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📝令和8年度 秋季近畿地区高等学校野球大会 県一次予選 組み合わせ表
https://www.whbf.jp/uploads/20260902145508_HOrS.pdf
☟夏の甲子園ビデオ検証「1回では少ない」「明らかなボール球がストライクなのに」と話す監督も…「モヤモヤしなくていい」からこその“リアルな指摘”
https://news.yahoo.co.jp/articles/effa42f0b8688bfe0b88dd527e3cd700e1f8b7ff
投手の球数制限、低反発バットの導入、DH制の採用。高校野球は近年、新たなルールが次々と設けられている。今夏の甲子園では初めて、ビデオ検証も取り入れられた。
ビデオ検証、その仕組みとは
ビデオ検証をめぐっては、2014年にメジャーリーグで「チャレンジ制度」が始まり、2018年にはNPBでも「リクエスト制度」が採用された。大学野球や社会人野球でも導入が進んでいる。
各団体によってビデオ検証の方法やルールには違いがある。日本高校野球連盟は、今年4月の理事会で承認された「大学及び高校野球におけるビデオ検証に関する特別規則」に基づいて運用した。
規則では、検証の対象となるプレーを定めている。例えば、「打球がファウルかフェアか」、「フライをキャッチしたかノーキャッチか」といった内容は対象となっている。一方、ストライクとボールの判定や、ハーフスイングなどに関しては対象から外れている。
ビデオ検証を求められる回数は、9イニングで各チーム1回とされている。検証の結果、判定が変わった時は1回に数えない。ただ、今夏の甲子園では、「判定が変わった場合は9イニングのうち、あと1回に限りビデオ検証を求めることができる」としている。つまり、9回までに最大で2回しか権利がない。また、試合の遅延を防ぐため、検証の時間を2分以内として、確証が得られない時は判定通りにする。
選手や監督は「プラスのルール」と歓迎
ビデオ検証が初めて適用されたのは、大会第3日の有明と立命館宇治の一戦だった。有明は7回2死一塁で盗塁を仕掛け、走者はアウトと判定された。それに対し、有明は検証を要望した。結果的には判定通りアウトとなったが、有明の高見一茂監督は「モヤモヤした気持ちが残らなくて良かったと思います」と話した。
ビデオ検証に対しては、好意的に受け止める選手や監督が多い。仙台育英の須江航監督は「ネットにさらされてしまう時代なので、審判や選手を守る上でとてもいいものだと思います。気持ちの切り替えができますし、誰にとってもプラスのルールでしかありません」と語っている。
準決勝の2試合は、ともに二塁走者へのタッチプレーでビデオ検証が求められた。どちらも最初はセーフと宣告されたが、検証によって判定はアウトに変わった。
選手の「確信」が判定を覆した準決勝
準決勝第1試合は智弁和歌山と横浜の一戦。8回無死二塁の場面で、智弁和歌山のショート・川原一将選手がゴロを捕球し、横浜の二塁ランナーにタッチした。しかし、グラブがランナーに当たっていないと判断されてセーフとなった。すかさず、川原は頭を触ってベンチを見た。智弁和歌山は、頭を触るジェスチャーがビデオ検証を求める合図となっていた。川原が語る。
「タッチした自信がありました。自分たちのチームは、ビデオ検証を要望するかどうか基本的に選手が決めます。選手がベンチに合図を送る形です。点差は開いていましたが、セーフのままだったら試合の流れが変わる可能性もありました。ビデオ検証はメリットとデメリット両方があると思いますが、納得してから試合を再開できるので、自分はメリットが大きいと感じています」
準決勝第二試合、天理と健大高崎の試合でも天理が検証を求めた。1点を追う4回2死二、三塁で、牽制に入ったショートの金本相有選手が二塁ランナーにタッチ。セーフの判定がアウトに覆った。金本は「アウトの確信がありました。二塁ランナーのリードが大きかったので狙えると思いました」と振り返った。
「回数が少ない」「ボール判定も」現場からの指摘
初めての試みである以上、何の不満や課題も出さずに運用するのは難しい。実際、こう指摘する監督もいた。
「9回までに回数が1回なのは少ない。判定が覆っているケースもあるのだから、3回は必要だと思います。人間が判断するので誤りがあるのは仕方ありません。その誤りを正す機会がなければ、モヤモヤした気持ちは解消されません」
さらに、ストライクとボールの判定についても、導入する必要性を訴えた。
「今大会でも明らかなボール球がストライクになっていました。投手の球速が上がり、変化球も多彩になっている中で、動体視力が衰えている年代が正確な判定をするのは限界があります。この暑さの中で集中力を持続するのは大変です。機械に頼った方がすべての人にとってプラスだと思います」
1球の判定で試合の流れが変わる可能性もあるからこその言及だった。
運用面の課題と、よりフェアな未来へ
運用面の課題も残った。天理と高川学園の一戦では、高川学園が打者走者の一塁アウトの判定に対して検証を要求した。だが、すでに高川学園の投球練習の準備に入っていたことなどを理由に認められなかった。規定では「速やかに球審に対してビデオ検証を求める」と記されており、要求のタイミングが遅いと判断された。早いか遅いかは、人によって感覚が異なる。明確な基準がなければ、混乱や不平等を招きかねない。
実際に運用して見えた課題もある。一方で、際どい判定を確認できる新たな取り組みに選手や監督から前向きな声が上がっているのも事実。ビデオ検証は今後改善を重ねながら、よりフェアな環境を支える欠かせない仕組みへと育っていくだろう。
📝桑田真澄は2安打完封、清原和博は公式戦初本塁打 中村順司が振り返る「KK伝説はあの試合から始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ead619478f1b8940971db9a2a631a5ee63153f1?page=1
中村順司インタビュー(前編)
高校野球史に「KK」の名を刻んだ桑田真澄と清原和博。ふたりがPL学園の門を叩いたのは1983年春のことだった。1年夏から桑田はマウンドに立ち、清原は4番を任され、やがて甲子園を席巻していく。だが、当時の監督である中村順司氏は「ふたりを特別扱いしたことはなかった」と振り返る。そこには、才能を見極めながら将来を見据えて育てる指導、1年生を支えた上級生たちの存在、そして先輩の背中から後輩へと受け継がれていくPL独自の伝統があった。1年夏の全国制覇から、3年夏の日本一、さらに立浪和義ら次世代の春夏連覇へ──。最強時代のPL学園はいかにしてつくられたのか。中村氏に聞いた。
【仲田幸司から二塁打で4番確定】
── 1983年、PL学園には桑田真澄選手、清原和博選手をはじめ、中学時代から名を知られた将来性豊かな選手が数多く入部しました。
中村 私は、中学時代の実績はできるだけ考慮せずに部員を見るようにしていました。たしかに桑田や清原をはじめ、すでに実績のある選手が多く入ってきましたが、「常にフラットな状態で全部員を見る」というスタイルを崩すことはありませんでしたね。
── その夏の大阪大会では、1年生ながら桑田選手、清原選手、田口権一選手の3人がベンチ入りしました。当時のPLとしては珍しかったのではないでしょうか。
中村 前年の選抜は、エースの榎田健一郎を軸に優勝することができました。この学年には好投手が揃っていたので、下級生投手の出番はほとんどありませんでした。1学年下にも藤本耕らいい投手がいましたが、故障や調子が上がらない選手もいた。それで夏は、桑田や田口といった1年生投手もベンチに入れて、総力戦でいこうと考えました。
── 清原選手も中学時代は投手だったそうですね。
中村 岸和田シニアではエースで4番として全国大会でも活躍していましたから、本人にも投手を続けたいという気持ちはあったと思います。ただ、桑田や田口といった好投手がいた。それ以上に、清原の長打力がずば抜けていました。ですから、早い段階で野手として試合に出ることになりました。
── 入学直後から4番だったわけではなかった?
中村 いきなりスタメンで使ったわけでも、すぐに4番に据えたわけでもないんです。それで入学してしばらく経った頃、興南(沖縄)との練習試合があったんです。その試合で、当時「屈指の左腕」と言われていた仲田幸司くんから、清原が左中間へ痛烈な二塁打を打った。あの一打で、「4番でいこう」と決めました。
── そしてPL史上初めて、1年夏から4番を打つことになります。
中村 とにかく飛距離が抜群でした。「あそこまで飛ばす選手は清原しかいない」と、みんなが認める存在でした。飛ばす力に関しては、やはり別格でした。
【公式戦初先発で2安打完封】
── 一方、桑田選手の公式戦初先発は大阪大会4回戦の吹田戦でした。
中村 大阪球場での試合でした。前日、桑田に「大阪球場で投げたことあるか?」と聞いたら、「はい、あります」と言うので、「そうか。じゃあ、明日先発でいくぞ」と言って送り出しました。
── その試合で、桑田選手は2安打完封。そして清原が公式戦初本塁打を放ちました。1983年7月26日は「KK伝説」の始まりとも言える試合です。
中村 あの時に印象に残っているのは、主将の朝山憲重を中心とした上級生の姿です。1年生が伸び伸びとプレーできるよう、非常に気を配っていました。先発する桑田にも余計なプレッシャーを与えないように、「試合が始まるまでは、あえて声をかけないようにしよう」という感じでしたね。桑田や清原だけでなく、上級生がああいう空気をつくってくれたことが大きかったと思います。
── 吹田戦以降、投手陣の軸を桑田に移したのでしょうか。
中村 いや、まだ1年生ですから、無理をさせないことを第一に考えていました。将来のある高校生と向き合う以上、目先の勝利だけではいけない。バランスのいい体の使い方や、体の機能を考えながら指導することが大切だと思っていました。藤本をはじめ上級生にもいい投手がいましたから、桑田はリリーフに回しました。誰かひとりに負担をかけるのではなく、全員ができるだけいい状態で投げられるようにしたかったんです。
【3連覇を目指す池田に圧勝】
── 甲子園でも勝ち進み、準決勝では3季連続優勝を狙う池田(徳島)と対戦します。「やまびこ打線」を擁する池田が圧倒的有利と見られていました。
中村 私が考えたのは、「どうすれば選手たちを互角の気持ちでグラウンドに立たせられるか」ということでした。前日のミーティングで、選手たちにこう言いました。「実力的には6対4で向こうが上だ。しかし、君たちが気持ちを高め、一致団結すれば五分五分になる。勝負はどちらに転ぶかわからない」と。それともうひとつ、全力で挑んで試合に負けたとしても、「池田は強かった」「水野くんの球はすごかった」とは絶対に言うなと伝えました。戦う前から相手を必要以上に大きく見てほしくなかったんです。
── 水野雄仁投手の攻略については、どんな指示を出したのでしょうか。
中村 春の選抜を見ていて感じたことがありました。水野くんのような球威のある速球を逆方向へ流し打ちしようとすると、バットのヘッドが下がってしまう。それなら「内角のボールを思い切って引っ張ろう」と伝えました。
── その狙いが的中し、桑田選手、住田弘行選手、小島一晃選手の下位打線3人から本塁打が飛び出しました。
中村 普段から、私が感じたことをできるだけわかりやすく、簡潔に伝えることを大切にしていました。それと、試合後のことですが、池田の蔦文也監督から「PLには優勝してほしい」と言っていただいたんです。3連覇を逃した直後ですよ。それでも相手を称える。あの姿勢には本当に感銘を受けました。
── その池田戦では、清原選手は無安打でした。
中村 清原は甲子園に入ってから神経性の下痢もあって、本来の力を出せていませんでした。ただ、ライト前に落ちるポテンヒットをきっかけに少しずつ調子を取り戻し、池田戦を迎えていました。池田も「4番の1年生を徹底的にマークしよう」と考えていたようです。あの試合では結果が出ませんでしたが、清原は引きずらなかった。翌日の横浜商との決勝では、好投手の三浦将明くんから逆方向へ甲子園初本塁打を放ちました。そういう切り替えのできるところも、清原の強さだったと思います。
📝「KK最後の夏」が次の黄金時代をつくった 中村順司が語る、桑田真澄・清原和博から立浪和義らへ受け継がれたもの
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/08/21/kk/?utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2026%2F08%2F21%2F_kk%2F&utm_medium=referral&utm_source=news.yahoo.co.jp
中村順司インタビュー(後編)
1年夏に全国制覇を果たした桑田真澄、清原和博らのPL学園は、その瞬間、「追う立場」から「追われる立場」へと変わった。そしてふたりが3年生となった1985年、周囲から向けられたのは「勝って当然」という厳しい視線だった。しかし、春の選抜では伊野商の渡辺智男の前に屈し、準決勝で敗退。その夜から、清原はひとり室内練習場でバットを振り込み、桑田は夏まで驚くほどの走り込みを続けた。その姿を間近で見ていたのが、1年生だった立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史ら、のちにPLの黄金時代を担う選手たちだった。最後の夏の全国制覇と、その先へ受け継がれていった「PLの強さ」を、元監督の中村順司氏が振り返る。
【KKだけではない個性派軍団】
── 1年夏に全国制覇を果たし、桑田選手、清原選手が最上級生となった1985年は、「勝って当然」という目で見られるチームになりました。
中村 ただ、私自身は「自分たちは強い」と思って戦ったことは一度もありません。高校野球は何が起きるかわからない。それを教えてくれたのが、1年夏の池田戦でした。圧倒的に不利と言われた試合でも勝つことができた。ということは、逆のことだって起こるわけです。周囲から「勝って当然」と言われても、そんな簡単なものではないと思っていました。
── 最上級生のチームでは、松山秀明選手が主将を務めました。
中村 松山は兄貴分肌で、チームをよくまとめてくれました。選手はそれぞれ個性が強く、普段の考え方も違います。ただ、野球になれば全員が「自分は何をしなければいけないのか」をよく理解していた。そういう集団を松山がひとつにまとめてくれました。
── 投手陣には桑田だけでなく、左腕の小林克也選手、大型右腕の田口権一投手もいました。
中村 小林は縦のカーブがよかったですし、長身の田口はボールに角度がありました。桑田とはタイプの違う投手がいたことも大きかったですね。勝負どころでは桑田でいきましたが、練習試合などではひとりの投手に無理をさせないようにしていました。
── 野手陣も個性的でした。
中村 捕手は、打力があり、リードも攻撃的な杉本隆雄と、視野が広く、投手と献身的に向き合う今久留主成幸。それぞれ違ったよさがありました。内野では、強肩でフットワークのいい遊撃手・安本政弘が守備の要でした。清原は打撃ばかり注目されましたけど、一塁の守備もうまかったですよ。
三塁手の笹岡伸好は、派手さはありませんがしぶとい打者でしたし、松山も夏には3番を打つまでに成長しました。外野では黒木泰典が打撃センスのある選手でした。パンチ力があって左右に打ち分けることもできる。内匠政博は足が速く、肩も強くて、守備範囲が広かった。本間俊匠も俊足で勝負強かったですね。
【受け継がれたPLの強さ】
── 春の選抜では決勝進出を逃しました。準決勝で伊野商の渡辺智男投手に抑えられた試合です。
中村 渡辺くんは、私が高校野球で対戦した投手のなかでも、松坂大輔くん、水野雄仁くんと並んですばらしいと感じた投手のひとりです。清原は3三振でした。その日の夜からですよ。室内練習場で、最速に設定したピッチングマシンを相手に、遅くまでひとりで打ち込むようになったんです。桑田も伊野商に負けた日から夏まで、驚くほど走り込みました。
── 春の敗戦がふたりを、さらに変えたと。
中村 そう思います。清原はバットを振り、桑田は走る。もちろん彼らだけではありません。3年生全員が「夏は絶対に優勝するんだ」という強い気持ちを持っていました。だからこそ、夏の宇部商との決勝であれだけの試合をして、日本一になれたのだと思います。
── その姿を、後輩たちも見ていました。
中村 そうなんです。その年に入学してきたのが、立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史らでした。入学していきなり、桑田や清原の練習を目の当たりにするわけです。あとになって彼らから聞きました。「寮に戻ってきた桑田さんを見て、雨が降ってきたのかと思った」と。それくらい汗びっしょりになるまで走っていたというんです。
そういう先輩たちの姿を見て、自分たちはもっとやらなければならないと思って練習する。立浪たちの代もほんとによく練習してきた。その積み重ねが、2年後の春夏連覇につながっていったのではないでしょうか。
── 桑田選手、清原選手と過ごした3年間を、今あらためてどう振り返りますか。
中村 もちろん、桑田、清原だけではありません。本当に練習熱心な選手が揃っていました。私は監督として、ずっと「勝てば選手の力、負ければ監督の責任」という考えで選手たちと向き合ってきました。1年夏に全国制覇したことで、彼らは高校生活のほとんどを「追われる立場」で過ごすことになった。周囲から勝って当然と思われるプレッシャーも相当あったでしょう。
それでも最後の夏にもう一度、頂点までたどり着いた。それは、松山主将を中心に、選手一人ひとりが自分の役割を理解し、日々努力を重ねた結果です。そして、その姿を次の世代が見ていた。先輩の背中を見て、後輩が育っていく。そうやってPLの野球が受け継がれていったのだと思います。
📝走り込みをやめ「ボディビル大会」を開催!? 仙台育英には初「女子部員」も…これが令和の高校野球!
https://news.yahoo.co.jp/articles/6919aef16dddfe836bbeb7a405c885f084958836
有望中学生の進学先が数年後の勢力図を占い、スカウティングの勝者が甲子園を制するのが令和の高校野球だ。
「このままでは高校野球が衰退する」(高知・明徳義塾、馬淵史郎監督)
過熱する高校野球のスカウティングに警鐘を鳴らす。令和の時代の中学生は、甲子園への行きやすさだけでなく、自分が一番成長できる環境であるかどうかで、進学先を選択する。グラウンドの広さや室内練習場の有無、トレーニング器具の充実度に加え、寮が何人部屋であるかも重要な要素だ。
走り込みよりサウナ
恵まれた環境の学校もあれば、西東京大会を制した八王子実践のように、内野ほどのグラウンドしかない野球部もある。同校の部長・恩田宣男(60)は言う。
「(強豪の)女子バレーボール部とは違って野球部は強化指定の部活動ではありませんし、練習も2時間しかできない。外野ノックもままなりませんし、平日は個人練習しかできません。全体練習や実戦練習は週末、私が運転するバスで出かけた遠征先でやります」
監督である河本ロバート(40)は同校を卒業後、亜細亜大を経て、ドジャースとマイナー契約を結び、帰国後も独立リーグを経験したジャーニーマンだ。ロバートは、ユニークな手法で強化を図った。
「(投手出身の)ロバートは走り込みが大嫌い。練習で選手を走らせるにしても短い距離のダッシュぐらい。夏のスタミナ対策は、サウナに入って毛穴を広げて血流量を上げたり……要するに根性論ではない形でやっています」(恩田)
選手たちから「ロバートさん」と呼ばれ親しまれる監督は、主に冬場、ウエイトトレーニングを選手に課し、とりわけ筋トレの「BIG3」と呼ばれるベンチプレス、スクワット、デッドリフトの重量に目標基準を設けている。昨冬には成果発表の場としてボディビル大会を実施した。ロバートがその狙いを語る。
「トレーニング意識を高め、人に見られるということも体感してもらいたかった。そのボディビル大会で一番輝いていたのが、金子でした」
昨秋までベンチ外だった金子侑樹はBIG3の数値がチーム1を記録し、最後の夏にベンチ入りを果たす。甲子園の初陣となる鳴門渦潮(徳島)戦では0対1で迎えた9回に代打で登場。同点打を放って、勝負をタイブレークにまで持ち込んだ。努力は裏切らないことを監督に、そして仲間に証明してみせた。
「身体がものすごく強いので。思い切り振らなくても打球は飛ぶ。『コンパクトに』とだけ伝えたところ、(逆方向となる)右中間に打ってくれました」
能力を数値化してアナライズ
この夏、開幕戦に登場し、甲子園に爽やかな風を吹き込んだのが、仙台育英の女子マネージャー兼学生コーチである星よつはだ。初戦から選手と同じユニフォームを着てベンチ入りしたが、役割は記録員にとどまらない。
「試合中に相手投手の配球の特徴などを打席に向かう選手たちに伝えています。相手の投手が交代したら、『前のピッチャーより○△km/h速いよ』とか……須江監督(43)に質問されても答えられるように備えています」
巨人や西武でプレーした孝典さんを父に持ち、父と同じ高校に進学し、同校史上初の女子部員として入部を果たした。父も立った甲子園を仲間と共に目指し、時には選手に嫌われるようなことも口にしなければならない。
高校時代にGMの経験を持ち、情報科の教師である須江は、野球の能力を数値化してアナライズ(分析する)ことに長け、それを″日本一の競争″と自負する部内競争に生かしてきた。そういうアナリストの役目も星は担う。
「投手ならストライク率や防御率など基本的な数字を出すのは自分の仕事ですし、打者なら打率、出塁率に加えて、須江監督は助進塁率を大事にされています。要は走者の進塁を助ける打撃ができたかどうか、ですね。日本一の競争において、こうした数値は評価を視覚化、可視化できる手段だと思います」
卒業後のことや将来の職業については今のところ考えていない。’22年夏以来2度目の甲子園制覇を果たすことしか彼女の頭の中にはなかった。
これが令和時代の高校野球だ。莫大な資金を投入してグラウンドや室内練習場を整え、一人部屋の寮を完備する学校も増えてきた。移りゆく時代によって高校球児の練習法や寮生活、戦術も多様に変化を遂げている。
⚾SHIONOMISAKIさんへ
そうなんですね。綾部は・・・舞鶴に2度観光に行った帰りしなに電車で通ったくらいですが。。。。。福知山球場には2度ほど足を運びましたが、今回限りになると思いますが僕も天気に問題なければ行く予定です!
しかし、天理・和智弁が3位となれば。。。10月3~6日まで青森国体行かなアカンし、県大会最終盤とかち合うので大変ですね!
https://www.whbf.jp/uploads/20260902145508_HOrS.pdf
☟夏の甲子園ビデオ検証「1回では少ない」「明らかなボール球がストライクなのに」と話す監督も…「モヤモヤしなくていい」からこその“リアルな指摘”
https://news.yahoo.co.jp/articles/effa42f0b8688bfe0b88dd527e3cd700e1f8b7ff
投手の球数制限、低反発バットの導入、DH制の採用。高校野球は近年、新たなルールが次々と設けられている。今夏の甲子園では初めて、ビデオ検証も取り入れられた。
ビデオ検証、その仕組みとは
ビデオ検証をめぐっては、2014年にメジャーリーグで「チャレンジ制度」が始まり、2018年にはNPBでも「リクエスト制度」が採用された。大学野球や社会人野球でも導入が進んでいる。
各団体によってビデオ検証の方法やルールには違いがある。日本高校野球連盟は、今年4月の理事会で承認された「大学及び高校野球におけるビデオ検証に関する特別規則」に基づいて運用した。
規則では、検証の対象となるプレーを定めている。例えば、「打球がファウルかフェアか」、「フライをキャッチしたかノーキャッチか」といった内容は対象となっている。一方、ストライクとボールの判定や、ハーフスイングなどに関しては対象から外れている。
ビデオ検証を求められる回数は、9イニングで各チーム1回とされている。検証の結果、判定が変わった時は1回に数えない。ただ、今夏の甲子園では、「判定が変わった場合は9イニングのうち、あと1回に限りビデオ検証を求めることができる」としている。つまり、9回までに最大で2回しか権利がない。また、試合の遅延を防ぐため、検証の時間を2分以内として、確証が得られない時は判定通りにする。
選手や監督は「プラスのルール」と歓迎
ビデオ検証が初めて適用されたのは、大会第3日の有明と立命館宇治の一戦だった。有明は7回2死一塁で盗塁を仕掛け、走者はアウトと判定された。それに対し、有明は検証を要望した。結果的には判定通りアウトとなったが、有明の高見一茂監督は「モヤモヤした気持ちが残らなくて良かったと思います」と話した。
ビデオ検証に対しては、好意的に受け止める選手や監督が多い。仙台育英の須江航監督は「ネットにさらされてしまう時代なので、審判や選手を守る上でとてもいいものだと思います。気持ちの切り替えができますし、誰にとってもプラスのルールでしかありません」と語っている。
準決勝の2試合は、ともに二塁走者へのタッチプレーでビデオ検証が求められた。どちらも最初はセーフと宣告されたが、検証によって判定はアウトに変わった。
選手の「確信」が判定を覆した準決勝
準決勝第1試合は智弁和歌山と横浜の一戦。8回無死二塁の場面で、智弁和歌山のショート・川原一将選手がゴロを捕球し、横浜の二塁ランナーにタッチした。しかし、グラブがランナーに当たっていないと判断されてセーフとなった。すかさず、川原は頭を触ってベンチを見た。智弁和歌山は、頭を触るジェスチャーがビデオ検証を求める合図となっていた。川原が語る。
「タッチした自信がありました。自分たちのチームは、ビデオ検証を要望するかどうか基本的に選手が決めます。選手がベンチに合図を送る形です。点差は開いていましたが、セーフのままだったら試合の流れが変わる可能性もありました。ビデオ検証はメリットとデメリット両方があると思いますが、納得してから試合を再開できるので、自分はメリットが大きいと感じています」
準決勝第二試合、天理と健大高崎の試合でも天理が検証を求めた。1点を追う4回2死二、三塁で、牽制に入ったショートの金本相有選手が二塁ランナーにタッチ。セーフの判定がアウトに覆った。金本は「アウトの確信がありました。二塁ランナーのリードが大きかったので狙えると思いました」と振り返った。
「回数が少ない」「ボール判定も」現場からの指摘
初めての試みである以上、何の不満や課題も出さずに運用するのは難しい。実際、こう指摘する監督もいた。
「9回までに回数が1回なのは少ない。判定が覆っているケースもあるのだから、3回は必要だと思います。人間が判断するので誤りがあるのは仕方ありません。その誤りを正す機会がなければ、モヤモヤした気持ちは解消されません」
さらに、ストライクとボールの判定についても、導入する必要性を訴えた。
「今大会でも明らかなボール球がストライクになっていました。投手の球速が上がり、変化球も多彩になっている中で、動体視力が衰えている年代が正確な判定をするのは限界があります。この暑さの中で集中力を持続するのは大変です。機械に頼った方がすべての人にとってプラスだと思います」
1球の判定で試合の流れが変わる可能性もあるからこその言及だった。
運用面の課題と、よりフェアな未来へ
運用面の課題も残った。天理と高川学園の一戦では、高川学園が打者走者の一塁アウトの判定に対して検証を要求した。だが、すでに高川学園の投球練習の準備に入っていたことなどを理由に認められなかった。規定では「速やかに球審に対してビデオ検証を求める」と記されており、要求のタイミングが遅いと判断された。早いか遅いかは、人によって感覚が異なる。明確な基準がなければ、混乱や不平等を招きかねない。
実際に運用して見えた課題もある。一方で、際どい判定を確認できる新たな取り組みに選手や監督から前向きな声が上がっているのも事実。ビデオ検証は今後改善を重ねながら、よりフェアな環境を支える欠かせない仕組みへと育っていくだろう。
📝桑田真澄は2安打完封、清原和博は公式戦初本塁打 中村順司が振り返る「KK伝説はあの試合から始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ead619478f1b8940971db9a2a631a5ee63153f1?page=1
中村順司インタビュー(前編)
高校野球史に「KK」の名を刻んだ桑田真澄と清原和博。ふたりがPL学園の門を叩いたのは1983年春のことだった。1年夏から桑田はマウンドに立ち、清原は4番を任され、やがて甲子園を席巻していく。だが、当時の監督である中村順司氏は「ふたりを特別扱いしたことはなかった」と振り返る。そこには、才能を見極めながら将来を見据えて育てる指導、1年生を支えた上級生たちの存在、そして先輩の背中から後輩へと受け継がれていくPL独自の伝統があった。1年夏の全国制覇から、3年夏の日本一、さらに立浪和義ら次世代の春夏連覇へ──。最強時代のPL学園はいかにしてつくられたのか。中村氏に聞いた。
【仲田幸司から二塁打で4番確定】
── 1983年、PL学園には桑田真澄選手、清原和博選手をはじめ、中学時代から名を知られた将来性豊かな選手が数多く入部しました。
中村 私は、中学時代の実績はできるだけ考慮せずに部員を見るようにしていました。たしかに桑田や清原をはじめ、すでに実績のある選手が多く入ってきましたが、「常にフラットな状態で全部員を見る」というスタイルを崩すことはありませんでしたね。
── その夏の大阪大会では、1年生ながら桑田選手、清原選手、田口権一選手の3人がベンチ入りしました。当時のPLとしては珍しかったのではないでしょうか。
中村 前年の選抜は、エースの榎田健一郎を軸に優勝することができました。この学年には好投手が揃っていたので、下級生投手の出番はほとんどありませんでした。1学年下にも藤本耕らいい投手がいましたが、故障や調子が上がらない選手もいた。それで夏は、桑田や田口といった1年生投手もベンチに入れて、総力戦でいこうと考えました。
── 清原選手も中学時代は投手だったそうですね。
中村 岸和田シニアではエースで4番として全国大会でも活躍していましたから、本人にも投手を続けたいという気持ちはあったと思います。ただ、桑田や田口といった好投手がいた。それ以上に、清原の長打力がずば抜けていました。ですから、早い段階で野手として試合に出ることになりました。
── 入学直後から4番だったわけではなかった?
中村 いきなりスタメンで使ったわけでも、すぐに4番に据えたわけでもないんです。それで入学してしばらく経った頃、興南(沖縄)との練習試合があったんです。その試合で、当時「屈指の左腕」と言われていた仲田幸司くんから、清原が左中間へ痛烈な二塁打を打った。あの一打で、「4番でいこう」と決めました。
── そしてPL史上初めて、1年夏から4番を打つことになります。
中村 とにかく飛距離が抜群でした。「あそこまで飛ばす選手は清原しかいない」と、みんなが認める存在でした。飛ばす力に関しては、やはり別格でした。
【公式戦初先発で2安打完封】
── 一方、桑田選手の公式戦初先発は大阪大会4回戦の吹田戦でした。
中村 大阪球場での試合でした。前日、桑田に「大阪球場で投げたことあるか?」と聞いたら、「はい、あります」と言うので、「そうか。じゃあ、明日先発でいくぞ」と言って送り出しました。
── その試合で、桑田選手は2安打完封。そして清原が公式戦初本塁打を放ちました。1983年7月26日は「KK伝説」の始まりとも言える試合です。
中村 あの時に印象に残っているのは、主将の朝山憲重を中心とした上級生の姿です。1年生が伸び伸びとプレーできるよう、非常に気を配っていました。先発する桑田にも余計なプレッシャーを与えないように、「試合が始まるまでは、あえて声をかけないようにしよう」という感じでしたね。桑田や清原だけでなく、上級生がああいう空気をつくってくれたことが大きかったと思います。
── 吹田戦以降、投手陣の軸を桑田に移したのでしょうか。
中村 いや、まだ1年生ですから、無理をさせないことを第一に考えていました。将来のある高校生と向き合う以上、目先の勝利だけではいけない。バランスのいい体の使い方や、体の機能を考えながら指導することが大切だと思っていました。藤本をはじめ上級生にもいい投手がいましたから、桑田はリリーフに回しました。誰かひとりに負担をかけるのではなく、全員ができるだけいい状態で投げられるようにしたかったんです。
【3連覇を目指す池田に圧勝】
── 甲子園でも勝ち進み、準決勝では3季連続優勝を狙う池田(徳島)と対戦します。「やまびこ打線」を擁する池田が圧倒的有利と見られていました。
中村 私が考えたのは、「どうすれば選手たちを互角の気持ちでグラウンドに立たせられるか」ということでした。前日のミーティングで、選手たちにこう言いました。「実力的には6対4で向こうが上だ。しかし、君たちが気持ちを高め、一致団結すれば五分五分になる。勝負はどちらに転ぶかわからない」と。それともうひとつ、全力で挑んで試合に負けたとしても、「池田は強かった」「水野くんの球はすごかった」とは絶対に言うなと伝えました。戦う前から相手を必要以上に大きく見てほしくなかったんです。
── 水野雄仁投手の攻略については、どんな指示を出したのでしょうか。
中村 春の選抜を見ていて感じたことがありました。水野くんのような球威のある速球を逆方向へ流し打ちしようとすると、バットのヘッドが下がってしまう。それなら「内角のボールを思い切って引っ張ろう」と伝えました。
── その狙いが的中し、桑田選手、住田弘行選手、小島一晃選手の下位打線3人から本塁打が飛び出しました。
中村 普段から、私が感じたことをできるだけわかりやすく、簡潔に伝えることを大切にしていました。それと、試合後のことですが、池田の蔦文也監督から「PLには優勝してほしい」と言っていただいたんです。3連覇を逃した直後ですよ。それでも相手を称える。あの姿勢には本当に感銘を受けました。
── その池田戦では、清原選手は無安打でした。
中村 清原は甲子園に入ってから神経性の下痢もあって、本来の力を出せていませんでした。ただ、ライト前に落ちるポテンヒットをきっかけに少しずつ調子を取り戻し、池田戦を迎えていました。池田も「4番の1年生を徹底的にマークしよう」と考えていたようです。あの試合では結果が出ませんでしたが、清原は引きずらなかった。翌日の横浜商との決勝では、好投手の三浦将明くんから逆方向へ甲子園初本塁打を放ちました。そういう切り替えのできるところも、清原の強さだったと思います。
📝「KK最後の夏」が次の黄金時代をつくった 中村順司が語る、桑田真澄・清原和博から立浪和義らへ受け継がれたもの
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/08/21/kk/?utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2026%2F08%2F21%2F_kk%2F&utm_medium=referral&utm_source=news.yahoo.co.jp
中村順司インタビュー(後編)
1年夏に全国制覇を果たした桑田真澄、清原和博らのPL学園は、その瞬間、「追う立場」から「追われる立場」へと変わった。そしてふたりが3年生となった1985年、周囲から向けられたのは「勝って当然」という厳しい視線だった。しかし、春の選抜では伊野商の渡辺智男の前に屈し、準決勝で敗退。その夜から、清原はひとり室内練習場でバットを振り込み、桑田は夏まで驚くほどの走り込みを続けた。その姿を間近で見ていたのが、1年生だった立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史ら、のちにPLの黄金時代を担う選手たちだった。最後の夏の全国制覇と、その先へ受け継がれていった「PLの強さ」を、元監督の中村順司氏が振り返る。
【KKだけではない個性派軍団】
── 1年夏に全国制覇を果たし、桑田選手、清原選手が最上級生となった1985年は、「勝って当然」という目で見られるチームになりました。
中村 ただ、私自身は「自分たちは強い」と思って戦ったことは一度もありません。高校野球は何が起きるかわからない。それを教えてくれたのが、1年夏の池田戦でした。圧倒的に不利と言われた試合でも勝つことができた。ということは、逆のことだって起こるわけです。周囲から「勝って当然」と言われても、そんな簡単なものではないと思っていました。
── 最上級生のチームでは、松山秀明選手が主将を務めました。
中村 松山は兄貴分肌で、チームをよくまとめてくれました。選手はそれぞれ個性が強く、普段の考え方も違います。ただ、野球になれば全員が「自分は何をしなければいけないのか」をよく理解していた。そういう集団を松山がひとつにまとめてくれました。
── 投手陣には桑田だけでなく、左腕の小林克也選手、大型右腕の田口権一投手もいました。
中村 小林は縦のカーブがよかったですし、長身の田口はボールに角度がありました。桑田とはタイプの違う投手がいたことも大きかったですね。勝負どころでは桑田でいきましたが、練習試合などではひとりの投手に無理をさせないようにしていました。
── 野手陣も個性的でした。
中村 捕手は、打力があり、リードも攻撃的な杉本隆雄と、視野が広く、投手と献身的に向き合う今久留主成幸。それぞれ違ったよさがありました。内野では、強肩でフットワークのいい遊撃手・安本政弘が守備の要でした。清原は打撃ばかり注目されましたけど、一塁の守備もうまかったですよ。
三塁手の笹岡伸好は、派手さはありませんがしぶとい打者でしたし、松山も夏には3番を打つまでに成長しました。外野では黒木泰典が打撃センスのある選手でした。パンチ力があって左右に打ち分けることもできる。内匠政博は足が速く、肩も強くて、守備範囲が広かった。本間俊匠も俊足で勝負強かったですね。
【受け継がれたPLの強さ】
── 春の選抜では決勝進出を逃しました。準決勝で伊野商の渡辺智男投手に抑えられた試合です。
中村 渡辺くんは、私が高校野球で対戦した投手のなかでも、松坂大輔くん、水野雄仁くんと並んですばらしいと感じた投手のひとりです。清原は3三振でした。その日の夜からですよ。室内練習場で、最速に設定したピッチングマシンを相手に、遅くまでひとりで打ち込むようになったんです。桑田も伊野商に負けた日から夏まで、驚くほど走り込みました。
── 春の敗戦がふたりを、さらに変えたと。
中村 そう思います。清原はバットを振り、桑田は走る。もちろん彼らだけではありません。3年生全員が「夏は絶対に優勝するんだ」という強い気持ちを持っていました。だからこそ、夏の宇部商との決勝であれだけの試合をして、日本一になれたのだと思います。
── その姿を、後輩たちも見ていました。
中村 そうなんです。その年に入学してきたのが、立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史らでした。入学していきなり、桑田や清原の練習を目の当たりにするわけです。あとになって彼らから聞きました。「寮に戻ってきた桑田さんを見て、雨が降ってきたのかと思った」と。それくらい汗びっしょりになるまで走っていたというんです。
そういう先輩たちの姿を見て、自分たちはもっとやらなければならないと思って練習する。立浪たちの代もほんとによく練習してきた。その積み重ねが、2年後の春夏連覇につながっていったのではないでしょうか。
── 桑田選手、清原選手と過ごした3年間を、今あらためてどう振り返りますか。
中村 もちろん、桑田、清原だけではありません。本当に練習熱心な選手が揃っていました。私は監督として、ずっと「勝てば選手の力、負ければ監督の責任」という考えで選手たちと向き合ってきました。1年夏に全国制覇したことで、彼らは高校生活のほとんどを「追われる立場」で過ごすことになった。周囲から勝って当然と思われるプレッシャーも相当あったでしょう。
それでも最後の夏にもう一度、頂点までたどり着いた。それは、松山主将を中心に、選手一人ひとりが自分の役割を理解し、日々努力を重ねた結果です。そして、その姿を次の世代が見ていた。先輩の背中を見て、後輩が育っていく。そうやってPLの野球が受け継がれていったのだと思います。
📝走り込みをやめ「ボディビル大会」を開催!? 仙台育英には初「女子部員」も…これが令和の高校野球!
https://news.yahoo.co.jp/articles/6919aef16dddfe836bbeb7a405c885f084958836
有望中学生の進学先が数年後の勢力図を占い、スカウティングの勝者が甲子園を制するのが令和の高校野球だ。
「このままでは高校野球が衰退する」(高知・明徳義塾、馬淵史郎監督)
過熱する高校野球のスカウティングに警鐘を鳴らす。令和の時代の中学生は、甲子園への行きやすさだけでなく、自分が一番成長できる環境であるかどうかで、進学先を選択する。グラウンドの広さや室内練習場の有無、トレーニング器具の充実度に加え、寮が何人部屋であるかも重要な要素だ。
走り込みよりサウナ
恵まれた環境の学校もあれば、西東京大会を制した八王子実践のように、内野ほどのグラウンドしかない野球部もある。同校の部長・恩田宣男(60)は言う。
「(強豪の)女子バレーボール部とは違って野球部は強化指定の部活動ではありませんし、練習も2時間しかできない。外野ノックもままなりませんし、平日は個人練習しかできません。全体練習や実戦練習は週末、私が運転するバスで出かけた遠征先でやります」
監督である河本ロバート(40)は同校を卒業後、亜細亜大を経て、ドジャースとマイナー契約を結び、帰国後も独立リーグを経験したジャーニーマンだ。ロバートは、ユニークな手法で強化を図った。
「(投手出身の)ロバートは走り込みが大嫌い。練習で選手を走らせるにしても短い距離のダッシュぐらい。夏のスタミナ対策は、サウナに入って毛穴を広げて血流量を上げたり……要するに根性論ではない形でやっています」(恩田)
選手たちから「ロバートさん」と呼ばれ親しまれる監督は、主に冬場、ウエイトトレーニングを選手に課し、とりわけ筋トレの「BIG3」と呼ばれるベンチプレス、スクワット、デッドリフトの重量に目標基準を設けている。昨冬には成果発表の場としてボディビル大会を実施した。ロバートがその狙いを語る。
「トレーニング意識を高め、人に見られるということも体感してもらいたかった。そのボディビル大会で一番輝いていたのが、金子でした」
昨秋までベンチ外だった金子侑樹はBIG3の数値がチーム1を記録し、最後の夏にベンチ入りを果たす。甲子園の初陣となる鳴門渦潮(徳島)戦では0対1で迎えた9回に代打で登場。同点打を放って、勝負をタイブレークにまで持ち込んだ。努力は裏切らないことを監督に、そして仲間に証明してみせた。
「身体がものすごく強いので。思い切り振らなくても打球は飛ぶ。『コンパクトに』とだけ伝えたところ、(逆方向となる)右中間に打ってくれました」
能力を数値化してアナライズ
この夏、開幕戦に登場し、甲子園に爽やかな風を吹き込んだのが、仙台育英の女子マネージャー兼学生コーチである星よつはだ。初戦から選手と同じユニフォームを着てベンチ入りしたが、役割は記録員にとどまらない。
「試合中に相手投手の配球の特徴などを打席に向かう選手たちに伝えています。相手の投手が交代したら、『前のピッチャーより○△km/h速いよ』とか……須江監督(43)に質問されても答えられるように備えています」
巨人や西武でプレーした孝典さんを父に持ち、父と同じ高校に進学し、同校史上初の女子部員として入部を果たした。父も立った甲子園を仲間と共に目指し、時には選手に嫌われるようなことも口にしなければならない。
高校時代にGMの経験を持ち、情報科の教師である須江は、野球の能力を数値化してアナライズ(分析する)ことに長け、それを″日本一の競争″と自負する部内競争に生かしてきた。そういうアナリストの役目も星は担う。
「投手ならストライク率や防御率など基本的な数字を出すのは自分の仕事ですし、打者なら打率、出塁率に加えて、須江監督は助進塁率を大事にされています。要は走者の進塁を助ける打撃ができたかどうか、ですね。日本一の競争において、こうした数値は評価を視覚化、可視化できる手段だと思います」
卒業後のことや将来の職業については今のところ考えていない。’22年夏以来2度目の甲子園制覇を果たすことしか彼女の頭の中にはなかった。
これが令和時代の高校野球だ。莫大な資金を投入してグラウンドや室内練習場を整え、一人部屋の寮を完備する学校も増えてきた。移りゆく時代によって高校球児の練習法や寮生活、戦術も多様に変化を遂げている。
⚾SHIONOMISAKIさんへ
そうなんですね。綾部は・・・舞鶴に2度観光に行った帰りしなに電車で通ったくらいですが。。。。。福知山球場には2度ほど足を運びましたが、今回限りになると思いますが僕も天気に問題なければ行く予定です!
しかし、天理・和智弁が3位となれば。。。10月3~6日まで青森国体行かなアカンし、県大会最終盤とかち合うので大変ですね!