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⚾明日の熱闘甲子園組み合わせ(初日 1回戦)
16:00~ 開 会 式
17:30~ 札幌 日大-仙台 育英
📝広島商の新監督に花坪研氏就任
https://news.yahoo.co.jp/articles/71bf56f5ee78e0b721d7891ad883a3f6bd4e1d64
春夏計7度の甲子園優勝を誇る広島商高の新監督に花坪研氏(46)=前部長=が8月1日付で就任したことが3日、分かった。今夏まで指揮を執った荒谷忠勝監督(49)は退任し、総監督に就任する。
📝甲子園のヒーローが和歌山から描いた野球の夢―紀州レンジャーズ誕生と独立リーグの苦闘―
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2641b6deb888e7b5a87d0d3cace5601aa3632675
7年前の夏、甲子園のマウンドで躍動し、「箕島」の名を全国に轟かせた石井毅。社会人の強豪、住友金属から西武ライオンズに進んだが、その現役生活は決して長いものではなかった。しかし、彼の野球人生はそれからが「本番」だった。(連載第4回)
西武を退団後、石井は故郷の和歌山に戻った。
「最初から、和歌山に戻るつもりでしたね。まあ、うちの家内も同級生なんで、家もこっち。だからすぐに帰ってきました」
当時28歳。普通なら途方に暮れそうなものだが、元々起業家精神があったのだろう、石井は若き実業家として第2の人生を歩み始めた。
「自分でちょっと、まあ、あの仕事というかね、みかん関係とか、ちょっとそんなんやろうかなって、会社を立ち上げました。不安?それはなかったね。人生、基本的に雇われるかフリーでやるかどっちかなんで。だったら、自分でやった方が楽じゃないですか。でもまあ、最初はね、儲かるんちゃうかなとか思って始めたけど、やっぱり儲からん(笑)。難しいですよ。まあ、でも成功してるかというとそうじゃないけど、細々と今までやっています」
事業と並行して野球にも関わり続けた。今度は裏方として支える側だった。
「事業を立ち上げてしばらくしたら、少年野球の監督やってる後輩から頼まれたんよ。それで地元の子供たちの指導することになりました。当時は、まだ元プロってことで高校は見に行くことできませんでしたけど」
ビジネスではなく、あくまでボランティアというかたちだったが、その後も石井は野球に関わり続けた。それがやがて自身のライフワークになり、20年ほど前にNPO法人を立ち上げた。
苦難の独立リーグ運営
「和歌山野球振興協会夢クラブというNPOを2003年に立ち上げたんですよ。その後ですわ、独立リーグの話が出てきたのは」
2008年に将来的な独立リーグ加入を念頭に成人のクラブチームを立ち上げたところに、関西地区にも独立リーグが発足するという話が舞い込んできた。
「最初は、NPO法人の方でスポーツアカデミーっていうのを立ち上げようとしてやったんですよ。廃校になった学校の施設を行政から借りて、始めたんやけど、やっぱり試合相手を探すのが難しかった。人数もなかなか集まってないところもあったところに(旧)関西独立リーグができるっていう話が来たんで乗りました。集まってくれた子たちをなんとかやらしたろうっていう気持ちの中で乗っかっていった感じですね」
それまで独立リーグが四国、北信越という地方に展開されていた中、「都市型」を標榜し、NPB2球団のホームがある阪神地区を中心としたリーグに、和歌山に本拠を置く独立リーグ球団「紀州レンジャーズ」が誕生した。
しかし、このリーグは開幕戦こそ大阪ドーム(現京セラドーム)に1万人を超える観衆を集めたものの、その後、注目を集めることはなく、創設者の「ビジネスマン」が開幕からふた月も経たぬ間にリーグ運営を投げ出してしまう。石井は、加盟4球団で新たに立ち上げた新運営会社の代表として、球団運営に加えてリーグ運営というタスクも背負うことになった。
「結局、5年続けたけどね。人生の中でもこんなしんどい思いをしたことない(笑)。あの話には、(西武時代の先輩の)石毛(宏典)さんも絡んでたからね。石毛さんも、やっぱりお金かけてやらなあかんっていう意識があったのか、あの人らが作った給料体系で始めてしまった。月給20万ですよ。リーグは分配金3000万円渡しますって言ったけど、蓋を開ければ、1円もないんやからね。ほんま。あんな苦しい目はなかった」
先行の四国、BCリーグのはるか上を行く報酬に少なからぬ選手が、四国や北陸から移籍してきた。しかし、結果的には、資金はなかばショートし、やがて報酬も支払われなくなった。
「それでも、選手に給料は2年くらいは払ったかな。もう要するに赤字垂れ流しもええとこよね。それでもまあ、絶対5年間はやりきろうというのはあったんで。最後はもうクラブチームに変えてやっていこうと話したんですけど、やっぱりね、うまくいかんかった。それに最後の方は、選手がプロをほんまに目指してるかとか、彼らのやる気をもう、あんまり感じなかったんで、ただ単に野球好きやからやってるみたいな。まあ、振り返ると、誰が悪いとかじゃなく、我々にも野心っていうのがありましたしね。何でも商売するとか、立ち上げる時って、次の夢を見ていくじゃないですか」
結局、独立リーグ球団運営に8000万円ほどの私財を投げ打ったという。
「なんとかやれるんちゃうかって思っていたけど、やっぱりそんな甘いもんじゃないね。西武時代にサンノゼでプレーした経験もあって、当時の知事も協力してくれたんやけど、やっぱり和歌山という地域を活性化したいというところもあったんですが。2年目からはつてをたどって韓国人オーナーを連れてきて韓国人球団もつくったんやけど、その韓国人を騙したような感じになってしまいましたな」
それでもその苦い経験は決して無駄にはなっていない。紀州レンジャーズは、今も少年野球チームとして生き続け、中学生チームの遠征というかたちで韓国とのつながりも保っている。
独立リーグ時代の教え子は、もう中年期に差し掛かっている。その中には、独立リーグでの経験を活かして、野球のインストラクターやトレーナーを生業としている者もいる。
「当時ね、私は彼ら(選手)に(独立リーグにいるのは)2年、長くて3年やと。それだけうちで自分のもん出せんかったら、引くべきやというのをずっと言ってきたんですけどね。やっぱり独立リーグは諦めの場所でもあるので。今も野球してるやつもいるては聞いてるけど、あの時の経験が生きているのならそれでいいし。ちゃんと働いて、頑張ってるやつの話を聞くとうれしいですよ。まあ独立リーグでやっていたことは、彼らにとって無駄でもないとは思うけどね。でもまあ、今、子供たちを相手にやってることの方がなんか自分に合ってるかなとは思いますね」
(つづく)
📝甲子園「マル得」情報
夏の甲子園「2回戦スタート校」は優勝確率“5倍増”! 背景に日本の熱帯気候化か
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/391204
今年も酷暑の中、5日に夏の甲子園が開幕する。開会式後の午後5時半から、札幌日大(南北海道)と仙台育英(宮城)による1回戦が行われる。
日本の夏はいまや、35度以上の猛暑日になるのは当たり前。40度以上に達することも珍しくない。湿度も高く、熱帯気候に属する東南アジア諸国と大差ないともいわれる。
そんな中、注目を集めているのが、「2回戦スタート」の学校だ。他校より決勝までに必要な試合数が1試合少なく、今夏は第6日の3試合目、高岡商(富山)対高川学園(山口)以降、第8日の2試合目の花咲徳栄(埼玉)までの15校が該当する。マスコミ関係者が言う。
「以前は、2回戦スタートの学校は分が悪かったが、近年は優勝する確率が大幅に上昇している。コロナ禍以降の2021年の智弁和歌山から仙台育英、慶応と3連覇するなど、直近10大会で優勝は5度。05年から14年までの10年間で優勝したのは05年の駒大苫小牧の1度のみでしたから、実に5倍に増えています」
2回戦スタートの学校が分が悪かった要因は、1回戦を勝ち上がってきた学校の勢いに飲まれやすいことがひとつ。甲子園入りしてから1週間強、試合はおろか、練習試合すらできない。途中に雨天中止があると、さらに初戦まで時間が空く。ある強豪校の監督は、「初戦の日程が遅ければ遅いほど、選手の集中力を維持しづらくなる」と言う。
象徴的だったのが、昨夏の大会で初戦敗退した神村学園だ。好投手を擁し、優勝候補と言われていたにもかかわらず、1回戦を勝ち抜いた創成館に0-1で完封負け。雨天順延を挟み、初戦を迎えたのは開会式から8日後。選手にエンジンがかかりきらず、本来の戦いができなかった。
とはいえ、直近の10年間は、2回戦スタートの学校の勝率が一気に増えている。社会問題化している酷暑によって、決勝までの試合数の多寡、消耗度の差が、勝敗を左右しやすくなっているようだ。
🎤明徳義塾・馬淵史郎監督が明かす「ビデオ検証3カ条」夏の甲子園で初採用 23年に高校日本代表監督で経験
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b7fd696e3d45c5b0ab3f50d863c3d5dbfe3bed4
第108回全国高校野球選手権大会の出場校による甲子園練習は2日に3日目を迎え、計12校が甲子園球場で15分ずつ練習した。今大会では、高校野球の公式戦で初めてビデオ検証が採用される。すでに高校日本代表監督として同制度を経験した明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督(70)が、行使を判断する上で大切な3カ条を説いた。
出場49校の中で、監督としてビデオ検証を経験した唯一の指揮官が、明徳義塾の馬淵監督だ。20~23年に高校日本代表監督を務め、同制度がある23年U18W杯で初の世界一に導いている。「行使して勝ちましたからね」。台湾との決勝では、攻撃時のアウト判定が覆って逆転劇が生まれた。その世界大会の経験を基に、判断に必要な条件は整理できている。
(1)出し惜しみしない NPBとは権利行使の回数が違う。9回までにNPBでは2度行使できる一方、今大会は一度しか認められていない。判定が覆れば再度行使できるが、3度目は認められない。その条件でも「(初回でも)やりますよ。イチかバチかやってもいい」と即答する。先制点の重要性を知る名将らしく、序盤の攻防での使用も選択肢として臨むつもりだ。
(2)流れを読む 「前半に使いたくはないですよ。でも相手に好投手がいる場合、前半の失点は重い。ここは監督の判断でしょう」。行使のタイミングには、試合展開を読む力も試されていると言えそうだ。
(3)選手を信じる W杯では選手に「絶対に覆る自信があるなら合図を」と指示していた。W杯で行使した場面は全て選手からのアピールがきっかけ。「アウト、セーフは選手が一番分かりますから」。選手の合図があってから行使するかを判断するという。
失敗すれば2度目の権利行使ができない「高校野球版ビデオ検証」。この新制度を基に新たな「馬淵マジック」が生まれる可能性もある。
▽23年U18W杯・台湾との決勝でのビデオ検証 0―1の4回1死二塁で丸田湊斗が一塁線へのセーフティーバントを敢行。打者走者の一塁判定はアウトになるも、ビデオ検証の結果、判定が覆って一、三塁と好機拡大。その後、敵失も絡んで丸田の生還で逆転に成功して世界一を達成した。
▽今大会のビデオ検証 「大学および高校野球におけるビデオ検証に関する特別規則」にのっとって運用。権利行使は一度のみで、判定が覆れば、あと一回に限り行使できる。延長では、9回までの行使回数にかかわらず一度行使でき、その結果にかかわらず、それ以降は行使できない。
≪今大会の特別ルール≫
◇DH制 今春の選抜で初採用され、夏も初導入。先発投手がDHとしても出場できる「大谷ルール」も採用。
◇継続試合 午前1試合、午後3試合の2部制の第1試合(午前8時開始)は原則午前11時で継続試合とする。同10時45分に終了していない場合、どのイニングまで続行するか協議する。
午後の部では、試合終了が午後7時30分を超えた場合は次の試合を行わない。試合終了が同10時を超える見込みとなった場合は続行の可否を協議する。
◇日程振り替え 継続試合や雨天中止などの場合は、翌日以降に振り替える。試合の順序変更は主催者と甲子園球場が協議して決定する。
◇タイブレーク 9回終了で同点の場合、延長10回無死一、二塁から始めるタイブレーク方式を採用。打順は9回から継続する。
◇球数制限 1人の投手が1週間で投球できる球数は500球以内とする。500球に到達した打者の打席は完了まで投球できる。
◇クーリングタイム 暑さ対策として、原則として5回終了時に8分間のクーリングタイムを設ける。
◇申告故意四球 試合時間短縮のために採用。投手の投球数には加算されない。
☟三重で離脱者続々…沖田監督「チームが結集するかな。甲子園はそういう力で勝ち進む」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b7f0acaf76f9fa39c30dd99a45caf40ebfc3d89c
<全国高校野球選手権:甲子園練習>◇3日◇甲子園
三重で立て続けに離脱者が出た。投手陣の一角を担う古川稟久投手(3年)が右ひじ付近を肉離れして離脱。さらに右翼を守る松原創汰外野手(2年)が溶連菌感染のため、この日の甲子園練習に不参加だった。
三重の沖田展男監督(48)は「古川をもう一度投げさせようという思いでチームが結集するかなと思う。意外と甲子園はそういう力で勝ち進むかなと思います」と語った。松原からは「4日に合流できます」という連絡が入ったが、指揮官は「もう大丈夫やと言っていますが、9日をメドに」とコメント。5日の開会式に出たいだろうが、宿舎が3人部屋のため、そこは最善の態勢を取るつもりだ。
大会第7日、松商学園(長野)との対戦する。
🔥関東第一で歓迎されなかった無名の青年監督 それでも小倉全由は「甲子園を目指します」と理事長に言い放った
https://news.yahoo.co.jp/articles/1301e1f534abc4c8cd8fa37331962b7594c35d6e?page=1
名将たちの甲子園初出場物語小倉全由(前編)
2025年9月のU−18ワールドカップを最後に、高校野球の指導現場を離れた小倉全由氏。日大三の監督として2度の全国制覇を成し遂げたことから「三高の小倉」のイメージが強いが、監督としての第一歩を踏み出したのは関東第一だった。
小倉が初めて甲子園出場を果たしたのは、つくば万博が開催された1985年。監督就任5年目、まだ28歳の時だった。この「小倉の甲子園初出場」は、1925年創立の関東第一にとっても春夏通じて初の甲子園出場だった。さらに、江戸川区の高校としても初めての甲子園出場という歴史的な快挙でもあった。
バブル経済の足音が聞こえ始め、日本全体が活気に満ちていた時代、「学校はもちろん、地元の江戸川区も大いに盛り上がった、熱い夏でしたね」と、小倉はそう懐かしそうに振り返る。「打倒・帝京」にすべてをかけた熱血青年監督と、「下町の暴れん坊」と呼ばれた選手たちは、いかにして初の甲子園出場へと歩みを進めていったのか。その軌跡をたどる。
【実績ゼロの青年監督が選んだ道】
大学時代、母校・日大三でコーチを務めながら教員免許を取得した小倉は、監督の小枝守(のちに拓大紅陵監督)をサポート。大学4年の夏に甲子園出場を果たした。卒業後は母校の社会科教員兼野球部コーチとして、社会人生活をスタートさせる予定だった。しかし、学校側の事情により、監督の小枝とともに日大三を離れることになった。
関係者を通じて関東第一からコーチ就任のオファーが届いたのは、1980年12月のことだった。初めて学校を訪れた日、理事長から「君はどうしたいんだ?」と問われると、小倉は迷うことなく、「甲子園を目指します!」と答えた。
翌1981年4月、小倉の監督就任が決まり、初めて理事会に出席した。そこで感じたのは、歓迎ムードとはほど遠い空気だった。
「自分のような若造が監督をやることになって、皆さんトーンダウンしている雰囲気を感じましたね」
もっとも、小倉は「実績のない自分では仕方がない」と割りきった。監督に就任した小倉は、チームに「試合に出ている下級生が中心」という雰囲気を感じとった。そこで掲げたのが、「3年生と目一杯やる」という方針だった。初めて迎えた夏は國學院に惜敗したものの、「3年生が自分についてきてくれて、いつも一生懸命やってくれたことが本当にうれしかった」と振り返る。
夏を経験した選手たちが中心となった秋季大会では帝京を7対6で撃破。つづく準々決勝では、翌春の選抜で準優勝投手となる市原勝人(現・二松学舎大附監督)を擁する二松学舎大附に0対1で敗れるも善戦。翌年春の都大会でも、選抜帰りの早稲田実を相手に1対5で敗れたが、終盤まで0対0と互角の戦いを展開した。夏も準々決勝まで勝ち進み、修徳に2対3でサヨナラ負けを喫したが、小倉はチームづくりにたしかな手応えを感じ始めていた。
しかし、新チームとなった秋季大会では、準決勝で帝京に1対4で敗戦。この敗戦を機に、小倉は「帝京を倒さなければ甲子園はない」という思いがいっそう強くなった。
【就任3年目で決勝進出を果たすも...】
迎えた1983年4月。甲子園では池田(徳島)が選抜を制し、夏春連覇を達成するなど、「池田フィーバー」は社会現象となっていた。そんななか、のちに関東第一の甲子園初出場時に主将を務める寺島一男、エースへと成長する木島強志、さらに名門・調布シニア出身の田辺昭広や抜群のセンスを誇った塩田正廣らが入学した。有力校から声がかかるような名の知れた選手はいなかったが、小倉は新入生を見て「身体能力の高い選手や、足の速い選手が多い」と感じた。一方で、最も印象に残ったのは、その気性の激しさだった。
「野球をやっていなかったら、どうなっちゃうんだよって心配になるくらい、向こう気の強いやつらが集まっていましたね(笑)」
田辺や塩田ら1年生数人がベンチ入りした1983年夏、小倉率いる関東第一は大きな飛躍を遂げた。好投手・山崎勝巳を擁して勝ち進むと、準決勝では夏4連覇を狙う早稲田実を7回コールドで撃破。そして決勝で待ち受けていたのは、前年秋に苦杯をなめた因縁の相手・帝京だった。大柄な選手が揃う帝京に対し、関東第一は小柄な選手が多いチームだった。それだけに小倉は、「こういうチームが甲子園に行けたら、それこそ本当の高校野球だよな」と日頃から感じていたという。しかし決勝を前に、周囲の予想は圧倒的に帝京優勢だった。
「何点取られるんだろうという感じで、みんな帝京の圧勝を予想していましたね」
それでも関東第一は最後まで食い下がり、2対3とあと一歩まで追い詰めた。閉会式では号泣する選手たちを前に、「本当によくやってくれた」とねぎらったが、就任3年目で味わったこの敗戦は、小倉の監督人生における大きなターニングポイントとなる。
「打倒・帝京。それしかなかったですね」
この敗戦を境に、その思いはさらに強くなった。「縦縞のユニフォームは大嫌いだ。見たくない」と、あえて強い言葉を口にしながら、選手たちの闘争心をかき立て、「打倒・帝京」をチームの揺るぎない目標に据えていった。
【有望中学生の獲得に成功】
決勝で帝京に惜敗した悔しさを胸に、小倉はすぐに次の戦いへと動き出した。力を注いだのは中学生の勧誘だった。当時は「甲子園に出るまでは、声をかけてもなかなか来てくれない」という状況が続いていたが、それでもあきらめなかった。東京ナンバーワンとの呼び声が高かった板橋シニアの西村忠之を獲得するため、何度も足を運んだ。ある日には、普段なかなか家族サービスができない妻・敏子さんと長女・弓佳さんを車に乗せて出かけたものの、家族を車内で待たせたまま、自分だけ戸田市(埼玉)のグラウンドへ向かい、西村の試合を視察したこともあった。
西村の兄は帝京野球部の出身だった。兄からは「関東第一はこれから絶対に強くなるけど、練習は厳しいぞ」と聞かされていたという。それでも西村は、「決勝で帝京に敗れた関東第一を見て、『まだ甲子園に出たことがないこの学校で挑戦してみたい』と思いました。そして何より、小倉監督の熱い思いがうれしかったんです」と関東第一への進学を決意した。
西村から「よろしくお願いします」という返事をもらった小倉は、真っ先に妻の敏子さんへ報告。「あの時は本当にうれしかったですね」と、昨日のことのように覚えている。1984年夏、城西大城西に敗れて新チームが始動すると、小倉は寺島を主将に、塩田と田辺を副主将に指名した。
「この秋は密かに狙っていたんですよ」
前チームからの経験者も多く、どこと対戦してもいい戦いはできるだろうと思っていた。しかし、秋季ブロック予選では皮肉にも帝京と同じブロックに入り、2戦目で激突した。接戦が期待されたものの、結果は1対10の大敗。しかも帝京はエース・小林昭則を温存し、背番号10の小林宏之を先発させる余裕すら見せた。この敗戦のショックは大きかったが、落ち込んでいる暇などなかった。翌日からすぐに猛練習を再開。再び「打倒・帝京」へ向けてチームを鍛え上げていった。
【娘が生まれた翌朝もグラウンドへ】
「夏に甲子園へ行こうと思うなら、来年春の関東大会に出るしかない。関東大会に出場できなければ、夏の甲子園はないと思ってやっていこう」
帝京に敗れた直後のミーティングで、小倉は選手たちにそう言い放った。当時1年だった西村は、この言葉が今でも強く心に残っているという。関東第一は豊富な練習量を誇り、毎朝5時半から朝練が行なわれていた。寺島、塩田、西村が異口同音に語るのは、ひたすら走り込んだ日々だ。
「とにかく毎日走っていました。監督さんも一緒に」
小倉は自ら先頭に立ち、合宿所から約5キロ先まで選手たちと走る。坂道では傾斜を利用したダッシュを何本も繰り返し、徹底した走り込みでチームの土台を築いていった。冬の強化合宿中には、小倉の次女・理佳さんが誕生した。
「練習が終わってから、監督さんは病院へ向かうため一度家に帰られたんです。だから『さすがに明日の朝練は来ないよね』ってみんなで話していました」
寺島は笑いながら当時を振り返る。
「ところが翌朝、監督室の前を見るとスリッパがあるんですよ(笑)」
小倉は明け方には合宿所に戻り、何事もなかったかのようにいつもどおり朝練に参加していた。寺島は言う。
「『お子さんが生まれた日くらい朝練を休めばいいのに』って、みんなで話していました(笑)。でも、いま振り返ると、監督さんはいつも自分たちのことを第一に考えてくれていたんだなって思います」
その姿勢は選手たちの胸に深く刻まれ、小倉とチームの絆はさらに強いものになっていった。
つづく>>
16:00~ 開 会 式
17:30~ 札幌 日大-仙台 育英
📝広島商の新監督に花坪研氏就任
https://news.yahoo.co.jp/articles/71bf56f5ee78e0b721d7891ad883a3f6bd4e1d64
春夏計7度の甲子園優勝を誇る広島商高の新監督に花坪研氏(46)=前部長=が8月1日付で就任したことが3日、分かった。今夏まで指揮を執った荒谷忠勝監督(49)は退任し、総監督に就任する。
📝甲子園のヒーローが和歌山から描いた野球の夢―紀州レンジャーズ誕生と独立リーグの苦闘―
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2641b6deb888e7b5a87d0d3cace5601aa3632675
7年前の夏、甲子園のマウンドで躍動し、「箕島」の名を全国に轟かせた石井毅。社会人の強豪、住友金属から西武ライオンズに進んだが、その現役生活は決して長いものではなかった。しかし、彼の野球人生はそれからが「本番」だった。(連載第4回)
西武を退団後、石井は故郷の和歌山に戻った。
「最初から、和歌山に戻るつもりでしたね。まあ、うちの家内も同級生なんで、家もこっち。だからすぐに帰ってきました」
当時28歳。普通なら途方に暮れそうなものだが、元々起業家精神があったのだろう、石井は若き実業家として第2の人生を歩み始めた。
「自分でちょっと、まあ、あの仕事というかね、みかん関係とか、ちょっとそんなんやろうかなって、会社を立ち上げました。不安?それはなかったね。人生、基本的に雇われるかフリーでやるかどっちかなんで。だったら、自分でやった方が楽じゃないですか。でもまあ、最初はね、儲かるんちゃうかなとか思って始めたけど、やっぱり儲からん(笑)。難しいですよ。まあ、でも成功してるかというとそうじゃないけど、細々と今までやっています」
事業と並行して野球にも関わり続けた。今度は裏方として支える側だった。
「事業を立ち上げてしばらくしたら、少年野球の監督やってる後輩から頼まれたんよ。それで地元の子供たちの指導することになりました。当時は、まだ元プロってことで高校は見に行くことできませんでしたけど」
ビジネスではなく、あくまでボランティアというかたちだったが、その後も石井は野球に関わり続けた。それがやがて自身のライフワークになり、20年ほど前にNPO法人を立ち上げた。
苦難の独立リーグ運営
「和歌山野球振興協会夢クラブというNPOを2003年に立ち上げたんですよ。その後ですわ、独立リーグの話が出てきたのは」
2008年に将来的な独立リーグ加入を念頭に成人のクラブチームを立ち上げたところに、関西地区にも独立リーグが発足するという話が舞い込んできた。
「最初は、NPO法人の方でスポーツアカデミーっていうのを立ち上げようとしてやったんですよ。廃校になった学校の施設を行政から借りて、始めたんやけど、やっぱり試合相手を探すのが難しかった。人数もなかなか集まってないところもあったところに(旧)関西独立リーグができるっていう話が来たんで乗りました。集まってくれた子たちをなんとかやらしたろうっていう気持ちの中で乗っかっていった感じですね」
それまで独立リーグが四国、北信越という地方に展開されていた中、「都市型」を標榜し、NPB2球団のホームがある阪神地区を中心としたリーグに、和歌山に本拠を置く独立リーグ球団「紀州レンジャーズ」が誕生した。
しかし、このリーグは開幕戦こそ大阪ドーム(現京セラドーム)に1万人を超える観衆を集めたものの、その後、注目を集めることはなく、創設者の「ビジネスマン」が開幕からふた月も経たぬ間にリーグ運営を投げ出してしまう。石井は、加盟4球団で新たに立ち上げた新運営会社の代表として、球団運営に加えてリーグ運営というタスクも背負うことになった。
「結局、5年続けたけどね。人生の中でもこんなしんどい思いをしたことない(笑)。あの話には、(西武時代の先輩の)石毛(宏典)さんも絡んでたからね。石毛さんも、やっぱりお金かけてやらなあかんっていう意識があったのか、あの人らが作った給料体系で始めてしまった。月給20万ですよ。リーグは分配金3000万円渡しますって言ったけど、蓋を開ければ、1円もないんやからね。ほんま。あんな苦しい目はなかった」
先行の四国、BCリーグのはるか上を行く報酬に少なからぬ選手が、四国や北陸から移籍してきた。しかし、結果的には、資金はなかばショートし、やがて報酬も支払われなくなった。
「それでも、選手に給料は2年くらいは払ったかな。もう要するに赤字垂れ流しもええとこよね。それでもまあ、絶対5年間はやりきろうというのはあったんで。最後はもうクラブチームに変えてやっていこうと話したんですけど、やっぱりね、うまくいかんかった。それに最後の方は、選手がプロをほんまに目指してるかとか、彼らのやる気をもう、あんまり感じなかったんで、ただ単に野球好きやからやってるみたいな。まあ、振り返ると、誰が悪いとかじゃなく、我々にも野心っていうのがありましたしね。何でも商売するとか、立ち上げる時って、次の夢を見ていくじゃないですか」
結局、独立リーグ球団運営に8000万円ほどの私財を投げ打ったという。
「なんとかやれるんちゃうかって思っていたけど、やっぱりそんな甘いもんじゃないね。西武時代にサンノゼでプレーした経験もあって、当時の知事も協力してくれたんやけど、やっぱり和歌山という地域を活性化したいというところもあったんですが。2年目からはつてをたどって韓国人オーナーを連れてきて韓国人球団もつくったんやけど、その韓国人を騙したような感じになってしまいましたな」
それでもその苦い経験は決して無駄にはなっていない。紀州レンジャーズは、今も少年野球チームとして生き続け、中学生チームの遠征というかたちで韓国とのつながりも保っている。
独立リーグ時代の教え子は、もう中年期に差し掛かっている。その中には、独立リーグでの経験を活かして、野球のインストラクターやトレーナーを生業としている者もいる。
「当時ね、私は彼ら(選手)に(独立リーグにいるのは)2年、長くて3年やと。それだけうちで自分のもん出せんかったら、引くべきやというのをずっと言ってきたんですけどね。やっぱり独立リーグは諦めの場所でもあるので。今も野球してるやつもいるては聞いてるけど、あの時の経験が生きているのならそれでいいし。ちゃんと働いて、頑張ってるやつの話を聞くとうれしいですよ。まあ独立リーグでやっていたことは、彼らにとって無駄でもないとは思うけどね。でもまあ、今、子供たちを相手にやってることの方がなんか自分に合ってるかなとは思いますね」
(つづく)
📝甲子園「マル得」情報
夏の甲子園「2回戦スタート校」は優勝確率“5倍増”! 背景に日本の熱帯気候化か
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/391204
今年も酷暑の中、5日に夏の甲子園が開幕する。開会式後の午後5時半から、札幌日大(南北海道)と仙台育英(宮城)による1回戦が行われる。
日本の夏はいまや、35度以上の猛暑日になるのは当たり前。40度以上に達することも珍しくない。湿度も高く、熱帯気候に属する東南アジア諸国と大差ないともいわれる。
そんな中、注目を集めているのが、「2回戦スタート」の学校だ。他校より決勝までに必要な試合数が1試合少なく、今夏は第6日の3試合目、高岡商(富山)対高川学園(山口)以降、第8日の2試合目の花咲徳栄(埼玉)までの15校が該当する。マスコミ関係者が言う。
「以前は、2回戦スタートの学校は分が悪かったが、近年は優勝する確率が大幅に上昇している。コロナ禍以降の2021年の智弁和歌山から仙台育英、慶応と3連覇するなど、直近10大会で優勝は5度。05年から14年までの10年間で優勝したのは05年の駒大苫小牧の1度のみでしたから、実に5倍に増えています」
2回戦スタートの学校が分が悪かった要因は、1回戦を勝ち上がってきた学校の勢いに飲まれやすいことがひとつ。甲子園入りしてから1週間強、試合はおろか、練習試合すらできない。途中に雨天中止があると、さらに初戦まで時間が空く。ある強豪校の監督は、「初戦の日程が遅ければ遅いほど、選手の集中力を維持しづらくなる」と言う。
象徴的だったのが、昨夏の大会で初戦敗退した神村学園だ。好投手を擁し、優勝候補と言われていたにもかかわらず、1回戦を勝ち抜いた創成館に0-1で完封負け。雨天順延を挟み、初戦を迎えたのは開会式から8日後。選手にエンジンがかかりきらず、本来の戦いができなかった。
とはいえ、直近の10年間は、2回戦スタートの学校の勝率が一気に増えている。社会問題化している酷暑によって、決勝までの試合数の多寡、消耗度の差が、勝敗を左右しやすくなっているようだ。
🎤明徳義塾・馬淵史郎監督が明かす「ビデオ検証3カ条」夏の甲子園で初採用 23年に高校日本代表監督で経験
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b7fd696e3d45c5b0ab3f50d863c3d5dbfe3bed4
第108回全国高校野球選手権大会の出場校による甲子園練習は2日に3日目を迎え、計12校が甲子園球場で15分ずつ練習した。今大会では、高校野球の公式戦で初めてビデオ検証が採用される。すでに高校日本代表監督として同制度を経験した明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督(70)が、行使を判断する上で大切な3カ条を説いた。
出場49校の中で、監督としてビデオ検証を経験した唯一の指揮官が、明徳義塾の馬淵監督だ。20~23年に高校日本代表監督を務め、同制度がある23年U18W杯で初の世界一に導いている。「行使して勝ちましたからね」。台湾との決勝では、攻撃時のアウト判定が覆って逆転劇が生まれた。その世界大会の経験を基に、判断に必要な条件は整理できている。
(1)出し惜しみしない NPBとは権利行使の回数が違う。9回までにNPBでは2度行使できる一方、今大会は一度しか認められていない。判定が覆れば再度行使できるが、3度目は認められない。その条件でも「(初回でも)やりますよ。イチかバチかやってもいい」と即答する。先制点の重要性を知る名将らしく、序盤の攻防での使用も選択肢として臨むつもりだ。
(2)流れを読む 「前半に使いたくはないですよ。でも相手に好投手がいる場合、前半の失点は重い。ここは監督の判断でしょう」。行使のタイミングには、試合展開を読む力も試されていると言えそうだ。
(3)選手を信じる W杯では選手に「絶対に覆る自信があるなら合図を」と指示していた。W杯で行使した場面は全て選手からのアピールがきっかけ。「アウト、セーフは選手が一番分かりますから」。選手の合図があってから行使するかを判断するという。
失敗すれば2度目の権利行使ができない「高校野球版ビデオ検証」。この新制度を基に新たな「馬淵マジック」が生まれる可能性もある。
▽23年U18W杯・台湾との決勝でのビデオ検証 0―1の4回1死二塁で丸田湊斗が一塁線へのセーフティーバントを敢行。打者走者の一塁判定はアウトになるも、ビデオ検証の結果、判定が覆って一、三塁と好機拡大。その後、敵失も絡んで丸田の生還で逆転に成功して世界一を達成した。
▽今大会のビデオ検証 「大学および高校野球におけるビデオ検証に関する特別規則」にのっとって運用。権利行使は一度のみで、判定が覆れば、あと一回に限り行使できる。延長では、9回までの行使回数にかかわらず一度行使でき、その結果にかかわらず、それ以降は行使できない。
≪今大会の特別ルール≫
◇DH制 今春の選抜で初採用され、夏も初導入。先発投手がDHとしても出場できる「大谷ルール」も採用。
◇継続試合 午前1試合、午後3試合の2部制の第1試合(午前8時開始)は原則午前11時で継続試合とする。同10時45分に終了していない場合、どのイニングまで続行するか協議する。
午後の部では、試合終了が午後7時30分を超えた場合は次の試合を行わない。試合終了が同10時を超える見込みとなった場合は続行の可否を協議する。
◇日程振り替え 継続試合や雨天中止などの場合は、翌日以降に振り替える。試合の順序変更は主催者と甲子園球場が協議して決定する。
◇タイブレーク 9回終了で同点の場合、延長10回無死一、二塁から始めるタイブレーク方式を採用。打順は9回から継続する。
◇球数制限 1人の投手が1週間で投球できる球数は500球以内とする。500球に到達した打者の打席は完了まで投球できる。
◇クーリングタイム 暑さ対策として、原則として5回終了時に8分間のクーリングタイムを設ける。
◇申告故意四球 試合時間短縮のために採用。投手の投球数には加算されない。
☟三重で離脱者続々…沖田監督「チームが結集するかな。甲子園はそういう力で勝ち進む」
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<全国高校野球選手権:甲子園練習>◇3日◇甲子園
三重で立て続けに離脱者が出た。投手陣の一角を担う古川稟久投手(3年)が右ひじ付近を肉離れして離脱。さらに右翼を守る松原創汰外野手(2年)が溶連菌感染のため、この日の甲子園練習に不参加だった。
三重の沖田展男監督(48)は「古川をもう一度投げさせようという思いでチームが結集するかなと思う。意外と甲子園はそういう力で勝ち進むかなと思います」と語った。松原からは「4日に合流できます」という連絡が入ったが、指揮官は「もう大丈夫やと言っていますが、9日をメドに」とコメント。5日の開会式に出たいだろうが、宿舎が3人部屋のため、そこは最善の態勢を取るつもりだ。
大会第7日、松商学園(長野)との対戦する。
🔥関東第一で歓迎されなかった無名の青年監督 それでも小倉全由は「甲子園を目指します」と理事長に言い放った
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名将たちの甲子園初出場物語小倉全由(前編)
2025年9月のU−18ワールドカップを最後に、高校野球の指導現場を離れた小倉全由氏。日大三の監督として2度の全国制覇を成し遂げたことから「三高の小倉」のイメージが強いが、監督としての第一歩を踏み出したのは関東第一だった。
小倉が初めて甲子園出場を果たしたのは、つくば万博が開催された1985年。監督就任5年目、まだ28歳の時だった。この「小倉の甲子園初出場」は、1925年創立の関東第一にとっても春夏通じて初の甲子園出場だった。さらに、江戸川区の高校としても初めての甲子園出場という歴史的な快挙でもあった。
バブル経済の足音が聞こえ始め、日本全体が活気に満ちていた時代、「学校はもちろん、地元の江戸川区も大いに盛り上がった、熱い夏でしたね」と、小倉はそう懐かしそうに振り返る。「打倒・帝京」にすべてをかけた熱血青年監督と、「下町の暴れん坊」と呼ばれた選手たちは、いかにして初の甲子園出場へと歩みを進めていったのか。その軌跡をたどる。
【実績ゼロの青年監督が選んだ道】
大学時代、母校・日大三でコーチを務めながら教員免許を取得した小倉は、監督の小枝守(のちに拓大紅陵監督)をサポート。大学4年の夏に甲子園出場を果たした。卒業後は母校の社会科教員兼野球部コーチとして、社会人生活をスタートさせる予定だった。しかし、学校側の事情により、監督の小枝とともに日大三を離れることになった。
関係者を通じて関東第一からコーチ就任のオファーが届いたのは、1980年12月のことだった。初めて学校を訪れた日、理事長から「君はどうしたいんだ?」と問われると、小倉は迷うことなく、「甲子園を目指します!」と答えた。
翌1981年4月、小倉の監督就任が決まり、初めて理事会に出席した。そこで感じたのは、歓迎ムードとはほど遠い空気だった。
「自分のような若造が監督をやることになって、皆さんトーンダウンしている雰囲気を感じましたね」
もっとも、小倉は「実績のない自分では仕方がない」と割りきった。監督に就任した小倉は、チームに「試合に出ている下級生が中心」という雰囲気を感じとった。そこで掲げたのが、「3年生と目一杯やる」という方針だった。初めて迎えた夏は國學院に惜敗したものの、「3年生が自分についてきてくれて、いつも一生懸命やってくれたことが本当にうれしかった」と振り返る。
夏を経験した選手たちが中心となった秋季大会では帝京を7対6で撃破。つづく準々決勝では、翌春の選抜で準優勝投手となる市原勝人(現・二松学舎大附監督)を擁する二松学舎大附に0対1で敗れるも善戦。翌年春の都大会でも、選抜帰りの早稲田実を相手に1対5で敗れたが、終盤まで0対0と互角の戦いを展開した。夏も準々決勝まで勝ち進み、修徳に2対3でサヨナラ負けを喫したが、小倉はチームづくりにたしかな手応えを感じ始めていた。
しかし、新チームとなった秋季大会では、準決勝で帝京に1対4で敗戦。この敗戦を機に、小倉は「帝京を倒さなければ甲子園はない」という思いがいっそう強くなった。
【就任3年目で決勝進出を果たすも...】
迎えた1983年4月。甲子園では池田(徳島)が選抜を制し、夏春連覇を達成するなど、「池田フィーバー」は社会現象となっていた。そんななか、のちに関東第一の甲子園初出場時に主将を務める寺島一男、エースへと成長する木島強志、さらに名門・調布シニア出身の田辺昭広や抜群のセンスを誇った塩田正廣らが入学した。有力校から声がかかるような名の知れた選手はいなかったが、小倉は新入生を見て「身体能力の高い選手や、足の速い選手が多い」と感じた。一方で、最も印象に残ったのは、その気性の激しさだった。
「野球をやっていなかったら、どうなっちゃうんだよって心配になるくらい、向こう気の強いやつらが集まっていましたね(笑)」
田辺や塩田ら1年生数人がベンチ入りした1983年夏、小倉率いる関東第一は大きな飛躍を遂げた。好投手・山崎勝巳を擁して勝ち進むと、準決勝では夏4連覇を狙う早稲田実を7回コールドで撃破。そして決勝で待ち受けていたのは、前年秋に苦杯をなめた因縁の相手・帝京だった。大柄な選手が揃う帝京に対し、関東第一は小柄な選手が多いチームだった。それだけに小倉は、「こういうチームが甲子園に行けたら、それこそ本当の高校野球だよな」と日頃から感じていたという。しかし決勝を前に、周囲の予想は圧倒的に帝京優勢だった。
「何点取られるんだろうという感じで、みんな帝京の圧勝を予想していましたね」
それでも関東第一は最後まで食い下がり、2対3とあと一歩まで追い詰めた。閉会式では号泣する選手たちを前に、「本当によくやってくれた」とねぎらったが、就任3年目で味わったこの敗戦は、小倉の監督人生における大きなターニングポイントとなる。
「打倒・帝京。それしかなかったですね」
この敗戦を境に、その思いはさらに強くなった。「縦縞のユニフォームは大嫌いだ。見たくない」と、あえて強い言葉を口にしながら、選手たちの闘争心をかき立て、「打倒・帝京」をチームの揺るぎない目標に据えていった。
【有望中学生の獲得に成功】
決勝で帝京に惜敗した悔しさを胸に、小倉はすぐに次の戦いへと動き出した。力を注いだのは中学生の勧誘だった。当時は「甲子園に出るまでは、声をかけてもなかなか来てくれない」という状況が続いていたが、それでもあきらめなかった。東京ナンバーワンとの呼び声が高かった板橋シニアの西村忠之を獲得するため、何度も足を運んだ。ある日には、普段なかなか家族サービスができない妻・敏子さんと長女・弓佳さんを車に乗せて出かけたものの、家族を車内で待たせたまま、自分だけ戸田市(埼玉)のグラウンドへ向かい、西村の試合を視察したこともあった。
西村の兄は帝京野球部の出身だった。兄からは「関東第一はこれから絶対に強くなるけど、練習は厳しいぞ」と聞かされていたという。それでも西村は、「決勝で帝京に敗れた関東第一を見て、『まだ甲子園に出たことがないこの学校で挑戦してみたい』と思いました。そして何より、小倉監督の熱い思いがうれしかったんです」と関東第一への進学を決意した。
西村から「よろしくお願いします」という返事をもらった小倉は、真っ先に妻の敏子さんへ報告。「あの時は本当にうれしかったですね」と、昨日のことのように覚えている。1984年夏、城西大城西に敗れて新チームが始動すると、小倉は寺島を主将に、塩田と田辺を副主将に指名した。
「この秋は密かに狙っていたんですよ」
前チームからの経験者も多く、どこと対戦してもいい戦いはできるだろうと思っていた。しかし、秋季ブロック予選では皮肉にも帝京と同じブロックに入り、2戦目で激突した。接戦が期待されたものの、結果は1対10の大敗。しかも帝京はエース・小林昭則を温存し、背番号10の小林宏之を先発させる余裕すら見せた。この敗戦のショックは大きかったが、落ち込んでいる暇などなかった。翌日からすぐに猛練習を再開。再び「打倒・帝京」へ向けてチームを鍛え上げていった。
【娘が生まれた翌朝もグラウンドへ】
「夏に甲子園へ行こうと思うなら、来年春の関東大会に出るしかない。関東大会に出場できなければ、夏の甲子園はないと思ってやっていこう」
帝京に敗れた直後のミーティングで、小倉は選手たちにそう言い放った。当時1年だった西村は、この言葉が今でも強く心に残っているという。関東第一は豊富な練習量を誇り、毎朝5時半から朝練が行なわれていた。寺島、塩田、西村が異口同音に語るのは、ひたすら走り込んだ日々だ。
「とにかく毎日走っていました。監督さんも一緒に」
小倉は自ら先頭に立ち、合宿所から約5キロ先まで選手たちと走る。坂道では傾斜を利用したダッシュを何本も繰り返し、徹底した走り込みでチームの土台を築いていった。冬の強化合宿中には、小倉の次女・理佳さんが誕生した。
「練習が終わってから、監督さんは病院へ向かうため一度家に帰られたんです。だから『さすがに明日の朝練は来ないよね』ってみんなで話していました」
寺島は笑いながら当時を振り返る。
「ところが翌朝、監督室の前を見るとスリッパがあるんですよ(笑)」
小倉は明け方には合宿所に戻り、何事もなかったかのようにいつもどおり朝練に参加していた。寺島は言う。
「『お子さんが生まれた日くらい朝練を休めばいいのに』って、みんなで話していました(笑)。でも、いま振り返ると、監督さんはいつも自分たちのことを第一に考えてくれていたんだなって思います」
その姿勢は選手たちの胸に深く刻まれ、小倉とチームの絆はさらに強いものになっていった。
つづく>>