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宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

編集済
⚾今日の熱闘甲子園試合結果(1回戦)
2日目第1試合 神村学園(鹿児島)-東筑(福岡) 16:02~18:10 17:05内野点灯 5回表から
          一二三四五六七八九十計HE
      東  筑100000000 141
      神村学園00301100X 5111

2日目第2試合 聖隷クリストファー(静岡)-佐野日大(栃木) 18:43~20:34 18:28点灯
          一二三四五六七八九十計HE
      佐野日大000000100 160
      聖  隷000000000 062

今日はレフトスタンドで観戦してきました。まだまだ明るい17時05分から銀屋根のLEDナイター点灯は驚きでしたが、エエ写真2枚撮れたのでブログに挙げました。よかったらどうぞ
https://ameblo.jp/hirorinhoushi/entry-12974981251.html

⚾明日の熱闘甲子園組み合わせ(3日目 1回戦)
    08:00~ 東海大甲府-鶴 岡 東
    13:30~ 八 幡 商-健大 高崎
    16:00~ 立命館宇治- 有 明
  ☆ 18:30~ 立正大淞南-長崎 日大

📣夏の甲子園 開会式でネット騒然「ユニホーム変わってる!」3年連続出場の強豪校が新スタイル「日本代表みたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/a007b7f5eb74f5e04b780210e8ac51dfc5ef8896

3年連続8回目の出場となる鳥取城北が登場すると、SNSが騒然。縦じまから白地のユニホームに変わっており「めっちゃユニホーム変わってる」「竪縞じゃなくなってる」「夏の甲子園に合わせてデザイン変わってるのか」などと沸いた。帽子は紺の生地に「J」が刺しゅうされ、「日本代表みたい」「侍ジャパンやん」などの声も上がった。

初戦は岡山学芸館と対戦。鳥取県勢として11大会ぶりの初戦突破を目指す。

🎤2026年夏の甲子園 監督突撃インタビュー
プロ注目バッテリーの進路は? 福岡有数の進学校・東筑に有力選手が集まる秘訣
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/391260

──バッテリーはプロ注目選手。選手はどう集めているのですか。

「地元には、勉強ができて野球の力もある中学生がいます。そうした選手たちが『勉強も野球も頑張るなら東筑に行きたい』と思ってくれることが、楽しみな選手が集まる理由だと思います。毎年ある程度勝ち上がり、県大会の上位を狙ってきた伝統も大きいですね」

──選手たちは一般入試ですか、推薦入試ですか。

「過半数は一般入試ですが、県が採用している『推薦入試』の部員もいます。1学年の定員280人に対し、推薦入試の枠があり、その中でラグビー部、男女バレー部など、各部活動との兼ね合いで決まるので、人数は毎年まちまちです」

──推薦には内申点などの基準がありますが、超有望球児に「ゲタ」を履かせたりは。

「基準より低かったら絶対ダメです。推薦入試にも定められた基準があり、その条件を満たさなければいけません。部活動だけでなく、学力や生徒会活動など、中学校生活の中で本人が何を強みにしてきたのかを含めて推薦されます。野球がうまいというだけで入学できるわけではありません」

──今チームには医学部志望者が4人います。文武両道をどう実践しているのでしょうか。

「もともと学校の授業レベルが非常に高く、まずはその授業に必死についていくこと自体が勉強になっています。野球部に限らず、全校生徒の8~9割が部活動に入っているため、空き時間や隙間時間を有効に使って勉強する校風、環境があります。午後8時が完全下校時刻となっており、学校帰りに塾へ通う選手もいます。野球をする時は野球に集中し、終われば勉強へ切り替える。その積み重ねです」

──甲子園に滞在している間も、3年生は受験勉強をしていますか。

「今は野球に集中している選手が多いと思います。大会が終わってから、スイッチを切り替えることになるでしょう。3年生15人のうち、3分の2ほどは一般受験で国公立大学への進学を希望しています。私立大学で野球を続けたいという選手もいますが、多くはこれから本格的な受験勉強に入ります」

──医学部志望の4人については。

「現役での医学部合格は簡単ではありません。ただ、野球を最後までやり切った後、気持ちを切り替えて一気に伸びる生徒はいます。野球部の先輩にも、医学部へ進み、医師になった方がたくさんいます。時間はかかるかもしれませんが、十分に可能性はあると思うので、頑張ってほしいですね」

──プロ注目のエース深町、捕手の平山の進路は。

「深町は早い段階から大学進学を希望しています。平山はまだ考えている段階なので、大会が終わってから本人や保護者と話をするつもりです。プロの方が興味を持ってくださっていることは分かっていますが、今は目の前の甲子園に集中しています」

──山下監督は進学とプロ入り、どちらがいいと思いますか。

「東筑関係者が10人いたら、9人、あるいは10人全員が『大学進学』と言うでしょう。指定校推薦や一般入試を含め、名門大学へ進学できるチャンスがあります。そこで大学野球を経験し、その先にプロへ行ける可能性があるなら、その道を選んだ方がいいのではないか、という考えは強いと思います。一方で、プロへ挑戦できる機会も限られている。こればかりはタイミングや運もあります。大人は大学へ進んだ方が将来の選択肢が広がると考えます。ただ、子供たちにとっては、目の前にプロへ挑戦できる機会があれば、そこへ行きたいと思うのも間違いではありません。最後は本人が納得して決めることが一番大事だと思います」

──監督として、教え子をプロへ送り出したいという思いはありますか。

「プロへ送り込みたいという気持ちは特にありません。ただ、将来、プロの世界や日の丸を背負う舞台で活躍する選手が東筑から出てくれたら、うれしいですね」

──ご自身も東筑から国立大へ進み、教員になった。その経歴は進路指導にも生きているのでは。

「グラウンドに出てきた時は野球だけですが、学校内ではいろいろな話をしています。大学受験に関しても、私個人的に思うことや、これまでの先輩たちも含めて、その都度その都度、答えられているとは思います」

──選手の学校生活に関わっていることは、プラスに働いていますか。

「非常に大きいです。私が直接授業を見る選手は限られますが、職員室にいれば、ほかの先生方から普段の様子を聞くことができます。褒められたことも、指導が必要なことも、その都度選手と向き合える。ここぞという場面で力を発揮できるかは、日頃の振る舞いや性格にも表れると思うので、そうした野球以外の姿もメンバー選考や起用の参考にしています。そこは教員監督の強みだと思います」

──初戦の相手は優勝候補の一角、神村学園です。

「神村学園さんは非常に鍛え上げられたチームで、最後まで諦めない粘り強さがあります。ただ、東筑も福岡大会では粘り強い守りで勝ち上がってきました。序盤で突き放されず、僅差のまま食らいついていけば、勝機が出てくるはず。これまでとは逆に、最後にこちらが逆転するのか、リードを守って逃げ切るのか。甲子園という舞台で、そういう試合をしたいです」

📝宮崎代表は「十分戦えている」 解説者・坂口裕之さんの勝利のヒント
https://news.yahoo.co.jp/articles/c4b7446e1690ee5ca2d7d0b280177768e0070e33

監督や選手とは異なる視点から甲子園大会を見続けている人の目に、ここ数年の宮崎代表はどのように映っているのか。社会人野球の選手、監督として活躍し、長年、NHKで大会の解説者を務める高鍋高出身の坂口裕之さん(60)の話は、甲子園で勝つためのヒントに満ちていた。

「負けはしたけど、力は互角だった」。2024年と25年の夏に惜敗した宮崎商の戦いぶりを見て、坂口さんはそう感じたという。では、何が勝敗を分けたのか。坂口さんが挙げたのは「心のコントロール」だった。

競った試合展開で終盤を迎えると、選手たちの気持ちは揺れる。抑えなきゃいけないと思うと力み、失敗してはいけないと思うと様子を見てしまう。「しっかり勝負する気持ちになるためには、自信が大事なんです」

■「なぜ」を落とし込む

その自信を生み出すのが技術だという。打つこと、走ること、投げること、捕ること。「そこに、今まで自分がしてきたことを表現すればよいというものがないと自信にはならない」と語る。

身につける方法として示したのが目標設定と落とし込みだ。「地方大会を勝ち上がる、甲子園に出るというのではなく、どんな対戦相手でも全国で勝つんだと一つ上を目指して欲しい」。チームの特長や選手個々の技術を伸ばすために指導者が全体像を示し、必要な練習や、その狙いを選手たちに落とし込むことが大切だという。

例えば150キロの速球を長打するにはこの速さ、この角度のスイングが必要になる。それには筋力がいるから、このトレーニングをしてこの重さを動かせるようになろうといった具合に。そして、大事なポイントが「『なぜ、なぜ、なぜ』とどこまで深く落とし込めるか」だという。全国で勝つチームはそういう意識付けをして練習を重ね、選手たちはチームが目指す野球をしっかり理解している。同じように素振りを1千回したとして、求める先に違いがあればそれが差になってしまうと指摘する。

■想定外を乗り切る術は

だが、技術と自信を身につけた選手にとっても甲子園は特別な舞台だ。アルプススタンドからの大声援やテレビの全国中継もある。特別な場所だから特別なことが起きる。「指導者は選手に『それが当たり前だよ』と言ってあげればいい。選手はみんな不安で、安心させてあげることがすごく大事」という。

試合での想定外を乗り切る術(すべ)も必要だと指摘する。相手の速球が想定以上に伸びてきて、振り遅れる。「ならばバットを短く持ったり寝かせたり、打席の位置を変えたり。あるいは変化球に狙いを絞らせるように修正をかける」。指導者が普段の練習や試合から修正を試して選手に身につけさせ、大舞台のここ一番でも使える引き出しを数多く持っておくことも勝利の要件になるという。

坂口さんは、甲子園での負けが続いているからといって、宮崎代表が全国で劣っているとは感じていない。「やってきていることに間違いはなく、十分に戦えるところまで来ている。一つ先を目指して競い合ってほしい」

📝0対7からの大逆転、宿敵・帝京撃破、そして涙の初甲子園...小倉全由と「下町の暴れん坊」が起こした夏の奇跡
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/07/24/post_71/

名将たちの甲子園初出場物語 小倉全由(後編)

宿敵・帝京は1985年春の選抜大会で準優勝を果たした。

「選抜での帝京の試合は全部録画して、何度も繰り返し見ましたね。とにかく帝京に勝ちたい、その一心でした」

関東第一を率いていた小倉全由の「打倒・帝京」への執念を物語るエピソードは、枚挙にいとまがない。

【チームを変えた主将のひと言】
 
厳しい冬を乗り越え、両校は春季大会の決勝で再び顔を合わせた。帝京はエース・小林昭則を温存し、三塁手の藤波清が先発。それでも関東第一は、2対9とまたしても大敗を喫した。
その試合後、控室にやってきた校長は、小倉に厳しい言葉を投げかけた。その様子を見ていた主将の寺島一男は、校長に向かって「監督が悪いんじゃない。悪いのは俺たちなんだ」と言い返した。小倉が回想する。

「私は寺島を注意しましたが、内心その気持ちが本当にうれしくてね。これこそがこのチームのカラーですよね」

決勝で帝京に敗れたものの、関東第一は初めて関東大会出場を決めた。初戦で名将・斉藤一之率いる銚子商(千葉)に敗れたが、小倉にとっても選手たちにとっても大きな経験を積むことができた。
そして小倉にとってターニングポイントになったのが、6月に行なわれた東北(宮城)との練習試合だった。のちに「ハマの大魔神」としてプロで大活躍する佐々木主浩は腰痛で帯同していなかったが、葛西稔(元阪神)と対戦して勝利。試合後、名将・竹田利秋は小倉にこう言った。

「小倉くん、このチームは甲子園に出たらベスト8に行けるよ」この言葉で小倉の不安は消えた。

「あの言葉がなかったら、自分は『まだまだ足りない』って厳しい練習をやって、選手たちを追い込んで、逆に潰してしまっていたかもしれない。竹田さんの言葉が本当に支えになりました」

その後の練習試合でも、大会直前の市船橋(千葉)に黒星を喫したが、ほぼ負け知らず。小倉はたしかな手応えを感じていた。

「このチームは"打撃のチーム"と言われていたけど、守備もよかったし、例年以上に足も使えた。バランスのいいチームに成長してくれました」

関東第一の強さは、関係者の間でも評判になっていた。抽選会に行ったマネージャーが、他校の部員から「おまえたち強いらしいな」と声をかけられたという。だが、大会に入ると苦しい戦いが続いた。初戦突破後の2戦目(4回戦)の攻玉社戦は1対0の辛勝。さらに準々決勝では、前年優勝の日大一を相手に、あわやコールド負けという絶体絶命のピンチに陥った。エースナンバーを背負う日大三からの転校生・高井隆行が序盤につかまり、いきなり0対7の劣勢を強いられた。

そんな悪い流れを変えたのが、主将・寺島の一発だった。打席に向かう途中、相手選手が「強いって聞いていたけど、大したことないな」とつぶやくのを耳にしたという。「誰よりも負けず嫌いな男」と小倉が評する寺島は、「ふざけるな」という思いをこめてバットを振り抜き、反撃の狼煙となる本塁打を放った。

「ベンチへ戻るなり、寺島はチームメイトに『おまえら、なめられてるんじゃないぞ!』と叫んだんです」

小倉は当時を思い出しながら、うれしそうに振り返った。寺島の一発をきっかけに関東第一は息を吹き返し、11対8の大逆転勝利を収めた。勢いそのままに準決勝では城西大城西を6回コールドの12対2で圧倒し、いよいよ決勝へ。待ち受けていたのは、最大のライバル・帝京だった。

【打者一巡の猛攻、歓喜の8回】

「甲子園よりも帝京に勝つこと。とにかく、打倒・帝京。それがすべてでした」

そう当時の心境を語った小倉だったが、決戦を前に迷っていた。

「ミーティングでは『明日は木島(強志)でいくぞ!』と先発を伝えたんですが、『木島で9回まで持つのか?』という不安があったんです。だったら、高井でいけるところまでいって、木島につなごうと決心しました。翌朝、選手たちには謝りました」

先発完投が全盛の時代。小倉は大一番であえて"継投"を選択して、勝負に出た。そして打者にはこうアドバイスを送った。帝京のエース・小林昭則はこの夏、得意のカーブが抜けて高めに浮くことが多かった。そこで「ボール球でもいいから顔の前にカーブが抜けてきたら、右バッターはレフトスタンドへ向かってホームランをぶち込め」と伝えた。これが功を奏したのか、3番の田辺昭広はそのカーブをレフトスタンドへ運んだ。

試合は高井から木島への継投が決まり、関東第一が4対3と1点リードのまま終盤へ入った。しかし7回、スクイズを失敗して追加点を奪えなかった。

「あの時は、また勝てないのかと思いました」(小倉)

だが、勝負を決めたのは8回裏だった。関東第一は、満塁から2番・室井和孝が走者一掃の三塁打を放つと、つづく3番・田辺がタイムリー、4番の山本英俊にも本塁打が飛び出すなど、打者一巡の猛攻で一挙8点を奪った。ベンチの選手全員が飛び出し、帝京ベンチに向かってガッツポーズをするなど、喜びを爆発させた。あまりの盛り上がりに、連盟関係者から「やりすぎだ!」とお叱りを受けたほどだった。

そんなお祭りムードのなか、小倉は「おまえたち、もう1回しっかり守ってこい、高校野球は何があるかわからないから」と必死に冷静を装い、選手たちを送り出した。そして最終回、2点を許したが12対5で勝利。宿敵・帝京を下して、ついに初めてとなる甲子園出場を決めた。小倉がしみじみと語る。

「あの9回の守備は本当に長かったですね。みんな甲子園に出ることよりも、帝京を倒すことに執念を燃やしていました。それを果たせたことがうれしかった」

スタンドにあいさつに行くと、みんなが泣いていた。

「どのチームも優勝するとうれし涙を流しますが、あの時の涙はすごかったですね」

学校関係者も地元・江戸川区の人たちもみんなが泣いていた。小倉率いる関東第一は、こうして創立60周年という節目の年に甲子園初出場という偉業を成し遂げたのだった。

【初の甲子園でベスト8進出】
 
翌朝の新聞が待ち遠しかった小倉は、夜明け前から寮の玄関で朝刊が届くのを待っていた。そこへひとりの1年生が素振りをしにやって来た。2年後の選抜で、主将としてチームを準優勝へ導くことになる田村直樹である。その時、田村は小倉にこう言ったという。

「監督、自分は悔しいんです。先輩たちが優勝したことはうれしいですけど、初出場での胴上げは、自分たちがやりたかった」

後日、この話を田村に伝えると、「1年生だった自分との会話まで覚えていてくれているんですね」と驚いていた。40年以上が過ぎた今でも、部員との何気ないやり取りや当時の練習風景を鮮明に覚えている。その記憶力のたしかさと、一人ひとりの選手を大切にする姿勢こそ、多くの教え子たちから卒業後も慕われ続ける小倉の魅力なのだ。

新聞には、<関東一 泣いた 泣いた>の見出しが躍っていた。同じ日に久しぶりの甲子園出場を決めた銚子商の斉藤一之監督と並んで掲載されたことも、小倉にとってはうれしかったという。甲子園へ出発する日は、新小岩駅で盛大な祝勝会が開かれた。

「江戸川区長も先頭に立って応援してくれましたし、商店街の皆さんの声援もうれしかったですね。下町の温かさを実感しました」

甲子園では、「いつ負けたっていいんだ。思いきってやれ」と選手たちを送り出した。その言葉どおり、関東第一は強打を武器に花園(京都)との初戦を突破すると、國學院栃木、日立一(茨城)を次々と撃破。準々決勝で東海大甲府(山梨)に逆転負けを喫したものの、堂々のベスト8入りを果たした。
寺島や塩田らは、この甲子園をきっかけに東海大甲府や國學院栃木の選手たちと親交を深め、40年以上が経った今も交流が続いているという。準々決勝の9回、逆転タイムリーを放った東海大甲府の小板橋則之はこう語る。

「小倉監督と寺島たちを見ていて、本当にうらやましかったんです。甲子園に初出場したチームの監督と選手って、こんなに強い絆で結ばれるものなんだなって......」

【前田さんに育ててもらった】
 
小倉は当時を振り返り、「塩田がこのチームの副主将だったことも大きかった」と語る。塩田は高校進学の際、一度は別の高校への進学を希望していた。しかし、縁があって江東ライオンズ時代のチームメイトとともに、地元・関東第一へ進学した。

「関東第一に進んだからこそ、人生の師と巡り会えました。小倉監督に出会えたことで、今の自分があります。監督の教えがあったから、長く野球を続けることもできました」塩田はそう語り、小倉への感謝の思いを口にした。

寺島は卒業後、ふとした時に「あの頃、監督さんはまだ28歳だったんだよな」と思い返すことがあるという。主将になってからは、折に触れて「寺島、これどう思う?」と意見を求められた。いつも選手のことを第一に考え、真正面から向き合ってくれた。その姿勢は、今も寺島の胸に深く刻まれている。

「監督さんと出会えて、本当によかったです」寺島は、感謝の思いをかみしめるようにそう振り返った。

小倉に「5年間は長かったですか?」と尋ねると、「あっという間でしたね」と返ってきた。

「3年目に初めて決勝まで進んで負けた時、自宅で『俺は一生、甲子園に行けない監督なのかな』と、泣きながら妻に弱音を吐いたことがありました」

すると妻は、「初めて行った決勝で負けたくらいで何を言ってるの!」と叱咤激励してくれた。その支えには、今も心から感謝しているという。そして、小倉はこう続けた。

「自分は帝京の前田さんに育ててもらったと思っています」

打倒・帝京という大きな目標があり、前田三夫という偉大な背中を追い続けたからこそ、就任5年目で甲子園初出場をつかむことができた。

「初出場が一番ですね。絶対に忘れない。『俺が』じゃなくて、『こいつらと戦ったんだ』っていう気持ちです」

就任5年目、28歳の青年監督と「下町の暴れん坊」と呼ばれた選手たちがつかんだ甲子園初出場。その栄光は、勝利の数やベスト8という結果以上に、ともに泣き、ともに笑い、ともに宿敵へ挑み続けた仲間との日々として、小倉の胸に今も鮮やかに刻まれている。
2026/08/06(木) 22時58分58秒 No.2563 編集 削除