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宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

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⚾今日の和歌山大会試合結果(1・2回戦)
3日目第1試合 日高中津-県和歌山 8:30?~10:43
          一二三四五六七八九十計HE
      日高中津100010102 5123
      県和歌山101000000 231

3日目第2試合 近大新宮-紀北工 11:24~13:30
          一二三四五六七八九十計HE
      紀 北 工00000000  021
      近大新宮00410101x  7151


3日目第3試合 和歌山東-海南 15:00?~17:02
          一二三四五六七八九十計HE
      和歌山東070000001 8132
      海  南210000020 592

⚾明日の和歌山大会組み合わせ(4日目 2回戦)
 ☆☆ 08:30~ 和歌山南陵- 田 辺
  ☆ 11:00~  那 賀 -智弁和歌山
    15:00~  橋 本 - 耐 久

📝持丸修一 78歳名将の高校野球論
半世紀の指導歴の中で今夏の専大松戸が「歴代最強チーム」になる条件…初戦は12日、四街道と戦います
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/390279

4月に高野連会長を電撃辞任した宝氏をめぐる報道。そして、西の強豪校野球部員の書類送検──。

耳を疑うようなニュースが相次いで飛び込んできていますが、今はそうした話題に触れている余裕はありません。夏の千葉大会はすでに開幕。学校の期末テストも終わり、3年生は最後の夏へ向け、目の色を変えています。わが専大松戸の初戦は12日。1回戦で天羽を27-0で下した四街道と戦います。

今のチームは、今春センバツでベスト4。これは私の半世紀に及ぶ指導歴の中で最高の成績です。だからでしょうか、「歴代最強チームですか」なんて聞かれることもありますが、「はい、そうです」と言い切れないのが実情です。打撃に関して言えば、打線の勝負強さは、過去一番かもしれません。1年時から上級生に割って入ってきた捕手の吉岡、遊撃手の高貝らが、埋もれることなく打線を引っ張ってくれている。それが何より大きいと感じています。

しかし、私の理想は「打ち勝つ野球」ではなく、「守り勝つ野球」です。打線は水物で、その日その日で出来不出来が大きく、計算しにくい。一方、守備には日々の練習量と準備がはっきり表れます。派手な好捕に偶然はあっても、捕る、投げる、連係するという基本動作は積み重ねの結果です。打てない日でも負けないチームをつくるには、やはり守備力が絶対的に欠かせません。

「歴代最強」と胸を張れない理由は、そこにある。守り勝つ野球の土台となる投手陣に、不安要素を抱えているからです。

2年生左腕の小林は肘の不具合の回復が間に合わず、登録メンバーから外さざるを得ませんでした。昨秋の関東大会では、あの横浜を相手に2失点完投。センバツでも2試合に登板。今大会でも期待していただけに……。他の投手陣も育ってきてはいますが、やはり大きな痛手です。

もっとも、好材料もあります。柱である門倉が春先からの不調を脱することができました。投球時に前方へ突っ込みすぎないよう修正したことで、リリースポイントが安定。球威はセンバツ以上になっています。また、課題として以前の当コラムで触れていた「新戦力の発掘」についても、制球力のいい1年生左腕と、楽しみな1年生打者をピックアップできた。さらに、初戦を突破できれば、次はZOZOマリンスタジアムで試合できる。これもチームにとって大きな経験になるでしょう。

まだまだチームは発展途上。絶対に負けられない実戦を一つずつ勝ち上がる中で、もっと強くなれる。今の力が「100」だとすれば、この夏の戦いを通じて「150」まで伸ばし、甲子園切符をつかみたい。その時に初めて、「歴代最強」と言えるチームになるのかもしれません。

👣1球ごとに「うりゃ」 唯一の3年・紀北工の下野主将がピンチで力投
https://news.yahoo.co.jp/articles/9106d575f2f14309635d2c343d9b99594e0ebf3f

12日、第108回全国高校野球選手権和歌山大会2回戦 紀北工0―8近大新宮=8回コールド)

七回2死一、三塁。1点失えばコールド負けが決まる場面で、紀北工の下野洋輔主将(3年)が三塁手から救援のマウンドに立った。
1球ごとに「うりゃ」と声を上げて投げ込み、ピンチの芽を摘んだ。小躍りしながらベンチに戻ると、仲間から「ナイスピッチング」と声をかけられた。

12人の部員のうち、唯一の3年生。同級生の部員は1年秋までに辞めていった。自分も続けるかどうか悩んだが、両親から「がんばれ」と励まされ、思いとどまった。
昨秋、新チームで主将になった直後、熱中症による体調不良で思うように練習ができない時期が続いた。それでも、174センチ、97キロの体格を生かして四番を務め、下級生に助けられながらチームを引っ張ってきた。

この日は追いかける展開でピンチを迎えるたびに、仲間に声をかけ続けた。谷本憲司監督は「責任感が強い。しんどいときに支えてくれる同級生がいない中、よくがんばってくれた」とねぎらった。
試合に敗れた後のロッカールーム。下野主将の表情に涙はなかった。「最後までやり切りました。悔いは全くありません」。すがすがしい表情で球場を後にした。

👣東海大菅生・若林弘泰監督が今年度限りで退任へ「夏は今年が最後」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9276a82c49886e9b147a14e719dc2609ed947011

<高校野球西東京大会:東海大菅生10-0多摩工科>◇12日◇1回戦◇スリーボンドスタジアム八王子

東海大菅生の若林弘泰監督(60)が12日、今年度限りで退任することが分かった。同校は多摩工科に6回コールド勝ちで初戦を突破した。

試合後「今年度で定年を迎え、一つの区切りとして東海大菅生の監督を退任します」と話した。今秋については「まだやるか分からないんですけど、夏は今年が最後です」と明言。17年間率いてきた東海大菅生での監督生活に、幕を下ろす決断を下した。

若林監督は東海大相模(神奈川)を卒業後、東海大、日立製作所を経て、1991年ドラフト4位で中日ドラゴンズに入団。2009年に東海大菅生の監督に就任すると、2017年夏には西東京大会を制して甲子園4強入りを果たすなど、同校を全国屈指の強豪へと押し上げた。

📝一球にかける夏始まる 第108回全国高校野球選手権鳥取大会が開幕
https://news.yahoo.co.jp/articles/d2a5786f4125eb36d83b6cf9e176ebdb2af899af

第108回全国高校野球選手権鳥取大会が11日、開幕した。ヤマタスポーツパーク野球場であった開会式では23校21チームの選手たちが力強く行進し、スタンドの観客から大きな声援が送られた。開幕試合は、鳥取西が米子と対戦し、10―5の熱戦を制した。

青い夏空が広がった午前8時半。鳥取西高校吹奏楽部が奏でるファンファーレで開会式が始まった。県高野連の政門笑太理事が先導し、昨年の覇者・鳥取城北を先頭に、全21チームの選手たちがグラウンドへ入場し、堂々とした行進を見せた。

司会は鳥取商の野球部マネジャー・高嶋凛さん。鳥取西高校合唱部の伊吹周介さんは国歌を独唱し、部員とともに大会歌「栄冠は君に輝く」を歌い上げた。

開会式で県高野連の井上祐一郎会長は、大会歌に触れ、栄冠は勝者だけでなく、切磋琢磨し汗を流したすべての選手に輝くと強調。「光あふれる夏の舞台で、一球に一身を懸ける高校生らしい、熱くさわやかな試合を期待します」とあいさつした。

             ◇

「最高の夏にします」。開会式の選手宣誓は、昨年の優勝校、鳥取城北の山本尚太主将(3年)が務めた。

「私たち選手一同は、今日この日を迎えることへの感謝の気持ちを胸に、今このグラウンドに立っています」。めちゃめちゃ緊張した、というが、声をしっかり出し、ゆっくり自信をもって話そうと心がけたという。

「最後まで諦めず、正々堂々と全力でプレーすることを誓います」。すがすがしい誓いの言葉が球場の空に響いた。目指すはもちろん甲子園だ。開会式後の取材に「本当に全員が覚悟を決めてやってきた。信じてやるだけです」と、表情を引き締めた。

             ◇

開幕戦の始球式を務めたのは、鳥取西の自転車競技選手、大谷奈々さん(3年)。くしくも母校の試合のマウンドに上がった。大きくふりかぶって投じたボールは本塁付近でワンバウンド。「思うようにできなかった。50点です」と悔しそうだった。

自転車は「人間では出せないスピードが出せて楽しい」。インターハイでの優勝を目指す。

📝菰野に中日・平田良介コーチの長男・琉輝也が「7番」でベンチ入り 出場機会なしも戸田監督「使いたかったんですが…」…三重大会
https://news.yahoo.co.jp/articles/bf64a825fbeee9000fd1d8ddcca31dcb95af415b

◆第108回全国高校野球三重大会▽1回戦 菰野5―4木本・紀南・熊野青藍(12日・ドリームオーシャンスタジアム)

春夏4度、甲子園出場している菰野が初戦を突破した。スタメン野手9人中7人が下級生。「1番・二塁」の藤川桔平、「9番・三塁」の霜村征雅と1年生も2人、スタメンに名を連ねた。

戸田直光監督(63)は「藤川は入ったときから使っている。もう一人、平田を使いたかったんですが…」と背番号7の平田琉輝也(1年)の存在を明かした。中日・平田良介1軍外野守備走塁コーチの長男で、指揮官は「肩の後ろが痛いというので…」とこの日の欠場理由を明かした。

1年生で一桁番号を与えた琉輝也について戸田監督は「まだまだです。体も細いけれど将来性もある。肩もあるし。(次の試合まで)1週間あるので様子をみます」と次戦での起用を示唆した。

👣元ABCアナ監督、涙のラストメッセージ「3カ月でもお前たちが可愛いのよ」宝塚西が初戦敗退
https://news.yahoo.co.jp/articles/c9914e2481e9d6315838fbf7221ebff2e0250059

◇第108回全国高校野球選手権兵庫大会2回戦 宝塚西1―5宝塚(2026年7月12日 ベイコム野球場)

高校野球の兵庫大会は12日に2回戦が行われ、宝塚西は宝塚に1―5で敗れて初戦突破を逃した。

初回2死二塁で4番で主将の兵頭篤哉(3年)が左越え適時二塁打を放ち、先制に成功。これが唯一の得点に終わり逆転負けを喫した。

清水次郎監督は元朝日放送アナウンサー。夏の甲子園大会の実況などを担当していた中、16年に同社を退社して高校教員に転身した。そして西宮甲山(兵庫)で監督を務めたのち、今年4月から同校に赴任。監督としての夏初勝利が懸かった一戦だった。同監督は試合後に悔し涙を流しながら、選手たちに感謝を伝えた。

「不思議なもので(赴任してから)3カ月ぐらいの付き合いだけど、お前たちがかわいいのよ。だから勝たせてあげたかった…。お前たちみたいに楽しく野球をする高校生を初めて見た。こんな思いをしたくなかったな…。俺の教え子だから。かっこいい男になってほしい。ありがとう。

1、2年生もまだ俺のことが分かっていないかもしれないけれど、俺はかわいいのよ。4点差だったけど、ほんの少しの差だったと思う。この差を埋められるように頑張ろう」

📣緊急事態! 2日目の順延となった南北海道大会函館会場は13日に異例の4試合実施へ 球場は照明設備なし
https://news.yahoo.co.jp/articles/2346228b3955a9e6fd6d97760bc14aaf83b6978c

第108回全国高校野球選手権南北海道大会の函館会場で12日に実施予定だった4回戦2試合は、雨天順延となった。10日に続いて同会場では今大会2度目の順延となり、13日に4回戦4試合を行うことが決まった。14日に準々決勝2試合を実施する予定。

午前8時から倶知安―駒大苫小牧、同10時半から知内―小樽双葉、午後1時から北海道大谷室蘭―東海大札幌、同3時半から北海―函館大有斗を開催予定。函館の日の入り時刻は午後7時10分ごろだが、テーオーオーシャンスタジアム函館は照明設備がなく、第1~3試合が長引けば、第4試合の開催に影響が出る可能性もありそうだ。

📝「勝とうと思うと、大事なものが見えなくなる」北陽野球部の礎を築いた名将・松岡英孝が最後まで貫いた教育者としての哲学
https://news.yahoo.co.jp/articles/7f6c678c7ed0f20b1012be07de7627a879a2da60

学校の創立は1925年。大阪市東淀川区に北陽商業学校として開校し、翌26年に野球部が誕生した。今年、創部100年を迎える。北陽野球部が大阪屈指の強豪として歩み始めるのは、1960年に22歳で赴任した松岡英孝の登場からである。当時の北陽には実質的な野球専門の指導者はおらず、野球部を強くしたいという学校の思いから、新卒の松岡が社会科教諭として着任すると同時に監督へ就任。以来約30年間チームを率い、北陽野球の礎を築いた。

【部員数が200人を超えた時期も】

今年3月、野球部恒例の高知遠征の際、88歳の松岡が現役選手たちを前に熱弁を振るった。

「いいか、体を沈ませろ。沈ませて、沈ませて、足の指もしっかり使って......」

体の使い方から心構えまで、野球の原理原則や基礎基本を説いた講義は、じつに1時間半に及んだ。その時の様子を、現監督の辻本忠は目を細めながら振り返る。

「高知は松岡先生の故郷で、今も住んでおられるので、遠征のたびにご連絡させていただいているんですが、今回は先生のほうから初めて『ちょっと生徒たちに話をしてもいいか』と言ってくださったんです。何よりうれしかったのは、『選手たちの目が生きてる。こっちを見る目が違う。これは楽しみや』と言っていただけたことです」

松岡は城東高校(現・高知高)で甲子園出場を経験し、近畿大を経て1960年に社会科教諭として北陽に赴任。同時に野球部の監督に就任した。モットーは「闘志と忍耐無き者は去れ」。一方で、「来る者は拒まず」の姿勢で広く門戸を開いた。寮は持たず、近隣中学校出身の通学生を中心に多くの部員が集まり、部員数が200人を超える年も珍しくなかったという。

甲子園には1966年夏に初出場。大阪大会準々決勝で当時絶大な強さを誇っていた浪商(現・大体大浪商)を延長再試合で破った一戦は、今も語り継がれている。辻本が言う。

「この試合の話は、先輩方からもよく聞かせていただきました。延長18回、9対9で引き分け再試合。炎天下で5時間27分に及ぶ激闘のあと、選手たちはみんなふらふらだったそうです。それで部長先生が急きょ、球場近くのクーラーが利いた宿を手配し、全員で泊まって翌日に備えたと。ところが、その翌日も延長戦になり、最後は11回に勝ち越して3対2で勝利。その大きな壁を乗り越え、準決勝で大鉄(現・阪南大高)、決勝では江夏豊さんのいた大阪学院を破って勝ち上がってきた桜塚を倒して、初めての甲子園出場を果たしたと」

のちにプロでも長く活躍する長崎慶一が1年生でレギュラーをつかみ、甲子園初勝利も挙げた。2度目の甲子園となった1970年の選抜では決勝まで勝ち進む。アイドル的人気を誇った島本講平擁する箕島(和歌山)に延長12回の末、4対5でサヨナラ負けを喫したものの、準優勝という快挙を成し遂げた。

【負けても絵になる北陽野球】

北陽の14度の甲子園を振り返ると、記憶に残る敗戦が多い。81年夏の名古屋電気(現・愛工大名電)戦では、2年生左腕・高木宣宏(元広島ほか)が工藤公康(元西武ほか)と投げ合いながら、最後はサヨナラ本塁打に泣いた。さらに松岡にとって最後の甲子園となった1990年の選抜準決勝・新田(愛媛)戦でも、エース寺前正雄(元近鉄ほか)が17三振を奪う力投を見せたが、延長17回にまたしてもサヨナラ本塁打で力尽きた。ちなみに、この選抜は初戦の帝京(東京)から、玉野光南(岡山)、三重といずれも4対3で勝利、最後は新田に3対4で敗れたが、スコアからも松岡が築いた"北陽野球"の真髄が伝わってくる。その松岡のもとで7年間コーチを務めた前監督の新納弘治は言う。

「大阪の強豪といえば打力のイメージですが、北陽は違いました。ランナーを背負っても粘り、攻撃でも粘って、最後は1点差で勝つか負けるか。中学時代のスターが集まるチームではありません。ふつうの選手を3年間で育てて、最後の夏にそういう試合ができるところまで仕上げる。それが北陽の野球です」

その土台にあったのは、技術より人間教育だった。松岡は帽子のかぶり方、爪や髪の手入れ、歯磨きまで細かく指導し、「服装の乱れは心の乱れ。教室の乱れは学力の低下。グラウンドの乱れは技術の低下」が口癖だった。

「松岡先生は野球人という前に教育者でした」と新納は振り返る。

ただ、ひとたびグラウンドに立てば、鬼と化した。新納が入部した年も、新入生だけで150人。岡田彰布の4学年下にあたる新納は、大阪市港区の自宅から約1時間かけて通学していたが、その道のりはいつも憂鬱だったという。1年時は下級生ならではの厳しさに耐え、そこを乗り越えれば今度は熾烈なメンバー争いが待つ。ようやく試合に出られるようになると、責任が重くのしかかる。息つく暇などなかった。

「とにかく毎日が必死でした。野球以外のことを考えた記憶がないですね。朝になると『最後までやり抜けるんかな......』と弱気になる自分もいて、その気持ちと戦いながら家を出る。そんな毎日でした」

【厳しい練習を乗り越え生まれる和】

その後、近畿大在学中の2年時、「一緒にやろうか」と松岡に声をかけられ、母校で指導者の道を歩み始めた。「人生を賭けての決断でした」と振り返る。約7年間コーチを務めたのち、1990年8月、29歳で松岡のあとを託された。監督を引き継ぐ際、松岡から繰り返し言われた言葉が今も胸に残る。

「『焦るなよ。焦ると事故(不祥事やアクシデント)を起こすから』と、よく言われました。また、『ひとりの生徒には親がいて、おじいちゃん、おばあちゃんもいる。子どもひとりの命を預かるということが、どれだけ大変なことかわかって指導しなさい』とも。『勝とう、勝とうと思うと、大事なものが見えなくなる。だから落ち着いて、一人ひとりの選手をしっかり見てやれ』と、繰り返し言っていただきました」

新納が監督に就任した90年代、大阪勢は全国で次々と結果を残し始める。1990年春の選抜で近大附が優勝すると、1991年には大阪桐蔭が春夏連続で甲子園に出場し、夏は初出場で全国制覇。また1993年春には上宮が日本一を達成した。そんななか、北陽も1994年に春夏連続甲子園出場を果たす。エースで3番を務めたのは、のちにオリックスへドラフト1位で入団する嘉㔟敏弘(元オリックスほか)。4番には現・北陽監督の辻本忠が座った。辻本の家は北陽の近くにあり、子どもの頃から身近な存在だった。

「オヤジとグラウンドに練習を見に行ったり、自然と憧れを持って見るようになっていましたね。小学生の頃、寺前さんに握手してもらったこともありました」

この時期でも、新入生だけで80人ほどいた。1年生の練習場所は、ライト後方にある新幹線高架下のスペース。そこで腹筋、背筋、ダッシュをひたすら繰り返すのが日課だった。授業のない日は、朝9時から夜9時まで練習が続いた。

「1年生は練習が始まる2時間前にはグラウンドに出て整備をして、先輩のスパイクやグラブも磨く。あとは『あれせえ、これせえ』と言われないように、グラウンドの隅で目立たないようにしていましたね。『ああ、雨、降らんかなあ......』って、いつも空ばかり見ていました(笑)」

そう語る辻本の思い出といえば、やはり3年時に春夏連続出場を果たした甲子園だ。とくに夏は、初戦の富山商戦でライトを守る辻本がダイビングキャッチにレーザービームと攻守で存在感を発揮し、勝利に大きく貢献。

「3年間で唯一、新納監督に褒めてもらったのが、あの試合でした」

つづく市川(山梨)戦は、ダメ押しの3ランを含む5打点の活躍。しかし3回戦で仙台育英(宮城)に敗れ、夏は終わった。それでも3点ビハインドの9回表に同点に追いつく執念を見せた。辻本が振り返る。

「入学した頃の嘉㔟は『俺が甲子園に連れていったるわ』みたいな雰囲気を出していて、僕らも『おまえなんかに頼らんでも行けるわ』って返していたんです。でも、毎日あの厳しい練習を一緒に乗り越えるうちにチームの雰囲気もよくなって、3年になった頃にはめちゃくちゃ仲良くなっていました。だからあの夏も『まだまだ負けられへん。まだ一緒にやるで!』と、みんな同じ気持ちだったと思います」

同点に追いついたのも束の間、最後は北陽らしく "サヨナラ負け"で甲子園を去った。
2026/07/12(日) 21時14分16秒 No.2534 編集 削除