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📝令和8年度 秋季地区大会開催日程
https://www.jhbf.or.jp/topics/detail/621
💢本日(9/15)の試合について
https://mie-kouyaren.com/2026/09/15/%e6%9c%ac%e6%97%a5%ef%bc%889-15%ef%bc%89%e3%81%ae%e8%a9%a6%e5%90%88%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/
【ドリームオーシャンスタジアム】
雨天、順延となりました。→9/16(水)松阪商業 対 桑名工業 開始予定未定
💢加盟校7割が反対する7回制導入が本当に最適解なのか? “岐路”に立つ高校野球はどう変わるべきか 「命を守るために仕方がない」が広まる現場の空気
https://news.yahoo.co.jp/articles/0276e3195a9e8c68738414fd00e77df7db93b560?page=1
7回制が一気に現実味を帯びている理由
延長戦でのタイブレーク方式導入、球数制限、従来よりも低反発化した新基準の金属バット、甲子園大会でのVTR検証など、近年の高校野球ではあらゆる改革が行われている。
その中で、現在最も大きな議論となっているのが、7イニング制の導入だ。2024年8月に暑さ対策の一環として日本高野連がワーキンググループを設置。2025年12月の検討会議において「2028年春の第100回記念選抜大会をめどに全公式戦で7イニング制採用が望ましい」とする最終報告書が提出され、一気に実現化が現実味を帯びた。
ただ日本高野連が行った加盟校へのアンケートは約7割が反対、一般のファン向けにインターネット上で行われたアンケートでも約9割が反対となっている。今年5月と6月に行われた有識者と指導者を交えた意見交換会においても、大阪桐蔭の西谷浩一監督が断固反対する意見を述べて話題となった。先述した最終報告書の通り、このまま2028年春から7イニング制が導入となれば、現場の納得感が得られないままのスタートとなることは間違いないだろう。
筆者も取材現場において、あらゆる指導者、関係者と7イニング制について話をする機会も多いが、全面的に賛成という意見を聞かない。代わりによく聞かれるのが、「導入前提で議論が進められている」「野球の根本となるルールに手を入れる前にできることは他にもあるのではないか」という2点だ。
前述した加盟校、一般向けのアンケートの結果を見ても、7イニング制の導入に対して積極的に賛成する割合は圧倒的少数である。それでも導入を白紙に戻すような論調は全く出てこない。また、西谷監督のように表立って反対意見を述べることは望ましくないという空気感も感じる。「9イニングでやりたいのはみんな同じだが、命を守るためには仕方ないから導入するしかない」というストーリーが最初から決まっているように感じている関係者は非常に多い印象だ。
全てを多数決で決める必要はもちろんない。だが、十分な賛同が得られないまま物事を進めることは、後々に様々な問題を生み出す可能性は高いだろう。
見直すべきはコスト面?
とくに気になるのが、「野球の根本となるルールに手を入れる前にできることは他にもあるのではないか」という懸念だ。最終報告書の一部を抜粋すると、以下のような記述がある。
「高校野球は学校教育活動の一環である部活動として行うものであり、生徒の学業の妨げにならないという前提の上で、全国大会開催にあたっては長期休業中に行うべきであると考える」
「また、全国高等学校野球選手権大会および選抜高等学校野球大会は1924(大正13)年8月の甲子園球場開場以来、100年以上にわたって同球場を会場としてきた。甲子園は「聖地」とも呼ばれ、高校野球そのものを指す代名詞にもなっているのみならず、他の文化的活動、イベントなどでも「〇〇甲子園」といった呼称が広く浸透している。歴史的、社会的な見地から、今後も甲子園球場において両大会を開催することが望ましい」
単純に要約すると、学業の妨げとならないために春休みや夏休みの長期休業中を利用し、これまでの歴史を築いてきた甲子園球場で行う使用は変えないということだ。この点に議論の余地は本当にないのだろうか。例えば、時期については全試合を一気に行うのではなく、何度かに分けることで長期休業期間以外に行うことも可能なはずだ。そうすれば、真夏に試合を行う必要はなくなってくる。
また、甲子園球場での開催についても、全試合を行うのではなく、分散して早朝や夕方に行えば、ある程度は暑い時期でも選手、関係者、観客への身体的負担を減らすこともできるだろう。
そして、こういった抜本的な改革を行う際に重要になってくるのは、大会を運営するコスト面だ。当然ながら大会期間が延びれば、選手、関係者の滞在費が必要となる。また、甲子園球場以外を使用するとなれば、当然使用料も増える。ただ、逆を言えば、潤沢な資金があれば、そういった異なる運営方法も可能になってくるのだ。となると、まず改革すべきは、高校野球における財政面ではないだろうか。
高校野球と大学野球は日本学生野球憲章によってあらゆるルールが定められているが、特に厳しいのが、商業利用についてだ。学生を商業的に利用して利益を得ることは望ましくないという考え方も分からなくはないが、現状のようにコンテンツとして大きくなったことを考えると、今以上の収益増加は可能なはずである。
一つ例を挙げれば大会の放映権だ。これだけ多くの注目を集める大会でありながら高野連は放映権料をNHKから受け取っておらず、伝統的に無料で提供し続けている。仮に他の配信サービスなどに有料で提供しようとすれば、かなりの金額を得られる可能性は高い。また、ここ数年は大会の入場料も値上げしているが、一日通し券の販売となっており、午後の試合は空席が目立つことも多い。この点も売り方を変えれば、利益の最大化に繋げられるはずだ。
まず暑さ対策が必要なのは確かであり、7イニング制の導入も対策方法の一つではある。だが、それで全てが解決するわけではない。他のやり方をもっと幅広く検討して、それにかかる費用などを算出することも行うべきで、そのためにより収益を上げる方法も考えるということも重要ではないだろうか。世間一般にも波及するほど影響力が大きくなり、伝統もある高校野球だからこそ、より多くの人が納得する形で議論が進められていくことを望みたい。
📝「よく来れましたね?」池田高校“甲子園優勝メンバー”に再取材…徳島へ“越境入学”した男の告白「まるで仙人だった」初めて蔦文也と対面した衝撃
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab8974612d1df593b59bb010842e11dd7e9dd660
名門・池田高校はなぜ甲子園から“消えた”のか? 蔦文也は本当に名監督だったのか、それとも――? “高校野球界最大の謎”を追ったミステリーノンフィクション『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(著:田中仰)発売即重版になるなど、反響を呼んでいる。
今回は同作品の第4章から、一部を抜粋して紹介する。1986年春の甲子園優勝メンバー、森桂一郎の証言。
二〇二五年一二月、わたしはある男に会うために高松にいた。彼と初めて出会ったのは、同年一一月、池田のグラウンドだった。そのときわたしは、野球部監督の井上力に苦言を呈されていた。
井上とわたしの間に気まずい沈黙が流れているときに、グラウンドへ現れたのが森桂一郎だった。井上と高校時代の野球部同期である。
「キウイ畑で…」森桂一郎の再取材
わたしがあの記事を書いた記者だと知ると、森は「よく、来れましたね?」と言った。やや気後れすると同時に、そのあっけらかんとした、裏表のない率直な反応にわたしは好感を持った。噓がない人だと思えたからだ。森との雑談のなかで、「今さら故人を汚さないでほしかった」という記事に対する不満が伝わってきた。だが一方で森は「川原コーチがいなければ僕らの代は優勝できなかった」という事実も認めていた。
当事者でありながら、学校とも川原とも適度な距離があり、どちらの利害関係にも絡めとられていない森から、蔦と金についての考えを聞いてみたいと思った。森は取材を了承してくれた。取材場所は畑だった。
「妻がキウイ畑をやっているので畑に来ていただけるとゆっくり話ができると思います」
ショートメッセージにはそう記されていた。高松駅から内陸方面へ車で一〇分ほど。朝八時半に到着したキウイ畑で、森は枯れ枝を焼いていた。白いメッシュキャップとペールブルーのロングTシャツが、煤で汚れている。小柄だが筋肉質で引き締まった身体が、一九八六年に甲子園で優勝した「三番ショート」の面影を残していた。
森はキャンプ用の椅子をわたしにすすめた。開口一番、「なぜ僕に話を?」と森は言った。面と向かってきっぱりと「よく来れましたね?」と言われたことが小気味よかったからだと伝えると、森は声を上げて笑った。そして、水を入れた鍋を薪の上に置きながら「なんでも聞いてください」と言った。
「まるで仙人のよう…」池田へ越境入学
森は神奈川県平塚市の出身だ。中学時代、強豪シニアクラブの主力であった森は、地元の名門校に進学することもできた。だが、甲子園のテレビ中継を見ていたときに、自分が目指すべき高校は遠く離れた徳島にあることを知った。決め手は、プレー内容というよりも試合後の映像だ。インタビューに応じる蔦の風貌に目を奪われた。
「まるで仙人のようだった」と森は回想する。
うまくなりたい、甲子園に出たいという願望以上に、この男の近くにいれば自分は成長できるのではないか。そんな直感が森にはあった。
蔦と初めて対面したのは中学三年のとき。半ば押しかけるようにして池田高グラウンドへ行き、自分のプレーを蔦に見てもらった日だった。簡単な挨拶を交わした蔦が何を話したのか聞き取れなかった。その理由が森の緊張によるものだったのか、蔦の阿波弁によるものだったのかは定かではない。
日本で最も野球が強い高校、その名物監督が目の前に立っている事実が、一四歳の少年を圧倒していた。池田を受験するためには徳島県内の中学を卒業する必要があったため、祖父母とともに引っ越して、徳島・三加茂中学に転校した。そして一九八四年に池田へ入学した。
新入部員の“運命”が決まる日
入学直後の四月には、レギュラー組と控え組への振り分けが行われる。全体練習が終わった後、一年生だけ残されて、一四〇キロの高速スライダーにセットされたバッティングマシーンの打席に立たされる。その様子を蔦は黙って見ていた。
基準は遠くに飛ばせるか、その一点であったと森は言う。この振り分けによって、新入生二五人のうち半分は、レギュラーになる可能性が消えた。彼らは補助要員やマネージャーに回され、主力争いに復帰することはなかった。森はさも当然といった調子で話した。
「監督は生殺与奪の権を握ってますからね。何かしでかすと、スタメンを外されるだけなので」
蔦と二人で話した記憶はない。森に許された返答は、「はい」か「いいえ」の二択ですらない。「はい」だけだった。
蔦は必ずしも野球を通じて子どもを教育しようとは思っていなかっただろうと、森は考える。
「あの人は先生だけど、プロを経験した選手でもあった。その側面が多分にあると思います。使える子は、素行が悪かろうが使う。勝つことが大事だから。結果さえ出してくれれば使うというスタンスだったんじゃないかな」
森が生活した「池田町」
「レギュラー組と控え組の扱いは、完全に違いましたか」とわたしは訊いた。
「違いましたね。控え組の生徒は、蔦さんから名前を呼ばれることすら、ほとんどなかったんじゃないかな。生徒に直接指導することもない。レギュラー以外の選手には無関心だったと思う」
森が鍋の湯を、ティーバッグが入ったコップに注いでいく。
「井上監督は、蔦さんが県外出身者を好まなかったと言っていました」
「だから僕も外様の意識はありましたよ。同学年は徳島市内出身の奴らが多かったし。OBになっても、その一線はある気がします」
関東から池田へ進学した部員は、同じ学年に森を含めて二人いた。森は蔦寮、もう一人は寮近くのアパートに下宿していた。各学年一〇人程度のレギュラーを優先して入寮させていたようで、主力組はほぼ全員、蔦寮で生活していた。
「徳島市の球場で試合がある場合、地元が市内周辺の人は前日に家へ帰るんですよ。でも僕は寮から出発する。朝、川原さんが運転するマイクロバスに乗って球場へ向かいました。そういうところからも、自分が外様であることを感じていたのかもしれないですね」
〈中略〉
森との問答を当時の練習環境に向けた。練習を見ていたのは誰だったのか。
〈つづく〉
📝甲子園優勝→遠征先が“高級肉”を…「どこへ行ってもキャーキャー」池田高校“最後の優勝メンバー”が明かす蔦文也、その人気の凄まじさ
https://news.yahoo.co.jp/articles/5ed535f7ef4f311568d1640d9bfb728d3af3034e
森との問答を当時の練習環境に向けた。練習を見ていたのは誰だったのか。
池田黄金期を支えた“ある男”
グラウンドにいたと森が記憶する大人は四人。蔦と川原、白川の後任の高橋由彦、そして一九七九年夏の準優勝チームの捕手でのちに蔦の後任監督となる岡田康志だった。
技術的な指導は川原が担った。高橋は筋力トレーニングをメインで担当し、大学を卒業したばかりの岡田は蔦のサポート役を担った。
「いろんな取材先で、川原さんは極めて優秀なコーチだったと聞いています」
「それは間違いないです。あの人がいなかったら梶田(茂生/当時エース)もあそこまで成長していなかったでしょうし、僕らの優勝はなかった」
「ただ川原さんは無名だった時代の池田野球部OBで、卒業後は就職しています。どこかで体系的に野球を学んだキャリアを持つわけではないですよね」
「ご自身で研究されていたみたいです。部員と川原さんで一緒にプロ野球を見ることがあったんですが、川原さんのプレー解説がすごく的を射ていた。そのプレーを選んだ理由とか、試合展開の読みも。だから僕らは無条件で信用してましたね。チームの連携プレーもすべて川原さんが教えていました。ノックもギリギリのところを打ってきてキツかった。蔦さんのノックは疲れてるフリしてごまかせましたけど」
川原の顔が頭に浮かんだ。取材でわたしの質問に答えながらも、「お前がどんな答えを求めているかわかっているぞ」と見透かすようなあの鋭い視線を。
「蔦さんはグラウンドにいたのですか」
「蔦さんはグラウンドにいたのですか」わたしは訊いた。
「僕らの頃は、基本的にいたと思います。下の世代がごちゃごちゃ言っているみたいな、現場から手を離している感じじゃなかったですね」森は答えた。
「森さんの体感で、九割は現場にいましたか」
「僕らの頃は。唯一覚えているのは、(春の甲子園をかけた)二年秋の県大会の試合途中で講演へ行ってしまったこと。大差で勝っているのを見て『じゃあ俺行くわ』って」
九割いた、という言葉にわたしは首をひねった。森に会う前、池田の校舎にある野球資料室で、一冊のノートを読んでいたからだ。
表紙に黒ペンで書かれた「59年」「選抜辞退」「中村主将」「新チーム宮内時代」という言葉から、八四年度の野球部のノートだったと推測される。
選手名や練習メニューといった内容に加えて、「1月の講演」というページを見つけた。そこには一月三日、四日、九日……と計一四日間は講演会に行っていたことが記されていた。
森の言うとおり蔦が九割方グラウンドにいたとすれば、近隣の市区町村、県の講演会が中心で、放課後の練習がはじまる一五時までにはグラウンドへ帰ってきていたのだろうか。
一方で森は「僕らの頃は」とも言った。他の代で現場から離れていた可能性を残す話し方だった。
毎週末遠征、すき焼き…
いずれにせよ、森がいた三年間は池田が全国屈指の強豪校であった時代だ。同級生に、のちに社会人野球・日本生命の監督を務めた梶田、プロ野球・大洋ホエールズでプレーした松村高明という二人の好投手がいた。三年時には、春の甲子園で優勝している。
「僕らの時はお金がかかってないんですよ」と森は言う。
森がいた時代、遠征費は減った。池田が有名になったことで、相手校が経費を負担する招待試合が増えたからだ。全国の高校が池田との対戦を熱望した。毎週末の遠征は、そのほとんどが招待試合に代わった。
土曜午後に授業が終わると、その足で空港や駅へ向かった。沖縄、長野、群馬……。毎週末をホテル泊で過ごすような生活だった。
夕食にはすき焼きやしゃぶしゃぶといったご馳走が供された。相手校からの接待である。一般の高校生が食べることのないような、高級な肉も頻繁に出された。
甲子園出場時には、グローブとスパイクが支給されていたと森は記憶する。「たぶん後援会が払ってくれてたんじゃないかな」メーカー担当者がレギュラー組のグローブとスパイクの型をとり、それが甲子園で使われた。橋川がいた一九七九年から森の時代にかけて、一気に池田のブランド化が進んだ。
甲子園優勝、池田に三つの変化
次の三つの変化がその証左だ。
一つ目が、蔦の講演会である。池田の甲子園夏春連覇を経た一九八三年春、蔦は定年退職している。講師として引き続き教壇に立ったが、それを境に、講演会の回数は増えていった。「夏春連覇から一気に増えた」という川原の証言とも合致している。
二つ目が、招待試合の増加だ。交通費や宿泊費は相手校の負担で、さらに行った先々では、蔦も選手もさながらスター扱いを受けた。
三つ目が、部員数の激増だ。橋川の時代は「オール徳島」だったのが、森のように県外から入部を志望する生徒も出てきた。
それにしてもだ。甲子園の影響力の凄まじさを思わずにはいられない。
「甲子園で優勝して、周囲からもてはやされて。子どもたちは平静でいられるものですか」とわたしは訊いた。
「それが夏、初戦で負けた原因ですよ。僕がエラーして負けたんです。そもそも春の甲子園優勝が望外の結果だった。間違えて優勝してしまったという気すらしている。優勝以降、爺やんは僕らに対してすごくゆるくなった。練習も追い込んでなかったし、天狗になっていた。どこへ行ってもキャーキャー言われたしね」
取材後半にかけて、森は蔦のことを「爺やん」と呼ぶようになっていた。当時の部員が陰で使っていた蔦のあだ名だ。高校卒業と同時に、森は野球をやめた。首都圏の強豪大学に進学することもできたが、都内の銀行への就職を決めた。
自分は何者かになれるだろう。そんな自信が社会に出たばかりの森にはあった。しかし、何年経っても、仕事に熱くなれなかった。
〈つづく〉
📝「甲子園で燃え尽きて…」池田高校の優勝メンバーが明かす“苦悩の人生”その後「無性に苦しかった」「縁もゆかりもない高松に引っ越して楽に」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e3ee27ebcbf523a35f9e66545886d9c899600357高校卒業と同時に、森は野球をやめた。首都圏の強豪大学に進学することもできたが、都内の銀行への就職を決めた。
「甲子園の光はまぶしすぎた」
自分は何者かになれるだろう。そんな自信が社会に出たばかりの森にはあった。しかし、何年経っても、仕事に熱くなれなかった。
営業成績で同期に負けた。悔しく思いながらも、どこか頑張りきれない自分がいた。それでも甲子園よりも熱くなれる何かが、いつか眼前に現れるものだと信じていた。
たかが高校野球を引きずるなんてあまりに馬鹿すぎやしないか。何度も自分に言い聞かせた。だが現実に、甲子園よりも森を熱くするものはなかった。
「甲子園の光はまぶしすぎた」と森は言った。
だがわたしはこう思う。日本で最も愛された野球部で優勝したことが、まぶしすぎたのだ。その後の人生がやけに色褪せて退屈に感じられるほどに。
僕ね、と森が切り出した。「二〇代、三〇代のとき、無性に苦しかったんですよ。田中さんはそういうのないですか」
わたしは答えに詰まった。自分の口から話さなかったが、森は甲子園で二本の本塁打を放っていた。優勝校の主力であった。森のように鮮烈な成功体験をわたしはもっていない。だからすこし考えて「焦燥感のようなものですか」と話を促す相槌にとどめた。
「そうです。それが四〇歳になったくらいから、一気に楽になったんです」
「それは何が変わったからだと思いますか」とわたしは訊いた。
「なんであんなに苦しかったんだろう」
「五年前に縁もゆかりもない高松に引っ越してきました、今の妻と一緒に。引っ越した理由は、監督をやっている(井上)力のところに顔を出せるというのもあったし、もう一つが、彼女がやりたいと言ったこの農業なんです。バリバリ働いて家を建てても満たされない感覚があったけど、今は不思議と充実感を覚える。それに、生き方ですかね」
「生き方?」
「今の妻に出会うまで、自分主体で生きてきました。でも彼女がやりたかった農業に自分も携わるようになって、人に引きずられていくという生き方があることを知った。それで一気に気持ちが楽になった。三〇代までなんであんなに苦しかったんだろうって考えたとき、『俺が、俺が』っていう生き方を変えたのが大きいような気がします」
森は再び蔦の名前を出した。「爺やんが酒を飲んでいたのも似た理由だったんじゃないかって思う。狂おしいまでに甲子園を追い続けた。一心不乱になって。特攻隊の経験もあったと思う。生き残ったのに何者にもなれない。そんな自分が腹立たしくて、狂ったように甲子園を目指したんじゃないかな」
蔦と森の間には明白な違いがある。主役であり続けなければならないという強迫観念から脱した森、主役であり続けた蔦。その差だ。しかも、何者かになったとして、そこに何があるかは、何者かになった人間にしかわからない。森が甲子園で浴びた何倍もの熱狂を、まばゆい光を、蔦は浴びた。無名の二〇年間を経て神様になった先に、蔦が見たものを想像すると、なにか空恐ろしいような気もした。
「蔦さんは私財をなげうって、というイメージだから」
「爺やんも野球部が大きくなって、いろんなことがコントロール不能になって、混乱しちゃった部分もあったのかもしれない。初出場、初優勝まではやりきれる。ただその先は、落ちていくしかないのを知りながら、足搔かなきゃいけないわけだから」
「蔦さんを告発しようとした部員がいたことは知っていましたか」とわたしは訊いた。
「知らなかったですね」と森は言った。
「蔦さんのことを、現場を放って金儲けに走るような人間ではないと思いますか」そう尋ねると、森の語気が少し強くなった。
https://www.jhbf.or.jp/topics/detail/621
💢本日(9/15)の試合について
https://mie-kouyaren.com/2026/09/15/%e6%9c%ac%e6%97%a5%ef%bc%889-15%ef%bc%89%e3%81%ae%e8%a9%a6%e5%90%88%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/
【ドリームオーシャンスタジアム】
雨天、順延となりました。→9/16(水)松阪商業 対 桑名工業 開始予定未定
💢加盟校7割が反対する7回制導入が本当に最適解なのか? “岐路”に立つ高校野球はどう変わるべきか 「命を守るために仕方がない」が広まる現場の空気
https://news.yahoo.co.jp/articles/0276e3195a9e8c68738414fd00e77df7db93b560?page=1
7回制が一気に現実味を帯びている理由
延長戦でのタイブレーク方式導入、球数制限、従来よりも低反発化した新基準の金属バット、甲子園大会でのVTR検証など、近年の高校野球ではあらゆる改革が行われている。
その中で、現在最も大きな議論となっているのが、7イニング制の導入だ。2024年8月に暑さ対策の一環として日本高野連がワーキンググループを設置。2025年12月の検討会議において「2028年春の第100回記念選抜大会をめどに全公式戦で7イニング制採用が望ましい」とする最終報告書が提出され、一気に実現化が現実味を帯びた。
ただ日本高野連が行った加盟校へのアンケートは約7割が反対、一般のファン向けにインターネット上で行われたアンケートでも約9割が反対となっている。今年5月と6月に行われた有識者と指導者を交えた意見交換会においても、大阪桐蔭の西谷浩一監督が断固反対する意見を述べて話題となった。先述した最終報告書の通り、このまま2028年春から7イニング制が導入となれば、現場の納得感が得られないままのスタートとなることは間違いないだろう。
筆者も取材現場において、あらゆる指導者、関係者と7イニング制について話をする機会も多いが、全面的に賛成という意見を聞かない。代わりによく聞かれるのが、「導入前提で議論が進められている」「野球の根本となるルールに手を入れる前にできることは他にもあるのではないか」という2点だ。
前述した加盟校、一般向けのアンケートの結果を見ても、7イニング制の導入に対して積極的に賛成する割合は圧倒的少数である。それでも導入を白紙に戻すような論調は全く出てこない。また、西谷監督のように表立って反対意見を述べることは望ましくないという空気感も感じる。「9イニングでやりたいのはみんな同じだが、命を守るためには仕方ないから導入するしかない」というストーリーが最初から決まっているように感じている関係者は非常に多い印象だ。
全てを多数決で決める必要はもちろんない。だが、十分な賛同が得られないまま物事を進めることは、後々に様々な問題を生み出す可能性は高いだろう。
見直すべきはコスト面?
とくに気になるのが、「野球の根本となるルールに手を入れる前にできることは他にもあるのではないか」という懸念だ。最終報告書の一部を抜粋すると、以下のような記述がある。
「高校野球は学校教育活動の一環である部活動として行うものであり、生徒の学業の妨げにならないという前提の上で、全国大会開催にあたっては長期休業中に行うべきであると考える」
「また、全国高等学校野球選手権大会および選抜高等学校野球大会は1924(大正13)年8月の甲子園球場開場以来、100年以上にわたって同球場を会場としてきた。甲子園は「聖地」とも呼ばれ、高校野球そのものを指す代名詞にもなっているのみならず、他の文化的活動、イベントなどでも「〇〇甲子園」といった呼称が広く浸透している。歴史的、社会的な見地から、今後も甲子園球場において両大会を開催することが望ましい」
単純に要約すると、学業の妨げとならないために春休みや夏休みの長期休業中を利用し、これまでの歴史を築いてきた甲子園球場で行う使用は変えないということだ。この点に議論の余地は本当にないのだろうか。例えば、時期については全試合を一気に行うのではなく、何度かに分けることで長期休業期間以外に行うことも可能なはずだ。そうすれば、真夏に試合を行う必要はなくなってくる。
また、甲子園球場での開催についても、全試合を行うのではなく、分散して早朝や夕方に行えば、ある程度は暑い時期でも選手、関係者、観客への身体的負担を減らすこともできるだろう。
そして、こういった抜本的な改革を行う際に重要になってくるのは、大会を運営するコスト面だ。当然ながら大会期間が延びれば、選手、関係者の滞在費が必要となる。また、甲子園球場以外を使用するとなれば、当然使用料も増える。ただ、逆を言えば、潤沢な資金があれば、そういった異なる運営方法も可能になってくるのだ。となると、まず改革すべきは、高校野球における財政面ではないだろうか。
高校野球と大学野球は日本学生野球憲章によってあらゆるルールが定められているが、特に厳しいのが、商業利用についてだ。学生を商業的に利用して利益を得ることは望ましくないという考え方も分からなくはないが、現状のようにコンテンツとして大きくなったことを考えると、今以上の収益増加は可能なはずである。
一つ例を挙げれば大会の放映権だ。これだけ多くの注目を集める大会でありながら高野連は放映権料をNHKから受け取っておらず、伝統的に無料で提供し続けている。仮に他の配信サービスなどに有料で提供しようとすれば、かなりの金額を得られる可能性は高い。また、ここ数年は大会の入場料も値上げしているが、一日通し券の販売となっており、午後の試合は空席が目立つことも多い。この点も売り方を変えれば、利益の最大化に繋げられるはずだ。
まず暑さ対策が必要なのは確かであり、7イニング制の導入も対策方法の一つではある。だが、それで全てが解決するわけではない。他のやり方をもっと幅広く検討して、それにかかる費用などを算出することも行うべきで、そのためにより収益を上げる方法も考えるということも重要ではないだろうか。世間一般にも波及するほど影響力が大きくなり、伝統もある高校野球だからこそ、より多くの人が納得する形で議論が進められていくことを望みたい。
📝「よく来れましたね?」池田高校“甲子園優勝メンバー”に再取材…徳島へ“越境入学”した男の告白「まるで仙人だった」初めて蔦文也と対面した衝撃
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab8974612d1df593b59bb010842e11dd7e9dd660
名門・池田高校はなぜ甲子園から“消えた”のか? 蔦文也は本当に名監督だったのか、それとも――? “高校野球界最大の謎”を追ったミステリーノンフィクション『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(著:田中仰)発売即重版になるなど、反響を呼んでいる。
今回は同作品の第4章から、一部を抜粋して紹介する。1986年春の甲子園優勝メンバー、森桂一郎の証言。
二〇二五年一二月、わたしはある男に会うために高松にいた。彼と初めて出会ったのは、同年一一月、池田のグラウンドだった。そのときわたしは、野球部監督の井上力に苦言を呈されていた。
井上とわたしの間に気まずい沈黙が流れているときに、グラウンドへ現れたのが森桂一郎だった。井上と高校時代の野球部同期である。
「キウイ畑で…」森桂一郎の再取材
わたしがあの記事を書いた記者だと知ると、森は「よく、来れましたね?」と言った。やや気後れすると同時に、そのあっけらかんとした、裏表のない率直な反応にわたしは好感を持った。噓がない人だと思えたからだ。森との雑談のなかで、「今さら故人を汚さないでほしかった」という記事に対する不満が伝わってきた。だが一方で森は「川原コーチがいなければ僕らの代は優勝できなかった」という事実も認めていた。
当事者でありながら、学校とも川原とも適度な距離があり、どちらの利害関係にも絡めとられていない森から、蔦と金についての考えを聞いてみたいと思った。森は取材を了承してくれた。取材場所は畑だった。
「妻がキウイ畑をやっているので畑に来ていただけるとゆっくり話ができると思います」
ショートメッセージにはそう記されていた。高松駅から内陸方面へ車で一〇分ほど。朝八時半に到着したキウイ畑で、森は枯れ枝を焼いていた。白いメッシュキャップとペールブルーのロングTシャツが、煤で汚れている。小柄だが筋肉質で引き締まった身体が、一九八六年に甲子園で優勝した「三番ショート」の面影を残していた。
森はキャンプ用の椅子をわたしにすすめた。開口一番、「なぜ僕に話を?」と森は言った。面と向かってきっぱりと「よく来れましたね?」と言われたことが小気味よかったからだと伝えると、森は声を上げて笑った。そして、水を入れた鍋を薪の上に置きながら「なんでも聞いてください」と言った。
「まるで仙人のよう…」池田へ越境入学
森は神奈川県平塚市の出身だ。中学時代、強豪シニアクラブの主力であった森は、地元の名門校に進学することもできた。だが、甲子園のテレビ中継を見ていたときに、自分が目指すべき高校は遠く離れた徳島にあることを知った。決め手は、プレー内容というよりも試合後の映像だ。インタビューに応じる蔦の風貌に目を奪われた。
「まるで仙人のようだった」と森は回想する。
うまくなりたい、甲子園に出たいという願望以上に、この男の近くにいれば自分は成長できるのではないか。そんな直感が森にはあった。
蔦と初めて対面したのは中学三年のとき。半ば押しかけるようにして池田高グラウンドへ行き、自分のプレーを蔦に見てもらった日だった。簡単な挨拶を交わした蔦が何を話したのか聞き取れなかった。その理由が森の緊張によるものだったのか、蔦の阿波弁によるものだったのかは定かではない。
日本で最も野球が強い高校、その名物監督が目の前に立っている事実が、一四歳の少年を圧倒していた。池田を受験するためには徳島県内の中学を卒業する必要があったため、祖父母とともに引っ越して、徳島・三加茂中学に転校した。そして一九八四年に池田へ入学した。
新入部員の“運命”が決まる日
入学直後の四月には、レギュラー組と控え組への振り分けが行われる。全体練習が終わった後、一年生だけ残されて、一四〇キロの高速スライダーにセットされたバッティングマシーンの打席に立たされる。その様子を蔦は黙って見ていた。
基準は遠くに飛ばせるか、その一点であったと森は言う。この振り分けによって、新入生二五人のうち半分は、レギュラーになる可能性が消えた。彼らは補助要員やマネージャーに回され、主力争いに復帰することはなかった。森はさも当然といった調子で話した。
「監督は生殺与奪の権を握ってますからね。何かしでかすと、スタメンを外されるだけなので」
蔦と二人で話した記憶はない。森に許された返答は、「はい」か「いいえ」の二択ですらない。「はい」だけだった。
蔦は必ずしも野球を通じて子どもを教育しようとは思っていなかっただろうと、森は考える。
「あの人は先生だけど、プロを経験した選手でもあった。その側面が多分にあると思います。使える子は、素行が悪かろうが使う。勝つことが大事だから。結果さえ出してくれれば使うというスタンスだったんじゃないかな」
森が生活した「池田町」
「レギュラー組と控え組の扱いは、完全に違いましたか」とわたしは訊いた。
「違いましたね。控え組の生徒は、蔦さんから名前を呼ばれることすら、ほとんどなかったんじゃないかな。生徒に直接指導することもない。レギュラー以外の選手には無関心だったと思う」
森が鍋の湯を、ティーバッグが入ったコップに注いでいく。
「井上監督は、蔦さんが県外出身者を好まなかったと言っていました」
「だから僕も外様の意識はありましたよ。同学年は徳島市内出身の奴らが多かったし。OBになっても、その一線はある気がします」
関東から池田へ進学した部員は、同じ学年に森を含めて二人いた。森は蔦寮、もう一人は寮近くのアパートに下宿していた。各学年一〇人程度のレギュラーを優先して入寮させていたようで、主力組はほぼ全員、蔦寮で生活していた。
「徳島市の球場で試合がある場合、地元が市内周辺の人は前日に家へ帰るんですよ。でも僕は寮から出発する。朝、川原さんが運転するマイクロバスに乗って球場へ向かいました。そういうところからも、自分が外様であることを感じていたのかもしれないですね」
〈中略〉
森との問答を当時の練習環境に向けた。練習を見ていたのは誰だったのか。
〈つづく〉
📝甲子園優勝→遠征先が“高級肉”を…「どこへ行ってもキャーキャー」池田高校“最後の優勝メンバー”が明かす蔦文也、その人気の凄まじさ
https://news.yahoo.co.jp/articles/5ed535f7ef4f311568d1640d9bfb728d3af3034e
森との問答を当時の練習環境に向けた。練習を見ていたのは誰だったのか。
池田黄金期を支えた“ある男”
グラウンドにいたと森が記憶する大人は四人。蔦と川原、白川の後任の高橋由彦、そして一九七九年夏の準優勝チームの捕手でのちに蔦の後任監督となる岡田康志だった。
技術的な指導は川原が担った。高橋は筋力トレーニングをメインで担当し、大学を卒業したばかりの岡田は蔦のサポート役を担った。
「いろんな取材先で、川原さんは極めて優秀なコーチだったと聞いています」
「それは間違いないです。あの人がいなかったら梶田(茂生/当時エース)もあそこまで成長していなかったでしょうし、僕らの優勝はなかった」
「ただ川原さんは無名だった時代の池田野球部OBで、卒業後は就職しています。どこかで体系的に野球を学んだキャリアを持つわけではないですよね」
「ご自身で研究されていたみたいです。部員と川原さんで一緒にプロ野球を見ることがあったんですが、川原さんのプレー解説がすごく的を射ていた。そのプレーを選んだ理由とか、試合展開の読みも。だから僕らは無条件で信用してましたね。チームの連携プレーもすべて川原さんが教えていました。ノックもギリギリのところを打ってきてキツかった。蔦さんのノックは疲れてるフリしてごまかせましたけど」
川原の顔が頭に浮かんだ。取材でわたしの質問に答えながらも、「お前がどんな答えを求めているかわかっているぞ」と見透かすようなあの鋭い視線を。
「蔦さんはグラウンドにいたのですか」
「蔦さんはグラウンドにいたのですか」わたしは訊いた。
「僕らの頃は、基本的にいたと思います。下の世代がごちゃごちゃ言っているみたいな、現場から手を離している感じじゃなかったですね」森は答えた。
「森さんの体感で、九割は現場にいましたか」
「僕らの頃は。唯一覚えているのは、(春の甲子園をかけた)二年秋の県大会の試合途中で講演へ行ってしまったこと。大差で勝っているのを見て『じゃあ俺行くわ』って」
九割いた、という言葉にわたしは首をひねった。森に会う前、池田の校舎にある野球資料室で、一冊のノートを読んでいたからだ。
表紙に黒ペンで書かれた「59年」「選抜辞退」「中村主将」「新チーム宮内時代」という言葉から、八四年度の野球部のノートだったと推測される。
選手名や練習メニューといった内容に加えて、「1月の講演」というページを見つけた。そこには一月三日、四日、九日……と計一四日間は講演会に行っていたことが記されていた。
森の言うとおり蔦が九割方グラウンドにいたとすれば、近隣の市区町村、県の講演会が中心で、放課後の練習がはじまる一五時までにはグラウンドへ帰ってきていたのだろうか。
一方で森は「僕らの頃は」とも言った。他の代で現場から離れていた可能性を残す話し方だった。
毎週末遠征、すき焼き…
いずれにせよ、森がいた三年間は池田が全国屈指の強豪校であった時代だ。同級生に、のちに社会人野球・日本生命の監督を務めた梶田、プロ野球・大洋ホエールズでプレーした松村高明という二人の好投手がいた。三年時には、春の甲子園で優勝している。
「僕らの時はお金がかかってないんですよ」と森は言う。
森がいた時代、遠征費は減った。池田が有名になったことで、相手校が経費を負担する招待試合が増えたからだ。全国の高校が池田との対戦を熱望した。毎週末の遠征は、そのほとんどが招待試合に代わった。
土曜午後に授業が終わると、その足で空港や駅へ向かった。沖縄、長野、群馬……。毎週末をホテル泊で過ごすような生活だった。
夕食にはすき焼きやしゃぶしゃぶといったご馳走が供された。相手校からの接待である。一般の高校生が食べることのないような、高級な肉も頻繁に出された。
甲子園出場時には、グローブとスパイクが支給されていたと森は記憶する。「たぶん後援会が払ってくれてたんじゃないかな」メーカー担当者がレギュラー組のグローブとスパイクの型をとり、それが甲子園で使われた。橋川がいた一九七九年から森の時代にかけて、一気に池田のブランド化が進んだ。
甲子園優勝、池田に三つの変化
次の三つの変化がその証左だ。
一つ目が、蔦の講演会である。池田の甲子園夏春連覇を経た一九八三年春、蔦は定年退職している。講師として引き続き教壇に立ったが、それを境に、講演会の回数は増えていった。「夏春連覇から一気に増えた」という川原の証言とも合致している。
二つ目が、招待試合の増加だ。交通費や宿泊費は相手校の負担で、さらに行った先々では、蔦も選手もさながらスター扱いを受けた。
三つ目が、部員数の激増だ。橋川の時代は「オール徳島」だったのが、森のように県外から入部を志望する生徒も出てきた。
それにしてもだ。甲子園の影響力の凄まじさを思わずにはいられない。
「甲子園で優勝して、周囲からもてはやされて。子どもたちは平静でいられるものですか」とわたしは訊いた。
「それが夏、初戦で負けた原因ですよ。僕がエラーして負けたんです。そもそも春の甲子園優勝が望外の結果だった。間違えて優勝してしまったという気すらしている。優勝以降、爺やんは僕らに対してすごくゆるくなった。練習も追い込んでなかったし、天狗になっていた。どこへ行ってもキャーキャー言われたしね」
取材後半にかけて、森は蔦のことを「爺やん」と呼ぶようになっていた。当時の部員が陰で使っていた蔦のあだ名だ。高校卒業と同時に、森は野球をやめた。首都圏の強豪大学に進学することもできたが、都内の銀行への就職を決めた。
自分は何者かになれるだろう。そんな自信が社会に出たばかりの森にはあった。しかし、何年経っても、仕事に熱くなれなかった。
〈つづく〉
📝「甲子園で燃え尽きて…」池田高校の優勝メンバーが明かす“苦悩の人生”その後「無性に苦しかった」「縁もゆかりもない高松に引っ越して楽に」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e3ee27ebcbf523a35f9e66545886d9c899600357高校卒業と同時に、森は野球をやめた。首都圏の強豪大学に進学することもできたが、都内の銀行への就職を決めた。
「甲子園の光はまぶしすぎた」
自分は何者かになれるだろう。そんな自信が社会に出たばかりの森にはあった。しかし、何年経っても、仕事に熱くなれなかった。
営業成績で同期に負けた。悔しく思いながらも、どこか頑張りきれない自分がいた。それでも甲子園よりも熱くなれる何かが、いつか眼前に現れるものだと信じていた。
たかが高校野球を引きずるなんてあまりに馬鹿すぎやしないか。何度も自分に言い聞かせた。だが現実に、甲子園よりも森を熱くするものはなかった。
「甲子園の光はまぶしすぎた」と森は言った。
だがわたしはこう思う。日本で最も愛された野球部で優勝したことが、まぶしすぎたのだ。その後の人生がやけに色褪せて退屈に感じられるほどに。
僕ね、と森が切り出した。「二〇代、三〇代のとき、無性に苦しかったんですよ。田中さんはそういうのないですか」
わたしは答えに詰まった。自分の口から話さなかったが、森は甲子園で二本の本塁打を放っていた。優勝校の主力であった。森のように鮮烈な成功体験をわたしはもっていない。だからすこし考えて「焦燥感のようなものですか」と話を促す相槌にとどめた。
「そうです。それが四〇歳になったくらいから、一気に楽になったんです」
「それは何が変わったからだと思いますか」とわたしは訊いた。
「なんであんなに苦しかったんだろう」
「五年前に縁もゆかりもない高松に引っ越してきました、今の妻と一緒に。引っ越した理由は、監督をやっている(井上)力のところに顔を出せるというのもあったし、もう一つが、彼女がやりたいと言ったこの農業なんです。バリバリ働いて家を建てても満たされない感覚があったけど、今は不思議と充実感を覚える。それに、生き方ですかね」
「生き方?」
「今の妻に出会うまで、自分主体で生きてきました。でも彼女がやりたかった農業に自分も携わるようになって、人に引きずられていくという生き方があることを知った。それで一気に気持ちが楽になった。三〇代までなんであんなに苦しかったんだろうって考えたとき、『俺が、俺が』っていう生き方を変えたのが大きいような気がします」
森は再び蔦の名前を出した。「爺やんが酒を飲んでいたのも似た理由だったんじゃないかって思う。狂おしいまでに甲子園を追い続けた。一心不乱になって。特攻隊の経験もあったと思う。生き残ったのに何者にもなれない。そんな自分が腹立たしくて、狂ったように甲子園を目指したんじゃないかな」
蔦と森の間には明白な違いがある。主役であり続けなければならないという強迫観念から脱した森、主役であり続けた蔦。その差だ。しかも、何者かになったとして、そこに何があるかは、何者かになった人間にしかわからない。森が甲子園で浴びた何倍もの熱狂を、まばゆい光を、蔦は浴びた。無名の二〇年間を経て神様になった先に、蔦が見たものを想像すると、なにか空恐ろしいような気もした。
「蔦さんは私財をなげうって、というイメージだから」
「爺やんも野球部が大きくなって、いろんなことがコントロール不能になって、混乱しちゃった部分もあったのかもしれない。初出場、初優勝まではやりきれる。ただその先は、落ちていくしかないのを知りながら、足搔かなきゃいけないわけだから」
「蔦さんを告発しようとした部員がいたことは知っていましたか」とわたしは訊いた。
「知らなかったですね」と森は言った。
「蔦さんのことを、現場を放って金儲けに走るような人間ではないと思いますか」そう尋ねると、森の語気が少し強くなった。