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⚾今日の和歌山大会試合結果(3回戦)
9日目第1試合 箕島-南部龍神 9:00~11:26
          一二三四五六七八九十計HE
      南部龍神002030000 5111
      箕  島300000100 4121

9日目第2試合 和歌山北-田辺工 12:05~14:27
          一二三四五六七八九十計HE
      和歌山北010010112 674
      田 辺 工200002000 462

⚾明日の岡山大会組み合わせ(準々決勝 倉敷MS)
  ☆ 09:00~ 岡山学芸館-岡山理大付
☆☆☆ 11:30~ 倉 敷 商-倉 敷 工

📝名将常総学院の故・木内幸男監督を語ろう 私が公立高教員から“職業監督”に転身した真意
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/326129

実のところ、私は野球が好きなのかどうか自分でも分かりません。好きじゃないとこんな年までやってない? 確かに、それもそうかもしれません(笑)。でも、今まで2度、本気で辞めようと思ったことがある。

1度目は48歳で竜ケ崎一から藤代に転任した時です。公立校は県の決まりで1校当たりの在任期間に上限が設けられ、私は異動せざるを得なかった。もともと母校・竜ケ崎一で野球指導をするために教師になったのだから、他校でやる気はまったく湧かず……。野球と決別するために、コーチ時代から書きためていた野球ノートを全部燃やしました。教員をやるのは55歳くらいまで。その後はセカンドライフをどう生きようか、なんて考えていたくらいです。

しかし、藤代に赴任すると県会議員や学校関係者から、「頼むから、監督をやってくれ!」「公立校の取手二や竜ケ崎一も甲子園に行けた。だからウチも!」と、毎日のように頼まれまして。藤代は私が生まれ育った町で愛着もある。半ば折れる形で承諾しました。赴任後、監督業に1年のブランクがあるのはそのためです。

2度目は54歳で藤代を辞めた時。本来の人生計画より1年早いけど、現在ロッテで活躍する美馬学が当時2年だった。彼さえいれば私の後任は苦労しないはず。ちょうど潮時だと思ったのです。

すると、常総学院の当時の監督で春、夏に甲子園を制したあの名将・木内幸男さんから、「オレはもう年だから、あとをやってくれよ」と頼まれました。今度こそ本気で辞めるつもりでしたが、木内さんには同じ茨城県の野球指導者として多くのことを学ばせてもらっていた恩もある。当時の心境は「迷った」なんて軽い言葉では言い表すことができません。

■「中継ぎ登板」のつもりだったが…

結果的にオファーを受けて“職業監督”になったのには、理由がある。木内さんは圧倒的な実績もさることながら、そのあっけらかんとした話し口調から、名物監督として全国的な知名度がありました。そんな木内さんの後任は想像を絶する重圧にさらされる。とてつもなくやりにくいはずです。それなら私が「中継ぎ登板」しよう、と。野球から離れるつもりだったから、重圧も野望も1ミリもなかった。数年で次の人にバトンを渡せばすべて丸く収まると思ったんです。そうして2003年、常総学院の監督に就任しました。

読者の皆さんもご存じかと思いますが、私が5年間務めたあと、監督を引き継いだのは他ならぬ木内さんでした。
当時の心境? 私と木内さんの関係も含め、次回お話しします。

📝「あの男、甲子園だけ笑うんよ」上甲正典の宿敵、明徳義塾・馬淵史郎が明かす“上甲スマイル”の真実「笑顔なんて見たことがない。鬼。鬼ですよ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/bdc16792dcd43502a024e9bd2f179839028be4f5

愛媛の地から宇和島東、済美をセンバツ優勝に導いた故・上甲正典。豪快にして繊細。称賛もあれば批判もある名将の実像を宿敵と教え子たちが振り返る――。
 
愛媛の宇和島は「終着駅」の旧城下町である。地元っ子はもちろん言い返す。

「ここは始発駅です」。そんな山と海に囲まれた土地に「笑う練習」をみずからに課す男がいた。薬屋を営むはずなのに、いつも黒土のグラウンドに立っていた。

上甲正典。1988年のセンバツ大会、愛媛県立宇和島東高校野球部を率いて全国の頂点へ。のちに私学の済美高校に転じ、2004年の同大会、もういっぺん教え子たちが甲子園の決勝で腕を突き上げた。いずれも初出場の初優勝である。

宇和島東で春夏11回、済美では同6回、甲子園の土を踏んだ。前述の日本一に加えて準優勝は後者で2度('04年夏、'13年春)。通算25勝15敗の成績を残した。

勝つだけではない。高校卒業のドラフト1位投手(平井正史、安樂智大)や後年のメジャーリーガー(岩村明憲)らを鍛え、育て、送り出した。8年前に雲上へ向かった。存命なら75歳のはずである。

上甲監督は「スマイル」で親しまれた。緊迫の攻防にあって日焼けの顔に白い歯が浮かぶ。たちまち南国のぬくい微風がベンチの前を流れた。愛媛の野球人でNHKの解説者であった池西増夫の「もっと楽しまなくては」の助言に従った。攻め勝つスタイルと合わせて「豪」にして「柔」というイメージがテレビ画面に線を結んだ。

2022年7月。宇和島東と済美のそれぞれの卒業生が「上甲スマイル」について話してくれた。

「スマイルではありませんね。このあと怒るから笑ってる。プラスマイナスはゼロ。試合中、怒っているほうがこちらは安心してプレーできるんです。笑い始めると『この試合、勝たないとまずいな』と」

宇和島東の野球部を率いる数学の教師、長瀧剛が、なんだか楽しそうに教えてくれた。上甲監督のもと同校で'97年の春と夏、外野手として甲子園出場を果たした。

次は済美の元エースのコメント。「練習中に笑うことはまずなかった。試合では笑ってますけど……いまだから話せますけど、笑いながら『宿舎、帰ったら覚えてろよ』とか。見逃し三振なんかすると、よく笑ってました」

2年のセンバツで準優勝、楽天イーグルス、安樂智大の青春の記憶だ。どうやら甘い笑みではない。ではスマイルの実相とは? 

語ってくれる人物ならわかる。さっそく高知市内からレンタカーを走らせた。「この先に本当に学校があるの」とつぶやきたくなるガードなしの細い山道を曲がって曲がって少しずつ下る。午前9時。グラウンド内の高いところの部屋にその名将はいた。

「上甲スマイル、よう(本人が)言うてましたよ。『ここ、口角上げたらね。笑ってるように見えるんよ。練習せな、あかんよ』って。とても僕はできませんでしたけど。あの人は上手やったですよ。笑いながら、足でこう」

甲子園で通算54勝、高知の明徳義塾高校野球部監督の馬淵史郎が笑わずに、でも柔らかな表情のまま、ちょっとだけ右のつま先を前に送る仕草をした。

「マスコミは『上甲スマイル』でしょう。僕ら、しょっちゅう試合やっとるからね。あの男が試合中、笑うところなんて見たことがない。鬼。鬼ですよ。なんで甲子園だけ笑うんやと。甲子園だけ笑うんよ」

砕けた口調の理由は両者の絆にある。どちらも火の玉の勝負に身を焦がし、互いに敬い、学び合い、いつしか深い同志愛で結ばれた。2004年のセンバツ準決勝でぶつかる(済美7-6明徳義塾)前夜にさえサウナと焼き肉をともにした仲なのだ。

「もう出てこないでしょうね。上甲さんと僕の関係は。あの人も野球はタヌキでしたけどね。そりゃあ八方美人じゃ勝負事、勝てません。僕はそう思います。誰にでも好かれる人はなかなか勝てないですよ」

学齢なら8年下、ただし師弟ではなく、好敵手であり肝胆相照らす友なのだった。

あらためて上甲監督とは? 「頭がいい。一芸は万芸に通ず。なんでもできる人でしたね。ゴルフも上手やった。字も達筆。話がまたうまい。博才もあったかもわかりません。追い越そうと思ってやってきましたけどね。なかなか追いつけずにいます」

上甲正典は現在の宇和島市三間町に生まれた。宇和島東高校から龍谷大学へ進み、野球部ではリーグ通算8試合出場というから名選手ではなさそうだ。卒業後、京都の金属メーカーを経て、愛媛・松山市が本拠の医薬品卸売り企業に就職、営業の傍ら、独学で勉強に励んで薬種商の資格を取得、実家の敷地に「上甲薬局」を開いた。監督を務めてからは、もっぱら愛妻に店を託して、打った打たれたの道を突き進んだ。

馬淵史郎は愛媛の八幡浜生まれ。上甲と同じ南予地方育ちである。県立三瓶高校-拓殖大学と進学、学窓を出ると、金属パイプやプロパンガスの関連企業、野球部のある警備会社などで仕事に就き、やがて縁を得て明徳義塾に招かれた。現在は社会科の教職だが、こちらも「外」の世界にいっときは身を浸した。

一般企業での勤務経験は指導に影響しているのだろうか。

「多分にあると思います。大学を卒業してすぐに先生になるのとは違う。世の中、そんなに甘いもんじゃない。僕もいろいろ職が変わってね。そのことについて講義できますよ。上甲さんはジャンルが広かったですよ。政治経済だって何だって」

では外をよくわかる者の「内」の世界、グラウンドにおける上甲野球とはいかなるものか。一般には「攻撃的」と信じられている。事実だろうか。

「確かに『攻撃は最大の防御』という人でした。打つけど守備が不得手という選手がいる。上甲さんは使う人ですよ。よく言ってました。『勝つときは弱いところにボールは飛ばない』って。緻密な野球なら明徳は負けない。100戦なら70勝。上甲さんは初戦負けも多いはずです。でも波に乗ったら上甲さん型のほうが強い」

スタイルとは意思の産物である。熟考と決断が割り切りを可能とする。

1976年、上甲は「終着駅」の公立校で最初はコーチとして指導を始めた。環境や条件は「攻撃は最大の防御」におそらく影響している。

馬淵の解説は鋭い。「愛媛県には松山商業がある。守りのチームです。同じことをしても勝てない」

県立松山商業高校。1919年夏、全国大会初出場。まだ甲子園が会場となる前である。過去、春夏7度優勝。鍛錬と規律が粘りを醸成、しぶとく接戦を制する。

「上甲さんは『守りの野球では松山商業には勝てない。正反対のほうが相手は嫌だろう』と話していた。愛媛の端っこの宇和島ですよ。松山の名門中の名門を倒すのに、アウトかセーフか、くさい球がぎりぎりストライクか、そんなことじゃ勝てない。ド真ん中をいくら打たれてもセンター前で止まるピッチャー、ボールひとつ外れとってもホームランを打てるバッターを育てるんだと。そのことをグラウンドで徹底していたと思います」

遅れてきた者が伝統の壁を崩すのは技でも策でもない。問答無用、叩き割る力なのだ。では実力をいかに培うのか。鍛錬である。上甲野球の猛練習は語り草だ。宇和島東の現監督、長瀧が現役のころの長時間拘束を振り返る。

「気づいたら夜の11時くらいということはありました。平日は夕方4時から。休日なんて朝の10時からです。ひとつの勝利への執念ですよね。愛媛の隅っこ、地元の子らの集まるチームを強くする。どこを伸ばせばよいのか。そこを徹底する」

長瀧の述懐。ヒットエンドランのサインが出た。「コツンと当ててランナーをひとつ進めてアウト」。仕事はしたのにベンチに帰ると怒られた。エンドランでお前は何をすべきか? その場で聞かれた。

「最低でもランナーを進めます」
「違うだろ。ホームランだよ」

いつしか「牛鬼打線」と称された。郷土の祭りにあやかるのだが、牛に鬼、いかにもピタリときた。

ただし上甲野球はそれだけではない。長瀧は言う。「大雑把なイメージとは違って、新チームになると最初は延々と守備練習をするんです。ひとつのミスも許されない雰囲気。センチ刻みの位置取りの話をされる」

強打者不在なら柔軟に方針を転換する。「自分の代は非力な選手が多かったので実は守り勝つチームづくりをされた。でも『牛鬼』のイメージが勝手に鎧をまとわせてくれました。相手がそう思って戦ってくれる。見えない力が作用しました」

本物のコーチングは「一般的によいこと」を超えて「目の前のこのチームのひとりひとりの身の丈に合う方法」を突き詰める。上甲正典もそうなのでは? 

「それが本当に上手」。2019年の夏、母校を指揮してほどなく甲子園行きを実現させた気鋭の指導者は即答した。

「いまも、いろいろなところで『お前か、長瀧いうんは。上甲さんから聞いとるけん』と声をかけられる。守られてるなと感じます」

こわかった。いくつになっても、会えば「すみません」が口をつきそうになる。とても身近ではなかった。なのに師は確かにそこにいて自分を支えてくれている。

2001年の8月。上甲は宇和島東を離れる。薬局を閉じ、松山の済美の事務職員に採用され、野球部の初代監督に就任した。

📝「お前をつぶしてまで甲子園に行きたくない」1大会で772球、済美・安樂智大に故・上甲正典監督が語っていた思い「僕が監督でも絶対、投げさせます」
https://news.yahoo.co.jp/articles/15190d67de358b7f84a99da0bf4632eabb149fb0

2001年の8月。上甲は宇和島東を離れる。薬局を閉じ、松山の済美の事務職員に採用され、野球部の初代監督に就任した。

新しい働き場での最晩年の薫陶に浴したのが、今季も楽天イーグルスの中継ぎを担う安樂である。2012年から師の死の2014年まで格別なエースとして山の頂をめざした。

上甲監督、どんな人でしたか。「厳しい方でした。当時は嫌だと思うこともあった。でも一緒に夢を追ってくれたんです。大切にしていただきました」

新入生の秋には背番号1をもらった。忘れがたい思い出は同学年の冬某日、ウォームアップが「あまりできていない」のにいきなり強い球を放った。

「練習がしんどすぎて、ちょっと反発心があったんです」

あとで監督室に呼ばれた。「お前をつぶしてまで甲子園に行きたくない」。ふいの一言。叱られたはずなのにうれしかった。

「そこまで考えてもらっているのかって。すごく覚えてるんです」

少年であれエースはエースだ。選ばれし者の心がある。大昔に少年であったベテラン監督は、頭ごなしにとがめるのではなしに矜持に働きかけた。

2013年のセンバツ。安樂は大会を通して「772球」を投げた。同年の秋季県大会で右肘を傷めると「登板過多」への批判はいっそうふくらんだ。あれから9年、渦中の本人はどうとらえていたのか。

「これが高校野球だと僕は思ってました。エースが完投してエースが優勝に導く。だれかにマウンドを譲りたくない。何、言ってるのかな? そんな感じでした」

もし済美高校の安樂監督なら安樂投手に772球を放らせるだろうか。「絶対、投げさせますね」

でも肘の故障は投げ過ぎのせいでは。「球数ではありません。2年の夏、157kmを出した試合(愛媛大会準決勝)のあとに肩甲骨に筋肉のしこりができて、それで肘が下がってフォームが崩れてしまって。下がると、どうしても傷めるので。まあケガをすると、あれこれ言われてしまう。プロに入っても故障が続けば、高校でつぶされたと。いまに見ておけ、と思ってやってますけど」

ひそひそ話のたぐいに「ドラムを叩いて壊した」説がある。「絶対に違うんですけどね。体育祭で太鼓を叩かなくてはならなくて、それと重なったので言う人が」

肘の検査のため東京の病院に監督とふたりで向かった。新幹線の車中、会話はどんどん弾んだ。わけがない。

「しゃべることなんかありません。神経を使わないといけないので寝るわけにもいかない。でも、わざわざ付き添ってくれて。心の底の愛情を感じました」

練習を終えるとサウナにたまに同伴させられた。夜の11時過ぎだ。他の客はまずいない。タオルを腰に巻いて「シャドウピッチングやスクワットを」。監督はここでは優しかった。無邪気でもあった。指で鉄砲をこしらえて冷水をはじきながら、あれは本物だろう、悪童のスマイルを浮かべた。

2014年9月2日。午前9時15分。上甲正典、死去。約1年前の検査でわかった胆管がんはとっくに深刻だった。

「わしの分身が欲しい」元気なころに馬淵(史郎)にそう明かした。

高校野球は練習と采配のみでは成り立たない。後援者との付き合い。部員の進路や活動費の確保。前線の監督は後方においても活発で細心、なんでもできた。その分、すべてを抱え込んだ。馬淵に仮説をぶつけた。上甲監督は豪快というより、むしろ……。

「繊細でしたよ。絶対、豪快じゃない」

塁間は何m、ボールの直径が何cm、秒数なら0コンマまで、練習中、細かな数字を口にした。理詰めというより不安の除去に近い。自身で隅から隅まで整えて、必要ならギャンブルに打って出る。

「亡くなる1週間前ですよね。行ったんですよ。松山の病院に」

ふたりきりになった。「煙草吸いたい言うわけ。こんなこと話すと病院に叱られますけど、病室の窓開けてね。マイルドセブンの1ミリでした。互いに最後になるとわかってるわけですよ。切り出せない。『よう試合しましたね』。そんな昔話をちらっと」

40分ほど過ぎた。「帰りますよ。はよ、ようなってくださいよ」。上甲はベッドの脇の椅子に腰かけていた。

「もう顔、見んのですよ」なぜか背を向けて窓を見つめている。だから肩越しに手を振った。

帰りの高速道、携帯端末が鳴った。「ありがとう」豪快な打線を築いた繊細な人のかすれた声だった。

安樂が病室を訪ねたのは、最期の日の「2週間前くらい」。別れ際に監督は声帯を精一杯震わせた。いわく。

「こんな場所こんでええから練習しろ」後日、もういっぺん面会する。ただし、もはや会話はかなわなかった。

葬儀では高校3年の安樂主将が涙の弔辞を読んだ。「夏の甲子園制覇。球速160km。ドラフト1位でのプロ入り」。入学後の監督との約束が胸にあふれた。

「ドラフトの前でしたし、果たせなかった悔しさがこみ上げてきて。(弔辞の)感謝の気持ちはすぐ出てきました。自分で考えて、そのまま書きました」

登板過多の犠牲者と見る向きも少なくなかった。健康の観点では理解もできる。ただ事実として棺の前には他者には踏み入れぬ師弟だけの感情があった。

1997年8月9日。
兵庫県尼崎市の宿舎、尼宝館。甲子園にやってきた宇和島東の初戦のオーダー発表が終わった。メンバーはひとりずつ監督の部屋に呼ばれ、短い会話を交わし、メモ帳を破った紙を渡される。
22年後、同じ高校を同じ場所へ連れてくることになる中堅手、長瀧剛のそれにはこう記されていた。

「増々力がついて来た。今日は良い日だ」 愛する練習は不要だった。

⚾岩手さんへ
山陰地方は10日ほど前だったか???凄まじい豪雨で街が水没したとかしないとか一騒動ありましたが、出雲大社の近所の稲佐の浜周辺も通行止めが解除され、普通に観光でき駐車場もソコソコ埋まってました。

特急やくもの計画運休は気が気でなかったですね・・・。他に行くルートがないし、ましてやそれがなければ帰れないので・・・。

知っての通り、僕は1秒でも長く球場に逗留したいのでロングゲームや延長戦は大歓迎ですが、この3日間に関しては別人のようになってしまいました・・・。
基本的に電車が1時間に1本程度しか走っていない(和歌山は1時間2本)ので、適当なところで切り上げないとその後の移動が困難になるので・・・・・。

初日はどうしても試合後に米子城跡の夕陽を見たかったし、3日目は米子で夕食後に19時23分の最終・特急やくもに乗らなければ帰れないので・・・・・。
2日目はいつもは出雲市駅前の駐輪場で自転車借りてますが、18時が返却期限なんで今回はヤドで自転車返してくれるところを吟味してちょうど18時に出雲大社参拝を終え、ヤドから約10km離れた稲佐の浜で夕涼みしていたと。

野々村監督が松江球場で視察することは考えていなかったですね。当初の組み合わせだと18日が3回戦10時に登場だったので2勝してくれたら見れるなと計算してましたが・・・。
あえて松江と浜山の順番を入れ替えると、最終日の帰宅時間が18時25分の特急に乗らないと帰れなくなるので・・・。

そもそも昨年の日程を参考にしつつ、2月の年間行事予定発表で3連休を少し外したら米子で3試合観戦でき島根は2試合かなと思い2月中にヤドをキープしてました(ホンネは3試合観戦したかったですが駅から球場までかなり離れているので負担が・・・)

しかし、野々村監督は熱心に観戦されてました。たいがいの監督さんだったら第1試合の石見智翠館-立正大淞南の勝者と準々決勝で開星が対戦する運びになるので、それだけ見たら帰るはずですが、第2試合の10-2というコールド大差の試合も最後まで見ておられました。

ちなみに今日の写真は・・・松江球場第1試合前の整備。当番校が野々村組の舎弟でした。第2試合登場の安来は第1試合途中で監督・部長・コーチと選手・マネージャーが仲良くネット裏で固まって観戦してましたが、野々村監督には取り巻きが怖くて近づかなかったですね・・・・・。

どこの球場に行っても監督の隣には部長かコーチあるいはOBか野球仲間や新聞記者などがタムロしてますが、、、

三刀屋の打者にピロ注目の選手がいるとは何かの本で知りましたが、初戦敗退で江の川も相変わらず、来た球をただ振り回すだけの野球で立正大淞南の方が投手力を筆頭に力が上だったかなと・・・。あえてエース温存で挑み、中盤からエース投入で流れを引き寄せたが、智翠館はエース先発もリズム悪く早期降板で4投手の必死の継投も全員まんべんなく打たれたし。

江の川は2月くらいに主犯ラグビー部・共犯野球部で女子寮の風呂を覗き見したとかで問題が表面化しましたが、末光監督は続投してました。

P・S 日曜日の米子は37度と体温越えの猛暑で、昨日の松江は心配された曇予報も昼前から一転して晴天に恵まれ、曇天の午前中は風もなく湿度が非常に高く、屋根下でスコア付けていたけど頭が何度かクラクラするような不快な熱さでした・・・。

そして今日の山陰は雨・・・https://news.yahoo.co.jp/articles/ec93dac39d9e78674b4f5a747b8410b141f44371

なんと米子は中止で浜山は2時間松江は2時間45分ほど開始を遅らせた模様です。

昨日の18時に米子に帰ってきたら風が涼しく感じましたが、23時30分帰宅した折にはめちゃくちゃ湿度が高く息苦しい熱さで・・・。今日の宝塚も曇天ながら急に晴れたかと思うと雷鳴が鳴り響いたり不安定でした。
2023/07/19(水) 22時16分08秒 No.614 編集 削除