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⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(8日目 準々決勝 紀三井寺球場)
日 高10-4田 辺・桐 蔭3-2和歌山東
日高・和歌山東は二次予選進出決定!!
📝「仙台育英と間違われていませんか?」 "育英"の名を轟かせた1993年夏 全国制覇の主将は今、母校の監督に
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca1b2e2cb0656c1fb049f5a33201ff617beb0e08
深紅の大優勝旗から33年〜育英、復活への挑戦(前編)
取材の申請を行なった際、スマホの向こう側から拍子抜けするほど正直な言葉が返ってきた。
「うちで大丈夫ですか? 仙台育英さんと間違われていませんか?」
声の主は、兵庫・育英高校野球部を率いる安田聖寛である。無理もない。これまで、春夏通算19回(春13回、夏6回)の甲子園出場を誇る兵庫屈指の名門も、2005年春の選抜大会を最後に聖地から遠ざかっている。その後、2013年夏に前橋育英(群馬)が全国制覇を果たすと、2022年夏には仙台育英(宮城)が東北勢初の日本一を達成した。全国の高校野球ファンにとって、「育英」といえばその2校を想起させる時代なのかもしれない。
【地元・兵庫から甲子園に行きたい】
しかし、高校野球の歴史を紐解けば、兵庫の育英も燦然と輝く実績を残している。巨人のV9時代を支えた土井正三、近鉄ひと筋で歴代4位の317勝を挙げた鈴木啓示、今季限りで現役を引退する"ミスター・ライオンズ"栗山巧ら、名だたるOBたちがその伝統を築き上げてきた。
そして、忘れられないのが1993年夏だ。育英は創部初となる全国制覇を達成した。のちに近鉄やソフトバンクなどで活躍した大村直之らとともに、主将としてチームを牽引したのが安田だ。
「選手として1992年春と1993年夏の2回、甲子園に出させてもらいましたが、本当に野球がうまくなる場所だと思いますね。心がきれいになるというか、させてもらえるというか......。チンタラしたり、いい加減なことをしていたら許さないぞ、というお叱りを頂戴する場所だと思っています」
母校の指揮官に就任して15年目になる。自身が歩んできた激闘の記憶と、伝統校の誇りを取り戻すための戦いは、中学生時代の「ある選択」から始まっていた。兵庫県西宮市で生まれ育った安田は中学時代、硬式野球チームで白球を追っていた。高校進学は、当時、全国の球児の憧れだった大阪のPL学園か、父の母校である北陽(現・関大北陽)を希望していた。
「最初はずっとPLに行きたかったのですが、父から『大阪なら北陽以外はあかん』と言われたんです。そこで、僕自身も、父が叶えられなかった甲子園の夢を北陽で叶えるんだとずっと思っていたんです。でも、中学3年の夏に運命が変わりました」
1990年、育英はエースの戎信行(元オリックスなど)を擁し、33年ぶりに夏の甲子園へと出場。テレビの画面越しに見る洗練されたアイボリーのユニフォーム、そして地元・兵庫の代表として甲子園で躍動するナインの姿に、一瞬で心を奪われた。
「中学のボーイズリーグの先輩がふたり試合に出ていたということもあって、やっぱり地元の兵庫から甲子園に行きたいという考えになりました」
土壇場で志望校を育英へと変更。そして1991年春、期待を胸に名門の門をたたいた。
【甲子園でランニング本塁打】
前年の甲子園出場効果もあり、同学年には優秀な選手が集まっていたが、安田は1年春の段階から実力を認められ、着実に実戦経験を積んでいく。
同年秋、兵庫大会を3位で通過。迎えた近畿大会は準々決勝で敗退し、翌年、2年時の春の選抜は補欠校に回されたが、出場予定だった神戸弘陵の辞退により、代替校として繰り上げ出場。チームは15年ぶりとなる春の甲子園でベスト8まで勝ち進んだ。
安田自身も2年生ながら主力選手として好結果を残す。初戦の駒大岩見沢(北海道)戦。この年からラッキーゾーンが撤去され、両翼が5メートル、最深部が8メートル広くなった甲子園でランニング本塁打を放ち、全国にその名を知らしめた。
「1学年上の松井秀喜さんがラッキーゾーン撤去後初の本塁打を含む3本塁打をマークした大会でもありました。僕もランニング本塁打を打ちましたが、『安田って誰だ?』なんて言われましたね(笑)。でも、浮かれた気持ちはありませんでした。私や大村を含めて2年生のレギュラーが4人いましたし、甲子園で野球をやるために育英を選んだんだという強い思いと、自分の名前より、育英の名前を全国に売ってやろうという気持ちで必死でした」
しかし、チームは2年夏の兵庫大会でベスト4に終わり、甲子園切符を逃す。新チーム結成にあたり、主将に指名されたのが安田だった。日下篤監督(当時)が1、2年生を集めて口にしたのは、「甲子園ベスト4」。選抜の8強を超えるための高い目標だったが、秋の兵庫大会は2回戦で敗退。翌春も県ベスト8止まりと、決して順風満帆とは言えない道のりだった。
それでも、新聞や雑誌の展望記事は「夏の本命は育英」という文字が並んだ。春の近畿大会を制した姫路工や、前年夏の覇者・神港学園など、強豪ひしめくなかでも、当時の育英が持つポテンシャルは群を抜いていた。
それを象徴するのが、1993年夏の兵庫大会決勝だ。近畿王者・姫路工との一戦は7回まで0対0と、手に汗握る投手戦となった。
「5回ぐらいでしたか、たしか一死三塁のチャンスがあって、僕が三振を取られたんです。自分で言うのもなんですが、普段はあまり三振しない打者だったんです。あの時は自分に対してイライラしてしまって。とにかくひとつのミスも許されない緊迫した雰囲気でした。姫路工さんは本当に強かった。もしかしたら、甲子園に出ていたチームより強かったかもしれません」
試合は8回に1点を先制し、そのまま1対0で兵庫の夏を制した。優勝候補の重圧を跳ね返したチームは、勢いそのままに聖地へと乗り込んだ。
【怒涛の快進撃で夏の甲子園決勝に進出】
1993年夏の甲子園、育英の快進撃が始まった。初戦の秋田経法大付(現・明桜)を14対4、2回戦の旭川大高(現・旭川志峯/北北海道)を11対3と、圧倒的な打力で退けた。続く3回戦の相手は横浜商大高(神奈川)。これまでの大勝とは打って変わり、1点を争うしびれる接戦となった。
「先制されては取り返して、という展開でした。不気味だったのは、うちが勝ち越しても、相手ベンチがガクッとなる様子がいっさいなかったこと。『打ち返せばいいじゃん』という関東チーム特有のノリというか、堂々とした雰囲気に凄みを感じましたね」
最終的に5対4と接戦を制してベスト8に進出すると、準々決勝の修徳(東東京)戦、準決勝の市立船橋(千葉)戦と、関東勢との激闘が続いた。のちにプロで活躍する高橋尚成(修徳−駒澤大−巨人など)、大学で同僚となった1学年下の小笠原孝(市立船橋−明治大−中日)といった好左腕と対峙したが、育英の打線は揺るがなかった。
「うちのキーは3番打者の大村でした。彼は左投手をまったく苦にしなかったので、だから1番の僕や、2番の岡本(健二)が出塁すれば、大村がなんとかしてくれるという信頼感がありました。高橋くんのスクリューボールを見極め、小笠原のストレートをコンパクトに弾き返す。対策が見事にはまりました」
全国の並み居る強豪を打ち破り、ついにたどり着いた決勝の舞台。新チーム結成時に掲げた「甲子園ベスト4」という目標は、すでに通過点となっていた。横浜商大高との激闘を制した頃から、チーム内には「上を狙う」という本気の思いがみなぎっていた。
そして、1993年8月23日。春日部共栄(埼玉)との決勝の朝を迎える。地元・兵庫代表として甲子園を埋め尽くす超満員の観客。満を持して臨んだ最後の戦いで、安田はアクシデントに見舞われることになる。
つづく>>
📝「甲子園は行きたいから行ける場所ではない」 全国制覇から33年、母校・育英を率いる安田聖寛が待つ"聖地からの迎え"
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/08/19/_33/?utm_medium=referral&utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2026%2F08%2F19%2F_1993%2F&utm_source=news.yahoo.co.jp
【決勝戦で襲ったまさかのアクシデント】
「前日まではリラックスしていたと思います。ただ、グラウンドに水が撒かれ、ラインが引かれたあたりから、絶対に兵庫へ優勝旗を持ち帰らなければならないという、ある種の使命感のようなものがありましたね。兵庫対埼玉のプライドのぶつかり合いだと捉えていました」
初回、育英は好スタートを切り2点を先制する。しかし、その後は春日部共栄の2年生左腕・土肥義弘(元西武など)の粘り強い投球の前に追加点を奪えず、じわじわと追い上げられる展開となった。
「初回に2点を取りましたが、ここで3点目が取れたと思うんです。最高のスタートなのですが、あと1点が取れなかったことを、選手たちが引きずっている感じはありました」
安田がアクシデントに見舞われたのは5回表、同点に追いつかれた直後の二死一、三塁の場面だ。一塁走者が盗塁を試み、二塁手としてベースカバーに入った際に左膝付近をスパイクされてしまう。
「タッチアウトにしてチェンジになり、ベンチに帰ろうとして立ち上がろうとしたら立てませんでした。脚を見て、『絶対に無理だ』と直感しました。ユニフォームは破れていないのに、中の皮膚がざっくりと裂けて血があふれ出ていたんです」
救護室に運ばれたが、傷口は深く、緊急でテーピングを巻く応急処置が施された。周囲からは交代を勧められたが、主将としての執念がそれを拒んだ。
「次の回、僕から始まる打順だったんです。『とにかく出ます』と言って、痛み止めを飲み、バッターボックスに立ちました。効くわけがないんですけどね(笑)」
そんな状態で満足のいく打撃ができるはずがない。なんとか打球を前に飛ばすことはできたが、一塁まで走ることすらできずにそのまま途中交代。すぐさま救急車で近くの病院へと搬送された。試合経過を伝えるラジオの音声が響く処置室で、麻酔すら打たず、傷口を3針縫う処置を受けた。
「傷口を縫うことよりも、ラジオのほうが気になって、『俺がおらんくて、ちゃんとやってるかな』とソワソワしていました。処置が終わるとすぐタクシーに飛び乗り、球場へ戻りました」
【全国制覇の先に選んだ明治大】
8回裏、育英の攻撃中に、痛みすらも忘れてベンチに帰還。脚は曲がらない状態だったが、主将の姿にベンチは大いに盛り上がった。勢いを取り戻したチームは勝ち越しに成功。そのまま3対2で逃げきり、初の甲子園優勝を果たした。その後は宿舎ではなく、病院に戻り、5針を追加した。
安田がマークした「1大会10四死球」は、夏の甲子園の最多タイ記録となっている。「フォア・ザ・チーム」を体現した結果、夢にまで見た深紅の優勝旗を手にすることができたのだ。
「本当に漫画みたいですよね。試合後の表彰式で、優勝旗を受け取る時は踏ん張れず、倒れそうになりました(笑)。でも、仲間と一緒につかんだあの瞬間の光景は、生涯忘れることはありません」
卒業後は社会人に進む予定だったが、高校日本代表で同僚となった山根雅仁(元広島)や金子誠(元日本ハム)らのレベルの高さに刺激を受け、東京六大学リーグの明治大学進学を希望するようになる。日下篤監督から「おまえごときが行っても4年間草むしり。明治のレベルをなめたらあかんぞ」とまで言われたが、安田の意志は固かった。
「ありがたいことに高校で負けずに引退させてもらったからこそ、試合に出ることができなくてもいいので、とんでもない世界を見たかったんです。そういう形で明治さんを受験させていただき、進学することになりました」
伝統の「人間力野球」を掲げる明治大学での日々は、厳しくも充実していた。寮生活での礼儀作法、上級生が背中を見せる伝統は評判どおりで、周囲のレベルも、同級生の川上憲伸(元中日)らを筆頭に高かった。それでもあきらめずに努力を重ね、最後のシーズンとなる4年秋のリーグ戦でスタメンの座をつかんだ。
「通算で10試合ほど出させてもらいましたが、打率なんて1割程度(19打数3安打、打率.158)ですよ。でも、腐らずにやり続けた結果、最後の最後にチャンスが回ってきた。今、指導している生徒たちにも『あきらめなければ、いつかチャンスが"迎え"に来てくれる』と実体験として伝えています」
【29歳で指導者の道へ】
大学卒業後は、社会人野球のデュプロ(2008年休部)に入社。日本生命や大阪ガス、松下電器(現・パナソニック)、NTT西日本といった強豪がひしめく関西地区で、泥臭く立ち向かう精神を養った。自身は補強選手として2度の都市対抗を経験。6年間の現役生活を終えた後は、29歳の若さで同部のコーチに就任。指導者としての第一歩を踏み出した。
ただ、社会人チームの指導者生活はわずか1年で幕を閉じることになる。2006年、新シーズンに向けて準備を始めていたその時、本社の社長に呼ばれた。福岡六大学リーグに所属する第一経済大学(現・日本経済大学)の監督就任を勧められたのだ。
「最初は高校時代の恩師からお話をいただいたのですが、デュプロとしても新シーズンへ動き始めていましたし、もちろん、コーチとして不満もなかったので、最初はお話だけ聞いてお断りしようとしました。ただ、社長が『大学が必要としてくれているのだったら行ってこい。やってみて、またこっちに戻ってきたいということであれば、また俺が雇ったるから』と背中を押され、2月末から福岡へ行きました」
ここから、安田は指導者としても強烈な勝負運を発揮する。右も左も、そして部員の名前や特徴もよくわからないまま、就任1カ月後に開幕したリーグ戦で指揮を執り、なんと初優勝へと導いたのだ。
「主将もそうですが、とくにマネージャーと『この子はどんな選手? どんなタイプ?』っていうのをすごく話し合って戦いましたね。万年5、6位のチームやったんですけど、あれこれやりくりして、学生も頑張ってくれました」
その後、2008年夏から系列校である福岡第一高の監督となり、3年ほどが経った頃、育英の理事長から連絡があった。
「理事長から『おまえも高校で監督をやっているんだったら母校に戻ってこいよ』というお話をいただきました。福岡第一もたくさんのOBの方がいらっしゃいますから、きっちりと土台ができたら引き渡そうと考えていました」
【甲子園は行きたいから行ける場所ではない】
そして2012年、部長として母校の育英に戻り、同年夏の大会終了後、監督に就任した。久しぶりに袖を通す「IKUEI」のユニフォームに「身が引き締まる思いでした」と当時を振り返る。
甲子園出場は、春は2005年、そして夏は今季限りで現役を引退する栗山巧(西武、当時2年)らを擁して4強入りした2000年が最後。そこから遠ざかる母校で目指したのは、かつて自身が叩き込まれた「基本の徹底」と「相手を思いやる野球」だった。
「高校時代に、日下監督からキャッチボールを徹底してやらされました。キャッチボールは、『あなたのことが好きだから、取りやすいボールを投げてあげたい』というのが基本だと思うんです。『自分を見てくれ』という"アイラブミー"ではなく、いかに相手を思いやるスローイングができるか。それは生活面でも相手の気持ちに気づけるかどうかにつながっています」
兵庫県の高校野球は、報徳学園や東洋大姫路、神戸国際大付など私学勢が強豪として名を連ねる一方、今夏の決勝は社対明石商の公立勢対決と、どこが勝ってもおかしくはない。育英は2回戦で今春の近畿王者・報徳学園に3対5と惜敗。甲子園に出場するには、技術以上に「品格」が必要だと安田は考えている。
「全国の高校球児に『甲子園に行きたいか?』と聞けば、100%行きたいと答えるでしょう。でも、甲子園に2回出させてもらった経験から言えるのは、甲子園は行きたいから行ける場所ではないということです。チームの品格、立ち居振る舞い、野球に対する姿勢、そういったものがすべて整った時に、甲子園のほうから迎えに来てくれるものだと思っています」
母校を率いて15年目。指揮官の目指す場所にブレはない。
「今の目標は、まず秋の近畿大会に出場して、来春の選抜に出場すること。毎年甲子園に顔を出せるような土台をつくって、次にバトンをつなげていきたいですね」
かつて自身が受け継いだ育英の誇りを次の世代へ──。再び甲子園が迎えに来てくれるその日まで、安田は目の前の1球と誠実に向き合い続ける。
✌熊本代表・有明高校「旋風のあとで」…アクシデントに見舞われながらも甲子園ベスト8!
https://news.yahoo.co.jp/articles/fe54f4e0fce4437f321e6867468bad385e2062ed
怒濤の日々
準々決勝の健大高崎戦、延長タイブレークの末に敗戦し、涙を流すナイン。会場からは温かい拍手が送られた甲子園に旋風が起こるのは、いくつかの条件が整った時だ。初出場校には初戦から温かい声援が送られ、そんな学校が終盤に試合をひっくり返して勝ち上がれば、グラウンドに″見えない力″が働いているような錯覚に陥る。
8月18日、インタビュールームの隅で、私立有明高校(熊本)の中野賢哉部長は選手以上に大粒の涙を落としていた。
「本当に生徒たちが頑張ってくれて、素晴らしい時間を過ごさせてもらいました。この涙は嬉し涙ですけど、悔し涙でもあるかもしれない。子どもたちが一生懸命戦っている姿をもう見られないという寂しさが勝ります」
有明ナインは7月28日に起きた熊本地震の2日後に地元を出発し、初の甲子園では逆転に次ぐ逆転を見せた。被災地の代表校の勇姿は、しだいに日本中を有明ナインの味方に変え、ベスト8に進出するころ、それは旋風となった。健大高崎(群馬)との準々決勝は9回まで0対0と拮抗した展開だったが、タイブレークに突入した10回に1点を奪われ力尽きた。高見一茂監督はこう振り返る。
「熊本大会から苦しい試合の連続で、(今春のセンバツに出場した)準決勝の熊本工業戦のようにリードしていても逆転されそうな試合がたくさんありました。守備でどうにかカバーしながら、粘り強くなんとか勝ち上がることができた。甲子園に来てからはたしかに、不思議な力が働いているような感覚はありました」
甲子園1回戦の立命館宇治(京都)戦は6回まで0対3という劣勢の展開だった。50m走が5秒8という俊足で、好打者の1番・永田晴輝が9回二死満塁から走者一掃の逆転二塁打を放ち、チームを勝利に導いた。永田は振り返る。
「初の甲子園はやっぱり緊張しましたが、少しずつ慣れていきました。最後は『自分で決めてやる』という気持ちでした。たくさんの方が応援してくれて、とにかくそれに応えることができてよかった」
九州対決となった続く長崎日大戦も先制を許しながら逆転勝利した。そんな有明にアクシデントが起きたのは、3回戦・東日本国際大昌平(福島)戦の試合前練習だ。有明の投手陣は主に先発を任される工修哉と試合を締めくくる斉藤遼汰郎の二枚看板だった。ところが、素振りをしていた選手のバットが先発を予定していた工の左手甲を直撃し、急遽、先発を回避せざるを得なくなったのだ。チームを救ったのは、9回をわずか109球で1失点完投した背番号「1」の斉藤だ。
「動揺がなかったといえば嘘になりますが、一番悔しい思いをしているのは工ですから……自分らしいピッチングはできたと思います」(斉藤)
準優勝した健大高崎に善戦するも、有明はベスト8で甲子園を去った。8月19日に帰熊した際は、学校関係者ばかりだった出発時とは違っておよそ500人もの市民の出迎えがあった。翌日に県知事を表敬訪問した時には、『くまモン』にも歓迎された。高見監督は震災からの怒濤の日々をこう振り返る。
「学校のある地域は、震源地に近いところに比べれば被害は少なかった。それなのに甲子園にやってくれば、『大変だったでしょう?』とみなさんにご心配をいただく。私たち以上に苦しんでいる方々がたくさんいらっしゃるのに、親身になって応援していただけることが、申し訳なく感じることもありました」
💢龍谷大野球部 暴力行為とハレンチ騒ぎからたった1カ月で部活動再開、秋季リーグにも出場の疑問
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/392323
龍谷大は27日、会見を開き、硬式野球部員の間の暴力行為や寮内で部員の排泄行為を撮影した動画を共有するなど、不適切な行為について説明した。同部は7月28日から8月27日までの1カ月間、活動停止となっていた。龍谷大は関西六大学野球で29回優勝。多くのプロ野球選手を輩出してきた強豪だ。部員間の暴力行為は3件あった。
2025年2月、当時高校3年生だった新入予定部員が、参加していた練習を抜け出してラーメンを食べていた。それを知った2年生のリーダーが、高校生の胸ぐらをつかみ、胸をドーンと押した。
同年5月には、4年生が1年生に2年生のものまねをさせ、その動画を4年生から見せられた本人が激怒。ものまねをした1年生に暴言を吐いて腹を蹴り、肩を数発ブン殴った。
26年3~6月には、練習への取り組み方や寮内での生活態度にキレた学生コーチの3年生が、1年生のリーダーをバットで小突き、ビンタをくらわせた。
「2年生のものまねは、笑えるようなものではなく、本人にとって不快に感じるものだったようです。暴力行為に及んだのは2年生ですが、きっかけとなったのは4年生なので、他の件も含め、部全体の問題と捉え、活動停止処分としました。いずれも被害者本人やその保護者から申告があり、発覚しました」(同大広報部担当者)
また昨年2~3月ごろ、部員数人が練習オフの日に滋賀県内の河川に遊びに行った際、部員が河川敷で排泄をした。その様子を動画で撮影し、寮内のリビングにあるテレビ画面で再生し、学生約10人が排泄シーンを見てバカ騒ぎしていた。
「排泄行為を撮影したのは2回です。皆でその動画を見て面白がっていたようです。10人の中には、野外で排泄をした本人もいました。暴力行為を受けた被害部員が『先輩たちがリビングで排泄行為の動画を流していました』と説明したことから発覚しました」(前出の担当者)
今年7月には寮内で約20人の部員が現金やアンダーウエアの盗難被害に遭ったものの、指導者には報告されていなかった。
いずれも犯罪行為にあたるのに、野球部は28日から活動を再開。9月5日開幕の秋季リーグ戦には出場予定という。大学側が事態をどれだけ重く受け止めているのか、はなはだ疑問だ。
日 高10-4田 辺・桐 蔭3-2和歌山東
日高・和歌山東は二次予選進出決定!!
📝「仙台育英と間違われていませんか?」 "育英"の名を轟かせた1993年夏 全国制覇の主将は今、母校の監督に
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca1b2e2cb0656c1fb049f5a33201ff617beb0e08
深紅の大優勝旗から33年〜育英、復活への挑戦(前編)
取材の申請を行なった際、スマホの向こう側から拍子抜けするほど正直な言葉が返ってきた。
「うちで大丈夫ですか? 仙台育英さんと間違われていませんか?」
声の主は、兵庫・育英高校野球部を率いる安田聖寛である。無理もない。これまで、春夏通算19回(春13回、夏6回)の甲子園出場を誇る兵庫屈指の名門も、2005年春の選抜大会を最後に聖地から遠ざかっている。その後、2013年夏に前橋育英(群馬)が全国制覇を果たすと、2022年夏には仙台育英(宮城)が東北勢初の日本一を達成した。全国の高校野球ファンにとって、「育英」といえばその2校を想起させる時代なのかもしれない。
【地元・兵庫から甲子園に行きたい】
しかし、高校野球の歴史を紐解けば、兵庫の育英も燦然と輝く実績を残している。巨人のV9時代を支えた土井正三、近鉄ひと筋で歴代4位の317勝を挙げた鈴木啓示、今季限りで現役を引退する"ミスター・ライオンズ"栗山巧ら、名だたるOBたちがその伝統を築き上げてきた。
そして、忘れられないのが1993年夏だ。育英は創部初となる全国制覇を達成した。のちに近鉄やソフトバンクなどで活躍した大村直之らとともに、主将としてチームを牽引したのが安田だ。
「選手として1992年春と1993年夏の2回、甲子園に出させてもらいましたが、本当に野球がうまくなる場所だと思いますね。心がきれいになるというか、させてもらえるというか......。チンタラしたり、いい加減なことをしていたら許さないぞ、というお叱りを頂戴する場所だと思っています」
母校の指揮官に就任して15年目になる。自身が歩んできた激闘の記憶と、伝統校の誇りを取り戻すための戦いは、中学生時代の「ある選択」から始まっていた。兵庫県西宮市で生まれ育った安田は中学時代、硬式野球チームで白球を追っていた。高校進学は、当時、全国の球児の憧れだった大阪のPL学園か、父の母校である北陽(現・関大北陽)を希望していた。
「最初はずっとPLに行きたかったのですが、父から『大阪なら北陽以外はあかん』と言われたんです。そこで、僕自身も、父が叶えられなかった甲子園の夢を北陽で叶えるんだとずっと思っていたんです。でも、中学3年の夏に運命が変わりました」
1990年、育英はエースの戎信行(元オリックスなど)を擁し、33年ぶりに夏の甲子園へと出場。テレビの画面越しに見る洗練されたアイボリーのユニフォーム、そして地元・兵庫の代表として甲子園で躍動するナインの姿に、一瞬で心を奪われた。
「中学のボーイズリーグの先輩がふたり試合に出ていたということもあって、やっぱり地元の兵庫から甲子園に行きたいという考えになりました」
土壇場で志望校を育英へと変更。そして1991年春、期待を胸に名門の門をたたいた。
【甲子園でランニング本塁打】
前年の甲子園出場効果もあり、同学年には優秀な選手が集まっていたが、安田は1年春の段階から実力を認められ、着実に実戦経験を積んでいく。
同年秋、兵庫大会を3位で通過。迎えた近畿大会は準々決勝で敗退し、翌年、2年時の春の選抜は補欠校に回されたが、出場予定だった神戸弘陵の辞退により、代替校として繰り上げ出場。チームは15年ぶりとなる春の甲子園でベスト8まで勝ち進んだ。
安田自身も2年生ながら主力選手として好結果を残す。初戦の駒大岩見沢(北海道)戦。この年からラッキーゾーンが撤去され、両翼が5メートル、最深部が8メートル広くなった甲子園でランニング本塁打を放ち、全国にその名を知らしめた。
「1学年上の松井秀喜さんがラッキーゾーン撤去後初の本塁打を含む3本塁打をマークした大会でもありました。僕もランニング本塁打を打ちましたが、『安田って誰だ?』なんて言われましたね(笑)。でも、浮かれた気持ちはありませんでした。私や大村を含めて2年生のレギュラーが4人いましたし、甲子園で野球をやるために育英を選んだんだという強い思いと、自分の名前より、育英の名前を全国に売ってやろうという気持ちで必死でした」
しかし、チームは2年夏の兵庫大会でベスト4に終わり、甲子園切符を逃す。新チーム結成にあたり、主将に指名されたのが安田だった。日下篤監督(当時)が1、2年生を集めて口にしたのは、「甲子園ベスト4」。選抜の8強を超えるための高い目標だったが、秋の兵庫大会は2回戦で敗退。翌春も県ベスト8止まりと、決して順風満帆とは言えない道のりだった。
それでも、新聞や雑誌の展望記事は「夏の本命は育英」という文字が並んだ。春の近畿大会を制した姫路工や、前年夏の覇者・神港学園など、強豪ひしめくなかでも、当時の育英が持つポテンシャルは群を抜いていた。
それを象徴するのが、1993年夏の兵庫大会決勝だ。近畿王者・姫路工との一戦は7回まで0対0と、手に汗握る投手戦となった。
「5回ぐらいでしたか、たしか一死三塁のチャンスがあって、僕が三振を取られたんです。自分で言うのもなんですが、普段はあまり三振しない打者だったんです。あの時は自分に対してイライラしてしまって。とにかくひとつのミスも許されない緊迫した雰囲気でした。姫路工さんは本当に強かった。もしかしたら、甲子園に出ていたチームより強かったかもしれません」
試合は8回に1点を先制し、そのまま1対0で兵庫の夏を制した。優勝候補の重圧を跳ね返したチームは、勢いそのままに聖地へと乗り込んだ。
【怒涛の快進撃で夏の甲子園決勝に進出】
1993年夏の甲子園、育英の快進撃が始まった。初戦の秋田経法大付(現・明桜)を14対4、2回戦の旭川大高(現・旭川志峯/北北海道)を11対3と、圧倒的な打力で退けた。続く3回戦の相手は横浜商大高(神奈川)。これまでの大勝とは打って変わり、1点を争うしびれる接戦となった。
「先制されては取り返して、という展開でした。不気味だったのは、うちが勝ち越しても、相手ベンチがガクッとなる様子がいっさいなかったこと。『打ち返せばいいじゃん』という関東チーム特有のノリというか、堂々とした雰囲気に凄みを感じましたね」
最終的に5対4と接戦を制してベスト8に進出すると、準々決勝の修徳(東東京)戦、準決勝の市立船橋(千葉)戦と、関東勢との激闘が続いた。のちにプロで活躍する高橋尚成(修徳−駒澤大−巨人など)、大学で同僚となった1学年下の小笠原孝(市立船橋−明治大−中日)といった好左腕と対峙したが、育英の打線は揺るがなかった。
「うちのキーは3番打者の大村でした。彼は左投手をまったく苦にしなかったので、だから1番の僕や、2番の岡本(健二)が出塁すれば、大村がなんとかしてくれるという信頼感がありました。高橋くんのスクリューボールを見極め、小笠原のストレートをコンパクトに弾き返す。対策が見事にはまりました」
全国の並み居る強豪を打ち破り、ついにたどり着いた決勝の舞台。新チーム結成時に掲げた「甲子園ベスト4」という目標は、すでに通過点となっていた。横浜商大高との激闘を制した頃から、チーム内には「上を狙う」という本気の思いがみなぎっていた。
そして、1993年8月23日。春日部共栄(埼玉)との決勝の朝を迎える。地元・兵庫代表として甲子園を埋め尽くす超満員の観客。満を持して臨んだ最後の戦いで、安田はアクシデントに見舞われることになる。
つづく>>
📝「甲子園は行きたいから行ける場所ではない」 全国制覇から33年、母校・育英を率いる安田聖寛が待つ"聖地からの迎え"
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【決勝戦で襲ったまさかのアクシデント】
「前日まではリラックスしていたと思います。ただ、グラウンドに水が撒かれ、ラインが引かれたあたりから、絶対に兵庫へ優勝旗を持ち帰らなければならないという、ある種の使命感のようなものがありましたね。兵庫対埼玉のプライドのぶつかり合いだと捉えていました」
初回、育英は好スタートを切り2点を先制する。しかし、その後は春日部共栄の2年生左腕・土肥義弘(元西武など)の粘り強い投球の前に追加点を奪えず、じわじわと追い上げられる展開となった。
「初回に2点を取りましたが、ここで3点目が取れたと思うんです。最高のスタートなのですが、あと1点が取れなかったことを、選手たちが引きずっている感じはありました」
安田がアクシデントに見舞われたのは5回表、同点に追いつかれた直後の二死一、三塁の場面だ。一塁走者が盗塁を試み、二塁手としてベースカバーに入った際に左膝付近をスパイクされてしまう。
「タッチアウトにしてチェンジになり、ベンチに帰ろうとして立ち上がろうとしたら立てませんでした。脚を見て、『絶対に無理だ』と直感しました。ユニフォームは破れていないのに、中の皮膚がざっくりと裂けて血があふれ出ていたんです」
救護室に運ばれたが、傷口は深く、緊急でテーピングを巻く応急処置が施された。周囲からは交代を勧められたが、主将としての執念がそれを拒んだ。
「次の回、僕から始まる打順だったんです。『とにかく出ます』と言って、痛み止めを飲み、バッターボックスに立ちました。効くわけがないんですけどね(笑)」
そんな状態で満足のいく打撃ができるはずがない。なんとか打球を前に飛ばすことはできたが、一塁まで走ることすらできずにそのまま途中交代。すぐさま救急車で近くの病院へと搬送された。試合経過を伝えるラジオの音声が響く処置室で、麻酔すら打たず、傷口を3針縫う処置を受けた。
「傷口を縫うことよりも、ラジオのほうが気になって、『俺がおらんくて、ちゃんとやってるかな』とソワソワしていました。処置が終わるとすぐタクシーに飛び乗り、球場へ戻りました」
【全国制覇の先に選んだ明治大】
8回裏、育英の攻撃中に、痛みすらも忘れてベンチに帰還。脚は曲がらない状態だったが、主将の姿にベンチは大いに盛り上がった。勢いを取り戻したチームは勝ち越しに成功。そのまま3対2で逃げきり、初の甲子園優勝を果たした。その後は宿舎ではなく、病院に戻り、5針を追加した。
安田がマークした「1大会10四死球」は、夏の甲子園の最多タイ記録となっている。「フォア・ザ・チーム」を体現した結果、夢にまで見た深紅の優勝旗を手にすることができたのだ。
「本当に漫画みたいですよね。試合後の表彰式で、優勝旗を受け取る時は踏ん張れず、倒れそうになりました(笑)。でも、仲間と一緒につかんだあの瞬間の光景は、生涯忘れることはありません」
卒業後は社会人に進む予定だったが、高校日本代表で同僚となった山根雅仁(元広島)や金子誠(元日本ハム)らのレベルの高さに刺激を受け、東京六大学リーグの明治大学進学を希望するようになる。日下篤監督から「おまえごときが行っても4年間草むしり。明治のレベルをなめたらあかんぞ」とまで言われたが、安田の意志は固かった。
「ありがたいことに高校で負けずに引退させてもらったからこそ、試合に出ることができなくてもいいので、とんでもない世界を見たかったんです。そういう形で明治さんを受験させていただき、進学することになりました」
伝統の「人間力野球」を掲げる明治大学での日々は、厳しくも充実していた。寮生活での礼儀作法、上級生が背中を見せる伝統は評判どおりで、周囲のレベルも、同級生の川上憲伸(元中日)らを筆頭に高かった。それでもあきらめずに努力を重ね、最後のシーズンとなる4年秋のリーグ戦でスタメンの座をつかんだ。
「通算で10試合ほど出させてもらいましたが、打率なんて1割程度(19打数3安打、打率.158)ですよ。でも、腐らずにやり続けた結果、最後の最後にチャンスが回ってきた。今、指導している生徒たちにも『あきらめなければ、いつかチャンスが"迎え"に来てくれる』と実体験として伝えています」
【29歳で指導者の道へ】
大学卒業後は、社会人野球のデュプロ(2008年休部)に入社。日本生命や大阪ガス、松下電器(現・パナソニック)、NTT西日本といった強豪がひしめく関西地区で、泥臭く立ち向かう精神を養った。自身は補強選手として2度の都市対抗を経験。6年間の現役生活を終えた後は、29歳の若さで同部のコーチに就任。指導者としての第一歩を踏み出した。
ただ、社会人チームの指導者生活はわずか1年で幕を閉じることになる。2006年、新シーズンに向けて準備を始めていたその時、本社の社長に呼ばれた。福岡六大学リーグに所属する第一経済大学(現・日本経済大学)の監督就任を勧められたのだ。
「最初は高校時代の恩師からお話をいただいたのですが、デュプロとしても新シーズンへ動き始めていましたし、もちろん、コーチとして不満もなかったので、最初はお話だけ聞いてお断りしようとしました。ただ、社長が『大学が必要としてくれているのだったら行ってこい。やってみて、またこっちに戻ってきたいということであれば、また俺が雇ったるから』と背中を押され、2月末から福岡へ行きました」
ここから、安田は指導者としても強烈な勝負運を発揮する。右も左も、そして部員の名前や特徴もよくわからないまま、就任1カ月後に開幕したリーグ戦で指揮を執り、なんと初優勝へと導いたのだ。
「主将もそうですが、とくにマネージャーと『この子はどんな選手? どんなタイプ?』っていうのをすごく話し合って戦いましたね。万年5、6位のチームやったんですけど、あれこれやりくりして、学生も頑張ってくれました」
その後、2008年夏から系列校である福岡第一高の監督となり、3年ほどが経った頃、育英の理事長から連絡があった。
「理事長から『おまえも高校で監督をやっているんだったら母校に戻ってこいよ』というお話をいただきました。福岡第一もたくさんのOBの方がいらっしゃいますから、きっちりと土台ができたら引き渡そうと考えていました」
【甲子園は行きたいから行ける場所ではない】
そして2012年、部長として母校の育英に戻り、同年夏の大会終了後、監督に就任した。久しぶりに袖を通す「IKUEI」のユニフォームに「身が引き締まる思いでした」と当時を振り返る。
甲子園出場は、春は2005年、そして夏は今季限りで現役を引退する栗山巧(西武、当時2年)らを擁して4強入りした2000年が最後。そこから遠ざかる母校で目指したのは、かつて自身が叩き込まれた「基本の徹底」と「相手を思いやる野球」だった。
「高校時代に、日下監督からキャッチボールを徹底してやらされました。キャッチボールは、『あなたのことが好きだから、取りやすいボールを投げてあげたい』というのが基本だと思うんです。『自分を見てくれ』という"アイラブミー"ではなく、いかに相手を思いやるスローイングができるか。それは生活面でも相手の気持ちに気づけるかどうかにつながっています」
兵庫県の高校野球は、報徳学園や東洋大姫路、神戸国際大付など私学勢が強豪として名を連ねる一方、今夏の決勝は社対明石商の公立勢対決と、どこが勝ってもおかしくはない。育英は2回戦で今春の近畿王者・報徳学園に3対5と惜敗。甲子園に出場するには、技術以上に「品格」が必要だと安田は考えている。
「全国の高校球児に『甲子園に行きたいか?』と聞けば、100%行きたいと答えるでしょう。でも、甲子園に2回出させてもらった経験から言えるのは、甲子園は行きたいから行ける場所ではないということです。チームの品格、立ち居振る舞い、野球に対する姿勢、そういったものがすべて整った時に、甲子園のほうから迎えに来てくれるものだと思っています」
母校を率いて15年目。指揮官の目指す場所にブレはない。
「今の目標は、まず秋の近畿大会に出場して、来春の選抜に出場すること。毎年甲子園に顔を出せるような土台をつくって、次にバトンをつなげていきたいですね」
かつて自身が受け継いだ育英の誇りを次の世代へ──。再び甲子園が迎えに来てくれるその日まで、安田は目の前の1球と誠実に向き合い続ける。
✌熊本代表・有明高校「旋風のあとで」…アクシデントに見舞われながらも甲子園ベスト8!
https://news.yahoo.co.jp/articles/fe54f4e0fce4437f321e6867468bad385e2062ed
怒濤の日々
準々決勝の健大高崎戦、延長タイブレークの末に敗戦し、涙を流すナイン。会場からは温かい拍手が送られた甲子園に旋風が起こるのは、いくつかの条件が整った時だ。初出場校には初戦から温かい声援が送られ、そんな学校が終盤に試合をひっくり返して勝ち上がれば、グラウンドに″見えない力″が働いているような錯覚に陥る。
8月18日、インタビュールームの隅で、私立有明高校(熊本)の中野賢哉部長は選手以上に大粒の涙を落としていた。
「本当に生徒たちが頑張ってくれて、素晴らしい時間を過ごさせてもらいました。この涙は嬉し涙ですけど、悔し涙でもあるかもしれない。子どもたちが一生懸命戦っている姿をもう見られないという寂しさが勝ります」
有明ナインは7月28日に起きた熊本地震の2日後に地元を出発し、初の甲子園では逆転に次ぐ逆転を見せた。被災地の代表校の勇姿は、しだいに日本中を有明ナインの味方に変え、ベスト8に進出するころ、それは旋風となった。健大高崎(群馬)との準々決勝は9回まで0対0と拮抗した展開だったが、タイブレークに突入した10回に1点を奪われ力尽きた。高見一茂監督はこう振り返る。
「熊本大会から苦しい試合の連続で、(今春のセンバツに出場した)準決勝の熊本工業戦のようにリードしていても逆転されそうな試合がたくさんありました。守備でどうにかカバーしながら、粘り強くなんとか勝ち上がることができた。甲子園に来てからはたしかに、不思議な力が働いているような感覚はありました」
甲子園1回戦の立命館宇治(京都)戦は6回まで0対3という劣勢の展開だった。50m走が5秒8という俊足で、好打者の1番・永田晴輝が9回二死満塁から走者一掃の逆転二塁打を放ち、チームを勝利に導いた。永田は振り返る。
「初の甲子園はやっぱり緊張しましたが、少しずつ慣れていきました。最後は『自分で決めてやる』という気持ちでした。たくさんの方が応援してくれて、とにかくそれに応えることができてよかった」
九州対決となった続く長崎日大戦も先制を許しながら逆転勝利した。そんな有明にアクシデントが起きたのは、3回戦・東日本国際大昌平(福島)戦の試合前練習だ。有明の投手陣は主に先発を任される工修哉と試合を締めくくる斉藤遼汰郎の二枚看板だった。ところが、素振りをしていた選手のバットが先発を予定していた工の左手甲を直撃し、急遽、先発を回避せざるを得なくなったのだ。チームを救ったのは、9回をわずか109球で1失点完投した背番号「1」の斉藤だ。
「動揺がなかったといえば嘘になりますが、一番悔しい思いをしているのは工ですから……自分らしいピッチングはできたと思います」(斉藤)
準優勝した健大高崎に善戦するも、有明はベスト8で甲子園を去った。8月19日に帰熊した際は、学校関係者ばかりだった出発時とは違っておよそ500人もの市民の出迎えがあった。翌日に県知事を表敬訪問した時には、『くまモン』にも歓迎された。高見監督は震災からの怒濤の日々をこう振り返る。
「学校のある地域は、震源地に近いところに比べれば被害は少なかった。それなのに甲子園にやってくれば、『大変だったでしょう?』とみなさんにご心配をいただく。私たち以上に苦しんでいる方々がたくさんいらっしゃるのに、親身になって応援していただけることが、申し訳なく感じることもありました」
💢龍谷大野球部 暴力行為とハレンチ騒ぎからたった1カ月で部活動再開、秋季リーグにも出場の疑問
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/392323
龍谷大は27日、会見を開き、硬式野球部員の間の暴力行為や寮内で部員の排泄行為を撮影した動画を共有するなど、不適切な行為について説明した。同部は7月28日から8月27日までの1カ月間、活動停止となっていた。龍谷大は関西六大学野球で29回優勝。多くのプロ野球選手を輩出してきた強豪だ。部員間の暴力行為は3件あった。
2025年2月、当時高校3年生だった新入予定部員が、参加していた練習を抜け出してラーメンを食べていた。それを知った2年生のリーダーが、高校生の胸ぐらをつかみ、胸をドーンと押した。
同年5月には、4年生が1年生に2年生のものまねをさせ、その動画を4年生から見せられた本人が激怒。ものまねをした1年生に暴言を吐いて腹を蹴り、肩を数発ブン殴った。
26年3~6月には、練習への取り組み方や寮内での生活態度にキレた学生コーチの3年生が、1年生のリーダーをバットで小突き、ビンタをくらわせた。
「2年生のものまねは、笑えるようなものではなく、本人にとって不快に感じるものだったようです。暴力行為に及んだのは2年生ですが、きっかけとなったのは4年生なので、他の件も含め、部全体の問題と捉え、活動停止処分としました。いずれも被害者本人やその保護者から申告があり、発覚しました」(同大広報部担当者)
また昨年2~3月ごろ、部員数人が練習オフの日に滋賀県内の河川に遊びに行った際、部員が河川敷で排泄をした。その様子を動画で撮影し、寮内のリビングにあるテレビ画面で再生し、学生約10人が排泄シーンを見てバカ騒ぎしていた。
「排泄行為を撮影したのは2回です。皆でその動画を見て面白がっていたようです。10人の中には、野外で排泄をした本人もいました。暴力行為を受けた被害部員が『先輩たちがリビングで排泄行為の動画を流していました』と説明したことから発覚しました」(前出の担当者)
今年7月には寮内で約20人の部員が現金やアンダーウエアの盗難被害に遭ったものの、指導者には報告されていなかった。
いずれも犯罪行為にあたるのに、野球部は28日から活動を再開。9月5日開幕の秋季リーグ戦には出場予定という。大学側が事態をどれだけ重く受け止めているのか、はなはだ疑問だ。