392ed3f36a21ea5de2427
1980(昭和55)年は春夏ともに甲子園出場を逃した星稜だったが、その後は甲子園常連校として誰もが認める存在になった。1981年春のセンバツから、5シーズン連続で甲子園まで勝ち上がった。山下智茂監督は当時をこう振り返る。
「(1979年夏の)延長18回を戦って、みなさんに『よくやった』と言ってもらいましたが、やっぱり負けたことは悔しかった。1、2年生はあの試合を経験したことで『次は頑張ろう』と思ったはずです。悔しければやり返すしかない。勝つ喜びを味わいたい。厳しい練習によくついてきてくれました」
それまでのスパルタ練習がさらに激しさを増した。
「目標が明確になりましたからね。日本一になろうと思ったら、箕島みたいなチームに勝たないといけない。それまではひたすら勝つことを目指していたけれど、“尾藤スマイル”を見たり、いろいろな人の話を聞くことで自分自身も変わりました」
しかし、甲子園にたどりついても、勝利が遠い。
育てる野球に変えるために
1989年1月7日に昭和天皇が崩御。元号が昭和から平成へと変わった。
「勝つ野球から(選手を)育てる野球にしようと考えました。練習の厳しさは同じですけど、グラウンド以外のことを変えましたね。たとえば、広島遠征の時には平和記念資料館を見学したり、海軍兵学校があった江田島まで移動して、自分たちと同じ10代の若者がどんな気持ちで戦争に行ったのか、平和を考えさせるようにしました」
野球とは直接的には関係ないように思えるが、そうすることで選手の取り組み方が変化していった。
「自分で考えることで、いろいろなことに気づくことができる。そうなると、野球のプレーも変わってきますよね。野球をする喜びも改めて感じるようになったようです」
星稜の躍進の原動力になる松井秀喜が入学したのが1990(平成2)年4月だ。その打棒の強烈さから“ゴジラ”の異名をつけられる松井は、1年生で四番を任された。初めて出場した1990年夏の甲子園は2回戦で敗退したが、翌年夏の甲子園で準決勝進出、1992年春のセンバツでベスト8入りを果たした。最後の夏は、2回戦で明徳義塾(高知)に敗れた。松井が5打席連続敬遠されたことが社会問題になった。
「8月16日は僕にとって特別なんですよ。箕島に延長18回で負けたのも、松井の5敬遠で負けたのもその日だから」
40代半ばを過ぎて、山下はこう考えるようになっていた。
「野球は人がするもの。やっぱり人間力を鍛えないと勝負には勝てない。心を磨かないと野球はうまくならないんです。そういうことに気づきました。
私生活が乱れていたらミスが起こるし、勝負に勝てない。星稜の野球も変化しましたし、それで教えることが楽しくなりました。昔は監督がガンガン怒っていたけど、僕が勉強して変わったことで生徒も変化していった。生徒をもっと喜ばせなきゃと思うようになりましたね」
もし“延長18回”に勝っていたら
箕島との延長18回の死闘で敗れたからこそ気づけたこと、そして変化の結果として星稜の甲子園での躍進があった。
「もしあの試合に勝っていたら、天狗になって監督をクビになったかもしれない。『勝負は勝ちゃええんや』と思い込んでいた可能性もあります。そういう意味で、自分を変えてくれた試合でした」
厳しさは以前と同じでも、選手へのアプローチが違った。
「厳しいのは厳しいですよ、そこは変わらず。指導者に大事なものは情熱と愛だと思うんです。それが前に出てきたような気がします」
あの日に生まれた星稜と箕島との絆。山下はのちに両校メンバーによって行われた交流戦で起こったあるシーンをよく覚えている。
「うちが2対1で勝っている場面で僕がマウンドに上がって、代打で尾藤(公)さんが出てきた。打球がピッチャーとファーストの間に上がったから、加藤(直樹)に任せたんですよ。落としそうになりながら、加藤がキャッチしました。試合のあとに尾藤さんがこう言ったんです。『今日は加藤くんに乾杯だ! 』と。加藤は泣きながら、ものすごく喜んでいました。『あの時のあれはエラーじゃない、転倒だ』と尾藤さんが言ってくれたことで、加藤は救われたと思います」
星稜と箕島との「高校野球史上最高の試合」から47年が経った。監督だった尾藤は2011年にこの世を去り、あの時の選手たちは60代半ばにさしかかった。
81歳の今も高校野球の指導を
山下は2005年9月に星稜の監督を勇退、野球部名誉監督に就任した。尾藤の後任として甲子園歴史館顧問をつとめながら、81歳になった今もまだ、高校野球の指導を行っている。
「昭和、平成、令和と3元号にわたって、高校野球の指導ができることを幸せに思います。一生懸命に野球をやってきてよかったなと。最後に、自分がお世話になった高校野球に恩返しがしたい」
現在は、母校である石川県立門前高校野球指導アドバイザーの肩書も持つ。
「能登半島の西部にある門前に住む知人から『町おこしをしてくれんか』と頼まれました。野球で勝つことも大事ですけど、町の人たちに喜んでもらえることがうれしい。『山ちゃん、よう頑張っとるな』と声をかけてもらいます。月曜日には幼稚園に行って、小さい子に野球を教えています」
80歳を過ぎても、高校生を相手にノックを打ち、バッティング練習ではピッチャーもつとめる。
「バッティングピッチャーをしないと生徒の調子がわからないんですよ。『ここは得意なコースだけど、ここが苦手だな』というのも。指導を始めて3年なんですけど、はじめはマイナスなことばかりを言っていました。『こうしちゃダメ、あそこがダメ』だと。去年の秋にそれじゃいかんと思い、言葉のかけ方を変えたんですよ。『ここを打ってみたら』『こうすればいいぞ』と言うようにしたら、1年生大会で準優勝しましてね。いい結果が出て驚きました」
指導者がかける言葉の強さを実感する日々だ。
「やっぱり言葉っていうのは大事なんだなと思います。プラスの言葉をかけることでいい結果が生まれる。たったひと言で生徒は変わるんですよ。特に能登の子は素朴です。純粋だから、アドバイスを素直に聞く。だから、めちゃくちゃ伸びるんですよ」
教壇から離れても、山下は根っからの教師だ。
「教師というのは、金は貯まらんですよ。だけど、僕にとって財とは人なんです。生徒があって指導ができるんだから、生徒を大事にしないといけない。特に補欠の子を大事にしないとチームは強くならないと思います。若い監督さんは補欠をほったらかしにするから、問題が起こる。
野球をする以前に大事なのは、あいさつ、しつけ、教育ですね。食べること、グラウンド以外の生活態度、言葉遣い。そういうことを教えていくうちに野球で勝てるようになります」
今も毎日鍛えていますよ
100年を超える歴史を持つ高校野球は時代とともに変化してきた。これからも変わっていくことだろう。
「高校野球のいいところは残しながら、変えるべきところを変える。歴史や伝統などは大事にしてほしい」
山下の朝は早い。高校生を指導するために、健康に気を配っている。
「朝4時45分に起床してランニングをします。寮にいる生徒がその時間に素振りをしたり、シャドウピッチングをしたりしているのを見ます。監督だった僕が元気でいないと、OBたちは顔を見に来てくれませんから。健康管理に気をつけながら、いつでも相談に乗れるようにしないと。毎日、スポーツジムに行って、ウエイトトレーニングやって、プールで鍛えていますよ」
80歳を過ぎても、若い時と考えることは同じだ。
「守備を鍛えるのはノックですからね。ノックも昔のようにはいきません(笑)。ミスした時には『ごめん、ごめん』と謝ります。いいノックを打ちたい。少しでも長く野球をやりたいと思っています」
「高校野球史上最高の試合」から47年。時間は過ぎても、名将の野球への思いは変わることがない。