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🎤【馬淵史郎 我が道14】「明日、松坂は投げない」に残念という思いが…
https://news.yahoo.co.jp/articles/918535387dec877b18c1bffacabf9e8a84c1efdb

松坂大輔の投球を初めて見たのは1998年(平10)の選抜大会前の甲子園練習だった。明徳義塾の前が横浜の練習でな。一塁側のブルペンでの投球練習を、真横でネット越しに見て「これはええピッチャーや。凄いのがおるな」と感心した。特に印象に残ったのは彼のスライダーだった。

春は準々決勝でPL学園に1点差の逆転負け。勝っていたら横浜戦だった。高知では藤川球児(阪神監督)、そして全国では松坂を打たないと勝ち進むことはできない。「松坂を打てんかったら優勝はできんぞ。県内には藤川もいる」とミーティングでも活を入れて、150キロ打ちの練習にも、また熱が入った。明徳義塾にも左腕の寺本四郎(元ロッテ)がいたから、勝負は十分できると思っていた。
藤川だけでなく、高知には土居龍太郎(元横浜、ロッテ)もいた。松坂世代といわれるように、各地に好投手がいた。この年は徹底的にバットを振らせた。速い球に負けないスイングを身につけることが、ベスト8やベスト4の壁を破ることにつながる。必死の練習がやっぱり生きてくることになる。

夏の高知大会。高知商が準決勝で高知に負けて、藤川との再戦は実現しなかったが、決勝では土居に土をつけた。接戦だったが、8回に同点に追いつくと、延長11回に5番の谷口和弥がサヨナラ本塁打。「よっしゃ、甲子園で松坂と対戦するまで負けんぞ」と気合を入れて乗り込んだ。

甲子園では初戦の桐生第一(群馬)に延長10回サヨナラ勝ちすると、金足農(秋田)、日南学園(宮崎)を下して勝ち進んだ。そして準々決勝。8月20日の第1試合が横浜とPL学園の熱戦だった。明徳義塾は第2試合で関大第一(北大阪)との対戦で甲子園の室内で待機。だが、前の試合が終わらない。延長17回の死闘。ずっとモニターで試合の展開を追っていた。

「どっちが勝つのか」も気になったが、この長い試合が明徳義塾の試合にどう影響するのかも考えていた。終わりが見えない試合。となると試合の入りが難しくなる。明徳義塾は第2試合で先攻ということが決まっていた。関大第一のエース久保康友(元ロッテ、阪神、DeNA)もいい投手だったが、この待機の中で調整は簡単じゃない。何度も何度もブルペンで最終調整をする姿が浮かんだ。
「この延長戦はうちにプラスや。見とってみい。初回に点が取れる」と選手に伝え、気持ちを高めた。松坂は延長17回250球を一人で投げ抜き、横浜が勝利。明徳義塾も予想通りに久保の立ち上がりを攻略した。6番の松元政樹の3ランなどで初回に4点を挙げ、11―2でベスト4を決めた。

思惑通りの流れになったが、試合後に「明日、松坂は投げない」という話を聞いた。残念という思いが先立った。

📝誤審、隠し球、美爆音…センバツで物議を醸した“場外騒動”列伝
https://news.yahoo.co.jp/articles/32df7466171711f949d9024ab52249c4d699f25f?page=1

「春はセンバツから」のキャッチフレーズでおなじみの選抜高校野球大会。今年で98回目を迎えたが、長い歴史を振り返ると、グラウンド内の熱戦だけでなく、判定やプレー、応援をめぐって大きな波紋を呼んだ“場外騒動”も少なくない。今回は、そんなセンバツで物議を醸した3つの出来事を取り上げたい。【久保田龍雄/ライター】

ベストの努力をした
 
今でも「センバツ史上最大の誤審」として語り継がれているのが、1984年の1回戦、高島対佐賀商である。

問題の判定が起きたのは5回裏、佐賀商の攻撃中だった。3対1とリードしていた佐賀商は、この回にタイムリーで1点を追加し、なおも無死満塁。ここで中原康博が放った打球は左中間へ大きく伸び、フェンスの4、5メートル手前でワンバウンドすると、そのままラッキーゾーン内へ飛び込んだ。通常なら、2点が入るエンタイトル二塁打となり、なおも無死二、三塁で試合が続く場面である。ところが、打球を最も近くで見ていた二塁塁審は「ホームラン」と判定した。両軍ベンチだけでなく、スタンドの観衆やテレビで観戦していたファンの多くもワンバウンドと見ていただけに、この判定は大きな騒動に発展した。

問題のシーンがテレビ中継のVTRで流れたあと、大会本部には視聴者から「ワンバウンドでラッキーゾーンに入ったのではないか」という抗議電話が殺到。試合後には、当該審判と責任審判が会見を行う異例の事態となった。

その後、牧野直隆大会委員長は「事実関係を検討した結果、ワンバウンドのあとラッキーゾーンに入ったもので、審判委員の判定に誤りがあったとわかった」と誤審を認めた。一方、当該審判は「打球の行方を追って走り、確認したうえで、入ったと判断した。満塁のケースでの追い方としてはベストの努力をした」と釈明している。
ただ、高島側からアピールがないまま試合は進行したため、記録は満塁本塁打のままとなり、試合も佐賀商が17対4で大勝した。打球を追っていた高島の左翼手はワンバウンドに気づいていたものの、緊張のあまりアピールする余裕がなかったという。高田明達監督も「審判の判定は判定です」と結果を受け入れたが、この騒動は思わぬ余波ももたらした。

センバツでは当時、ラッキーゾーン後方に歴代優勝校の校名プレートが展示されていた。ところが、ラッキーゾーンの金網越しに見える白地のプレートが白球を見えづらくしていたのではないかという指摘を受け、その日のうちに撤去されたのである。たった一度の誤審が、長年親しまれてきたセンバツ名物を消すことになった。

高校生らしくない
 
隠し球プレーが大きな反発を呼んだのが、1988年の3回戦、上宮対高知商である。高知商のエース・岡幸俊は、3日前の2回戦・福岡第一戦で延長12回を投げ抜き、その疲れから翌朝に風邪で発熱。それでも体調不良を押して先発し、上宮打線に8回まで13安打を許しながらも2失点に踏ん張る力投を見せていた。

そんなエースの奮闘に打線も応える。2対2の8回1死一、二塁、岡林哲が右翼線に勝ち越しのタイムリー二塁打を放ち、高知商は3対2と勝ち越し。なおも1死二、三塁とチャンスが続き、流れは高知商に傾いたかに見えた。ところが、その直後に思わぬプレーが飛び出す。二塁走者の岡林が塁を離れた瞬間、上宮の2年生ショート・元木大介が近づいて素早くタッチし、二塁塁審は「アウト」を宣告した。いわゆる隠し球である。

岡林は「一瞬何だかわからなかった。ショートがボールを持っているのを見て、やられたと気づいた」と振り返ったという。一方の元木は「相手が喜んでボールをまるで見ていなかったので、やってやろうと思いました。勝ち越されても、あきらめたらいかんと思っていました」と、してやったりの表情だった。このプレーで試合の流れは一変する。高知商はこの回、追加点を奪えず1点止まり。その裏の攻撃で、上宮は集中打で一挙5点を奪い、7対3で逆転勝ちを収めた。

だが、試合後は元木の隠し球に怒りを覚えたファンから「卑怯なことをするな」「高校生らしくない」といった抗議の電話が学校に相次いだという。

当時は高校野球でも隠し球は時折見られ、甲子園でも1986年夏に松商学園の三塁手、87年夏に帝京の一塁手が成功させていた。元木のプレーがこれほどまでに非難されたのは、試合の重要な局面で、劣勢だった流れを一気に変えるほど大きな効果をもたらしたことが、反発を招いたからだろう。プロ入り後、“クセ者”の異名をとった元木だが、そのしたたかさは高校時代から健在だったことがうかがえる。

音量を下げるように
 
近年のセンバツで大きな話題となったのが、2019年の習志野応援団による“美爆音”である。2回戦の星稜戦で、三塁側スタンドに陣取った同校のブラスバンド部が大音量の応援を展開。これに対し、「うるさい」と大会本部に苦情が入り、担当者がスタンドまで足を運んで「音量を下げるように」と要請する一幕があった。

この前代未聞の事態に、ネット上でも賛否両論が巻き起こった。「相手チームにも影響が出るなら音量を下げた方がいい」と制限を支持する声が上がる一方、「吹奏楽部の演奏を聴くのも甲子園の醍醐味」「そんなことまで苦情にしていたらつまらない世の中になる」と、“美爆音”継続を望む声も少なくなかった。
もっとも、大会本部が「応援の手引き」をあらためて確認したところ、音に関する明確な規定はなかった。そのため、以後は同校の自主判断に委ねられることになった。

判定、プレー、応援……。センバツではグラウンド内の熱戦が数々の名場面を生んできた一方で、その都度大きな波紋を呼んだ“場外騒動”もあった。長い歴史を持つ大会だけに、そうした出来事もまた、センバツの歴史の一コマとして記憶されている。

📝大阪桐蔭でも履正社でもなく…なぜ山口の私立高を選んだ? 20校以上が勧誘した“スーパー中学生”の争奪戦「無理かなと思った」高川学園関係者が明かすウラ側
https://news.yahoo.co.jp/articles/57331d69455b08103fb868b4917f57d58b70fd55?page=1

20校以上から勧誘されていた木下瑛二は、なぜ山口の私立高を選んだのか。高川学園の部長・西岡大輔が初めて木下を見たのは、中学2年の春。岡山県で開催されたヤングリーグの全国大会での登板だった。当時創部3年目で聞きなじみのない「高松庵治ヤングストーンズ」という新興勢力が擁した、まだ細身の右腕が目に留まった。

本当に中学2年生? 初めて木下を見た日

「当時、庵治ヤングにいい左の3年生がいて、左のエースが彼、右は木下、という感じで起用されていました。とにかく投げっぷりがよかった。最初に見て、この子も3年生なのかなと思ったほどでした」

高川学園の監督、松本祐一郎が、視察から帰郷した西岡の様子を思い起こす。

「『こんなピッチャーがいたんです! 』と報告をくれたときの目が輝いていましたね。相当惚れ込んでいるんだろうなと思いましたよ」

そこからは可能な限り木下へアプローチした。練習を視察しようと香川を訪れ、大会だけでなく練習試合にも足を運んだ。だが、木下の評判は広がっていた。

超強豪校が関心も…「希望があった」理由
 
兵庫であった練習試合に駆け付けると、バックネット裏に甲子園優勝監督がズラリと並び、木下の一挙手一投足に熱視線を送る様に出くわした。さすがに、この光景には「無理かなと思った」と壁のさを痛感したという。

 時間は有限である。木下を諦めて、獲得が見込める選手の視察に切り替える方が得策ではないか。撤退が頭をよぎってもおかしくない状況で、ある“推測”が、西岡を踏みとどまらせた。木下の中学野球の選択だ。

「木下は小学生時代、タイガースジュニアに所属していました。その実績があれば、中学のチームも選択肢はたくさんあったと思うんです。そのなかから、チームの立ち上げから間もない庵治ヤングを選んだ。ということは、歴史を作っていきたいタイプなんじゃないかなと」

さらに、木下の左手にはめられたグラブが、この仮説に強度を与えた。

「今使っているものとは違って、あまり有名ではないメーカーのグラブを使っていました。野球をしていても知らない人も多いであろうグラブです。それがもし、大手メーカーでそろえていたら、諦めていたと思います。王道が好きな子なんやろうなって。でも、新しいチームで、グラブはマイナーなメーカー。ブランドや看板に固執していない印象を受けて、訴えかけるならここしかないと思いました」

西岡の推測は、木下の「人と同じなのは嫌なタイプ」という素養と概ね合致していた。木下は小学生時代に、ヤクルトでプレーした岡本秀寛のピッチングスクールに通っていた。甲子園経験がなくともプロに進んだ岡本と接することで、「高校野球は通過点。自分もプロに行きたい」という気持ちが芽生えた。

高松庵治ヤングストーンズは、そのスクールを発展させる形で生まれ、現在も岡本が監督を務めている。大手でなくても、気に入ったグラブを愛用する。チームの知名度や歴史よりも、信頼できる師を選ぶ。甲子園にとらわれず、自分を高められる環境を欲する……。たしかに、そこにブランド志向は微塵もない。垣間見えたフロンティア・スピリッツ。西岡の見出した風穴であり、木下を欲した最大の理由でもあった。

部長は藤浪晋太郎と中学同期だった…
 
部長の西岡は大阪府堺市出身。少年野球が盛んな南大阪で生まれ育ち、自身も大阪から高川学園への野球留学を経験した。幼なじみであり、中学時代に同じ大阪泉北ボーイズでエースの座を争ったのが、藤浪晋太郎(DeNA)だった。府内の強豪校に進んだ盟友、自身と同じく地方に活躍の場を求めた先輩や同期の両方を見たこと、指導者となってから多くの野球留学生を指導する日々にあって、確信したことがある。

「『王道の有名校に行けなかったから、高川学園に来ました』という選手だけでは、その有名校に絶対勝てない。いざ甲子園で対戦すると、『うわ、自分が行けなかった強豪かよ』と思ってしまう。その時点で負けていますよね。山口県という地方から日本一を目指すからには、おこがましいですけど、中学やその前の段階から、有名校に行きたいではなくて、『倒したい』と思っている、“野心的な”選手が増えていかないと、勝負にならないと思っています」

西岡自身が高川学園を選んだ理由も、そうだった。進路を考える時期、高川学園に招へいされて間もなかった、中野泰造の目に留まった。「ノーサイン野球」を旗印に、東亜大を3度の大学日本一に導いた名将の口説き文句は、こうだ。

「大阪に残って、ライバルだった藤浪を倒すのもいい。でも、府外から甲子園に出て、甲子園で投げ勝った方がおもしろいと思わない? 100回に1回、それぐらいの可能性かもしれないけど、そこに懸けて一緒に頑張らないか」

超強豪を倒すには「木下が必要だった」
 
藤浪の陰に隠れがちだったとはいえ、貴重な左投手として、府内外のチームから声が掛かっていた。山口県に縁があったわけではない。気心知れた先輩が在学していたわけでもない。今ほど設備が充実していたわけでもない。それでも、この言葉に15歳の心は揺さぶられた。夢破れ、高校3年間で甲子園とは縁がなかった。一方で、日本一を懸けて投げ合うことを夢見ていた旧友は、春夏連覇を達成し、高校野球最高の栄誉をほしいままにした。

「今思えば、途方もない夢だった」と振り返る、「全国の強豪を下し、山口からの日本一」の大願。これが、指導者となった現在も西岡の原動力であり続ける。

木下の学年は、西岡がスカウティングに手ごたえを感じている世代でもあった。野球の技量だけでなく、求めていた「強豪を倒す」志を持つ選手が集まりつつあったのだ。その熱気を高める環境も整いつつある。“火”を大きくする、もっと言えば中心で燃えたぎる炎として、王道から欲され、「王道を見上げない」木下が必要だった。

木下が初めて高川学園を訪れたのは、中学2年生の11月。付属中の野球部で硬式チームとして活動する、高川学園シニアとの練習試合だった。全面人工芝のグラウンドで後のチームメイトとなる選手たちと戦い、「こんなに設備がいい高校があるんだな」と驚くばかり。西岡にとっては期せずして、自校の魅力を知ってもらう機会となったが、ここで“猛アタック”をかけたわけではない。チーム関係者との会話も挨拶程度にとどめ、木下の投球を静かに眺めるだけだった。西岡が回想する。

「雪がぱらつくぐらい寒い日でした。その状況でも132キロぐらい投げていて。やっぱりいいピッチャーだなと。どうにか縁がつながらないかなと思ったんですけど、ちょうどその1週間前に中国大会の準決勝で負けて、センバツ出場が厳しい状況になっていました。この状況だとアピールは難しいかな、どうやったら実るのかなと思いながら見ていましたね」

地道に信頼を…木下「熱い人だなと」
 
木下は、高川学園のことを「あまり知らなかった」ので、西岡ら指導者陣についての知識も当然ない。だが、この日も自分の投球を見つめる「高川学園の人」の熱意を感じ取ってはいた。木下の回想だ。

「大会だけじゃなくて、練習試合にも来てくださっていたのは気づいてました。スピードガンで計ったり、フォームのことだったり、すごく細かいところまで見てくださっていて。熱い人だなと思っていました」

西岡は試合を視察するたびに、木下を指導する岡本と対話を重ねた。能力を称賛するだけでなく、気づいた点も臆せずに伝えた。2人は同じく左投手。左腕の視点から、右投手である木下をどう導いていくかの会話を重ねた。その時間で、互いに共通する野球観を感じ取ったのだろうし、何より「もっと成長してほしい」という西岡の熱意が岡本にも伝わったのだろう。潮目は変わりつつあった。

               〈つづく〉
2026/03/14(土) 22時24分06秒 No.2334 編集 削除