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💢日大三高野球部員を書類送検 女子生徒のわいせつ動画拡散疑い
https://news.yahoo.co.jp/articles/274fe14207bcd994b9415c3a1af7d0d3ceada9cb

女子生徒にわいせつ動画を送らせ拡散したなどとして、警視庁は12日、児童買春・ポルノ禁止法違反(製造や提供)の疑いで、日大三高の硬式野球部の17歳と16歳の男子部員2人を書類送検した。捜査関係者への取材で分かった。日大三高は昨夏の甲子園の準優勝校。動画は部員数十人が受け取り、拡散には十数人が関わったとみられる。

捜査関係者によると、17歳の部員の書類送検容疑は昨年3~6月ごろ、知人の女子生徒に、わいせつな画像や動画を3回にわたり交流サイト(SNS)で送らせ、動画1点を16歳の部員に提供した疑い。受け取った16歳の部員は同5~10月ごろ、他の複数の部員に動画を送信した疑い。

書類送検された部員2人は「やってはいけないことをやってしまった」「軽率な行動だったと深く反省している」などと容疑を認めている。17歳の部員は女子生徒に動画について「絶対に消すから」と告げていたという。

日大三高は甲子園に春夏通じ計40回出場。夏は2001年と11年、春は1971年に優勝した。

📝全員故障で野球人生が激変…「ちょっとやって」 恩師が“作った”甲子園のアイドル
https://news.yahoo.co.jp/articles/7df611553e6e946a894fc4e2be8268b4e71496ea

元近鉄・太田氏が明かした投手転向エピソード

最大の“転機”はチーム事情で巡ってきた。甲子園の元祖アイドル右腕で元近鉄ドラフト1位の太田幸司氏(野球評論家)は、1964年、三沢市立第一中学の軟式野球部に入部した。当初は小学生時代同様に外野手だったが、中学2年から投手に転向。「上級生みんなが肘や肩を壊してピッチャーがいなくなって、部長先生に『お前、肩が強いからちょっとやってみろ』と言われたんです」。それが野球人生、最初の大きな転機だった。

太田氏はやる気に満ちあふれて三沢一中に進んだ。「僕らが小学校の時に一中の野球部が(青森)県大会で優勝して、トラックに乗って(三沢)市内をパレードしたんですよ。それを見て、“よし、俺も一中で野球やるぞ!”みたいなテンションになっていました」。ポジションは小学生時代と同じセンター。俊足、強肩の外野手として中学でも練習を重ねた。その環境が2年になって変化した。投手に転向することになったのだ。

「3年生のピッチャーがみんな肘と肩を壊したんです。小学校の時に(三沢市内の)選抜チームでエースだった同級生の菊池(弘義)も同じ中学だったんですが、彼は肘を壊して手術して、ピッチャーがやれなくなった。それで、僕の担任で、部長でもあった立崎(庸夫)先生が『お前、外野で肩がいいから、ちょっとピッチャーをやってみよう』って。『そうですか』と言って投げたら、球は速かったけど、キャッチャーが“ワー”っていうだけだったんですけどね」

それこそ、どこに行くかわからない、とんでもないノーコンぶりだったそうだ。「でも、先生は『よっしゃ、球が速くていいぞ。球が速いのは持って生まれたもの、コントロールは一生懸命練習したら、ストライクが入るようになるから。明日からピッチャーの練習もしよう!』と言われたんです。それがスタートでしたね」。

中学3年時にはストレートが魅力の投手に急成長
 
制球力は簡単に身につかなかったが、試合では投げさせてもらったという。「いつも打たれたヒットの数より、フォアボールの方が多かったです」。それでも中学3年になった頃には、かなりレベルが上がった。「ストライクさえ入れば、もう前に飛ばないんでね。軟式の銀行のチーム、大人のチームとやっても、あまり打たれなかった。その頃になって初めて、ピッチャーでちょっといけるのかな、という自信というか、そういうのがチラッと芽生え出しましたね。3年の時は県大会に行って、地元では優勝できるんじゃないかと言われた。狙ったけど、残念ながら2回戦で負けたんかな……」。

投手に転向してからは阪神・村山実投手のファンになったという。「巨人ファンだったけど、選手は村山さんが好きでしたねぇ。巨人相手にあのダイナミックな……。あんなピッチャーになりたいなって思いましたよ」。高校への進路に関しても「テレビで見ている高校野球、甲子園に行きたいなという思いのもチラチラ出だして……。高校は甲子園に行けるようなところへ進学してみたいなというのが、ちょっと膨らんできたって感じでしたね」。

それもこれも、中学2年に投手になってから迎えた急展開だ。小学校時代は同級生たちの陰に隠れた存在の外野手だったが、中学3年時にはイキのいいストレートが魅力の投手に成長した。さらに高校では、素質を開花させ、甲子園を沸かせることにもなるのだから……。

太田氏はしみじみとこう話した。「長い野球人生にはいろんなことがありましたが、今振り返れば、まず最初の転機は中学2年のそこですね。もしも、あの時、立崎先生が“球は速いけどストライクが入らないピッチャーは駄目。もうピッチャーはいいわ、クビだわ”と判断していたら、“投手・太田幸司”はなかったかもしれない」。まさに恩師との出会いが“流れ”を変えた。

📝先輩エース差し置き「お前がいけ」 1年がいきなり“ノーノー”…元祖甲子園アイドルの原点
https://news.yahoo.co.jp/articles/73f05838672a0ffebe1af19434eaf84cc9ffc5eb?page=1

元近鉄・太田氏が振り返る、転機となった高校進学

元近鉄、巨人、阪神で活躍した右腕の太田幸司氏(野球評論家)は1967年に青森県立大三沢高(1968年4月から三沢高に改称)に進学し、1年秋には2年生エースを押しのけて、背番号11ながら実質、主戦投手になった。練習試合で完封、完封。さらに新人戦初戦ではノーヒットノーランの快投を見せて、そのポジションをつかんだ。「そこから公式戦は全試合、僕ひとりで投げました」。“元祖甲子園アイドル投手”の高校野球が始まった。

太田氏は「高校進学も転機でした」と話す。当初は大三沢ではなく、青森県立八戸高への進学を考えていたからだ。「八戸は青森の中でも超進学校で甲子園にも何度か出ていました。僕は勉強もそこそこできていたので、進路指導の先生にも『野球も勉強も両方合致しているじゃないか。八戸高校に行け』と言われて一生懸命、受験勉強もしていたんです」。それが大三沢に変わったのは「ひとつは、小、中学校で一緒に野球をやった仲間が行くことになったから」と話す。

「野球好きの先生から『小学校でも中学校でも、三沢市内ではダントツに強かったから、このメンバーで(地元の大三沢に)行けば強くなる。行けよ』とか、言われてね。最終的には、親父もお袋もあまり体が強くなかったし、家から近い学校の方が親にも負担がかからないかと思って(大三沢を)選んだんです。小さい時から一緒にやっていた仲間と3年間楽しく野球をやろう、みたいな感じで、その時は甲子園を目指して頑張るぞ、なんて気持ちは毛頭なかったんですけどね」

入学後は「毎日バッティングピッチャーと走ってばかりでした」という。そんな1年夏の大三沢は八戸・十和田大会初戦で八戸水産に敗れた。「あの頃は十和田地区の予選があって、そこから県大会に行くんですけど、その予選で負けました。残念だったけど、さぁ、これで俺らの時代だ! とも思いましたよ。だって2年生が4人しかいなかったので」。1年秋からは試合出場の可能性が膨らみ、奮い立ったわけだ。

もっとも太田氏は「ピッチャーは2年生のエースがいて、なかなか球が速いし、その先輩が1番をつけて投げるんだろうから、自分は外野かなんかで出られたら、と思っていた」と話す。その状況が変化したのは新チームで最初の練習試合だ。「エースの先輩はそれまでも上の学年相手に投げていたので監督も力は分かっている。僕はバッティングピッチャーくらいしかしていなかったので『お前、ちょっと投げてみるか?』って言われて、投げたら完封したんです」。

初戦で登板→ノーヒットノーランの快挙
 
背番号は11。大ファンの阪神・村山実投手と同じ番号で「とても気に入っていた」と言うが、結果も出し続けた。「次にチャンスをいただいて投げたら、また完封。そうこうしているうちに新人戦が始まって、初戦は先輩が行くと思ったら監督が『太田、お前が行け!』って。そしたらノーヒットノーラン。その次の試合も完封して……。結局、そこからの公式戦は全試合、僕がひとりで投げましたから、あの最初の練習試合に投げさせてもらったのも転機になりましたね」。

背番号1の先輩投手を押しのけての“昇格”。「練習試合はよしとしても、公式戦も最初に投げさせてくれて……。普通だったら実績のある先輩を投げさせるでしょ。もし、僕が打たれていたら監督が批判されたんじゃないかなぁ。エースがいるのに、なんで下の学年のヤツを投げさせたんだ、ってなりかねないですもんね。まぁ僕は打たれて当たり前と思って投げていましたけどね。先輩には申し訳なかったけど、僕にとっては大きなことでした」。

1年秋は青森大会準決勝まで進むも、鰺ヶ沢に延長11回2-3でサヨナラ負けを喫した。「それなりの試合はしていたし、1年生中心のチームでも十分戦えるなと。でも、その次の年(1968年)の夏に甲子園に行けるとは、その時は全く思っていませんでした。僕らが3年になる頃には、もうちょっと強くなるんじゃないか、みたいな、そんな感じだったんですけどね」。

エースとなった太田氏の進化は続いた。持ち前のストレートに磨きがかかった。「あの頃は、ほとんど真っ直ぐ1本でした。一応カーブもあったんですけど、うまく曲がらなくて。スピードの抜けた真っ直ぐみたいになって、その方がバットに当たるんでね、だから本当に真っ直ぐだけ。カーブのサインなんかなかったですもん。今思うと、150キロとかの速さはなかったけど、ホップするような伸びる球っていうかな、そういうタイプ。バッターが下を振っちゃうみたいな、ね」。気がつけば青森県下で有名な投手になっていた。

☝<春風に乗って>’26センバツ 三重 甲子園憧れ父から子へ 西井駿内野手「本塁打放つ」/山本優外野手「舞台に立つ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/ec874f80945ead4cd9ea64a3e82f34def92c8bb0

8年ぶり14回目のセンバツ出場を決めた三重は1961年に創部され、69年にはセンバツ初優勝を果たした。夏の甲子園にも14回出場した伝統校であることから「親子2代で三重野球部」という選手も少なくない。かつて三重のユニフォームを着て甲子園の土を踏んだ親たちは息子に何を託すのか。2選手の父親に話を聞いた。

西井駿内野手(1年)の父勲さん(48)が三重に入学したのは93年。「レベルの高い野球をしたい」が理由だった。第67回センバツ大会で代打として甲子園の土を踏み、同年夏の全国高校野球選手権大会にも外野手として出場した。低めが得意なパワーヒッター。1年下には沖田展男・現監督がいた。

0―4で敗れたセンバツ初戦の星稜(石川)戦。八回無死走者なしで二飛に倒れた時、電光掲示板をみて「ああ、ここが甲子園か」と感動した。夏は外野のレギュラーとして先発出場。4―6で負けた初戦の熊本工戦の七回に二塁打を放った。「甲子園で自分の名のアナウンスを聞いたことは一生忘れない」という。

長男の駿選手は小学2年で野球を始めた。勲さんはゴロ捕球の姿勢や打撃のコツなど、あらゆる知識をたたき込んだ。高校進学時は迷わず、県内で最も甲子園に近いと信じる三重を推した。
駿選手は強打が自慢の控え内野手。父の甲子園での映像を見て「僕もあの舞台で」と憧れが強まっている。「甲子園で本塁打を放ち、父を超える」が目標だ。


もう一人は山本優外野手。父浩一郎さん(50)は8強入りした第64回センバツ大会で、1年ながら控え投手としてベンチ入りした。投げる機会はなかったが、甲子園でチームが一戦一戦強くなっていくのを感じた。その後、内野手に転向し、中京大を経て、社会人野球の強豪・日産自動車で2002年までプレー。都市対抗野球大会優勝も経験した。「その原点は甲子園。夢や憧れが詰まった聖地だ」と語る。

実は長男で優選手の兄海さんは、慶応(神奈川)の副主将として3年前の夏の甲子園で優勝している。家族は、優選手も当然慶応を目指すと思っていた。だが、本人は8年前のセンバツ準決勝の大阪桐蔭戦で、延長十二回の激闘の末に2―3でサヨナラ負けした三重の戦いぶりが忘れられなかった。

「自立すること。そして兄を超えること」。この二つを目標に親元を離れて三重を選んだ。自由なムードの中で、練習時間を多く取れることに満足しているという。

センバツ出場が決まった1月30日は病院にいた。昨年6月に骨折した左足のリハビリのためだ。浩一郎さんからは「けがをして良かったと思えるか、それともここで終わるかは自分次第」とアドバイスされた。

投手としても期待されており、聖地に立てるか今が正念場。「僕はまだ兄にも父にもかなわない。絶対に甲子園の舞台に立つ」と誓う優選手。浩一郎さんは「簡単に立つことができないからこそ本当に貴重な場所。最大限楽しんで、人として成長できる舞台にしてほしい」とエールを送る。

👣センバツ2026 智弁学園・硬式野球部3年生 後輩へ夢託し卒業
https://news.yahoo.co.jp/articles/85c1769d171ba70935e5772e5f10e4eeae171002

5年ぶり15回目のセンバツ出場を決めた智弁学園で11日、卒業式があり、硬式野球部の3年生21人が母校を巣立った。1、2年生は昨夏の県大会まで苦楽を共にしてきた先輩との別れを惜しみ、3年生は後輩たちの大舞台での活躍を祈ってエールを送った。式に臨んだ3年生は、最後のホームルームを終えて野球部の寮「健志館」に集合。野球部としての“卒業式”が始まった。

小坂将商監督は「後輩の頑張る姿を応援してほしい。困ったことがあったらいつでもグラウンドに戻ってきてください」とはなむけの言葉を送って門出を祝福。
井元康勝部長は「昨夏悔しい思いをしたと思うが、その経験は必ず役立つ。長い人生のどこかで何かの『日本一』になれるように頑張って」と激励した。
野球部OB会長の生駒敬雄さんも姿を見せ、「この3年間積んできた厳しい練習は必ず将来にも生きてくる。これからも頑張ってほしい」と話し、トロフィーなどの記念品を一人一人に手渡した。

昨夏まで主将を務めた少路慶斗さんは「陰で支えてくれている人がたくさんいる。そういう人たちに恩返しをしてほしい」とセンバツに向けて練習に励む後輩たちにエールを送った。角谷哲人主将(2年)は「先輩たちの分までセンバツの舞台で頑張ります」と思いを受け止めた。

1、2年生から卒業生へメッセージを書いた色紙がそれぞれに贈られた。式が終わると同期や後輩と記念撮影を撮ったり、思い出話に花を咲かせたりした。

🎵名門・県岐阜商吹奏楽部とジントシオ氏が夢コラボ 新チャンステーマ完成 曲名は異例の“総選挙”で決定へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/88e58f32cc510043c11d6ef50e5efcf894f30e96

ロッテの応援団長や楽天の応援プロデューサーを務めるなど、広くスポーツ界で「応援のプロ」として知られる作曲家のジントシオ氏(45)が、昨夏の甲子園で16年ぶりに4強入りした県岐阜商の新チャンステーマ(チャンテ)を書き下ろし、このほど完成した。14日に開かれる同校吹奏楽部の「創部100周年記念演奏会」で初披露される予定だ。

同校の吹奏楽部といえば、昨夏の甲子園で郷ひろみの名曲「GOLDFINGER’99」などのノリのいい演奏で、名門野球部を準決勝進出へと後押ししたことも記憶に新しい。
ここに新たな“援軍”が加わった。ジン氏作曲のオリジナルチャンテが完成し、14日の記念演奏会で初めて奏でられることになったのだ。

事の発端は延長11回タイブレークの死闘となった昨夏の甲子園準々決勝、県岐阜商-横浜戦だった。県岐阜商はV候補の一角を8-7で下し、全国の高校野球ファンの度肝を抜いた。同校吹奏楽部OB会長の牧野勝也さんは、以前から甲子園中継で流れるジンさん作の名曲「青のプライド」のファンで、「ウチにも1曲つくってほしい」との夢を持っていた。

「でも面識もなく、ツテもないなと思っていて…ところが横浜戦の選手たちの頑張りを見ていたら、心が奮い立って。あの勝利の翌日、ダメ元でジンさんにメールを送ったんです」

ジン氏からは、わずか1時間後に返信が届いた。「周りを巻き込んでやりましょう」との内容だった。ジン氏は言う。「昨夏の甲子園の活躍を思い出しながら、疾走感あふれるメロディーを意識しました。手応えはすごくあります」。曲は完成し、11日にはジンさんが同校を訪問。そもそもは指導を行う予定だったが、「最初の演奏から、修正するところがないほどでした。完璧でした」と高い完成度に驚嘆した。

14日の記念演奏会では、異例の「曲目選挙」が実施される。4つの候補のうちからどれが最高か、会場で投票を行うというものだ。後日、野球部などの意向も反映した上で、最終決定する方針だという。周囲を巻き込むことで、「みんなのうた」として、愛されるチャンテにしたいとの願いもある。

「新しい100年に向けて、この曲とともに甲子園で新しいムーブメントを起こしてほしい」とジン氏。名門伝統校と稀代の応援家による夢コラボ。聖地で鳴り響く瞬間が、今から待ち遠しい。
2026/02/12(木) 22時30分37秒 No.2296 編集 削除