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⚾今日の和歌山大会一次予選試合結果(3日目 1回戦 紀三井寺球場)
田 辺 工-紀 北 工・南 部-那 賀
全試合雨天中止。。。
📝令和8年度秋季兵庫大会組み合わせ表
http://www.hyogo-koyaren.or.jp/homepagedata(R8)/26aki.pdf
💢東京学館の部長が6月15日から1年の謹慎 審査室会議で高校3件処分
https://news.yahoo.co.jp/articles/fe77f8a321d081d74338e7323df12399e0b0c20a
日本学生野球協会は8日、都内で審査室会議を開き、高校3件(うち1件は非公表)の処分を決めた。
東京学館(千葉)は昨年7月に当時2年生部員が起こした不祥事の報告義務違反で、部長(41歳・教諭)が26年6月15日から1年の謹慎処分となった。
今治南(愛媛)は監督(25歳・講師)の部内での不適切行為で26年8月12日から1カ月の謹慎とした。
☝人生は一度きり 中学教員から52歳でプロ球団副寮長→高校野球監督
https://news.yahoo.co.jp/articles/00a2d6235ce702e3f7fe68750b4b10df2d86b0a2
中学校教員から52歳でプロ野球選手寮の副寮長となった男性がいる。方谷学舎高校(岡山県高梁市)の硬式野球部監督、山本克也さん(59)。プロ選手と接した経験を生かして生徒たちを励ます。
兵庫県内の公立中学校で社会科を教えながら、軟式野球部の顧問を長く務めた。「野球を通じて子どもたちに色々なものを伝えてこられた自信があった」。だが最後の方では部員減や、練習時間の制限など時代の流れの中で、力を出し切れていない思いを抱いていた。
その頃、プロ野球のオリックスが若手選手の教育係を求めていると知った。学校現場で培った己の力は通用するのか。プロの世界にも興味があった。履歴書を送り、数回の面接を経て採用された。2020年4月、選手寮「青濤館」の副寮長に就いた。52歳での転身。「ためらいは全くなかった。1回きりの人生なので」
寮管理の雑務のほか、15人ほどの若手選手一人一人と毎月のように面談した。コーチとは違う立場の年配者として向き合い、精神面を支えた。高卒の新人も多くいた。
いまやエース級となった宮城大弥投手もその一人だ。1軍の公式戦で登板して帰寮後、その日の投球内容を一緒に振り返った。立場をわきまえ、助言めいたことは一切言わない。ただ感想を伝える。「とてつもなく最高の経験だった」
いまや中心選手となった紅林弘太郎選手もいた。ヤクルトとの日本シリーズ第1戦が近づく夜、室内練習場で、先発が予想される相手投手のカウントを取りに来る外角直球を右前に打つためだけの練習に汗を流していた。最初の打席で見事に実現した。プロ選手たちと過ごして得た確信がある。「メンタルをコントロールできる選手だけが、何年も続けて結果を出せる」
縁あって23年から方谷学舎高の教壇に立つ。高校野球の指導をしてみたい気持ちは前からあった。接したプロ選手たちの「息づかい」を引き合いに出しつつ、生徒たちと向き合っている。
「子どもたちと青空のもと野球をする幸せ」はかけがえのないもの――。兵庫県西宮市に住む家族と離れた単身赴任が続くが、この思いは消えることがない。
◇
山本さんに今の高校生に伝えたいことを聞いた。「なりふり構わず本音でやり合ってほしい。『愚かさを出すくらいならごまかしたい』『傷つかなくて格好悪くなかったらオーケー』という逃げ方をせず、誠実に生きていってほしい」
📝持ち帰らなかった銀メダル 作新学院主将を変えた、甲子園目前でのタイブレーク敗戦
https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/2026083100001-spnavi
地方大会の決勝で敗れ、甲子園にあと一歩で届かなかった選手がいる。そんな選手たちに「敗戦の美学」をテーマに話を聞いた。一人目は2025年夏、2年の時に栃木大会決勝で敗れ、今年は主将として戦った澤村友真(3年)。澤村は、1996年夏の甲子園決勝で1年生ながら劇的同点弾を放つも延長の末に敗れた、熊本工・澤村幸明氏(日本通運硬式野球部監督)を父に持つ。ちなみに父も3年夏には熊本大会決勝で敗れている。「負けた者は何を掴むのか?」。同じ「決勝での敗北」を経験した親子が、挫折の先で見出したものとは?
「大学1年から絶対にベンチに入って神宮でプレーする」
「もう、私だけなんですよ。まだロスなのは(笑)」2026年の夏を振り返りながら、母・慶子さんがそう笑った。
作新学院の主将・澤村友真(3年)の高校野球は、栃木大会準決勝で終わった。佐野日大に0―5。甲子園まであと2勝だった。埼玉の自宅へ戻ってからも、慶子さんはなかなか気持ちを切り替えられなかったそうだ。ところが、当の本人は違った。
「僕はもう次です。大学1年から絶対にベンチに入って神宮でプレーする。4年後にはプロに行きたい。そのために何をしなきゃいけないかを考えています」
関東の大学へ推薦入学するための準備に切り替えていた。夏休みの取材日だったこの日も1日練習を自主的にしてきたという。すでに木製バットを振り始めていた。
なぜ、これほど早く切り替えられるのか。話を聞いていくと、友真には一年前の夏から持ち続けてきた「宿題」があった。
2025年夏。作新学院の2年生レギュラーだった友真は「2番・遊撃」で栃木大会に出場した。決勝の相手は青藍泰斗。もちろん、勝てば甲子園だった。
1点リードしての5回裏、2死一、三塁の好機で打席が回ってきた。友真はここまで2打席無安打。前の打席では無死二塁でセカンドゴロに倒れ、好機を潰していた。
「あの打席ははっきり覚えています。完全に興奮していました。『絶対に俺が決めてやる』『初球から打ってやる』って。それしか考えていなかったです」
結果は初球を振って、二ゴロ。
「狙いを絞るとか、そういう冷静さが全然なかった。決勝の雰囲気に自分が飲まれていました」
作新学院は延長10回、タイブレークの末3-4で敗れた。友真は誰よりも泣き崩れ、立つことができなかった。
「先輩となら絶対に甲子園に行けると思っていた。負けるなんて、これっぽっちも思っていなかったんです。5回の場面は、『自分が決めてやる!』という欲と、球場全体の押せ押せムードに完全に飲まれていました。頭の中は絶対に初球から打ってやるということだけで、狙いを絞る余裕も、冷静さもありませんでした。結果、無理やり打ちにいって力ないセカンドゴロ。実はその前日にバットのグリップを変えて、感覚がいつもより太くなっていて、バットが出にくい感覚があったんです。でもそれは言い訳でしかなくて、結局は決勝の雰囲気に自分が負けていたんです」
持ち帰らなかった準優勝メダル
試合後に渡された準優勝メダル。悔しさが上回り、この時は価値のあるものとは思えなかった。「準優勝」という響きは澤村家にとって苦い記憶でもあった。父・幸明が1996年夏の甲子園、閉会式でかけたメダルも「銀」だったからだ。
「試合のあとも、銀メダルは見たくなかったんです。僕にとっては屈辱のメダルでした。周りは『準優勝でも凄い』と言ってくれるかもしれないけれど、僕にとっては自分の未熟さと弱さを示すものでしかありませんでした。『なぜ、神様は俺たちを甲子園に連れて行ってくれないんだ』と、最初は神様のせいにしていました。結局メダルは家に置いたまま。寮には持って行きませんでした」
当時の正直な気持ちを打ち明けた。
「でも、後からよく考えて、小針監督とも話して気づいたんです。『冷静さ』が足りなかった。タイブレークに入り、相手の代打が出た緊迫した場面で、仲間が浮き足立っている時にタイムをかけて、一声かけて落ち着かせてあげられる選手が、あの時の作新には誰もいなかった。指導者も選手も、みんなが決勝の雰囲気に流されていたんだと思います」
「どんなに状況が熱くなっていても、気持ちだけは絶対冷静じゃなきゃいけない。自分がキャプテンになったら、試合の流れを客観的に見て、スッとタイムを取って仲間の肩の力を抜いてあげられるリーダーになろうと思いました」
それまでの友真は「自分が打てばいい」という意識が強い選手だった。それが持ち味でもあった。しかし敗戦によって初めて、状況を見つめる客観性や冷静さの必要性を痛感した。「もうこんな思いはしたくない」。野球に向き合う姿勢が変わった。
監督不在、主将として迎えた試練
当たり前だった日常が、突然変わった。夏の大会を前に、作新学院は大きな転換点を迎えたのだ。2025年5月23日、小針崇宏監督が練習中に部員へ不適切な指導を行い、その部員が右手薬指を骨折したとして、6月9日に小針監督を指導から外した。日本学生野球協会は同20日、小針監督に6カ月間の謹慎処分を科した。
12月8日まで小針監督が謹慎となったため、夏の大会も新チームの始動後も、作新学院は小針監督不在の体制で活動していた。その中で、友真と上野大翔一塁手によるダブルキャプテン体制が組まれた。
「正直、最初はチームも不安というか、グラグラしていました。小針監督のときにあった張り詰めた空気がなくなって、甘えが出た部分もありました。緩いというか......。このままで大丈夫かという不安もありました」
監督がいなければ、自分たちで決められる。しかし、それは必ずしも「主体性」と同じではなかった。仲間にどこまで厳しさを求めるのか。何を基準に行動するのか。誰がチームの方向を決めるのか。友真は初めて自分たちで考え、自分たちでチームを動かさなければならない環境に身を置くことになった。
「俺たち、何のためにやっているんだ、と選手間で真剣に考えました。目標は小針監督をもう一度甲子園に連れていくことだろ!と言い合ったんです」
監督がいないから緩むのではなく、自分たちでやるしかない。
「主体性という部分では、あの時期があったことは大きかったと思います」
しかし、その友真自身にもアクシデントが起きる。2026年1月、練習中に左足小指を骨折。手術でボルトを入れ、春はプレーできない期間が続いた。
「キャプテンなのに自分が動けない。焦りはありました」
監督不在の期間を経て、今度は自分自身がグラウンドに立てない。光を見いだせない時期が続いた。
小針監督は謹慎期間終了後、2025年12月下旬から段階的に指導へ戻り、2026年4月に硬式野球部監督へ正式復帰。春季栃木県大会から再び公式戦で指揮を執ることとなった。友真も5月に戦列へ復帰。そこで意識したのが、小針監督との距離だった。
「先輩から『キャプテンがベンチの端にいたらダメだ。監督の近くにいろ』と言われ続けていたので、ベンチでは監督の隣にぴったりとついて、指示を聞いていました。父からも『分からないことがあったら、小針監督に怖がらずにどんどん質問しろ』と言われていたんです」とはいえ、最初は怖かった。ある日勇気を出して聞いてみた。
「『なんで、あの場面であの守備位置なんですか?』と思い切って聞いたんです。そしたら、ちゃんと答えてくれました。そこから1対1で野球の深い話ができるようになりました。監督がグラウンドで、僕に笑って声をかけてくれることも増えて、もう怖くないと思いました」
監督の右腕として考えを理解し、自分の考えも伝える。小針監督がいない時間を経験したからこそ、指導者との向き合い方も変わっていた。しかし、最後の夏にも試練は続く。準々決勝の守備で、イレギュラーバウンドしたボールが顔に当たり、額から出血。痛みは気にならなかったが、準決勝は病院で手当てした止血用ネットを額に巻いて出場した。結果は、佐野日大に敗れ、準決勝敗退。またもや甲子園の夢は破れた。試合後のミーティング。小針監督が話す前に、友真は3年生の仲間たちへ自分の言葉で話した。一つは感謝だった。
「僕は埼玉から来た、いわばよそ者です。それでもみんなが認めてくれて、キャプテンとしてついてきてくれた。本当にありがとう」
もう一つは、ベンチに入れなかった3年生への思いだった。
「夜遅くまでバッティングピッチャーをやってくれたやつもいた。肩や肘が痛いのに『明日も俺、準備できてるから』と言ってくれたり、メンバーを外れたやつが後ろから『雰囲気悪いぞ!』って声を出してくれたり。本当に支えてもらいました」
だからこそ、「スタンドのやつらに甲子園の景色を見せてあげたかった」それができなかったことを謝った。
2年夏の決勝では「俺が決める」と自分中心になっていた友真だったが、3年夏の最後には、自分の結果ではなく、試合に出られなかった仲間について話していた。それが成長の証だった。
「みんなと甲子園に行きたかった。だけど、悔いはありませんでした。強く思ったのは、甲子園に出た同級生には絶対に負けたくないです。5回行くつもりだった甲子園には、結局1度も行けなかったけど、大学で、結果を出します。僕が作新でやってきたことが間違っていなかったと証明したいです」
決勝敗退、監督の謹慎、自身の骨折、監督の復帰、最後の夏の負傷。思い通りにならないことの多い1年だった。しかし、その一つ一つを乗り越える中で、友真は「自分が打つ選手」から「仲間を見て、チームのために動けるキャプテン」へと成長した。敗戦は、甲子園への道を閉ざしたが、勝つことだけを追いかけていた選手に、仲間の存在と自分の役割を教えてくれた。だからこそ、高校野球が終わった今、友真はもう次へ向かっている。
「私だけまだ高校野球を引きずっている。切り替えが早くて置いてけぼりな気分です(笑)。もう作新のユニフォームを着て、みんなで野球をするところは見られないんだなと思うと、やっぱり寂しいです。作新学院の保護者の皆さんが本当にいい人ばかりで。作新に入って良かったって、心の底から思っているので。やっぱり寂しい......」
再び涙ぐむ母の言葉を聞きながら、友真は少し照れたように笑った。
「でも、大学でも野球を続けるから。まだ応援できるよ」
その一言に、慶子さんの表情が和らいだ。
「まずは大学で結果を出します」
そう言った友真は、すでに次の舞台を見据えていた。
💢熊本地震で八代野球場の芝生が隆起・ブルペンに亀裂、藤崎台球場も空調落下…高校野球大会の会場が変更
https://news.yahoo.co.jp/articles/932a6a40df29ea0544d4e8f022e2571231eea6e3?page=1
最大震度7を観測した7月の熊本地震では、熊本県内の運動施設も被災し、発生から1か月が経過した今も利用できない状況が続いている。再開の見通しが立たない施設もあり、スポーツ界への影響が長期化する恐れがある中、一部では復旧に向けた動きも出てきている。
震度6強を観測した八代市の県営八代運動公園では、八代野球場の芝生が隆起し、ブルペンでは地面に亀裂ができた。陸上競技場も同様の被害を受けたが、施設の安全が確認できたとして一部が隆起するなどしたトラックを除き、12日から利用を再開する。野球場は被害調査を進めているが、再開時期は見通せていないという。公園長の平田彰臣さん(45)は「早く八代地域が日常を取り戻せるよう、日々の練習や体を動かす機会が失われている時間を一日でも少なくしたい」と早期再開に向けた思いを語った。
高校野球の会場などで親しまれている熊本市中央区のリブワーク藤崎台球場でも、地震で空調が落下するなどしたほか、外野の照明に設置してある約5メートルの避雷針が折れ曲がり、地震発生から利用できない状況が続いている。
同球場を本拠地とするプロ野球の独立リーグ・九州アジアリーグに加盟する「火の国サラマンダーズ」は地震の発生以降、ホーム戦6試合は延期となり、8月下旬から山鹿市民球場や大分県で振替試合を行うなど影響を受けている。野島雄大球団代表は「熊本のファンの近くで試合ができず、非常に悔しく感じている。厳しい状況でも変わらず応援してくださるファンの皆様に少しでも恩返しできる機会をつくっていきたい」とコメントした。
県高校野球連盟は、12日から藤崎台球場と八代野球場で九州地区高校野球熊本大会を開催する予定だったが、八代野球場から山鹿市民球場に会場を変更して開催することを決めた。藤崎台球場は再開に向けて補修を進めており、管理している一般財団法人「県スポーツ振興事業団」は「秋の県大会に間に合わせるように復旧に努めたい」としている。
県高野連の斎藤輝久理事長は「メイン会場の藤崎台球場が使えるめどが立ち、安心した。限られた環境の中で最大限のことをやっていきたい」と話した。
1960年に完成した藤崎台球場は施設老朽化などの理由で、県が2025年に移転再整備を決定。熊本市、玉名市、菊陽町、甲佐町の4市町が誘致先に名乗りを上げ、県は今秋をめどに移転先を決める予定だったが、熊本地震の発生を受けて年内の選定作業を凍結した。
田 辺 工-紀 北 工・南 部-那 賀
全試合雨天中止。。。
📝令和8年度秋季兵庫大会組み合わせ表
http://www.hyogo-koyaren.or.jp/homepagedata(R8)/26aki.pdf
💢東京学館の部長が6月15日から1年の謹慎 審査室会議で高校3件処分
https://news.yahoo.co.jp/articles/fe77f8a321d081d74338e7323df12399e0b0c20a
日本学生野球協会は8日、都内で審査室会議を開き、高校3件(うち1件は非公表)の処分を決めた。
東京学館(千葉)は昨年7月に当時2年生部員が起こした不祥事の報告義務違反で、部長(41歳・教諭)が26年6月15日から1年の謹慎処分となった。
今治南(愛媛)は監督(25歳・講師)の部内での不適切行為で26年8月12日から1カ月の謹慎とした。
☝人生は一度きり 中学教員から52歳でプロ球団副寮長→高校野球監督
https://news.yahoo.co.jp/articles/00a2d6235ce702e3f7fe68750b4b10df2d86b0a2
中学校教員から52歳でプロ野球選手寮の副寮長となった男性がいる。方谷学舎高校(岡山県高梁市)の硬式野球部監督、山本克也さん(59)。プロ選手と接した経験を生かして生徒たちを励ます。
兵庫県内の公立中学校で社会科を教えながら、軟式野球部の顧問を長く務めた。「野球を通じて子どもたちに色々なものを伝えてこられた自信があった」。だが最後の方では部員減や、練習時間の制限など時代の流れの中で、力を出し切れていない思いを抱いていた。
その頃、プロ野球のオリックスが若手選手の教育係を求めていると知った。学校現場で培った己の力は通用するのか。プロの世界にも興味があった。履歴書を送り、数回の面接を経て採用された。2020年4月、選手寮「青濤館」の副寮長に就いた。52歳での転身。「ためらいは全くなかった。1回きりの人生なので」
寮管理の雑務のほか、15人ほどの若手選手一人一人と毎月のように面談した。コーチとは違う立場の年配者として向き合い、精神面を支えた。高卒の新人も多くいた。
いまやエース級となった宮城大弥投手もその一人だ。1軍の公式戦で登板して帰寮後、その日の投球内容を一緒に振り返った。立場をわきまえ、助言めいたことは一切言わない。ただ感想を伝える。「とてつもなく最高の経験だった」
いまや中心選手となった紅林弘太郎選手もいた。ヤクルトとの日本シリーズ第1戦が近づく夜、室内練習場で、先発が予想される相手投手のカウントを取りに来る外角直球を右前に打つためだけの練習に汗を流していた。最初の打席で見事に実現した。プロ選手たちと過ごして得た確信がある。「メンタルをコントロールできる選手だけが、何年も続けて結果を出せる」
縁あって23年から方谷学舎高の教壇に立つ。高校野球の指導をしてみたい気持ちは前からあった。接したプロ選手たちの「息づかい」を引き合いに出しつつ、生徒たちと向き合っている。
「子どもたちと青空のもと野球をする幸せ」はかけがえのないもの――。兵庫県西宮市に住む家族と離れた単身赴任が続くが、この思いは消えることがない。
◇
山本さんに今の高校生に伝えたいことを聞いた。「なりふり構わず本音でやり合ってほしい。『愚かさを出すくらいならごまかしたい』『傷つかなくて格好悪くなかったらオーケー』という逃げ方をせず、誠実に生きていってほしい」
📝持ち帰らなかった銀メダル 作新学院主将を変えた、甲子園目前でのタイブレーク敗戦
https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/2026083100001-spnavi
地方大会の決勝で敗れ、甲子園にあと一歩で届かなかった選手がいる。そんな選手たちに「敗戦の美学」をテーマに話を聞いた。一人目は2025年夏、2年の時に栃木大会決勝で敗れ、今年は主将として戦った澤村友真(3年)。澤村は、1996年夏の甲子園決勝で1年生ながら劇的同点弾を放つも延長の末に敗れた、熊本工・澤村幸明氏(日本通運硬式野球部監督)を父に持つ。ちなみに父も3年夏には熊本大会決勝で敗れている。「負けた者は何を掴むのか?」。同じ「決勝での敗北」を経験した親子が、挫折の先で見出したものとは?
「大学1年から絶対にベンチに入って神宮でプレーする」
「もう、私だけなんですよ。まだロスなのは(笑)」2026年の夏を振り返りながら、母・慶子さんがそう笑った。
作新学院の主将・澤村友真(3年)の高校野球は、栃木大会準決勝で終わった。佐野日大に0―5。甲子園まであと2勝だった。埼玉の自宅へ戻ってからも、慶子さんはなかなか気持ちを切り替えられなかったそうだ。ところが、当の本人は違った。
「僕はもう次です。大学1年から絶対にベンチに入って神宮でプレーする。4年後にはプロに行きたい。そのために何をしなきゃいけないかを考えています」
関東の大学へ推薦入学するための準備に切り替えていた。夏休みの取材日だったこの日も1日練習を自主的にしてきたという。すでに木製バットを振り始めていた。
なぜ、これほど早く切り替えられるのか。話を聞いていくと、友真には一年前の夏から持ち続けてきた「宿題」があった。
2025年夏。作新学院の2年生レギュラーだった友真は「2番・遊撃」で栃木大会に出場した。決勝の相手は青藍泰斗。もちろん、勝てば甲子園だった。
1点リードしての5回裏、2死一、三塁の好機で打席が回ってきた。友真はここまで2打席無安打。前の打席では無死二塁でセカンドゴロに倒れ、好機を潰していた。
「あの打席ははっきり覚えています。完全に興奮していました。『絶対に俺が決めてやる』『初球から打ってやる』って。それしか考えていなかったです」
結果は初球を振って、二ゴロ。
「狙いを絞るとか、そういう冷静さが全然なかった。決勝の雰囲気に自分が飲まれていました」
作新学院は延長10回、タイブレークの末3-4で敗れた。友真は誰よりも泣き崩れ、立つことができなかった。
「先輩となら絶対に甲子園に行けると思っていた。負けるなんて、これっぽっちも思っていなかったんです。5回の場面は、『自分が決めてやる!』という欲と、球場全体の押せ押せムードに完全に飲まれていました。頭の中は絶対に初球から打ってやるということだけで、狙いを絞る余裕も、冷静さもありませんでした。結果、無理やり打ちにいって力ないセカンドゴロ。実はその前日にバットのグリップを変えて、感覚がいつもより太くなっていて、バットが出にくい感覚があったんです。でもそれは言い訳でしかなくて、結局は決勝の雰囲気に自分が負けていたんです」
持ち帰らなかった準優勝メダル
試合後に渡された準優勝メダル。悔しさが上回り、この時は価値のあるものとは思えなかった。「準優勝」という響きは澤村家にとって苦い記憶でもあった。父・幸明が1996年夏の甲子園、閉会式でかけたメダルも「銀」だったからだ。
「試合のあとも、銀メダルは見たくなかったんです。僕にとっては屈辱のメダルでした。周りは『準優勝でも凄い』と言ってくれるかもしれないけれど、僕にとっては自分の未熟さと弱さを示すものでしかありませんでした。『なぜ、神様は俺たちを甲子園に連れて行ってくれないんだ』と、最初は神様のせいにしていました。結局メダルは家に置いたまま。寮には持って行きませんでした」
当時の正直な気持ちを打ち明けた。
「でも、後からよく考えて、小針監督とも話して気づいたんです。『冷静さ』が足りなかった。タイブレークに入り、相手の代打が出た緊迫した場面で、仲間が浮き足立っている時にタイムをかけて、一声かけて落ち着かせてあげられる選手が、あの時の作新には誰もいなかった。指導者も選手も、みんなが決勝の雰囲気に流されていたんだと思います」
「どんなに状況が熱くなっていても、気持ちだけは絶対冷静じゃなきゃいけない。自分がキャプテンになったら、試合の流れを客観的に見て、スッとタイムを取って仲間の肩の力を抜いてあげられるリーダーになろうと思いました」
それまでの友真は「自分が打てばいい」という意識が強い選手だった。それが持ち味でもあった。しかし敗戦によって初めて、状況を見つめる客観性や冷静さの必要性を痛感した。「もうこんな思いはしたくない」。野球に向き合う姿勢が変わった。
監督不在、主将として迎えた試練
当たり前だった日常が、突然変わった。夏の大会を前に、作新学院は大きな転換点を迎えたのだ。2025年5月23日、小針崇宏監督が練習中に部員へ不適切な指導を行い、その部員が右手薬指を骨折したとして、6月9日に小針監督を指導から外した。日本学生野球協会は同20日、小針監督に6カ月間の謹慎処分を科した。
12月8日まで小針監督が謹慎となったため、夏の大会も新チームの始動後も、作新学院は小針監督不在の体制で活動していた。その中で、友真と上野大翔一塁手によるダブルキャプテン体制が組まれた。
「正直、最初はチームも不安というか、グラグラしていました。小針監督のときにあった張り詰めた空気がなくなって、甘えが出た部分もありました。緩いというか......。このままで大丈夫かという不安もありました」
監督がいなければ、自分たちで決められる。しかし、それは必ずしも「主体性」と同じではなかった。仲間にどこまで厳しさを求めるのか。何を基準に行動するのか。誰がチームの方向を決めるのか。友真は初めて自分たちで考え、自分たちでチームを動かさなければならない環境に身を置くことになった。
「俺たち、何のためにやっているんだ、と選手間で真剣に考えました。目標は小針監督をもう一度甲子園に連れていくことだろ!と言い合ったんです」
監督がいないから緩むのではなく、自分たちでやるしかない。
「主体性という部分では、あの時期があったことは大きかったと思います」
しかし、その友真自身にもアクシデントが起きる。2026年1月、練習中に左足小指を骨折。手術でボルトを入れ、春はプレーできない期間が続いた。
「キャプテンなのに自分が動けない。焦りはありました」
監督不在の期間を経て、今度は自分自身がグラウンドに立てない。光を見いだせない時期が続いた。
小針監督は謹慎期間終了後、2025年12月下旬から段階的に指導へ戻り、2026年4月に硬式野球部監督へ正式復帰。春季栃木県大会から再び公式戦で指揮を執ることとなった。友真も5月に戦列へ復帰。そこで意識したのが、小針監督との距離だった。
「先輩から『キャプテンがベンチの端にいたらダメだ。監督の近くにいろ』と言われ続けていたので、ベンチでは監督の隣にぴったりとついて、指示を聞いていました。父からも『分からないことがあったら、小針監督に怖がらずにどんどん質問しろ』と言われていたんです」とはいえ、最初は怖かった。ある日勇気を出して聞いてみた。
「『なんで、あの場面であの守備位置なんですか?』と思い切って聞いたんです。そしたら、ちゃんと答えてくれました。そこから1対1で野球の深い話ができるようになりました。監督がグラウンドで、僕に笑って声をかけてくれることも増えて、もう怖くないと思いました」
監督の右腕として考えを理解し、自分の考えも伝える。小針監督がいない時間を経験したからこそ、指導者との向き合い方も変わっていた。しかし、最後の夏にも試練は続く。準々決勝の守備で、イレギュラーバウンドしたボールが顔に当たり、額から出血。痛みは気にならなかったが、準決勝は病院で手当てした止血用ネットを額に巻いて出場した。結果は、佐野日大に敗れ、準決勝敗退。またもや甲子園の夢は破れた。試合後のミーティング。小針監督が話す前に、友真は3年生の仲間たちへ自分の言葉で話した。一つは感謝だった。
「僕は埼玉から来た、いわばよそ者です。それでもみんなが認めてくれて、キャプテンとしてついてきてくれた。本当にありがとう」
もう一つは、ベンチに入れなかった3年生への思いだった。
「夜遅くまでバッティングピッチャーをやってくれたやつもいた。肩や肘が痛いのに『明日も俺、準備できてるから』と言ってくれたり、メンバーを外れたやつが後ろから『雰囲気悪いぞ!』って声を出してくれたり。本当に支えてもらいました」
だからこそ、「スタンドのやつらに甲子園の景色を見せてあげたかった」それができなかったことを謝った。
2年夏の決勝では「俺が決める」と自分中心になっていた友真だったが、3年夏の最後には、自分の結果ではなく、試合に出られなかった仲間について話していた。それが成長の証だった。
「みんなと甲子園に行きたかった。だけど、悔いはありませんでした。強く思ったのは、甲子園に出た同級生には絶対に負けたくないです。5回行くつもりだった甲子園には、結局1度も行けなかったけど、大学で、結果を出します。僕が作新でやってきたことが間違っていなかったと証明したいです」
決勝敗退、監督の謹慎、自身の骨折、監督の復帰、最後の夏の負傷。思い通りにならないことの多い1年だった。しかし、その一つ一つを乗り越える中で、友真は「自分が打つ選手」から「仲間を見て、チームのために動けるキャプテン」へと成長した。敗戦は、甲子園への道を閉ざしたが、勝つことだけを追いかけていた選手に、仲間の存在と自分の役割を教えてくれた。だからこそ、高校野球が終わった今、友真はもう次へ向かっている。
「私だけまだ高校野球を引きずっている。切り替えが早くて置いてけぼりな気分です(笑)。もう作新のユニフォームを着て、みんなで野球をするところは見られないんだなと思うと、やっぱり寂しいです。作新学院の保護者の皆さんが本当にいい人ばかりで。作新に入って良かったって、心の底から思っているので。やっぱり寂しい......」
再び涙ぐむ母の言葉を聞きながら、友真は少し照れたように笑った。
「でも、大学でも野球を続けるから。まだ応援できるよ」
その一言に、慶子さんの表情が和らいだ。
「まずは大学で結果を出します」
そう言った友真は、すでに次の舞台を見据えていた。
💢熊本地震で八代野球場の芝生が隆起・ブルペンに亀裂、藤崎台球場も空調落下…高校野球大会の会場が変更
https://news.yahoo.co.jp/articles/932a6a40df29ea0544d4e8f022e2571231eea6e3?page=1
最大震度7を観測した7月の熊本地震では、熊本県内の運動施設も被災し、発生から1か月が経過した今も利用できない状況が続いている。再開の見通しが立たない施設もあり、スポーツ界への影響が長期化する恐れがある中、一部では復旧に向けた動きも出てきている。
震度6強を観測した八代市の県営八代運動公園では、八代野球場の芝生が隆起し、ブルペンでは地面に亀裂ができた。陸上競技場も同様の被害を受けたが、施設の安全が確認できたとして一部が隆起するなどしたトラックを除き、12日から利用を再開する。野球場は被害調査を進めているが、再開時期は見通せていないという。公園長の平田彰臣さん(45)は「早く八代地域が日常を取り戻せるよう、日々の練習や体を動かす機会が失われている時間を一日でも少なくしたい」と早期再開に向けた思いを語った。
高校野球の会場などで親しまれている熊本市中央区のリブワーク藤崎台球場でも、地震で空調が落下するなどしたほか、外野の照明に設置してある約5メートルの避雷針が折れ曲がり、地震発生から利用できない状況が続いている。
同球場を本拠地とするプロ野球の独立リーグ・九州アジアリーグに加盟する「火の国サラマンダーズ」は地震の発生以降、ホーム戦6試合は延期となり、8月下旬から山鹿市民球場や大分県で振替試合を行うなど影響を受けている。野島雄大球団代表は「熊本のファンの近くで試合ができず、非常に悔しく感じている。厳しい状況でも変わらず応援してくださるファンの皆様に少しでも恩返しできる機会をつくっていきたい」とコメントした。
県高校野球連盟は、12日から藤崎台球場と八代野球場で九州地区高校野球熊本大会を開催する予定だったが、八代野球場から山鹿市民球場に会場を変更して開催することを決めた。藤崎台球場は再開に向けて補修を進めており、管理している一般財団法人「県スポーツ振興事業団」は「秋の県大会に間に合わせるように復旧に努めたい」としている。
県高野連の斎藤輝久理事長は「メイン会場の藤崎台球場が使えるめどが立ち、安心した。限られた環境の中で最大限のことをやっていきたい」と話した。
1960年に完成した藤崎台球場は施設老朽化などの理由で、県が2025年に移転再整備を決定。熊本市、玉名市、菊陽町、甲佐町の4市町が誘致先に名乗りを上げ、県は今秋をめどに移転先を決める予定だったが、熊本地震の発生を受けて年内の選定作業を凍結した。