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お知らせ

編集済
📝紀三井寺公園 年間スケジュール
https://www.kimiidera-park.com/%E5%B9%B4%E9%96%93%E4%BA%88%E7%B4%84%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/#gsc.tab=0

これで察するに・・・夏の和歌山大会は7/10開会式。試合は7/11~27のようです。
春・新人戦・秋の公式戦準々決勝はいずれも2日間に分散され開催のようで4試合日はあるとすれば大会序盤になるのかな?????

あとはカンドクで4~8月まで堺が17試合。和歌山が16試合取材ゲームを実施する模様です。

🍱球団創設20周年記念イベント第1弾 選手コラボ弁当のお知らせ!
https://www.m-stars.jp/3831/

株式会社石川ミリオンスターズは、球団創設20周年を記念してホーム開幕戦より選手コラボ弁当を販売することをお知らせします。

球団創設20周年記念 選手コラボ弁当

概要:選手からのアンケート・試食などを実施した上で調理し完成させ販売いたします。
協力:株式会社五つ星
販売開始日:2026年5月5日(火・祝)13時プレイボール@金沢市民野球場
石川ミリオンスターズ vs 滋賀ハイジャンプス

※ホーム会場で全試合グッズ売場にて販売予定。
備考:お弁当のラインナップなどは、4月下旬頃に発表いたします。

👣元大リーガー・野茂英雄さん設立「NOMOクラブ」今季の活動休止…選手獲得によるチーム編成難しく
https://news.yahoo.co.jp/articles/bf409d1bef5165eb7041ffe111bb8716262c6ebd

元大リーガーの野茂英雄さん(57)が設立した社会人野球チーム「NOMOベースボールクラブ」が今季の活動休止を決めたことがわかった。拠点とする兵庫県豊岡市の門間雄司市長が27日に開会した市議会で明らかにした。

2003年に設立。13年に堺市から豊岡市に拠点を移し、プロ選手も輩出した。門間市長によると、近年は選手獲得によるチーム編成が難しくなっていたという。今月上旬、SNSで活動休止を発表した。市によると、豊岡市内に引き続き球団事務所を置き、来季以降の活動再開を目指す。門間市長は「再びチームが躍動する姿が見られることを期待している」と語った。

📝“肩重い”発言にまさかの返答「何gか量ってこい」 連投先発当たり前…忘れぬ昭和の酷使
https://news.yahoo.co.jp/articles/40833b31b578c237ae2596605952688a95980072?page=1

甲子園のヒーロー、太田幸司氏は4年目に立場を確立

“元祖甲子園アイドル右腕”太田幸司氏(野球評論家)は近鉄入りして4年目の1973年シーズンに初めて規定投球回に到達した。40登板(28先発)、192回を投げて6勝14敗、防御率3.23。スライダー、シュートを軸にした新しい投球スタイルを確立させ、チームが最下位に沈んだ中での“奮投”でもあった。オールスターゲームには4年連続で出場したが、この年はファン投票ではなく、監督推薦で選出されたことも思い出深いという。

プロ4年目の太田氏は開幕4戦目の4月18日の太平洋戦(平和台)に先発した。この年の近鉄は開幕からエース・鈴木啓示投手、前年10勝の佐々木宏一郎投手、前年19勝の清俊彦投手の順に先発。そんな実績ある先輩投手たちに続く“第4の男”としてのマウンドだった。人気先行の起用ではなく、2年目のオフから投球フォームをスリークオーター気味にするなど取り組んできたことが、実を結んでの抜擢。敗戦投手にはなったものの、7回1失点の好投も見せた。

「あの頃の先発投手は週に2回放っていた。今みたいに6人も7人もローテーションピッチャーはいない。4人くらいで回すから若いピッチャーなんかはよっぽど日程が迫っているか、調子が悪いローテーションピッチャーが出て来ない限り(先発に)入る隙間がなかったんです。そういった意味では(開幕)4戦目に投げさせてもらったというのは、結構、期待されているな、みたいには思いましたね。自分もピッチングに自信を持ち始めていた頃だったんでね」

当時のパ・リーグは前期、後期の2シーズン制(1973年から1982年まで)。この年の近鉄はいずれも最下位に低迷し、後期終盤には岩本堯監督が休養する事態にもなった。「あの年はチーム状態が悪くてね。僕は6勝14敗かな。防御率は3点ちょっとくらいだったけど(打線が)なかなか点を取れなくてねぇ。内容的にはもうちょっと勝ってもいいかなという感じのシーズンでしたね。でも、どんどん投げさせてもらったんで勝ち星以上に自信がつきましたね」。

実際、投げまくった。中3日登板が当たり前の時代。中1日でリリーフして、連投で先発というケースもあった。「あの頃は『ちょっと肩が重いんですけど』とピッチングコーチに言っても『重い? 何グラムあるか、量ってこい』とか言われたりね。『ここで実績を作ってローテーションにガチっと入らないといけないから、今頑張れ』ってよく尻を叩かれましたよ」。不思議なことに体もそれに慣れていったそうだ。

入団4年目は初の監督推薦で球宴選出「一人前になったな」

「たまに雨で先発がスライドになったりとか(登板)間隔が空くと逆に嫌でしたよ。それこそ(日程上)1週間近く空くと、肩は軽いんだけどなんかね……。みんなそうだったんじゃないですかねぇ。当時の人が今の時代にタイムスリップして(中6日などで)投げたら、うまくいかないんじゃないかなぁ。本当か、って思われるでしょうけど、中3日くらいで少し肩に張りが残っているくらいがちょうどいいくらいでしたよ」

勝ち星にはなかなか恵まれなかった4年目の太田氏だが、5月23日のロッテ戦(宮城)ではプロ初完封勝利でシーズン2勝目を挙げた。「仙台の球場は(三沢)高校時代に東北大会で唯一負けた試合があったところ。そこで完封したんですよね。あの日はダブルヘッダー第1試合で鈴木さんが完封勝利。それも(12-0の)大量点で勝った。そういう試合の後ってやられるパターンだから嫌だなと思っていたんですけど、あれって感じで完封できたんですよ」。

この試合も、もちろん中3日での先発。「とにかく投げさせてもらえるのがうれしくてね」と振り返ったが、この年、さらにうれしかったのが球宴に監督推薦で選出されたことだったという。超人気者の右腕はプロ入り以来、3年連続ファン投票で選出されていたが、この年のパ・リーグ投手部門1位は巨人から南海に移籍して前半だけで14勝、最終的には20勝をマークした山内新一投手だった。

太田氏の前半成績は4勝6敗だったが「(全パの)監督が阪急の西本(幸雄)さん。僕、結構、阪急戦に強かったんですよ。大体6回くらいまでは抑えてね。今だったらセットアッパーとか抑えがいるけど、あの頃の先発は打たれるまでいくから、最後はつかまって負けたりしたけど、内容を見てくれたのかなと思う」と話す。「ファン投票をどうこうじゃなく、ファンにはとても感謝していますけど、監督推薦で選ばれて、ようやく何か一人前になったなって。それ、すごく覚えていますね」と笑みもこぼした。

その球宴では第1戦(7月21日、神宮)に5番手で投げて1/3回を3失点と結果を残せなかったものの、その場にいたことを誇りに思って、後半戦も腕を振り続けた。6勝14敗と大きく負け越しても、確実に成長している自身を感じ取った。人気も相変わらずで、どこへいっても黄色い声援を受けたが、そこに実力がプラスされていった。

📝初の2桁も「大して上がらなかった」 チーム低迷で渋かった契約更改…超人気ドラ1の悲哀
https://news.yahoo.co.jp/articles/4321d240982e39628456275cecda7c0923847395?page=1

杉浦忠投手コーチの助言で覚醒「太田、ちょっと力が入ってきたぞ、力を抜け!」

元近鉄投手の太田幸司氏(野球評論家)はプロ5年目の1974年シーズンで初の2桁となる10勝をマークした。青森・三沢高時代に甲子園を沸かした“国民的スター右腕”が決して人気だけではないところを見せつけた。それは無我夢中で投げ続けた結果でもあった。この年から近鉄は西本幸雄監督体制がスタート。新たに投手コーチに就任した元南海の大エース・杉浦忠氏には「すごく助けてもらいました」と感謝した。

4年目(1973年)に6勝14敗ながら、28先発を含む40登板をこなし、規定投球回にも到達するなど、いよいよプロでも力を発揮しはじめた太田氏は、5年目のキャンプ、オープン戦も順調に乗り越えた。「いつも阪神と定期戦があって、この年はそこでいいピッチングをしたんだけど、(当時新人の)掛布(雅之内野手)はインパクトがありましたねぇ。代打で出てきて外のシュートをレフトポール際ワンバウンドでフェンスに当たる打球。これが高校生のバッティングかって思いましたよ」。

のちのミスタータイガースの若かりし頃の姿にも刺激を受けて、太田氏はシーズンに突入し、勝ち星をさらに増やした。阪急監督時代に5度のリーグ優勝を成し遂げた西本氏がこの年から近鉄監督に就任。その名将の下で、43登板(26先発)10勝14敗2セーブ。ついに2桁勝利をマークする主力投手になった。また進化したが、これには新任の杉浦投手コーチの存在も大きかったという。

「杉浦さんは難しい技術のことは何も言わない。『太田、ちょっと力が入ってきたぞ、力を抜け!』とか、マウンドから降りるたびにそういうことを言われたんです。“こう投げて、こう”ではなく、全体を見て『ちょっと投げ急いでいるよ』みたいなことを常にね」。1959年に38勝を挙げるなど南海の大エースだった杉浦氏の的確なアドバイスによって、より安定感ある投球ができるようになって、それが勝ち星にもつながったのだ。

とはいえ、なかなかハードな起用をクリアしてのことでもあった。シーズン初登板は開幕2戦目(4月7日、南海戦)でのリリーフ。7回途中から2番手でマウンドに上がり、1回2/3、1失点で勝利投手となったが、そこから中2日で4月10日のロッテ戦(後楽園)に先発して4回0/3、4失点で今度は敗戦投手になった。いきなり、こんな形でスタートし、その後も先発ローテーション投手でありながら、リリーフでも投げる“二刀流”でフル回転だ。

「今だったら、そんなのはシーズンの最後の最後とか、クライマックスシリーズとかならわかるけど、って話でしょうけどね。『たぶん今日は(出番が)ないけど、ベンチには入っておけ』みたいなことを(首脳陣に)言われて、入っていたら、出番が来た、ってことはよくありましたから。まあ、あの頃は先発して早い回で降板したら、次の日は絶対ベンチ入りでしたけどね」

プロ5年で4度目のファン投票でオールスター…2回無失点で勝利投手
 
5月28日の阪急戦(西宮)に中2日で先発して7回5失点で5勝目を挙げると、中1日で5月30日の同カードにリリーフして1回無失点。翌5月31日のロッテ戦(川崎)には連投で7回からマウンドに上がり、3回無失点でプロ初セーブを記録した。他にも似たケースがいくつもあり、時代が違うと言ってしまえば、それまでだが、かなり肩、肘には負担がかかっていたことだろう。

「セーブにしても、あの頃、セーブって感覚が全くなかったんで、どこでついたんだろうなって思っていたくらいですよ」と太田氏は言う。まさに無我夢中の結果で過酷な登板間隔についても「僕だけじゃなかったんでねぇ。全然覚えてもいないけど、振り返れば、結構ハードなことをやっていたんだなぁって感じですね。そんなにやっていたんだなぁって、なんかうれしいですよ。まぁまぁ、最終的には肩を壊しましたけどね」と笑いながら話した。

シーズン前半は5勝9敗。オールスターゲームにはファン投票で選出された。前年(1973年)は監督推薦での出場で、入団以来3年続いたファン投票選出がストップしたが、1年でまた、その座に返り咲いたのだから、いかに太田氏の人気が高かったかがわかるところだ。ただし、最初の3年とは違って近鉄の先発ローテーション投手としての力を見せながらの選出。球宴第2戦(7月22日、西宮)では6回から3番手で登板して2回無失点で勝利投手にもなった。

打者7人に投げて1安打しか許さなかった。「西宮球場ですよね。優秀選手賞だったか、何かもらいましたよ。あの年は(巨人内野手の)長嶋(茂雄)さんが(現役)最後。センターフライだったかな」。それもまた成長の証しだった。そしてシーズン終盤の9月24日の阪急戦(日生)に先発して7回1失点投球で10勝目に到達した。これも9月22日の阪急戦(西宮)2番手で3回無失点リリーフしてから中1日でのことだった。

「10勝までには結構(日数が)かかったんじゃないかなぁ。プレッシャーがあったのかわかりませんけどね」と太田氏は話したが、超人気者として大騒ぎされながらも高卒5年目で2桁勝利をつかんだのだから感慨深いものもあったはずだ。しかしながら、チームは前期5位、後期4位のシーズン5位で「10勝しても年俸は大して上がりませんでしたけどね。10勝も3年続けて初めて、という時代でしたしね」。さらに上を目指しての挑戦が続いた。 

📝立地だけではない東京ドームの圧倒的価値 今や国際試合の聖地に 巨人の築地「完全移転」は考えづらい理由
https://news.yahoo.co.jp/articles/1dba8ade5414ce55f34f0c5afb2ea7f5e303ad28?page=1

東京ドーム(以下東京D)は、今や日本を代表する野球場になった。開場から時間も経過しており、老朽化や快適性の低さを指摘する声もある。しかしWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)やMLB日本開幕戦で必ず使用されるなど、欠かせない“箱”なのは間違いない。

WBC開幕までカウントダウンに入ってきた。日本代表・侍ジャパンが入った1次リーグ・プールCは、3月5日から東京Dで行われる。エスコンフィールド(北海道)などの他球場も開催に積極的だったようだが、従来通りとなった。

「球場施設や見た目を考えれば、エスコンなどの方が印象も良いだろう。しかし、東京Dの立地に勝る球場はない。海外チームの移動や滞在期間の利便性を考えると、選択肢は1つになる」(スポーツマーケティング会社関係者)
「『選手の体調面を考慮して、人工芝ではないエスコンや甲子園にすべき』という声も聞かれる(エスコンの内野は人工芝)。しかし通常シーズンのような長丁場ならともかく、WBCのような短期決戦なら問題ない。何より東京開催なら、海外を含めた出場チームの移動負担が減るのも助かる」(元侍ジャパンスタッフ)

WBCに先立っての侍ジャパン強化試合は、バンテリンドーム(名古屋)と京セラドーム(大阪)での開催。宮崎キャンプを行ったチームは、上京途中で実戦を重ねられる。しかし来日が必要な他国は、東京D以外での試合となった場合、日本入国時の空港を含めて移動の労力もかかる。
東京Dに対する苦言は、球場老朽化が理由の場合が多い。1988年開場で、国内では甲子園(1924年)、神宮(1926年)、横浜(1978年)、ベルーナドーム(1979年)に次ぐ5番目の古さ。甲子園、横浜、ベルーナDは大規模改修を行い、神宮も新球場建設が決定。「東京Dは古い球場」の印象が付きまとう。

「球場の建て替えやリニューアルをする理由は、主に安全性と観戦環境向上の2点。東京Dの安全性に関しては耐震強化等も行っており心配はない。ファンからの不評のほとんどが、座席間の狭さ(観戦環境の悪さ)にある」(スポーツマーケティング会社関係者)

東京Dの座席間は、開場以来、ほぼ同じで変わらない。日本人の体型も設計当時から大型化しており、不評を買うのも理解できる。また近年は海外からの観光客が野球観戦に訪れる機会も激増、「時代に即していない球場」の声も聞かれる。加えてグラウンド内に関しても、『左・右中間の膨らみが少なく本塁打が出やすい』という指摘も聞かれる。かつては“ドームラン”という言葉も流行った。他球場ではフェンスを越えないような打球が、簡単に本塁打になることを揶揄したものだ。

「投高打低が進み、ホームランテラス(ラグーン)を設置する球場も多い。東京Dと同サイズの球場も増えており、ある意味で時代が追いついてきたとも言える(笑)」(巨人OB)

本塁打が出ないことが逆に問題視され、改修に着手する球場が出始めた。今年からバンテリンDは東京Dと似たサイズになったほどだ。

「(東京Dは)音響設備も最新式のものが導入されており、スタンド最後部や外野席にも高音質の音を届けられる。アリーナ席も設置する音楽イベントで4万人以上を動員しても、入退場時の動線をしっかり確保できる。大規模イベントになる程、強みを発揮できる箱」(スポーツマーケティング会社関係者)

音響面に加え、外野席上部を横断する形で大型ビジョンも設置されている。どのようなイベントでも、視覚・聴覚を駆使して楽しめる造りは好評だ。また周辺にはJR、地下鉄等の駅が複数あり、混雑が最低限に抑えられるのも大きい。

「『巨人の本拠地移転』が何度となく話に上がるが、これだけアドバンテージがある箱を手放すのは考えられない。古さは感じるが、時代に合わせてリノベーションをすれば良い。座席数を減らすなどして、観客にとって快適なスタンドへ改修すれば、批判の声も激減すると思う」(巨人OB)

築地市場跡地(東京・中央区)に、約5万人収容の多目的スタジアム建設が発表された。プロジェクトチームに読売新聞社が入っていることから、『巨人が移転するのでは』という声も聞こえる。しかしビジネス面を考えれば、「東京Dからの完全移転は考えられないのでは…」(巨人OB)といったところだろう。

「東京Dが盛り上がった時の大歓声は、グラウンドにいると鳥肌が立つほど。チームにとって大きな力になっている。もちろん観客の方々には、快適な環境で楽しんでもらいたいです」(元侍ジャパンスタッフ)
「国際試合はこの先も東京Dで行われると思う。ネガティブな意見をなくすためにも、座席数を減らしてでもスタンドの快適性を高めて欲しい。その分だけチケット代金が上がっても、ファンの方々は喜んで払ってくれると思います」(スポーツマーケティング会社関係者)

侍ジャパンは2月から強化試合を重ねているが、満員状態が続いている。「人気沸騰している今こそ、観戦環境向上という形でファンに還元すべき」(スポーツマーケティング会社関係者)という意見にも納得だ。

2026年は冬季五輪、サッカーW杯など、スポーツのビッグイベントが目白押しだ。侍ジャパンも大会2連覇という最高の結果を見せてもらいたい。そしてこの先も行われる野球界のビッグイベントのためにも、侍ジャパンの聖地・東京Dがさらに進化することを願いたい。
2026/02/28(土) 22時15分36秒 No.2316 編集 削除