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📝令和8年度 春季近畿地区高校野球大会 大阪府予選組み合わせ
http://www.ohbl.sakura.ne.jp/2-taikaikankei/kumiawase/26_01haru/26_haru_yagura_ippan.pdf

🔥”名物”高校野球部監督が今年も卒業生にはなむけの似顔絵プレゼント 思いを込めた四字熟語添え…
https://news.yahoo.co.jp/articles/ede816908a5ed2e8a0ec6f448159a2dc39738b5f

松江市の開星高校、2月28日、卒業式が行われました。去年、夏の甲子園出場を果たした野球部の3年生は、卒業証書とともに特別なプレゼントを手に学び舎を後にしました。
2月28日行われた松江市・開星高校の卒業式。在校生や保護者が見守るなか、156人の卒業生一人ひとりに小山内校長から卒業証書が手渡されました。

卒業生代表・高橋壮太さん:「何気ない日常の中で交わした言葉や笑顔が私たちを支えてくれました。この3年間は知識だけではなく人として土台を築いた時間だったと感じています」

卒業生の中には去年夏、8年ぶり11回目の甲子園出場を果たした野球部のメンバーも。卒業式の後、野球部恒例の卒業セレモニーが開かれました。

開星高校野球部・野々村監督:「素晴らしい開星の3年間を送ったので、それを誇りにして自信にして、ただ、力で相手を威圧しない、逆に力のない人を助けてあげる、それが本当の勇気だ。そういう男になってください」

卒業する部員にはなむけの言葉を贈ったのは野々村直通監督。ユニフォーム姿もさることながら、グラウンド外でも着流し姿など個性的なファッションでおなじみの名物監督です。そんな現在74歳のベテラン監督が続けてきた卒業祝いのセレモニーが…。

開星高校野球部・野々村監督:「この写真を見て書きました。そのまま書いてますから普通の人にはできませんので、おめでとうございます、頑張って」

監督自身が描いた似顔絵のプレゼント。教員時代の担当科目は美術。「山陰のピカソ」とも呼ばれた野々村監督が30年ほど前に始めた恒例のお祝いです。色鉛筆を使い、卒業生23人分を1カ月半ほどかけて描き上げました。似顔絵には部員1人ひとりへの思いを込めた四字熟語が添えられています。

開星高校野球部・藤江来斗元キャプテン:「この似顔絵もらうために3年間頑張りました。(これから)消防士になるが消防士もチームで動くので僕が先頭に立っていけるように技術などを身に着けていきたい」

開星高校野球部・松浦愛珠さん:「怒られても耐えれる気持ちを磨かしてもらったので、そのおかげで野球も精神力も強まって甲子園行けたと思うので監督のおかげです。(特に似てるのは)目じゃないですか。薄目というか、似てるかなと思います」

教えてもらったのは野球だけじゃない。監督から託された宝物を胸に卒業生たちは、それぞれの道で新たな一歩を踏み出します。

📝持丸修一 77歳名将の高校野球論
“最初の3カ月”が第一関門 「投手として育てるべき選手」の見極め方を明かします
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/382984

いやぁ、参りました。先日、野手に対して捕球時のグラブの出し方を少しだけ教えたのですが、それをグラウンドに取材に来ていたメディアの方から「77歳の持丸監督が守備を披露」なんて書かれてしまいまして、気恥ずかしいやら何やらで(苦笑)。もうプレーなどできません、腰をやってしまいます。

さて、昨年末のコラムで、投手の指導法について「提案とアドバイスがメイン」と書きました。では、どのようにして「投手として育てるべき選手」を選んでいるのか。たびたび尋ねられるこの質問にお答えします。

投手志望の新入部員については、最初の3カ月間は「見るだけ」を基本方針に定めています。本人のポテンシャルや個性を十分に把握しないままアドバイスをしてしまえば、かえって才能を潰してしまう危険性がある。これだけは避けたい。最初は余計なことを言わず、練習試合でも自由に投げさせながら、じっくりと観察するのです。この期間にもっとも注視しているのは、球質やフィジカルではありません。ずばり言えば、「ある程度の制球力」です。コントロールの悪い投手は、負けたら終わりのトーナメントでは怖くて使えない。もちろん、それも大きな理由の一つですが、それだけではありません。

どのように投げれば狙ったところにボールが行くのか。リリースポイントが少しずれただけで、あるいは力の入れ具合が数コンマ遅れただけでボールはあらぬ方向へ行ってしまいます。そのズレを修正する際に必要なのが、結果と自分の感覚・感性を擦り合わせる作業です。ここで投手としてのセンスが求められる。しかも、このセンスは後に変化球を習得したり、球速や球のキレを磨いたりする過程でも絶対的に欠かせない要素です。

つまり、制球力は投手の能力を測る上で大きな指標になるのです。 当落線上にいる投手については、センスを秘めているけど現時点でイマイチなのか、それともセンス自体が不足しているのか。この判断にやはり3カ月程度は時間を確保しなければいけない、というのが私の出した結論です。

その頃になると、夏の千葉県大会の幕が開ける。よほど見込みのある投手は起用しますが、それはあくまで例外です。制球力という第一関門を突破した1年生は、さらに半年~1年の間、フィジカルや伸びしろといった観点からより慎重にふるいにかけていきます。ちょうど今の時期がその最中です。その話はまた別の機会にお話ししましょう。

🎤【馬淵史郎 我が道2】エースの故障なければ勝負した 初めから全打席敬遠と決めたわけじゃない
https://news.yahoo.co.jp/articles/deedb808ba2dfb2b6194167f3b20c1d5a9eb08b4

1992年(平4)の夏の大会。抽選会は8月8日に行われた。明徳義塾が引き当てたのは第7日第3試合。相手は空白。しんがりの49番目。相手が未定のまま開会式を迎えるということになり、何か気持ちに引っかかるものがあった。

決まったのは星稜と長岡向陵の勝者と戦うということだけ。「最悪のクジやな」と思ったね。こっちは初戦、相手は2試合目。どう考えても、試合を経験してきている方が有利。しかも星稜は松井秀喜が4番を打つ優勝候補。対戦が決まってもないのに「初戦から星稜ですね」などと取材をされた。とにかく時間はある。ええように考えて、試合に向けて準備するしかないと考えていた。

松井はこの年の春の選抜でもずばぬけた存在になっていた。ラッキーゾーンが撤去されたばかりの甲子園で3試合3本塁打。夏もNo・1のスラッガーだ。長岡向陵戦も甲子園で視察した。星稜は11―0で完勝。松井も5回に右中間へ2点三塁打を打った。打球の速さが全く違っていた。インパクトがあった。

試合翌日も星稜の状態を見極めるために、神戸製鋼のグラウンドで行われた練習をチェックした。ここは社会人の阿部企業時代によく使っていた場所だったから、打球を見たら、甲子園のどのあたりに飛んでいくかは想像がついた。星稜の中でも松井だけが違って見えた。当時は1メートル85、85キロだが、サイズ以上の威圧感があって、オーラがあった。加えて星稜で目を引いたのは投手の山口哲治くんの投球だった。エース左腕も簡単に打ち崩すことはできない。競り合いしか勝ち目はない。どうすれば、こちらの流れになるか。対戦まで、そのことをずっと考えていた。

そして明徳義塾には互角に勝負できる投手はいなかった。背番号1の岡村憲二は大会前に肘を痛めて、登板は無理だった。甲子園のベンチには投手を5人も入れた。背番号8の河野和洋のコントロールで何とか打ち取るしかない状況だった。松井と勝負するにはインコースを攻めるしかないが、MAX130キロの河野ではタイミングを外しても、スタンドに運ばれる。だって、高校を出て、すぐに巨人のクリーンアップを打つことになる選手だ。そんな高校生10年に一人もおらん。勝負に「たら」「れば」はないが、岡村の故障がなかったら勝負はしていたと思う。

ビデオを何度も何度も見た。松井以降の打者となら河野も勝負はできる。そこで勝機をつかむしかないと腹を決めた。接戦になったらヒットを打たれたと思って歩かせ、後続を打ち取るしかない。対戦前日の取材では「勝負となったら松井くんを敬遠するかもしれない」と作戦を明かしていた。点差が開く展開になっていたら、もちろん勝負していた。初めから全打席敬遠と決めたわけじゃなかった。

☝<春風に乗って>’26センバツ 三重 元応援部、甲子園で劇的勝利に感動 追っかけ歴38年のOB「優勝を見てみたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/652c09db76ed670bc11f8254fc5e0b0f6db626fc8年ぶり14回目のセンバツ出場を果たした三重には熱狂的なファンがいる。三重高校応援部OBの津市職員、芝山弘行さん(53)だ。その原点は何か。そして何を目指しているのか。

「このバッグは15万円かけて自作したもの。応援グッズの製作や差し入れで数百万円は使ってるんじゃないかな」。三重高関連のグッズで埋め尽くされた部屋で芝山さんはこう切り出した。

名場面の写真や記念誌のほか、野球部のユニホームのロゴと同じ「MIEKO」と書かれたマスクや携帯ケースも。応援部にオリジナルTシャツやロゴ入りタオルを寄贈するようになって10年以上たつ。

芝山さんが入学したのは1988年。小学生の頃から甲子園に憧れてはいたが、プレーヤーとしては狭き門だ。だから応援部を選んだ。2年だった90年春、野球部はセンバツに出場。芝山さんはそこで忘れられない試合に出合った。
1回戦の神戸弘陵(兵庫)戦、0―3とリードされて迎えた九回、三重は3点本塁打で同点に追いつき、延長十一回に勝ち越して逆転勝ちしたのだ。芝山さんは「夢みたいだった。鳥肌が立った。こんなことがあるんやと感じた」と振り返る。以来、野球部の応援にどっぷりハマり、卒業後も足しげく試合に通った。知らない人と肩を組んで校歌を歌うのが楽しくて、ますます「趣味」が高じた。

こんな生活を続ける理由は何か。それは「頂点を自分の目で見ることができていないから」だという。だが、今春こそチャンス。昨夏の三重大会で初戦敗退した時には仕事が手につかないほど落ち込んだが、新チームを見て「投手がそろっているし、打撃はものすごく打つ」と期待に胸が高鳴ったそうだ。この戦力に加え、尊敬する沖田展男監督の手堅い采配で全員野球をすれば全国制覇はグッと近づくに違いない――。芝山さんはそう信じつつ「選手たちが楽しんでくれたらそれでいい。でも、優勝を見てみたいですね」と声を弾ませた。

📝OP戦絶好調で「いつ声がかかるのか」 開幕投手はお預け…自己最高も忘れぬ初登板の“洗礼”
https://news.yahoo.co.jp/articles/df188fb594742b9fd8bee09d9844f4e98805a48c?page=1

OP戦は無失点投球→初登板で6失点「ちょっと点を取られておけば」

元近鉄右腕の太田幸司氏(野球評論家)がキャリアハイの12勝をマークしたのはプロ6年目の1975年だ。この年はオープン戦で絶好調だったが、4月は1勝3敗。それを5月に5勝0敗1セーブで盛り返した。その裏にはもはやおなじみの昭和ならではの“登板過多”も……。「5月頃には15勝は絶対行けると思っていたんだけどねぇ……」。球宴では「赤ヘルブームの火付け人となった」と言い、近鉄の後期優勝でビールかけも初体験。いろいろあったシーズンだった。

プロ6年目の太田氏は波に乗っていた。前年(1974年)に初の2桁10勝を挙げたことで自信も増したのだろう。「確かオープン戦は19イニング無失点だったと思いますよ。周りは“太田幸司、初の開幕投手かぁ”って……。僕も、いつ声がかかるのかと待っていたんですけどね」と笑いながら振り返った。大エースの鈴木啓示投手が故障などもあって出遅れており、太田氏の開幕投手が噂されたわけだが、実際に指名されたのは左腕・神部年男投手だった。

太田氏のシーズン初登板は開幕3戦目、4月6日にダブルヘッダーで行われた阪急戦第2試合(西宮)の先発だった。「やられたんですよね」。加藤秀司内野手、大橋穣内野手、B・ウイリアムス外野手に一発を浴びるなど、2回6失点でKOされた。敗戦投手となり「オープン戦でちょっと点を取られておけばよかったわって言ってねぇ」と苦笑しきりだ。

そこから中1日の開幕4戦目、4月8日の太平洋戦(平和台)には2回途中から2番手で7回2/3、3失点のロングリリーフでシーズン1勝目を挙げ「そりゃあ、そうなりますよ。(4月6日に2回6失点と)そんなに早くやられたら、リリーフで行けと言われますからね」とあっさり。さらに中3日で4月12日のロッテ戦ダブルヘッダー第2試合(日生)に先発して5回0/3、3失点で2敗目を喫したが「すごい時代だけど、僕らより、もっと前の大先輩たちはもっともっとハードなことをやっていたからね」と“普通”を強調した。

そんな4月は1勝3敗。まさにオープン戦絶好調の反動のように苦しんだが、5月は5勝0敗1セーブと巻き返した。それもまた超ハード日程を投げ抜いての結果だった。5月5日の日本ハム戦(藤井寺)で1失点完投の2勝目を挙げると、中2日の5月8日の南海戦(大阪)では7回から2番手で投げて3回無失点でセーブをマークと、完投勝利したのもお構いなし。しかも、それだけでも終わらない。

中1日で5月10日の太平洋戦(平和台)に2番手で2回1失点。さらに中2日で5月13日の日本ハム戦(日生)では2番手で4回1失点を投げた。すると、その翌日の5月14日の同カードには連投で先発して7回4失点で3勝目を挙げ、そこから中2日で5月17日のロッテ戦ダブルヘッダー第2試合に先発して1失点完投で4勝目だ。三沢高時代に夏の甲子園で4連投したことを考えれば、何てことはないのかもしれないが、それにしてもすさまじい投げっぷりとしか言いようがない。

「(当時23歳の)まだまだ若い頃だからね。そりゃあ、ずっとローテーションのベテランの投手には、そんなことはさせないですよ。まぁチームの投手台所事情もしんどかった時期だったしね」。5月に5勝を挙げたのも、そんな登板間隔もあってのことだが、太田氏も首脳陣の期待に応えて、5月を無敗で乗り切ったのだから、もはや甲子園のアイドル右腕ではない。人気と実力を兼ね備えた近鉄右腕としての力投だった。

15勝確信も12勝“止まり”…9月に3試合連続完投で後期優勝に貢献
 
前半に7勝を挙げて、オールスターゲームにもプロ6年目で5度目のファン投票選出。7月19日の第1戦(甲子園)に先発したが、1回4失点で敗戦投手になった。広島の山本浩二外野手と衣笠祥雄内野手にそれぞれ被弾した。「ものの見事に打たれましたよ。こっちも自信を持って投げたんですけどパカーン、パカーンってね。でも僕の後に投げた(阪急投手の)山田(久志)さんも、その2人にホームラン。山田さんも打たれるんだったら、しゃあないか、とか言ってねぇ」。

太田氏は笑いながら「あれはね、僕と山田さんの“勲章”ですよ」とも言う。この年に広島が赤ヘルブームを巻き起こし、球団初のセ・リーグ優勝を成し遂げたからで「“オールスターで僕と山田さんが赤ヘルに火をつけたので優勝したんだ”ってね。今でも山田さんとは顔を合わせれば、そんな話をしますよ。まぁ、でもホントに赤ヘルの勢いを感じたオールスターでしたね。あれは……」とうなずいた。

シーズンについては「5月の頃は“15勝は絶対行ける”と思ってやったんだけど、後半は何か尻すぼみで、12勝で止まってしまったんですけどね」と悔しそうにも話したが、8月19日の南海戦(大阪)では2安打完封で10勝目を挙げ、9月には3試合連続完投もあり、近鉄球団初の後期優勝に貢献した。ビールかけも初めて体験し「ビールって浴びるだけで酔うんだなって思いましたよ」。最終成績は12勝12敗1セーブ、防御率3.71だった。

1勝3敗で敗れた前期優勝の阪急とのプレーオフには登板なし。「故障とかは別にしていなかったんですけどね」。ちょうど調子を落としていた時期だったようで、これに関しては無念の思いだったが、いろいろあったキャリアハイの12勝を挙げたプロ6年目は、太田氏にとって忘れられないシーズン。1軍に完全定着以降、毎年のように続いた過酷日程も乗り切った上で、近鉄投手陣のなかでの存在感も増していった。

太田氏は笑いながら「あれはね、僕と山田さんの“勲章”ですよ」とも言う。この年に広島が赤ヘルブームを巻き起こし、球団初のセ・リーグ優勝を成し遂げたからで「“オールスターで僕と山田さんが赤ヘルに火をつけたので優勝したんだ”ってね。今でも山田さんとは顔を合わせれば、そんな話をしますよ。まぁ、でもホントに赤ヘルの勢いを感じたオールスターでしたね。あれは……」とうなずいた。

シーズンについては「5月の頃は“15勝は絶対行ける”と思ってやったんだけど、後半は何か尻すぼみで、12勝で止まってしまったんですけどね」と悔しそうにも話したが、8月19日の南海戦(大阪)では2安打完封で10勝目を挙げ、9月には3試合連続完投もあり、近鉄球団初の後期優勝に貢献した。ビールかけも初めて体験し「ビールって浴びるだけで酔うんだなって思いましたよ」。最終成績は12勝12敗1セーブ、防御率3.71だった。

1勝3敗で敗れた前期優勝の阪急とのプレーオフには登板なし。「故障とかは別にしていなかったんですけどね」。ちょうど調子を落としていた時期だったようで、これに関しては無念の思いだったが、いろいろあったキャリアハイの12勝を挙げたプロ6年目は、太田氏にとって忘れられないシーズン。1軍に完全定着以降、毎年のように続いた過酷日程も乗り切った上で、近鉄投手陣のなかでの存在感も増していった。

📝原因不明のスランプで泥沼「何がどうなったのか」 完封後に8連敗…ドラ1が手放した“居場所”
https://news.yahoo.co.jp/articles/9ded45fcea90a54a5f75f5906969ee258e3ad83b

3安打完封で復調確信も…太田氏が陥った“悪夢”「だんだん焦り出した」

突然、勝てなくなった。“元祖甲子園のアイドル”で元近鉄投手の太田幸司氏(野球評論家)は、プロ5年目(1974年)から8年目(1977年)の4シーズンで3度、2桁勝利をマークするなどバファローズの主力投手として実績を重ねていった。しかし9年目(1978年)は一転してわずか1勝に終わった。原因不明の不調だったという。「何か、よくわからない年だったんですよねぇ」と苦笑しながら話した。

1969年夏の甲子園、決勝の松山商戦での延長18回“0-0引き分け”再試合の熱投などで、女性ファンの人気を集め「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした。一躍“国民的スター”となった太田氏は、同年のドラフト1位で近鉄に入団。1年目の1970年から1軍でプレーした。いきなりCM撮影の仕事が入るなど、その人気はすさまじく、オールスターゲームには1年目から6年連続で出場し、そのうち5回がファン投票で選出された。

人気先行と言われながら、シュート、スライダーをマスターするなどして実力の方も年々アップ。5年目の1974年には初の2桁10勝を挙げ、6年目の1975年にはキャリアハイの12勝を記録して近鉄主力投手の座も確立させた。球宴連続出場がストップした7年目の1976年も9勝。8年目の1977年は前半に7勝を挙げて球宴に監督推薦で“復帰”して、最終的には再び2桁勝利到達の10勝14敗1セーブ。防御率はパ・リーグ10位の3.21だった。

「まぁまぁ、その辺の4年間くらいはコンスタントに、って感じだったんですけどね」。その“いい流れ”が急に変わったのが9年目の1978年だ。開幕2戦目の4月2日のクラウン戦(平和台)に先発して、5回2失点で敗戦投手。4月9日のロッテ戦(先発)は4失点完投負けで2敗目を喫した。連敗スタートも3登板目の4月14日の日本ハム戦(日生)では3安打完封で1勝目を挙げ、調子のリズムを取り戻したはずだったが、そこから逆におかしくなった。

「完封して“よっしゃ、いいよ”と思ったらね……。何がどうなったのかっていうのが分からないようなシーズンだったんですよね」。4登板目の4月20日の阪急戦で2回1/3、4失点でKOされて3敗目。そのまま泥沼の黒星地獄にハマり込んだ。先発しても早い回で打ち込まれるケースが目立ち、4月は1勝4敗、5月は0勝3敗。6月8日の日本ハム戦(後楽園)のリリーフ登板で黒星がつき、1勝8敗となったところで、2軍再調整となった。

肩、肘などに問題を抱えていたわけではない。「体調も悪くなかったし、今、振り返っても何だったのかって思いますよ」と不調原因も不明だった。「なんかそういう流れの年だったのか。まぁ、最初はそうでもなかったんだけど、あれだけ負けたら、そりゃあ、だんだん焦り出しましたもんね、ああ、勝たなきゃ、って。それまでずっと割と勝ってきていたから、余計にね。勝てるようになってからの大スランプだったんですよねぇ」。

10勝→1勝→7勝と復活も…“伝説”の日本シリーズは登板すらできず
 
その後、1、2軍を何度か往復したが、結局、白星を手に入れることができなかった。8月27日の南海戦(西京極)に先発して2回2/3、2失点で降板し、2軍落ちとなって、そのままシーズンを終えた。21登板(15先発)、1勝9敗、防御率5.40。前年(1977年)10勝からの急降下だった。安定感ある投球で首脳陣からもある程度の勝ち星を計算されていたなかでの絶不調だった。太田氏は首を傾げながら、こう話した。「あれは何か怪我の予兆だったんですかねぇ……」。

翌1979年、プロ10年目の太田氏は、そんな大スランプから脱出して7勝をマークする。「まぁ、あの年はローテーションの矢面に立って、バンバン投げていたわけではなくて、割とポツポツという感じかな」と言うが、終盤になって、完投、完封など調子を上げた。7勝のうち4勝は9月以降に挙げたものだ。「ちょっと帳尻を合わせるようにね(笑)。でも、“よっしゃ、これで行ける”というような雰囲気にはなったんですけどね……」。

当時のパ・リーグは前期、後期の2シーズン制で、1979年の近鉄は前期に優勝し、後期優勝の阪急とのプレーオフも3勝0敗で制して、球団創設以来、初のリーグ優勝を成し遂げた。日本シリーズは3勝4敗で広島に敗退。3勝3敗で迎えた第7戦(11月4日、大阪)で3-4の9回裏無死満塁の大チャンスを広島守護神・江夏豊投手に封じられて涙をのんだ。そのシーンは“江夏の21球”として語り継がれている。

だが、そんな広島との日本シリーズも、その前の阪急とのプレーオフにも太田氏は登板していない。「急に肩が……」。右肩痛発症の悪夢に襲われていたからだ。「あれが苦悩の始まりでしたね」。1978年の“謎の1勝シーズン”も、1979年プレーオフ前の“そこ”につながっていたのかと思えてくるほど、ここから厳しい戦いが待っていた。
2026/03/02(月) 22時26分23秒 No.2318 編集 削除