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宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

編集済
⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(3日目 1回戦 紀三井寺球場)
    09:00~ 田 辺 工-紀 北 工
    11:30~  南 部 - 那 賀

📝令和8年度秋季鳥取県高等学校野球大会(兼)第147回秋季中国地区高等学校野球大会鳥取県予選
https://tottori-hbf.jp/data/data-r8/r8-koushiki-06-autumn-tottori.html

📣2030年開催「プロ野球オールスターゲーム」に向け倉敷マスカットスタジアムに大型ビジョン整備へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/d024d4da2c818bf44875756f4f4884d28d4e72ba

岡山県は倉敷市のマスカットスタジアムに大型ビジョンを整備する方針を明らかにしました。2030年に開催されるプロ野球オールスターゲームに向け、球場の設備を充実させます。

倉敷マスカットスタジアムは1995年の完成から30年がたっています。県によりますと、現在の電光掲示板にはスコアや選手名などしか表示できないため、映像を流せる大型ビジョンの整備を決めたということです。迫力ある映像やリプレーの検証を映せるようにすることで試合をより楽しんでもらえるようにします。

マスカットスタジアムでは天然芝への張り替えを済ませたほか、オールスターゲームまでに約5800席の内野観客席も順次、更新する予定です。
県都市計画課は、2030年のオールスターゲームに向け、全国から訪れる人に「来て良かった」と感動を共有してもらえる球場にしたいとしています。

📝「親の視野は狭い」と自覚することから【智弁和歌山・スーパー寮母】が語る、伴走する子育て
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ccd8a3f16f79577c5eab1ab123cb94caac41f1a?page=1

智弁和歌山高校野球部寮「智翔館」の寮母を務めるのは、監督の妻でもある中谷千保子さん(43歳)。日々、子どもたちと向き合うなかで信条としていることをお聞きしました。それは、思春期の子どもたちだけでなく、すべての世代に通じるアドバイスでした。

受け身でいることが当然の子どもたち 人生を切り開くために必要なのは、思考力と強さ

「私が今の子どもたちに対して一番危機感を持っているのは、全てに対して受け身という姿勢です。智弁和歌山野球部員として、寮に入ってくる子どもたちでも変わりはありません。その原因の一つだと感じているのは、それまで受けてきた教育。今の日本の教育って大前提として大人の理想とする答えが示され、その答えに対してマルバツ(=成績)がつけられる受け身の教育構造になっているんです。大人から言われたことを素直にこなす子どもがいい成績をとり、評価される。でも、人生って受け身なだけでは切り開いていけないんです。目標を設定してそこまでの道筋を自分の頭で考える思考力と、行動に移し、いざというときに踏ん張れる力を持って生きていかなければ、壁を乗り越えられません。そのためには常々、今、何をすべきかを子ども自身に考えさせることが大事だと思っています。私は常日頃から「今日は何を思って、グラウンドへ行くの?」と、声掛けをしているとお話しましたが。もし、子どもが「何って、なに?」という状況ならば、自分で考えられるようにいろいろ質問をなげかけていきます。子ども自身が目標とすべき未来の輪郭が見えてきたら、そのために今やるべきことも明確になってくるはず。あとは、その何かに向かって自走できるようになれば、もう大丈夫。子どもの未来は大きくひらけてくるはずです。」

思春期は子どもと向き合うラストチャンス、どんな時も応援する姿勢を忘れずに

「私から思春期のお子さんのいるSTORY読者のお母さん方に子育てのアドバイスをするとしたら第一に『自分自身の人生を含めて全てを受け入れ、楽しむこと』を伝えたいですね。
子どもに対して過剰な期待を持って親目線でこうなって欲しい、こうあるべきと思い出すとキリがないです。必要なのは、子どもがどうなっても伴走して一緒に楽しむ覚悟と愛情。
子どもが親の思い通りの道に進まなかったとしても、それを悲観することなく愛情を持って接し、どんな状況になっても一緒に歩む覚悟を持って欲しい。
親は子どもたちの目標とする未来や、やりたいことを心から応援する覚悟と姿勢を示し、それを子どもたちがしっかりと受け止ることで強く進んでいけるのではないでしょうか。

子育てって、手間はかかります。私は何人もの子どもを預かっている立場ですが、時には「これが自分の子どもだったらどうしよう」という局面になることもあります。そんな時も愛情を持って接し、常にポジティブな言葉を浴びせ続けていくことで子どもは少しづつ変わっていくと実感しています。大学生の年代になると、親元を離れる子どもさんも多いし自身の考えも固まってきてしまう。高校生って大人になる前に親が子どもに深く関わることのできるラストチャンス、このタイミングを逃さないで欲しいです。

付け加えるならば、お母さん自身の経験に基づいて考えた、子どもにはこうなって欲しい理想の姿って視野が狭いと自覚して欲しい。我が子だけに目が向いていると見えてこない部分があるかもしれませんが、子どもの可能性と未来は親が想像するより遥かに大きい!
子育てに正解なんてないです。学歴があっていい会社に入ったら、一生安定していい暮らしができるというという根強い指向がありますが、これから先は通用しなくなると私は思っています。ステレオタイプに拘らず、本当に子どもたちがやりたい生き方に向かって進める力こそ人生にとってマスト。そんな生き方ができる力を持った子どもは、豊かで幸せな人生を送れると私は確信しています。」

STORY世代のスーパー寮母・中谷千保子さんが描く これからの自分の将来

◆寮母となって7年。圧倒的なメンタルサポートで、その間チームを2度の甲子園優勝に導いた千保子さん。ご自身は描いている未来は?

「監督がどう動くかが第一で、監督が智弁和歌山に関わっている限りは今の状況が変わることはないです。チームが勝っても負けても、それは変わりません。一方、自分の中ではこの状況で終えることはないなという感覚もあります。酵素浴のある複合施設やヨガスタジオの経営もほったらかしになっている部分もあるので、それもきちんとやっていかなければいけないですし。何かのきっかけがあれば、智弁和歌山野球部の部員だけでなく、もっと多くの人たちに向かってメンタルトレーニングやアスリートの食事面も含めた健康管理などを発信することがでたらという思いもあります。インスタもそんな思いから始めました。ここからは、体力・時間・事業のバランスを改めて整えて、次のフェーズへ。誰もやっていないことにも、躊躇なく挑戦していきます。」

🔥夏の甲子園で投げられなかった149キロ右腕、最後の舞台は国スポ 三重高・古川稟久投手「高校野球の集大成」
https://article.yahoo.co.jp/detail/d29249076e00f9b228dafa2227d384b6da513806

夏の甲子園のマウンドには立てなかったが、最後の舞台は残っている――。三重県四日市市出身の三重高校3年、古川稟久投手は、春のセンバツでは最速149キロを記録し、優勝した大阪桐蔭を3イニング無安打に抑えた右腕だ。夏の甲子園は右肘の肉離れで登板はかなわなかったが、10月に青森県で開かれる国民スポーツ大会での復帰を目指している。「高校野球の集大成を示したい」と、悔しさを胸に最後の舞台を見据える。

センバツで登板した古川投手=三重高野球部藤本恵一OB会長提供
 
野球を始めたのは小学2年、日永フェニックスへの入団がきっかけだった。四日市市立南中学校では陸上部に所属しながら桑員ボーイズで投手として活躍。3年時には中日本選抜に選ばれ、中部地区トップレベルの投手として評価された。県内外の強豪校から声がかかる中、「三重県から甲子園に出るには三重高が一番近い」と進学を決めた。
入学後は寮生活に戸惑い、やる気を失った時期もあった。しかし、同級生の秋山隼人選手から「何のために三重高に来たんだ、真剣にやろう」と声をかけられ、気持ちを立て直した。1年夏には目標だったベンチ入りを果たし、三重大会4試合に登板した。

投球フォームのイメージをつくる古川投手
 
軸足の右脚に体重を乗せ、左足を高く上げて重心を低く保つフォームを磨き、球威と安定感を高めた。183センチの長身から投げ込む140キロ台後半のストレートと鋭いスライダーが持ち味だ。課題が見つかると東海滋コーチに相談し、東コーチは自主練習にも付き合ってくれた。「東コーチがいなければここまで成長できなかった」と語る。
 
2年夏の三重大会、三重高は昴学園に敗れた。5回まで登板していた古川投手は、先輩からセンバツと翌年夏の連続出場を託され、責任の重さを強く意識した。重圧に押しつぶされそうになりながらも立て直し、センバツ出場をかなえた。大阪桐蔭戦では149キロの球速を記録し、変化球で4三振を奪った。「全国でも通用する」と実感した瞬間だった。

今夏の三重大会決勝で登板した古川投手

夏の三重大会決勝では5回から登板し、1安打無失点。しかし、右肘に激痛が走り降板した。診断は肉離れで全治1カ月。甲子園では背番号20をつけて伝令としてチームを支えた。スタンドからの応援の声がよく聞こえ、「こんなに応援してくれていたんだ」と胸が熱くなったという。選手たちは古川投手を再びマウンドに立たせようと勝ち進んだが、強豪・天理に敗れ、最後の夏が終わった。
10年以上野球を続ける中で、野球が嫌になった時期もあった。しかし、一度距離を置くことで、また野球が好きになれた。「苦しくなったら一度離れてみてもいい。楽しかったことが思い出せれば、またやり直せる」と、今苦しんでいる後輩たちにエールを送る。

四日市に帰省していた8月20日、三重高が国民スポーツ大会の出場校に選ばれたことが発表された。国スポの高校野球は全国でわずか8校しか選ばれない狭き門だ。古川投手は「甲子園で投げられなかったが、チームが国スポに導いてくれた」と話す。

球速はプロも視野に入る水準だが、プロ志望届は提出せず進学を選択。大学でプロで通用する体を作り、さらにプレーに磨きをかけるつもりだ。

「国スポで150キロ台を記録し、三重高校で積み重ねてきた3年間のすべてを集大成として示したい」。最後の舞台に向け、静かに闘志を燃やしている。

📣「覚悟していたが…」桐生第一の野球部長が見た故郷・熊本の被害
https://news.yahoo.co.jp/articles/98c45afeb4a0335ab28c9cd2f7ce66da84803dac

7月28日の熊本地震の発生から半月後、桐生第一高野球部長の坂田光由さん(48)は故郷に向かった。震度6強を観測した熊本県八代市の出身。被害を目の当たりにし、無力感にとらわれながらも「常に前向きに」との思いを強くした。

坂田さんは八代市で生まれ育ち、熊本工高に進んだ。1996年夏の甲子園決勝で、愛媛・松山商高にサヨナラ勝ちを阻まれた「奇跡のバックホーム」の瞬間、グラウンドにいた1人だ。10年前の熊本地震では「地元の力になりたい」とチームメートらと結集し、松山商高との再戦を企画。熊本市の藤崎台県営野球場で対決し、9―8で雪辱した。

◇無力感に襲われ

4人きょうだいの末っ子。両親や兄姉は皆、八代市に住んでいる。それだけに今回の地震は気が気でなかった。めいの勤務先は、9人の犠牲者が出た日本製紙八代工場だ。家族は無事だったものの、地震発生後は無力感に襲われ、「うつなんじゃないか」というほど落ち込んだ。すぐにでも故郷に戻りたかった。だが、高速道路や新幹線などの交通網はまひ。部長を務める桐生第一高の野球部も秋の県予選を前に、動き出していた。

選手らも坂田さんを案じた。いち早く「大丈夫ですか」と声をかけたのは藤間蒼士朗投手(2年)。授業で「実家が熊本」と話したのを覚えていたといい、「いつもより表情が暗く、落ち込んでいるように感じた」と話す。境南瑠投手(同)は、震度7を観測した氷川町に祖父がおり、自宅は全壊した。祖父は経営する特別養護老人ホームの入所者のために奔走し「元気に振る舞っていたけど、きつかったと思う」と語る。秋の県予選は「時間ができたら見に来る」と言ってくれたといい「頑張らなくては」と気を引き締める。

◇育った場所の変わった姿

「行かないと後悔する」。背中を押そうと、監督の今泉壮介さん(46)は、水を用意した。非常食、ウエットティッシュ、家具転倒防止器具など他の物資も一緒に車に積み込み、坂田さんは出発した。

地元に入ったのは8月12日の朝。懐かしい建物の多くが、倒壊していた。JR八代駅近くの老舗菓子店「田代福進堂」の旧店舗、小中学校の通学路のそばにあった日本製紙八代工場の煙突。母校の市立第二中は避難所となった。敷地には、中学3年時の軟式野球の全国大会出場の記念碑があったが、それも崩れていた。

実家近くで、旧知の近所の人を見かけた。しかし、声をかけられなかった。家が倒壊していたからだ。「覚悟して行ったんですけどね。自分が育った場所が崩れているのに、何もできない自分がいる。どうしようもできないとは分かっているけど、こんなふうになっちゃったと思うと涙が出てきました」

◇「常に前向きに」

両親や兄姉の家も被災し、ライフラインは次姉の自宅の電気が使えただけ。両親は余震を恐れ、一時は夜に車中泊した。自宅は瓦が落ちて雨漏りがし、壁などにもひびが入っている。市による家屋の被害認定調査は、まだ受けられていない。

両親は、10年前とは比較にならないほどの被害の大きさや恐怖を感じているという。「八代で生活していくしかないと、皆で助け合って前向きに頑張っている。でも、前回から10歳年をとっている。10年前は乗り越えられたけど、今、乗り越えられるか心配はあります」

滞在できたのは2日間。家族で食事をし、両親と中学時代の試合の映像を見た。思い出の場所を訪れ、濃密な時間を過ごした。「これからも家族や故郷に、常に寄り添っていたい」と実感し、自身の意識も変わった。「前向きな両親たちの姿を見て、常に前向きにやっていきたいと思いました。グラウンドにおいてもですね」

📝「奇跡のバックホーム」の甲子園決勝で劇的同点弾も敗戦 元熊本工選手が30年後に語る「銀メダル」の意味
https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/2026090100001-spnavi?p=1

作新学院で主将を務めた澤村友真には、手元に置いていないメダルがある。2025年夏、2年生だった友真は栃木大会決勝で青藍泰斗に敗れた。試合後に受け取った準優勝メダルは、今も埼玉の実家に置いたままだ。実は父・幸明にも、似た経験があった。1996年夏、熊本工の1年生レギュラーとして甲子園決勝を戦い、準優勝。さらに3年夏も熊本大会決勝で敗れた。その時に手にしたメダルは熊本の実家に置いたままだという。

父と息子は、ともに決勝で敗れ、銀メダルを手にした。もちろん、二つの敗戦は別のものだ。ただ、その経験がその後の野球に何を残したのか。幸明の野球人生をたどっていくと、一つの生き方が見えてくる。
準優勝とは何か。「あと一つ」で負ける悔しさは、その後の人生にどう生かされるのか。

1年生で経験した甲子園決勝

高校野球ファンなら、1996年夏の甲子園決勝を覚えている人も多いだろう。
熊本工―松山商。松山商に1点をリードされた9回裏2死走者なし。熊本工の打席に立ったのは、1年生の幸明だった。初球を振り抜くと、打球は左翼席へ。同点本塁打となった。

高校1年生が、甲子園決勝の土壇場で試合を振り出しに戻す。のちに「松坂世代」と呼ばれる世代の一人として、早くから全国に名前を知られる存在となった。しかし、試合はそのまま熊本工には傾かなかった。延長10回裏1死満塁。熊本工の右飛で三塁走者が本塁を狙ったが、松山商の右翼手・矢野勝嗣の好返球でタッチアウト。後に「奇跡のバックホーム」と呼ばれるプレーとなった。
11回表には、左翼を守っていた幸明が左翼前への打球を処理できず、記録は二塁打。この回に熊本工は3点を失い、3-6で敗れた。本塁打を打った選手として脚光を浴びる一方、守備では失点につながるプレーも経験した。幸明は試合後、泣いていた。

「悔しかったですし、みんなに申し訳ないという気持ちもありました。あれだけ泣いたのは、後にも先にもあの時くらいです」

ただ、現在の幸明が自身の野球人生で原点として挙げるのは、この甲子園決勝だけではないという。より自分自身と向き合うことになったのは、3年の夏だった。

主将として再び決勝で敗れる

2年夏は熊本大会2回戦で敗退。3年では主将を務め、再び甲子園を目指した。しかし最後の夏も熊本大会決勝で九州学院に敗れた。幸明は当時の自分について、はっきりとこう話す。

「あの頃の自分は、とにかく『欲』が強かった。ヒットが欲しい、自分が結果を出したいという気持ちばかりでした。欲ではなく、積極性だったら良かったんですが、欲がありすぎちゃって……。自分の結果しか考えていないと、勝負所でのつなぎだったり、周囲への気配りだったりができなくなるんです。自分の数字を残すことより優先しなければならない仕事がある。主将として最後の夏を終えたとき、決勝で負けてそこに気づきましたね」

この経験は、その後の幸明のプレースタイルにも表れていった。熊本工卒業後、幸明は法政大へ進み、日本通運で13年間、35歳までプレーした。
高校を卒業したあとは違う野球を求められた。2番打者として走者を進める。送りバントを決める。自分がアウトになっても、チームにとって必要な役割を果たす。

「自分が打つことより、チームがどうしたら点を取れるかを考えるようになりました。自分に求められている役割は何なのか、ということですね」

甲子園決勝で本塁打を放った幸明が、その後は「つなぐ」技術を磨いた。高校時代には、自分の結果を求める気持ちが強かったが、その反省があったからこそ、大学、社会人では別の価値を持つ選手になることができたと考えている。1996年の決勝を振り返りながら、幸明は「悔しい敗戦は、後の人生に必ずつながってくるんです」と言い切った。

「チームのために何ができるかを考えろ」

その幸明が父となり、2人の息子も野球の道へ進んだ。長男・友真は作新学院で主将を務めた。「5回行くと思っていた」(友真)という甲子園には1度も届かなかった。自身の骨折、小針崇宏監督の謹慎もあり、最後の一年も順調ではなかった。友真が怪我でプレーできない時期、普段は息子の野球に細かく口を出さない幸明が、一度だけ激しく叱ったことがあった。「自分がいないチームがどう戦うのか見てみたかった」と口にした時だった。

「お前、何様だよ。どれだけチームに迷惑をかけているんだ! 怪我をして試合に出られなくても、できることはある。キャプテンだったら、チームのために何ができるかを考えろ」と幸明は厳しく叱った。

試合に出られなくても、キャプテンとしてできることはある。自分が出るか出ないかではなく、チームのために何ができるかを考える。その一点について、幸明は妥協しなかった。

「お父さんは普段は別に怖くないんだけど、ガチギレした時は本当に怖いです」友真はそう苦笑した。

小針監督が復帰すると、幸明はこう背中を押した。

「分からないことがあったら、小針監督に怖がらずに聞け。監督としっかり会話をしろ」

友真は当初、監督に自分から質問することに遠慮があった。それでも、守備位置の意図など、疑問に思ったことを自分から聞くようになり、小針監督と1対1で野球について話す機会も増えたという。
幸明は答えそのものを教えたのではなく、指導者に自分から問い、自分で理解するよう息子に促したのだ。

日本通運で掲げた「一心」

2020年、幸明は日本通運硬式野球部の監督に就任した。スタート時に掲げた言葉が「一心」だった。一つの心になる。社会人野球には、高校、大学で実績を残した選手が集まる。個々の能力は高い。その中で幸明が重視してきたのが「周囲への気づき」だった。

「今の選手たちは、自分のことには一生懸命です。ただ、他人に興味がないと感じることが少しあります。例えば、グラウンドにボールが落ちている。自分の近くでなければ拾わない。ゴミが落ちていても気づかない。そうした日常の行動を、野球と切り離して考えてはいけないと思うんですよね。周りを見られない選手は、試合でも周りを見られないんです。自分の結果だけを考えていると、そういう判断ができなくなる。だから普段から周りを見ることが大事なんです」。

就任当時、そう話していた。監督になって今年で7年目を迎え、チームは都市対抗に12年連続51回目の出場。「心ひとつ」で戦う姿勢に変わりはない。8月31日。夏休み最後の日、幸明が監督を務める日本通運の都市対抗野球大会初戦を、友真は東京ドームのスタンドから見つめていた。
1番打者の添田真海は作新学院の先輩。スタンドには作新学院の1、2年生52人も応援に訪れていた。日本通運はNTT西日本と対戦し、延長10回、タイブレークの末に1-3で敗れた。

高校野球を終えたばかりの息子が見守る中、今度は幸明が指揮官として敗戦を経験した。30年前に甲子園決勝で敗れた幸明は、監督となった今も、勝敗の中に身を置いているのだ。友真は無言でゲームセットを見つめ、夏の終わりを確認するかのように東京ドームを後にした。幸明が息子に求めてきたのは、自分の結果だけを追わず、チームの中で自分に何ができるのかを考えることだった。それは幸明自身が、二度の決勝敗退を経験し、その後、大学、社会人と野球を続ける中で身につけてきた考え方でもある。その考えを伝えてきた息子も、2年夏の決勝で敗れ、翌年は主将として仲間を見る立場になった。甲子園には届かなかったが、すでに大学野球へ向けて動き始めている。

幸明と友真が手にした銀メダルは、今もそれぞれの手元にはない。銀メダルの色は、金に変えられない。だが、その敗戦から何を学び、次の場所でどう行動するかは変えられる。30年前に決勝で敗れた幸明が、選手として、監督としてたどってきた道を見れば、そのことがよく分かる。今度は友真が、大学野球で自分の答えを出していく番になる。
2026/09/09(水) 21時58分52秒 No.2608 編集 削除