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宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

編集済
💢関西六大学リーグの龍谷大が活動停止 詳細は27日説明 リーグV通算29度の強豪
https://news.yahoo.co.jp/articles/6cf8a9e6aefbb9e4fb0637b697c8d92f2dce116c

関西六大学野球リーグの龍谷大は26日、事案が発生した硬式野球部について学内調査を行った結果、今月5日に学内規程に沿って指導を実施し、活動停止処分としたことを発表した。詳細は27日に説明するとした。

📝令和8年度秋季近畿地区高等学校野球滋賀県大会組み合わせ表
http://www.biwa.ne.jp/~shigafed/pdf/R08_at_koushikiyama.pdf

📝持丸修一 78歳名将の高校野球論
私の流され続けた半世紀 野球との出会い、指導者になった経緯を赤裸々に語る
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/392011

今夏の甲子園をテレビで眺めながら、ふと気づきました。40歳になる頃まで、私は夏の甲子園を見るのが嫌だったんです。自分のチームはとっくに県大会で敗退している。「早く大会が終わってくれ」「絶対に見るものか」と思いながらも、やはり試合の行方は気になります。複雑な胸中で観戦していました。それが今では、ずいぶんと気持ちの切り替えが上手になったものです。
そんな昔を振り返っているうちに、これだけコラムを重ねながら、そもそも私が高校野球に携わるようになった経緯を書いていなかったことを思い出しました。今回は、その話をさせてください。

物心が付いた頃から、野球は身近な存在でした。昔はほかに遊びらしい遊びもありませんから、近所の子たちと毎日のように神社の境内で球を追いかけていました。小学校高学年でソフトボールのチームに入ったのは、遊び仲間で幼なじみの斉藤に誘われたのがきっかけです。彼とはその後も深い縁が続くので、ここでは名前を出すことにします。一緒に進んだ藤代中でも、斉藤に連れられるように野球部へ入りました。当時の部員は、私と彼を含め、ほとんどが竜ケ崎一高へ進学。しかし、私は高校でも野球を続けるかどうか迷っていたんです。その時も、斉藤から熱心に誘われたように記憶しています。

私は流されやすいところがあるというか、結局、そのまま野球部に入りました。当時は茨城と千葉を合わせて、甲子園への出場枠はわずか1校。しかも、千葉の高校野球が全盛期を迎えていましたから、私たちは甲子園を目指せるような立場ではありませんでした。ところが、中学に続いて主将を務めた斉藤のリーダーシップに引っ張られ、まさかの甲子園出場を果たしたのです(1966年夏)。私は二塁手として聖地の土を踏んだものの、あまりにも思いがけない出来事だったからか、「やり遂げた」という達成感は大してなく、当時の印象もほとんど残っていないんですよ。

高校卒業後、斉藤は東京六大学へ、私は国学院大へ進みました。上京して過ごした大学時代、転機が訪れたのは3年の冬です。これといった夢や目標はなく、就職についてもぼんやりとしか考えていませんでした。まだ米国統治下にあった沖縄の新聞社の方とご縁があり、「沖縄で記者として働くのも楽しそうだな」と、うっすら思い描いていた程度です。そんな折、竜ケ崎一高の恩師である菅原監督から、「こっちを手伝ってくれないか」と声をかけられた。時代が時代ですから、監督の言うことは絶対です。引き受けるかどうか、迷う余地すらなかったような気がします。

菅原監督はいわゆる「職業監督」でした。一方、これから公立校で野球に携わるのなら、教員免許を持っていた方がいい--。周囲からそう助言され、大学4年になって慌てて必要な科目を履修し始めました。夕方になると渋谷のキャンパスから電車で竜ケ崎一高へ向かい、野球部の指導を手伝う。卒業後も1年間、聴講生として大学に通いながら、同じような生活を続けました。
そうして晴れて教員免許を取得し、茨城県の教員採用試験を経て竜ケ崎一高に赴任。引き続きコーチとして菅原監督を支え、27歳になる年に監督のバトンを渡されました。

自分から望んで、この道を歩もうとしたことは一度もありません。周囲に導かれ、流され続けて半世紀余り。いや、ソフトボールを始めた時から考えると……。数え切れないほどの思い出がありますが、振り返ってみると、うれしさや悔しさ以上に、「どうしてこうなったのだろう」という不思議さが一番大きいです。

一方、斉藤とはその後どうなったか? 別々の大学に進んでから今日に至るまで、しょっちゅう顔を合わせています。

📝広島“普通の公立校”が監督就任「わずか100日」で甲子園出場の衝撃…「県ベスト16が最高成績」だった中堅校を覚醒させた“異色の名将”とは何者か?
https://news.yahoo.co.jp/articles/34e1007c0347fae99a6f4344e5d20940972de162

熱戦が続く夏の甲子園。今大会で「最大のサプライズ」のひとつと言われるのが広島・市立福山の出場である。過去最高成績は県ベスト16、数年前には部員不足で連合チームだった「普通の公立校の野球部」は、なぜ大舞台に辿り着いたのか。4カ月前に就任したばかりの名伯楽の手腕に迫った。

甲子園出場となると、なにかと話題になる公立校のなかにも個性が映し出される。福岡代表の東筑は、初戦の相手が強豪・神村学園だったこともあり、甲子園に入ってからは勉強を控え野球に切り替えた選手が多かった。

「普通の公立校」が広島から甲子園へ
 
一方で、広島の市立福山はそうではないらしい。監督の小田浩が、選手たちの「いつも通り」をこのように教えてくれた。

「福山駅で壮行式をしていただいてから新幹線に乗って、席に座った途端、子供たちがバーッて参考書とかを開いて勉強していましたよ。宿舎でも全員が集まって勉強することはないんですけど、各自で毎日やっているんじゃないですかね」

そんな「普通の公立校」が全国に轟かせたビッグサプライズ。これまでの夏の最高成績は広島県ベスト16。小田はこの実績のないチームを、監督に就任してから4カ月足らずで頂点まで導いたのだ。

「ベンチャー企業が老舗の大手に挑むようなもんでしたからね。そんななかでここまで来てしまいました」

 小田がただモノではないことは、彼の野球人生をたどっていくうちに理解できる。

まず、重要なことは小田が甲子園を熟知している、ということだ。高校は名門・広島商の出身。1982年にはセカンドとして全国準優勝を経験した。順天堂大学を経て89年に西条農の監督となると、2年後の91年夏に早くもチームを甲子園へと導いている。ただ、現役時代の広島商は6度の日本一と言わずもがなだが、西条農も小田が監督に就任する前年の88年にセンバツに出ていたように、すでに両者には甲子園という下地があった。それがない、まったくのゼロベースのチームを作り上げるうえでの原点となったのが、2005年に就任した総合技術での監督時代である。

開校直後の公立校に赴任…「3年後、どうなりたい?」
 
同年に開校したばかりのチームを任された小田が最初に着手したのは、現実を植え付けさせることだったという。野球部1期生に小田が「3年後、どうなりたい?」と問うた。
すると彼らは「甲子園に行きたい」と答えた。「周りの高校と自分たちを比べてどう思う?」と問い詰める。すると「正直、1回は勝ちたいです」と、選手たちは本音を打ち明けた。ここでようやく、小田が現実を説く。

「『1回は勝ちたい』と簡単に言うけど、100チームあったら上位半分に入るってことなんだよ。初戦の相手だって下から2番目の高校と当たるかもしれないし、トップ10の高校と対戦するかもしれない。そう考えたら、1回勝つって大変なことじゃない。でもね、そこを乗り越えたら、今度は25校に入れる。3つ勝てばベスト8だって見えてくるよね」

1勝の重みと勝利の積み重ねを丁寧に説明していく。「そうしていくと、子供たちの顔色が変わってきたんですよ」と、小田が20年以上も前の情景を、昨日のことのように語る。小田の指導法は、当時としては異色のものだった。

📝「もしも君たちが優勝したら…」広島“普通の公立校”がなぜ甲子園に? 前職は校長先生…4月に就任「異端の名将」が部員に伝えた“魔法の言葉”
https://news.yahoo.co.jp/articles/ade8915a720903af32ac086faeeaf2589b09bb93

「サプライズ出場」市立福山を率いる名将の転機
 
これまでの夏の最高成績は広島県ベスト16ながら、今夏、初の甲子園に辿り着いた市立福山。チームを率いる小田浩監督にとって転機になったのが、2005年に赴任した総合技術での経験だったという。
同年に開校したばかりの当時の総合技術のようなチームであれば、基礎を叩きこむなかでバントなどの確実性の高い小技を磨く、「弱者の兵法」を実践するケースが多い。

だが、小田は「課題を細かくつぶしていくのではなくて、スケール感をイメージしながら育成を進めた」と言う。例えばバント。3回失敗すればアウトになるため「1球で成功させる」が鉄則だ。小田の思考法は違う。

「ストライクがひとつ増えただけ、という認識です。むしろ『ピッチャーに1球でも多く投げさせた』『チャージをかけたピッチャーやファースト、サードを走らせた』と、プラスに考えさせるようにしたんです」

そこには小田の原体験も介在している。高校時代は“広商野球”と言われるほど、小技は広島商の専売特許だった。
普段の練習でも「100回成功しなければ終われない」といったように厳しいノルマを課せられていた。だが、それだけやっても試合で常に「成功率10割」を体現できるわけではない。それを小田は知っている。

「確率論を求めると、コストパフォーマンスが非常に悪いんです。なので『失敗できない』という、自分を追い込んでしまうようなマイナス要素を取り除かせたんです」

小田がチームに根付かせたスケール感は、就任3年目に発揮される。2007年の夏、総合技術は広島大会の決勝まで勝ち進み、エースの野村祐輔を擁した広陵に3-4と善戦。翌年も決勝でこの強豪相手に10-12と打撃戦を演じてみせた。そして、さらに3年後の11年のセンバツで、悲願の甲子園出場を達成したのである。
本来ならば小田の「甲子園への道」は、総合技術で区切りとなっていたはずだった。同年夏の県大会をもって監督を退任し、県内の高校で校長などの管理職業務に専念することにしたからだ。

校長職を歴任も…突然の監督就任要請
 
公立校の校長職を歴任していた小田の、監督としての運命が再び動き出したのが、昨年のことだった。実績のある小田に市立福山の監督就任を要請したのは福山市だったという。

「小田先生なら安心して任せられますし、市民も納得してくれるでしょうから、どうしても監督を引き受けていただきたいんです」

当時は竹原高の校長を務めていたこともあり逡巡したが、「人生100年時代。もう1回、野球を楽しもうか」と、最終的に腹をくくった。当時の市立福山は、19年の秋に連合チームとしての出場を余儀なくされるなど窮状もあった。広島商や広島新庄を指揮して甲子園出場経験もある迫田守昭が22年に同校の監督となり、選手たちには根本的な野球の基礎は出来上がっている。昨夏に迫田の体調不良に伴い後任となった長門功も、ベースをしっかりと引き継いでくれていた。あとは成功体験を与えるだけだった。

「それでも、夏は30年くらいで8勝しかできていなかった。私が監督になってすぐ練習試合で5連敗くらいしましたし、春の県大会なんか2回戦でコールド負けですからね。でも、私のなかでは焦りがなかったというか、総合技術の経験が生きていたんですね」

そう、それこそが小田が実践してきたスケール感の再現だった。ポジティブ思考のバントのように、エースの来山凌也からマイナス要素をそぎ落とす。

「誰だって100球中100球を狙ったコースに投げられないんだから。厳しいコースを狙ったけど『甘く入って打たれました』じゃなくて、真ん中に投げても打たれない投球術を身につけることを考えたほうがいい」

「もしも君たちが優勝したら…」
 
そして、総合技術時代に説いた「1勝の重み」を、市立福山ではこのような表現に変え、選手たちをその気にさせていくのだ。

「もしも夏に君たちが優勝したら、福山市も広島県もひっくり返るだろうね。でも、世間がびっくりしても俺は驚かないよ」

甲子園を知る監督に“魔法”をかけられたチームは、6月に入るころには試合で負けないようになった。そのなかには広島でベスト8やベスト4に入るチームも多く、甲子園出場経験のある高校にも勝てるようになった。キャプテンの渡辺雄介が、チームの変化をこのように実感する。

「とにかくメンタル面は変わりました。夏まで3カ月という短い期間で変えられるとすれば『考え方だ』と、監督からはずっと言われてきて。野球のプレーにしても予測とアプローチの仕方を『複数持つようにしよう』とか言ってもらえたので、行動パターンが増えて実行にも移せるようになりました」

キャプテンが先頭に立ち「福山市を驚かせてやろう」と合言葉を口に出し続けたチームは、本当に夏の広島をひっくり返した。勝利は、言霊がもたらした。
「俺は驚かないよ」と、小田は言った。市立福山の勝利は、まさに必然だったのである。

「普通の公立校」の躍進は続くか?
 
広島のみならず全国に衝撃を与えた「普通の公立校」は、甲子園の初戦で天理と対戦する。日本一3度を誇る名門である。人は「予選での勢いを甲子園でも」と、快進撃を望むだろう。だが、小田はここでも達観する。

「甘い舞台ではないことはよく知っていますんで。『初出場らしく、のびのびと』なんてモードでは戦いません。打ちのめされてもいいから力勝負に挑む。それが裏目に出て力を発揮できないのも覚悟の上です。リスクを取ってでも勝負をしなくてはいけない場所ですからね、甲子園は……というカツを入れるミーティングも、意図的にしてきました」

激戦広島で公立3校を甲子園へと導いた名将。魔法はすでに唱えてある。市立福山。すでに戦闘態勢に入っている。

📝日本一人口が減る県」で…普通の公立校が「部員47人」で“57年ぶり甲子園”のナゼ「髪型は覚悟の丸刈り」「練習から1球にこだわる」横手高の秘密とは
https://news.yahoo.co.jp/articles/8e8aec460a0f345618c3ed5abcb80a2045b769e0

熱戦続く夏の甲子園。地方大会から波乱の多かった今大会だが、秋田代表として57年ぶりの甲子園を決めたのが横手高校だ。人口減が社会問題化しつつある地域で、なぜ普通の公立校が多くの部員を擁し、躍進できたのか。その理由を聞いた。

秋田県の課題、人口減少。総務省が発表する人口動態調査によれば、今年1月1日時点での秋田県の人口減少率1.88は全国でワーストであり、人数にすると1年間で1万7069人が減った。近年「日本で最も人口が減り続けている地域」。それが秋田だ。

人口減が課題の県で…多くの部員が在籍
 
県内で2番目の約7万5000人が暮らす横手市も人口は減っているが、知り合いの市職員に聞くと「うちだけが過疎化なわけじゃないですからね」とくぎを刺されてしまった。
現在、横手市はJR横手駅周辺の再開発に着手し、賑わいを取り戻そうと努めている。そして今年7月には、バスケットボールコート4面もの広さを誇るIRISOアリーナ横手(横手市立体育館)が開館と、スポーツの文化も根付いているのだ。

横手高校も例外ではない。少子高齢化の現代において子供は減る一方。高校野球の加盟校も減少に歯止めがかからず、逆に連合チームが増える。皮肉な現状において、横手野球部は3人の女子マネージャーを含め47人もの部員が在籍する。

「人口が少なくなっているなかで『勉強も野球部でも頑張りたい』っていう地元の子が、うちを選んできてくれるんです」

監督の山信田善宣がしみじみ語る。 地元の公立進学校。野球部の生徒は国公立をはじめとする大学進学を目指す。なかには遠征に向かう途中でも勉強する選手もいるほど、文武両道を地で行く。そのことを示す決意表明が、丸刈りらしい。

「私自身、髪型は『こうでなきゃいけない』というのはないんですが、みんなが『野球も勉強もやりきる』って覚悟を、なにかの形として表現したいんでしょうね」

今年の春から授業1コマあたりの時間が5分短縮されたことで、30分は練習時間が増えた。山信田も「それだけあればやりたいことができるかな?」と、好意的に受け止める。とはいっても、19時までには全体練習を終えなければならず、野球をする環境として恵まれているわけではない。

時間、練習環境には制限…「1球」へのこだわり
 
限られた時間のなか、山信田は「1球」にこだわる。そのため、練習ではグラウンドを歩き回り、打球や打席のコースが見やすい場所に陣取っては、1球ごとに選手たちとコミュニケーションを図る。
実戦形式のシートバッティングがわかりやすい。バッターには、空振りを誘発する高めの釣り球や低めの変化球を振らない「見切り」を徹底させる。バットを「振るべきボール」と「振るべきではないボール」の線引きがズレれば、山信田からの指摘が飛ぶ。ピッチャーならば、投じたボールが「今のカウントでその球種は正解だったのか?」。守備であれば「この場面でのポジショニング、動きはどうだったか?」といった具合で監督が細かく投げかけ、選手に答えさせる。山信田が狙いを解説する。

「練習試合ならシーズン中は週末に必ずやりますから、そこで打席やピッチング、守備・走塁がどうだったか? そういう振り返りを常々やっています。結果というのは、その先にあると思っていますんで」

山信田が見据える「その先」が実を結んだのが、今年の夏だった。2026年の秋田は、例年になく荒れた。

                 <次回へつづく>

📝センスねぇな…」監督が“チーム打率2割3分8厘”を誇るワケは? 秋田“普通の公立校”が57年ぶり甲子園…指揮官は「今年だけが特別ではないんです」
https://news.yahoo.co.jp/articles/28a099939a5e5193a2b819995e775ff2d4b2c78b?page=1

2026年の秋田は、例年になく荒れた。春の優勝校で第1シードの秋田商、第2シードの鹿角、そして16回の甲子園出場を誇る私学の強豪・ノースアジア大明桜と、有力校が初戦で姿を消したのである。

大荒れの秋田大会…初戦で金足農を撃破
 
大荒れの幕開けとなった大会で、第6シードの横手は地に足ついた戦いを披露した。初戦の金足農戦から持ち味を発揮する。1点を追う4回、昨夏の甲子園でマウンドを経験した斎藤遼夢のボールを見極めたことで、暴投を誘うなど逆転に成功。タイムリーヒット0本ながら3-1と夏の初陣を飾った。この勝利は、山信田善宣監督も「日頃の成果を出せた」と評価するほどだった。

「ヒットが出ればいいですけど、出なくても点が取れるのが理想と言いますか。選手たちが打席の中でカウントからいろんなことを考えて、意図を持った選択をしてくれたことが、ああいう結果を生んだんだと思います」

秋田大会では全5試合に登板して4完投と、マウンドに君臨したエース・佐藤宙斗は紛れもないチームの殊勲者だ。ただ、真の支えとなったのは、金足農戦で見せたような「数字に見えない記録」の積み重ねだった。山信田がチーム打率2割3分8厘を誇る。

「フォアボールがヒットと同じ価値があるように、単純に目に見える数字だけが結果とイコールではないと言いますか。チームは本当に1球に集中してくれましたし、一戦必勝で戦ってくれたと思います」

横手は波乱含みの秋田を駆け上がり、実に57年ぶりの甲子園出場を決めた。1球の重要性を体現する野球で得た勝利。普段の練習から選手とのコミュニケーションを大切にしてきたからこその結果だった。山信田が言う。

「『やらされる練習から脱却しなきゃダメだよ』という話を常々してきています。子供たちの意向でメニューを組むこともあるんですけど、そのことによって練習の理解度が上がるといいますか。それは、ここに来る前の学校でもテーマにしていたんです」

甲子園までの道は、山信田が指揮を執ってきた公立校での経験なくしては語れない。これまで能代西(現・能代科学技術)、大曲農太田分校、湯沢で監督をしてきたが、いずれも部員数に恵まれている高校ではなかった。特に湯沢に赴任した初年度は、2学年で11人しかいなかったという。

「当時は『人数が増えれば勝てる』と思っていたんですけど、そこから実際に部員が増えても勝てなかったんです」

部員は増えたのに勝てない…なぜ?
 
どうすれば勝てるんだろう――監督として頭を悩ませていた2020年、山信田は秋田県の教育委員会が設置する、高校野球の強化担当の職に就くこととなった。
仕事柄、多くの高校野球の現場に足を運ぶ。グラウンドへ行くと、選手たちは明るい表情で挨拶し、はきはきと受け答えをしてくれる。ところが、チームの監督の前では「はい! はい!」と硬い表情で通り一辺倒の返事しかしない。そんな場面に出くわすことが少なくなかった。山信田が省みる。

「そういう光景を見て『自分が見ていたチームはどうだったのかな? 』と思いまして。子供たちは、指導者である私たちをどう見ているのか? 練習をどのように捉えて取り組んでくれているのか? そういったことを考えると、我々と選手との関係性というのは本当に大事なんだな、と痛感させられました」

22年に横手の監督として再び現場に復帰すると、山信田の指導者としての在り方にも変化が見えるようになった。わかりやすく言えば、それまでの「指示型」から「対話型」に変わったのである。練習中の選手との「答え合わせ」などのコミュニケーションがまさにそれである。

甲子園は驚かれるが…むしろ「もっと早く実現できた」
 
だからといって、今年の甲子園出場が必然だったと、山信田は思わない。むしろ「なんでもっと早く実現できなかったんだろう」と、嘆く自分がいるくらいだと苦笑する。

「私のなかでは、ここに来てから毎年、自信を持って夏に臨んできたんです。いい選手、いいスタッフに恵まれているのに、チームを勝たせてあげられなかった。『もう、センスねぇなぁ』って思っているくらいで。失敗だらけの指導者人生ですから。なので、今年だけが特別ではないんですよ」

失敗だらけの指導者人生。人は失敗するから学び、強くなる。少なくとも山信田は、それを実践できた。だから、勝てたのである。弱き者が、強き者へ挑む甲子園。山信田にふさわしい舞台ではないか。初戦の相手は敦賀気比。甲子園優勝を経験する、全国的な強豪である。

「相手は格上ですけど、指導者として簡単には負けられないので。考えられることはすべてやって、選手にかけられる言葉はすべてかけて。勝つための努力をしていきます」

秋田には、強敵に屈しない精神がある。あの夏がそうだった。2018年。格下と目されていた公立の農業高校が成し遂げた準優勝の記憶、日本中を巻き込んだ「金農旋風」――。
横手にも、その資質は十分にある。
2026/08/26(水) 22時29分54秒 No.2587 編集 削除