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⚾今日の和歌山大会会新人戦試合結果(5日目 3回戦)
紀三井寺球場・・・高 野 山4-0和歌山北・和 智 弁12-0田 辺 工(5回)
📝智弁和歌山のおかわり君こと186センチ、100キロの清水大夢、DHでセンバツ目指す
https://news.yahoo.co.jp/articles/5addeafb500d26290d30f9d29dadb944b3afd2ba
◆和歌山県下高校野球新人戦 ▽2回戦 智弁和歌山12―1初芝橋本(25日・和歌山市紀三井寺)
目を見張る存在感を放った。智弁和歌山の新人戦初戦、「7番・一塁」で出場したのは清水大夢(2年)だ。初回2死一、二塁で背中に死球を受けても、淡々と一塁へ歩いた。「打席を重ねるなかで修正できなかった」。チームは12得点で7回コールド勝ちしたものの、2打席目以降も四球、一邪飛、二ゴロ。反省を口にしたが、186センチ、100キロの巨体は圧巻だった。
自慢の体躯をつくったのは白米だ。寮生ではなく、実家から同校に通っている。「毎朝3杯くらい無意識で食べている」。生まれた時は2200グラムの未熟児だったものの、よく寝てよく食べて、ここまで成長した。
父・昭秀さん(45)は同校OB。中谷仁監督(46)とは同級生で、1997年の夏の甲子園決勝ではバッテリーを組み、胴上げ投手となった。「お父さんと同じユニホームを着て試合に出ることが、物心ついたときからの夢だった」と母・亜紀さん。今春のセンバツは決勝の横浜戦に代打で出場したが、今夏はベンチ外。試合に出られない悔しさが糧となっている。
中谷監督は「打撃にしか期待してない。今後、DHだろうなという見立て」と来春から導入される新ルールを見越し、長打力に期待を寄せた。「一発があるバッターになりたい」。令和のおかわり君は、父が沸かせたあの舞台で特大アーチを放つ。
📝秋季東海地区高校野球三重県大会、28日に開幕 地区予選せず、26日抽選会
https://news.yahoo.co.jp/articles/76536170284f7def33fec063bf008660749ebd75
来年春の甲子園につながる、第78回秋季東海地区高校野球三重県大会が28日に開幕する。今年から地区予選を行わず、全出場校が参加するトーナメント方式で実施される。24日現在62校55チームが出場を予定している。
組み合わせは26日の抽選会で決まる。事前に行われたシード決定戦の結果、今月甲子園球場で行われた全国高校選手権に出場した津田学園と四日市、桑名西=以上北地区、神村伊賀、近大高専、久居農林=以上中地区、三重、宇治山田商=以上南地区=の8チームはシードされて出場する。
🎤14年ぶり甲子園にカムバックの“やくざ監督”…広陵問題で「陰から文句を言うのは卑怯」発言の真意は? 73歳の最年長指揮官が「野球は素人」と語るワケ
https://news.yahoo.co.jp/articles/6b0fed51be965039744d1289db96949d36a7a15a?page=1
沖縄尚学の初優勝で幕を閉じた今年の甲子園。一方で、勝ち残った高校以外にも注目を集めたチームも多かった。島根・開星高の野々村直通監督もそのひとりだ。かつては「失言騒動」も引き起こした自称“やくざ監督”が、14年ぶりに甲子園に帰ってきた。果たしてそこにはどんな紆余曲折があったのだろうか。
「うちはぶっちぎりで勝つか、ボコボコにされて負けるかなんでね」
野々村直通は自身が率いる開星のカラーについて、はっきりと白黒をつけた。夏の島根大会だけを見れば、確かにそうだ。
26-2と大勝した松江南との決勝戦を含め5試合中3試合が2桁得点。立正大淞南との準々決勝で6-3、大社との準決勝では2-1と接戦をものにしてきた粘り強さもあったが、ぶっちぎりで勝ってきた印象が強い。その開星は、甲子園初戦で大接戦を演じた。宮崎商との試合は一進一退の攻防。ランナー一、二塁から始まるタイブレークに突入した延長10回裏に、サヨナラ勝ちを収めた。
14年ぶりの甲子園…73歳になった「やくざ監督」
14年ぶりに甲子園で指揮を執った野々村にとって、このシステムによる戦いは初めての体験だったという。機嫌はいいが、舌鋒は鋭い。
「暑さの対策もあるんだろうけど、9回でタイブレークというのはあんまり好きじゃない。練習試合でも『タイブレークをやりましょう』と言う監督もいるけど、『やめましょう。引き分けにしましょう』と。今の『7回制』の議論もそうだけどさ、もう少し考えて。延長戦も12回くらいまでは戦ったほうがいい」
開星の試合があった大会2日目は「午前の部」と「夕方の部」の2部制が採用されていた。前者の第2試合は、13時30分を回ると次のイニングには進まず、勝敗が決まらなかった場合は継続試合として、日程を再調整される予定となっていた。まさに開星の試合はそのタイムリミットまでギリギリだったわけだが、野々村は「10回の攻撃で点が入らなかったらそうだったの? !」と、その事実を知らずに戦っていた。
「島根から応援に来られないですよ。継続試合は聞いていたけど『なんでそんなことするんや? おかしいやろ』って。13時29分と30分で気温がどんだけ変わるの?
昔と今とでは暑さが違うのはわかります。島根県大会でもうちの選手がけいれんを起こして、試合が中断したこともあったんで、その配慮も助かります。まだ涼しい午前中のうちと夕方に試合をするのはいいんですけど、時間が来たから再試合(継続試合)って、それはないでしょ、と。大会を運営する高野連の方たちも試行錯誤はしているから何とも言えませんけど」
「腹を切りたい」「末代までの恥」…かつての喧騒
野々村の「語録」は、甲子園でも名物と言えるほどの影響力がある。象徴的な事例が2010年のセンバツだ。初戦で21世紀枠の向陽に敗れ、「腹を切りたい」「末代までの恥」と自身への不甲斐なさを口にしたことで世間を騒がせた。定年を迎えた12年に上梓した著書から「やくざ監督」と呼ばれ、14年ぶりに帰ってきた甲子園ではその愛称がインターネット上で蘇った。
73歳となっても、野々村は野々村だった。いくら本心とは違う形でコメントが切り取られても、持論をやめない。それどころか、ますます加速するほどだ。
「絶対にいるんです! コアなファンが。僕はその人たちのために喋っているんです。『こうだろ』って叫びたい人がいっぱいいるんだけど時代の流れでね、僕に言わせたら弱い平和の理想主義みたいになっているから、『高野連の参政党』と呼ばれても喋ります」
日本人ファーストを掲げ今年7月の参院選で大躍進を遂げた保守政党を持ち出し、高校野球界のご意見番を名乗り出る。こわもての論客は、センシティブな話題にも真正面から切り込んでいく。暴力事案が発覚し、2回戦の出場を辞退した広陵についても「難しいよね、これは」としながら、もちろん言及している。
「本当に一生懸命にやっている子が、上下関係とか野球のうまい、下手っていう理由で一方的に攻撃される。それくらい辛いのかな? 集団生活が。そうしないための予防策として、人間関係作りが一番じゃないですか。
うちの子らは上下関係の礼儀は明確にするけど、ほかはみんな平等ですから。レギュラーだからって補欠をバカにせず、控え選手だからってベンチ入りメンバーを妬まず。そこはミーティングを重ねて徹底させています。寮生活だと、だいたい弱い者いじめがきっかけでしょ。それは絶対にやっちゃいけない。日本人は昔から田舎のお百姓さんだって武士道を持っているんだ。弱い者をいじめるなとか、お年寄りを大事にするとかね。そこが人間性の原点でしょ」
広陵の暴力事案で浮き彫りとなったのが、SNS時代におけるリテラシーの必要性である。真偽不明の情報が瞬く間に広がってしまう。そのことへの警鐘を、野々村らしく無骨に展開していた。
「僕はSNSを使わないんだけど、陰から文句を言うのは卑怯でね。うちにも匿名で手紙が来るけど、スタートから『名を名乗れ! 批判するなら出てこい』と。『我こそは出雲の国の野々村であるぞ。いざ尋常に! 』って戦うわけじゃないですか。それが武士道でしょ」
「野球は素人」…その言葉のワケは?
前身の松江第一を含め開星を10度の甲子園へと導く島根の名将は、14年ぶりに帰ってきた甲子園で「野球は素人ですから」と何度も言っていた。それはきっと、半分は冗談で、もう半分は本気であるはずだ。
野々村の根幹にあるのは、豊かな人間作りである。歯に衣着せぬ鋭い論調も、全てはこここへと繋がっている。
「うちの野球部では、毎年ひとりは自衛隊員になっていますから。プロ野球選手も国民の娯楽という意味では素晴らしいけど、自衛隊員とか消防隊員、警察官というのは国のため、国民のために身を挺して頑張る。『プロ野球選手になって大儲けしたいです』っていうやつより、そういう仕事に就いてくれたほうが僕としては嬉しいですね。
甲子園だって、行ける年と行けない年があって。じゃあ、行けなかったらダメなのか? といったらそうじゃない。目指すことが大事であってね。そこで人として成長して『自衛隊に入って人助けをします』と言ってくれたら、それだけで教育は成功じゃないですか」
野々村は甲子園での取材時間の多くを、「人間論」や「教育論」に費やしていたような気がする。そうなってしまったのは、我々、報道陣が仕向けてしまった一面も否めないが。
「日本人として、こういうことも萎縮せずに報道してほしいなと思います。『そういう考えもあるよな』ってことをね」
高校野球のご意見番であり「やくざ監督」と呼ばれる男――。
野々村のような異端も受け入れられるからこそ、やはり甲子園は面白い。そして、実はそんな男の考え方には、27年前の「ある出来事」が大きな影響を与えているのだという。
<次回へつづく>
🎤末代までの恥」発言で話題に…14年ぶり甲子園にカムバックの“やくざ監督”を変えた「あるキッカケ」 現代は「正面切って突っ張る子がいない。でも…」
https://news.yahoo.co.jp/articles/fcaf5db688372e2db9701c72a4fe99bbd8f0bbdf?page=1
どっち? 野々村直通から問われた瞬間、クエスチョンマークが浮かんだ。そのことを察したのか、こちらが求める回答をすぐ口にする。
「やくざ監督ね」恥ずかしながら、野々村の著書はてっきり『やくざ監督と呼ばれて〜山陰のピカソ・野々村直通一代記』だけだと思っていたが、他にも教育論を綴る作品があった。そうはいっても、やはり処女作のインパクトは強烈そのものである。
「60で定年退職したあとに出したんだけど、また監督に復帰するなら『元気印の監督』とかにしたんだろうね。でも『もう、関係ねぇや』ってあのタイトルにして。今回、また甲子園に帰ってきてこれをまた使われるとまずいなって思うんだけど、いい話題として『あいつがまた帰ってきた』って取り上げてくれれば嬉しいことです」
14年ぶりに甲子園復帰の「やくざ監督」
やくざ監督、甲子園に帰る。自身にとって実に14年ぶり、チームとしては8年ぶりの夏。野々村が率いる開星は、宮崎商との初戦でタイブレークの延長10回にサヨナラで勝利し、初陣を飾った。
「だんだん!」開口一番、出雲弁で感謝を表す。続けて「ありがとうございます」と翻訳して結ぶところに、野々村の実直さがにじみ出る。試合のあった8月6日の第2試合の時点で、甲子園球場のある西宮市の気温は35度を超えていた。じっとしているだけでも体力を削ぎ落される猛暑のなか、2時間45分もの激戦を指揮した。73歳。寄る年波を感じてもなお、野々村の声量は若々しい。
「できるだけ涼しいところにはいたんだけど、こんな試合をしてくれたら忘れますね。緊張感のある場面ではメガホン持って『わー! 』って叫んでね。『子供たちと一緒になって戦いたい』という気持ちが出ましたね」
14年ぶりに勝利監督インタビューのお立ち台に立った名伯楽を、大勢の記者が囲む。
「僕はね、これまで3勝しかしていなかったですから、甲子園で。自慢しますけど」野々村が報道陣の笑いを誘う。今と昔への感慨は、湯水のごとくあふれ出てくる。
「まさかこのユニフォームを着て、またこの景色を見られるとは思っていなかったし、勝てるとも思わなかったし。14年前とは違いますよね。『60で退職するまでは前のめりに倒れて死んだろう』って思ってやってきて。『俺についてこい! 』のような昭和の野球ですよ。それが、今では『頑張って俺を甲子園に連れて行ってくれ』となってね。子供たちには本当に感謝です」
1988年。前身である松江第一の野球部が誕生したと同時に監督となると、5年後の93年夏に甲子園初出場を果たす。大願の成就は野々村をより前のめりにさせた。
バットのスイングからボールの捕り方、走塁に至るまで、一つひとつのプレーに目を凝らす。「俺の言うことを聞いておけば間違いない」「言うことを聞かんかったら使わんぞ」。昭和にはよくあった監督の絶対君主制を地で進んでいた野々村が言うには、この指導スタイルに変化が訪れたのは、甲子園初出場から5年後の98年あたりだったという。
指導スタイル変化のきっかけは…週刊誌報道?
「文春砲にやられましてね」秋の中国大会で島根県勢としては33年ぶりに優勝した開星は、翌年の3月に開幕するセンバツへの出場を当確としていた。そんな矢先の文春砲。
<スクープ センバツ確定高校と高野連の大罪 「主力2人」は違反選手だった! >
記事によると、他県から転入してきた主力選手2人の手続きに不備があり、大会参加資格の規定に違反しているのではないか――そんな内容だった。これにより開星は、センバツへの出場が消滅したのである。野々村はこのあたりから「子供たちの好きなようにやらせる流れになっていった」と、“昭和の野球”からの脱却を図ってきたという。しかし、実情はやや異なる。センバツが消えた不遇の世代でキャプテンを務め、現在は野々村の右腕としてチームを支える、部長の大谷弘一郎の回想はこうだ。
「『俺についてこい』というスタンスがはっきりしていたなかでの、監督と選手の関係性でしたね。ノックも自分で打っていましたし、遠征に行く時も大型バスを自分で運転していましたし、全て自分でやられていました。選手は監督についていくだけでしたね」
圧倒的な求心力を誇る、野々村の親分肌。この事件から9年後の2007年夏、開星は悲願だった甲子園初勝利を手にした。
春夏合わせて5度の出場。ファンからも少しずつ認知されていた開星は、やはり親分が誰よりも異彩を放っていた。角刈りに羽織袴、ティアドロップのサングラス。甲子園の抽選会など公でのスタイルが話題となっていく。その野々村の個性がさく裂してしまったのが、10年のセンバツである。初戦で21世紀枠での出場となった和歌山の向陽を相手に、1-2と一歩及ばず敗れたことが、野々村の琴線を激しく揺さぶる。
「野球をやめたい」「死にたい」「腹を切りたい」。さらには「21世紀枠に負けたのは末代までの恥」と、あらゆる負の感情を報道陣の前にさらけ出した。
野々村の発言は瞬く間に広がり、世間は騒然とする。学校の電話とホームページにはともに100件以上もの苦情が寄せられたほどで、自身も謝罪会見でセンバツでの不適切発言に頭を下げ、監督の職を降りた。思い出させて申し訳ないんですが……と当時のことを切り出すと、本人は「ああ、炎上事件?」と、あっけらかんと反応した。
「絶対にいるんです! コアなファンというのが。『こうだろ』って叫びたい人がいっぱいいるんだけど、時代の流れがあるからね。僕はその人たちのために喋っているんです」
裏表のない野々村だからこそ、翌11年には周囲の嘆願により監督として再びユニフォームを着られたし、この年の夏に甲子園3勝目を挙げることができたに違いない。
甲子園を花道とし監督を退いた野々村は、翌年の3月に定年退職して野球から離れた。第2の人生は画家として生きると決めていた。得意の似顔絵を中心に筆を走らせ、15年には松江市内に画廊を開設。個展を開くなど「山陰のピカソ」として活動する。アーティストとしての地盤を固めていた20年、野々村は三度、開星のユニフォームをまとうこととなる。
「人生には旬があると思いますんでね。60で1回、切れたんですごくしんどい。野球部の事情で戻ることになったんだけど、1、2年でいい野球部にしてから次にバトンタッチしようと思っていたら」
監督再任で感じた「令和の新潮流」
令和の高校野球は、野々村の知る「俺についてこい」だけでは統率できなくなっていた。個性を重んじながらも協調性を養わせ、組織を結束させる――そんな風潮だ。野々村も、そこを敏感に察した。
「正面切って突っ張るようなやつはいなくなった。自分の世界に入って『ネットのほうが正しいんじゃない? 』と、指導者や先生の話に聞く耳を持たない子が増えましたよね」
わかっているからこそ、必要以上には刺激しない。練習では選手やコーチ陣の意見にも耳を傾け、「やってみろ」と促す。ただ、「これだけは譲れない」とばかりに、心は自らの生き様を説く。
「『野球を通じていい学生を作ろう』ということでね、誰に対してもちゃんと挨拶ができたり、マナーのある行動ができたりね。みんなから応援されるチームにしようと」
毎年3月に行われる広島・江田島での合宿が、人を育てる代表的な行事である。戦時中、広島湾防衛のため旧陸海軍の施設が置かれ、今も遺跡や慰霊碑があるこの地の息吹を感じることによって、野々村は選手たちに豊かな心を育ませようと努める。ミーティングで説く内容はこうだ。
「戦争があった時代、強い体になるため、いい野球選手になるために『ご飯を食べなさい』と言いたくても言えなかった。でも今は、腹いっぱいにご飯が食べられて、大好きな野球をして甲子園を目指せる。それが、どれだけ奇跡的な平和であるかをわかってほしい」
野々村をして「いい子供たち」に育ったチームは、監督を14年ぶりとなる甲子園へと連れていき、4勝目をプレゼントした。2回戦の相手となる仙台育英戦を前に、また「野々村節」がさく裂する。
「いやいや、もう大横綱ですから。全てを出し切って玉砕してくれたらいいと思います」
22年に東北勢初の全国制覇を成し遂げ、この大会でも上位進出を予想されていたこの強豪と開星とは、ちょっとした因縁がある。
15年前の10年。開星は勝利まで「あとひとり」の場面でセンターがフライを落球したことで逆転され、そのまま敗れた。この時、野々村は例の不適切発言により、公式戦では指揮を執っていない。
「僕は謹慎中だったから。蟄居していましたからテレビで見ていましたよ。まあ、あれに関しては前の監督に失礼ですから、試合に関して言うことはないですけど」
野々村にとっては初めてとなる仙台育英戦。玉砕を掲げた監督は「群羊を駆って猛虎を攻む」と言い、全員野球を誓った。
2回戦での“大横綱”仙台育英戦は惜敗
初回に1死一、三塁のチャンスから犠牲フライで先手を取ったが、その裏に逆転を許し、“大横綱”相手に2-6で敗れた。
「強豪に対して負けたとはいえ、完全試合もノーヒットノーランもやられなかったどころか、初回に1点を取ってね。本当によく頑張ってくれましたよ」
野々村は目じりを下げて選手をねぎらいながらも、監督としてシビアに目を光らせる。
「群羊は駆け込めていなかったし、砕けてなかったね。ヒビは入ったかもしれないけど」
青春は73歳にして再び訪れた。指導者として昭和と平成を生き、令和に戻ってきた野々村に活力が戻る。
引き際はグラウンドで、前のめりに――。そんな願望が報道陣から飛ぶと、野々村は「いやいや! そんなのダメ!」と拒否する。
「アーティストですから! 僕は広大(広島大学)教育学部を出た絵描きですから。『キャンバスに筆をおきながら死にたい』というのを、みなさんわかってない!」
山陰のピカソが人生を描く。豊潤な歩みの題材となっているのは、紛れもなくやくざ監督である。
紀三井寺球場・・・高 野 山4-0和歌山北・和 智 弁12-0田 辺 工(5回)
📝智弁和歌山のおかわり君こと186センチ、100キロの清水大夢、DHでセンバツ目指す
https://news.yahoo.co.jp/articles/5addeafb500d26290d30f9d29dadb944b3afd2ba
◆和歌山県下高校野球新人戦 ▽2回戦 智弁和歌山12―1初芝橋本(25日・和歌山市紀三井寺)
目を見張る存在感を放った。智弁和歌山の新人戦初戦、「7番・一塁」で出場したのは清水大夢(2年)だ。初回2死一、二塁で背中に死球を受けても、淡々と一塁へ歩いた。「打席を重ねるなかで修正できなかった」。チームは12得点で7回コールド勝ちしたものの、2打席目以降も四球、一邪飛、二ゴロ。反省を口にしたが、186センチ、100キロの巨体は圧巻だった。
自慢の体躯をつくったのは白米だ。寮生ではなく、実家から同校に通っている。「毎朝3杯くらい無意識で食べている」。生まれた時は2200グラムの未熟児だったものの、よく寝てよく食べて、ここまで成長した。
父・昭秀さん(45)は同校OB。中谷仁監督(46)とは同級生で、1997年の夏の甲子園決勝ではバッテリーを組み、胴上げ投手となった。「お父さんと同じユニホームを着て試合に出ることが、物心ついたときからの夢だった」と母・亜紀さん。今春のセンバツは決勝の横浜戦に代打で出場したが、今夏はベンチ外。試合に出られない悔しさが糧となっている。
中谷監督は「打撃にしか期待してない。今後、DHだろうなという見立て」と来春から導入される新ルールを見越し、長打力に期待を寄せた。「一発があるバッターになりたい」。令和のおかわり君は、父が沸かせたあの舞台で特大アーチを放つ。
📝秋季東海地区高校野球三重県大会、28日に開幕 地区予選せず、26日抽選会
https://news.yahoo.co.jp/articles/76536170284f7def33fec063bf008660749ebd75
来年春の甲子園につながる、第78回秋季東海地区高校野球三重県大会が28日に開幕する。今年から地区予選を行わず、全出場校が参加するトーナメント方式で実施される。24日現在62校55チームが出場を予定している。
組み合わせは26日の抽選会で決まる。事前に行われたシード決定戦の結果、今月甲子園球場で行われた全国高校選手権に出場した津田学園と四日市、桑名西=以上北地区、神村伊賀、近大高専、久居農林=以上中地区、三重、宇治山田商=以上南地区=の8チームはシードされて出場する。
🎤14年ぶり甲子園にカムバックの“やくざ監督”…広陵問題で「陰から文句を言うのは卑怯」発言の真意は? 73歳の最年長指揮官が「野球は素人」と語るワケ
https://news.yahoo.co.jp/articles/6b0fed51be965039744d1289db96949d36a7a15a?page=1
沖縄尚学の初優勝で幕を閉じた今年の甲子園。一方で、勝ち残った高校以外にも注目を集めたチームも多かった。島根・開星高の野々村直通監督もそのひとりだ。かつては「失言騒動」も引き起こした自称“やくざ監督”が、14年ぶりに甲子園に帰ってきた。果たしてそこにはどんな紆余曲折があったのだろうか。
「うちはぶっちぎりで勝つか、ボコボコにされて負けるかなんでね」
野々村直通は自身が率いる開星のカラーについて、はっきりと白黒をつけた。夏の島根大会だけを見れば、確かにそうだ。
26-2と大勝した松江南との決勝戦を含め5試合中3試合が2桁得点。立正大淞南との準々決勝で6-3、大社との準決勝では2-1と接戦をものにしてきた粘り強さもあったが、ぶっちぎりで勝ってきた印象が強い。その開星は、甲子園初戦で大接戦を演じた。宮崎商との試合は一進一退の攻防。ランナー一、二塁から始まるタイブレークに突入した延長10回裏に、サヨナラ勝ちを収めた。
14年ぶりの甲子園…73歳になった「やくざ監督」
14年ぶりに甲子園で指揮を執った野々村にとって、このシステムによる戦いは初めての体験だったという。機嫌はいいが、舌鋒は鋭い。
「暑さの対策もあるんだろうけど、9回でタイブレークというのはあんまり好きじゃない。練習試合でも『タイブレークをやりましょう』と言う監督もいるけど、『やめましょう。引き分けにしましょう』と。今の『7回制』の議論もそうだけどさ、もう少し考えて。延長戦も12回くらいまでは戦ったほうがいい」
開星の試合があった大会2日目は「午前の部」と「夕方の部」の2部制が採用されていた。前者の第2試合は、13時30分を回ると次のイニングには進まず、勝敗が決まらなかった場合は継続試合として、日程を再調整される予定となっていた。まさに開星の試合はそのタイムリミットまでギリギリだったわけだが、野々村は「10回の攻撃で点が入らなかったらそうだったの? !」と、その事実を知らずに戦っていた。
「島根から応援に来られないですよ。継続試合は聞いていたけど『なんでそんなことするんや? おかしいやろ』って。13時29分と30分で気温がどんだけ変わるの?
昔と今とでは暑さが違うのはわかります。島根県大会でもうちの選手がけいれんを起こして、試合が中断したこともあったんで、その配慮も助かります。まだ涼しい午前中のうちと夕方に試合をするのはいいんですけど、時間が来たから再試合(継続試合)って、それはないでしょ、と。大会を運営する高野連の方たちも試行錯誤はしているから何とも言えませんけど」
「腹を切りたい」「末代までの恥」…かつての喧騒
野々村の「語録」は、甲子園でも名物と言えるほどの影響力がある。象徴的な事例が2010年のセンバツだ。初戦で21世紀枠の向陽に敗れ、「腹を切りたい」「末代までの恥」と自身への不甲斐なさを口にしたことで世間を騒がせた。定年を迎えた12年に上梓した著書から「やくざ監督」と呼ばれ、14年ぶりに帰ってきた甲子園ではその愛称がインターネット上で蘇った。
73歳となっても、野々村は野々村だった。いくら本心とは違う形でコメントが切り取られても、持論をやめない。それどころか、ますます加速するほどだ。
「絶対にいるんです! コアなファンが。僕はその人たちのために喋っているんです。『こうだろ』って叫びたい人がいっぱいいるんだけど時代の流れでね、僕に言わせたら弱い平和の理想主義みたいになっているから、『高野連の参政党』と呼ばれても喋ります」
日本人ファーストを掲げ今年7月の参院選で大躍進を遂げた保守政党を持ち出し、高校野球界のご意見番を名乗り出る。こわもての論客は、センシティブな話題にも真正面から切り込んでいく。暴力事案が発覚し、2回戦の出場を辞退した広陵についても「難しいよね、これは」としながら、もちろん言及している。
「本当に一生懸命にやっている子が、上下関係とか野球のうまい、下手っていう理由で一方的に攻撃される。それくらい辛いのかな? 集団生活が。そうしないための予防策として、人間関係作りが一番じゃないですか。
うちの子らは上下関係の礼儀は明確にするけど、ほかはみんな平等ですから。レギュラーだからって補欠をバカにせず、控え選手だからってベンチ入りメンバーを妬まず。そこはミーティングを重ねて徹底させています。寮生活だと、だいたい弱い者いじめがきっかけでしょ。それは絶対にやっちゃいけない。日本人は昔から田舎のお百姓さんだって武士道を持っているんだ。弱い者をいじめるなとか、お年寄りを大事にするとかね。そこが人間性の原点でしょ」
広陵の暴力事案で浮き彫りとなったのが、SNS時代におけるリテラシーの必要性である。真偽不明の情報が瞬く間に広がってしまう。そのことへの警鐘を、野々村らしく無骨に展開していた。
「僕はSNSを使わないんだけど、陰から文句を言うのは卑怯でね。うちにも匿名で手紙が来るけど、スタートから『名を名乗れ! 批判するなら出てこい』と。『我こそは出雲の国の野々村であるぞ。いざ尋常に! 』って戦うわけじゃないですか。それが武士道でしょ」
「野球は素人」…その言葉のワケは?
前身の松江第一を含め開星を10度の甲子園へと導く島根の名将は、14年ぶりに帰ってきた甲子園で「野球は素人ですから」と何度も言っていた。それはきっと、半分は冗談で、もう半分は本気であるはずだ。
野々村の根幹にあるのは、豊かな人間作りである。歯に衣着せぬ鋭い論調も、全てはこここへと繋がっている。
「うちの野球部では、毎年ひとりは自衛隊員になっていますから。プロ野球選手も国民の娯楽という意味では素晴らしいけど、自衛隊員とか消防隊員、警察官というのは国のため、国民のために身を挺して頑張る。『プロ野球選手になって大儲けしたいです』っていうやつより、そういう仕事に就いてくれたほうが僕としては嬉しいですね。
甲子園だって、行ける年と行けない年があって。じゃあ、行けなかったらダメなのか? といったらそうじゃない。目指すことが大事であってね。そこで人として成長して『自衛隊に入って人助けをします』と言ってくれたら、それだけで教育は成功じゃないですか」
野々村は甲子園での取材時間の多くを、「人間論」や「教育論」に費やしていたような気がする。そうなってしまったのは、我々、報道陣が仕向けてしまった一面も否めないが。
「日本人として、こういうことも萎縮せずに報道してほしいなと思います。『そういう考えもあるよな』ってことをね」
高校野球のご意見番であり「やくざ監督」と呼ばれる男――。
野々村のような異端も受け入れられるからこそ、やはり甲子園は面白い。そして、実はそんな男の考え方には、27年前の「ある出来事」が大きな影響を与えているのだという。
<次回へつづく>
🎤末代までの恥」発言で話題に…14年ぶり甲子園にカムバックの“やくざ監督”を変えた「あるキッカケ」 現代は「正面切って突っ張る子がいない。でも…」
https://news.yahoo.co.jp/articles/fcaf5db688372e2db9701c72a4fe99bbd8f0bbdf?page=1
どっち? 野々村直通から問われた瞬間、クエスチョンマークが浮かんだ。そのことを察したのか、こちらが求める回答をすぐ口にする。
「やくざ監督ね」恥ずかしながら、野々村の著書はてっきり『やくざ監督と呼ばれて〜山陰のピカソ・野々村直通一代記』だけだと思っていたが、他にも教育論を綴る作品があった。そうはいっても、やはり処女作のインパクトは強烈そのものである。
「60で定年退職したあとに出したんだけど、また監督に復帰するなら『元気印の監督』とかにしたんだろうね。でも『もう、関係ねぇや』ってあのタイトルにして。今回、また甲子園に帰ってきてこれをまた使われるとまずいなって思うんだけど、いい話題として『あいつがまた帰ってきた』って取り上げてくれれば嬉しいことです」
14年ぶりに甲子園復帰の「やくざ監督」
やくざ監督、甲子園に帰る。自身にとって実に14年ぶり、チームとしては8年ぶりの夏。野々村が率いる開星は、宮崎商との初戦でタイブレークの延長10回にサヨナラで勝利し、初陣を飾った。
「だんだん!」開口一番、出雲弁で感謝を表す。続けて「ありがとうございます」と翻訳して結ぶところに、野々村の実直さがにじみ出る。試合のあった8月6日の第2試合の時点で、甲子園球場のある西宮市の気温は35度を超えていた。じっとしているだけでも体力を削ぎ落される猛暑のなか、2時間45分もの激戦を指揮した。73歳。寄る年波を感じてもなお、野々村の声量は若々しい。
「できるだけ涼しいところにはいたんだけど、こんな試合をしてくれたら忘れますね。緊張感のある場面ではメガホン持って『わー! 』って叫んでね。『子供たちと一緒になって戦いたい』という気持ちが出ましたね」
14年ぶりに勝利監督インタビューのお立ち台に立った名伯楽を、大勢の記者が囲む。
「僕はね、これまで3勝しかしていなかったですから、甲子園で。自慢しますけど」野々村が報道陣の笑いを誘う。今と昔への感慨は、湯水のごとくあふれ出てくる。
「まさかこのユニフォームを着て、またこの景色を見られるとは思っていなかったし、勝てるとも思わなかったし。14年前とは違いますよね。『60で退職するまでは前のめりに倒れて死んだろう』って思ってやってきて。『俺についてこい! 』のような昭和の野球ですよ。それが、今では『頑張って俺を甲子園に連れて行ってくれ』となってね。子供たちには本当に感謝です」
1988年。前身である松江第一の野球部が誕生したと同時に監督となると、5年後の93年夏に甲子園初出場を果たす。大願の成就は野々村をより前のめりにさせた。
バットのスイングからボールの捕り方、走塁に至るまで、一つひとつのプレーに目を凝らす。「俺の言うことを聞いておけば間違いない」「言うことを聞かんかったら使わんぞ」。昭和にはよくあった監督の絶対君主制を地で進んでいた野々村が言うには、この指導スタイルに変化が訪れたのは、甲子園初出場から5年後の98年あたりだったという。
指導スタイル変化のきっかけは…週刊誌報道?
「文春砲にやられましてね」秋の中国大会で島根県勢としては33年ぶりに優勝した開星は、翌年の3月に開幕するセンバツへの出場を当確としていた。そんな矢先の文春砲。
<スクープ センバツ確定高校と高野連の大罪 「主力2人」は違反選手だった! >
記事によると、他県から転入してきた主力選手2人の手続きに不備があり、大会参加資格の規定に違反しているのではないか――そんな内容だった。これにより開星は、センバツへの出場が消滅したのである。野々村はこのあたりから「子供たちの好きなようにやらせる流れになっていった」と、“昭和の野球”からの脱却を図ってきたという。しかし、実情はやや異なる。センバツが消えた不遇の世代でキャプテンを務め、現在は野々村の右腕としてチームを支える、部長の大谷弘一郎の回想はこうだ。
「『俺についてこい』というスタンスがはっきりしていたなかでの、監督と選手の関係性でしたね。ノックも自分で打っていましたし、遠征に行く時も大型バスを自分で運転していましたし、全て自分でやられていました。選手は監督についていくだけでしたね」
圧倒的な求心力を誇る、野々村の親分肌。この事件から9年後の2007年夏、開星は悲願だった甲子園初勝利を手にした。
春夏合わせて5度の出場。ファンからも少しずつ認知されていた開星は、やはり親分が誰よりも異彩を放っていた。角刈りに羽織袴、ティアドロップのサングラス。甲子園の抽選会など公でのスタイルが話題となっていく。その野々村の個性がさく裂してしまったのが、10年のセンバツである。初戦で21世紀枠での出場となった和歌山の向陽を相手に、1-2と一歩及ばず敗れたことが、野々村の琴線を激しく揺さぶる。
「野球をやめたい」「死にたい」「腹を切りたい」。さらには「21世紀枠に負けたのは末代までの恥」と、あらゆる負の感情を報道陣の前にさらけ出した。
野々村の発言は瞬く間に広がり、世間は騒然とする。学校の電話とホームページにはともに100件以上もの苦情が寄せられたほどで、自身も謝罪会見でセンバツでの不適切発言に頭を下げ、監督の職を降りた。思い出させて申し訳ないんですが……と当時のことを切り出すと、本人は「ああ、炎上事件?」と、あっけらかんと反応した。
「絶対にいるんです! コアなファンというのが。『こうだろ』って叫びたい人がいっぱいいるんだけど、時代の流れがあるからね。僕はその人たちのために喋っているんです」
裏表のない野々村だからこそ、翌11年には周囲の嘆願により監督として再びユニフォームを着られたし、この年の夏に甲子園3勝目を挙げることができたに違いない。
甲子園を花道とし監督を退いた野々村は、翌年の3月に定年退職して野球から離れた。第2の人生は画家として生きると決めていた。得意の似顔絵を中心に筆を走らせ、15年には松江市内に画廊を開設。個展を開くなど「山陰のピカソ」として活動する。アーティストとしての地盤を固めていた20年、野々村は三度、開星のユニフォームをまとうこととなる。
「人生には旬があると思いますんでね。60で1回、切れたんですごくしんどい。野球部の事情で戻ることになったんだけど、1、2年でいい野球部にしてから次にバトンタッチしようと思っていたら」
監督再任で感じた「令和の新潮流」
令和の高校野球は、野々村の知る「俺についてこい」だけでは統率できなくなっていた。個性を重んじながらも協調性を養わせ、組織を結束させる――そんな風潮だ。野々村も、そこを敏感に察した。
「正面切って突っ張るようなやつはいなくなった。自分の世界に入って『ネットのほうが正しいんじゃない? 』と、指導者や先生の話に聞く耳を持たない子が増えましたよね」
わかっているからこそ、必要以上には刺激しない。練習では選手やコーチ陣の意見にも耳を傾け、「やってみろ」と促す。ただ、「これだけは譲れない」とばかりに、心は自らの生き様を説く。
「『野球を通じていい学生を作ろう』ということでね、誰に対してもちゃんと挨拶ができたり、マナーのある行動ができたりね。みんなから応援されるチームにしようと」
毎年3月に行われる広島・江田島での合宿が、人を育てる代表的な行事である。戦時中、広島湾防衛のため旧陸海軍の施設が置かれ、今も遺跡や慰霊碑があるこの地の息吹を感じることによって、野々村は選手たちに豊かな心を育ませようと努める。ミーティングで説く内容はこうだ。
「戦争があった時代、強い体になるため、いい野球選手になるために『ご飯を食べなさい』と言いたくても言えなかった。でも今は、腹いっぱいにご飯が食べられて、大好きな野球をして甲子園を目指せる。それが、どれだけ奇跡的な平和であるかをわかってほしい」
野々村をして「いい子供たち」に育ったチームは、監督を14年ぶりとなる甲子園へと連れていき、4勝目をプレゼントした。2回戦の相手となる仙台育英戦を前に、また「野々村節」がさく裂する。
「いやいや、もう大横綱ですから。全てを出し切って玉砕してくれたらいいと思います」
22年に東北勢初の全国制覇を成し遂げ、この大会でも上位進出を予想されていたこの強豪と開星とは、ちょっとした因縁がある。
15年前の10年。開星は勝利まで「あとひとり」の場面でセンターがフライを落球したことで逆転され、そのまま敗れた。この時、野々村は例の不適切発言により、公式戦では指揮を執っていない。
「僕は謹慎中だったから。蟄居していましたからテレビで見ていましたよ。まあ、あれに関しては前の監督に失礼ですから、試合に関して言うことはないですけど」
野々村にとっては初めてとなる仙台育英戦。玉砕を掲げた監督は「群羊を駆って猛虎を攻む」と言い、全員野球を誓った。
2回戦での“大横綱”仙台育英戦は惜敗
初回に1死一、三塁のチャンスから犠牲フライで先手を取ったが、その裏に逆転を許し、“大横綱”相手に2-6で敗れた。
「強豪に対して負けたとはいえ、完全試合もノーヒットノーランもやられなかったどころか、初回に1点を取ってね。本当によく頑張ってくれましたよ」
野々村は目じりを下げて選手をねぎらいながらも、監督としてシビアに目を光らせる。
「群羊は駆け込めていなかったし、砕けてなかったね。ヒビは入ったかもしれないけど」
青春は73歳にして再び訪れた。指導者として昭和と平成を生き、令和に戻ってきた野々村に活力が戻る。
引き際はグラウンドで、前のめりに――。そんな願望が報道陣から飛ぶと、野々村は「いやいや! そんなのダメ!」と拒否する。
「アーティストですから! 僕は広大(広島大学)教育学部を出た絵描きですから。『キャンバスに筆をおきながら死にたい』というのを、みなさんわかってない!」
山陰のピカソが人生を描く。豊潤な歩みの題材となっているのは、紛れもなくやくざ監督である。