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⚾今日の近畿学生野球結果(大阪シティ信用金庫スタジアム)
第1試合 奈良学園大-大阪公立大 8:58~10:44
          一二三四五六七八九十計HE
      阪 公 大01000     152
      奈 学 大2262X     12140

第2試合 和歌山大-大阪工業大 11:29~13:53
          一二三四五六七八九十計HE
      大 工 大0010010   282
      和 歌 大0030051x   990

第3試合 神戸医療未来大-阪南大 14:35~16:34
          一二三四五六七八九十計HE
      阪 南 大000000000 040
      神 医 大00000111X 380

 先週金曜日の紀三井寺よろしく天気が非常に心配された本日・・・最悪、今週末がダメなら来週末それでもダメなら予備日の16日まで視野に入れていた舞洲行きですが、、、、、
フタを開けてみたら午前中を中心に晴天で風もきつく30度前後の熱さで程よい天候でした!

2020年夏のコロナ騒動での中止の代替企画で西九条~舞洲までどれだけ時間かかるか?往復できるだけの体力はあるか???と試したところ1時間強で行けるし、体力的にも問題ないことが分かり以来毎年駅リンくんを借りてましたが・・・・・。

今朝初めて知りましたがなんと・・・10月末で西九条の駐輪場は廃止と☟☟💢。。。あれは本当にショックでしたね。ある意味、宇治山田駅前の明倫商店街が火事にあった以上に心にポッカリと穴が開きつつ、舞洲までのラストランを楽しみ、最後なんで普段行かない海岸線やなぜかしら夢洲にまで・・・・・。


https://www.ekiren.com/ekirinkun
西九条店は2026年10月31日(土)をもって閉店させていただきます。


バスの混雑回避が主目的なんで、、、今度から夢洲駅から歩いて舞洲に行くか?北港ヨットハーバーのバス停まで歩いて移動し、JR大阪駅まで帰るか?????
自転車だからこそ楽に移動できたが、歩きとなるとあの橋の急斜面を昇り降りするのも一苦労で・・・・・。

そして、近畿学生野球に5回コールドが適用されるとも知らず京滋大学野球よろしく「せめて7回まで観戦させてくれ」という願いも虚しく・・・・・。
舞洲上陸しても自転車は最後かあとブルーだったし、新大阪から舞洲自転車移動は現実的ではないと思われるが、、、、、いっぺん試してみようかな???よほど最短ルートを発掘しなければ。

そんなわけで信金スタジアム入ってホームベース延長線上の前から3番目の座席確保してすぐにラジコで9/1の『ボックス火曜日』聴いてました。
ずっと独身貴族と信じて疑わなかった平井アナが実は女房子供持ちでお孫さんまでいるようなことを先週の放送で2度ほど話していたし、魔性系疑惑が浮上した関 陽菜子アナもハツラツと長野弁を隠して標準語で話し当初は声の震えが目立っていたが、「平井アナウンスセミナー」のおかげか?ずいぶん聞き取りやすくなったなあと3年目の夏に才能開花?!できれば和歌山に定住して欲しいが。。。

3試合中2試合がコールドで第3試合はずいぶんテンポよく16時34分終了と早すぎる終戦。ふと東側を見ると隣の『舞洲日本ハム桜グラウンド』でナイター点灯していたので、自転車漕いで移動したら   

高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ2026 関西1部 第10節「セレッソ大阪U-18 vs 京都サンガF.C.U-18」  が17時キックオフと・・・。

球場外周反時計回りで歩いてから一応試合開始直前にスタンド入りして17時05分までナイター観てましたが、、、グラウンドと客席がすぐそばなんでサッカーボールが飛んで来る危険性が!!!

天気も問題なさそうなんで、1時間30分ほどサイクリング楽しんで西九条に自転車返しました。大阪大会もあるけど、年内舞洲に行く予定もないしあえてこさえようとも思わないので。。。
また、来春あらたなアクセスを地道に開拓して最善尽くせたらと思います!

⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(9日目 準決勝 田辺SP球場)
    09:00~  神 島 -市和 歌山
  ☆ 11:30~  日 高 - 桐 蔭 

⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(初日 1回戦)
上富田球場
  ☆ 09:00~ 和歌山高専-智弁和歌山
    11:30~  海 南 -串本 古座
    14:00~ 和歌 山北- 粉 河

田辺SP球場
    14:00~ 県和 歌山- 向 陽

👣青森山田高野球部監督の兜森氏退任、24年は全国4強 後任は中條氏
https://news.yahoo.co.jp/articles/2d06cf20c0c3234612014f5deb77f622faaa60db

青森山田(青森市)野球部の兜森崇朗監督(47)が4日までに退任したことが分かった。本人が取材に明らかにした。同校の教員は続けるという。後任は青森山田中野球部監督の中條純氏(35)。チームは6日に秋季東北地区青森県大会の初戦を迎える。

青森山田は今夏の青森大会で優勝し、全国選手権1回戦で遊学館(石川)に勝利。2回戦で東日大昌平(福島)に敗れた。

兜森氏は青森市生まれ。青森山田では2年夏からエースで、3年の青森大会で準優勝。青森大を卒業し、青森山田のコーチや副部長を務めた後、2015年8月に監督に就任。24年春の甲子園では全国8強、24年夏は全国4強に導いた。

📝「俺は甲子園に行かれへん男や...」大阪桐蔭・西谷浩一が"持ってない監督"だった頃 何度も閉ざされた聖地の扉
https://news.yahoo.co.jp/articles/16a504746f566bca53ed2e24e41057f632b83ffc

名将たちの甲子園初出場物語 西谷浩一(前編)

西谷浩一は関西大学を卒業した1993年春、社会科教諭として大阪桐蔭に赴任し、同時に野球部のコーチとなった。出身高校は兵庫の報徳学園。その西谷を大阪桐蔭へとつないだのは、当時監督だった長澤和雄との縁だった。

【きっかけは「SSKのおっちゃん」との再会】

今春、関西大が54年ぶりの大学日本一に輝き話題になったが、前回日本一となった1972年、剛腕・山口高志を擁するチームで4番を務めていたのが長澤だった。西谷にとっては大学の大先輩にあたる。しかし、それ以上に西谷にとって長澤は、報徳学園時代にスポーツメーカーの担当者としてグラウンドに出入りしていた「SSKのおっちゃん」だった。

転機が訪れたのは、西谷が大学3年だった1991年春。関西学生野球連盟の独立10周年を祝うパーティーでふたりは再会する。かつての「SSKのおっちゃん」は高校野球の世界に身を転じ、直前の選抜大会に初出場し、ベスト8まで勝ち上がった大阪桐蔭の監督になっていた。

「すごいですね。びっくりしました」
「元気にやってるか?」

再会を喜んだふたり。その直後、春のリーグ戦で関西大は19年ぶりの優勝を果たし、大学選手権でも準優勝する。そして秋のリーグ戦後に開かれた祝勝会で、西谷は再び長澤と顔を合わせた。今度の長澤は、春夏連続出場を果たした甲子園で大阪桐蔭を日本一へ導いた「全国制覇監督」になっていた。その後、西谷のもとへ長澤から連絡が入る。

「卒業したら、ウチでコーチをやってみんか」

西谷が当時を振り返る。

「ただ、僕のなかではまだ野球がしたくて。まったく大した選手じゃなかったんですけど、30歳くらいまで社会人で現役を続けて、それから教員になって高校野球ができたら......という思いを持っていたんです。だから当初は、やんわりお断りさせてもらったんです」

ところが、4年生になっても社会人野球から声はかからないまま、時間だけが過ぎていった。そこへ、当時関西大のコーチだった豊島光男(のちに関大一校長などを歴任)と長澤が高校時代の同級生だった縁もあり、再び誘いを受ける。西谷もついに決断し、道は大阪桐蔭へとつながった。

【西谷の前に立ちはだかった巨大な壁】

1993年春、晴れて大阪桐蔭のコーチとなった西谷が足を踏み入れた大阪の高校野球界は、「まだまだPL、PLの時代でした」と振り返る。なによりPLの巨大な壁を感じたのが、選手集めだった。

「『コイツや!』と思った選手を見つけて、チームに何度も足を運んで誠意を見せたら来てくれると思っていたんです。でも、『見つけた!』と思ってチームの人にあいさつに行くと、ことごとく『PLに決まっています』と。もちろんPL以外にも上宮、近大附、県外の学校......と競争相手は多かった。いい選手を見つけさえすれば、あとは鍛えればいいと思っていたのが、そこまでいかない。まず、そこに気づかされたんです」

厳しい現実を突きつけられたコーチ生活のスタートだった。コーチ就任1年目の1993年夏は、阪南大高に敗れて初戦敗退(2回戦)。94年はPL学園、95年は上宮に、ともに4回戦で敗れた。96年は準決勝まで勝ち上がったものの、再びPLに屈した。

「甘くはない。勝てなかったですね」

宿敵PLに夏の大阪大会で初めて勝ったのは、1997年の準々決勝だった。大乱打戦の末、最後はサヨナラ本塁打。劇的な決着だった。すると試合後、新聞記者が西谷のもとへやってきた。

「中村(順司)監督が呼んでいます」

それまで中村とはほとんど言葉を交わしたことがない。呼ばれる理由に心当たりもなかった。「勝って、はしゃぎすぎたから怒られるんかな......」と、そんなことを考えながら急いで向かうと、中村は柔らかな表情で思いもよらない言葉をかけた。

「こういう試合を勝った次が、うまくいかんことが多いんや。今日は寮に帰って、選手全員を集めて引き締めなアカンぞ。それは監督の仕事じゃなく、コーチの仕事や。しっかり君がやって、頑張って甲子園に行けよ」

西谷は衝撃を受けた。

「負けた直後に、そんな言葉をかけてもらって。なんて器の大きい人なんだと感動しました。それと同時に、『絶対あと2つ勝って甲子園に行く!』と思ったんですけど......」

しかし翌日の準決勝、下馬評では優位と見られていた履正社に1対2で競り負けた。この夏、履正社は初の甲子園出場を果たす。さらに翌1998年。記念大会で大阪が南北に分かれ、代表校が2校となった。PLともブロックが分かれ、西谷たちは北大阪で選抜準優勝の関大一をターゲットに定めた。ところが、その関大一と対戦する直前の3回戦で、金光第一(現・金光大阪)に敗れた。

6年間のコーチ時代、大阪桐蔭は一度も甲子園に届かなかった。そして1998年秋、西谷は29歳で監督に就任することになる。

【中村剛也、岩田稔を擁しても届かなかった聖地】

それは校長からの突然の通達だった。西谷を大阪桐蔭へ誘った長澤について、校長からは「いったん相談役のような形でチームの外から野球を見てもらう」と説明された。同時に、西谷が結果を残しても1年後には長澤を監督に戻すという話だった。年上のコーチ、有友茂史(現・部長)もいるなかで複雑な思いはあったが、長澤本人に相談したうえで就任を受諾した。
しかし監督として初めて挑んだ1999年夏は、履正社に初戦敗退(2回戦)。秋が近づくと、西谷は「いつ交代になるのか」と校長のもとへ確認に向かった。すると、思わぬ答えが返ってきた。

「今、野球部がいい感じになっているように見える。あと2年やってくれ」

夏の結果とは別に、教員である西谷が監督になったことで、選手たちの学校生活にも落ち着きが出てきた。学校側は、そんな変化も感じとっていたようだった。監督続投は2年間。ただし、この時も「甲子園に行ったとしても、あと2年で長澤を戻す」と念を押され、西谷は「もちろんです」と即答した。

2000年秋、エースの岩田稔、4番の中村剛也が2年生、西岡剛が1年生ながら遊撃を守ったチームはPLを破り、大阪大会準優勝。近畿大会でもベスト8へ進んだ。近畿地区の選抜出場枠は6校。戦いぶりから見ても、通常なら選抜出場の可能性は十分にあった。ところが、この年は大阪のほかの2校、関西創価と浪速がそろって近畿大会ベスト4入り。大阪から3校目となる大阪桐蔭は選ばれなかった。またしても、甲子園が逃げていった。

そして、約束の上では西谷にとって監督最後の夏となる2001年。「ナニワのカブレラ」の異名をとった中村を軸とする打線は凄まじい破壊力で大阪を勝ち上がり、ついに決勝へ進出する。
上宮太子との決勝では初回に5点を奪われながら、土壇場で追いついた。しかし、エース岩田はその年の初めにI型糖尿病を発症。野手までマウンドへ送るなど、総動員でしのいできたが、延長11回、5対6と最後に力尽きた。

「これまでで一番練習したと思えるチームで、人間的にもいいヤツがそろっていた。でも、勝てない。これでもアカンのか、甲子園には届かんのか......と」

【なんでこんなに甲子園に嫌われるんや】

西岡が主将となった秋も大阪大会で敗退。ここで長澤が監督に復帰し、西谷はコーチへ戻った。すると翌年夏、戦力的には決して高い評価を受けていなかったチームが、あれよ、あれよと勝ち上がり11年ぶりの甲子園出場を果たした。西谷にとっては、強烈な光景だった。

「あのチームは、僕が監督をやっていたら絶対に勝たせてやれなかった。僕ならチームの力が足りないと思う分、『よそが3時間なら5時間やろう』と、ひたすら練習させていたはずです。でも長澤さんは、選手たちを普段は放牧させているように見せて、締めるところでは締める。手綱をうまくさばいて、気がつけば選手たちがその気になっていた。あそこで11年間遠ざかっていた甲子園への重い扉が開いたんです」

喜びはもちろんあったが、同時に自らの力不足を嫌というほど思い知らされた。ここから長澤監督の時代がしばらく続くかと思われた。しかし甲子園で初戦敗退すると、学校との話し合いのなかで長澤の退任が決まる。西谷が再び監督に戻ることになった。

「長澤さんが辞めるなら、僕も......」

そう伝えた西谷に、長澤は「それは違う」と諭した。そして2002年秋、西谷は2度目の監督生活をスタートさせる。
監督復帰後初めて迎えた2003年夏は、PLに敗れて5回戦敗退。しかし、1年生の平田良介が4番に座った秋は近畿大会を制覇し、神宮大会でも準優勝。翌春の選抜出場は確実だった。

あとは発表を待つだけ──。ところが1月半ば、過去の部員をめぐる案件が問題視され、その責任を取る形で、西谷は選抜出場校の発表を前に監督を辞任する。選抜はコーチだった田中公隆(現・聖隷クリストファー監督)が指揮を執り、2回戦で敗退した。ようやくたどり着いたと思った甲子園に、またしても立つことができなかった。

「落ち込みました。俺って、そんなに悪いことしてるか......。なんでこんなに甲子園に嫌われるんや、って......」

負の流れは、まだ終わらなかった。気持ちも新たに挑んだ2004年夏。2年生の平田を軸とした攻撃陣に投手陣もそろい、3年ぶりに決勝へ進出する。相手は宿敵PL。十分に勝算はあった。延長15回を戦い、4対4。大阪大会決勝として史上初の引き分け再試合となった。翌日の再試合では、PLの先発だった1年生・前田健太から7点を奪った。それでも勝てなかった。3年前に続いて決勝で敗れ、またも甲子園を逃した。

「縁がない、運がないというか、周りの人から『西谷はよう頑張ってるけど、持ってないな』と思われてるんやろうな、というのをすごく感じました。自分でも、『俺ってやっぱりそういう運命、そういう人生なんや』と。あの頃はずっとそんなことを思っていましたね」

【失意の西谷をさらにへこませた宮本慎也のひと言】

しかも、この決勝再試合には、西谷の傷口に塩を塗るような"後日談"までついてくる。

「再試合で負けた次の日、日体大のセレクションに、今コーチをしている橋本(翔太郎)を連れて前泊で行くことになっていたんです。僕は用事があって橋本を先に行かせて、最終近くの列車に乗った。そうしたら、車内の電光掲示板のニュースに『甲子園最後の一枠PL 激闘で大阪桐蔭を下す』って出て、それが繰り返しずっと流れてるんです。それを見て、『また俺は何をしてるんや......』と」

話は、まだ終わらない。

「東京行きの新幹線が名古屋に着いたところで、古田(敦也)さんと宮本(慎也)が乗ってきたんです。おそらくナイターが終わって、泊まらず東京へ帰るところだったんでしょう。向こうはグリーン車でしょうから、飛び乗って通路を歩いていたところで宮本が僕に気づいて、『おっ、ありがとう』って。年齢は僕がひとつ上ですけど、浪人しているので、大学では同志社の宮本と関大の僕は同学年で戦っていたんです。たぶん『PLを甲子園に行かせてくれてありがとう』という感じだったんでしょうけど、こっちは『なにがありがとうや......』という気分ですよ。それより『俺は甲子園に行かれへん男や......』と、新幹線の中で、そこからまたへこんでました」

今の大阪桐蔭を知る者からすれば、信じられないような言葉である。だが、試練はまだ続いた。辻内崇伸、平田良介が投打の軸となり、大きな期待を集めた2004年秋。大阪大会4回戦で上宮太子に、まさかのコールド負けを喫する。

「辻内が普通に打たれて、こっちは打てず。完敗でした」

まさに、ことごとく──。あと一歩まで行けば、逃げていく。手を伸ばせば、遠ざかっていく。「甲子園に嫌われている」と、西谷自身がそう思わずにはいられないほど、何度も何度も聖地への道を閉ざされてきたそんな西谷に、最後の一歩を越えさせたのは、16歳の怪物だった。

⚾岩手さんへ
お久しぶりです。9月に入り台風の影響などもあり長雨のせいで猛暑も一段落しつつありますが、晴れたら熱い今日この頃お元気でしょうか?

さて、僕は夏の甲子園総括の雑誌をまだ表紙すら観ずに過ごしておりますが、、、今日の帰り梅田の本屋に寄ったけど来年の手帳をもう置いているか?偵察しただけで帰りが遅くなるのでスポーツコーナーは割愛してました、、、

しかし和智弁が全国制覇するとは大会前(和歌山)県民は誰も想像できなかったでしょうね・・・・・。僕自身も、社は辛いなあ・・・明石商の方がもっとイヤやったけど、、、ああいう『柔よく剛を制す』タイプの細かい野球するところは和智弁苦手やから・・・と。
アナウンサー歴40年の平井 理弘アナも実は「う~~~ん。今年の智弁は甲子園に行っても、、、1つか2つ勝てるかどうかじゃないかなあ・・・」とクールに分析されてましたから。

最大の殊勲者は愛知から来た山田捕手でしょうね。僕は彼の打撃を全く信用していなかったので、彼が4番を任されている時点で打線に関しては歴代のチームでも下から数えた方が早いと見てましたが。初戦でナカタニの不可解な継投で2-0で逃げ切るはずが、1点差に迫られなおも1死3塁の大ピンチでまさかのエンドランをウエストして外し3塁走者封殺が大きなポイントかと。
あとは2戦目の敦賀気比戦でショートフライ落球で走塁放棄して不本意なアウトとなった94年春初優勝メンバーである川原選手の息子さんが8回表起死回生の2点タイムリーツーベースを打ったのが。もっと驚いたのは高嶋先生時代には考えられない平安よろしくブルドックシフトで延長10回無死1・2塁からのバント3塁封殺でピンチ脱出と。あんな守備は智弁じゃないと!!

あとの3試合はもう流れですね・・・。なぜかしら最後の最後にナカタニの優しさが出て相手主将に2ランホームランをプレゼントしてぬか喜びさせてからの地獄に突き落とすようなしつこいスクイズ攻勢で相手捕手の金玉破壊までして不幸のどん底にまで落とされましたね・・・・。ある意味3-11や1-7で完敗した方が「やはり相手の方が力が上だった」とサッパリできますが、1点差の敗戦は相当ダメージが残りますよ!

ジャンル云々と言われたら・・・ここをよく見てはる閲覧者の方々は大会期間中に歴代5位タイ甲子園51勝監督の逝去や巨人・西武で捕手として活躍し、現在は仙台六大学野球リーグ・東北学院大の監督を務める星孝典監督の娘で学生コーチ兼マネジャーをしてはるマスコミがやたら話題にしていた女の子の話題を一文字も書かなかったことでお察し通りとしか言いようがないかな(笑)

せやけど、彩星工科(村野工業)の監督をされている横浜高校平田前監督はそない悪い人には思えないし(今の監督の方がルポライターの柳川さんが再三告発しているようによほどいわくつきかと・・・)初代カンドクの淡路島サンズに横浜高校卒業して即入団した叶くん(たしか渡辺監督最後の夏に背番号20でベンチ入りし準優勝)は他球団ながら一目置いてお声がげさせていただきちゃっかりサインもらいました!

健康福祉大に関しては。。。今回も八幡商・天理が苦汁を舐めたし、天理はこれで1勝3敗・・・。他にも下関国際・神村学園・工大福井・明豊その他モロモロ苦境に追いやられたので・・・。
甲子園初戦突破率の高いチームはやはり好きにはなれないですね・・・。青柳監督が3年春に甲子園出た時には初戦で新田に1-9で完敗したようですが『こういうのがイイんだよ!』って感じですね。僕にとっては。

どういうわけか???昨夏は初戦敗退でクニに帰ったけれど今年は6試合やりましたね。相変わらず僕にご当地アイドルと間違えられた応援部が着物と袴着用してメガホン両手に目立ってましたが、2年前は6人でホノボノとしていたようですが、今では25名程度に増殖しそのうち48人揃えるのでは???と。
実際、昨春試合前に話してみたら謙虚なお嬢さんたちで、パインアメの差し入れとともにここのアドレスを手書きで添えてteacup.時代の掲示板の表紙渡してスカウトした手前、あんまり厳しいことは書けませんが、、、、、まあ。なんとか前橋育英や桐生一・樹徳どこでもエエから奮起を促したいですね。
2026/09/05(土) 23時18分51秒 No.2602 編集 削除