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宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

編集済
⚾今日の中国六大学野球春季リーグ戦1部(倉敷マスカットスタジアム)
周南公立大8-0広島文化大(7回コールド) 08:53~10:53
環太平洋大7-0吉備国際大(7回コールド) 11:35~13:52
東 亜 大8-2岡山理科大         14:28~16:58

⚾今日の中国六大学野球春季リーグ戦3部(倉敷マスカットスタジアム補助球場)
島根県立大8-4尾道市立大         08:54~11:17
山口 大学14-3比治山大学(5回コールド) 11:58~13:38
岡山県立大6-4倉敷芸科大         14:18~17:09

昨年9月から約半年間改装工事をしておりましたが、マスカットの方はスタンドは何も変わりなく、目についたのはアンツーカーが土から人工芝に変わっていたことくらい↓↓
サブカットの方はスコアボードがずいぶんコンパクトになり、試合参加している選手名の表記がなく、打者と投手の球数くらいしか表示されないが見やすくはなってました。

1部は通算4度目の観戦となりますが、過去最悪の内容の悪さであわや3戦連続コールドゲーム成立の危機が、、、岡山県営で春2年連続2部を観戦した時は5戦連続コールドでブチ切れましたが・・・。今日もそれに近いような感じでしたが、意外と3部リーグは白熱の試合を展開しており第1・第3試合は最終盤のみ見学できました。

💢九州国際大付野球部で暴力事件 楠城監督が日刊ゲンダイに明かした「不祥事」への言い分
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/386052

高校野球でまたも暴力沙汰である。2日発売の「週刊文春」で報じられた、今春のセンバツに出場した九州国際大付(福岡)の部内暴力事件。記事によれば2月末、プロ注目のA選手が同じ野球部のB選手の顔にスパイクで蹴りを入れるなどの暴力。B選手は全治1カ月の負傷で入院し、警察に被害届を提出した。当初、楠城祐介監督はB選手の親族に「事故でA選手の足が顔に当たった」と説明をしていたという。B選手は転校し、今後は学校、監督への訴訟も検討中だというのだ。

これには伏線があり、以前からB選手はA選手以外の野球部員からもいじめに遭っていたとも報じられている。文春によればこのA選手は、暴力事件とは別に、1月21日に高野連から「厳重注意」と1カ月間の「出場資格停止処分」を食らっているという。理由は授業中の「校則違反」で、野球部は高野連に報告。出場停止期間は3月19日からで、センバツでは背番号がもらえなかった。この処分自体はセンバツ開幕前に高野連から発表されており、本紙記者は大会期間中、楠城監督にその件について直撃していた。

──部員の何人かが話しているのを聞きました。当該選手が「教師に注意されたことに逆ギレし、暴力を振るった」とのことですが、本当ですか?

「え? 本当にウチの部員がそんなことを話していたのですか? (不祥事の詳細は)全然違いますよ。プライバシーに関わるので、内容は言えませんが……」

──ウワサは事実ではない、と。

「ええ。なぜ詳細を言えないのかといえば、高野連から『野球部員(の不祥事)でも、一般生徒と同じ形で扱ってくれ』と言われているからです」

──未成年の高校生の不祥事なので、名前や詳細を明らかにする必要はない、と。

「そうですね。付け加えれば、従来、高校野球で起きた不祥事は即座に出場停止処分などが出ていましたが、オフシーズンに公式戦出場を禁止しても罰にはならない。だからセンバツの開幕日(19日)からとなった。そもそも我々が不祥事を隠していたわけではありません」

なるほど、筋は通っているものの、その後に暴力事件まで起こしたとなると、話は変わってくる。A選手はチームに同行し、3月14日の甲子園練習にも参加していた。背番号をつけず、打撃練習では快音を連発。多くの報道陣の目を白黒させた。

ちなみにA選手の校則違反について、週刊文春は、授業中のスマホ利用を注意され、スマホ没収。逆ギレして教師を蹴ったなどと報じている。九州国際大付は今回の部内暴力事案に関して、すでに高野連に報告している。真相究明は待ったなしだ。

👣スターも寮もないチームで甲子園4度 金光大阪を支え続けた"伝説の部長"のラスト
https://news.yahoo.co.jp/articles/5594f3da6ea32e361241d75290662f8fa31410b2

金光大阪「伝説の部長」櫻井富男インタビュー(前編)

甲子園球場で行なわれる選抜大会の決勝日(3月31日)が、野球部長としての最後の一日となる。激戦区・大阪で金光大阪の野球部を40年以上にわたり部長として支え続けてきた櫻井富男が、いよいよ退職の時を迎えようとしている。

「最後の日は、親しくさせていただいている高田商業(奈良)が練習試合に来てくれる予定なので、指導者の方々にあいさつをして、最後にウチの選手たちにも少し話をしようかなと思っています。天気がよければいいんですけどね」

【1207人の教え子】

コアなファンが増えた情報時代とはいえ、「櫻井富男」の名を聞いてピンとくる人は、どれほどいるだろうか。チームによっては技術や戦術面の指導に積極的な部長もいるが、櫻井はそのタイプではない。試合中はベンチの奥に立ち、選手の動きに目を凝らし、ときおり気合の声を飛ばす。試合後はベンチ裏で手際よく選手に指示を出し、帰り支度を促す。普段は裏方に徹しながらも、何気ないやりとりの端々から温かさと実直さが伝わってくる。

創立44年を迎える金光大阪(旧・金光第一/大阪府高槻市)で、野球部顧問を43年務め、監督兼任の約3年を含めて部長として42年、66歳となった今日まで、野球部、そして選手たちを見守り続けてきた。

「コレ、見て下さい」メガネの奥の目を細め、手にしていたのは、この春巣立っていった3年生の野球部員38名(マネージャーを含む)のうちのひとり、イラストの専門学校へ進む生徒から贈られた似顔絵だった。優しいタッチで描かれた柔らかな笑み。その作品からは、生徒の櫻井への思いが伝わってくるようだった。これまでに送り出した教え子は、じつに1207人。大好きな野球と子どもたちに囲まれた時間は、「本当にあっという間」だったという。

櫻井の生まれは、愛知県名古屋市。両親ともに熱烈なドラゴンズファンという家庭で育ち、小学校から野球に親しんだ。中学、高校と公立校で野球を続け、高校時代は「セカンドをやったり、外野を守ったり」と、目立つ存在ではなかった。中京大では野球は続けず、教職課程の履修を目指す一方、空き時間には母校の中学や高校で野球部の手伝いをしていた。そんな大学4年のある日、中学時代の野球部顧問から思いがけない誘いを受ける。

「今年、大阪に開校した私立高校で、来春から野球部の監督をすることになった。コーチとして一緒に来てくれないか」

教員の人気が高く、採用のハードルも厳しい時代だった。ありがたい誘いではあったが、当初は県内の中学校で保健体育の教員になることを考えていた。「試験に受からなかった場合でもよろしければ......」と伝えたうえで受験したものの、結果は不合格。もともと倍率が高く、体育志望であればなおさら厳しかった。

こうして1983年春、恩師とともに開校2年目の金光第一へ赴任することとなり、特段縁のなかった大阪での暮らしが始まった。

【横井一裕との二人三脚】

野球部指導1年目は、恩師が監督と部長を兼任し、櫻井はコーチを務めた。まだ同好会のような雰囲気が残っていたチームは、この年に日本高校野球連盟へ加盟する。当時、PL学園の清原和博、桑田真澄の"KKコンビ"が誕生し、大阪の高校野球熱が一気に高まっていた時期でもあった。

しかしその3年間、金光第一は夏の大阪大会で初戦敗退がつづく。1勝が遠い新鋭校にとって、その熱狂はまだ別世界の出来事だった。そして櫻井が赴任して4年目に監督が交代し、後任には日本体育大出身で、現役時代に神宮大会でMVPを獲得した経験を持つ澤井龍平が就任した。

櫻井が言う。「大阪の公立校の島上(現・槻の木)出身で、粘り強い全員野球が持ち味。指導者も生徒も、普段の学校生活を大切にしながら野球にも全力で向き合う。そんな"金光野球"の土台をつくってくれた方です」

澤井と櫻井による新体制で臨んだ1986年夏、金光第一は柏原東を2対1で下し、夏の公式戦初勝利を挙げた。石拾いから始めたグラウンドも徐々に整備され、選手も少しずつ揃うようになった。そんななかで「横井(一裕/現・金光大阪監督)が入ってきたんです」と櫻井は振り返る。横井は1年時から二塁のレギュラーを務め、2年夏にはチームをベスト4へと導く快進撃を見せた。

のちに金光大阪の難敵となる大阪桐蔭が、甲子園初出場の春につづいて連続出場を果たし、日本一に輝いた1991年夏のことだ。この前後、1990年の選抜で近大附、1993年の選抜では上宮が優勝を果たし、PL学園一強時代から新たな流れが生まれつつあった時代だった。そのなかで金光も存在感を高めていくチャンスだったが、1995年春、校内人事によりチームを力強く率いてきた澤井が系列校の金光八尾へ異動。櫻井が監督を任されることとなった。

「サインの出し方から勉強しながらのスタートでしたので、しんどかったですね。客観的に見ても、自分は監督向きではなかったと思います。そこへ6月に大阪体育大の4年だった横井が教育実習で戻ってきたんです。だからすぐに『一緒にやるぞ!』と声をかけました。大学の単位もほとんど取り終えていて、野球部も引退していたので、3月まで手伝ってもらいました」

一方で櫻井は、横井について校長にこう進言していた。

「教育実習での授業を見ても、教師としての適性は間違いありませんし、人間的にも非常にしっかりしています。体育教員として本校に迎え入れれば、将来の野球部監督としても適任だと思います」

翌春から横井が非常勤講師として採用され、野球部ではコーチも務めることになった。夏の大会が終わった頃、再び櫻井が横井に言った。

「新チームから監督せぇ! オレも支えるから今から勉強や」

若干23歳の横井新監督が誕生し、ここから部長・櫻井との長きにわたるコンビが始まった。やがて校名も金光大阪へと変更され、新体制5年目の2002年、ついに初の甲子園となる選抜大会の出場を決める。

【吉見一起を擁して初の甲子園】

2001年秋には初めて大阪大会を制し、近畿大会でも準優勝。その快進撃を支えたのが、今春開催されたWBCで侍ジャパンの投手コーチも務めた吉見一起だった。その吉見との出会いについて、櫻井はこう振り返る。

👣吉見一起と紡いだ絆 監督と築いた奇跡 金光大阪の名物部長43年の "最大のタイムリーヒット"とは?
https://sportsbull.jp/p/2303378/

金光大阪「伝説の部長」櫻井富男インタビュー(後編)

金光大阪野球部の歴史の扉を開いた吉見一起との思い出は、高校卒業後にも広がっていく。吉見はその後、トヨタ自動車を経て、2005年のドラフト希望枠で中日に入団。その知らせに、熱心な中日ファンだった櫻井富男の両親は大いに喜んだという。

【父の誇りだった吉見一起の仲人】

「とにかく、親父とおふくろが喜んでくれたのが、私にとってもうれしかったですね。この2月で親父が亡くなって1年になりますが、棺のそばには、吉見が中日を引退した時の『月刊ドラゴンズ』を一緒に置いたくらい、中日も吉見も大好きでした。私は吉見の仲人も務めたのですが、それがまた親父の自慢でしてね。晩年は入院生活が続いていたのですが、どこの病院でも『ウチの息子は吉見の仲人をした』と話していたみたいで。見舞いに行くと、まず看護師さんから『吉見選手の仲人をされたんですね』と言われるほどでした。だから私にとって、一番の親孝行は、吉見が中日に入ってくれたことでもあるんです」

櫻井はこれまでに2組の仲人を務めており、1組が吉見、もう1組が横井一裕だ。26年前、"先生"と"生徒"として始まった関係は、やがて部長と監督という立場へと変わり、じつに約30年にわたって続いてきた。櫻井に監督・横井について尋ねると、自慢の教え子を語る師のように、言葉が次々とあふれ出してきた。

「何より感心するのは、とにかく妥協しないところです。たとえば翌日に大会が控えていて時間がないときでも、やるべきことだけを済ませて生徒を帰し、自分は明日の作戦を考えればいいと思うような場面でも、ボールがひとつ落ちていたり、何か引っかかることがあれば、いつもどおりしっかり話をする。今日やるべきことは、その日のうちにやりきる。そのあたりは徹底しています。

50歳を過ぎて少し丸くはなってきましたが、今でも練習では声を張り上げて、『おかしいことはおかしい』『間違っていることは間違っている』とはっきり伝えています。ただ、それもすべて子どもたちを思ってのこと。とにかく愛情が深いんです。彼が最も憧れている監督は澤井龍平ですが、その澤井さんも同じような方でした。だから横井が監督になってから10年くらいは、叱り方もミーティングでの話もよう似ていましたね」

【最大のタイムリーヒット】
 
エネルギッシュな一方で、はみ出ることはしないとも語る。

「いまでも、必要なものがあって部費を使う際には、どんな少額でも必ず事前に私の許可を取りに来るんです。『あとでもいいでしょう』とは決してならない。お酒もそれほど飲まないし、野球が趣味のようなもの。授業も担任業務もきっちりこなし、今は生徒指導部長も務めています。ひと言で言えば真面目。そこが私とも合ったんでしょう(笑)」

高校野球の世界では、監督と部長の関係がこじれることも少なくないが、櫻井と横井の間にはそうしたトラブルは一切なかった。練習後のスタッフルームで「先に失礼するで」と櫻井が腰を上げると、横井やコーチたちから「お疲れさまでした!」と明るい声が返ってくる。そんな温かな空気が、最後まで変わることはなかった。

「横井に『こうしたらどうだ?』と口を出すことはほとんどなかったし、あいつも私に『こうしてください』と言ってくることはほとんどありませんでした。お互いに自由にやれていたと思います。もちろん教え子という関係もあったのでしょうが、しっかり立ててくれましたし、私自身に監督としての欲がなかったことや、選手として一流ではなかったことも、うまくいった理由かもしれません。でも、いい監督ですよ。だから今になって思うのは、金光大阪で野球部に関わるなかで、私にとって一番の仕事は横井一裕君に監督として白羽の矢を立てたことだった、ということです。これが私の野球人生の最大の"タイムリーヒット"だったと思っています」

毎日、監督や部長の姿を見ている生徒たちは、「この人たちに嘘はない」「信頼できる」と感じていったのだろう。そうした信頼はやがて、監督、部長、スタッフが一枚岩となった空気としてチーム全体に広がり、選手たちにも伝わっていく。その積み重ねこそが、金光大阪野球部の伝統とも言える一体感や熱を生み出していったのだろう。

【5度目の甲子園は果たせず】
 
櫻井にとって最後の大会となった昨秋は、まさに「これぞ金光大阪」と言える、しびれるような戦いの連続だった。逆転、サヨナラ、そしてまた逆転──。事前の戦力予想からすれば失礼ながら、大阪3位から近畿大会出場という結果は想像しがたいものだった。新チーム発足時、選手たちに向けて横井が口にした言葉が、その始まりだった。

「いよいよ3月末で櫻井先生が退職や。もう一度甲子園に連れて行って、最後の公式戦を甲子園で戦わせてあげたい。勝っても負けても、胴上げして送り出したい。そのためにも、まずは近畿大会。全員で力を合わせて行こうやないか!」

普段からの信頼関係が築かれていなければ、選手の気持ちは簡単にはひとつにならない。しかし、こうした局面で一気に結束できるのが金光大阪というチームだ。見事な戦いぶりを見せた。

大阪大会初戦は春日丘に10対0のコールド勝ちと好スタートを切ったが、その後は接戦の連続だった。関大一には3対2のサヨナラ勝ち、東大阪大柏原には4対3、箕面学園には4対1と、いずれも逆転で勝利。興国を3対1で下してベスト8に進出した。準決勝では大阪桐蔭に敗れたものの、2点差まで食い下がる粘りを見せる。続く3位決定戦では、相手部長が金光の教え子でもある太成学院大高に勝利し、近畿大会出場を決めた。

「ヨッシャーーッ!!」

大会中、勝利が決まるたびにベンチには歓喜の雄叫びが何度も響き渡った。そのなかで、横井と櫻井は真っ先に手を取り合い、さらに──。

「秋はそこにハグも加わりました(笑)。本当に劇的な試合が続いて、選手たちがよくやってくれたおかげで、最後の最後にいい思いをさせてもらいました」

試合後のベンチ裏では選手たちが涙を流し、横井も何度となく感極まった。部長のために、監督が純粋に涙するチームがどれほどあるだろうか。

あとひとつ勝てば選抜出場が見えた近畿大会では、初戦で同大会優勝、神宮大会準優勝を果たした神戸国際大付に1対3で惜敗。通算5度目の甲子園出場で櫻井の勇退に花を添えることはできなかった。あと一歩のところで思いは叶わなかったが、それでもこの結果もまた、泥臭い戦いを身上とし、汗と涙がひときわ似合う金光大阪を長年支えてきたベテラン部長のラストにふさわしいものだったと言えるだろう。

【部長退任後にやりたいこと】
 
それから数カ月。ひとつの節目を前に、櫻井はしみじみと40年余りの歳月を振り返った。

「昔、うまいことを言う校長がいましてね。『生きがいをお金に変えてはいけません』って。今ならそんなことを言うと叩かれるのかもしれませんが、あの頃は、1カ月の給料のなかに教員として、また野球の指導者としてのやりがいや生きがいも含まれていると思ってやっていました。いい時期に教員をさせてもらい、野球部にも関わらせてもらって、いいタイミングで区切りを迎えることができた。中学生の頃に『将来は体育の先生になりたい』と思ったのが始まりですから、今になって、いい職業を目指したなと、つくづく感じています」

今春で退任するという話が伝わり始めると、教え子や関係者からの連絡が相次いだという。これからは、教え子や仲間たちとともに、40年余りの思い出を振り返りながら、穏やかで楽しい時間を過ごしていくのだろう。

「4月からは時間もできますから、これまでお世話になった学校や横井監督に、ボランティアという形で恩返しをするのがひとつの役目かなと思っています。あとは、土日も夏休みもなく家のことを任せきりだった妻への恩返しですね。ここを一番頑張らないといけません」

ここでもまた優しい笑みを浮かべ、いよいよひとつの区切りの時を迎える。選抜決勝が行なわれる3月31日、思い出の詰まったグラウンドで、部長として最後の務めを果たす。

💢広陵野球部・暴力問題「加害生徒」側が「被害者の親」を刑事告訴 双方の主張は… 被害者親は「個人を特定の意図はない」と説明 加害者代理人弁護士は「オーバーキルの状況が生まれた」と主張
https://news.yahoo.co.jp/articles/a65b2019003860d48f6c2f96fbe2108db8e57772

昨年夏の甲子園期間中に日本列島を震撼させた広島の名門・広陵高校硬式野球部の集団暴行事件に新展開だ。「加害者のひとり」が、「被害生徒の親権者」によるSNSへの投稿によって誹謗中傷を受けたとして、親権者を名誉毀損で刑事告訴し、広島県警が3月23日に受理していたことがわかったのだ。告訴状が受理されたことを受け、被害者の父親が筆者の取材に対し、冷静に次のように話した。

「当時は同じような被害を防止したいという思いで、息子が受けた暴力の内容や学校などとのやりとりをSNSに投稿していた。加害者とされた生徒を陥れようという意図はなく、個人が特定される情報が結果的にSNS上で拡散されたことはこちらの意図とは異なります。今後は弁護士を通じて対応していきます」

事件が起きたのは昨年1月。当時、1年生だったA君とB君が寮のルールで禁止されていたカップラーメンを食べたところ、複数の2年生部員から注意を受け、集団暴行を受けた。当時、被害者A君の家族が学校側に質問を投げかけ、学校側が回答した報告書が残っている。そこには、当時の監督であった中井哲之氏がA君に対し、暴行事件に関する報告を「出されては困りますやろ」と迫る会話が記されている。それにA君とその家族は強い不信感を抱き、広島県警に被害届を提出。その後、SNSを通じて被害を告白し、問題が明るみに出たのだが、加害者の名前をさらしたわけではないというのが被害者側の主張である。

そもそも、加害者が被害者の親権者を刑事告訴する意向が明らかになった昨年9月の時点で、加害者の代理人を務める玉井伸弥弁護士(加藤・轟木法律事務所)はこう話していた。

「仮に告訴状が受理されなかったとしても、(告訴状を提出する)行動に出ることでSNSによる誹謗中傷など二次被害の抑止力になりますし、投稿元の情報開示請求はしていくつもりです」

この時点での告訴状の提出先は東京地検だったが、今回、告訴状を受理したのは広島県警となっている。改めて玉井弁護士に聞いた。

「直接、公表はしなくても……」

「東京地検の方から事情に精通した安佐南署(広島県警)に告訴状を提出したほうがいいと薦められたのです。昨年11月に提出はしておりましたが、広島県警としては第三者委員会の関係者への聞き取りも終わったということで、3月23日に受理されました」

既に被害者は転校し、加害生徒らは2月に卒業式を迎えて、現在は第三者委員会(昨年10月に学校が設置)の報告を待つ段階であるが、加害生徒はSNSで名前をさらされたことで進路選択にも大きな影響が出たという主張だ。玉井弁護士が続ける。

「加害者も(暴力事件の)一部は認め、(事件の直後に)既に謝罪したつもりでいました。猛省し、反省し、学校の処分を受けたにもかかわらず、昨年の夏に名前をさらされた。いわばオーバーキルの状況が生まれたわけです。我々としては投稿した親権者に加え、拡散した(インフルエンサーの)方々に対しても問題にしたい」

しかし、親権者が加害者の名前を公表したわけではない。

「直接、公表はしなくても、内部資料等を渡して拡散を共謀したのではないか。その辺りが明らかになれば……」

昨夏に暴行事件が報道されて以降、被害者の父親と連絡を取り合い、広陵の抱える闇を報じてきた筆者のもとには、「被害者(A君)にも問題があった」「A君がもともと先輩に対して反抗的な態度を取っていた」というような声や連絡が相次ぎ、学校関係者も自己弁護するようにそれを拡散していた。A君は集団暴行事件の被害者なのだ。まさしく多勢に無勢の状況が生まれており、転校を余儀なくされたA君にとって二次被害のようにも受け取れた。

加害者のひとりである生徒と、被害者の親権者の主張が法廷で争われることとなり、学校の受験者や野球部の入部希望者も減少するなか、広陵は「すべては第三者委員会の結果が出てから」と話すのみだ。被害者らが求める中井前監督らの謝罪と再発防止策の徹底を公にすることはなく、だんまりを決め込んでいる。これでは信頼を取り戻すことは難しく、名門野球部の再建にはまだまだ時間がかかるだろう。
2026/04/05(日) 23時42分22秒 No.2357 編集 削除