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📣6月21日 守山市民球場 写真付きブログ記事
https://ameblo.jp/hirorinhoushi/entry-12912122749.html
SHIONOMISAKIさんへのレスを一部修正して、写真付きでブログに掲載しました。よかったら、写真に目を通していただければ幸いです。
☝球児のために 審判講習会、野球やめ高2で審判になった22歳も参加
https://news.yahoo.co.jp/articles/6fcaffd5ecbc606d8fca35acf26a15a2198e40e5
7月12日に試合が始まる第107回全国高校野球選手権岡山大会を控え、審判講習会が6月21日、岡山県倉敷市のマスカット補助球場で始まった。この日は46人が参加し、正確な判定をするためにプレーを見る立ち位置などを確認し、本番に備えた。
この日の講習会に参加した牧原直太朗さん(22)は、高校の頃に審判員となり今年で6年目。津山東高では野球部に入ったものの、部員不足などから本格的にプレーを始める前に退部した。
「面白そう」という理由で2年の頃に審判員として高野連に登録した。「なぜアウトになるのか、しっかり答えるようにならなければならない」と、選手の時以上にルールを読み込み、覚えたという。
練習試合で経験を積み、すぐにその夏、塁審として公式戦デビュー。美作大を経て社会人となった昨夏の岡山大会で、初めてメイン球場のマスカットスタジアムで球審を務めた。
「一つの判定で試合の流れが大きく変わることがあるから、正確なジャッジは欠かせない」と牧原さん。夏の岡山大会に向け「審判はあくまで黒衣。スムーズなジャッジをすることで選手が楽しかったと思える試合にしていきたいです」と話した。
講習会は2日間に分けて行われ、22日は52人が参加する予定。
🎁恩師を追い続けた指導者、近江兄弟社の伊藤さん 育成功労賞受賞
https://news.yahoo.co.jp/articles/610e7d0221f6ddae2fc59cecf39b4740ae434b71
高校野球の発展と選手の育成に尽くした指導者に贈られる「育成功労賞」に、滋賀県内からは近江兄弟社高校で監督・部長を計36年務めた伊藤之久(ゆきひさ)さん(63)が選ばれた。「生徒に恵まれた。みんなに感謝です」と話す伊藤さんは、恩師である名将の背中を追い続けた指導者だった。
育成功労賞は、日本高校野球連盟と朝日新聞社が、各都道府県の高野連などから推薦を受けて表彰している。伊藤さんは「校務についても中心的な役割を担い、真摯(しんし)に仕事に向き合う姿は、同僚ばかりでなく他校の指導者からも厚い信頼を得ている」などとして推薦された。
伊藤さんは旧八日市市(現東近江市)の生まれ。能登川高校が1975年に選抜大会に出場したのを見て、同校に進んだ。野球部を率いていた監督が林勝さん。伊藤さんが1年生のときには担任だった。「優しく、愛のある人だった」。林さんのような先生になることが目標になった。
大学に進学して教員免許を取得。中学校の常勤講師を経て、近江兄弟社高校で働くようになった。1986年に野球部の監督に就いた。
当時は「弱小チーム」で部員も少なかったが、前監督からは「夏に勝てるチームにしてくれ」と託された。野球部専用のグラウンドはなかった。校舎の隅っこでバッティング練習をするなどした。恩師の林さんと同じように、愛情をもって指導することを心がけた。悩んでいる部員がいたら、家庭訪問をしたり面談をしたりした。部員不足になっては大変だから、部員を大切にした。
一方の林さんは八幡商で指揮を執り、1988~91年に夏の滋賀大会を4連覇するなど、名将として名をはせていた。「打倒八商。林先生に追いつけ追い越せでやってきた」と伊藤さんは振り返る。
そんな伊藤さんのハイライトは1993年の夏。滋賀大会の初戦で、それまで勝ったことがなかった八幡商を破った。
「林先生に勝った限りは優勝せなと必死やった」。最高成績は県大会16強で前評判も高くなかったが、勢いに乗って優勝。監督8年目にして、初の甲子園に導いた。
甲子園では初戦敗退したが、その後、林さんからは「よう(滋賀大会を)勝ったな」とねぎらわれた。「高校野球どっぷりになったのは林先生の影響が大きい」と話す。
近江兄弟社高校一筋に働いた。学校では国語を教え、生徒指導にも携わってきた。現在は非常勤講師として勤め、野球部の練習は外部コーチの立場で見ている。チームは93年以来、甲子園から遠ざかっているが「もう一度、甲子園に行きたいという気持ちはある」。
8月には、卒業生たちが育成功労賞の受賞を祝ってくれる予定だ。「監督時代の子に会えるから楽しみ」。練習する部員たちを見ながら、ほほえんだ。
☝「スライダーが曲がらない」 京都国際・西村を救ったライバルの助言
https://news.yahoo.co.jp/articles/e7e22bcc0fc3920bf21f93fe0fb970d509252b7c
■夏に咲く 京都国際 西村一毅投手
あの夏は、甲子園の主役だった。昨年の第106回全国高校野球選手権大会。京都国際の西村一毅(3年)は、決勝のマウンドに立っていた。
0―0の延長十回タイブレークで代打として登場すると、意表を突くバスターで左前安打。待望の勝ち越し点につなげた。その裏の投球で関東第一(東東京)の反撃をしのぎ、歓喜の中心で両手を突き上げた。
「あの時のチェンジアップは打たれる気がしなかった」。最速143キロの伸びのある直球に加え、打者の手元で落ちる決め球を駆使し、計24回を投げ2完封で計1失点。まさに無双状態だった。
「先輩のおかげで、すごく良い経験と成長をさせてもらった」。そして、「自分が新チームを引っぱるような存在になりたい」。そう誓った夏でもあった。
異変が起きたのは、その直後だ。甲子園で武器の一つだったスライダーが操れない。「キレもなくて、曲がらなくて、球も遅い。とにかくダメでした」
試合にも影響した。投げる球種が一辺倒になってしまい、狙い打ちされた。昨秋の府大会は4回戦で延長十一回を2失点完投したが、タイブレークの末に敗戦。近畿大会への出場を逃し、3季連続の甲子園となる今春の選抜大会に出られなかった。不調の原因が分からず、「もうダメなんかな」。焦りだけが募った。
転機は今年4月、U18高校日本代表候補合宿に招集されたこと。同世代の好投手がそろう中に、明徳義塾(高知)の池崎安侍朗(3年)がいた。
池崎の特長は鋭く曲がるスライダーだ。「選抜に出た池崎君をずっとテレビで見ていた」と西村。人見知りだが、合宿初日に池崎に思い切ってたずねた。「スライダー、どう投げてるん?」
池崎は「こうやって、しっかりベタ付けして持っている」と、深くボールを握る様子を見せてくれた。西村がブルペンで試すと、ぐんと曲がった。池崎は「自分よりキレが良かった」と笑う。
西村は「優しくてクールでした。本当にありがたい」と振り返る。これをきっかけに、少しずつ調子が上がり始めた。
昨秋から背番号は「1」。自身が夏の連覇をねらうチームの鍵になることは自覚している。ライバルたちも日々、進化しているが、エースは改めて目標を口にする。
「もう一度、甲子園で投げたい」。この夏、再び主役になってみせる。
📝火災、停電、そして流しそうめん…スタジアムにまつわる珍事件・衝撃事件を振り返る
https://news.yahoo.co.jp/articles/e10d9ec5f85a2c89a425150dbd7b146cd3737a20?page=1
セ・パ6球団までがドーム球場を持つなど、施設面でも発展・進化した現在のプロ野球に対し、昭和から平成初めにかけての球場では、今なら考えられないような珍事件・衝撃事件が起きている。
試合の真っ最中に球場で煙草の火の不始末から火災が発生、死者4人、負傷者300人超の大惨事となったのが、1951年8月19日に中日スタジアムで行われた名古屋(現・中日)対巨人だ。
名古屋が3対1とリードして迎えた3回裏、初回に本塁打を放った西沢道夫が打席に入り、地元ファンが沸き返っているとき、ネット裏席上段から「火事だ!」の声が上がった。火は折からの強風にあおられて、あっという間に木造内野スタンドに燃え広がり、観客たちは悲鳴を上げて逃げまどった。
この一大事を前に、グラウンドの名古屋ナインが人命救助に全力を挙げる。天知俊一監督をはじめ、杉下茂、西沢らが内野席のネットをよじ登り、逃げ遅れたファンを背負ってグラウンドの安全地帯へと誘導した。
この日は名古屋対巨人の前に行われた広島対国鉄のときから、煙草の吸殻が新聞紙に燃え移り、11度にわたってバケツの水で消火していた。このため、観客たちも「またか」と注意がおろそかになりはじめていた矢先の出来事だった。
真夏の晴天で建物が乾燥していたうえに、スタンドの木組みも極度の高温に達し、引火しやすくなっていたなどの状況も重なった結果、選手更衣室、記者室、売店などを含む3棟約1300坪を全焼する惨事となった。
当然、試合はノーゲームとなり、名古屋はその後の本拠地試合を鳴海球場などで消化することになった。
もうひとつ、火事をめぐるエピソードを紹介する。59年7月2日に平和台球場で行われた西鉄対大毎の試合中に「(福岡)市内○○町の○○さん、今お宅が燃えていますから、至急お帰りください」というビックリ仰天の場内放送が流れた。出火場所は球場の近くで、約15分後に鎮火して大事に至らなかったのは、不幸中の幸いだった。
試合開始早々、照明灯の故障が原因で1時間22分も中断した挙句、中止決定に怒ったファンが暴動を起こしたのが、75年7月26日の中日対広島(中日球場)だ。
0対0の1回裏2死、広島の先発・外木場義郎が中日の3番・谷沢健一に4球目を投げたとき、ボッ!という音がして、三塁側広島ベンチ後方の照明灯1基が突然消えた。
日没前の18時45分とあって、まだ明るかったが、谷村友一球審は「ホームベース近くを照らすだけに、暗くなれば支障をきたす」として試合を中断、球場係員に修理を依頼した。
19時ごろに操作用トレンスの故障と判明し、当初は「30分ほどで修理可能」という話だったが、19時25分ごろに再びスイッチを入れても点灯しない。その後、工事を請け負った電気工事会社の内線工事技師も駆けつけ、最善を尽くしたにもかかわらず、「修理不能」で、20時7分に中止が決まった。
さんざん待たされた末にノーゲームという踏んだり蹴ったりの事態に、スタンドのファンは激高。「中止にします」のアナウンスが終わらないうちに内外野席からネットを乗り越え、約1000人がグラウンドに乱入する騒ぎとなった。
球場正面玄関でも「券を払い戻せ」と黒山の人だかりができ、どさくさに紛れて窓ガラスを割る者もいた。
思いもよらぬアクシデントに、中日・与那嶺要監督も「投手の投げた球のスピードが一番増すところが暗くてはどうしようもない。ファンにためにもやりたかった」と無念の表情だった。
この事件とは逆に、試合終了目前に停電というアクシデントに見舞われたのが、79年7月17日に西武球場で行われた西武対日本ハムだ。
2対6とリードされた日本ハムは最終回に2死一、二塁と最後の粘りを見せる。ところが、次打者・富田勝が打席に立った直後、加熱によるブレーカーの故障で停電し、場内は真っ暗になった。
修理のため、16分の中断を経て試合再開も、富田は東尾修の初球を打って、二ゴロであっけなくゲームセット。せっかく盛り上がった場面で試合が中断し、待たされた挙句にたった1球でおしまいというどっちらけの幕切れに、ファンは「もうちょっと見せろよ!」と大ブーイングだった。
https://ameblo.jp/hirorinhoushi/entry-12912122749.html
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☝球児のために 審判講習会、野球やめ高2で審判になった22歳も参加
https://news.yahoo.co.jp/articles/6fcaffd5ecbc606d8fca35acf26a15a2198e40e5
7月12日に試合が始まる第107回全国高校野球選手権岡山大会を控え、審判講習会が6月21日、岡山県倉敷市のマスカット補助球場で始まった。この日は46人が参加し、正確な判定をするためにプレーを見る立ち位置などを確認し、本番に備えた。
この日の講習会に参加した牧原直太朗さん(22)は、高校の頃に審判員となり今年で6年目。津山東高では野球部に入ったものの、部員不足などから本格的にプレーを始める前に退部した。
「面白そう」という理由で2年の頃に審判員として高野連に登録した。「なぜアウトになるのか、しっかり答えるようにならなければならない」と、選手の時以上にルールを読み込み、覚えたという。
練習試合で経験を積み、すぐにその夏、塁審として公式戦デビュー。美作大を経て社会人となった昨夏の岡山大会で、初めてメイン球場のマスカットスタジアムで球審を務めた。
「一つの判定で試合の流れが大きく変わることがあるから、正確なジャッジは欠かせない」と牧原さん。夏の岡山大会に向け「審判はあくまで黒衣。スムーズなジャッジをすることで選手が楽しかったと思える試合にしていきたいです」と話した。
講習会は2日間に分けて行われ、22日は52人が参加する予定。
🎁恩師を追い続けた指導者、近江兄弟社の伊藤さん 育成功労賞受賞
https://news.yahoo.co.jp/articles/610e7d0221f6ddae2fc59cecf39b4740ae434b71
高校野球の発展と選手の育成に尽くした指導者に贈られる「育成功労賞」に、滋賀県内からは近江兄弟社高校で監督・部長を計36年務めた伊藤之久(ゆきひさ)さん(63)が選ばれた。「生徒に恵まれた。みんなに感謝です」と話す伊藤さんは、恩師である名将の背中を追い続けた指導者だった。
育成功労賞は、日本高校野球連盟と朝日新聞社が、各都道府県の高野連などから推薦を受けて表彰している。伊藤さんは「校務についても中心的な役割を担い、真摯(しんし)に仕事に向き合う姿は、同僚ばかりでなく他校の指導者からも厚い信頼を得ている」などとして推薦された。
伊藤さんは旧八日市市(現東近江市)の生まれ。能登川高校が1975年に選抜大会に出場したのを見て、同校に進んだ。野球部を率いていた監督が林勝さん。伊藤さんが1年生のときには担任だった。「優しく、愛のある人だった」。林さんのような先生になることが目標になった。
大学に進学して教員免許を取得。中学校の常勤講師を経て、近江兄弟社高校で働くようになった。1986年に野球部の監督に就いた。
当時は「弱小チーム」で部員も少なかったが、前監督からは「夏に勝てるチームにしてくれ」と託された。野球部専用のグラウンドはなかった。校舎の隅っこでバッティング練習をするなどした。恩師の林さんと同じように、愛情をもって指導することを心がけた。悩んでいる部員がいたら、家庭訪問をしたり面談をしたりした。部員不足になっては大変だから、部員を大切にした。
一方の林さんは八幡商で指揮を執り、1988~91年に夏の滋賀大会を4連覇するなど、名将として名をはせていた。「打倒八商。林先生に追いつけ追い越せでやってきた」と伊藤さんは振り返る。
そんな伊藤さんのハイライトは1993年の夏。滋賀大会の初戦で、それまで勝ったことがなかった八幡商を破った。
「林先生に勝った限りは優勝せなと必死やった」。最高成績は県大会16強で前評判も高くなかったが、勢いに乗って優勝。監督8年目にして、初の甲子園に導いた。
甲子園では初戦敗退したが、その後、林さんからは「よう(滋賀大会を)勝ったな」とねぎらわれた。「高校野球どっぷりになったのは林先生の影響が大きい」と話す。
近江兄弟社高校一筋に働いた。学校では国語を教え、生徒指導にも携わってきた。現在は非常勤講師として勤め、野球部の練習は外部コーチの立場で見ている。チームは93年以来、甲子園から遠ざかっているが「もう一度、甲子園に行きたいという気持ちはある」。
8月には、卒業生たちが育成功労賞の受賞を祝ってくれる予定だ。「監督時代の子に会えるから楽しみ」。練習する部員たちを見ながら、ほほえんだ。
☝「スライダーが曲がらない」 京都国際・西村を救ったライバルの助言
https://news.yahoo.co.jp/articles/e7e22bcc0fc3920bf21f93fe0fb970d509252b7c
■夏に咲く 京都国際 西村一毅投手
あの夏は、甲子園の主役だった。昨年の第106回全国高校野球選手権大会。京都国際の西村一毅(3年)は、決勝のマウンドに立っていた。
0―0の延長十回タイブレークで代打として登場すると、意表を突くバスターで左前安打。待望の勝ち越し点につなげた。その裏の投球で関東第一(東東京)の反撃をしのぎ、歓喜の中心で両手を突き上げた。
「あの時のチェンジアップは打たれる気がしなかった」。最速143キロの伸びのある直球に加え、打者の手元で落ちる決め球を駆使し、計24回を投げ2完封で計1失点。まさに無双状態だった。
「先輩のおかげで、すごく良い経験と成長をさせてもらった」。そして、「自分が新チームを引っぱるような存在になりたい」。そう誓った夏でもあった。
異変が起きたのは、その直後だ。甲子園で武器の一つだったスライダーが操れない。「キレもなくて、曲がらなくて、球も遅い。とにかくダメでした」
試合にも影響した。投げる球種が一辺倒になってしまい、狙い打ちされた。昨秋の府大会は4回戦で延長十一回を2失点完投したが、タイブレークの末に敗戦。近畿大会への出場を逃し、3季連続の甲子園となる今春の選抜大会に出られなかった。不調の原因が分からず、「もうダメなんかな」。焦りだけが募った。
転機は今年4月、U18高校日本代表候補合宿に招集されたこと。同世代の好投手がそろう中に、明徳義塾(高知)の池崎安侍朗(3年)がいた。
池崎の特長は鋭く曲がるスライダーだ。「選抜に出た池崎君をずっとテレビで見ていた」と西村。人見知りだが、合宿初日に池崎に思い切ってたずねた。「スライダー、どう投げてるん?」
池崎は「こうやって、しっかりベタ付けして持っている」と、深くボールを握る様子を見せてくれた。西村がブルペンで試すと、ぐんと曲がった。池崎は「自分よりキレが良かった」と笑う。
西村は「優しくてクールでした。本当にありがたい」と振り返る。これをきっかけに、少しずつ調子が上がり始めた。
昨秋から背番号は「1」。自身が夏の連覇をねらうチームの鍵になることは自覚している。ライバルたちも日々、進化しているが、エースは改めて目標を口にする。
「もう一度、甲子園で投げたい」。この夏、再び主役になってみせる。
📝火災、停電、そして流しそうめん…スタジアムにまつわる珍事件・衝撃事件を振り返る
https://news.yahoo.co.jp/articles/e10d9ec5f85a2c89a425150dbd7b146cd3737a20?page=1
セ・パ6球団までがドーム球場を持つなど、施設面でも発展・進化した現在のプロ野球に対し、昭和から平成初めにかけての球場では、今なら考えられないような珍事件・衝撃事件が起きている。
試合の真っ最中に球場で煙草の火の不始末から火災が発生、死者4人、負傷者300人超の大惨事となったのが、1951年8月19日に中日スタジアムで行われた名古屋(現・中日)対巨人だ。
名古屋が3対1とリードして迎えた3回裏、初回に本塁打を放った西沢道夫が打席に入り、地元ファンが沸き返っているとき、ネット裏席上段から「火事だ!」の声が上がった。火は折からの強風にあおられて、あっという間に木造内野スタンドに燃え広がり、観客たちは悲鳴を上げて逃げまどった。
この一大事を前に、グラウンドの名古屋ナインが人命救助に全力を挙げる。天知俊一監督をはじめ、杉下茂、西沢らが内野席のネットをよじ登り、逃げ遅れたファンを背負ってグラウンドの安全地帯へと誘導した。
この日は名古屋対巨人の前に行われた広島対国鉄のときから、煙草の吸殻が新聞紙に燃え移り、11度にわたってバケツの水で消火していた。このため、観客たちも「またか」と注意がおろそかになりはじめていた矢先の出来事だった。
真夏の晴天で建物が乾燥していたうえに、スタンドの木組みも極度の高温に達し、引火しやすくなっていたなどの状況も重なった結果、選手更衣室、記者室、売店などを含む3棟約1300坪を全焼する惨事となった。
当然、試合はノーゲームとなり、名古屋はその後の本拠地試合を鳴海球場などで消化することになった。
もうひとつ、火事をめぐるエピソードを紹介する。59年7月2日に平和台球場で行われた西鉄対大毎の試合中に「(福岡)市内○○町の○○さん、今お宅が燃えていますから、至急お帰りください」というビックリ仰天の場内放送が流れた。出火場所は球場の近くで、約15分後に鎮火して大事に至らなかったのは、不幸中の幸いだった。
試合開始早々、照明灯の故障が原因で1時間22分も中断した挙句、中止決定に怒ったファンが暴動を起こしたのが、75年7月26日の中日対広島(中日球場)だ。
0対0の1回裏2死、広島の先発・外木場義郎が中日の3番・谷沢健一に4球目を投げたとき、ボッ!という音がして、三塁側広島ベンチ後方の照明灯1基が突然消えた。
日没前の18時45分とあって、まだ明るかったが、谷村友一球審は「ホームベース近くを照らすだけに、暗くなれば支障をきたす」として試合を中断、球場係員に修理を依頼した。
19時ごろに操作用トレンスの故障と判明し、当初は「30分ほどで修理可能」という話だったが、19時25分ごろに再びスイッチを入れても点灯しない。その後、工事を請け負った電気工事会社の内線工事技師も駆けつけ、最善を尽くしたにもかかわらず、「修理不能」で、20時7分に中止が決まった。
さんざん待たされた末にノーゲームという踏んだり蹴ったりの事態に、スタンドのファンは激高。「中止にします」のアナウンスが終わらないうちに内外野席からネットを乗り越え、約1000人がグラウンドに乱入する騒ぎとなった。
球場正面玄関でも「券を払い戻せ」と黒山の人だかりができ、どさくさに紛れて窓ガラスを割る者もいた。
思いもよらぬアクシデントに、中日・与那嶺要監督も「投手の投げた球のスピードが一番増すところが暗くてはどうしようもない。ファンにためにもやりたかった」と無念の表情だった。
この事件とは逆に、試合終了目前に停電というアクシデントに見舞われたのが、79年7月17日に西武球場で行われた西武対日本ハムだ。
2対6とリードされた日本ハムは最終回に2死一、二塁と最後の粘りを見せる。ところが、次打者・富田勝が打席に立った直後、加熱によるブレーカーの故障で停電し、場内は真っ暗になった。
修理のため、16分の中断を経て試合再開も、富田は東尾修の初球を打って、二ゴロであっけなくゲームセット。せっかく盛り上がった場面で試合が中断し、待たされた挙句にたった1球でおしまいというどっちらけの幕切れに、ファンは「もうちょっと見せろよ!」と大ブーイングだった。