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📝「戦争ってこんな状況だったのかな…」30年前、阪神大震災直後のセンバツ出場校監督が振り返る“あの時”「それでも…開催して良かったと思います」
https://news.yahoo.co.jp/articles/28c5c036f9fb6a4660c3d91c923a41bc2366f564?page=1

日大三島高野球部の永田裕治監督は、高校野球の監督となって昨年でちょうど30年になった。中京大を卒業後、大阪の桜宮高校でコーチとして指導し、母校でもある報徳学園でもコーチを4年間務めた。94年4月に監督となり、2002年のセンバツで優勝するなど甲子園では通算23勝を挙げた。その後、17年3月に報徳学園を退任し、20年4月から日大三島の監督に就任した。

日大三島に出向いて5度目の年末となった2024年暮れ。永田監督の姿は帰省先の地元・兵庫県西宮市にあった。

「12月に体調不良の子らが多く出て、今年の年末は早めに(年末年始の)休みに入ったんです。だから、年明けは少し早めに(三島に)戻りますけれどね」

年が明けた1月には、永田監督にとって忘れられない日がやってくる。
1月17日。阪神大震災から30年となるその日を、どのような思いで見つめているのか尋ねると、永田監督はこう言葉を発した。

「自分の指導者人生の原点になった大会でした。色んな意味でね」

センバツ大会出場の重要な参考資料となる前年の秋季大会は、永田監督が監督となって初めての公式戦采配だった。県大会では決勝戦で神港学園に敗れたものの2位で近畿大会に出場。8強まで勝ち進み、センバツ大会への望みを何とか繋いだ格好で終えていた。

「ものすごい揺れで、本棚が倒れ…」
 
1月17日。実は永田は名古屋に出張することになっていたが、体調不良のため直前にキャンセルし、自宅で就寝していた。そして早朝に激しい揺れに襲われた。

「風邪気味だったので、その日はいつもと違って家族と別の部屋で寝ていたんです。ものすごい揺れで自分の部屋では本棚が倒れました。私は大丈夫でしたけど、家族の部屋はタンスが子供らに倒れてきて……。観音開きの扉が開いて、扉がつっかえ棒のようになって子供らに覆いかぶさらずに済んだんです。もし扉が開いていなかったら命がなかったかもしれないですね」

とっさに飛び起き家族の安全を確認。その後、被害が西宮だけではなく、芦屋、そして神戸と広範囲に及んでいることが分かる。教え子の安否確認のため、気がつけば原付バイクに飛び乗っていた。

西宮市の自宅を出て、西に向け原付バイクを走らせた。夙川、芦屋川と川を越えるごとに景色が変わっていくのを目の端で感じた。倒壊した家屋や折れ曲がった街路樹が左右に続き、時にはがれきの合間を縫って走り抜ける。そしてぐにゃりと折れ曲がった阪神高速道路の高架の横を、無心で走っていた。こんなことがあるのか……。教え子の自宅の住所を頼りに、あちこち回ったが、もちろん1日で全員の安否確認は取れなかった。

「僕は戦争を知らないですけど、戦争当時はこんな状況だったのかなと思いました。倒れたり、屋根が押しつぶされたりしている家が並んでいて……神戸に近づくごとに、そういう景色が広がっていって」

報徳学園のグラウンドにも状況を見に行くと、いくつか亀裂が走っていた。
夕方になっても余震が続いていたため、幼い娘が自宅内で寝るのを怖がり、17日当日の夜は家族を車に乗せ、母校のグラウンドの真ん中に停めた。恐怖に怯えながら、車の中で一夜を明かした。

大変だったのは連絡手段だった。当時は携帯電話が普及しておらず、固定電話も回線が寸断され、公衆電話が頼みの綱だった。

「あの頃は公衆電話があれば前に人がものすごく並んでいました。10円玉をたくさん持って電話を掛けるんですけれど、すぐに時間が来て切れてしまうんですよ。電話の上に10円玉を重ねて置いてね。生徒らにどれだけ連絡できるのか、もう必死で」

最寄りの阪急線は、一部は運転していたが西宮北口から神戸方面は復旧の見込みは立たず。JRは大阪方面からは甲子園口駅までの運転に留められていた。神戸方面へ行くには代替バスを使って北側の三田市方面に迂回して移動するしかなかった。

「グラウンドには亀裂が走っていて…」
 
もちろん、地震後数週間は野球どころではなかった。監督になって初めての冬。当時、31歳だった永田は状況の推移を見守るしかなかった。

「ウチは近畿大会では準々決勝で負けたので、そもそもセンバツに出場できるのか微妙だったんですよ。あの頃は練習時間も確保できなかったし、グラウンドには亀裂が走っていてまともな練習もできなかったですからね。それでもしばらくしてから少しずつ練習できるようになって、彼らがボールを握りしめてキャッチボールをした時の顔が忘れられないですね」

ただ、センバツ開催が決まった2月21日の時点で練習はほとんど出来ていなかった。

「周囲の話を聞く限りでは(共に出場していた)神港学園や育英に比べて、ウチは明らかに遅れていました。でも組み合わせ抽選で決まった日程は6日目の第1試合でした。1回戦最後の試合だったので、それはとてもありがたかったです」

当時は復興による大型車の交通手段を優先するため、チームはバス移動ではなく公共交通機関を利用することになっていた。大阪市内の宿舎に泊まる各校の選手たちが甲子園へ向けて電車移動する中、報徳学園ナインは学校から数キロ離れた甲子園口駅近くの宿舎で寝泊まりし、試合当日は自転車で甲子園球場に向かった。宿舎を出て甲子園口駅前の商店街を駆け抜けていると、近隣住民が何十人も商店街の両側で列になり「頑張ってね!」と声援を送ったという。

「あの声援は本当に嬉しかったです」と永田監督は感慨深げに振り返る。地元からの熱い応援を背に受け、チームは北海に4-3で勝ち、初戦を突破した。

「正直、育英や神港学園が初戦に勝っていたのでプレッシャーはありました」と永田監督は振り返るが、この1勝が永田監督にとって記念すべき甲子園1勝目となり、生涯忘れられない大会となった。

被災後の甲子園で感じた「平等に練習させる」大切さ
 
ただ、永田監督にとって、甲子園でのひとつひとつの場面よりも困難な中で必死に前を向き、白球に触れたありがたさを体現していた教え子たちの姿が最も忘れられないという。

「2月の……何日頃だったかは覚えていないんですけれど、グラウンドでボールを使った練習ができるようになった時、子供らが“野球って楽しい”っていう顔をしていたんです。野球がうまくても下手でもそれぞれの生徒に野球人生があると私は思っているので、全員、同じように平等に練習をさせてやることが一番だと。この時に強く感じたんです」

報徳学園は、有望な選手ばかりが厳選されて入学してくる訳ではなく、中には野球経験がほとんどなく、いわば初心者に近いスキルの子も入部を志してくることも多い。

「それでも甲子園に行きたくてウチを志して来てくれた子がほとんど。ウチは全員野球がモットーなので、全員に平等に練習をさせてあげたいと思いました。震災に遭った直後にそれを訴えるとそれは難しいと言われましたが、震災をきっかけに、という訳ではないですが、そういう子たちでも目標を持たせてやりたいなと。そう思ったのがあの春でした」

さらに震災で気づかされたこともあった。1月17日。地震直後に安否確認のため原付バイクに乗って移動したが、最初は原付バイクではなく車で出ようとしていた。だが、駐車場に段差ができ、片輪がはまって車が動けなくなっていた。1人では動かすことが不可能な大きな段差だった。途方に暮れていると、近所に住む数人の住民が一緒に車体を持ち上げて車を動かしてくれたのだ。

「あの時は本当にありがたかったです。それでも原付の方がいいと思って車は使わなかったんですけれど、火事場の馬鹿力というか、そういう底力を持っているんです。そういう力を引き出すのも我々指導者の仕事なのかなと思っていて」

子供の見えない力を引き出すことは難しい。それでも学校が変わった今も、報徳学園時代に大事にしてきた“全員野球”は変わらないモットーとして持ち続けている。令和の時代になり、指導方法や選手たちとの接し方のアップデートが問われる中、全員としっかり向き合い、平等に接する。その中で彼らの表情から何を読み取れるのかを大事にしている。ただ、子供の資質が変わっても、そのまま変えないでいたいこともある。

「今はネットが普及して、授業でもiPadを使うことが当たり前になってきました。今は連絡手段がいくらでもありますし、仮に学校を休むにしてもLINEで簡単に連絡ができますよね。それでも僕は、自分で必ず電話をしてくるようにと言っています。親や友達でなく、自分の声で伝えろと。昭和ですかね(苦笑)。古臭いと言われるかも知れないですけれど、生の声を聞きたい。指導方法は変えても、そこだけは変えたくないんです」

「あのセンバツ大会は開催して良かった」
 
それはあの時、必死に電話を通して生徒の声を確認していた自分の姿が、まさに“原点”となっているからだ。

「決断としては半々に分かれていたと思うんですよ。こんな状況でセンバツを開催しても大丈夫なんかって、あの場にいた者からすれば当然そう思いました。でも後々考えると、復興などのことも思えば、あのセンバツ大会は開催して良かったと思うんです」

未曾有の大災害から30年。今ではすっかりベテラン監督として名をはせるが、指導の根本的な部分は変えていないという。

「大事なところは大事にしていきたいですね。一番大事なのは昭和の部分かな。それでも選手の思いは大事にしたい。あの経験を根本にして考えるのは遠回りなのかなとも思いましたけれど、今思うと“近回り”だったと思っています」

そう言って、永田監督はふと笑みを浮かべた。

📝持丸修一 76歳名将の高校野球論
新庄監督の《育て方が違った》に覚える違和感の正体…上沢よ、雑音なんて気にするな!      
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/366440

「ちょっと育て方が違ったのかな」ーー。

日本ハム新庄剛志監督の上沢直之(30)に関する発言が話題を呼んでいるようです。

私の教え子でもある上沢は、日本ハムから23年オフにポスティングシステムを利用してメジャー挑戦。レッドソックスなどでプレーし、今オフに古巣ではなくソフトバンクへの移籍が決まりました。たしかに、新庄監督の「悲しい」という気持ちも理解できる。ここまでバッサリ言い切ったコメントに溜飲を下げたファンもいたことでしょう。

しかし、私は堪らなく悔しい気持ちが込み上げてきた。どれだけ上沢が思い悩んでいたのかを知っていたからです。今オフ会った時、「日本ハムに戻りたい」とも聞いていました。

歯がゆさと同時に、「育て方を間違えた」という新庄監督の言葉にとても辛い感じの違和感を覚えました。いろいろと思うところはありますが、新庄監督と上沢が関わった2022年からの2年間を振り返ってみます。

監督就任時、新庄監督は「優勝を目指しません」と宣言し、1年目の開幕投手には、チームを成長させるための方針とはいえ、前年にチーム最多12勝を挙げた上沢ではなく、ルーキーを指名しました。もちろん、本人の出来不出来もあったのでしょうが……。

選手育成に照準を定め、日替わり打線や頻繁に守備位置シャッフル。得点数と失策数で負の側面が出てしまったようです。チームは最下位となり、上沢は8勝9敗で5年ぶりに負け越しました。私の勝手な想像ですが、当時の上沢は必要とはされていなかったのでしょうね。

翌23年の新庄監督は「優勝しか目指さない」と方向転換したものの、叶わず。この2年の間に、近藤健介選手は「もっと成長できる環境で勝負したかった」とソフトバンクに移籍しました。

プロ野球のことは専門外とはいえ、これだけを見れば、新庄監督の「育て方が違った」という表現は、身内だからか、なかなか理解できないのです。

また、今回の一件で日本ハムは上沢にどのようなオファーを出したのか分かりませんが、報道では、ソフトバンクの「4年10億円」に対し、「単年1億7000万円」です。どれだけ古巣への愛情があっても、失意のまま米挑戦を終え、しかも養うべき妻子がいる身であればソフトバンクを選ぶのは無理もないはずです。

上沢は優男なルックスに反して、負けん気が強い男です。高校時代はどれだけ打ち込まれても音を上げず、自分からマウンドを降りようとすることはなかった。私はアドバイスなどできる立場ではありませんが、応援団のひとりとして、彼の決断を心から支持してエールを送りたい。

新天地で結果を出して、とにもかくにも勝つことでネガティブな声を吹き飛ばしてほしい。雑音や批判なんて気にするな!

💢《「学校には報告できない」と…》イジメ発覚の強豪・千葉学芸高校野球部の元コーチが実名告発「監督は不祥事を隠蔽した」https://news.yahoo.co.jp/articles/38fbdeb642a06cca243e1143decaafa7ad039fc5

2023年12月、 部内のイジメ問題で日本学生野球協会から3カ月間の対外試合禁止処分を受けた千葉学芸高校野球部 。2000年の創立以降、いまや県内有数の強豪校となり、昨年のドラフト会議では菊地ハルン投手が広島東洋カープから5位指名を受けたことが話題となった。だが今回、昨年7月からコーチを務めた男性が実名告発。イジメ問題以降も野球部や学校の問題体質は変わっていないことを明かした――。

男性は、辻井満氏(61)。同校野球部の寮監兼コーチだった人物だ。1981年に春のセンバツで準優勝した後、専修大学や社会人野球の名門・東芝府中で活躍。1999年には週末コーチを務めた千葉県立柏陵高校が春夏と連続で甲子園に出場したほか、2010年から2017年にかけては日本橋学館大学で野球部監督を務めた。

辻井氏がとくに問題視するのは、千葉学芸高校野球部の“隠蔽体質”だ。昨年8月に起きたある不祥事について、こう振り返る。

「高倉伸介監督は、監督室で私ともう1人のコーチを前に、この件を学校に伏せようと言い出したんです。監督は一昨年のイジメ問題で減給処分を受けていることもあり、『学校には報告できない』と発言したのを覚えています」

昨年11月、この不祥事を報告しなかったことを理由の1つとして解雇されたという辻井氏。一方、千葉学芸高校野球部は「辻井氏の解雇理由は別にある。監督による口止めなどは一切ありませんでした」と主張するのだ。

📝智弁学園の前主将ら13選手 奈良県高野連が表彰 制服姿で成長誓う
https://news.yahoo.co.jp/articles/fbc4adfeaafe7747c32ae5e15306027ce5cbac69

奈良県高校野球連盟は17日、2024年度の日本学生野球協会の表彰選手に選ばれた智弁学園の知花琉綺亜さん(3年)と、県高野連の優秀選手12人を表彰した。

村井博樹会長は「選ばれたことを誇りに思って、次のステージで活躍してほしい」と述べ、選手一人ひとりに表彰盾を手渡した。

知花さんが主将として率いた智弁学園は、昨夏の全国高校野球選手権大会でベスト8まで進んだ。知花さんは「きつい練習、チームをまとめる上での悩み、いろいろあったけれど、多くの人に応援してもらって甲子園で野球ができて一生の思い出です」と振り返った。

「甲子園は緊張感も応援も全然違う場所なので、高校野球をやるからには目指してほしい」と後輩たちへの思いを語った。知花さんは進学予定の大学でも野球を続けるという。「(大学野球で使う)木製バットは芯に当てるのが難しい。レギュラーになれるように頑張りたい」と意気込んだ。
県高野連の優秀選手は次のみなさん。(敬称略)

【硬式】青木将太(王寺工)▽上東慧(五條)▽古賀誠太(郡山)▽仲井颯太(高田商)▽西林咲翔(橿原学院)▽松本大和(天理)▽三井梁聖(西和清陵)▽宮本空(奈良北)▽村井玲司(奈良大付)▽村上和樹(高取国際)▽和佐玲雄翔(奈良商工)
【軟式】石井開(天理)(佐藤道隆)

📝優秀選手2人 府高野連が表彰 京都国際と山城も
https://news.yahoo.co.jp/articles/7332bf90332f8c821dd28f60e1d38ee384147914

京都府高校野球連盟は17日、京都市下京区で総会を開いた。2024年度の優秀選手2人と、昨夏の全国高校野球選手権大会で優勝した京都国際、今春の選抜大会で近畿地区の21世紀枠候補校に選ばれた山城を表彰した。

優秀選手には、京都国際のエースとして優勝に貢献した中崎琉生さん(3年)、昨春の選抜大会で先発登板した京都外大西の田中遥音さん(同)が選ばれた。

また、日本学生野球協会が都道府県から1人ずつ選ぶ優秀選手には、京都国際で主将を務めた藤本陽毅さん(同)が選ばれ、表彰状が贈られた。藤本さんは「大学では新たなスタートを切り、不動のレギュラーを目指したい」と抱負を述べた。
2025/01/18(土) 21時58分17秒 No.1547 編集 削除