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☝大社・馬庭優太が東洋大に進学へ 昨夏甲子園の「大社旋風」立役者、推薦入試に合格
https://news.yahoo.co.jp/articles/b9ec519a39ffbb38ef0fd7f720d2967108cee0f7
東都大学リーグの東洋大は10日、25年度の推薦入試の合格者を発表し、大社(島根)の馬庭優太投手(3年)ら27人が合格した。
馬庭はエース左腕として同校の32年ぶりの夏の甲子園出場に貢献。1回戦の報徳学園(兵庫)、2回戦の創成館(長崎)と完投してチーム107年ぶりの2勝に導くと、3回戦の早実(西東京)戦では球史に残る激闘の中で延長11回を1人で投げきり、強豪校相手に3試合連続の完投勝利を挙げ、93年ぶりにベスト8進出へ大きく貢献した。
準々決勝の神村学園(鹿児島)戦には中継ぎとして登板も敗戦。4試合で計492球を投げ、公立校として全国に勇気と感動を届けた「大社旋風」の立役者の1人となっていた。
聖地で能力の高さを示したが、プロ志望届は出さずに大学進学の道を選択した。新天地での活躍からも目が離せない。
✌夏の甲子園「大社旋風」の立役者・石飛監督が大学で特別授業「生徒との対話」重視の指導法語る
https://news.yahoo.co.jp/articles/30a279d55a295e21d419f99bf7407ccf6c7cc3aa
2024年の夏の甲子園でベスト8入りを果たした大社高校野球部の石飛文太監督が、松江市の島根県立大学で特別授業を行い、甲子園での裏話も交えながら、生徒との関わり方など日ごろの指導法について話しました。
大社高校野球部・石飛文太監督:自分が何を言うかはあまり考えていない。それよりも生徒がどう思うかを主に考えている。
松江市の島根県立大学、学生たちに語りかけるのは、大社高校野球部の石飛文太監督。2024年の夏の甲子園で大社高校を93年ぶりとなるベスト8に導きました。
大社高校野球部・石飛文太監督:3年生が自分らの力以上のものを出してくれて、「可能性は無限大」だと示してくれたので、今のチームもベスト4以上を目指します。
特別講師として招かれ、約160人の学生を前に教育や地域活性化の中でスポーツが担う役割をテーマに話しました。国語の教員として教壇に立つ石飛監督の話を聞きたいと、学生から声があがったのが特別授業のきっかけだということです。
大社高校野球部・石飛文太監督:甲子園が決まった時に「おめでとう」と言われます。甲子園から帰った時に、「ありがとう」に変わっています。地域を動かすのはやはり「人」でしかない
約1時間半の特別授業、話題は甲子園での裏話にも。
大社高校野球部・石飛文太監督:園山くんに期待してみたらどうなるかなと言ってみたら、でかでかと新聞に掲載されて、その園山くんに何が起きたか…。これが効いたんですよね。
2回戦、長崎代表・創成館との試合でスクイズを決め、同点に追いついた場面を例に、生徒でもある選手たちのがんばりを引き出す指導法について紹介しました。
学生:保育士を目指していて、今実習とかを繰り返す中で、子どもたちへの関わり方を課題に思っていたので、話して頂いたことを生かしてながら働いていきたい。「自分を疑うことが大切、今正しいと思っていることが20年後どうか分からない」という話が印象に残りました。
受講者には教育や保育の道を目指す学生も多く、生徒との対話を大切にする石飛監督の講義に聞き入っていました。
☝前橋工を人命救助で善行表彰 3年生部員2人が倒れている女性を発見し救急対応
https://news.yahoo.co.jp/articles/7585aa84391ca9e7faa98baab5ed6a65d4705bee
日本高野連は10日、前橋工(群馬)の善行を表彰し、表彰状と記念品を贈呈することを決めたと発表した。
同校は甲子園大会通算13度(夏9度、春4度)出場し、夏の4強に3度入った群馬県の強豪。元西武の渡辺久信さんの母校としても知られる。
日本高野連によると、3年生部員2人が昨年12月3日の下校途中、倒れている女性を発見し、声を掛けた。1人は電話をかけて救急車を呼び、その後2人が救急車が到着するまでの間、先に対応していた男性と後から来た女性と協力して、倒れていた女性をあおむけにするなど救急隊の指示通りに対応した。
救急車が到着すると、部員は誘導と現場まで案内。女性は病院へ搬送された。「部員2人は適切な対応と処置で人命救助に協力した」という。
🎵選抜高校野球の行進曲にOmoinotake「幾億光年」 松江市出身、人気ピアノトリオバンド
https://news.yahoo.co.jp/articles/039f20d99ccbc35d5cf6fb0ccba27260987f739a
日本高野連は10日、大阪市内で第97回選抜高校野球大会の第2回運営委員会を開き、開会式の入場行進曲に松江市出身の人気ピアノトリオバンド「Omoinotake」の「幾億光年」を決めた。
☟【高校野球】7イニング制導入の本格議論がスタート DH制、ビデオ判定導入も議題に
https://news.yahoo.co.jp/articles/c62b6a493a0891a2a8eb9f6e56ea2e4b594265fc
7回制の導入などを本格的に議論する「7イニング制等高校野球の諸課題検討会議」が10日、大阪市内で実施され、「DH制」導入が議題に挙がっていることが分かった。
日本高野連は昨年、選手の健康対策などを理由とした7イニング制導入について、メリットやデメリットを議論する有識者11人のワーキンググループを設置。4度の議論を重ね、同12月に理事会へ結果を報告した。これを受け、日本高野連の宝馨会長ら15名からなる「7イニング制等高校野球の諸課題検討会議」が新たに発足。既に議題となっていたビデオ判定に加え、井本事務局長は「DH制もこれから検討していく一つの項目と考えている」と、今後は「DH制」についても議論を展開していくことを明らかにした。
第1回のこの日は、オンラインを併用して全員が出席。会議設置の経緯や目的を確認し、座長(高野連副会長・北村雅敏氏)を選出した。今後も定期的に会議を開き、12月までに検討継続も含めた一定の対応策をまとめる。井本事務局長は「検討会議で(導入可否を)最終決定をするわけではない。連盟の決定事項は全て理事会でなので。高校野球を次の世代につなげていくためにはどうすべきか、意識しながらやっていきたい」と話した。
📝KKコンビやおかわり君もここから飛躍 太陽の塔に見守られ半世紀
https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/AST190495T19OXIE02HM.html
2025年4月、「大阪・関西万博」が大阪市此花区の夢洲で開幕する。
大阪での万博といえば、大阪府吹田市で1970年に開催された「大阪万博」を思い出す人も多いだろう。約半年の会期で延べ約6420万人が入場し、空前の活況を呈した。
その跡地に「万博」の名を受け継ぐ球場がある。万博記念公園野球場、通称「万博球場」。大阪万博の時は巨大な駐車場だった場所に、74年7月13日にオープンした。
大阪万博のシンボル的存在の「太陽の塔」や、日本一の高さ(123メートル)があるエキスポシティの観覧車、サッカーJ1ガンバ大阪の本拠である「パナソニックスタジアム吹田」が近い。サッカーの試合がある日などはにぎわうが、周辺は緑に包まれ、ふだんは静かなたたずまいを見せる。
高校野球との縁は深い。オープンの6日後に全国選手権大阪大会の1回戦が行われている。大阪シティ信用金庫スタジアムや南港中央野球場が当時まだなく、プロ野球近鉄バファローズ(現オリックス・バファローズ)の準本拠だった日生球場や、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の本拠だった大阪球場なども大阪大会で使われていた。
両球場ともプロ野球との日程調整に苦労したといい、比較的確保しやすい万博球場はありがたい存在だった。
2021年まで大阪府高校野球連盟の副理事長を務め、現在も同連盟事務局嘱託として高校野球に携わる池永徹(74)は、オープン当初から万博球場を知る一人だ。
阪南、山田、茨木の野球部で監督を務めながら、1980年に府高野連理事となり、万博球場での大会運営にあたってきた。
万博球場について、池永が真っ先に思い出すのが府高野連審判部副部長だった故・山本克己だ。審判を務めながら、グラウンド整備にも心を砕き、選手がプレーしやすい環境づくりに力を尽くした。
「雨が降った翌朝、万博球場に着くと、すでに山本さんが他の審判を集め、水抜きをしてくれていたこともあった。これまで大会運営がうまくいったのは、そういった方がいたからです」
桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」を擁し、83年夏から5季連続で甲子園を沸かせたPL学園の人気には池永も驚いた。
「KKコンビ」が3年生だった85年7月、PL学園は門真西との大阪大会4回戦を万博球場で戦い、7―0で勝った。気付くと本塁側にある正面玄関の前に数え切れないほどのファンが集まっていた。このままでは危ないと、試合後は外野スタンド裏にある出入り口から選手を出す異例の対応をした。
打球の飛距離で忘れられないというのが「おかわり君」の愛称で知られる大阪桐蔭の中村剛也だ。2001年夏、柴島との大阪大会2回戦で、中村は中堅左に特大の一発を放った。「スコアボードの裏手にある木々に打球がライナーで飛び込んだ。その先にある名神高速まで行ったんちゃうか、と騒然となりました」。池永はこの一撃でプロでの飛躍を予感したという。
野茂英雄(成城工=現・成城)、上原浩治、建山義紀(ともに東海大仰星=現・東海大大阪仰星)、前田健太(PL学園)、藤浪晋太郎(大阪桐蔭)ら、のちに大リーガーになった投手たちも多くプレーした。スタンドに屋根がないため、夏になると外野の木陰に陣取り、一日中、試合を見つめる熱心なファンがいるのも恒例だ。
池永は「万博球場で、どんな素晴らしい選手や試合と出会えるか。これからも楽しみです」と変わらぬ期待を寄せている。
☟国スポ 「島根では1000%できない」島根・丸山知事が指摘 トップ選手の参加で集中開催→通年開催の提言を批判 「東京、大阪、愛知が3年ごとに開くのか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/65676993598083b0bc7a6f915419308c6107c46f
トップ選手が参加しやすい時期に各競技を分散する通年開催化を軸とした国民スポーツ大会(旧国民体育大会)の改革案を巡り、島根県の丸山達也知事が10日の定例会見で、トップ選手出場は国際水準の競技施設整備が求められると指摘し、「島根では『1000%』できない。(改革案は)47都道府県の持ち回り開催をしないと言っているのと同じだ」と批判した。
国スポは現在、多数の競技を秋に集中的に開催。開催地の人的、財政的負担が大きいとして、各地の知事から見直しを求める声が相次いでいる。改革案を議論する日本スポーツ協会の有識者会議が3月に取りまとめる提言は、トップ選手がそろう国内最高水準の大会として全国各地から観戦客を呼び込むほか、開閉会式や運営の抜本的な簡素化、効率化が盛り込まれる見通しだ。
丸山知事は、トップ選手の出場には国際記録として認定できる競技施設が必要だと指摘。国際大会に近い施設整備の基準の引き下げを求めている内容に逆行しているとした上で「東京、大阪、愛知が3年ごとに開くのか、という感じだ」と批判し、各競技団体が既に実施する国内最高峰の大会との両立も疑問視した。
1946年に始まった国スポは原則、各都道府県の持ち回りで開催。現在2巡目の終盤に入り、島根県は「島根かみあり国スポ」を2030年に控えている。
全国知事会は昨年8月にまとめた意見書で、競技団体の基準を満たす施設を単独の都道府県で整備するのは困難なため、複数の都道府県開催のほか、開催時期や会場の弾力化▽開閉会式の簡素化▽式典・競技会開催費の半分以上を国と日本スポ協で負担ーなどを求めた。
📝甲子園春夏連覇の“琉球トルネード”に大学で悲劇が…島袋洋奨32歳に問う「高卒でプロの選択肢はなかったか?」意外な答え「微塵も後悔してません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4e785c220a60850717cda130d5dd754eddd68dbf?page=1
2010年、甲子園春夏連覇を成し遂げた興南高校のエースとして、高校野球界の頂点に君臨した島袋洋奨。だが、プロで大成することは叶わず、2019年に現役を退いた。無双の投球で甲子園を沸かせた“琉球トルネード”の野球人生は、どこで狂ってしまったのか。“消えた天才投手”の苦悩に迫った。
“黄金世代”の先頭を走っていた男
十数年に一度、ある学年にだけ突出した才能が集まることがある。かつて野球界を「松坂世代」が席巻していた時代があった。1998年に甲子園春夏連覇を果たした“平成の怪物”松坂大輔を筆頭に、多士済々のライバルたちがプロ野球界を牽引した。
その松坂世代に勝るとも劣らないのが「1992年世代」だ。山田哲人(ヤクルト)、千賀滉大(ニューヨーク・メッツ)、甲斐拓也(巨人)、源田壮亮(西武)、有原航平(ソフトバンク)、山崎康晃(DeNA)など各チームの中心選手が揃う。しかし高校時代を振り返ると、この世代のリーディングプレーヤーは山田でもなければ千賀でもなかった。
2010年に甲子園春夏連覇を達成した興南高校のエース、“琉球トルネード”こと島袋洋奨が、紛れもなく先頭に立っていたのだ。現在、宮城大弥がオリックスのエースとして活躍しているが、かつて興南史上最高の選手になると目されていたのは島袋だった。しかし、島袋が5年間のプロ生活で一軍のマウンドに立ったのは2試合のみ。2019年、静かにユニフォームを脱いだ。
あえて“たられば”を言うのであれば、島袋洋奨が高校卒業後すぐにプロに入っていた世界線はどうなっていたのだろうか。野球ファンなら誰もが一度は考えたはずだ。「甲子園春夏連覇のエース」の冠はそれほど煌びやかで眩しく、その冠に恥じないほどの実力を備えたピッチャーだと誰もが思っていた。
島袋洋奨32歳に聞く「選手としてのピークは?」
本人は、自身のキャリアをどう捉えているのだろうか。引退から5年が経ち、32歳になった島袋を訪ねた。現役時代と比べても、より精悍な顔つきになっていた。4年前に母校・興南高校の職員となり、現在は野球部コーチ兼副部長の肩書きを携えている。「野球選手としてのピーク」について問うと、まっすぐな眼差しで、ゆっくりと包み込むように口を開いた。
「自分のピークとしては技術的にどこだろう……。大学1年時も良かったし、2年生になると力もついてきてスピードも出ていた。高校で言うのであれば、2年生ですかね。2年の夏の甲子園で今宮(健太/ソフトバンク)さんたちとやったときとか、あの頃は自分の中で凄く楽に投げられたというか、狙ったところに簡単に決めることができました」
2009年夏の甲子園一回戦で、興南は明豊と対戦した。明豊の大黒柱は、遊撃手兼投手で三番の今宮健太。興南の2年生エース・島袋は初回2アウトランナーなしで今宮を迎える。センバツに続き二度目の甲子園の島袋は、リラックスした状態からトルネード投法で思い切り体を捻り、ストレートで押しまくる。2ボール2ストライクで迎えた5球目、アウトコース低めいっぱいに決まる145kmのストレートで見逃し三振。後にソフトバンクで同僚となる2人の対決は島袋に軍配が上がった。興南は3対4で明豊に敗れたが、島袋にとってはこの敗戦が甲子園最後の黒星だった。
「周りからも言われたんですが、自分はピンチになった時に気持ちがボールに乗り移って投げるところがある。そこは自分でも認めてあげたい部分でした。よく野茂さんのトルネードを参考にしているんじゃないかと聞かれたんですが、そもそも(軸足が)プレートに対してまっすぐじゃないし、身体も柔らかくないのであの投げ方は到底真似できない。意識したことは正直ないですね。自分がずっと意識していたのは、二段モーションからのヒップファースト。溜めていたものを一気に出すイメージで、しっくりきていたのが2009年辺りだったのかなと思いますね」
「130km台のボールでも空振りが取れていました」
翌2010年の甲子園で、島袋はまさに“無双状態”に突入する。173cmと上背はないものの、上半身を真後ろに捻る“琉球トルネード”投法から繰り出すボールは綺麗にスピンがかかり、小気味いい音を立ててアウトコースに構えたミットへと吸い込まれた。
「足を上げた瞬間には、すでにボールの軌跡のイメージがしっかりできていました。でも2年生のときの方が力感もなく、スピードも140中盤、145kmくらいがマックスだったんですけど、130km台のボールでも平気で空振りが取れていましたね」
島袋は勝負どころを察知すると、一段階ギアを上げて自信満々にストレートを投げ込み、悠然と空振りを奪っていた。その象徴的なシーンが、2年生で迎えた2009年夏の甲子園での今宮との対決だ。さらに同年夏の沖縄県大会決勝戦、対中部商の3回裏にも、よく似た場面があった。
あの山川穂高を封じた“伝説の名勝負”
中部商の四番に座っていたのは、のちにプロで4度のホームラン王に輝く山川穂高(ソフトバンク)。2004年以来の夏の甲子園出場を狙う中部商は山川を中心とした重量打線のチームだった。一方、興南は決勝までの4試合で14得点、うち3試合が完封と投手力で勝ち上がってきた。まさに好対照のチーム同士の決勝戦となった。
興南の先発を託された3年生・石川清太は立ち上がりを無難に抑えるものの、3回裏に中部商の重量打線に捕まった。先制点を奪われ、さらに無死満塁の大ピンチで2年生エースの島袋に交代。勢いに勝る中部商打線を抑えることができるのか――甲子園がかかった決勝戦のこの場面こそ、投手としての真価が問われるところだ。
最初の打者を外角低めの変化球で浅いライトフライに仕留め、球場のざわめきが少し静かになる。次の左打者は、クロスファイヤーからの外角ストレートで三振。2アウト満塁で、四番の山川を迎える。お膳立てが揃った。ここで一発でも出れば、中部商が甲子園の切符をほぼ手中に収めることになる。
当時から山川は大器の片鱗を存分に見せつけていた。島袋の代の興南でキャプテンを務めたサード・我如古盛次はこう回想する。
「山川さんの打球は速すぎて見えないくらいでした。マジでやばかったです」
明らかにストレートを待っている山川に対して、低めの変化球から入った。警戒しすぎてボールが先行し、スリーボール。もうボールを投げられない場面で、島袋は底力を発揮する。内角低めのツーシームを投げ、まず1ストライク。島袋は徹底的に低めのストレートを投げ続ける。フルスイングする山川はファウルを連発し、その度に打席で吠える。
フルカウントで迎えた8球目。強烈な縦回転のスピンがかかった渾身のストレートが、糸を引くような軌道を描きながら外角低めいっぱいに決まる。
「ストライクッ!」球場に響き渡るアンパイアの声。
見逃し三振。あの山川が、バットをピクリとも動かせなかった。島袋はガッツポーズをすることもなく、平然とマウンドを降り、小走りでベンチへと戻っていった。
「高卒でプロ入りはまったく考えてなかった」
その後、高校3年生になった島袋は甲子園で“伝説”を作り上げる。
2010年(春) 5試合46回 投球数689 被安打35 奪三振49 失点7 防御率1.17
2010年(夏) 6試合51回 投球数783 被安打47 奪三振53 失点12 防御率1.94
春夏ともに三振の数がイニング数を上回り、防御率は1点台。全11試合に先発した島袋の活躍によって、興南は史上6校目の甲子園春夏連覇という高校野球史に残る栄冠を手にした。
変則モーションの“琉球トルネード”に、誰の目にも明らかな投手としての実力。プロのスター候補生として、島袋は紛れもなく世代の一番手に立っていた。しかし中央大学への進学後、あれほど眩かった輝きは陽炎のように揺らめき、跡形もなく消えてしまった。
無礼だとは思いながらも、質問せずにはいられない。あのとき、高卒でプロに入る選択肢はなかったのか、と。
「大学に行ったことは微塵も後悔してません。高卒でプロ入りはまったく考えてなかったので」
そう断言した島袋の表情は、14年前の甲子園のマウンド上と同じく、威風堂々としていて一瞬も揺らぐことはなかった。しかし、大学時代に起きた“悲劇”が、その後の島袋の野球人生を狂わせたのは明らかだった。
<続く>
https://news.yahoo.co.jp/articles/b9ec519a39ffbb38ef0fd7f720d2967108cee0f7
東都大学リーグの東洋大は10日、25年度の推薦入試の合格者を発表し、大社(島根)の馬庭優太投手(3年)ら27人が合格した。
馬庭はエース左腕として同校の32年ぶりの夏の甲子園出場に貢献。1回戦の報徳学園(兵庫)、2回戦の創成館(長崎)と完投してチーム107年ぶりの2勝に導くと、3回戦の早実(西東京)戦では球史に残る激闘の中で延長11回を1人で投げきり、強豪校相手に3試合連続の完投勝利を挙げ、93年ぶりにベスト8進出へ大きく貢献した。
準々決勝の神村学園(鹿児島)戦には中継ぎとして登板も敗戦。4試合で計492球を投げ、公立校として全国に勇気と感動を届けた「大社旋風」の立役者の1人となっていた。
聖地で能力の高さを示したが、プロ志望届は出さずに大学進学の道を選択した。新天地での活躍からも目が離せない。
✌夏の甲子園「大社旋風」の立役者・石飛監督が大学で特別授業「生徒との対話」重視の指導法語る
https://news.yahoo.co.jp/articles/30a279d55a295e21d419f99bf7407ccf6c7cc3aa
2024年の夏の甲子園でベスト8入りを果たした大社高校野球部の石飛文太監督が、松江市の島根県立大学で特別授業を行い、甲子園での裏話も交えながら、生徒との関わり方など日ごろの指導法について話しました。
大社高校野球部・石飛文太監督:自分が何を言うかはあまり考えていない。それよりも生徒がどう思うかを主に考えている。
松江市の島根県立大学、学生たちに語りかけるのは、大社高校野球部の石飛文太監督。2024年の夏の甲子園で大社高校を93年ぶりとなるベスト8に導きました。
大社高校野球部・石飛文太監督:3年生が自分らの力以上のものを出してくれて、「可能性は無限大」だと示してくれたので、今のチームもベスト4以上を目指します。
特別講師として招かれ、約160人の学生を前に教育や地域活性化の中でスポーツが担う役割をテーマに話しました。国語の教員として教壇に立つ石飛監督の話を聞きたいと、学生から声があがったのが特別授業のきっかけだということです。
大社高校野球部・石飛文太監督:甲子園が決まった時に「おめでとう」と言われます。甲子園から帰った時に、「ありがとう」に変わっています。地域を動かすのはやはり「人」でしかない
約1時間半の特別授業、話題は甲子園での裏話にも。
大社高校野球部・石飛文太監督:園山くんに期待してみたらどうなるかなと言ってみたら、でかでかと新聞に掲載されて、その園山くんに何が起きたか…。これが効いたんですよね。
2回戦、長崎代表・創成館との試合でスクイズを決め、同点に追いついた場面を例に、生徒でもある選手たちのがんばりを引き出す指導法について紹介しました。
学生:保育士を目指していて、今実習とかを繰り返す中で、子どもたちへの関わり方を課題に思っていたので、話して頂いたことを生かしてながら働いていきたい。「自分を疑うことが大切、今正しいと思っていることが20年後どうか分からない」という話が印象に残りました。
受講者には教育や保育の道を目指す学生も多く、生徒との対話を大切にする石飛監督の講義に聞き入っていました。
☝前橋工を人命救助で善行表彰 3年生部員2人が倒れている女性を発見し救急対応
https://news.yahoo.co.jp/articles/7585aa84391ca9e7faa98baab5ed6a65d4705bee
日本高野連は10日、前橋工(群馬)の善行を表彰し、表彰状と記念品を贈呈することを決めたと発表した。
同校は甲子園大会通算13度(夏9度、春4度)出場し、夏の4強に3度入った群馬県の強豪。元西武の渡辺久信さんの母校としても知られる。
日本高野連によると、3年生部員2人が昨年12月3日の下校途中、倒れている女性を発見し、声を掛けた。1人は電話をかけて救急車を呼び、その後2人が救急車が到着するまでの間、先に対応していた男性と後から来た女性と協力して、倒れていた女性をあおむけにするなど救急隊の指示通りに対応した。
救急車が到着すると、部員は誘導と現場まで案内。女性は病院へ搬送された。「部員2人は適切な対応と処置で人命救助に協力した」という。
🎵選抜高校野球の行進曲にOmoinotake「幾億光年」 松江市出身、人気ピアノトリオバンド
https://news.yahoo.co.jp/articles/039f20d99ccbc35d5cf6fb0ccba27260987f739a
日本高野連は10日、大阪市内で第97回選抜高校野球大会の第2回運営委員会を開き、開会式の入場行進曲に松江市出身の人気ピアノトリオバンド「Omoinotake」の「幾億光年」を決めた。
☟【高校野球】7イニング制導入の本格議論がスタート DH制、ビデオ判定導入も議題に
https://news.yahoo.co.jp/articles/c62b6a493a0891a2a8eb9f6e56ea2e4b594265fc
7回制の導入などを本格的に議論する「7イニング制等高校野球の諸課題検討会議」が10日、大阪市内で実施され、「DH制」導入が議題に挙がっていることが分かった。
日本高野連は昨年、選手の健康対策などを理由とした7イニング制導入について、メリットやデメリットを議論する有識者11人のワーキンググループを設置。4度の議論を重ね、同12月に理事会へ結果を報告した。これを受け、日本高野連の宝馨会長ら15名からなる「7イニング制等高校野球の諸課題検討会議」が新たに発足。既に議題となっていたビデオ判定に加え、井本事務局長は「DH制もこれから検討していく一つの項目と考えている」と、今後は「DH制」についても議論を展開していくことを明らかにした。
第1回のこの日は、オンラインを併用して全員が出席。会議設置の経緯や目的を確認し、座長(高野連副会長・北村雅敏氏)を選出した。今後も定期的に会議を開き、12月までに検討継続も含めた一定の対応策をまとめる。井本事務局長は「検討会議で(導入可否を)最終決定をするわけではない。連盟の決定事項は全て理事会でなので。高校野球を次の世代につなげていくためにはどうすべきか、意識しながらやっていきたい」と話した。
📝KKコンビやおかわり君もここから飛躍 太陽の塔に見守られ半世紀
https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/AST190495T19OXIE02HM.html
2025年4月、「大阪・関西万博」が大阪市此花区の夢洲で開幕する。
大阪での万博といえば、大阪府吹田市で1970年に開催された「大阪万博」を思い出す人も多いだろう。約半年の会期で延べ約6420万人が入場し、空前の活況を呈した。
その跡地に「万博」の名を受け継ぐ球場がある。万博記念公園野球場、通称「万博球場」。大阪万博の時は巨大な駐車場だった場所に、74年7月13日にオープンした。
大阪万博のシンボル的存在の「太陽の塔」や、日本一の高さ(123メートル)があるエキスポシティの観覧車、サッカーJ1ガンバ大阪の本拠である「パナソニックスタジアム吹田」が近い。サッカーの試合がある日などはにぎわうが、周辺は緑に包まれ、ふだんは静かなたたずまいを見せる。
高校野球との縁は深い。オープンの6日後に全国選手権大阪大会の1回戦が行われている。大阪シティ信用金庫スタジアムや南港中央野球場が当時まだなく、プロ野球近鉄バファローズ(現オリックス・バファローズ)の準本拠だった日生球場や、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の本拠だった大阪球場なども大阪大会で使われていた。
両球場ともプロ野球との日程調整に苦労したといい、比較的確保しやすい万博球場はありがたい存在だった。
2021年まで大阪府高校野球連盟の副理事長を務め、現在も同連盟事務局嘱託として高校野球に携わる池永徹(74)は、オープン当初から万博球場を知る一人だ。
阪南、山田、茨木の野球部で監督を務めながら、1980年に府高野連理事となり、万博球場での大会運営にあたってきた。
万博球場について、池永が真っ先に思い出すのが府高野連審判部副部長だった故・山本克己だ。審判を務めながら、グラウンド整備にも心を砕き、選手がプレーしやすい環境づくりに力を尽くした。
「雨が降った翌朝、万博球場に着くと、すでに山本さんが他の審判を集め、水抜きをしてくれていたこともあった。これまで大会運営がうまくいったのは、そういった方がいたからです」
桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」を擁し、83年夏から5季連続で甲子園を沸かせたPL学園の人気には池永も驚いた。
「KKコンビ」が3年生だった85年7月、PL学園は門真西との大阪大会4回戦を万博球場で戦い、7―0で勝った。気付くと本塁側にある正面玄関の前に数え切れないほどのファンが集まっていた。このままでは危ないと、試合後は外野スタンド裏にある出入り口から選手を出す異例の対応をした。
打球の飛距離で忘れられないというのが「おかわり君」の愛称で知られる大阪桐蔭の中村剛也だ。2001年夏、柴島との大阪大会2回戦で、中村は中堅左に特大の一発を放った。「スコアボードの裏手にある木々に打球がライナーで飛び込んだ。その先にある名神高速まで行ったんちゃうか、と騒然となりました」。池永はこの一撃でプロでの飛躍を予感したという。
野茂英雄(成城工=現・成城)、上原浩治、建山義紀(ともに東海大仰星=現・東海大大阪仰星)、前田健太(PL学園)、藤浪晋太郎(大阪桐蔭)ら、のちに大リーガーになった投手たちも多くプレーした。スタンドに屋根がないため、夏になると外野の木陰に陣取り、一日中、試合を見つめる熱心なファンがいるのも恒例だ。
池永は「万博球場で、どんな素晴らしい選手や試合と出会えるか。これからも楽しみです」と変わらぬ期待を寄せている。
☟国スポ 「島根では1000%できない」島根・丸山知事が指摘 トップ選手の参加で集中開催→通年開催の提言を批判 「東京、大阪、愛知が3年ごとに開くのか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/65676993598083b0bc7a6f915419308c6107c46f
トップ選手が参加しやすい時期に各競技を分散する通年開催化を軸とした国民スポーツ大会(旧国民体育大会)の改革案を巡り、島根県の丸山達也知事が10日の定例会見で、トップ選手出場は国際水準の競技施設整備が求められると指摘し、「島根では『1000%』できない。(改革案は)47都道府県の持ち回り開催をしないと言っているのと同じだ」と批判した。
国スポは現在、多数の競技を秋に集中的に開催。開催地の人的、財政的負担が大きいとして、各地の知事から見直しを求める声が相次いでいる。改革案を議論する日本スポーツ協会の有識者会議が3月に取りまとめる提言は、トップ選手がそろう国内最高水準の大会として全国各地から観戦客を呼び込むほか、開閉会式や運営の抜本的な簡素化、効率化が盛り込まれる見通しだ。
丸山知事は、トップ選手の出場には国際記録として認定できる競技施設が必要だと指摘。国際大会に近い施設整備の基準の引き下げを求めている内容に逆行しているとした上で「東京、大阪、愛知が3年ごとに開くのか、という感じだ」と批判し、各競技団体が既に実施する国内最高峰の大会との両立も疑問視した。
1946年に始まった国スポは原則、各都道府県の持ち回りで開催。現在2巡目の終盤に入り、島根県は「島根かみあり国スポ」を2030年に控えている。
全国知事会は昨年8月にまとめた意見書で、競技団体の基準を満たす施設を単独の都道府県で整備するのは困難なため、複数の都道府県開催のほか、開催時期や会場の弾力化▽開閉会式の簡素化▽式典・競技会開催費の半分以上を国と日本スポ協で負担ーなどを求めた。
📝甲子園春夏連覇の“琉球トルネード”に大学で悲劇が…島袋洋奨32歳に問う「高卒でプロの選択肢はなかったか?」意外な答え「微塵も後悔してません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4e785c220a60850717cda130d5dd754eddd68dbf?page=1
2010年、甲子園春夏連覇を成し遂げた興南高校のエースとして、高校野球界の頂点に君臨した島袋洋奨。だが、プロで大成することは叶わず、2019年に現役を退いた。無双の投球で甲子園を沸かせた“琉球トルネード”の野球人生は、どこで狂ってしまったのか。“消えた天才投手”の苦悩に迫った。
“黄金世代”の先頭を走っていた男
十数年に一度、ある学年にだけ突出した才能が集まることがある。かつて野球界を「松坂世代」が席巻していた時代があった。1998年に甲子園春夏連覇を果たした“平成の怪物”松坂大輔を筆頭に、多士済々のライバルたちがプロ野球界を牽引した。
その松坂世代に勝るとも劣らないのが「1992年世代」だ。山田哲人(ヤクルト)、千賀滉大(ニューヨーク・メッツ)、甲斐拓也(巨人)、源田壮亮(西武)、有原航平(ソフトバンク)、山崎康晃(DeNA)など各チームの中心選手が揃う。しかし高校時代を振り返ると、この世代のリーディングプレーヤーは山田でもなければ千賀でもなかった。
2010年に甲子園春夏連覇を達成した興南高校のエース、“琉球トルネード”こと島袋洋奨が、紛れもなく先頭に立っていたのだ。現在、宮城大弥がオリックスのエースとして活躍しているが、かつて興南史上最高の選手になると目されていたのは島袋だった。しかし、島袋が5年間のプロ生活で一軍のマウンドに立ったのは2試合のみ。2019年、静かにユニフォームを脱いだ。
あえて“たられば”を言うのであれば、島袋洋奨が高校卒業後すぐにプロに入っていた世界線はどうなっていたのだろうか。野球ファンなら誰もが一度は考えたはずだ。「甲子園春夏連覇のエース」の冠はそれほど煌びやかで眩しく、その冠に恥じないほどの実力を備えたピッチャーだと誰もが思っていた。
島袋洋奨32歳に聞く「選手としてのピークは?」
本人は、自身のキャリアをどう捉えているのだろうか。引退から5年が経ち、32歳になった島袋を訪ねた。現役時代と比べても、より精悍な顔つきになっていた。4年前に母校・興南高校の職員となり、現在は野球部コーチ兼副部長の肩書きを携えている。「野球選手としてのピーク」について問うと、まっすぐな眼差しで、ゆっくりと包み込むように口を開いた。
「自分のピークとしては技術的にどこだろう……。大学1年時も良かったし、2年生になると力もついてきてスピードも出ていた。高校で言うのであれば、2年生ですかね。2年の夏の甲子園で今宮(健太/ソフトバンク)さんたちとやったときとか、あの頃は自分の中で凄く楽に投げられたというか、狙ったところに簡単に決めることができました」
2009年夏の甲子園一回戦で、興南は明豊と対戦した。明豊の大黒柱は、遊撃手兼投手で三番の今宮健太。興南の2年生エース・島袋は初回2アウトランナーなしで今宮を迎える。センバツに続き二度目の甲子園の島袋は、リラックスした状態からトルネード投法で思い切り体を捻り、ストレートで押しまくる。2ボール2ストライクで迎えた5球目、アウトコース低めいっぱいに決まる145kmのストレートで見逃し三振。後にソフトバンクで同僚となる2人の対決は島袋に軍配が上がった。興南は3対4で明豊に敗れたが、島袋にとってはこの敗戦が甲子園最後の黒星だった。
「周りからも言われたんですが、自分はピンチになった時に気持ちがボールに乗り移って投げるところがある。そこは自分でも認めてあげたい部分でした。よく野茂さんのトルネードを参考にしているんじゃないかと聞かれたんですが、そもそも(軸足が)プレートに対してまっすぐじゃないし、身体も柔らかくないのであの投げ方は到底真似できない。意識したことは正直ないですね。自分がずっと意識していたのは、二段モーションからのヒップファースト。溜めていたものを一気に出すイメージで、しっくりきていたのが2009年辺りだったのかなと思いますね」
「130km台のボールでも空振りが取れていました」
翌2010年の甲子園で、島袋はまさに“無双状態”に突入する。173cmと上背はないものの、上半身を真後ろに捻る“琉球トルネード”投法から繰り出すボールは綺麗にスピンがかかり、小気味いい音を立ててアウトコースに構えたミットへと吸い込まれた。
「足を上げた瞬間には、すでにボールの軌跡のイメージがしっかりできていました。でも2年生のときの方が力感もなく、スピードも140中盤、145kmくらいがマックスだったんですけど、130km台のボールでも平気で空振りが取れていましたね」
島袋は勝負どころを察知すると、一段階ギアを上げて自信満々にストレートを投げ込み、悠然と空振りを奪っていた。その象徴的なシーンが、2年生で迎えた2009年夏の甲子園での今宮との対決だ。さらに同年夏の沖縄県大会決勝戦、対中部商の3回裏にも、よく似た場面があった。
あの山川穂高を封じた“伝説の名勝負”
中部商の四番に座っていたのは、のちにプロで4度のホームラン王に輝く山川穂高(ソフトバンク)。2004年以来の夏の甲子園出場を狙う中部商は山川を中心とした重量打線のチームだった。一方、興南は決勝までの4試合で14得点、うち3試合が完封と投手力で勝ち上がってきた。まさに好対照のチーム同士の決勝戦となった。
興南の先発を託された3年生・石川清太は立ち上がりを無難に抑えるものの、3回裏に中部商の重量打線に捕まった。先制点を奪われ、さらに無死満塁の大ピンチで2年生エースの島袋に交代。勢いに勝る中部商打線を抑えることができるのか――甲子園がかかった決勝戦のこの場面こそ、投手としての真価が問われるところだ。
最初の打者を外角低めの変化球で浅いライトフライに仕留め、球場のざわめきが少し静かになる。次の左打者は、クロスファイヤーからの外角ストレートで三振。2アウト満塁で、四番の山川を迎える。お膳立てが揃った。ここで一発でも出れば、中部商が甲子園の切符をほぼ手中に収めることになる。
当時から山川は大器の片鱗を存分に見せつけていた。島袋の代の興南でキャプテンを務めたサード・我如古盛次はこう回想する。
「山川さんの打球は速すぎて見えないくらいでした。マジでやばかったです」
明らかにストレートを待っている山川に対して、低めの変化球から入った。警戒しすぎてボールが先行し、スリーボール。もうボールを投げられない場面で、島袋は底力を発揮する。内角低めのツーシームを投げ、まず1ストライク。島袋は徹底的に低めのストレートを投げ続ける。フルスイングする山川はファウルを連発し、その度に打席で吠える。
フルカウントで迎えた8球目。強烈な縦回転のスピンがかかった渾身のストレートが、糸を引くような軌道を描きながら外角低めいっぱいに決まる。
「ストライクッ!」球場に響き渡るアンパイアの声。
見逃し三振。あの山川が、バットをピクリとも動かせなかった。島袋はガッツポーズをすることもなく、平然とマウンドを降り、小走りでベンチへと戻っていった。
「高卒でプロ入りはまったく考えてなかった」
その後、高校3年生になった島袋は甲子園で“伝説”を作り上げる。
2010年(春) 5試合46回 投球数689 被安打35 奪三振49 失点7 防御率1.17
2010年(夏) 6試合51回 投球数783 被安打47 奪三振53 失点12 防御率1.94
春夏ともに三振の数がイニング数を上回り、防御率は1点台。全11試合に先発した島袋の活躍によって、興南は史上6校目の甲子園春夏連覇という高校野球史に残る栄冠を手にした。
変則モーションの“琉球トルネード”に、誰の目にも明らかな投手としての実力。プロのスター候補生として、島袋は紛れもなく世代の一番手に立っていた。しかし中央大学への進学後、あれほど眩かった輝きは陽炎のように揺らめき、跡形もなく消えてしまった。
無礼だとは思いながらも、質問せずにはいられない。あのとき、高卒でプロに入る選択肢はなかったのか、と。
「大学に行ったことは微塵も後悔してません。高卒でプロ入りはまったく考えてなかったので」
そう断言した島袋の表情は、14年前の甲子園のマウンド上と同じく、威風堂々としていて一瞬も揺らぐことはなかった。しかし、大学時代に起きた“悲劇”が、その後の島袋の野球人生を狂わせたのは明らかだった。
<続く>