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☝部員5人→13人、松江北高校野球部 雰囲気や活動配信、インスタ勧誘実った 人数増え活気「春の大会は単独チームで!」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b7221737c406caea8904106c38d73c781ec2c63

部員数の減少でチーム編成ができなかった松江北高校の野球部が、交流サイトなどを通した勧誘活動で新入生らを獲得している。部員を増やしながら、大会に向けて練習に熱を上げている。

同校野球部は、2023年夏の島根大会終了後に5人の3年生が引退し、選手は1、2年生合わせて5人に。このため同年秋の大会は江津、浜田水産両校との合同チームで出場した。

人数不足で試合を想定した練習ができず、基礎トレーニングや小人数でもできる守備練習などを行った。当時1年生だった加藤想也主将(17)=2年=は「人数がさらに減ったらどうしようかと、不安な毎日だった」と振り返る。

そこで他の部員と相談し、野球部公式インスタグラムを23年8月に開設。新入生らに、部の雰囲気や練習内容などの情報を画像や動画で伝えることにした。

インスタには、打撃練習や筋トレなどの様子を投稿。マネージャーらが撮影し、監督も文章を加えるなど投稿に加わるほか、近隣の保育所で子どもたちに野球の楽しさを伝える様子なども撮影する。

こうした情報発信の成果で現在、部員は1年生9人と2年生4人の計13人になった。24年春に入部した川谷蒼平さん(15)=1年=は「入部前から練習などの内容が分かり、楽しそうな雰囲気も感じられる」と話した。

選手が増え、ノックなど練習内容も増えてきたといい、春の大会に向けてトレーニングに励む。加藤主将は「単独チームとして、一戦必勝で勝ち進みたい」と気合いを入れた。

📝阪神大震災から17日で30年 〝神整備〟阪神園芸・金沢健児さん「私は母と妻と甲子園に生かされている」
https://news.yahoo.co.jp/articles/46061998412fa2cc490b0c391094479dccc1a445

6434人の命を奪い、4万3792人の負傷者を出した阪神大震災から17日で30年になる。甲子園球場の〝神整備〟で知られる阪神園芸の金沢健児・甲子園施設部長(57)は最愛の母を震災で亡くした。母の勧めで就いたグラウンド整備の職。母と甲子園に生かされている-の思いを胸に、球団創設90周年のアニバーサリーイヤーに臨む。

暗闇の中で、炎がいくつも上がっている。神戸市東灘区の自宅マンションの12階から見た光景にがく然としました。何が起こっているのか分からず、夢かと思いました。

日が昇るのを待ってマンションを出発。灘区にあった木造建築の実家は倒壊し、燃えていました。周りの家も火に包まれていて近づくこともできません。女手一つで育ててくれた母・静江はもう助からないかもと感じました。

消防隊の数も足りなくて、自然鎮火を待つのみ。5日ほど経ち、ようやく遺骨を拾うことができました。母は52歳でした。

2月の高知・安芸市での春季キャンプ中、夜はホテルの自室でNHKテレビを朝までつけっぱなしにしていました。夜通しで神戸の様子を流していたからです。もちろん涙も出ましたが、ここから頑張らないといけないし、前に進むしかないと決めました。

今の仕事に就けたのは母のおかげです。母はもともと飲食店で働いていましたが、あるときから甲子園球場で働き始め、グラウンドキーパーに欠員が出たことを知り、勧めてくれました。私は1988年に入社。球団マスコットガールに採用されてボールガールを務めていた妻と知り合いました。

結婚したのが94年12月。もし、そのタイミングで結婚していなければ、震災のときも実家に住んでいたはずで、きっと私はこの世にはいないでしょう。母、妻、そして甲子園に生かされていると思っています。

仕事終わりの母を待つように、私は小学生の頃から毎日のように甲子園にきていました。藤田平さん、江本孟紀さん、掛布雅之さんたちが、みんなよくしてくれて…。中学の野球部で肩を痛めて捕手から一塁に転向したときは藤田さんがファーストミットを贈ってくれたり、掛布さんはオープン戦で3打席連続本塁打を放ったバットをプレゼントしてくれたり、本当にかわいがってもらいました。

阪神大震災のとき、藤田さんは2軍監督を務められており、春季キャンプで「何かあれば言えよ」と声をかけてくれました。藤田さんの家も大変なことになっているのに、です。阪神以外でも金村義明さんや山本昌さんらも私のことを知らないはずなのに「頑張れ」と言ってくれたり、心遣いがありがたかったです。

昔の甲子園は通路から階段を上ってスタンドに出るという構造でした。私は子供の頃から、この瞬間が大好きでした。青空の下、黒土に緑の芝生-。どんなに雨が降っても、グラウンドコンディションを整えたい。試合を待ちたい。美しい光景を目に焼き付けてもらいたいという思いが私の仕事の原点です。世界一のスタジアムとして恩返ししたいと思っています。

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📝阪神大震災2か月後の甲子園、抗議は開幕後ぴたっとやんだ…95年選抜の記憶伝える
https://news.yahoo.co.jp/articles/feaeebf0af298f04242833af2c2115eefa888be1

1995年1月17日、大地震から6時間がたった正午頃だった。日本高校野球連盟事務局長(当時)の田名部和裕(78)は、兵庫県西宮市の自宅からがれきの間を縫うようにバイクを走らせ、市内の甲子園球場にたどり着いた。

「無事やったか……」。グラウンドから見渡した無人のスタンドには静寂が広がっていた。「なんてすごい球場なんや」。涙がこみ上げた。

だが、同時にこうも思った。「選抜はとても無理や」。第67回選抜高校野球大会の開幕まで2か月と少し。球場までの道のりで、無数の倒壊家屋を見たからだ。

避難生活を余儀なくされた人は約30万人に膨れあがった。3日後に選抜大会の出場校の決定延期を表明した日本高野連に対し、「なぜ早く中止を決めないのか」「被災地で野球なんて」と抗議電話が殺到。多い日は100本にも上った。

そんな中、被害の少なかった大阪で暮らす大会関係者が「やりましょうよ」と意見するのが聞こえ、田名部は「被災地を見てから言え」と悔しかった。できることなら球児の夢を守ってやりたい。その気持ちは持ちつつ慎重に可否を探った。

被災自治体、警察、代替球場として神宮球場(東京)、マスカットスタジアム(岡山)などあらゆる関係先と相談した。

それでも、球児たちの憧れである甲子園にこだわった。選手や応援団は復興を妨げないよう貸し切りバスを使わず電車で球場入りする、鳴り物応援を自粛させる――。開催条件を練り上げ、2月15日、兵庫県知事(当時)の貝原俊民を訪ねた。貝原は窓の外に目をやって言った。「桜が咲く頃には、被災地にも明るいニュースが必要でしょう」

日本高野連は2日後、大会開催を正式に発表した。
3月25日の開会式。32校の選手らが厳しい表情のまま整列する姿に、田名部は「万感の思い」に震えた。

舞台の意味を、球児たちも感じ取っていた。埼玉県立鷲宮高の主将だった長谷川大(47)は、選手宣誓をこんな言葉で締めた。

「夢と希望と感動を与え、復興の勇気づけとなるような試合をすることを誓います」

日本高野連への抗議は開幕後、ぴたっとやんだ。

地元・兵庫の代表3校のうち、神港学園を率いた北原光広(71)は葛藤していた。「本当に今、野球なのか」と。地震直後、選手らとボランティア活動に出向くと「選抜への得点稼ぎか」との声を浴びた。

でも、甲子園の歓声は温かかった。神港学園高は8強に進出。避難所のテレビで被災者が応援してくれていると知り、救われた。甲子園で挙げた2勝のウィニングボールを、大切にすると決めた。「混乱の中でプレーする舞台を与えられた感謝を伝え続けていく」

ロシアのタンカー「ナホトカ号」が日本海で沈没した97年1月、田名部は2年前の選抜に出た兵庫県の3校にボランティア活動を提案した。重油が漂着した福井県の浜辺で自らも野球部員らと除去作業をした。

その中に北原の長男、神港学園高2年の直也(45)がいた。震災当時は入学前だったが、「恩返しの場をもらえてうれしい」と油にまみれた。2018年に父を継いで監督に就任。父が歴代部員と取り組んできた、毎年1月17日の慰霊祭に向けた準備のボランティア活動も受け継いだ。

前身は、あの大会を制した観音寺中央高。優勝の瞬間、ナインが喜びを爆発させることはなかった。主将だった土井は、「被災地で野球をさせてもらっている。『やった』より『ありがとう』だった」。

寮生活だった土井の西宮市の実家は半壊。帰省して避難所で一晩を過ごし、つらさを知った。伝わりにくいだろうと教え子らに語ることは控えてきたが、最近になって心境に変化が生まれた。「やっぱり大切なことやから。今年は生徒らにしっかりと話してみたい」


田名部は今、改めて思う。「ひたむきな球児の姿が、どれほど人の胸を打つか。95年大会が道を作った」。コロナ禍の2020年こそ中止されたが、11年の東日本大震災、そして昨年の能登半島地震の後も選抜は開かれた。

今ありて 時代も連なり始める――

大会歌に胸を震わせたあの日から、30年。変わらぬ球春が、近づいている。

📝桐朋・森井翔太郎が推定150万ドルでアスレチックスとマイナー契約 9球団争奪戦超高校級の逸材
https://news.yahoo.co.jp/articles/7d0970d3d223188107347c552f364a36ad50ebc5

米球界挑戦を表明していた桐朋(東京)の森井翔太郎内野手(3年)が、アスレチックスとマイナー契約を結ぶことが、14日までに分かった。契約金は150万ドル(約2億3300万円)。最速153キロの右腕で高校通算45本塁打を数える左の強打者を巡っては、米9球団による争奪戦となっていた。超高校級の逸材は高校卒業後、即渡米し、大リーガーへの道を駆け上がる。(金額は推定)

1日でも早く、大リーガーの夢をかなえる。世代屈指のポテンシャルで注目された森井が“夢の実現”のため選んだのは、古豪アスレチックスだった。この日までに、マイナー契約を結ぶことを決めた。

偏差値70の進学校に在籍しながら、投げては最速153キロ、打っては高校通算45本塁打。183センチ、89キロのガッシリとした体格を誇る逸材だ。昨年7月の西東京大会初戦には、日米14球団42人のスカウトや編成関係者が大集結。「肩の強さ、走っている姿から身体能力の高さを感じる」「(中日などで活躍し日米通算2450安打の)福留さんの力強さ、柔らかさがダブる」など、ドラフト上位候補としてスカウトたちが絶賛した。

打撃では圧倒的な飛距離を誇る。フリー打撃では、木製バットでも同校グラウンドの右翼約87メートル、高さ約10メートルのネットを悠々と超える打球を連発。ネット後方の木々に直撃することも日常茶飯事だった。

夏の時点では進路を「米挑戦、NPB、米大学」で迷っていたが、昨年9月に人生で初めて渡米したことで、高校卒業後の米球界挑戦へ気持ちが固まった。「ここを自分は目指していて、最終目標でもある」と夢を再確認し、NPB12球団にドラフト会議での指名を見送るよう意思表明の文書を送付していた。

25歳未満のため、メジャー球団とはマイナー契約しか結べない。「はい上がっていきたい」と覚悟はできている。最終目標の「メジャーで活躍すること」をいち早くかなえるために、18歳で海を渡る。
2025/01/15(水) 22時20分12秒 No.1542 編集 削除