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⚾今日の熱闘甲子園試合結果(3回戦)
10日目第1試合 岡山学芸館(岡山)-花巻東(岩手) 13:32~16:05
一二三四五六七八九十計HE
花 巻 東200001100 4140
学 芸 館000000010 180
10日目第2試合 鳴門渦潮(徳島)-霞ヶ浦(茨城) 16:36~18:06 17:33点灯 6回表から
一二三四五六七八九十計HE
鳴門渦潮000100000 170
霞 ヶ 浦01400000X 582
10日目第3試合 日南学園(宮崎)-横浜(神奈川) 18:36~20:41
一二三四五六七八九十計HE
横 浜001004005 10100
日南学園000100000 163
⚾明日の熱闘甲子園組み合わせ(11日目 3回戦)
☆ 08:00~ 高川 学園- 天 理
☆☆☆ 10:30~ 敦賀 気比-智弁和歌山
13:00~ 履 正 社- 三 重
15:30~ 拓大 紅陵-仙台 育英
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(初日 1・2回戦)
紀三井寺球場
☆☆ 09:00~ 和歌 山東-日高 中津
11:30~ 田 辺 -和歌山高専
☆ 14:00~ 海 南 - 箕 島
上富田球場
09:00~ 高 野 山-有笠貴志連
☆☆☆ 11:30~ 近大 新宮-和歌山南陵
☆ 14:00~ 南部 龍神- 耐 久
📝あのPL学園“伝説の名将”の孫が甲子園に!?「福留孝介の付き人」“PLの子”だった父が語った「最強軍団の裏側」と「親子3代で目指す甲子園」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e06aa46c8bf1356e9c98931511a21b4212affd54
今年も夏の甲子園が開幕した。春夏連続出場を果たした佐野日大(栃木)は、実は“あの”PL学園の名将の孫がキャプテンを務める。そんなサラブレッドの父が語った「親子3代で目指す甲子園」のウラ話とは?
鮮やかな放物線が目の前を通過する。一塁側スタンドで劇的すぎる勝利を見届けた中村猛安は「いやぁ、こういうことってあるんですねぇ」と、野球が織りなすシナリオの重厚さにつくづく嘆息を漏らすのである。国学院栃木との甲子園を懸けた栃木大会決勝。佐野日大は1点を追う延長10回タイブレークで、2アウト三塁から小島颯人がライトスタンドへ逆転サヨナラ2ランを放ち、春のセンバツに続いて甲子園を決めた。
殊勲者をホームベースで待ち構え、もみくちゃにしているチームメートのなかには中村盛汰もいる。16年ぶりに甲子園出場を果たした佐野日大をまとめ上げたキャプテンは、このときこそ興奮した様子だったが、試合後に家族と喜びを分かち合うころには冷静さを取り戻していたという。
あの“伝説の名将”の孫が甲子園に
夏こそ、センバツで叶えられなかった校歌を歌う。そして、今回も甲子園の舞台に立てば、このように注目されるに違いない――。
中村順司の孫。PL学園の監督としてチームを春夏計6度の日本一へと導き、甲子園通算58勝を記録する名将。桑田真澄、清原和博をはじめ数多くの名選手を育て上げた名伯楽である。
盛汰は取材などでそのことを聞かれるたびに「いろんなアドバイスをいただけるので、すごくありがたい」と殊勝なコメントを残すが、心の深層を猛安はこのように探る。
「やはり、麦倉(洋一)監督をはじめとした指導者の方たちから指導を受けて自分がいる、ということを本人もわかっているでしょうから、そこは気を遣っているとは思いますね。僕もオヤジには『監督やコーチがいるんだから』という話はするんですけど、やっぱり気になって仕方ないんでしょうね。おじいちゃんなんで孫はかわいいですから」
偉大なる父を持つ猛安だからこそわかるのだ。自分たちが中村順司の血を継ぐ以上、その宿命を受け止めるべきなのだ、と。猛安は自分を「PLの子」と言う。
1979年にPL病院で生まれた翌年に父がコーチから監督に昇格した。幼稚園、小学校、中学校が系列と、生粋の経歴をたどる。
全国の精鋭が特待生として集まるPL学園において、誰もが中学からエスカレーター式で野球部に入れるわけではない。そんななか、猛安は実力で狭き門を突破し、父とともに高校野球の道を歩むこととなった。
「監督の息子」でも…“天下のPL”に特別扱いはナシ
ほかの親子鷹と同じように、高校進学後の猛安と父は「選手と監督」以上の関りはなくなった。今では世間に広まっているPL学園の厳しい上下関係においても、「監督の息子」だからと特別扱いされなかった。
1年生が3年生部員の身の回りの世話をする伝統の“付き人制度”で、猛安は小林亮寛(元ロッテ)とともに福留孝介に付くこととなった。当時「高校ナンバーワン野手」と呼ばれた先輩は、人前で努力を見せなかったという。「だから、ユニフォームの洗濯とか楽でしたよね。泥をしっかり落とすのが靴下くらいだったんで」と、猛安は笑う。
自身がコントロールに優れた内野手だったこともあり、自主練習ではバッティングピッチャーを頼まれることもあった。そんなときは必ずアドバイスをしてくれたのだと懐かしむ。グラウンドや寮生活において、猛安は他の選手と同じように過酷な日々を過ごした。
<次回へつづく>
📝祖父はあのPL学園“伝説の名将”、父も東北の強豪監督経験者でも…「なぜ他校へ?」佐野日大主将が選んだ“脱・サラブレッドの道”と「家族LINE」秘話
https://news.yahoo.co.jp/articles/24d51a89c2a34ce78e5d2ec5834bd6371bfba941?page=1
「1年生のときは『生きるか死ぬか』みたいな生活でしたけど、僕は『平等でありたい』と思っていましたのでよかったです。先輩方は『監督の息子』として見ていたのかもしれませんけど、『お前はいいよ』みたいに雑用とかを免除されることはなかったですからね」
そう高校時代を振り返るのは、PL学園の伝説の名将・中村順司監督の息子である猛安だ。本人も最強・PL学園の野球部で汗を流し、愛息である盛汰は今夏の甲子園に佐野日大(栃木)のキャプテンとして出場する。
「PL学園監督の息子」を意識した瞬間
猛安が「PL学園監督の息子」を意識したのは、むしろグラウンド外が多かったという。教室での休み時間などにチームメートが監督への愚痴で盛り上がる。たまにはその場で調子を合わせることもあったが、本意ではなかった。ほとんどが机で寝ているふりをしながらやり過ごしていた。
「高校生ですから、いつの時代も指導者への不満みたいなものは出るじゃないですか。そういう話を聞いて、内心で『俺のオヤジなんだぞ』と思っていても言えず。そういう苦労はありましたかね」
2年秋の新チームになると、猛安は背番号を与えられた。平石洋介(元楽天)や上重聡ら下級生が多くメンバーに入っていたことからも、実力で勝ち取ったベンチ入りだったのは明白である。しかし、本人は「みんなはそう言ってくれますけど、僕はバントと守備くらいしかできませんでしたから」と謙遜する。
結局、猛安は甲子園に出場できず高校野球を終えた。「オヤジは自分にいろいろ苦労をかけたと思っているのかもしれないですね」と慮るが、その後の道を開いてくれたのも、父の存在があったからだった。
2010年からは「東北の名門校」の監督に
日大に進学できたのは、野球部の監督である鈴木博識が高校時代に父の妻――つまり猛安の母と同級生だったことがきっかけである。大学卒業後に日大東北で働けるようになったのも、鈴木の恩師である小林直喜が野球部で部長を務めていたことで声がかかった。2002年にコーチとして指導者人生をスタートさせた猛安は、10年に監督となった。
選手の個性を最大限に引き出す指導は、相手チームにとって厄介だった。福島の絶対王者と呼ばれた聖光学院が意識するライバルだったのが猛安率いる日大東北で、13年秋に県内公式戦連勝記録を「95」まで伸ばしていたチームを撃破。翌年の夏の決勝でも9回までリードし「あと一歩」まで追い詰めた。監督として甲子園の土は踏めていないが、聖光学院の監督・斎藤智也の言葉がすべてだ。
「選手たちが荒々しくプレーしていたし、監督も何をしてくるかわからない怖さがあった。あのころの日大東北は、特に脅威だったよね」
18年の夏が終わり監督を退いた猛安は、指導者として変わらずチームを支える。しかし、息子たちには自分とは違う道を歩ませた。盛汰が佐野日大に進む大きなきっかけとなったのは、兄・貫汰の影響があった。中学までは怠惰な一面があった兄が、富山の新川での寮生活を通じて変わった。朝からランニングをするなど自主練習に励む姿に触れた弟は「寮生活がしたい」と、実家を離れることを望むようになったと、父は言う。
「父親である僕が日大東北にいるのに『なんで他の高校に行くんだ』みたいに思われるかもしれないですけど、そこは息子たちの意志を尊重したというか。勉強も頑張ってもらいたかったですし、寮生活を通じて人としても成長できると思っていました」
佐野日大とPL学園の“共通点”
監督の麦倉洋一をはじめとした指導者のスタンスや野球をする環境が「合っている」と、佐野日大への進学を決めたことは正解だった。
同校のBチームは1年生にリーダーを任せ2年生が支える、独自の習慣がある。そこで下級生ながら大役を務めたのが盛汰で、キャプテンとなった今も、チームの調和や規律といった細かいところまで目が行き届くようになったのだと、猛安は感心している。
佐野日大での生活を通じ、PL学園の精神が息づいていると感じる瞬間があるのだという。盛汰が「好きな言葉」に挙げる「求道即人道」。これこそが、祖父の順司が掲げ、父も胸に刻んでいる「血」でもあるのだ。
「日大東北の野球を見たり、僕やオヤジたち家族の話を聞いて影響を受けたと思うんですけど、高校でも実践してくれていますよね。徳を積むことの大切さ。目の前のごみを拾う、道具をしっかり並べるとか、当たり前のことを浸透させていっているのかな、と。先輩がそういうことを率先してやる姿を後輩たちが学んで、佐野日大のいい伝統にしていってくれたらうれしいですよね」
サラブレッドが挑む「最後の夏」
PL学園の遺伝子を受け継ぎし佐野日大のキャプテンが甲子園に臨む。組み合わせ抽選会で引き当てた相手は聖隷クリストファー(静岡)。「大会屈指の左腕」の呼び声高い高部陸がいる難敵だ。家族のグループLINEがざわつく。盛汰から言及はなく「やっちまった」を表すスタンプだけが送られてきた。
「貫汰なんかは『選手宣誓を引け! 』みたいなメッセージをずっと送っていたり、家族間では結構、盛り上がっていたんですけどね。まあ、盛汰も覚悟を決めたんでしょう」
試合は大会2日目の第2試合。18時30分開始予定のため、ナイターとなる。カクテル光線を浴びながらのプレー経験が少ない盛汰が、父に助言を求める。
「150キロのボール、ちゃんと見えるかな」
声色に不安は感じられない。猛安は快活に、あえて荒々しく振る舞って盛汰を送り出した。
「お前なら、目をつぶってバットを振っても当たるわ!」
📝投手分業、DH制が当たり前の時代に「打って、投げて、走る」 鳴門渦潮・西村大輝という"絶滅危惧種"
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a74b01fdeaea29f164e511296c74728d1038729
投手の分業制が進む高校野球において、鳴門渦潮(徳島)のエースで3番を打つ西村大輝は、"絶滅危惧種"とも言える存在だ。
徳島大会では全5試合に先発し、マウンドを譲ったのは、わずか1イニングだけ。それも、投球制限を意識した末の苦肉の策だった。
【延長10回、128球を投げ抜き勝利】
徳島大会決勝の阿南光戦で、その1イニングを任された2年生右腕・有馬凜人はこう語る。
「まだ投球数的には余裕があったんですけど、万が一のことがあったらいけないので、7回、8回を投げる予定でした。でも、2点取られたのですぐに交代しました。甲子園のブルペンでも投げたかったんですけど、投球練習すること自体が西村さんに失礼な気がして......。今日はブルペンには行きませんでした」
西村は、徳島大会5試合で計44イニングを投げている。これは49代表校の投手のなかで最多だ。つまり、この大会で最もタフな投手と言ってもいいだろう。ちなみに、甲子園出場49代表校のうち地方大会でDH(指名打者)制を使わなかったのは、鳴門渦潮だけである。
驚くべきは、西村がマウンドだけでなく、3番打者としてもチームを牽引していることだ。徳島大会では打率.368という好成績を残した。
西東京大会を制し、甲子園初出場を決めた八王子実践との1回戦。西村は140キロを超すストレートとキレのいいスライダーを武器に、淡々とアウトを重ねていった。8回までに許したヒットはわずか3本。100球未満で完封する"マダックス"も視野に入る快投だった。8回裏の攻撃では、西村はフォアボールで出塁すると、次打者もフォアボールを選び、二塁へ進んだ。つづく5番打者がライトフライに倒れてチェンジとなったが、西村は三塁を回ってからベンチに戻っていった。
9回表のマウンドに上がるまで、ひと息入れてもおかしくない。猛暑の甲子園では、汗を拭いたり、水分を補給したりすることが推奨されている。ところが、西村はベンチに戻ってから30秒ほどで再びグラウンドへ。すぐさまマウンドに上がり、投球練習を始めた。ほかの野手がまだ守備位置についていないにもかかわらず、である。
西村は試合後、その場面についてこう振り返った。
「(全力疾走したので)息は上がっていたんですけど、慣れているので大丈夫でした」
9回表、西村は八王子実践の2番・桜泰成にライト前ヒットを許し、そこからピンチを招いて同点に追いつかれた。それでも、延長タイブレークに突入した10回表は無失点で切り抜け、その裏のサヨナラ勝ちを呼び込んだ。西村は10回を投げ抜き、投球数は128球。5安打1失点に抑え、5三振を奪う見事なピッチングだった。さらに驚かされたのは、終盤になっても140キロを超すストレートを投げ込むなど、最後まで抜群のタフさを見せつけたことだ。
【打って、投げて、走るのが野球】
179センチ、76キロの西村は、もともと上手投げだった。
「中学時代も時々(横から)投げていたんですけど、この春が終わったくらいから本格的に横から投げるようになりました。今はそれが一番ハマっていると思います。軽く投げても140キロくらい出ますし、スライダーもよく曲がるようになりました」
投球フォームを変えたことで、思わぬ効果も生まれた。
「体全体を使って投げるようになって、逆に体力の消耗が減りました」
この春から導入されたDH制を試し、西村も投手に専念したことがあったという。
「DHを使って、ピッチングだけしたこともあるんですけど、今の形が一番いいですね。投げるだけなら体力的には楽ですけど、僕は打つことも好きなので、両方やらせてもらっています。やっぱり、打って、投げて、走るのが野球だと思います」
バッテリーを組む捕手の西岡大誠は、西村について次のように語る。
「下級生の頃は精神的にまだまだというか、ピンチになると焦って、フォアボールということもありました。それに以前なら、走者として塁に残ったままチェンジになると、ベンチ近くまでゆっくり歩いて戻って、それからヘルメットを脱ぐという感じでした。でも、エースになってから変わりましたね。精神的にも強くなりました。今日もピンチの場面はありましたが、いつもどおり投げていました」
チームにとって、西村は絶対的な存在だ。
「自分たちにとってはエースですし、本当に信頼できるバッターでもあります。西村の力がなければ、甲子園まで来ることはできませんでした。投げて、打って、本当に頼りになる存在です」
【エース級の投手をふたりつくるのは困難】
鳴門渦潮を率いる森恭仁監督は、チーム事情についてこう明かす。
「『ピッチャーはひとりしかいない』と言われるかもしれませんが、なかなかエース級の投手をふたりつくることができないんですよ。ひとり育てるので精一杯で」
鳴門渦潮にはスポーツ科学科があるとはいえ、県立校だけに、選手集めでは強豪私立のようにはいかない。
「2年生の有馬もいますけど、甲子園で投げさせるにはまだまだです。今日のような場面では、なかなか任せることができません。今日は西村が本当によく投げてくれました。いろいろな経験を積んで、タフになりましたね。本当に楽しそうに野球をやっていますよ。『自分で投げたい、打ちたい』という選手ですから。彼は本当に"野球小僧"ですよね」(森監督)
投手の分業制が進み、DH制も導入された高校野球。その流れとは逆行するように、西村は投げて、打って、走る。誰よりも野球を楽しみ、誰よりもグラウンドに立ち続ける。そんな"絶滅危惧種"の野球小僧が、鳴門渦潮をどこまで勝ち上がらせるのか。次戦でも、西村はマウンドにも打席にも立つ。
📝2026年夏の甲子園 監督突撃インタビュー
長崎日大・平山監督「ハハハ。私はデカい選手が好きなんです」 私学を率いる重圧、選手集めまで語る
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/391563
平山清一郎(長崎日大/長崎/47歳)
7日の初戦で立正大淞南(島根)を15-1で圧倒した長崎日大。あす13日の2回戦は有明(熊本)と対戦する。16年ぶり10回目の夏を率いるのは、母校で25年にわたって教壇に立つ平山監督。地歴公民科の教諭でありながら、強豪私学の看板を背負う重圧や選手集めの苦労を聞いた。
──初戦は立正大淞南を下し、夏の甲子園では16年ぶりの勝利でした。
「私は監督8年目で、コロナで夏の大会がなかった年を除けば7回目の挑戦でした。センバツには3回出ましたが、夏は県大会の決勝に残ることすらできなかった。準決勝や準々決勝で負けて、かなりもがき苦しみました。今回、改めて『高校野球は夏なんだ、甲子園なんだ』と思いました」
──かつては沖縄尚学から全国制覇した金城孝夫氏を招聘するなど、学校は野球に力を入れている印象です。結果を求められる重圧もあったのでは。
「学校から何かプレッシャーをかけられることはありません。しかし、私は私学の野球部監督です。結果が出なければ、いつか降ろされる。その覚悟はしています。肝心の夏に苦戦していたので、『いつまで猶予があるのか』という思いは、もちろんありました。監督を外れ、『部長として支えてくれ』と言われれば当然支えますし、『野球部から外れろ』と言われれば、それも受け入れる。ここは私の母校ですから、立場が変わっても任された役割をやるだけです」
──いっそのこと野球に専念する「職業監督」になりたいと思うことは。
「職業監督になれば、野球で結果が出なければ本当にクビですよね。それはすごい(シビアな)ことだと思います。ただ、私が野球の指導をしたくて教員を目指していた時、恩師から『うちの学校は、ちゃんと授業ができるようにならないと正規採用されないからな』と言われていました。日大を卒業してすぐ拾ってもらい、今年で25年目。授業をして野球を指導するところまでが一つの仕事です。忙しいですが、苦ではありません。野球も授業もどちらもアップデートしながらやっています」
──野球部には授業時間などで優遇は。
「まったくありません。選手たちの一日の流れを聞いたら、びっくりすると思います。スポーツクラスがないので、7時限目までしっかり勉強して、他の生徒と同じテストを受けています。ホームルームが終わるのは午後4時10分で、練習は4時半から7時まで。基本は2時間半です」
──ひょっとしたら、創成館や海星、公立の波佐見など県内ライバル校より不利な条件かもしれない。
「他校をうらやましく思うことはありませんが、もう少し練習したいと思うことはあります。ですが、この環境の中でどうやるかを選手にも求めていますから、私が文句を言うわけにはいかない。我々は、我々のルールの中で精いっぱいやるだけです」
──選手集めは。
「ウチの売りなのか、試練なのか…」
「大変ですよ(笑)。長崎はまだ公立志向も強いですからね。うちの売りですか? 売りなのか試練なのか分かりませんが、『野球だけでなく勉強もやらなければならないこと』です。日大への進学が約束されているわけではなく、2年時に1度、3年時に2度、計3度の試験がある。継続して勉強しなければいけません。試験前には野球部だけで勉強会も開きます。野球で飯を食えるのは一握り。勉強と両立しながら大学進学を目指せることはアピールしています」
──集まった選手たちは体が大きい印象。
「ハハハ。私はデカい選手が好きなんです。魅力、ロマンがあるじゃないですか。勧誘の際に同じタイプの選手で迷ったら、体格で決めることも結構あります」
──デカい選手たちと過ごす、この夏の目標は。
「学校の夏の最高成績は、第89回大会のベスト4です。ハードルは高いですが、まずはそこに肩を並べたい。私の下では今回が4度目の甲子園ですが、まだ上位へ進めていません。恩師や前任の金城先生を追い抜くことは、後を継がせていただいた私にとって一つの目標です」
10日目第1試合 岡山学芸館(岡山)-花巻東(岩手) 13:32~16:05
一二三四五六七八九十計HE
花 巻 東200001100 4140
学 芸 館000000010 180
10日目第2試合 鳴門渦潮(徳島)-霞ヶ浦(茨城) 16:36~18:06 17:33点灯 6回表から
一二三四五六七八九十計HE
鳴門渦潮000100000 170
霞 ヶ 浦01400000X 582
10日目第3試合 日南学園(宮崎)-横浜(神奈川) 18:36~20:41
一二三四五六七八九十計HE
横 浜001004005 10100
日南学園000100000 163
⚾明日の熱闘甲子園組み合わせ(11日目 3回戦)
☆ 08:00~ 高川 学園- 天 理
☆☆☆ 10:30~ 敦賀 気比-智弁和歌山
13:00~ 履 正 社- 三 重
15:30~ 拓大 紅陵-仙台 育英
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(初日 1・2回戦)
紀三井寺球場
☆☆ 09:00~ 和歌 山東-日高 中津
11:30~ 田 辺 -和歌山高専
☆ 14:00~ 海 南 - 箕 島
上富田球場
09:00~ 高 野 山-有笠貴志連
☆☆☆ 11:30~ 近大 新宮-和歌山南陵
☆ 14:00~ 南部 龍神- 耐 久
📝あのPL学園“伝説の名将”の孫が甲子園に!?「福留孝介の付き人」“PLの子”だった父が語った「最強軍団の裏側」と「親子3代で目指す甲子園」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e06aa46c8bf1356e9c98931511a21b4212affd54
今年も夏の甲子園が開幕した。春夏連続出場を果たした佐野日大(栃木)は、実は“あの”PL学園の名将の孫がキャプテンを務める。そんなサラブレッドの父が語った「親子3代で目指す甲子園」のウラ話とは?
鮮やかな放物線が目の前を通過する。一塁側スタンドで劇的すぎる勝利を見届けた中村猛安は「いやぁ、こういうことってあるんですねぇ」と、野球が織りなすシナリオの重厚さにつくづく嘆息を漏らすのである。国学院栃木との甲子園を懸けた栃木大会決勝。佐野日大は1点を追う延長10回タイブレークで、2アウト三塁から小島颯人がライトスタンドへ逆転サヨナラ2ランを放ち、春のセンバツに続いて甲子園を決めた。
殊勲者をホームベースで待ち構え、もみくちゃにしているチームメートのなかには中村盛汰もいる。16年ぶりに甲子園出場を果たした佐野日大をまとめ上げたキャプテンは、このときこそ興奮した様子だったが、試合後に家族と喜びを分かち合うころには冷静さを取り戻していたという。
あの“伝説の名将”の孫が甲子園に
夏こそ、センバツで叶えられなかった校歌を歌う。そして、今回も甲子園の舞台に立てば、このように注目されるに違いない――。
中村順司の孫。PL学園の監督としてチームを春夏計6度の日本一へと導き、甲子園通算58勝を記録する名将。桑田真澄、清原和博をはじめ数多くの名選手を育て上げた名伯楽である。
盛汰は取材などでそのことを聞かれるたびに「いろんなアドバイスをいただけるので、すごくありがたい」と殊勝なコメントを残すが、心の深層を猛安はこのように探る。
「やはり、麦倉(洋一)監督をはじめとした指導者の方たちから指導を受けて自分がいる、ということを本人もわかっているでしょうから、そこは気を遣っているとは思いますね。僕もオヤジには『監督やコーチがいるんだから』という話はするんですけど、やっぱり気になって仕方ないんでしょうね。おじいちゃんなんで孫はかわいいですから」
偉大なる父を持つ猛安だからこそわかるのだ。自分たちが中村順司の血を継ぐ以上、その宿命を受け止めるべきなのだ、と。猛安は自分を「PLの子」と言う。
1979年にPL病院で生まれた翌年に父がコーチから監督に昇格した。幼稚園、小学校、中学校が系列と、生粋の経歴をたどる。
全国の精鋭が特待生として集まるPL学園において、誰もが中学からエスカレーター式で野球部に入れるわけではない。そんななか、猛安は実力で狭き門を突破し、父とともに高校野球の道を歩むこととなった。
「監督の息子」でも…“天下のPL”に特別扱いはナシ
ほかの親子鷹と同じように、高校進学後の猛安と父は「選手と監督」以上の関りはなくなった。今では世間に広まっているPL学園の厳しい上下関係においても、「監督の息子」だからと特別扱いされなかった。
1年生が3年生部員の身の回りの世話をする伝統の“付き人制度”で、猛安は小林亮寛(元ロッテ)とともに福留孝介に付くこととなった。当時「高校ナンバーワン野手」と呼ばれた先輩は、人前で努力を見せなかったという。「だから、ユニフォームの洗濯とか楽でしたよね。泥をしっかり落とすのが靴下くらいだったんで」と、猛安は笑う。
自身がコントロールに優れた内野手だったこともあり、自主練習ではバッティングピッチャーを頼まれることもあった。そんなときは必ずアドバイスをしてくれたのだと懐かしむ。グラウンドや寮生活において、猛安は他の選手と同じように過酷な日々を過ごした。
<次回へつづく>
📝祖父はあのPL学園“伝説の名将”、父も東北の強豪監督経験者でも…「なぜ他校へ?」佐野日大主将が選んだ“脱・サラブレッドの道”と「家族LINE」秘話
https://news.yahoo.co.jp/articles/24d51a89c2a34ce78e5d2ec5834bd6371bfba941?page=1
「1年生のときは『生きるか死ぬか』みたいな生活でしたけど、僕は『平等でありたい』と思っていましたのでよかったです。先輩方は『監督の息子』として見ていたのかもしれませんけど、『お前はいいよ』みたいに雑用とかを免除されることはなかったですからね」
そう高校時代を振り返るのは、PL学園の伝説の名将・中村順司監督の息子である猛安だ。本人も最強・PL学園の野球部で汗を流し、愛息である盛汰は今夏の甲子園に佐野日大(栃木)のキャプテンとして出場する。
「PL学園監督の息子」を意識した瞬間
猛安が「PL学園監督の息子」を意識したのは、むしろグラウンド外が多かったという。教室での休み時間などにチームメートが監督への愚痴で盛り上がる。たまにはその場で調子を合わせることもあったが、本意ではなかった。ほとんどが机で寝ているふりをしながらやり過ごしていた。
「高校生ですから、いつの時代も指導者への不満みたいなものは出るじゃないですか。そういう話を聞いて、内心で『俺のオヤジなんだぞ』と思っていても言えず。そういう苦労はありましたかね」
2年秋の新チームになると、猛安は背番号を与えられた。平石洋介(元楽天)や上重聡ら下級生が多くメンバーに入っていたことからも、実力で勝ち取ったベンチ入りだったのは明白である。しかし、本人は「みんなはそう言ってくれますけど、僕はバントと守備くらいしかできませんでしたから」と謙遜する。
結局、猛安は甲子園に出場できず高校野球を終えた。「オヤジは自分にいろいろ苦労をかけたと思っているのかもしれないですね」と慮るが、その後の道を開いてくれたのも、父の存在があったからだった。
2010年からは「東北の名門校」の監督に
日大に進学できたのは、野球部の監督である鈴木博識が高校時代に父の妻――つまり猛安の母と同級生だったことがきっかけである。大学卒業後に日大東北で働けるようになったのも、鈴木の恩師である小林直喜が野球部で部長を務めていたことで声がかかった。2002年にコーチとして指導者人生をスタートさせた猛安は、10年に監督となった。
選手の個性を最大限に引き出す指導は、相手チームにとって厄介だった。福島の絶対王者と呼ばれた聖光学院が意識するライバルだったのが猛安率いる日大東北で、13年秋に県内公式戦連勝記録を「95」まで伸ばしていたチームを撃破。翌年の夏の決勝でも9回までリードし「あと一歩」まで追い詰めた。監督として甲子園の土は踏めていないが、聖光学院の監督・斎藤智也の言葉がすべてだ。
「選手たちが荒々しくプレーしていたし、監督も何をしてくるかわからない怖さがあった。あのころの日大東北は、特に脅威だったよね」
18年の夏が終わり監督を退いた猛安は、指導者として変わらずチームを支える。しかし、息子たちには自分とは違う道を歩ませた。盛汰が佐野日大に進む大きなきっかけとなったのは、兄・貫汰の影響があった。中学までは怠惰な一面があった兄が、富山の新川での寮生活を通じて変わった。朝からランニングをするなど自主練習に励む姿に触れた弟は「寮生活がしたい」と、実家を離れることを望むようになったと、父は言う。
「父親である僕が日大東北にいるのに『なんで他の高校に行くんだ』みたいに思われるかもしれないですけど、そこは息子たちの意志を尊重したというか。勉強も頑張ってもらいたかったですし、寮生活を通じて人としても成長できると思っていました」
佐野日大とPL学園の“共通点”
監督の麦倉洋一をはじめとした指導者のスタンスや野球をする環境が「合っている」と、佐野日大への進学を決めたことは正解だった。
同校のBチームは1年生にリーダーを任せ2年生が支える、独自の習慣がある。そこで下級生ながら大役を務めたのが盛汰で、キャプテンとなった今も、チームの調和や規律といった細かいところまで目が行き届くようになったのだと、猛安は感心している。
佐野日大での生活を通じ、PL学園の精神が息づいていると感じる瞬間があるのだという。盛汰が「好きな言葉」に挙げる「求道即人道」。これこそが、祖父の順司が掲げ、父も胸に刻んでいる「血」でもあるのだ。
「日大東北の野球を見たり、僕やオヤジたち家族の話を聞いて影響を受けたと思うんですけど、高校でも実践してくれていますよね。徳を積むことの大切さ。目の前のごみを拾う、道具をしっかり並べるとか、当たり前のことを浸透させていっているのかな、と。先輩がそういうことを率先してやる姿を後輩たちが学んで、佐野日大のいい伝統にしていってくれたらうれしいですよね」
サラブレッドが挑む「最後の夏」
PL学園の遺伝子を受け継ぎし佐野日大のキャプテンが甲子園に臨む。組み合わせ抽選会で引き当てた相手は聖隷クリストファー(静岡)。「大会屈指の左腕」の呼び声高い高部陸がいる難敵だ。家族のグループLINEがざわつく。盛汰から言及はなく「やっちまった」を表すスタンプだけが送られてきた。
「貫汰なんかは『選手宣誓を引け! 』みたいなメッセージをずっと送っていたり、家族間では結構、盛り上がっていたんですけどね。まあ、盛汰も覚悟を決めたんでしょう」
試合は大会2日目の第2試合。18時30分開始予定のため、ナイターとなる。カクテル光線を浴びながらのプレー経験が少ない盛汰が、父に助言を求める。
「150キロのボール、ちゃんと見えるかな」
声色に不安は感じられない。猛安は快活に、あえて荒々しく振る舞って盛汰を送り出した。
「お前なら、目をつぶってバットを振っても当たるわ!」
📝投手分業、DH制が当たり前の時代に「打って、投げて、走る」 鳴門渦潮・西村大輝という"絶滅危惧種"
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a74b01fdeaea29f164e511296c74728d1038729
投手の分業制が進む高校野球において、鳴門渦潮(徳島)のエースで3番を打つ西村大輝は、"絶滅危惧種"とも言える存在だ。
徳島大会では全5試合に先発し、マウンドを譲ったのは、わずか1イニングだけ。それも、投球制限を意識した末の苦肉の策だった。
【延長10回、128球を投げ抜き勝利】
徳島大会決勝の阿南光戦で、その1イニングを任された2年生右腕・有馬凜人はこう語る。
「まだ投球数的には余裕があったんですけど、万が一のことがあったらいけないので、7回、8回を投げる予定でした。でも、2点取られたのですぐに交代しました。甲子園のブルペンでも投げたかったんですけど、投球練習すること自体が西村さんに失礼な気がして......。今日はブルペンには行きませんでした」
西村は、徳島大会5試合で計44イニングを投げている。これは49代表校の投手のなかで最多だ。つまり、この大会で最もタフな投手と言ってもいいだろう。ちなみに、甲子園出場49代表校のうち地方大会でDH(指名打者)制を使わなかったのは、鳴門渦潮だけである。
驚くべきは、西村がマウンドだけでなく、3番打者としてもチームを牽引していることだ。徳島大会では打率.368という好成績を残した。
西東京大会を制し、甲子園初出場を決めた八王子実践との1回戦。西村は140キロを超すストレートとキレのいいスライダーを武器に、淡々とアウトを重ねていった。8回までに許したヒットはわずか3本。100球未満で完封する"マダックス"も視野に入る快投だった。8回裏の攻撃では、西村はフォアボールで出塁すると、次打者もフォアボールを選び、二塁へ進んだ。つづく5番打者がライトフライに倒れてチェンジとなったが、西村は三塁を回ってからベンチに戻っていった。
9回表のマウンドに上がるまで、ひと息入れてもおかしくない。猛暑の甲子園では、汗を拭いたり、水分を補給したりすることが推奨されている。ところが、西村はベンチに戻ってから30秒ほどで再びグラウンドへ。すぐさまマウンドに上がり、投球練習を始めた。ほかの野手がまだ守備位置についていないにもかかわらず、である。
西村は試合後、その場面についてこう振り返った。
「(全力疾走したので)息は上がっていたんですけど、慣れているので大丈夫でした」
9回表、西村は八王子実践の2番・桜泰成にライト前ヒットを許し、そこからピンチを招いて同点に追いつかれた。それでも、延長タイブレークに突入した10回表は無失点で切り抜け、その裏のサヨナラ勝ちを呼び込んだ。西村は10回を投げ抜き、投球数は128球。5安打1失点に抑え、5三振を奪う見事なピッチングだった。さらに驚かされたのは、終盤になっても140キロを超すストレートを投げ込むなど、最後まで抜群のタフさを見せつけたことだ。
【打って、投げて、走るのが野球】
179センチ、76キロの西村は、もともと上手投げだった。
「中学時代も時々(横から)投げていたんですけど、この春が終わったくらいから本格的に横から投げるようになりました。今はそれが一番ハマっていると思います。軽く投げても140キロくらい出ますし、スライダーもよく曲がるようになりました」
投球フォームを変えたことで、思わぬ効果も生まれた。
「体全体を使って投げるようになって、逆に体力の消耗が減りました」
この春から導入されたDH制を試し、西村も投手に専念したことがあったという。
「DHを使って、ピッチングだけしたこともあるんですけど、今の形が一番いいですね。投げるだけなら体力的には楽ですけど、僕は打つことも好きなので、両方やらせてもらっています。やっぱり、打って、投げて、走るのが野球だと思います」
バッテリーを組む捕手の西岡大誠は、西村について次のように語る。
「下級生の頃は精神的にまだまだというか、ピンチになると焦って、フォアボールということもありました。それに以前なら、走者として塁に残ったままチェンジになると、ベンチ近くまでゆっくり歩いて戻って、それからヘルメットを脱ぐという感じでした。でも、エースになってから変わりましたね。精神的にも強くなりました。今日もピンチの場面はありましたが、いつもどおり投げていました」
チームにとって、西村は絶対的な存在だ。
「自分たちにとってはエースですし、本当に信頼できるバッターでもあります。西村の力がなければ、甲子園まで来ることはできませんでした。投げて、打って、本当に頼りになる存在です」
【エース級の投手をふたりつくるのは困難】
鳴門渦潮を率いる森恭仁監督は、チーム事情についてこう明かす。
「『ピッチャーはひとりしかいない』と言われるかもしれませんが、なかなかエース級の投手をふたりつくることができないんですよ。ひとり育てるので精一杯で」
鳴門渦潮にはスポーツ科学科があるとはいえ、県立校だけに、選手集めでは強豪私立のようにはいかない。
「2年生の有馬もいますけど、甲子園で投げさせるにはまだまだです。今日のような場面では、なかなか任せることができません。今日は西村が本当によく投げてくれました。いろいろな経験を積んで、タフになりましたね。本当に楽しそうに野球をやっていますよ。『自分で投げたい、打ちたい』という選手ですから。彼は本当に"野球小僧"ですよね」(森監督)
投手の分業制が進み、DH制も導入された高校野球。その流れとは逆行するように、西村は投げて、打って、走る。誰よりも野球を楽しみ、誰よりもグラウンドに立ち続ける。そんな"絶滅危惧種"の野球小僧が、鳴門渦潮をどこまで勝ち上がらせるのか。次戦でも、西村はマウンドにも打席にも立つ。
📝2026年夏の甲子園 監督突撃インタビュー
長崎日大・平山監督「ハハハ。私はデカい選手が好きなんです」 私学を率いる重圧、選手集めまで語る
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/391563
平山清一郎(長崎日大/長崎/47歳)
7日の初戦で立正大淞南(島根)を15-1で圧倒した長崎日大。あす13日の2回戦は有明(熊本)と対戦する。16年ぶり10回目の夏を率いるのは、母校で25年にわたって教壇に立つ平山監督。地歴公民科の教諭でありながら、強豪私学の看板を背負う重圧や選手集めの苦労を聞いた。
──初戦は立正大淞南を下し、夏の甲子園では16年ぶりの勝利でした。
「私は監督8年目で、コロナで夏の大会がなかった年を除けば7回目の挑戦でした。センバツには3回出ましたが、夏は県大会の決勝に残ることすらできなかった。準決勝や準々決勝で負けて、かなりもがき苦しみました。今回、改めて『高校野球は夏なんだ、甲子園なんだ』と思いました」
──かつては沖縄尚学から全国制覇した金城孝夫氏を招聘するなど、学校は野球に力を入れている印象です。結果を求められる重圧もあったのでは。
「学校から何かプレッシャーをかけられることはありません。しかし、私は私学の野球部監督です。結果が出なければ、いつか降ろされる。その覚悟はしています。肝心の夏に苦戦していたので、『いつまで猶予があるのか』という思いは、もちろんありました。監督を外れ、『部長として支えてくれ』と言われれば当然支えますし、『野球部から外れろ』と言われれば、それも受け入れる。ここは私の母校ですから、立場が変わっても任された役割をやるだけです」
──いっそのこと野球に専念する「職業監督」になりたいと思うことは。
「職業監督になれば、野球で結果が出なければ本当にクビですよね。それはすごい(シビアな)ことだと思います。ただ、私が野球の指導をしたくて教員を目指していた時、恩師から『うちの学校は、ちゃんと授業ができるようにならないと正規採用されないからな』と言われていました。日大を卒業してすぐ拾ってもらい、今年で25年目。授業をして野球を指導するところまでが一つの仕事です。忙しいですが、苦ではありません。野球も授業もどちらもアップデートしながらやっています」
──野球部には授業時間などで優遇は。
「まったくありません。選手たちの一日の流れを聞いたら、びっくりすると思います。スポーツクラスがないので、7時限目までしっかり勉強して、他の生徒と同じテストを受けています。ホームルームが終わるのは午後4時10分で、練習は4時半から7時まで。基本は2時間半です」
──ひょっとしたら、創成館や海星、公立の波佐見など県内ライバル校より不利な条件かもしれない。
「他校をうらやましく思うことはありませんが、もう少し練習したいと思うことはあります。ですが、この環境の中でどうやるかを選手にも求めていますから、私が文句を言うわけにはいかない。我々は、我々のルールの中で精いっぱいやるだけです」
──選手集めは。
「ウチの売りなのか、試練なのか…」
「大変ですよ(笑)。長崎はまだ公立志向も強いですからね。うちの売りですか? 売りなのか試練なのか分かりませんが、『野球だけでなく勉強もやらなければならないこと』です。日大への進学が約束されているわけではなく、2年時に1度、3年時に2度、計3度の試験がある。継続して勉強しなければいけません。試験前には野球部だけで勉強会も開きます。野球で飯を食えるのは一握り。勉強と両立しながら大学進学を目指せることはアピールしています」
──集まった選手たちは体が大きい印象。
「ハハハ。私はデカい選手が好きなんです。魅力、ロマンがあるじゃないですか。勧誘の際に同じタイプの選手で迷ったら、体格で決めることも結構あります」
──デカい選手たちと過ごす、この夏の目標は。
「学校の夏の最高成績は、第89回大会のベスト4です。ハードルは高いですが、まずはそこに肩を並べたい。私の下では今回が4度目の甲子園ですが、まだ上位へ進めていません。恩師や前任の金城先生を追い抜くことは、後を継がせていただいた私にとって一つの目標です」