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🎤神港学園が創部100年祝賀会を開催 北原光広前監督「甲子園が全てではない」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2318fe5314f01b0d7df96f48e4f0fcc5fa4a0c0c

春夏通算8度の甲子園出場を誇る高校野球の強豪・神港学園(兵庫)の「硬式野球部創部100周年祝賀会」が21日、兵庫県神戸市内のホテルで開催された。1926年創部の同校を県内屈指の強豪まで育て上げた前監督の北原光広氏(72)、息子で現監督の直也氏(46)を始め、OB、同校関係者らが一堂に会し、節目を祝った。

あいさつに立った北原光広前監督は「100年のうち、私はたった36年しか神港学園の監督をすることができませんでした。弱いチームも、強いチームもありましたが、私は甲子園が全てではないと思っています。人間形成の手段。空気と一緒で、なくてはならない野球。私自身の人生の中で、野球を選んで良かったなと今も思っています」と万感の思いをこめた。野球では無名だった私神港時代の82年から2017年まで36年間にわたって監督を務め、同校8度の甲子園すべてで指揮を執り、「SHINKO」の名を世に知らしめた名将。節目の場で31年前に思いもはせた。

「忘れられないのは1995年の阪神・淡路大震災」

95年。1月17日に発生した阪神・淡路大震災で、神港学園も多くの生徒が被災した。野球どころではない。2月21日に選抜出場決定の報がもたらされるまで、1カ月以上も全体練習ができない状態が続いた。選抜の開催は「無理だ。できない」と思った。その間、部員とともにボランティア活動に努めたが、周囲から「売名行為はやめろ」などと思わぬ誹謗中傷を浴び、傷つきもした。

それでも練習再開日の部員の言葉、表情に勇気づけられた。「このチームは3日で仕上がる」と確信できた。被災地からの出場となった報徳学園、育英とともに調整不足のまま大会へ。無形の力が備わったチームは初戦で仙台育英(宮城)を4―3で破ると、続く2回戦でも大府(愛知)を4―3で下した。準々決勝で延長13回の激闘も実らず今治西(愛媛)に4―5で競り負けたものの、被災地を元気づける2勝を挙げることができた。大会前には開催は不可能と思っていたが、終わってみれば「個人的には“やって良かったな”と。意義のある大きな大会だった」と感謝できた。あの1年も経て、神港学園野球部の歴史は100年を通過した。

以降も県内の強豪の一角を占めるが、10年選抜を最後に、甲子園からは遠ざかる。とはいえ近年も21年春に兵庫大会優勝、25年夏に県大会4強と上位進出を果たしており、聖地まであと一歩の位置にもいる。

父の後を受け、18年春から指揮を執る北原直也監督は「先輩方に見せていただいた粘り強さ、必死さ、ボールに食らいついていく姿というのは、時代が進んでも絶対に変えてはいけない部分だと思います。100年を迎えた神港学園の良き伝統だと思うので、引き続き生徒たちに伝えていこうと思っています。時代とともに変化していくこと、変えてはいけないこと。そこに信念を持って戦っていきたいと思います」と言葉に力をこめた。その上で「子どもたちと一緒に100年以降、またいい年を迎えていきたい。一日でも早く、OBの皆さまに“おめでとう”と言っていただけるように、一生懸命やっていきます」と新たな歴史を紡ぐべく、前を向いた。

📝高校野球岡山大会、7月11日初戦 9日に開会式 試合会場は3球場
https://news.yahoo.co.jp/articles/f9d2d34e2c43e7779eb2122b2d2c24bae1a1f373

岡山県高校野球連盟は21日、2026年度の公式戦などの予定を発表した。第108回全国高校野球選手権岡山大会は過去2大会と同様、開会式と試合日程を分ける。開会式は7月9日で、試合は11日に始まり、決勝は27日の予定。

夏の岡山大会の使用球場は例年通り、倉敷市のマスカットスタジアム、同市営球場、美咲町の美咲エイコンスタジアム。抽選会は6月27日で、7月9日の開会式は午後に行う予定。
入場料は大人1千円、高校生100円、中学生以下無料。同じ日であれば、1回の入場料で別球場にも入場できる。

■日程

【硬式】

春季県大会=4月25、26、29日、5月2、3日
春季中国地区大会(島根県)=5月30、31日、6月2日

秋季県大会=9月19、26、27日、10月3、4、10日
秋季中国地区大会(鳥取県)=10月23~25日、31日、11月1日

県1年生大会=11月7、8、14、15、21日

【軟式】

春季県大会=4月18、19、25日
春季中国地区大会(広島県)=5月23、24、26日
県高校総体=6月6、7日

全国選手権岡山大会=7月18~23日
全国選手権東中国大会(島根県)=8月1、2日

秋季県大会=10月17、18、24日
秋季中国地区大会(山口県)=10月31日、11月1、3日

■表彰(敬称略)

【選手】

県高野連表彰・軟式の部 三輪悠斗(倉敷工)

【役員=硬式】

20年 重光潔一(興陽)、小川秀敏(興陽)、木村和成(岡山商大付)、太田学(倉敷工)

【役員=軟式】

20年 山本清一(津山工)

【審判委員】

30年 前田康弘、山本明、相原克行、戸田治▽10年 石井孝明、島田稔秋、小坂祐太、三沢秀樹、芦田有正

岡山県高野連はこの日、岡山学芸館高で主将を務め、日本学生野球協会の優秀選手に選ばれた国近泰獅さん(18)を表彰した。
国近さんは昨夏の岡山大会と甲子園では三塁コーチを務め、仲間を大きな声で鼓舞した。持ち前のリーダーシップでチームをまとめ、2年連続の夏の甲子園16強入りに貢献した。

表彰後、国近さんは「本当に光栄です」と話した。高校時代はけがでプレーできない期間が続き、支えてくれる人たちのありがたさを実感した。そうした経験から、大学では硬式野球部の学生コーチとしてチームを支える側に回る。「周りから学びながらチームに貢献し、日本一を成し遂げたい」と抱負を語った。

☝<春風に乗って>’26センバツ 三重 「勝つぞ」保護者応援団 赤青メガホン、振り確認
https://news.yahoo.co.jp/articles/eefeb6e79d5f7cf5de92b1617e4852c8ec17c856

8年ぶり14回目のセンバツ出場を決めた三重。勝利に欠かせないのが、スタンドから選手たちを鼓舞する応援団だ。約70人以上の応援団の中心は、なんと野球部員の親たち。応援部の部員が1人しかいないため、保護者らが頼もしい主力になっている。

松阪市の三重高校で21日、応援練習があり、応援団の奥谷将大団長(3年)を先頭に、「レッツゴー三重」など数々の練習に励んだ。「応援を練習したい」という保護者会の熱烈な思いで実施されたもので、保護者ら約70人が参加した。

保護者らはおそろいの青色の三重高ウインドブレーカー姿で赤と青のメガホンをそれぞれ持ち、音楽に合わせて振りを確認。「ここの振りはこっちの方が熱い思いが伝わるのではないか」などと親同士で話し合う場面も見られた。

保護者会の会長を務める中西優斗外野手(2年)の父洋智さん(46)は「応援は、甲子園で子どもたちの支えになれる唯一の手段。子どもたちが楽しい気持ちになる応援ができたら」と話した。奥谷団長は「いつも一人で頑張らなければいけないことが多いので、心強い。三重大会の初戦で負けた昨夏の悔しい思いをみんな抱えているはずなので、応援団一丸で勝利に導きたい」と意気込む。

練習前には、保護者21人が松阪市立野町の松尾神社で必勝祈願。400段の石段を励ましあいながら登り切り、神職が甲子園での勝利などを祈る祝詞を読み上げると、保護者らは玉串をささげた。愛知県豊田市から参加した福田篤史左翼手(2年)の父拓道さん(46)は「昨夏負けてしまった分、この春にかける思いは強いと思う。一試合でも多く試合ができることを願った」と話していた。

☝ 甲子園の伝説の名将がセンバツ出場の佐野日大に“聖地の心得”を伝授
https://news.yahoo.co.jp/articles/a035099686ca0428b6dd4218c17b7c06934f0b69

第98回センバツ高校野球大会に出場する佐野日大(栃木)のグラウンドに、頼もしい“スーパーバイザー”が現れた。PL学園(大阪)の監督として春夏通算6度の甲子園制覇を果たした中村順司氏(79)が22日、39人の部員に聖地で戦う心得を伝授した。

孫である中村盛汰主将(2年)が一昨年春に入学したことをきっかけに、麦倉洋一監督(54)が指導を依頼。折りを見てグラウンドに足を運んでいる。まず、1時間ほどのミーティングで「太陽の位置や風の方向に注意すること」など初めて甲子園の舞台に立つ選手に準備の重要性を説いた。そのあとグラウンドに立ち精力的に指導。土をならすトンボのかけ方にアドバイスを送る場面もあった。

PL学園時代から「球道即人道」の言葉を掲げ指導にあたってきた中村氏。「グラウンドの中に人生の縮図がある。思いやりや気配りなど、日常生活で大事なものを野球で学んで欲しい」と精神面の成長にも期待した。中村主将は「ふだんは優しいですが、野球になると目の色が変わる。いい意味で厳しく指導してくれます」と偉大な祖父の存在に感謝していた。

📝【古豪巡礼】大阪の伝統「三本線」が途切れない理由 市岡が“皆勤ストップ危機”脱して、つなぐドラマ
https://news.yahoo.co.jp/articles/a8e8de4ca85bfff4e1056c704fbd2a8d054a39c4

連載「古豪巡礼」の第3回は、夏の地方大会に第1回大会から皆勤出場を続ける市岡(大阪)を特集する。大阪市内で3番目に開校した旧制中学を意味する三本線が入った特徴的な帽子でも知られる伝統校。甲子園大会には、第2回大会だった1916年夏の準優勝を含む春夏通算21度の出場を数える。1995年春の選抜出場など現在も奮闘を続けている公立の雄の今に迫る。

誇らしさと恐怖心、2つの感情は背中合わせだ。夏の地方大会に第1回から全て出場している高校は全国に15校あり、大阪には1校しかない。その市岡の野口諭史監督は「皆勤出場はうちのアドバンテージですから」と唯一無二の伝統を売りにしている。ただし、戦績が低迷して部員が集まらないような事態に陥れば、100年以上守り続けてきた皆勤出場が途切れることになる。この重圧も、大阪では市岡しか分からない。

選手数は2年生13人、1年生15人の計28人を擁する。皆勤出場が途切れる気配はなさそうに見えるが、現実は違う。昨夏限りで引退した3年生は3人、その1学年上も6人しかいなかった。23年秋の大阪大会は助っ人として在校生2人をベンチ入りさせ、何とか単独出場にこぎつけた。野球人口が減り続ける今、皆勤出場はいつ途切れてもおかしくない状況なのだ。

今年の部員数の多さについて、野口監督は「最近の成績が大きい」と明かす。24年秋の大阪大会で5回戦まで進み、翌春選抜大会の21世紀枠大阪推薦校に選ばれた。その戦績を知って集まったのが現在の1年生15人だ。同監督は「部員数は苦しい時代から少しずつ戻りつつある」と胸をなで下ろすが、油断はできない。部員数が激減した23年頃から髪型の坊主頭を廃止。指導者は、中学校を訪問することがあれば、野球部の宣伝も忘れず付け加えるようにしている。

地道な努力で繋いできた伝統が、新たな物語を生む。95年春の選抜大会で背番号1を背負った井上雅文の息子・智文(2年)が同校に入学し、昨夏に父と同じエース背番を背負った。「小6の時に父の甲子園の映像を初めて見て、凄いな…と驚きました。自分も甲子園に出たいと思い、市岡を選びました」。その選抜大会で背番号5だった垂井亨平の息子・勝星(1年)も入部。息子たちは、親子二代で三本線の帽子をかぶることに憧れてきたのだ。

夏の大会の試合前、野口監督は観客席を見ながら選手に伝える。「応援の数が凄いやろ?みんな市岡を応援してくれてるんやで」。三本線は、大阪の高校野球ファンにとっても特別なのだ。主将の川島蓮斗(2年)も「皆勤校という理由で応援してくれる方もいると思う。公立校で、ここまで応援してもらえる高校があるのかと驚きました」と一際大きかった声援を思い返す。三本線の帽子をかぶれば分かる。皆勤校としての歴史が力になる。

📝阪神なら「潰れていたかも」 想定外のパ球団1位…ドラフト目玉が悩み抜いた15日間
https://news.yahoo.co.jp/articles/75b8f53b901d9860c50e66c64a2e5f5acbca4b99?page=1

近鉄入団の決め手は「スカウトがすごく優しくて」

三沢高・太田幸司投手(現・野球評論家)の近鉄入団発表は1969年12月22日に大阪市の近鉄本社で行われた。その年の甲子園大会を沸かせた国民的大スター右腕の加入だけに、記者会見は近鉄・佐伯勇オーナーも同席するなど大々的なものだった。しかしながら、11月20日のドラフト会議で1位指名され、12月8日に合意するまでに太田氏は悩んだという。大学進学も視野に入れていた中でのプロ入り決断には担当スカウトの熱意と家庭事情などが関係していた。

大学か、プロか。太田氏はドラフト後も進路問題で揺れていた。とにかく1位指名してくれた近鉄を知らなさすぎた。「まずはじめに、近鉄ってどんな感じなのって、そこを把握することからでしたね」。1969年の三原脩監督率いる近鉄が阪急と激しい優勝争いを繰り広げていたことも、その時に知ったという。「阪急との最後の4連戦(10月18日~20日、18日は西宮でダブルヘッダー、19日は藤井寺、20日は日生)で2勝すれば初優勝ってところまで行ったけど(3連敗して)2位だったということもね」。

翌1970年には大阪で日本万国博覧会(万博)が開催。「“万博の年に前年2位の近鉄が初優勝できるか。そこへ太田が入れば、盛り上がる”とか、そんな話とかいろいろ聞いたりもしたけど、なかなか決められませんでした」。報道陣に進路について聞かれるたびに「五分五分です」と答えた。「『いやぁ、まだちょっと五分五分です』ってね。あの時に流行語大賞があったら、候補になっていたかも。それくらい毎回『五分五分です』と言っていたんでね」と笑った。

そんな中で近鉄入りを決めたのは「(近鉄担当スカウトの)中島さんがすごく優しくて、熱心で、その人にひかれたってこともありましたし、両親の体調のこともあったんです」という。「(1968年の)2年の夏は甲子園に親父(暁さん)もお袋(タマラさん)も観戦に来てくれたんですけど、最後の夏の甲子園の時は2人が同じ部屋に入院していて、僕は病院から『甲子園に行ってきます』と言って向かったんです」。

甲子園での熱投は入院中の両親を元気づけるためでもあったわけだが「病院では僕の試合のテレビ中継を決勝まで両親は見せてもらえなかったそうなんです。見て血圧が上がったり、心臓が悪かったのでワーッとなるからってね。ただ決勝の時だけ(三沢)市内の電気屋さんがでかいテレビを持って来て、病室に入れて、看護師さんやみんなが集まって見て、盛り上がったらしいですけどね」と話す。

近鉄入団で盛り上がったパ・リーグ 

「まぁ、そんな家庭の状況もあってね、大学の方もいろんな条件はあったにせよ、やっぱりプロでお金を稼いだ方が、っていう……。僕自身、最終的にはプロでやりたいっていう気持ちはあったし、大学に行って、もしも肩を壊したらっていうのもあった。バッターは大学、社会人で経験を積むのもいいと思うけど、ピッチャーはどこで故障するか、わからないからね。行ける時に行った方がいいって今でも僕はそう思いますけどね」

考え抜いた末に近鉄入りを決断した。背番号は「18」に決まった。「本当は(大ファンだった阪神投手の)村山(実)さんと同じ11番がよかったんですけどね。先輩(山田勝国外野手)に11番をつけている人がいたのでね。球団からは『何番でも好きなやつをやる』と言われたけど、先輩がつけているのを取るわけには……。18番はその時、たまたま空いていたので、じゃあ18番でって、つけました」。

高校野球同様にフィーバーは近鉄でも続いた。「入団会見に佐伯オーナーが同席したこともすごい話題になりましたしね。でも振り返ってみれば、近鉄でよかったのかなと思いますよ」と太田氏はいう。ドラフト前は密かに村山実監督兼投手の阪神に行きたいとの思いを抱いていたが「もしも僕が阪神に行っていたら、ひょっとしたら潰れていたかもしれない。あまりの周りのアレに……ね」。当時、注目度が低かったパ・リーグの近鉄でさえも大盛り上がりだっただけに、人気の阪神ならどうなっていたか、というわけだ。

何しろ太田氏と同じ年の阪神ドラフト1位の上田二朗投手(東海大)は入団1年目のキャンプで「“ファンは太田幸司と田淵(幸一捕手)のバッテリーを望んでいた”と新聞に書かれて悔しい思いをした」と話すほど。「その話は上田さんに聞きました。『俺はお前のおかげで新人の時にえらい目にあったんやで』ってね。でも阪神で20勝(1973年に22勝)されましたからね、上田さんが阪神でよかったんですよ」。運命のドラフト会議によって、近鉄との縁ができた太田氏は、バファローズ戦士としてプロ人生を歩んでいく。それは尋常ではない人気との“戦い”にもなった。
2026/02/22(日) 22時16分47秒 No.2308 編集 削除