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📝【2026夏の甲子園】初戦で「勝つ高校」「負ける高校」完全予想!横浜vs沖縄尚学の超好カードは…
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/391209

5日に開幕する夏の甲子園初戦24試合の勝敗を占った。

第1日=5日 第1試合は5戦59得点の強力打線を誇る仙台育英が札幌日大に勝つ。

第2日=6日 第1試合は県内60連勝の神村学園が東筑との九州対決を制す。神村学園は今春センバツ1回戦で優勝候補の横浜を2-0で撃破。地力はある。
第2試合は昨夏の大会を経験した「高校ビッグ4」のエース左腕で最速150キロの高部擁する聖隷クリストファーが春夏出場の佐野日大を倒す。

第3日=7日 第1試合は元巨人・仲沢監督率いる東海大甲府が鶴岡東を下す。
第2試合は主将の石田雄、エース石垣、1番神崎が引っ張る健大高崎が八幡商を倒す。
第3試合は立命館宇治が有明に勝つ。
第4試合は今春センバツで山梨学院と接戦を演じた長崎日大が立正大淞南を下す。

第4日=8日 第1試合は準決勝まで2ケタ安打で勝ち上がった青森山田が遊学館を倒す。
第2試合は148キロ右腕・照沼擁する初出場の東日本国際大昌平が白樺学園を下す。
第3試合は大分商が日本文理に競り勝つ。大分商は準決勝で5連覇中の明豊を撃破。エースの平田はMAX152キロの好投手だ。
第4試合は切れ目のない打線と堅守で東東京V3の関東第一がセンバツ8強の英明を倒す。2年生の高橋はMAX152キロ。技巧派の左腕エースも勝負強い。

第5日=9日 第1試合は二刀流の萬谷が引っ張る花巻東が新田を倒す。
第2試合は3年連続の岡山学芸館が鳥取城北を下す。
第3試合は鳴門渦潮と八王子実践の試合。スポーツライターの美山和也氏がこう言う。

「鳴門渦潮は右のエースで3番の西村が徳島大会5戦に先発した大黒柱。チームも粘り強い。対する初出場の八王子実践は、西東京大会4回戦の日大鶴ケ丘戦で6失策。大会計12失策の守備力が課題。鳴門渦潮が勝つとみる」

第4試合はMAX148キロの稲山を擁する霞ケ浦が中京を倒す。

第6日=10日 第1試合は明徳義塾と日南学園の対戦。高校野球雑誌「ホームラン」の元編集長・戸田道男氏が言う。

「日南学園の投手陣は、右腕・田中、左腕・谷口の二枚看板。この2人が投打の中心で、打線も県大会決勝で19安打11得点を挙げた破壊力がある。一方で接戦をものにするしぶとさもある。明徳は1年春から正捕手を務める里山が4番でチームを牽引しているが、かつてのような試合巧者ぶりが影を潜めている。メディアの評価は軒並みC判定ですが、日南学園が強豪の明徳を倒す番狂わせがあると予想します」

第2試合は横浜が沖縄尚学との昨年の春夏優勝校対決を制す。横浜は最速157キロの織田ら投手陣の層が厚く、7戦64得点の打線も破壊力満点。対する沖縄尚学は新垣、末吉、久高の3枚看板を擁し、センバツ後に守備も鍛え直したものの、相手が悪かった。
以降2回戦に入る第3試合はプロ注目右腕・木下を擁する高川学園が高岡商を下す。
第4試合は天理が初出場の福山に勝つ。

第7日=11日 第1試合は敦賀気比が57年ぶりの横手に快勝。
第2試合は智弁和歌山が社との近畿勢対決を制す。第3試合は履正社と享栄が激突。
総合力で享栄が勝つ。
第4試合は三重が松商学園に勝つ。

第8日=12日 第1試合は拓大紅陵が佐賀商を下す。
第2試合は花咲徳栄が札幌日大と仙台育英の勝者と対戦する。

☟地方大会、正午プレーボールの試合があるのはなぜ?熱中症を心配し、首をかしげる保護者の姿も
https://news.yahoo.co.jp/articles/c88cec1d1204401b8b6f5a064cd7a0654ba3e105?page=1

組み合わせ抽選会が1日に行われた第108回全国高校野球選手権大会。出場をかけた地方大会では、暑熱対策で対応が分かれた。朝夕の2部制を取ったり、試合開始を午前に固めたりする大会がある一方、正午から2試合のスケジュールもあった滋賀など真昼にゲームが始まる大会もあった。脚がつるなど熱中症の症状を訴えた選手も出ており、来年の課題となりそうだ。(香山優真)

大津市で最高気温が32・9度の真夏日となった7月13日、マイネットスタジアム皇子山で行われた滋賀大会2回戦。正午に始まった第1試合の五回終了後、球場スタッフがグラウンドの整地に入る一方、選手たちは冷房の利いた部屋に引き揚げ、クールダウンを行った。

47チームが計46試合を繰り広げた滋賀大会では2球場が会場となり、1日に最大6試合が行われた。このうち、夏休み前の7~10日と13日の5日間は、2球場で正午から2試合ずつ計10試合というスケジュールが組まれ、最高気温が34・1度まで上がった日もあった。

正午開始について、滋賀県高野連は「午前中に授業がある学校への配慮」が理由と説明する。選手に加え、応援する生徒らに授業を終えてから球場に行ってもらおうという判断だという。ただ、「正午から始めても選手は調整や移動で授業は受けられない。応援する生徒も試合開始に間に合わない」(県立高野球部の元主将)という声もある。

県教育委員会の担当者は、授業時間に配慮するための正午の試合開始は慣例とする一方、「暑さの中でのプレーは近年ますます過酷になっている。2部制への移行を考える必要性は感じている」と説明した。記者は滋賀大会の取材で、「正午開始」に首をかしげる観客に何人も会った。スタンドから試合を見守った選手の母親(49)は「昼の一番暑い時間帯に始まるので、熱中症が心配」と案じていた。

県高野連も手をこまぬいていたわけではない。ナインがいるベンチに大型扇風機やウォーターサーバーを設置し、各チームにシャーベット状の飲料を配布したほか、守備が20分を超えた場合は給水タイムを設けた。ある高野連関係者は「本当は朝から試合がしたい」と漏らした。

夏の甲子園では、2024年から朝夕の2部制が導入されている。日本高野連の井本亘事務局長は、「気温が上昇して熱中症が出やすい午前11時から午後2時頃の時間を極力避けたい」と強調した。
甲子園にならい、三重、富山などの大会は2部制を導入した。昨夏に導入した三重大会は、授業のない土・日曜日に試合を組みつつ、校長会の了承を取って予備日を平日とした。富山大会では昨夏、熱中症による救急搬送は観客を含めてゼロだった。静岡など、試合開始時刻を午前中に設定した大会も目立った。

2部制を採用した大会では試合の合間が長くなったことで、観客の入れ替えが円滑になったり、駐車場の混雑が緩和したりする「副次効果」もあったという。

関西大の神谷拓教授(スポーツ教育学)の話「授業を優先すべきだという考えは正論だが、選手らの健康管理は大前提だ。授業と大会を両立するためには、2部制を実施している地域の例を参考に、他の都道府県でも導入を検討していくべきだろう」

📝甲子園優勝投手、その後:箕島のエース石井毅、社会人野球から西武入団、そしてアメリカへ
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/96c99a1365015256889bfd9314f6cad032881bf9

甲子園から社会人の強豪へ
 
高校卒業時にはプロ志望はなかったという石井だったが、強豪・箕島のエースをスカウトが見逃すはずはなかった。

「あとで聞いたんやけど、(スカウトは)来てたらしいですわ」

無論、監督の尾藤は、挨拶くらいは受けていただろうが、そのことを石井に伝えることはなかった。当時、和歌山には住友金属という社会人の強豪チームをもつ大企業があった。石井と入れ替わりにはなるが、のちに西武でチームメイトになる森繁和もこのチーム出身だった。尾藤は、石井と嶋田(宗彦, のち阪神)のバッテリーをこの地元企業に預けることにしたようだ。

「ほんとは、(進路選択の)途中でね、大学行きたいなとかは思ったんですよ。なんかね、周囲に大学行くやつも出てきたんで。それで、俺も大学行きたいなって(笑)。その時に、大学に行った先輩が帰ってきたら、鼻曲がったてるんですよ。その先輩から『小遣い付きでおまえ獲るって(大学が)言ってるぞ』って言われたんやけど、絶対行きませんって(笑)。でもその大学じゃなかったら行きたなって部長先生に言ったら、いまさらあかんわって。住金断れん。大人の事情だからダメって。まあ、でも住金行って僕は良かったと思いますよ」

会社の広告塔として工場案内役に
 
社会人野球の強豪には、選手たちは半ば競技に専念し、会社には顔を出すだけというチームもあるが、住友金属は選手をあくまで「社員」として扱った。入社後、石井は総務課に配属された。

「もちろん、昼間で仕事でしたよ。総務課の業務には、工場見学の案内があったんです。社会科見学の子供たち案内するんです。僕は広報部隊に入れられて、入って 1ヶ月ぐらいでもうバスに乗って案内せえって言われました」

会社としても、高卒1年目の新入社員に雑用をさせるよりは、その知名度を生かした仕事をさせたほうがいいだろうと判断したのだろう。石井は会社の看板として、社業でも早速「戦力」になった。

「見学の案内の最後は質問コーナーなんです。先輩から、『おまえ、質問受けろ』って言われたんで、受けたんですが、質問はおおかた工場のことじゃなくて野球の質問でしたわ。当時は(工場見学に来る)小学校4年生、5年生ぐらいの子には野球やってる子が多かったからね。それだけやなくて、朝ちゃんとね会社行って、新聞記事切り取ったりとかしてましたよ。僕がいまあるのは、会社がちゃんと指導してくれたおかげです。あの時分は、もう天狗になってましたから。でも、会社は一切特別扱いしなかった」

「全日本」漏れがプロ入りのきっかけ
 
社会人2年目には「全日本」にも選ばれてインターコンチネンタル大会に出場した。

「カナダで行われたんやけど、プロ行くような人が集まってました。阪神に行った中西球道(清起, リッカー)が一番若くて、僕は1つ上。その時は、全日本に選ばれることが基本当たり前のようにこう思ってましたね」

アマチュア野球のトップクラスにまで上り詰めるようになっても、石井の中にはまだプロ入りという選択肢はなかった。ところが、その後調子を崩したことが、プロ入りへの意識を目覚めさせた。

「その後ちょっと調子悪くて全日本から外れたんですよ。それで、3年目の年に全日本選ばれんかったらプロ行こうと思ったんです」

半ばやけになって臨んだ社会人3年目のシーズンだったが、腹をくくったのが良かったのか、都市対抗で大活躍し、チームを優勝に導くとともに、大会MVPにあたる橋戸賞を受賞した。

「まあ、優勝メンバーは、だいたい次の年の全日本に選ばれるんやけど、もうプロって決めたんで」

1982年ドラフト。石井は黄金時代を迎えようとしていた西武ライオンズから3位指名を受け、プロ入りを決断する。

黄金時代の波には乗れなかったプロ時代
 
当時の西武は、「管理野球」の廣岡達郎の下、埼玉移転以来初の優勝を飾り、黄金時代に突入しようとしていた。そんな強豪チームからの指名だったが、石井に不安はなかった。

「まあ不安って言ったら、関西人なんで、東京に出るっていうことにはちょっと不安を感じましたが、それだけ。そもそも西武の条件がすごく良かったからね。3位指名やけど、もうドラ1と同じ条件でって言われて」

しかし、現実は厳しかった。チームが連覇を果たし、シリーズでも巨人を倒して「球界の盟主」の座を奪う中、石井はたった2試合の登板に終わる。

「まあちょっとね、キャンプで怪我したのがね。最初、調子良かったんですけど、結局、出遅れました」

ルーキーシーズンを2試合の登板で終えた石井にアメリカ行きが命ぜられた。当時、西武は若手選手をアメリカマイナーリーグに武者修行させていた。

「最初言われた時は驚きましたけど、僕からしたらラッキーでしたね。行って良かったって思いますよ」

この武者修行組がやがてチームの黄金時代を支えることになる。

「僕らの前の年にはひとつ下の秋山なんかが行ってましたね。彼なんかは西武入ってから、しばらくはほとんど一軍の試合に出てないと思うんですよ。それで、アメリカのマイナーでやってきた中で育った人間やと思います。そういうのもあるから、期待をしてるもんしか派遣されない。そこはやっぱり(アメリカに)行って戻ってきたら、チャンスもらえるっていうのはわかってるんで」

石井らは、球団が提携を結んでいたジャイアンツ傘下のA級チーム、サンノゼ・ビーズに派遣された。「派遣」であるから、西武球団から給料をもらいながらのプレーだ。その給料は、マイナーリーガーが聞けば腰を抜かすほど高額なものだった。石井がアメリカで見たのは「格差社会」の現実だった。

「僕ら普段は西武の選手で自炊してたんですけど、たまに試合終わって飯食いにいくと、ええかって、アメリカの選手がついてくるんですよ。それでピザ食べてると、今度は、それ食べてええか、みたいな。試合前も僕らはちょっと売店でなんか買うてきて食べるけど、彼ら何もないみたいな状況でした」

西武から給料をもらっている上、アメリカでも活躍の度合いによってボーナスなどが支給された。その「ボーナス」は、勝利投手で10ドル。遠征に行けば100ドルがミールマネーとして手渡されたこともあった。とりわけ、奪三振に対して出る5ドルのボーナスは「おいしかった」。

「勝利投手が10ドルで三振5ドルってバランス悪いように見えるけど、やっぱり三振取ったらお客さん喜ぶしね。だからかな。あの時は工藤(公康)君いたけど、僕も工藤もリリーフやった。投げるのは1イニング2イニングなんやけど。僕はアンダースローいうのもあって、マイナーなんで結構三振取れました」。

石井は、1984年シーズンの半ばまでサンノゼで過ごした後、日本に帰国、未勝利に終わったものの、シーズン後半だけで43イニングを投げた。石井は、アメリカに行って、日本の環境が恵まれていることを痛感したという。

「向こうはナイター照明も暗かったしね。メジャー球団から派遣されて来てる選手なんか、本当にね、その日のもう飯さえ食えればいいみたいな奴らが集まっていましたから。そういう経験は、独立リーグやっているときに活きました。

結局プロでは5年で85試合に登板、8勝4敗4セーブに終わった。この間、チームが優勝を逃したのは、石井が渡米した1984年だけだった。ある意味入ったチームが悪かったのかもしれない。

「うーん、まあ、まあでも投手力を考えたら、入れんところではなかったかなと。高校からとか大学からならびっくりしたかもわからんけど、僕は社会人でやってきたじゃないですか。そやからそんなに(他の投手が)上には見えんかった。特に入団した頃は、松沼兄やんとか、高橋直樹さんとかはもうベテランでしたし、チャンスあるなと。実際、渡辺久信とか工藤はその中に入っていきましたから。うーん、まあプロの世界ってまあそんなもんやろうし」

                (つづく)

📝「明徳義塾の馬淵監督なら…」 宮崎商監督が語る「あと1歩」の遠さ
https://news.yahoo.co.jp/articles/f4a49022b7d080bc45ed1b700ac4867171a12615

令和に入って宮崎県代表校で「甲子園1勝」に最も近づいたのは宮崎商だ。2024年夏は3―4、25年夏は5―6といずれも1点差の惜敗だった。だが、監督の橋口光朗さん(37)は「完全に力不足だった」と振り返る。

24年は1回戦で中京大中京(愛知)と対戦した。春夏計11回の全国優勝を誇る古豪だが、橋口さんにも選手たちにも臆する気持ちはなかった。試合は2点を先行されるも六回に追い付き、七回表に1点を勝ち越した。

試合終盤に継投のマウンドを託す予定だった遊撃手の中村奈一輝選手=現中日ドラゴンズ=は、最速146キロの直球を投げる剛腕。好投を続けていた先発投手の様子をみながら、キリのよいところで中村選手に継投して逃げ切る。描いた勝利プランは、思わぬアクシデントで崩れた。
七回裏の守備。後方への飛球を追った中村選手の足がつり、全力投球が難しくなった。直後にピンチを迎えたが、先発投手を続投させるほかなかった。2点を失って試合に敗れた。

橋口さんは「精いっぱいの戦いをしたが、これでも足りないのか」と思った。宮崎商には複数の好投手や好打者がいて、甲子園での戦いにも自信があった。「でも、遊撃手の中村に終盤のマウンドを託すしか勝利への選択肢がなかった。選手層の厚みがなかった」

■露呈した「チームの弱さ」

25年の夏は宮崎大会5試合のうち4試合を1点差で勝つ、粘りの野球で甲子園に出場した。1回戦の相手は開星(島根)。3点差を追い付き、そこから2点をリードされても九回表に再び同点とした。チームの特長を発揮した戦いぶりに、スタンドからも大きな拍手が湧き、追い風が吹いたように見えた。だが、延長タイブレーク十回表の攻撃は先頭打者がバントを決められずに三振。次打者も内野ゴロで併殺に倒れ無得点に終わった。その裏の守備では、先頭打者のバントを処理した野手が悪送球してピンチを広げると、犠飛を打たれてサヨナラ負けした。

橋口さんはこの十回の攻防に、隠していたチームの弱さが露呈したと振り返る。この代のチームで前年夏の甲子園にベンチ入りしていた選手は1人だけ。「バントが不得意、送球が不安定。そうした選手もいる弱みをごまかしながら地方大会を勝ち上がったが、甲子園では通用しません」

自身の力量不足も感じたという。「例えば、経験豊富な明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督が指揮していたら、この2試合とも勝たせていたと思うんです」。甲子園で勝つための野球をするという普段からの選手への意識付け、大舞台のここぞという場面でも決められるサインプレーの磨き上げ、選手への声掛けやベンチでの振る舞い方――。「感覚的で経験からしか学べないことも多い。指導者の経験、力量はとても大切です」と語る。

■「決勝を早めたほうがよいかも」

球場での戦い方の他にも改善点があることに気付いた。橋口さんは昨夏の甲子園を終えると「宮崎大会の決勝日程を早めた方がよいかも知れない」と、県高校野球連盟に経験を伝えた。

宮崎大会の代表校は例年、8月初旬の甲子園大会開幕に合わせて7月末頃に大阪の宿舎に入る。昨夏の宮崎大会決勝は7月26日で、宮崎商はあいさつ回りなどを慌ただしく終えるとすぐに関西へ向かった。「大会を終えて選手たちを3日程度休養させた後、宮崎でしっかり練習して関西に入れば、より良い体調で初戦に臨めると感じました」

県高野連はこの話も踏まえて今夏の大会の日程を検討。決勝を20日に設定した。全国の舞台で積まれた経験が一つ、宮崎の高校野球強化のために生かされた。

春と夏を合わせた宮崎代表の戦績は、2018年夏の第100回大会で日南学園が初戦で勝ったのを最後に、令和に入ってから0勝。これは全国で宮崎のみだ。甲子園で勝つには何が必要なのか。ヒントを得ようと高校野球に携わる人々を訪ねた。

📝宮崎大会で好投しても 日高暖己さんが感じた甲子園常連校との違い
https://news.yahoo.co.jp/articles/50dde9225d9dbd1aac2e9958e1be5a7faed5846e

最速148キロの直球に多彩な変化球を操り、5試合のうち決勝を含む4試合を完投――。43イニングでわずか3失点と、2022年の宮崎大会は富島のエース、日高暖己(あつみ)さん(21)=現広島カープ=の夏だった。その好投手も甲子園のマウンドに苦しんだ。なぜだったのか。

■五感狂わせる甲子園

「硬い」。日高さんは甲子園球場で初回のマウンドに登ったとき、足裏に違和感を覚えた。この年は新型コロナ禍の影響で、例年は設けられる、開幕の数日前に甲子園球場で練習する機会が設けられず、日高さんは試合で初めて甲子園の土を踏んだ。

初戦となった2回戦、下関国際(山口)と対戦したのは大会6日目の第4試合。直前に投球練習したファウルグラウンドのブルペンは整備されておらず、前の試合の投手たちによって土が掘られたままで、軟らかかった。そして本番のマウンドは、しっかりと整備されて硬くなっていた。ブルペンとは異なる足元の感覚になじめないまま、試合が始まった。

■感じたことのない「いやらしさ」

相手打者と対峙すると、別の違和感に戸惑った。「バットを振らない」。丁寧にコーナーを突いた立ち上がりの投球に、相手打者はストライクでもじっくりとボールを見逃してきた。
練習試合で手合わせした九州の強豪校や宮崎大会の対戦校は積極的な打撃のチームばかりだった。下関国際の打者にはそれまで感じたことのない、いやらしさを覚えた。

宮崎の球場とは異なる、バックネット裏の観客席の低さにホームベースを近くに感じたり、遠くに感じたりと遠近感も狂った。制球に苦労する中できわどいコースを見極められ、四球も与えて球数が重なった。野手も初めての甲子園のグラウンドに戸惑った。「試合前のシートノックから暴投が多かった。緊張もあるが、球場に慣れていないことが大きかったのだと思う」

通常ならアウトになるゴロが、内野手の出足が遅れて内野安打になる。単打で止まる当たりが、銀傘や観客席と重なった打球を外野手が見失いかけて長打になる。そうした記録には表れないミスが重なり、失点につながった結果、0―5で完敗した。
下関国際には、そうしたミスがほとんど見られなかった。「前年の選抜大会にも出場しており、甲子園球場に慣れていたのではないか」。小さなミスはしても、得点を許したり試合の流れを相手に渡したりするような大きなミスは犯さない。その夏、全国準優勝した下関国際には「チームの約束事を選手全員が徹底できているしたたかさ」があったという。

■プロ入りして気づいた差は…

プロに入って、甲子園常連校出身の同年代の選手たちと高校時代の話をすることがある。野球への取り組み方や力量は変わらないが、経験値には差があると感じた。

「甲子園常連校は頻繁に遠征し、他県の強豪校と練習試合を重ねていると聞く」「富島は県立高で、県外に出て強豪校と練習試合をする機会はそれほど多くなかった」。高いレベルで多様な野球を体感する経験は、十分ではなかったと振り返る。

試合後、下関国際の選手が喜ぶ様子を目の当たりにして「県大会での優勝よりも、うれしいのかもしれない」と感じた。

宮崎の後輩球児たちにはその喜びを手にして欲しい。だから「普段の練習からなれ合わず、厳しくても互いの成長につながる言葉を掛け合って」と助言する。そして、今夏の宮崎大会に向けて「一球一打、これが最後になるかもしれないと思いを込めて。反省などせず思い切りプレーを。チームのための役割を果たし、勝てたら最高です」とエールを送った。
2026/08/03(月) 22時31分09秒 No.2560 編集 削除