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宏鈴法師(管理人) MAIL URL

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編集済
☝粘土補充しマウンド管理 古市投手と小林投手 三重高、甲子園に備え
https://news.yahoo.co.jp/articles/b26d9d6f2e3142d01688c8b596d3668a92fd3941

プロ球場〝硬め〟流れ、県大会でも

4年ぶり15回目の〝夏の甲子園〟出場を決めた松阪市久保町の私立三重高校 野球部。その優勝の陰で、投手陣が大舞台で最高の力を発揮できるよう、新しいピッチャーマウンドを地道に整備する2人の投手がいる。
 
プロ野球の試合が行われる球場などでは、投手が安定した投球をするため、マウンドの硬化が進んでいる。県内でもその流れは同様で、今大会の決勝会場となった四日市市の市霞ケ浦第1野球場でも〝硬めのマウンド〟が採用された。
 
同高でも今年5月、グラウンドにある2基のマウンドのうち、1基を硬化仕様に変更した。投手陣は練習から新しいマウンドを積極的に使い、県大会では最高の結果をつかんだ。
新設したマウンドは、プレート周辺に米国から取り寄せたプロ野球でも使用されている赤粘土を使用。従来の土より硬く、投手も踏ん張った投球が可能になるなどのメリットがあるが、使用後には手入れが必要で、気温や湿度に応じた細かな管理が求められる。
 
そこで管理の中心を担うのが、ともに2年生の古市藤磨投手と小林晴人投手。2人は普段から几帳面な性格で、練習後には粘土の上にかぶった土を掃き取り、粘土を補充。水をまいて状態を整え、重さ約3.5キロの「タンパー」で地面を突き固めながら、硬さを調整するなどの管理を行っている。古市投手は「湿度が多くても、乾燥させても駄目なんです」とその難しさを語る。
 
今春の第98回選抜高校野球大会にも登板し、今夏の県大会でも活躍した3年の吉井海翔投手は「センバツのマウンドは軟らかかったが、夏は仕様が変わっているかもしれない。2人が整えてくれる新しいマウンドを活用して本番にしっかり備えたい」と2人への感謝を交えながら本番を見据える。
 
古市投手は「甲子園に出場する選手たちが勝てるように、しっかりと管理をして背中を押したい」、小林投手は「せっかくつかんだ甲子園の切符。三重高が最後までグラウンドに立ち続けられるよう、思いを込めて管理をしたい」と意気込んでいる。

📝『小学生が作ったトレパンチーム』―箕島のエース石井毅が語る1979年春夏連覇の原点―
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d6635f2dc674ef524b6df99ed82e191d5a5e4877

延長18回を投げ切った甲子園のレジェンド
 
7月上旬。梅雨の中休みなのか、その日は晴天だった。かつては多くの列車が行き交った紀勢本線だが、看板列車の「くろしお」のターミナル駅だった大阪・天王寺駅を出て1時間もすれば、目に見えて人家も少なくなってくる。

「箕島」の地名を聞いて、夏を連想するのは、高校野球ファンの中でも古参の部類に入るだろう。野球がスポーツの中心で地方が元気だった1970年代、甲子園の常連校として名を馳せた箕島高校の名を知らない者はいなかった。中でも1979年夏の石川・星稜高校との延長18回の死闘は伝説となっている。
乗ってきた特急電車が去っていくと、向かいのホームには県都・和歌山へ向かうローカル列車が出発を待っていた。改札を出たのは私のほかに5、6人といったところだった。改札の向こうには、ひとりの男が迎えに来てくれていた。

木村竹志、と言っても、地元の人間しかわからないだろう。結婚の際に婿入りしたため名を改めたが、箕島高校の黄金時代の頂点と言っていい1979年の春夏連覇の際のエースピッチャー、石井毅の旧名を高校野球史に残している。石井は先述の星稜との死闘でも18イニングを投げ切っている。今では考えられないことだが、そういう時代だった。

彼に最後に会ったのは15年ほど前のことだ。現役引退後、故郷・和歌山の野球発展に尽力し、2009年に関西独立リーグが発足すると、プロ球団・紀州レンジャーズを立ち上げ、これに参加した。その際に何度か取材して以来のことになる。齢65という。世間では定年を迎える年代だが、石井はいまなお、NPO法人和歌山野球振興会・夢クラブ理事長として多忙な日々を送っている。

チームを自分で立ち上げた小学生時代
 
みかんの里として栄えた有田町で生まれた石井少年が野球と出会ったのは、小学校4年生の時だという。地元の箕島高校は、地元出身の尾藤公監督の下、のちの200勝投手東尾修を擁し甲子園初出場、1970年には島本講平を擁して春の甲子園で初優勝を果たしていた。この地区の腕白少年がバットとボールを手にするのは必然であった。

「僕の通ってたのは保田っていうね、この地域の小学校だったんやけど、そこに少年野球チームがなかったです。それで自分たちでそのチームを、自分たちで遊びながら野球やろうよっていうことで作ったんです」

いわば、小学生の遊びの延長である。万事おおらかなこの時代、空いているグラウンドを子供が使っていても誰も文句は言わないし、冬になれば稲刈りの終わった田んぼで存分に白球を追いかけることができた。

「まあ、チームちゅうても、トレパン、トレシャツで走り回ってただけやけど」

そんな小学生の集まりに転機が訪れる。仲間の保護者から近隣の地区で大会が行われるという話が舞い込んだのだ。

「近所の下津っていうね、ところの大会があるんで、そこに出やんかっていう話をいただいたんです。それで、初めて大会というものに出場したんですが、そうなると、大人の責任者が必要になってくるんですよね。結局、話を持って来てくれたその保護者の方に監督になってもらって参加したんです」

とは言え、所詮は子供の遊びの延長。本格的に活動しているチームにはかなわないだろう。そもそもいつまで「チーム」が続くのかもわからない。なにせ子供がすることだから、とユニフォームなどはそろえることもなく、白の体操着での参加となった。

「ただ、帽子だけは揃えようと。自分たちで布買うてきて、ほんでそれを切って、保田のYっていうマーク作って帽子に付けたんです。背番号も自分たちで作ったかなあ」

伝説の球児を生んだトレパンチームの快進撃
 
トレパンチームは周囲の予想をはるかに超える快進撃を見せた。

「準決勝の手前で主催者だった下津のチームに勝ったんよ」

当然周囲はざわついた。大人がついて練習を重ねユニフォームをそろえたチームを撃破していく体操着チームに、地域の大人たちは驚きを隠さなかった。準決勝は小学校の日曜参観と重なった。それまでの、「子供が遊びで自分達でやっているだけ」という親たちの姿勢は、完全に変わった。参観授業が終わると、学校の前には送迎の車が何台も止まっていた。

その試合は結局敗戦。大会成績は3位に終わったが、親のモードは完全に変わった。快進撃を見せたチームには、ユニフォームが用意されることになった。チーム名も「保田少年野球団」に決まった。

「当時は、そういうチームが小学校ごとにあってね。近くの田津小学校のチームには嶋田(宗彦・元阪神)の出身校です。当時は小学校のグラウンド使えるのは平日だけなんで、チームも小学校ごとになるんですわ。だから、人数が足りないこともありましたね。そういうときは、友達に、『お前ちょっと来い。バット振ってみろって』(笑)」

中学時代に出会った「怪物」
 
小学校時代は主に捕手を務めていた石井少年が、本格的に投手となっていくのは中学校に進学してからのことだという。

「それまでは、キャッチャーしながらたまにマウンドに登る程度でしたね。6年の頃にはピッチャー中心でしたけど」

保田小学校の生徒はそのまま同じ地区の保田中学校に進学した。保田少年野球団のメンバーはそのまま保田中学の野球部に入部した。

「ひとつ上にはチームを立ち上げた先輩もおったしね。5つ上の兄貴もここの野球部にいたんで、そのまま当たり前のように入部したって感じですね」

石井少年は、入部後すぐに試合に出るようになった。他のメンバーたちも順次ポジションを獲得。気心が知れたメンバーで構成されたチームはどんどん実力をアップさせ、2年の時には県大会優勝という結果を残す。しかし、石井の脳裏にはこの大会で優勝したころよりも、1回戦で対戦した河西中学校のエースの存在が強烈に焼き付いている。

「西田真二(元広島)さん。すごかったですよ、少年野球の時から知ってたんやけど、ひとつ年上。遠投見てたらどこまで投げんねんって(笑)。もう当時から肩で風切るような感じで。向こうが完全に優勝候補で。それでも、うちはバント攻勢で勝ったんですよ。それで県大会も優勝したんです」

石井と西田の対戦はこの後も続いていく。西田は大阪の強豪・PL学園に進学。木戸克彦とバッテリーは高校球界屈指とその名を轟かせたが、1978年春のセンバツの準々決勝では、石井と嶋田の箕島バッテリーに屈することとなる。

「やっぱりあの時のPLって言ったらね。ひとつ高いとこにいてるような感じやもんね。向こうは箕島をどう思ってたかわからんけど。ただ西田さんは、中学時代が強烈で、ものすごい大きく見えたんですよ。だから、高校の時にめちゃめちゃ大きく見えたかっていうと、中学校の時がすごかった。西田さんとは2回やったのかな」

高校卒業後、西田は法政大学に進学、石井は社会人の住友金属に進み、その後プロ入りすることになる。

「プロに入ってからも、僕ら日本シリーズで対戦してるんです。1986年ね。西武が3連敗から広島に勝った日本シリーズね。引退した後、お互いに独立リーグの監督するんですけど、練習試合したんですわ。その時も久しぶりに会って、言われました。『俺はお前に勝ったことない』って(笑)」

この時、西田率いる香川オリーブガイナーズは、石井率いる紀州レンジャーズ相手に「ボロ勝ち」を収めている。

                 (続く)

📝「今では当たり前のスポドリも」: 甲子園4度出場の元エースが語る、箕島野球が強かった理由と名門の現在
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d3b2495b63f7929d10243b0e3b62a002e0abb1bf

中学野球でその名を県内に轟かせた石井は、地元の強豪・箕島高校に進んだ。

「県立なんで、スカウトとかそういうのではなかったな。まあ、地元なんで。まあまあね、箕島行くのが普通の流れで。僕らの代のキャプテンでセカンド守ってた上野山(善久, 同志社大からNTT西日本)なんかも、小学校の少年野球団から中学とずっと一緒だった。そういうメンバーでずっとやってたんで、箕島行くのはもうね、当たり前みたいな。学校もすぐそこですから」

1970年代、高度経済成長は終焉を迎えていたが、まだまだ地方は元気だった。至るところで子供が遊んでいる風景が見られ、そういう遊びの中から腕白坊主がアスリートとなっていった。有田川が海に注ぐ有田郡市周辺の野球少年たちが腕を挙げると「箕島」を目指すのは当然のことであった。

「僕らの時分のメンバーは、もうみんなこの辺りで軟式(野球)やってた連中ですよ。僕らが入った時は、東(裕司, 三菱自動車水島)さんって左のピッチャーで春優勝(1977年)してるし、その前にも優勝してるしね。やっぱり和歌山で野球といったら、箕島という感じ。そういうのもあって、当時は今みたいな野球留学生みたいなのはいなかったですね。オール和歌山です。当時の箕島高校は普通科、商業科、機械科と3つあって、ジャイアンツに行ったショートの上野敬三なんかは、和歌山市内(出身)なんですよ。彼らは当時、学区制があったので、普通科には来れなかったんで、商業科でした。(県南部の)新宮の本宮出身のメンバーは、過疎地ということで学区制がないから普通科。キャッチャーの嶋田(宗彦, 住友金属から阪神)はそれこそ、うちらの近所で軟式も硬式もやってたな」

先進的だった「箕島野球」
 
1970年代の高校野球界を席巻した箕島野球。その黄金時代の初期は尾藤公監督の「スパルタ指導」で名を馳せたが、石井が入学した頃には、その指導も様変わりしていた。まだまだ根性論が色濃い時代にあって、そこでは先進的な野球が展開されていた。石井は当時をこう振り返る。

「練習はむちゃくちゃしんどいってわけじゃなかったですよ。平日の全体練習は放課後の3時過ぎから7時ぐらいじゃなかったですかね。その後は、残って練習するやつは残ってするって感じでした。夏休みなんかも、昼まで練習したら、その後は3時くらいまで休憩でした」

ただし、マシンを備えた雨天練習場があり、夜でもバッティング練習は存分にできる環境は整えられていた。そのような環境以上に、尾藤監督の進取の気性が「箕島野球」を形作っていたと石井は言う。

「我々には、当時すでにチームドクターがついていましたから」

学校の近くに医院を構える医者が尾藤の依頼を受けてチームを医学的見地から支えていたのだという。

「その先生が医学的なところからどんどん指導してくれたんですよ。今は当たり前のスポーツドリンクを発案したのもその先生ですし。僕らには、食事の部分から指導してくれました」

当時、「オール和歌山」の箕島高校野球部の選手は、僻地から来た数名の選手以外は自宅から通学していた。チームドクターは、選手の各家庭に今でいう「食育」をほどこした。

「うちは姉が大学の食物科行ってたんで、その先生からこんなもん食べた方がいいって指導受けてました。疲労で食べれん時はこういうもん食べとかね」

1970年代当時、エアコンのある家庭はまれだった。スポーツ選手は体を冷やしてはいけないと、野球選手、とくに投手は、プールに入るなどもってのほかと言われていた時代だ。そんな時代にその医者は、冷房をかけて寝るように石井に指導したという。

「僕の部屋には、その当時にもうクーラーがありました。その先生が、夏はクーラーつけて寝ろって。だから一家で僕の部屋だけはクーラーあったんですよ。今だったら当たり前のことですけど」

その医者の指導はトレーニングにまで及んだという。

「2年になる春の甲子園は福井商業に負けたんですけど、自分なりにその原因は何だろうって考えた結果、握力低下という結論にたどり着いたんです。それで、そこから綱登りをやったりっていうようなね。家にその設備を設置してもらったんです」

甲子園の常連、箕島の強さの裏には、尾藤が導入した先進的なアイデアと、それを支える地元のバックアップがあったのだ。その姿はまさに「オール和歌山」だった。作戦面においても、尾藤野球はそれまでのセオリーにとらわれることはなかったと石井は言う。

「まあ、高校野球は、監督によって作戦や手法は変わりますね。今なんかだと、絶対バントをしないっていうところもあるじゃないですか。それがたまたま勝ってしまうと、それが正解になっていったりします。ただ、そこチームやからそれでやれたというだけで、そこまでの力のないところがそんな方針だったとしても、勝てるわけじゃないでしょ。やっぱりスポーツって、精神的な部分でね、勝っていかなあかんっていうところもあると思います。僕らの、尾藤野球でいうと、心理野球的なところが多かったですね。例えば、2点リードされてる9回に1アウトランナー1塁で送りバントのケースがあったんですよ。これ、普通でいうたらおかしいですよね。仮に(送ったランナーが生還して)1点取っても、まだ 1点差ありますからね。でも尾藤さんはこう考えるんです。そうやって自分たちが仕掛けて1点を取ったとしたら、その後、ツーアウトからでもさらに2本ヒット打てばもう1点返せるやろうと。勝負の世界って、それがハマりゃすごいなってなるし、ハマらんかったら何してんのってそれで終わるんですけど」

母校の衰退の中、野球の火を灯し続ける覚悟
 
石井は、最後の夏に優勝するまで、甲子園には春夏合わせ4回出場。マウンドには16回立ったという。

「さっきも言ったように、2年になる春に初めて出たんです。その時は、前年の春に優勝した時のエースの東さんが抜けたんで、投手力が弱いっていう評価だったんやけど、1回戦の黒崎工業に1-0で勝ったんです。僕も調子よかったんで。よく、星稜との試合(1979年夏の延長18回の死闘)を言われるんやけど、やっぱりその黒崎工業戦は僕の中では印象に残ってるね」

石井の口からは、箕島と同じく「公立の雄」であった池田高校との戦いや、黒崎工業戦同様、1-0で辛くも完封勝ちを収めた好投手・高松直志(のち電電東北)擁する能代高校など古豪の名が次々と出てきた。しかし、高校野球がビジネス化し、少子化の中、私学の生徒集めの広告塔となってしまい、地方が活気をなくしていく中、これらの高校の名は歴史のかなたに消えようとしている。
箕島高校もその例にもれず、今、存続の危機に立たされている。甲子園には2013年の夏に出場したのが最後。プロ球界にも、2017年ドラフトで育成1位で指名された中川虎大を最後に人材を送り込めずにいる。そして、この夏も初戦敗退。3年生が引退すると、部員は6人になるという。

ここ20年ほど、甲子園の和歌山代表と言えば、智辯和歌山一強の感がある。和歌山市内でさえ中学レベルのチームがたった4という現状にあって、かつての和歌山野球の中心地であった有田郡市地区の少年野球人口は激減している。
高校時代、石井はプロ志向ではなかったという。彼にとっての「プロ野球選手」は2つ上の先輩だった。プロでは小柄ながら渋い脇役として活躍したその先輩だったが、高校に入りたての1年坊主にはその背中が大きく見えた。

「中日に行った上川(誠二)さん。1年生の時の3年生って、やっぱりすごく大きく見えるんです。上川さんも甲子園で優勝してますからね。最近は年2回ほど野球教室で一緒になるけど、ちょっと歳取ったなって(笑)。まあ、僕もそうなんやけど」

65歳になる石井は、和歌山野球の火を灯し続けるため、少年たちに自らの経験を伝え続けている。

                (続く)

📣甲子園は「間違いなく難しい」 令和0勝、宮崎代表に何が必要なのか
https://news.yahoo.co.jp/articles/199783db8a4d0557a9e0fa22e8530a51c2a15c28

「甲子園で勝つのって難しい」。いま、最も強く感じているのが宮崎県の高校野球関係者ではないだろうか。春と夏を合わせた宮崎代表の戦績は、2018年夏の第100回大会で日南学園が初戦で勝ったのを最後に、令和に入ってから0勝。これは全国で宮崎のみだ。甲子園で勝つには何が必要なのか。ヒントを得ようと高校野球に携わる人々を訪ねた。

まずは甲子園で勝つことの大変さを知りたい。そう考えたとき、ある強豪校の元監督の名前が浮かんだ。沢田真一さん(61)だ。
岩手県の私立盛岡大学付属高の野球部を部員10人、専用グラウンドもない状態から指導。監督を務めた18年のうち春夏計7回、甲子園大会に出場した。だが、1回も勝てなかった。

地方大会を幾度も制したのに、甲子園はそんなに難しかったのか。そう尋ねると、沢田さんは「間違いなく難しい」と答えて、こう続けた。「地方大会ではなかなか見ないような速球を投げる投手、強く速い打球を遠くへ飛ばす打者がゴロゴロいる。まったく違います」

ならばどうしたら勝てるのか。沢田さんが指摘したのは日々の練習の取り組みだ。「豪速球を打つ、強烈な打球をさばく、投手は長打を防ぐため低めに変化球を集める。その準備と確認を本気で徹底していないと勝てないでしょう」。例えば、速く強い打球を捕球するにはどうすればよいかといった、細やかな指導が不足していたと振り返る。

■「魔法の言葉」出せず

選手たちのプレーへの意識と集中力にも違いを感じた。例えば、1死一、三塁の場面。捕手が投球を捕りそこねて前に落とすと、甲子園では一塁走者のほとんどが二塁へスタートを切るという。

「捕手はまず三塁走者の動きを見るので二塁に送球できない。でも地方大会では走らない選手が割といる。甲子園では野手も、場面に応じて幾通りものプレーを想定して準備する選手ばかり。みんな野球偏差値が高い」。それを選手に浸透させるには指導者の知識と情熱が必要という。「選手ともども日々の練習を、どれだけ本気で甲子園に出て、そこで勝つと思って取り組めているかだと思います」

大舞台で普段の力を発揮する難しさもあった。地方大会では選手の心やチームに火をつける言葉をかけて勢いに乗せることができていた。だが、甲子園ではその「魔法の言葉」を出せなかった。スタンドを埋める大観衆の一球一打への地鳴りのような歓声に、ずらりと並ぶ報道陣のカメラ。強い相手との息の抜けない戦いに、自身も舞い上がり、緊張した。

■「よそゆきの野球」で失敗

普段通りにサインを出すことさえ難しい。地方大会ではあまり使わなかったバントのサインを多用して失敗を重ねる「よそゆきの野球」をしてしまったこともあった。

「僕は上がり症。甲子園の魔物を退治してやると、楽しむぐらいの余裕があればよかったのですが。7回も行ったのに、なかなかそうはなれませんでした」と振り返る。

監督を教え子に譲り、総監督になってから観客席で甲子園初勝利を経験した。「最高にうれしいものでした。同時に、自分が監督をした選手たちにはここで校歌を歌わせてやれなかったと申し訳なくもなりました」

いまは、同じ盛岡市内の私立盛岡誠桜高で女子硬式野球部の監督を務める。高校女子野球の夏の全国大会決勝は甲子園が舞台だ。今度こそ監督として甲子園で1勝をあげ、教え子たちに校歌を歌わせたい。その思いでグラウンドに立ち続けている。
2026/08/02(日) 22時13分13秒 No.2558 編集 削除